Page 1241 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼昭和16年12月8日(1) ごまめの翁 05/12/8(木) 10:27 ┣Re(1):昭和16年12月8日(2) ごまめの翁 05/12/8(木) 10:35 ┃ ┣Re(2):昭和16年12月8日(2) 昭和 人 05/12/8(木) 18:12 ┃ ┗Re(2):昭和16年12月8日(2) 傷痍軍人 05/12/11(日) 15:14 ┃ ┗Re(3):昭和16年12月8日(2) 安本単三 05/12/12(月) 15:29 ┣Re(1):昭和16年12月8日(1) 安本単三 05/12/12(月) 19:35 ┃ ┗Re(2):昭和16年12月8日(1) 傷痍軍人 05/12/13(火) 14:04 ┃ ┣Re(3):昭和16年12月8日(1) 安本単三 05/12/13(火) 16:05 ┃ ┗Re(3):昭和16年12月8日(1) 昭和 人 05/12/13(火) 18:13 ┗Re(1):昭和16年12月8日(1) 珍 源斎 05/12/13(火) 15:35 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 昭和16年12月8日(1) ■名前 : ごまめの翁 ■日付 : 05/12/8(木) 10:27 -------------------------------------------------------------------------
此れは護憲+に投稿したものです。 毎日、主要新聞の社説を保存しています。今年は朝日のみ12月8日についての社説だけでした。 私も時々12月8日に開戦の日の思いを書いていますので老人党にも書かせて頂きます。 今年も12月8日がやってました。 開戦してから65年、敗戦の詔勅を聞いてから61年、長い様な短いような、私も社会も此れ程、大きく変わった三分の二世紀でした。 朝がきて昼になり暗い夜中が貧富の格差はなく万遍にやってきます。そして一週間が過ぎ、一月経って、一年の年月が終わると、又、一秒から始まって一日が終わりになって一年が始まる、その宇宙の自然の摂理の中で、人間は、これの繰り返しで月日が流れていきます。 そして其の一生の中で、人それぞれの人生があり、悲喜交々な一生を終わるのです。 昭和16年12月8日、戦時を経験した人々は、人生の中で昭和16年12月8日と言う三万分のたった一日の開戦の詔勅で、運命が変わった人々、其の経験をされた方々は年が経つにつれ、一人去り二人去り、だんだん少なくなっていく。と云う事は,生の記憶メディアと云うか人間コンピューターが自然の摂理の中で削除されていくと言うことなのです。 沖縄やサイパンで自決に追い込まれ方々、東京や日本各地での無差別爆撃てなくなった人々、広島・長崎で核実験とも思われる無謀な原爆に遭われた方々。 それから私のように外地から引き上げた人たち。それも終戦時にいた場所によっては、言い切れないほどの苦労を味わっています。最後まで望郷の念を抱きながら見知らぬ凍土の中の土に帰られた人々。親の都合で置き去りにされた子供たち。 シベリアに抑留された軍人や亡くなられた兵隊さん。 また、赤紙一枚で家族と別れたまま,会うせを夢見て死んでいった兵隊さん。二十歳にも満たない若者が当時の教育がそうさせたと言う人も居るのだが,私も戦争が続いていたら、此れ等の先輩と同じことをしていたと思うので、空や海に消えた若者たちの心の中。其の辛い悲しい何年間の出来事がたった一日の詔勅と大本営発表で決まったのです。 其の一日が多くの日本人の人生を狂わした記念日が昭和16年12月8日。 戦争と云うものは彼我共々理屈はあります。しかし人間は何で殺したり殺されたりする戦争が好きなんでしょう。日本も世界に誇れる憲法9条を変える動きがあります。野党も今の自衛隊は9条にそぐわないから変えなければと言っています。そうだとすれば、憲法に合わせ自衛隊をなくせばいい。 私も歳です、あと何度12月8日を迎えるか分からない。だから今年から12月8日は開戦記念日でなく、護憲、反戦の記念日にします。そして8月15日は過去を反省する記念日にしようと思います。 |
追伸(PSと書きたいのですが私は日本人だからやめておきます) これを書いている12月5日、首相は防衛庁を省に格上げするという。いよいよ牙を剥いてきました。 評論家や民主党の政治家も若し軍になっても徴兵制には絶対にならないという。その証拠に現在でも自衛隊は定員不足だそうな。 だが此れは平時の話、戦争に巻き込まれるとそうはいかないことを知っているのでしょうか。 昔の兵隊は強かったといいます。確かに何年も訓練して練度の高かった兵は強かったでしょう。しかし赤紙一枚で半年ほど訓練した兵が強いはずはない。科学戦でもそれなれの知識の習得に訓練は必要だろう。しかし半年位訓練ではおぼつかないのではないでしょうか。 昔の話です。会戦当時の零戦や隼の戦闘機乗りは強かったと云うはなしを聞きます。たしか彼たちは強かったと思います。 昔,朝鮮の元山海軍飛行基地があり、毎日毎日の訓練、訓練中の事故などを見ていると凄いと思った。貴方は訓練中の戦闘機同士の衝突を見たことは無いでしょう。二機の戦闘機の機体がバラバラになり其の破片がひらひらと落下する、その状況は目に焼き付いて消えません。二人の命が散ってしまったのです。其れ程訓練をするのですから強かったのは当たり前。しかし戦争は消耗戦、消耗するに従って訓練不足の戦士が増えると被害も増えてきたと聞いている当たり前のことです。これは人間ばかりでなく物資にも云える事で物資も消耗し補給できなければ無くなります。 戦争は高性能の武器があっても戦えません。朝日の社説にも有る様に、明治・大正・昭和は、外国に追い付け追い越せと国家は其れに全力を注いでいたが、物資のない日本は現在と同様輸入に頼るしかない。其れが途絶えては戦争ができない状況にあって開戦したのだから、物資調達のため無理な作戦を強いられ、アジアの国々に迷惑をかけたのだと思います。 現在を考えても輸入が途絶えると、多くの国民がどうなるか。考えてみたことが有りますか。生産能力があっても原材料がなければ生産はできません。食べ物自給率が人口の3分の1では3分の2の人が餓死します。戦時中、腹ぺこを経験している男は日本は戦争ができる国ではないと思っているのです。 人それぞれ考え方が違います、だから私と全く違う方もいらっしゃるでしょう。しかし私は過去の経験から戦争の出来ない国家が軍隊を持つのは基本的に間違っていると感じている一人です。 だから9条は大切にしたいのです。 昔の道の迷い道、いばらの道と,ぬかる道、 其れとも 明るく野の草花の咲いた道を歩くか、これは戦争を知らない世代の日本人が今後を選択するでしょう。絶対に間違った道には迷い込まないでほしい。 平成17年12月8日 記。 |
▼ごまめの翁さん: > > > 昔の話です。会戦当時の零戦や隼の戦闘機乗りは強かったと云うはなしを聞きます。たしか彼たちは強かったと思います。 > 昔,朝鮮の元山海軍飛行基地があり、毎日毎日の訓練、訓練中の事故などを見ていると凄いと思った。貴方は訓練中の戦闘機同士の衝突を見たことは無いでしょう。二機の戦闘機の機体がバラバラになり其の破片がひらひらと落下する、その状況は目に焼き付いて消えません。二人の命が散ってしまったのです。其れ程訓練をするのですから強かったのは当たり前。しかし戦争は消耗戦、消耗するに従って訓練不足の戦士が増えると被害も増えてきたと聞いている当たり前のことです。これは人間ばかりでなく物資にも云える事で物資も消耗し補給できなければ無くなります。 > > 戦争は高性能の武器があっても戦えません。朝日の社説にも有る様に、明治・大正・昭和は、外国に追い付け追い越せと国家は其れに全力を注いでいたが、物資のない日本は現在と同様輸入に頼るしかない。其れが途絶えては戦争ができない状況にあって開戦したのだから、物資調達のため無理な作戦を強いられ、アジアの国々に迷惑をかけたのだと思います。 > 現在を考えても輸入が途絶えると、多くの国民がどうなるか。考えてみたことが有りますか。生産能力があっても原材料がなければ生産はできません。食べ物自給率が人口の3分の1では3分の2の人が餓死します。戦時中、腹ぺこを経験している男は日本は戦争ができる国ではないと思っているのです。 > > 人それぞれ考え方が違います、だから私と全く違う方もいらっしゃるでしょう。しかし私は過去の経験から戦争の出来ない国家が軍隊を持つのは基本的に間違っていると感じている一人です。 > > だから9条は大切にしたいのです。 > > 昔の道の迷い道、いばらの道と,ぬかる道、 >其れとも > 明るく野の草花の咲いた道を歩くか、これは戦争を知らない世代の日本人が今後を選択するでしょう。絶対に間違った道には迷い込まないでほしい。 > > 平成17年12月8日 記。 同感です。 私は、64年前、小学校4年生でした。 あの日のことは、うろ覚えですが、だんだん想いだしてきます。 ラジオで軍艦マーチの前奏で大本営発表、真珠湾の大戦果が発表されて、興奮したことを覚えている。 何日か後に、夜の小学校の校庭で、ニュース映画で、アメリカの軍艦が日本の飛行機攻撃でやられているのを見た。 当時は、たしか、週1回くらいは、こうして、小学校の庭でニュース映画を見ていたと思う。(先日、流水さんが美空ひばりを見たことー終戦後をかいていたが、戦時中は、ニュース映画が主であった。) マレー半島での、シンガポールへ向かう勇ましい軍隊の姿が今でも、覚えている。 みんな、攻撃のクライマックスの画面では拍手喝采して、楽しんだものだった。 この頃は、未だ、食べ物も十分あった。 ゴムがなかったので、17年に入り戦勝占領が進み、ゴムまりが配給になって嬉しかった覚えがある。 わずか4年後昭和20年の8月終戦のときが来るとは、誰も想像しなかったと思う。 育ち盛り、教育最中の4年間と、戦後の10年間くらいの青少年時代を振り返って書けない、重い想いが沸いてくる。 最後は、ごまめの翁さんと、同じ気分になってしまう。 私らの護憲9条の想いは理屈ではない。 せめて、今日、記念となる日には、改めて、覚えたい。 戦争と空襲のない平和のありがたさを、噛み締めて。 護憲9条で、頑張りたい。 孫たちの、世代のために。 |
開戦のとき私は上海に居ました早朝もの凄い轟音に 眼が覚めました。それは揚子江に停留していました フランスの貨客船が自爆したのです。私はそれを聞き 見に行きましたところ船首に大きな穴が明きすでに 中国人が住居にしたり生活(船首に明いた穴から) しているのには,びっくりしました。 その後アッツ島が玉砕しますと近所に住んでいる 中国人が私に向かって首に手をやる動作を見せ つまり日本人は殺されるから早く帰った方が良い と知らせたっかったのでしょう。 その後上海も空襲警報が出され近くの中国人が 夜空に懐中電灯で米軍の飛行機に知らせ、その都度 日本の憲兵隊が捜索していました。 |
▼傷痍軍人さん: >開戦のとき私は上海に居ました早朝もの凄い轟音に >眼が覚めました。それは揚子江に停留していました >フランスの貨客船が自爆したのです。私はそれを聞き >見に行きましたところ船首に大きな穴が明きすでに >中国人が住居にしたり生活(船首に明いた穴から) >しているのには,びっくりしました。 > >その後アッツ島が玉砕しますと近所に住んでいる >中国人が私に向かって首に手をやる動作を見せ >つまり日本人は殺されるから早く帰った方が良い >と知らせたっかったのでしょう。 > >その後上海も空襲警報が出され近くの中国人が >夜空に懐中電灯で米軍の飛行機に知らせ、その都度 >日本の憲兵隊が捜索していました。 私は昭和16年産まれで、19年、父に赤紙。20年は、田舎=実家に疎開していました。山の谷間から岡山大空襲を見たのが唯一の戦争経験で、小学校入学はマッカーサー時代でした。 傷痍軍人さんというと、片足を失い、白衣・戦闘帽、アコーデオンを手に街角に立ち「今日も暮れゆく異国の丘に・・・・」歌っていたのが今も忘れられません。 子供心に戦争って悲惨だと思いました。 |
ごまめの翁さん 私は、なかにし礼の「赤い月」をテレビで見ました。 一番腹がたったのは、日本の軍人のほうが邦人を残して先に引き揚げてしまうところでした。 それと司馬遼太郎の「ひっ殺してゆけ」です。 ・・・・私の戦車第一連隊は戦争の末期、満州から帰ってきて、北関東にいた。東京湾や相模湾に敵が上陸すれば出撃する任務をもたされていたが、もし敵が上陸したとして、「われわれが急ぎ南下する、そこへ東京都民が大八車に家財を積んで北へ逃げてくる。途中交通が混雑する。この場合はどうすればよろしいのでありますか」と質問すると、大本営からきた少佐参謀が、「軍の作戦が先行する。国家のためである。ひっ殺してゆけ」といった。(歴史の中の日本より引用)・・・・・ 司馬遼太郎は、国民を守ることを第一としない軍隊とは何かと嘆いています。 こういう文章に出くわすのが遅かったです。私の受けた教育は戦前の軍隊はただ悪かっただけです。 ここまでひどかったとは思いませんでした。 これが、ごまめの翁さんの非軍事思想の原点と理解しました。 |
安本さん こんにちは 開戦の年に上海に来ましたが驚いたのは犬が中国人の子どもの死体を くわえて歩いているのを何度も見ました。そのことを中国人に聞くと 親より先に死ぬのは親不孝だからとの事でした。 近くに公園がありまして毎朝ラジオ体操などしましたが何人かの中国の子供も 参加していましたその時の光景が忘れません体操の前に我々日本人は最初に 東にあります宮城にに向かって最敬礼するのですが、中国人の子供は逆の方向 つまり蒋介石のいる重慶に向かって最敬礼していました。 ある時毎朝ラジオ体操を指導していました町会の大人の人が居ないのに 気づき聞きましたところ昨夜テロ(便宜兵)に撃たれ亡くなったとの事でした。 上海にありました日本の映画館当時多くありましたがテロによる時限爆弾 でかなり被害がでました。又公園の中にはチフス菌など入れたリンゴや菓子 などばらまかれており、今思うとぞっとします。 |
▼傷痍軍人さん: >近くに公園がありまして毎朝ラジオ体操などしましたが何人かの中国の子供も >参加していましたその時の光景が忘れません体操の前に我々日本人は最初に >東にあります宮城にに向かって最敬礼するのですが、中国人の子供は逆の方向 >つまり蒋介石のいる重慶に向かって最敬礼していました。 中国人の抵抗ですね。そういう話はなかなか日本で聞けません。 >ある時毎朝ラジオ体操を指導していました町会の大人の人が居ないのに >気づき聞きましたところ昨夜テロ(便宜兵)に撃たれ亡くなったとの事でした。 > >上海にありました日本の映画館当時多くありましたがテロによる時限爆弾 >でかなり被害がでました。又公園の中にはチフス菌など入れたリンゴや菓子 >などばらまかれており、今思うとぞっとします。 私の父親の軍歴を見ると、昭和19年、中支で2回戦闘に従事す。となっています。機関銃兵でした。酒好きで鼻が利くので、酒の調達係をしていたらしいのですが、調達=略奪ですからね。もっとワルは中国の婦女子に・・・。 幸い昭和21年に復員しましたが、負けると分かっている戦争にかりだされ加害者となったことが死ぬまで心の重荷になっていたようです。父は中国は中国人の領土で、中国人を対等の人間だと思っていたと言っていました。しかし、戦闘では撃たなければ撃たれるわけですから。人間を石ころと思わなければならない。 |
傷痍軍人さん ROMしていました。 あなたの戦争中の上海での体験実話は大変、貴重です。 この老人党掲示板で、是非、想いだすまま、書いて、聞かせ、読ませてください。 できれば、8月の終戦直後の お話なども。 戦争は、悲惨であり、悪であり、2度と繰り返すことのないように。 |
昭和16年12月8日に日本はアメリカに戦端を開けるような 状態では無かったとする。当時の情勢を情報関係を知る人によると 一様に云われる満鉄の調査部(日本版CIA)や海軍筋や軍部の上層部にも 存在したことが知られてる。 優秀であった日本の軍隊もその最も精鋭とされる兵力はノモンハン事件や 支那事変と云われた中国との戦争にてその主力とする現役志願兵の多くを 既に失ってたとも云われてる。後の一般人を中心とする招集兵では 不足する志気を高める為に相当の無理をしたと聞いている。 人を殺傷する経験の無い一般兵に残虐な殺戮を強いるなど・・。 「ヒットラー・ドイツ」「ムッソリーニ・イタリー」 「日本」の三国同盟も1941念2月8日にはヨーロッパ東部戦線の ソヴエト連邦スターリングラードへ攻め込んだドイツ軍は大敗北を 期し、敗退への歩みを早めることになり、 イタリーもムッソリーニが倒されて連合国に早々と降伏したことも 加わり日本は一国で世界を相手に戦わねばならぬ状態が目に見えてた。 それらの情報は日本に届いてたはずなのに・それが活かされることは 無かった。ネガテイブな情報は活用されないと云うのが日本的な 背景がある。「不利な情報はガセネタとして扱われる傾向」 更に話を進めると、戦果を正当に評価しないままの夜襲切り込み 攻撃、神風特別攻撃隊の戦果も殆ど客観的に評価が可能な状態で 無かった。只今日は何機出撃させる、明日は何機出撃させるなどの 机上でのルーチンワークのような形で多くの若者を還らぬ飛行へ 送り出した・と云う。 アメリカ軍はレイテ戦の以後では主力艦船にはVT信管を取り付けた 砲弾を発射できる高射機関砲・別称スカイスイーパー「空の掃除機」 と云われたモノが配備されて航空機の艦船攻撃を徹底防御する効果を 高めた、特攻機は体当たりの前に操縦士や機体が重大な損傷を受けて 墜落して攻撃力として機能しなかったと・云われてる。このくだりは 実際に特攻隊の生き残りの方から直々に伺った話であるが、 彼のお方は学徒兵ではなく生粋の海軍のパイロットであり空中戦が 出来る技能を有してたコトと学徒飛行兵を訓練する立場にあったので 特攻攻撃への出陣は延ばされたとのこと、しかしながらあと2〜3日 終戦が遅くなれば特攻攻撃に参加することになったそうである。 國民がそして國の指導者が理性を失えば怖ろしいことになる。 昭和16年12月8日に至った歴史の一コマ、一コマにはその狂気への 道筋があったと記憶されており、その教訓を反面教師として学ばねば ならぬことは現在にも通じてる。 |