Page 2236 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼憲法・法律・条約、退役軍人さんの理解について とうろう 04/12/30(木) 13:15 ┣少し時間を下さい。 退役軍人 04/12/30(木) 16:14 ┃ ┗Re(1):少し時間を下さい。 紅遊詞 04/12/30(木) 17:27 ┣憲法ツール論 退役軍人 05/1/13(木) 0:19 ┃ ┣Re(1):憲法ツール論/お礼とおことわり とうろう 05/1/13(木) 8:55 ┃ ┣Re(1):憲法ツール論/勿論ツールですが とうろう 05/1/14(金) 19:56 ┃ ┣Re(1):憲法ツール論/勿論ツールですが(2) とうろう 05/1/14(金) 19:58 ┃ ┗Re(1):憲法ツール論/勿論ツールですが(3) とうろう 05/1/14(金) 20:00 ┗ご注意>とうろうさん 管理スタッフ 05/1/14(金) 21:06 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 憲法・法律・条約、退役軍人さんの理解について ■名前 : とうろう ■日付 : 04/12/30(木) 13:15 -------------------------------------------------------------------------
退役軍人さん; こんにちは。歳末の忙しい折にある意味で暇なことをしているような気がしますが、隠遁老人の特権?としてお許しください。これは、スレッド【38535】で教えて頂いた首記のご意見に対するレスです。 その前に、「勝組み」云々については、貴兄の仰る通りと思いますが、貴兄にも、ちょっと「勝組み意識」があるのかなぁと感じたもので、敢えて取り上げましたが、「目から鱗」で、自省されたご様子、流石だと、人ごとながら嬉しく思いました。 生意気を申しましたが、まぁ少しは貴兄より長生きしている人間の言としてお許しください。私は、人は長生きすればそれだけ経験、知識を積んで「知恵」が付き、世の中のことも、人のことも少しはよく見えるようにならなければならないと、まぁ儒教?で言う「長幼の序」はこの事をさしているのであって、単に馬齢を重ねただけで「長」だ「幼」だではなく、「人齢」を重ねたいと思っているものです。仰るように、人間ある意味では「糞袋」ですから、自分の思うことと、達成できることとの間には大差があり、上のような事を言うのも憚られますが、まぁ老人の無恥からということでご容赦の程を。 さて、本題です。 私がお伺いしたかったことは、憲法制定時に、「自衛戦力の放棄」も国民が認識していたのかどうかと言うことです。 私は、認識していたのではないかと思うものです。どこかでも書きましたが「一億総ざんげ」「過ちは繰り返しません」と言う風潮でしたから。また、時の吉田首相は「米軍は番犬だ」と言い放っています。自ら自衛戦力を持つ気はなかったのではないでしょうか。 しかし、朝鮮戦争で「番犬」が忙しくなり、国内治安の維持に不安が生じ「警察予備隊」を作り、自衛隊に至った経緯は仰るとおり、米国の政策変更も貴兄の分析どおりだと思います。米国は日本の敵対勢力としての台頭を押さえる為に、かっては共産主義勢力の膨張を押さえる為に日本に駐留していることは明らかだと思っています。 ただ、当時、若し、自衛戦力の保持を国民が認めていたのなら、何故「解釈合憲など姑息な手段」に拠らず、堂々と「憲法改正」をしなかったのでしょうか。 政治情勢で出来なかったからでしょうが、この「不作為」が今になって多くの議論の種となっていると思います。今からでも遅くないから十分議論を尽くすべきだと思います。なお、押し付け憲法だからと言う議論は不毛と思います。若し、押し付けられたと言うのであれば、当時の国民がまぁ反対したでしょうから。声が出せなかったとも思いますが、黙認も結果的には承諾ではないでしょうか(国民皆、生きるのに精一杯で憲法などどうでも良かったのではないかと想像します)。 私は、絶対平和論者ですから、自衛戦争も放棄して好いと思いますが、このような非暴力主義が今の国際社会で成り立っていくとは考えていません。従って、せめて、戦力は、自衛に限ると憲法に明記し、今後、拡大解釈され無いようにすべきと思うものです。その意味で、頑(かたく)なな「護憲平和」に賛同するに違和感を覚えるものです。 自衛隊発足、その後の経過における米国の意志、日本国の対応に関する国際情勢の変化は上にも言いましたが、多分そのとおりと思います。米国は、(核の傘などに)日本を依存させておく必要が有ったと思います。 以上憲法観を少し述べました。私の憲法に関する思いは、以前に長々と書きました。http://www.6410.jp/bbs/data/sougou/log/tree_1203.htm(憲法観、立脚点)です。宜しければ、ご笑覧ください。 長くなりました、失礼しました。 |
とうろうさん、こんにちは。 ▼とうろうさん: >その前に、「勝組み」云々については、貴兄の仰る通りと思いますが、貴兄にも、ちょっと「勝組み意識」があるのかなぁと感じたもので、敢えて取り上げましたが、「目から鱗」で、自省されたご様子、流石だと、人ごとながら嬉しく思いました。 もぅ、赤っ恥もいいとこですよ。 原点には、こんなに貧しいのにどうしてああいう素晴らしい笑顔と共に暮らせるのだろうという疑問でした。 それと、合わせていろんなところで見てきた「生まれた場所が生死を分ける。」不条理に対する疑問と焦燥さらには怒り。 >生意気を申しましたが、まぁ少しは貴兄より長生きしている人間の言としてお許しください。私は、人は長生きすればそれだけ経験、知識を積んで「知恵」が付き、世の中のことも、人のことも少しはよく見えるようにならなければならないと、まぁ儒教?で言う「長幼の序」はこの事をさしているのであって、単に馬齢を重ねただけで「長」だ「幼」だではなく、「人齢」を重ねたいと思っているものです。仰るように、人間ある意味では「糞袋」ですから、自分の思うことと、達成できることとの間には大差があり、上のような事を言うのも憚られますが、まぁ老人の無恥からということでご容赦の程を。 きちんと同じ事を繰り返して積み上げていく「年輪の重み」ってのが、そろそろ初老と呼ばれる年齢に近づいてきて体感出来てるのかなぁ、なんて思っています。 私は、おしゃれで茶目っ気のあるじーさんになりたいと心底願っています。それと、「叱ることが出来る頑固じーさん」。(笑 >以上憲法観を少し述べました。私の憲法に関する思いは、以前に長々と書きました。http://www.6410.jp/bbs/data/sougou/log/tree_1203.htm(憲法観、立脚点)です。宜しければ、ご笑覧ください。 > >長くなりました、失礼しました。 戦後、唯一の社会党員を首班とした片山内閣や後継の芦田内閣の成立と崩壊の過程に、現在のような中途半端な軍備になってしまった原因や、その後の保守合同いわゆる55年体制の確立の理由を見いだせると考えています。もちろん、占領軍(GHQ)の民政局と参謀二部の綱引き(主導権争い)等も絡んではいますが。 過去ログにあった憲法観のご主張も読みましたが、もう一度熟読するためにプリントしました。 少し時間を下さい。 失礼いたしました。 |
私も印刷をかけて丁寧に読みたいと思います。 此処は勉強になる方が多いです。 |
とうろうさん、こんばんは。 年越しの「お題」ですねぇ。 お待たせして申し訳ありません。 さて、私の認識ととうろうさんの認識では、どこか意識というか、法というもの(憲法を含む)の概念に違いがあると考えました。 その違いの原点がなにかと考えたときに、私なりに腑に落ちる考え方の違いを見いだしたと思います。 ▼とうろうさん: >以上憲法観を少し述べました。私の憲法に関する思いは、以前に長々と書きました。http://www.6410.jp/bbs/data/sougou/log/tree_1203.htm(憲法観、立脚点)です。宜しければ、ご笑覧ください。 事細かに、認識の違いを分析というか、魚の骨を書いて見て共通項を見いだす努力をしました。 私の法律に対する認識は、 「国家が結果を担保する限界を示したもの」 という考え方です。 とうろうさんの認識は私の認識より、やや理念論に傾斜していらっしゃるのではないか、その差異が考え方の違いを生んでいると思えるのです。 憲法から各種の法律や省令などにより定められる規則、更には地方自治体が定める条例や、それに伴う施行規則等々、一番上位にある憲法から諸規則まで法体系はピラミッドのように層状を成していますよね。 層状の法体系のなかで、担保すべき結果の大枠を法律で規定しておき、規定の幅を限定的に変更できる様にしておいて、下位の省令や規則を柔軟に変更出来るようになっていて、現実にそのように運用されている。 変更の幅によって、利害に大きな矛盾が生じる場合には議会において法律を改正するという政治的手段が使えるようになっていて、現実にそのような手続きを経て変更が成されている。 こういう法整備と運用の姿が「法律が道具」であることの証明であると思うのです。 何故、憲法を変更してはならないのでしょうか。 極論というか、結論になってしまいますが、 私は憲法を始めとして法律は「ツール」(道具)に過ぎないという考え方を持っているようです。 憲法は、一番大きな括りとしての「国民の価値観」を大枠で示したものだと考えればツールとしての定義が成り立つかと。 価値観の大枠、いわば理念を示す物なのでしょう。 憲法を考える上で「理念」を語ることは重要な事ではありますが、ツール(道具)としての特性を忘れてしまってはならないと考えます。 その特性を忘れてしまうから、独善(イデオロギー・大義)に毒されて議論が迷走してしまうのではないでしょうか。 護憲と改憲という考え方の対立に、道具としての前提が忘れ去られ、もはや独善と独善の戦いに成り下がってしまっていると考えます。 思想信教の自由を標榜した憲法が、独善と独善の戦いのなかで「ある種の神格化」さえ成されてしまっている矛盾。 交戦権を否定した九条について、極論と極論の争いになってしまうのは、双方が憲法は道具であるという認識を忘れているからではないかと。 憲法が標榜すべき、第一義であり最大の目的は「国民の安全」であるはずです。 その目的を実現する手段としての「基本法」の位置づけであれば、九条に標榜する「交戦権の否定」や、武力行使を含めた軍備を外交の手段として放棄するというのは「道具の使い方」を規定したものであるというべきでしょう。 現実を見て、その道具の使い方が国民の安全を守るという目的にそぐわないのであるのなら、道具の使い方の規定を変えれば良いだけのこと。 前文にうたう「日本の価値観」いわば理念となんら齟齬を生じるものではないと考えます。 そもそも国家が国民の安全を守るという目的の実現のためには、全ての選択肢を否定するべきではありません。 国民を守らなければならないが、憲法の規定で必要な選択肢が与えられていない現状。 これはとんでもない話だと思うのです。 たとえ、国民が拉致されようとも、固有の国土の上にミサイルを飛ばされようが、我が国の経済水域にある資源を横取りされようが、領海にミサイル原潜が侵入しようが、憲法の規定で、外交交渉とは名ばかりの「お願い」をすることしか許されない現状。 謂われなき理由で国民を他国に拉致されたら、経済力・軍事力等の「実力」で取り返す、という選択肢を否定するべきではないのです。 この選択肢の否定は国民の安全と繁栄を担保すべき国家の責任を放棄したと考えても良いのではありませんか。 道具の形が現状に合わないのであれば、道具の形を変えれば良いだけのことかと。 失礼いたしました。 |
▼退役軍人さん: おはようございます。レス有難うございました。 今、2,3レスをしたいことが懸案になっておりますので、貴見についてのレスは遅くなると思います。先には貴兄から丁寧におことわりを頂いておりましたので、念のため申し上げます。 |
▼退役軍人さん:こんばんは。 貴レスは私の論立てに沿ったコメントではありませんのでコメントしずらい面もありますが、感じたことを述べます。 まず、最初にごく簡単に私の論立てを書いてみます。 私は、人とは何か、人と法の歴史というか法の発展経緯、人と社会(国)のあり方(基本的人権と社会契約)そして日本国憲法の内容について書き、更には社会には「冷徹な経済原則が通底している」ことも示唆したつもりです。 「社会」としては広く人間(人類)社会(世界)を考え、「国」も「国際公法の中に存在する法的存在?」と捉えています。そして、人は全て「天賦の基本的人権(自由、独立、平等、生存権)」を有し、これらの人々の過半多数の合意、総意の上に「国」も含めた社会が存在すべき(社会契約)と考えています。 「法」はこの「社会契約」を体現したいわば、「社会・国」と「人(自然人・法人)」および「人」と「人」との関係を律する「契約・約束」であり、公法は「国」と「人」の関係を律し、私法は「人」と「人」の関係を律するものと思います。 「法」は、契約が当事者間の「権利・義務(債権債務)」を定めるように「権利・義務」を定めた「実体法」と手続きを定めた「手続き法」とに分かれますが、いずれにしても人々の代表者たる者によって定められます。 また、一国には「憲法」が定められ、全ての法はこの憲法の下に制定されねばなりません(最高裁の違憲審査がある所以だと思います)。従って「憲法は法源」と言われるのではないでしょうか。 以上を踏まえて退役軍人さんのコメントに即して感想を述べます。 >事細かに、認識の違いを分析というか、魚の骨を書いて見て共通項を見いだす努力をしました。 長い駄文を「フィッシュボーンダイアグラム」まで作ってお読みいただき有難うございました。 >私の法律に対する認識は、「国家が結果を担保する限界を示したもの」という考え方です。 「国家が結果を担保する限界を示したもの」この意味が良く分かりませんが、想像するに「国」と「国民」の関係を律するものが「法律」であって、「国」が「国民」に保障する範囲、限界を規定したものと言うことでしょうか。若し、このような意味なら少し狭すぎる解釈だと思います。法律は私人の間の関係も律し(私法)、国際公法(国家間)国際私法(国際の私人の間)もあります。 >とうろうさんの認識は私の認識より、やや理念論に傾斜していらっしゃるのではないか、その差異が考え方の違いを生んでいると思えるのです。 私が理念に傾斜していることは認めます。理念を展開して現実に適用していると言う意味では。しかし、理念的という意味であれば、理念的であることには何ら問題ないことと思っています。問題は、その理念が正しいか、正しくないかと言うことで、その理念が事実・現実に即して正しいのか、誤まっているのか、あるいは事実・現実に適用出来るのか、出来ないのかということを論じるべきと考えます。 >憲法から各種の法律や省令などにより定められる規則、更には地方自治体が定める条例や、それに伴う施行規則等々、一番上位にある憲法から諸規則まで法体系はピラミッドのように層状を成していますよね。 層状の法体系のなかで、担保すべき結果の大枠を法律で規定しておき、規定の幅を限定的に変更できる様にしておいて、下位の省令や規則を柔軟に変更出来るようになっていて、現実にそのように運用されている。変更の幅によって、利害に大きな矛盾が生じる場合には議会において法律を改正するという政治的手段が使えるようになっていて、現実にそのような手続きを経て変更が成されている。こういう法整備と運用の姿が「法律が道具」であることの証明であると思うのです。 そうですね。なんら異存はありません。何かこれに反するようなことを私が言っていたでしょうか。 (続く) |
(承前2) >何故、憲法を変更してはならないのでしょうか。 憲法を変更してはならないと言っていたでしょうか。私は少なくとも明文規定を素直に読めば自衛隊の存在は違憲であるから、現実に即して憲法を適正に改正すべきと言う意見です。 >極論というか、結論になってしまいますが、私は憲法を始めとして法律は「ツール」(道具)に過ぎないという考え方を持っているようです。憲法は、一番大きな括りとしての「国民の価値観」を大枠で示したものだと考えればツールとしての定義が成り立つかと。 憲法を含む法律が「ツール」であることを否定しません。上に述べたとおりです。 >価値観の大枠、いわば理念を示す物なのでしょう。憲法を考える上で「理念」を語ることは重要な事ではありますが、ツール(道具)としての特性を忘れてしまってはならないと考えます。その特性を忘れてしまうから、独善(イデオロギー・大義)に毒されて議論が迷走してしまうのではないでしょうか。 ここの論は良く分かりません。飛躍があるように思います。ツールの特性を忘れるとどうして議論が迷走するのでしょうか。ツールだから憲法に正しい理念を盛り込めば良いということだと思いますが。 >護憲と改憲という考え方の対立に、道具としての前提が忘れ去られ、もはや独善と独善の戦いに成り下がってしまっていると考えます。思想信教の自由を標榜した憲法が、独善と独善の戦いのなかで「ある種の神格化」さえ成されてしまっている矛盾。 現実の「護憲」派と「改憲」派との議論は一見そのように見えますね。それは私が「スローガン」言霊政治と言う所以ですが、私がそのような事「ある種の神格化」を書いていますか。 >交戦権を否定した九条について、極論と極論の争いになってしまうのは、双方が憲法は道具であるという認識を忘れているからではないかと。 そのようには思えませんが、まぁ「平和理念」(現実に照らして空想的な面がありますが)と「現実肯定(その裏の意図は別にあるかも知れませんが)」との間の争いではありませんか。 >憲法が標榜すべき、第一義であり最大の目的は「国民の安全」であるはずです。 勿論そうです。問題は「国民の安全」を守る方法、方策、政策について議論があるということでしょう。 >その目的を実現する手段としての「基本法」の位置づけであれば、九条に標榜する「交戦権の否定」や、武力行使を含めた軍備を外交の手段として放棄するというのは「道具の使い方」を規定したものであるというべきでしょう。 ここの意味は良く分かりません。ここで言われる道具は「自衛隊・戦力」ということですか。 >現実を見て、その道具の使い方が国民の安全を守るという目的にそぐわないのであるのなら、道具の使い方の規定を変えれば良いだけのこと。前文にうたう「日本の価値観」いわば理念となんら齟齬を生じるものではないと考えます。そもそも国家が国民の安全を守るという目的の実現のためには、全ての選択肢を否定するべきではありません。国民を守らなければならないが、憲法の規定で必要な選択肢が与えられていない現状。これはとんでもない話だと思うのです。 「必要な選択肢」とは「自衛戦力」のことですか。既に、解釈合憲で与えられていますね。この現実を容認したまま「護憲」を言う矛盾を私は可笑しく感じ、国民過半多数の意志であれば、現実に即した「改憲」をすれば良いと思っています。但し、私個人は「戦争は悪」という観点から「戦力保持・武力防衛」に代わり、「不服従・非暴力」で侵略(があるとすれば)を防げれば良いと思っていますが。 (続く) |
(承前3) >たとえ、国民が拉致されようとも、固有の国土の上にミサイルを飛ばされようが、我が国の経済水域にある資源を横取りされようが、領海にミサイル原潜が侵入しようが、憲法の規定で、外交交渉とは名ばかりの「お願い」をすることしか許されない現状。謂われなき理由で国民を他国に拉致されたら、経済力・軍事力等の「実力」で取り返す、という選択肢を否定するべきではないのです。この選択肢の否定は国民の安全と繁栄を担保すべき国家の責任を放棄したと考えても良いのではありませんか。 何事も成果とコストの関係でしょう。「実力行使」で得られる成果と失うコスト、「実力行使以外の手段」で得られる成果と失うコストの得失比較によるのであって、先ず「実力行使」があるわけではなく、「実力行使」が最善と言える理由もないような気がします。 >道具の形が現状に合わないのであれば、道具の形を変えれば良いだけのことかと。 「道具の形」が「現実に合うかどうか」に議論があるのであって、合わないと考える人がいれば、合っていると考えている人もいると言うことではないでしょうか。 私が退役軍人さんの上のコメントを読んだ感想を纏めると、 貴兄は、今の日本国に生きる国民として、その現実を所与の条件としてアプリオリに認め、日本人としての民族意識をもち、国及び国民の安全は、周辺諸国の現実から見て「戦力・武力」で守る以外に道はない、当然のことではないか、と考えられておられるのだと思います。 私は、今日本国にいる日本人であるより前に一個の「人間」でありたいと思うものです。そして、同じ人間として「他国の人」を見たいわけです。従って、暴力・武力による争い「戦争」を避けたい、多分庶民みんなはそう思っていると信じたいのです(変な統治者にだまされない限り)。その意味で「非暴力・不服従」での抵抗を選びたいと考えるものです。人の命はどれも等価と考えるからです。貴兄は、多分「敵か味方か」「日本人か外国人か」と言う二分法で現実を捉えられていると思います、ここの感性の違いかと感じます。 以上感想を述べました。必ずしも私の論点に沿ったご意見でないので少し分からない事もあり、失礼なコメントもあるかと思いますがご容赦ください。何かあればまたコメントいただければ幸いです。 |
▼とうろうさん(38589): Ray@スタッフです。 スレッドのタイトルに個人名(ハンドル)を入れると、 該当の方との一対一のやりとりまたは その方に対する個人攻撃になりやすいので、 掲示板のルールには明記されていませんが スレッドタイトルに個人名を入れることは お控えください。 なお、この件に関するご意見は、私の書き込みへの 返信としてではなく、スタッフ連絡板にお書きください (総合掲示板に書かれたご意見には原則としてレスいたしません)。 よろしくお願いいたします。 |