Page 209 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼ジプシー的自由ー国家の彼方に屹立する人々ー 流水 04/3/15(月) 10:38 ┗Re(1):ジプシー的自由ー国家の彼方に屹立する人々ー Returner 04/3/15(月) 11:23 ┗Re(2):ジプシー的自由ー国家の彼方に屹立する人々ー 流水 04/3/15(月) 12:09 ┗Re(3):ジプシー的自由ー国家の彼方に屹立する人々ー 流水 04/3/15(月) 12:29 ┗Re(4):ジプシー的自由ー国家の彼方に屹立する人々ー 海幸彦 04/3/15(月) 13:10 ┣Re(5):ジプシー的自由ー国家の彼方に屹立する人々ー 流水 04/3/15(月) 13:37 ┃ ┗Re(6):ジプシー的自由ー国家の彼方に屹立する人々ー 海幸彦 04/3/15(月) 13:54 ┗Re(5):ジプシー的自由ー国家の彼方に屹立する人々ー Returner 04/3/15(月) 16:01 ┗Re(6):ジプシー的自由ー国家の彼方に屹立する人々ー 海幸彦 04/3/15(月) 16:16 ┗Re(7):ジプシー的自由ー国家の彼方に屹立する人々ー Returner 04/3/15(月) 17:02 ┗Re(8):ジプシー的自由ー国家の彼方に屹立する人々ー 海幸彦 04/3/15(月) 17:50 ─────────────────────────────────────── ■題名 : ジプシー的自由ー国家の彼方に屹立する人々ー ■名前 : 流水 ■日付 : 04/3/15(月) 10:38 -------------------------------------------------------------------------
アフガン戦争・イラク戦争、パレスチナで果てしなく続く自爆テロ、自分たちの国をもつことを夢見るクルドの人々、21世紀も国家と人間の問題が大きく立ちはだかっている。 日本でも、国家の役割を強化しようという人々の声が大きくなっている。このような時代だからこそ、わたしたちは、国家と人間とのあり方をもう一度立ち止まって考え直す必要がある。 このような国家の役割を強調する人々とおよそ対極にたっている人々がいる。自分たちの国を持たず、国境を認めず、定住を拒否し、氏族社会の掟を頑なに守っていき続ける人々がいる。彼らは、「ジプシー」と呼ばれる。 英語でジプシー、スペンイン語でヒターノス、フランス語でジタン・ツイガーヌ、あるいはボヘミアン、ドイツ語でツゴイネルなどなど、多様な呼び方を持つ。 われわれが、ジプシーと聞けば、まず音楽と踊りを連想する。 例えば、フラメンコギターがある。スペインのアンダルシア地方を代表する音楽だが、スペインと聞けば、真っ先にフラメンコを連想するくらい知られている。 その他にもあまり知られていないが、名前を聞けばすぐ「ああ」と納得できる音楽がある。 アントン・カラスの奏でるチターのメロデイで有名な映画「第三の男」の主題歌「ハリー・ライムのテーマ」を記憶されている方も多いと思う。 実は、このアントン・カラスはジプシーだった。 軍司貞則著「滅びのチター師」によれば、戦後のウイーン的なるものを伝える代表として、カラスの「ハリー・ライムのテーマ」を挙げると、ウイーン市民はあまり良い顔をしないそうである。カラスの戦後は、あまり恵まれなかった。実は、カラスの職業は、音楽家でなく、「メタル・ワーカー」とされている。メタル・ワーカーとは、蹄鉄・錠前・鎖・馬具などをつくる鍛冶屋のことである。ジプシーに多い職業は、音楽家・舞踊家・鍛冶屋・熊使い・古物商といわれている。 しかも、「カラス」という姓も、カラ・カロ・カラスコとともに【黒い】という意味のジプシーの賎称だそうである。 カラスだけではなく、サラサーテの「ツゴイネルワイゼン」などもそうである。ツイゴイネルとは、ドイツ語でジプシーという意味である。 評論家平岡正明によれば、あるジプシーの芸術家は、こういったそうである。 「ジプシーは芸術家を誇る。軍人と思想家を一人も出さないことを誇る。軍隊は、人を殺し、思想家は分裂を持ち込む」 「では他の連中に襲われたり、圧迫されたらどうする」という問いに一言「逃げる」と答えた。 彼らの偉大さは、国家に帰属しないことに尽きる。彼らが15世紀にヨーロッパに現れて以来、国家を形成したことはない。彼らの出自はインドのパンジャブ地方といわれているが、10世紀に故郷を離れていらい、ずっと氏族社会の伝統を守り続けてきた。 彼らの本質を一言で言えば、【自由の民】である。15世紀以降の西欧の歴史は、血塗られた歴史である。特に国民国家形成以来の歴史は、戦争の歴史といって過言ではない。 ジプシーは国境を認めない。かれらは国境を自由に越え、いたるところで生活を営む。 彼らは、15世紀にヨーロッパに現れていらい、ただの一度も国家に属したこともないし、どの民族にも属したことはない。迫害されれば、逃げる。国境を越え、別の地方に現れる。ジプシーの氏族抵抗戦も記録されていない (平岡正明)―ジプシー的― ただ、彼らは「自由」を愛したのでる。しかし、時の権力者にとって、「自由」の民くらい始末に悪いものはない。 ナチスドイツに虐殺されたのは、なにもユダヤ人だけではない。多くのジプシーも虐殺されている。 アーリア人の優越性を証明するために「劣等人種」の淘汰を計画したナチスの標的にジプシーも入っていたのである。ジプシーの言語は、インド・アーリア系であるにもかかわらず、である。ジプシーは、「ロマニ語」という共通の言語をもっている。これは、サンスクリットの一変種ということは確かめられている。 少し、歴史的事実を書くと、1933年「遺伝病子孫予防法」=通称「断種法」が発布、ユダヤ人に対する直接的規定はなかったが、「放浪癖」「窃盗癖」が遺伝的要因に基づくとして適用される。 続いて、1935・9に「ドイツ人の血と名誉を守る法」=通称「ニュールンベルク法」が発布、これを強引に適用、強制収用所おくりの法的根拠になった。 続いて、ナチスはジプシー排除を効率的に行うための「人種診断」を開始。 「人種診断」では、純血ジプシー・混血ジプシー(1等級)・混血ジプシー(2等級)・非ジプシーの4段階に分けられた。 このとき登録された人数は、33、524人(男17,210、女16,314)−1941− 1939・10、「定住令」が発布、1942・12ヒムラーがジプシーの強制移送を命じる。 この命令により、1943・2〜1944・8の間に22。643人がアウシュビッツのジプシー収容所に収監、20,078人が死亡。 このほかに、ナチスドイツによるジプシー虐殺は諸説あるが、定説では約50万人前後とされている。 われわれは、ユダヤ人の虐殺はよく知っているが、ジプシーの虐殺についてはあまり知らない。これについては、経済の中枢にユダヤ人が多数おり、第二次大戦後のシオニズム運動=イスラエル建国の高まりが、ユダヤ人の悲劇を過大に評価した部分もあるが、本当の理由は、ジプシーが頑なに「定住」をこばみ、「自由」を最大の価値においたところにある、と思う。【ジプシー的自由】こそ、国家がもっとも危険視する【自由】だからであろう。 今ヨーロッパは、EUの時代に入った。かっては、弾圧の対象であったジプシー的自由がヨーロッパ全域で行われようとしている。通貨障壁も関税障壁も移動の自由も居住の自由もかなりの程度実現してきた。 問題は、【税】である。どこの生まれでもよい。そこに定住して、税を支払ってくれれば、国家は成立する。しかし、自由に移動し、税をかけようにも人口動態調査すらできないのが、国家としてもっとも困る。これが、「ジプシー的自由」と「国家」の最終的かつ決定的な対立点である。 実は、この種の自由の民は、世界中に存在していた。遊牧民族などは、その典型である。モンゴル政府が、一番苦労したのは、如何にしてゲルと呼ばれるテント生活の遊牧民を定住させるかであり、移住生活をする彼ら遊牧民を如何にして捕捉し、税をとるかということであった。 日本にもかって「ジプシー的自由を生きた人たち」がいた。「さんか」と呼ばれる山の民である。 「さんか」は九州や西日本の山を中心に、広く分布していた。時の権力者は、常に「さんか」の存在を煙たがり、弾圧の対象にしてきた。豊臣秀吉が行った弾圧は有名である。 明治維新以降も、「さんか」は国民の三大義務「納税」「兵役」「教育」を拒否、定住もせず、米も主食とせず生き続けた。豊葦原瑞穂の国に生まれながら、「米」を主食にしない民族が、戦後まで生き延びていたということはあまり知られていない。 彼らの通る道を「さんか道」と呼び、日本列島に網の目のように張り巡らされていた。 この「さんか」の出自については諸説あり、まだ正確なところはわからない。 しかし、明治政府の弾圧政策により、じょじょに定住をする「さんか」も増えた。この定住をした「さんか」を【居着きさんか】と呼び、定住を拒否して「瀬ぶり」と呼ばれる竹で編んだ小屋で寝泊りし、転々と移動をする「さんか」を「せぶりさんか」と呼んだ。 しかし、戦後開発が進み、山が荒れ果てるにつれて、「瀬ぶりさんか」は姿を消し、「居着きさんか」として、人々の間に紛れ込んだのである。 現代は、「国家」権力拡大を声高に叫ぶ人と「国家障壁」をなくそうと努力する人とが、二極分解しつつある時代である。 天皇制論議や徴兵制論議もこの一環であろう。 国家の意味が問い直されている時代だからこそ、国家に属さず自分たちの価値観を貫き通してきた「ジプシー的自由」の意味をもう一度見直すのも意味があると思う。 |
国家に属さないということは、いかなる法にも属さないという事になり彼らのモラルのみで行動することになります。 世界にはいろんな考えをもった人々が存在し、価値観だって多様です。それを、国家が法で規制し民が安心して暮らせるのです。 人間がモラルのみで行動するならば、いつかそれは崩れ、争いが起き、人が集まり国を形成し、また、国家間同士で争うことになります。つまり、私たちが存在しているこの世界は、人類が成し得た最後の形態だと思います。これを崩せば、人類はまたやり直さなければなりません。また、やり直すだけの余裕は地球にはありません。 「アフガン戦争・イラク戦争、パレスチナで果てしなく続く自爆テロ、自分たちの国をもつことを夢見るクルドの人々、21世紀も国家と人間の問題が大きく立ちはだかっている。」 これは確かに事実です。しかし、国家と人間の問題ならば、国家と人間がそれを解決できるはずです。・・・原点に戻る必要はありません。 |
▼Returnerさん: > 国家に属さないということは、いかなる法にも属さないという事になり彼らのモラルのみで行動することになります。 > 世界にはいろんな考えをもった人々が存在し、価値観だって多様です。それを、国家が法で規制し民が安心して暮らせるのです。 > 人間がモラルのみで行動するならば、いつかそれは崩れ、争いが起き、人が集まり国を形成し、また、国家間同士で争うことになります。つまり、私たちが存在しているこの世界は、人類が成し得た最後の形態だと思います。これを崩せば、人類はまたやり直さなければなりません。また、やり直すだけの余裕は地球にはありません。 > >「アフガン戦争・イラク戦争、パレスチナで果てしなく続く自爆テロ、自分たちの国をもつことを夢見るクルドの人々、21世紀も国家と人間の問題が大きく立ちはだかっている。」 > > これは確かに事実です。しかし、国家と人間の問題ならば、国家と人間がそれを解決できるはずです。・・・原点に戻る必要はありません。 |
▼Returnerさん: >> 国家に属さないということは、いかなる法にも属さないという事になり彼らのモラルのみで行動することになります。 モラルというより、氏族の掟でしょう。人間社会(集団で暮らす)には、必ず法があります。ジプシーも個人で暮らしているのではなく、氏族社会で暮らしているのです。 世界にはいろんな考えをもった人々が存在し、価値観だって多様です。それを、国家が法で規制し民が安心して暮らせるのです。 国民国家形成以前とそれ以降とを比較して、国民国家形成以降に民が本当に安心して暮らせた、と言い切れますか。 少なくとも、一般民衆の戦争における死者数で比較すると、圧倒的に形成以降の方が多いはずです。 この一事をもってしても、【国家が法で規制し、民が安心して暮らせる】とあなたのように言い切ることは難しいですね。 人間がモラルのみで行動するならば、いつかそれは崩れ、争いが起き、人が集まり国を形成し、また、国家間同士で争うことになります。つまり、私たちが存在しているこの世界は、人類が成し得た最後の形態だと思います。これを崩せば、人類はまたやり直さなければなりません。また、やり直すだけの余裕は地球にはありません。 どうも、あなたはわたしの論旨を読み違えているようですね。わたしは、国家のない状態に戻せなどと主張していませんよ。国家の役割をもう一度原点に立ち戻って考え直すためには、ジプシー的な自由の意味を考え直すべきだと言っているのです。 もう少しいえば、国家の役割の縮小の方向が歴史の流れなのか、拡大の方向が歴史の流れなのかを考えようといっているのです。 >> >> これは確かに事実です。しかし、国家と人間の問題ならば、国家と人間がそれを解決できるはずです。・・・原点に戻る必要はありません。 これも上記と同じです。わたしは一言も原点に戻れとも戻らなくてもよいとも主張していません。 国家の役割を考えるときに、およそその対極にたつジプシーのようなあり方も視野に入れて国家と人間の問題について考えよう、といっているのです。 |
▼流水さん: >▼Returnerさん: >>> 国家に属さないということは、いかなる法にも属さないという事になり彼らのモラルのみで行動することになります。 > >モラルというより、氏族の掟でしょう。人間社会(集団で暮らす)には、必ず法があります。ジプシーも個人で暮らしているのではなく、氏族社会で暮らしているのです。 > > 世界にはいろんな考えをもった人々が存在し、価値観だって多様です。それを、国家が法で規制し民が安心して暮らせるのです。 > >国民国家形成以前とそれ以降とを比較して、国民国家形成以降に民が本当に安心して暮らせた、と言い切れますか。 >少なくとも、一般民衆の戦争における死者数で比較すると、圧倒的に形成以降の方が多いはずです。 >この一事をもってしても、【国家が法で規制し、民が安心して暮らせる】とあなたのように言い切ることは難しいですね。 > > 人間がモラルのみで行動するならば、いつかそれは崩れ、争いが起き、人が集まり国を形成し、また、国家間同士で争うことになります。つまり、私たちが存在しているこの世界は、人類が成し得た最後の形態だと思います。これを崩せば、人類はまたやり直さなければなりません。また、やり直すだけの余裕は地球にはありません。 > >どうも、あなたはわたしの論旨を読み違えているようですね。わたしは、国家のない状態に戻せなどと主張していませんよ。国家の役割をもう一度原点に立ち戻って考え直すためには、ジプシー的な自由の意味を考え直すべきだと言っているのです。 >もう少しいえば、国家の役割の縮小の方向が歴史の流れなのか、拡大の方向が歴史の流れなのかを考えようといっているのです。 >>> >>> > これは確かに事実です。しかし、国家と人間の問題ならば、国家と人間がそれを解決できるはずです。・・・原点に戻る必要はありません。 > >これも上記と同じです。わたしは一言も原点に戻れとも戻らなくてもよいとも主張していません。 >国家の役割を考えるときに、およそその対極にたつジプシーのようなあり方も視野に入れて国家と人間の問題について考えよう、といっているのです。 流水様 そうです。国家は人間の発明した最後の形態でもなければ、まして「安心して暮らせる」最良のしくみでもありません。そもそも国家は「幻想の共同体」(マルクス・エンゲルス、国家・家族・私有財産の起源???、ほか)です。私自身も「幻想」の中味よく言えませんが、、、(ペコリ) たとえばいまの日本という国家を例にとってみても、一体どれだけの人が国家の組織・陰謀・からくり&抑圧性について見て知っているというのでしょうか。そのからくりを知った上で、最良かどうかの判断はしてほしいところです。十分に変えるべき対象であることがわかるはずです。 |
▼海幸彦さん: >そうです。国家は人間の発明した最後の形態でもなければ、まして「安心して暮らせる」最良のしくみでもありません。そもそも国家は「幻想の共同体」(マルクス・エンゲルス、国家・家族・私有財産の起源???、ほか)です。私自身も「幻想」の中味よく言えませんが、、、(ペコリ) 国家論をはじめると、また難しいことになりますので、避けますが、国家とか【法】と人間のかかわり方をもう一度きちんと考え直す時期だと思います。 たとえばいまの日本という国家を例にとってみても、一体どれだけの人が国家の組織・陰謀・からくり&抑圧性について見て知っているというのでしょうか。そのからくりを知った上で、最良かどうかの判断はしてほしいところです。十分に変えるべき対象であることがわかるはずです。 結局、日本国民の国家観の問題になると思います。自分たちは、どのような国に住みたいか、を問い直さなければ、自立心は生まれないと思います。 |
▼流水さん: >▼海幸彦さん: > >>そうです。国家は人間の発明した最後の形態でもなければ、まして「安心して暮らせる」最良のしくみでもありません。そもそも国家は「幻想の共同体」(マルクス・エンゲルス、国家・家族・私有財産の起源???、ほか)です。私自身も「幻想」の中味よく言えませんが、、、(ペコリ) > >国家論をはじめると、また難しいことになりますので、避けますが、国家とか【法】と人間のかかわり方をもう一度きちんと考え直す時期だと思います。 > > >たとえばいまの日本という国家を例にとってみても、一体どれだけの人が国家の組織・陰謀・からくり&抑圧性について見て知っているというのでしょうか。そのからくりを知った上で、最良かどうかの判断はしてほしいところです。十分に変えるべき対象であることがわかるはずです。 > >結局、日本国民の国家観の問題になると思います。自分たちは、どのような国に住みたいか、を問い直さなければ、自立心は生まれないと思います。 流水さん 短いレスポンスで助かります(笑)。ありがとうございます。 流水さん、ぜひ老人党・リアルグループ「護憲+」の方にも参加頂けませんか?そちらのほうで、ゆっくり国家論の講義などして頂けるとうれしいのですが…。ぜひとも、お返事お待ちしています。 |
▼海幸彦さん: >▼流水さん: >>▼Returnerさん: >>>> 国家に属さないということは、いかなる法にも属さないという事になり彼らのモラルのみで行動することになります。 >> >>モラルというより、氏族の掟でしょう。人間社会(集団で暮らす)には、必ず法があります。ジプシーも個人で暮らしているのではなく、氏族社会で暮らしているのです。 >> >> 世界にはいろんな考えをもった人々が存在し、価値観だって多様です。それを、国家が法で規制し民が安心して暮らせるのです。 >> >>国民国家形成以前とそれ以降とを比較して、国民国家形成以降に民が本当に安心して暮らせた、と言い切れますか。 >>少なくとも、一般民衆の戦争における死者数で比較すると、圧倒的に形成以降の方が多いはずです。 >>この一事をもってしても、【国家が法で規制し、民が安心して暮らせる】とあなたのように言い切ることは難しいですね。 >> >> 人間がモラルのみで行動するならば、いつかそれは崩れ、争いが起き、人が集まり国を形成し、また、国家間同士で争うことになります。つまり、私たちが存在しているこの世界は、人類が成し得た最後の形態だと思います。これを崩せば、人類はまたやり直さなければなりません。また、やり直すだけの余裕は地球にはありません。 >> >>どうも、あなたはわたしの論旨を読み違えているようですね。わたしは、国家のない状態に戻せなどと主張していませんよ。国家の役割をもう一度原点に立ち戻って考え直すためには、ジプシー的な自由の意味を考え直すべきだと言っているのです。 >>もう少しいえば、国家の役割の縮小の方向が歴史の流れなのか、拡大の方向が歴史の流れなのかを考えようといっているのです。 >>>> >>>> >> これは確かに事実です。しかし、国家と人間の問題ならば、国家と人間がそれを解決できるはずです。・・・原点に戻る必要はありません。 >> >>これも上記と同じです。わたしは一言も原点に戻れとも戻らなくてもよいとも主張していません。 >>国家の役割を考えるときに、およそその対極にたつジプシーのようなあり方も視野に入れて国家と人間の問題について考えよう、といっているのです。 > > >流水様 >そうです。国家は人間の発明した最後の形態でもなければ、まして「安心して暮らせる」最良のしくみでもありません。そもそも国家は「幻想の共同体」(マルクス・エンゲルス、国家・家族・私有財産の起源???、ほか)です。私自身も「幻想」の中味よく言えませんが、、、(ペコリ) > >たとえばいまの日本という国家を例にとってみても、一体どれだけの人が国家の組織・陰謀・からくり&抑圧性について見て知っているというのでしょうか。そのからくりを知った上で、最良かどうかの判断はしてほしいところです。十分に変えるべき対象であることがわかるはずです。 流水さん、海幸彦さん、私は論旨を読み違えていたようです。すみません、早とちりで。 しかし、海幸彦さん、私は「国家は人間の発明した最後の形態」なんて言っていません。私が言ったのはこの世界が人類で成し得た最後の形態だということです。つまり何が言いたいかというと、エゴの塊である人類が事実はどうあれ国家を形成し、法を定め、二度の世界大戦を経験し学び(学んでいない国もありますが)、国連という世界規模のものを作ったということです。私は、これ以上のものは人類では不可能と思い「最後の形態」と言わせていたただきました。 「たとえばいまの日本という国家を例にとってみても、一体どれだけの人が国家の組織・陰謀・からくり&抑圧性について見て知っているというのでしょうか。」 これは、私も承知の上です。ただ、世界的に観て上記のようなことが人類を形成する上で限界だと思うのです。 |
▼Returnerさん: >▼海幸彦さん: >>▼流水さん: >>>▼Returnerさん: Returnerさん 「発明」したか「編み出」したか「たどりついた」かは別として私には同義に思えますが、、、(苦笑)。 |
▼海幸彦さん: >▼Returnerさん: >>▼海幸彦さん: >>>▼流水さん: >>>>▼Returnerさん: > > >Returnerさん >「発明」したか「編み出」したか「たどりついた」かは別として私には同義に思えますが、、、(苦笑)。 そうですか、・・・残念です。 |
▼Returnerさん: >▼海幸彦さん: >>▼Returnerさん: >>>▼海幸彦さん: >>>>▼流水さん: >>>>>▼Returnerさん: >> >> >>Returnerさん >>「発明」したか「編み出」したか「たどりついた」かは別として私には同義に思えますが、、、(苦笑)。 > >そうですか、・・・残念です。 Returnerさん 何が残念なのか全然分かりませんが、話題をかえて、今後ともよろしくお願い致します。(ペコリ) |