Page 1541 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼message1. AUDREY COHEN 04/10/3(日) 14:34 ┗真実の木と民主主義 ウミサチヒコ 04/10/3(日) 15:23 ┣Re(1):真実の木と民主主義 J.J.Mack 04/10/3(日) 15:56 ┃ ┗Re(2):真実の木と民主主義 ウミサチヒコ 04/10/3(日) 16:10 ┣Re(1):真実の木と民主主義 ウミサチヒコ 04/10/3(日) 20:57 ┗Re(1):真実の木と民主主義 ぎみゆら 04/10/5(火) 12:29 ┗Re(2):真実の木と民主主義 ウミサチヒコ 04/10/5(火) 14:34 ─────────────────────────────────────── ■題名 : message1. ■名前 : AUDREY COHEN ■日付 : 04/10/3(日) 14:34 -------------------------------------------------------------------------
21世紀。この新しいミレニアムに、私たち人類は今、全地球規模で”庶民の時代”すでに突入しはじめています。この歴史的潮流は、もはや誰にも止められないでしょう。世界中の人々は皆、人種を問わず、国籍を問わず、文化圏を問わず、誰もが「人間」であることにおいては等しいと、全人類の過半数がすでに気付き、あるいは今しも気付きはじめています。いずれ今世紀中には地球上に只の一人も、このことを知らない人、理解していない人などいなくなるのは、もはや時間の問題でしょう。それなのに、それでもなお”殺人の歴史”、”殺し合いの歴史”のみが、わたしたち人類がこれからも、未来に積み重ねて行くべきことですか?本当にそうでしょうか? 以前、「女性は皆、愛し、愛されるために生まれてきたのだ」と、教えてくれた人がいました。名前は覚えていません。その人に直接出会ったのではなく、書籍を通して私はその言葉に出会いました。その言葉を、すぐには信じませんでした。当時の私は誰も信じていなかったし、実際、あの状況では、誰も信じるべきではなかったから。悪意の人ではなくとも、残念ながら常に正しいとは限らないのが、人間の悲しさです。 でも今は、私はイエス・キリストを信じ、全宇宙の創り主である主なる神と聖霊を信じ、感謝とともに、私の最愛の人を信じています。(そうよ、私の唯一のマスター・キイさん、貴男のことよ、kiss,kiss,kiss!!! 一生...いいえ、神がお許しくださる限り永遠から永遠まで、私は全身全霊で貴男を愛し続けるわ。いつだって...。)だから、この言葉を当時、私にあたえてくれた名も知らぬ人にも改めて感謝し、そして世界中のすべての男性たちに、謹んで次の言葉を贈ります。 男性も皆、愛し、愛されるために生まれて来たのです。決して、他の男性たちと敵対し、たがいの生存を否定し合い、殺し合いをするために生まれて来たのではありません。男の身体や心が、女よりも戦闘に適しているのは、女子供が無力で無防備な時(どんな時に無力で無防備ナノカ、よく考えてみてください。)に、他の捕食獣に喰われてしまわないように、男たちが猛獣と闘い、又、雨や風、その他自然の脅威とも戦い、時にはその身を盾にして、女子供を守ってきたからです。 又、天地自然の豊かな恵みー木の芽、草の芽、木の葉、草の葉、木の実、草の実、木の根、草の根、...etc. 小鳥の巣からは卵、数多くの虫たちの中から食用に適するものを識り(人類の祖先は「食虫目」だそうです。)、乃至小川や海辺では、貝やカニ、エビ、小魚、等を採りーそんな時期には、男たちも女子供とともにそれ等をあつめ、神に感謝しながら平和に、穏やかに暮らしたのです。 無論、男だから若いころには、たまに殴り合いや、取っ組み合いとかはスキンシップのうち。そんなことも、より仲良くなるための、言わば”男の付き合い”として必要です。が、相手の身体を故意に破壊することが目的となったり、殺してしまうのは、決してそれと同列ではない、本来、人の道に外れた呪われたルール違反です。この決定的な相違を、子供がまだ幼いうちに、日常の楽しい遊びの中でキッパリと教えるのも、実は男親の重要な役割の一つであったはずですが...。 そして又、天地自然の恵みが乏しくなり、皆が飢えはじめると、男たちは連れ立って狩りや漁に出て、大きな獲物にも挑戦しました。無論、男たちだけが食べるのではなく、持ち帰って女子供にも食べさせるためです。だから男たちはチームワークに関しても、女たちよりはるかに優れた資質を持っています。時には男同士の友情が、神に祝福された夫婦の絆にも劣らないほどに、精神的、霊的にもこの上なく深く確かな絆となり得るのも、その故です。きっと、それ等の絆にも神の豊かな祝福があるのは間違いありません。 ...このように男たちも皆、愛のために生き、愛のために命をかけてきたのです。それは決して軟弱ではなく、それこそが真の強さであり、美しさでもあるのは、今ここに記述したとおりです。 (forTOKIO 9・21 10thANNIVERSARY.CONGURATURATIONS!!! 満10才のTOKIOに乾杯!!! これからが増すx2育ち盛り。HAPPY BIRTHDAY!!!)...って本当は当日に間に合わせたかったナ〜残念! 当方まだポンコツ、ドック入り中。ままならぬ身ゆえご容赦! |
▼AUDREY COHENさん: ちょうどいま、NHK3チャンネルで宗教の時間「ケセン語聖書」の話を聞きました。 アダムとイブは楽園で死ぬこともなく飢えることもなく暮らしていました。神は楽園に二本の木を植えました。一本は命の木、もう一本は真実の木です。真実の木の実を食べると人間は善悪を知ります。しかし神は、これを食べるのをアダムとイブに禁じていました。しかしアダムとイブはサタンに誘われ、真実の木の実を食べます。アダムとイブは楽園を追われます。それ以降、アダムとエバの子孫には死の恐怖と労働が課せられました。 この話はいわば神話です。しかしこの神話は人類の滅亡を示唆しています。では、人間が真実を知るとなぜ楽園を追われなければならないのでしょうか。それは、(不完全な)人間が「真実」と思われることを「獲得」した時、あるいは「虚偽」と思われるものに「気付いた」時、人間の間に争いが起こることを示しています。戦いに「正義」の名前で行われなかったものがありましょうか?―このように医師であり宗教家であるケセン語聖書の翻訳者は問いかけます。 あとひとつ、聖書には「バベルの塔」の物語があります。人々は一致団結して天まで届けとばかりに高い塔を造ろうとします。しかしそうしている内に、人々はお互いが理解できなくなり言葉が七つに分裂してしまいます。一生懸命力を合わせて塔を造る、このことがなぜ人類の分裂を招くのでしょうか?団結しようとすることが分裂を招くのです。 この二つは、「真実」というものへの誤解・思い込みと、「団結」の怖さ、「団結」から排除されるものの存在、等々について語っているようです。神は、善悪を乗り越えて人々が神を信ずべきこと、そして人々はそれぞれの「真実」でなく、神のみに従いなさいと説いているようです。 * * * 私は無神論者ですが、この二つの話は、21世紀の今こそ、「真実」であると思います。幾通りもある真実をお互いに強制するのでなく、人間ひとり一人の考えを尊重する社会、それが神の言葉に答える一歩であると感じました。 |
▼ウミサチヒコさん: >幾通りもある真実をお互いに強制するのでなく、 >人間ひとり一人の考えを尊重する社会、・・・・ 「唯我独尊」 ふつう悪い意味で使われますが、お釈迦様がそんなことを言うわけが無い。 この場合の”我”は、WeとYouを一緒にした概念だそうな。 ”俺たち、君たち、みんな一人一人が、この世で一番尊いのじゃ。”の意味だそうです。 なんとなく連想しました。お邪魔さまでした。 |
▼J.J.Mackさん: >▼ウミサチヒコさん: >>幾通りもある真実をお互いに強制するのでなく、 >>人間ひとり一人の考えを尊重する社会、・・・・ > >「唯我独尊」 >ふつう悪い意味で使われますが、お釈迦様がそんなことを言うわけが無い。>この場合の”我”は、WeとYouを一緒にした概念だそうな。>”俺たち、君たち、みんな一人一人が、この世で一番尊いのじゃ。”の意味だそうです。>なんとなく連想しました。お邪魔さまでした。 どうせ、ウミのやつが殊勝なことを言ってやがら、とでも思ったんでしょ。唯我独尊?オレにゃあ禅問答は分からねぇ〜。 |
23556の補足 バベルの塔は、神に背くニムロデが、自分や自分達のの権威を示し、また人々を自分(ニムロデ)から離さないために、「さあ天まで届く塔を建てよう、都市を造ろう」という(プロパガンダ)により造られたのでした。 |
ウミサチヒコさん、こんにちは。 > ちょうどいま、NHK3チャンネルで宗教の時間「ケセン語聖書」の > 話を聞きました。 私もその番組、見ました。ご覧になったのは再放送で、私が見たのは、 その元の本放送です。たぶん一年くらい前。 山浦玄嗣さん。あの方は、ご経歴といい、『ケセン語大辞典』に代表 される、これまでのお仕事といい、実に面白い方だと思っています。 始めてお名前を知ったころは、ただのキワモノ、巷の妙なコダワリ屋さん かと、失礼ながら思っていたのですが、あの番組をご覧になったのなら おわかりかと思いますが、ものごとに実に真摯に取り組んでいる方です。 内容面で、私がいちばん印象に残っているのが、よく知られた聖書の言葉、 「汝の敵を愛せ」の「愛せ」を、考えに考えた末に、ケセン語を生かして、 「でえじにしろ」(大事にしなさい)と訳したという話。 私は無信仰ですが、それにしても、この有名な「愛敵」という観念が、 長年まったく理解できなかったのですが、山浦さんの上の説明を聞いて、 「ああ、そういうことか」とすんなり腑に落ちました。 ……もっとも、だからといって、どんな敵でも「でえじにする」ほどには、 私はまだ人間が練れていませんが。(笑) 「掲示板のあり方」スレッドへも、今晩か、明日か、ちょっとまだ わかりませんが、近々書き込みたいと思っています。 また。 |
▼ぎみゆらさん: >> ちょうどいま、NHK3チャンネルで宗教の時間「ケセン語聖書」の話を聞きました。 >私もその番組、見ました。ご覧になったのは再放送で、私が見たのは、その元の本放送です。たぶん一年くらい前。 そういえば私もあの医師を見たのは二度目です。昼から『囲碁の時間』というのがありまして、2時からこの宗教の時間が始まりますが、キリスト、仏教、いろいろなのが出てきて、バカ真面目なインタビュアーが面白くていつも見ています。山浦玄嗣さんは魅力的な人ですね。ケセン語は縄文の発音を彷彿とさせます。悪い響きではありません。 「掲示板のあり方」―お待ちしています。私はどうやらかなりニックさんよりになってきましたが、まだ公開性そのものは反対しません。(少し仕事をします、夜見ます。) |