Page 2252 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼読み書き算術・能力、学力低下の果ては?・3 とうろう 05/1/13(木) 21:05 ┣Re(1):読み書き算術・能力、学力低下の果ては?・3(2) とうろう 05/1/13(木) 21:10 ┃ ┗Re(2):読み書き算術・能力、学力低下の果ては?・3(2) オルトン 05/1/15(土) 0:13 ┃ ┗Re(3):読み書き算術・能力、学力低下の果ては?・3(2) 虎キチ大好き 05/1/16(日) 0:55 ┣> 【40133】Re(12):意欲を引き出し、学力を高めるには 虎キチ大好き 05/1/13(木) 22:44 ┗Re(1):読み書き算術・能力、学力低下の果ては?・3 北の老兵 05/1/14(金) 10:10 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 読み書き算術・能力、学力低下の果ては?・3 ■名前 : とうろう ■日付 : 05/1/13(木) 21:05 -------------------------------------------------------------------------
▼山本隆博さん: こんばんは。前のスレッドが満杯になったようで(3)を立て、レス致します。 早くにレス頂きながら遅くなりました。お詫びいたします。 私は教育の専門的なことが分からないので取りあえず「PISA調査」の要約を読み「IEAテスト」の何たるかをざっと斜め読みしました。新聞で「学力低下」と騒がれている原典の概要を知りました。これと「学校教育の現状」との関連は分かる由もありませんが、少し、感想を述べます。 また、レス【37517】に書いたことと重複するかもしれませんし、このスレッドで他の方が書かれていることとも重複する失礼も有ると思いますが、お許しください。 まず、PISA報告レジメ(概要)を見て感じたことは(2000年調査と2003年調査の比較から) 1.学力低下 :レジメでは有意差はないと言われていますが、得点の落ちた問題数が得点の上がった問題数より多いこと。 2.読解力低下:これなどはTV、漫画などに時間を費やし、本を読まない子供が増えたといわれる事から当然の帰結と感じます。 3.格差拡大 :以前教育関係のスレッドでも語られていましたが、地域間格差、学校間格差があることが証明?されたこと。 4.二極化 :高いレベルの生徒と低いレベルの生徒に二極化していること。(3.にも関係しますが) 5.リテラシー:実生活との関係に於いて学力、知識がどのように生かされているかあるいはどう関係付けるかという事と思いますが、この関係の意識が薄い(勉強は学校の成績だけのもの?との意識が強い) ここでフィンランドとの関係ですが、フィンランドは確かに全ての調査項目(読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシー、問題解決能力)に於いて、レベル2以上の生徒数が多いようで、これを「質」の向上と言っておられるのでしょうか。また、習熟度別をやっていないので「平等」と仰っているのでしょうか。 ただ、上のことが理由とすれば、フィンランドの「質の向上」と結論付けるのは少し「早急」かな、という感じを持ちます。と言いますのは、レベルの高い生徒が十分その能力に応じて学力を伸ばしているのかどうかがはっきり分からないからです。「質が高い」と言うことは、それぞれの生徒が「その能力に応じた最大限の学力・知識・技能」を身に付けることと考えるからです。 なお、フィンランドの教育には「ポイント」があると仰っていますが、その「ポイント」のご説明がないので私が誤解しているのかもしれません。 ここで遡って山本さんの最初の意見【39224】に戻り、弊感想を述べます。 これはあくまで私の幼児の経験、私が経験した「教育」を基にした感想に過ぎず、とても一般化、普遍化して言える事でなく、ある意味で、単に個別ケースからの感想に過ぎないかも知れません(人は己以外の人生、経験は出来ません故)。 >いろいろな掲示板を見ていて少し考えてほしいことがあります。日本の学力が落ちているとマスコミは書いてありますが、結果の冊子には日本の学力は「基礎学力」については問題ないを書いているそれより、「推論的思考」「批判的思考」が全くできないいわゆる「選択問題」でなく「自由筆記」においては、「空白」という結果が、ダントツで日本の1位が出た。つまり、日本の教育に「百マス計算」はいらない。 >今のままでも十分。言い過ぎれば、電卓でも十分。問題は、電卓に打ち込む計算式を組み立てる能力が、電卓を使いこなす能力が必要なのではないか… ここで「基礎学力は問題ない、百ます計算はいらない、言い過ぎれば電卓でも十分」と言っておられます。 (続く) |
(承前2) 基礎学力に問題があるかどうかは私には分かりませんが、私は、「ヒトと言う動物」即ち「人間」は未熟児で生まれ、その「脳力」は以後の教育(ここでは躾け、習慣づけ、人間の好奇心を育て、その能力の引き出し、という幅広い意味で言っております)に負うところ大と思っております。(犬もしっかりした躾けをしないと人の言うことは聞きません。人間の子と犬を一緒にするのかとお叱りがあるかも知れませんが)特に幼時の教育、脳の発達を図ることが必要で、ここで留意しなければならないことは「身体」と「知的能力、脳力」との関係と思います。 幼時の手指の使い方と脳の発達には相関があること、歳をとっても手指を使えば脳の老化を防げること、生理的な感情を司る脳の働きと知的な意思決定が大いに関連があること、脳は複雑なネットワークを構成するが相互に重層的に関連があり、例えば、目の機能が働かなくなっても(視覚が失われても)代わりに耳で(聴覚で)まぁいわばものが見えるようなること(補完機能がある)などなど、何方か仰ったように「心身一如」で発達するもので、適当な発達段階で脳は鍛えれば鍛えるほど充実するものと考えられます。 このような幼児の脳の発達に「脳と体」の関係を考慮に入れ、「読み書き算盤」は大いに意味のあることと考えます。「読み」は、発声器官、視覚、聴覚を刺激し、「書く」は、視覚と手指の運動機能を刺激し、「算盤」(百ます計算でも同じ)は、視覚、聴覚、手指の運動を刺激します。このように、視覚、聴覚、(触覚)、手指の運動、発声機能を、相互に同時に機能させることが脳の発達延いては能力の充実に、心の発達に?がるのではないかと思うものです。幼児、低学年教育の重要性と考えます。記憶なども、目で見て、口に出して読んで、書くことによりより強化されることは経験されることだと思います。このことも身体機能と脳の知的能力とに関係があることを証明しているものと思います。 以上のような意味から脳の発達の為には基礎教育段階では電卓を使うなどはもってのほかで「算盤」「百ます計算」などが有効と思うものです。 ある程度脳が発達し、自我が正しく形成され、自ら学ぶと言う意欲を持つような基礎が出来ると、自ら考え、自ら学び、自ら必要な知識を渉猟できるようになると思います。今は、ネット時代で簡単にいわば世界の知識を小学生でも入手できます。心が正しく形成されていない段階(知恵のない段階/情緒・身体・知識のバランスが取れていない)で知識ばかりが肥大したアンバランスな子供が育つ懼れがあり、知育(学力)偏重を排し、体育(食育)、徳育、自然教育、人間教育?なども充実すべきと思うものです。 尤も、現実の教育現場については何の経験も無くピントはずれかと思いますが、先のレスにも書きましたように「偏差値」重視で偏差値の高い生徒を育てる教師が高い評価を受けるような社会風潮、また、それに従う教育制度も大いに問題と感じる次第です。 子供の知的発達に沿った学習能力の把握と学習指導要綱などは科学的な裏づけを持ったものかどうか?多様な発達経過をたどるそれぞれの子供に適した指導法は如何?(早熟な子もいればまぁ遅塾な子もいる筈です)、飛び級採用などの習熟度別学習が何故いけないのか(優越感と劣等感を惹起するからか?)そのような弊害を無くすには「人間は多様で、能力差もある、しかし、学習能力で人の価値が決まるわけでない。社会は多様な人材を求めている」などを教育すれば良いのでは?子供の学習意欲を高め、個々の子供の能力を精一杯引き出すことこそが習熟度云々よりも重要な教育の目的ではないか?などなど「教育に関する疑問」は尽きません。 まとまりのない話になりましたが本スレッドをざっと眺めた感想でもあります。失礼します。 |
1.とうろうさん、北の老兵さんの意見に賛成。 2.虎キチ大好きさんの経験も、実態を見た者として共感する。 1.・・人間の生存適応はその後天的要因である「学習」に根ざします。 これは、生理学/学習心理学の見地からしても間違いなく言い切れます。 故に、生得プログラム的に固定的行動が生起する動物とは異なり 人間はその都度適応行動を学習により習得するということで、 「教育」が不可欠であるのでしょう。 高次元の行動習得は、より下位概念行動の要素結合により生まれると いえる実験結果があります。 ケーラーの実験である、チンパンジーの洞察学習が好例です。 実験BOXの中にチンパンジーを入れる。天井にはバナナが吊り下がっている。 部屋には幾つかの箱と棒が置かれている。 このバナナを取るためには、部屋にある箱を積み上げ、その箱によじ登り 棒を用いてバナナを取るという一連の行動が要求される。 チンパンジーは試行錯誤を重ねた後、瞬時にひらめいたかのように その一連の行動を取り、バナナを取るに至る。 が、ここで大事なのは、事前に「箱を積み上げる」「棒を用いて物を取る」 行動を習得/学習していなかったチンパンジーは 何度試行錯誤を重ねても、課題達成に必要な一連の行動の生起には 至らなかったといわれています。 これが、高次元の行動習得にあたっては、より下位概念の行動を習得し、 さらには要素結合化されるきっかけが必要になるのだという参考事例です。 霊長類は、生存適応を「学習」に根ざしている面が、他の動物より人間に近く、 その点からしても、人間の教育を考えるうえでの参考になると思います。 2.・・習熟度クラスの導入については、虎キチ大好きさんは どう思っていますか? 習熟度クラスの導入により「養護学級」は なくなるのでしょうか?? うーん。 |
▼オルトンさん: > >2.・・習熟度クラスの導入については、虎キチ大好きさんは > どう思っていますか? 習熟度クラスの導入により「養護学級」は > なくなるのでしょうか?? うーん。 ここで仰っている「養護学級」とは普通校の「特殊学級」ですか それとも「盲・ろう・養護学校」でしょうか? 仮に前者だとすれば無くなるかどうかは分かりませんがかなり特殊学級を減らせる事は間違いないです。 特殊学級で学ぶ生徒さんは私の様な肢体不自由から知的・精神障害、 目や耳の障害など一部を除き障害者と言うカテゴリーで一緒に特殊で学んでいる所が殆どですが、このうち肢体不自由の寝たきりや、重度知的等一部を除けば学校の設備等にもよりますが、学習内容の全部あるいは一部が一軍(普通学級)で能力的には通用すると思います。 そして養護学校へ初等教育段階から行かなければならないというのは 寝たきりや重度知的障害等普通学級の授業のカテゴリーの中では授業に入る パーツ(分野)が無いと判断した方、もしくはたんの吸引等「医療行為」が必要な方のみに限定出来ますから相当数養護学校の小中学部特に盲・ろう学校や 肢体不自由児養護の小中学部は減らせると読んでます。 もう一つ大事な事と言うか改革すべきと経験者として感じているのは、 地域社会(養護学校生徒)と普通校生徒との関わり方なんです。 私が現役の頃は県下に2校しか肢体不自由の養護が無く家からおよそ80km 離れている学校に就学し寄宿舎生活を6年間送り週末は帰省月曜日学校へ帰ると言う サイクルを6年間やっていたのですが今ではこの寄宿舎こそ普通校生徒との交流を妨げる「諸悪の根源」なんです。 元々寄宿舎と言うのは養護学校整備がまだまばらだった頃に遠方から入学してくる「通学不能」の生徒を受け入れる為の設備だったのですが私が住む三重を初め全国的に地区整備が進んだ結果、養護学校に於ける「通学不能地域」は離島等一部を除き解消されました、つまり存在意義を失っているんです、 そして自宅から通えば放課後多少でも普通校生徒と遊べる機会を作れるのにそれも出来ない。 そして存在意義を失っている寄宿舎が何故未だに全国で現存するかと言えば 寮の職員と言うのは県教委部局人事で当然ながら寮母兼教師や保育士資格を持った方がやってるんですが、寄宿舎を廃止すれば雇用問題が出てくるから「廃止」に踏み出せない訳です。 一方で教師や保育士資格を持っているんですから例えば普通校に於ける介助が必要な生徒さんに加配(先生を基準とは多く付ける事)や働く母親の増加で保育士は足りない訳ですからそこへ「配置転換」して人材の有効活用をしてほしいものです。 まず文部科学省が離島を学区にしている場合を除いて既存の寄宿舎を全廃目標年を定め全廃する事だと思います、 |
オルトンさん >養護学級という名称は、確かに卑下される印象が強い。 私が小・中学校の頃そういう実態がありました。 (普通学級の子として、バカにするなど) 確かにそう言うのもあるし養護学校の場合、私の様な普通校の普通学級経験者が中学部や高等部から養護学校に入る者と、小学部から「エレベーター方式」で入る者とが居ますが、生徒同士ですら俺は「普通学級経験者あいつには負けん」 みたいな意識はありました。。 |
【40255】学業とスポーツ両立について をこちらに移しておきます。 学業とスポーツの両立というテーマは、昔から議論されてきましたが、結論的に言えば、それはバランスの問題なのであろうが、ここで今一度考えてみたい。学業と真剣に、向かい合うことが、スポーツに熱心に取り組むことの弊害になるだろうか。逆に、スポーツに勢力を注ぎ込むことは、学業への決定的な障害になるだろうか。 よく考えてみると、学業とスポーツの両立の問題は、巧みに使い分けられているようね気もする。すなわち、肯定的に語られる場合は、模範的な努力を積み重ねることへの称賛として。逆に否定的に語られる場合は、困難を避けて通ることへの口実に。本来、学問とスポーツは対極に位置するのではなく、互いに補い合うもので無ければならないと思うのだが。 海外で活躍するイチロウや松井、少し前では江川、最近ではゴルフの宮里愛、ハンマー投げの室伏広治、女子アマレスの浜口京子のように、親子鷹と言われるように、幼少の頃からの英才教育によるものが多い。しかしこれは誰でも出来るものではなく、子供の持って生まれた才能によるものが多いのではないか。これを勘違いし、子供の才能をそっちのけに、将来の成功した姿だけを夢見て、無駄なお金を掛け学業を疎かにしているのは、スポーツに限らず芸能関係にも見られる。 「健全なる精神は、健全なる身体に宿る」これはローマの詩人ユベナリスの言葉で、私達が子供の頃から教えられた言葉である。詩人ユベナリスの本来の意味は、実は、「我は欲す、健康なる精神を健康なる身体に」という願いの言葉だったというのだ。だから、体を健康にしさえすれば、心も健康になるという意味ではない。健康な精神を得るためには、健康な体がなければならないし、健康な体のためには、健康な精神が必要であるということで、つまりは体と心がともに健康であることこそが、本当の健康といえるわけである。ユベナリスの詩の言っている意味はそういうことなのである。 仏教の一番大事な原理は"心と体は分けられない" ということであって、これを"色心不二"とか"物心一如"とか言っている。昔から「病は気から」と言っているが、近頃は"気のせい"で起こる病気が多くなって、これを治すには"心"から治してゆく必要があり、何処の病院にも「心療内科」があって文字通り"心"の治療に当たっている。 健康な身体でも「心の病」があるのです。体育会系の大学が不祥事を起こしたり、一流プロ選手が引退後に事件を起こす事もしばしばです。「健全なる精神は、健全なる身体に宿る」という言葉は、幻想である事を教育現場に立つ人たちは今一度認識するべきでしょう。 |