過去ログ

                                Page    1520
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   通常モードに戻る  ┃  INDEX  ┃  ≪前へ  │  次へ≫   
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ▼太鼓の響き!  流水 06/2/8(水) 13:28
   ┣Re(1):太鼓の響き!  石頭の息子 06/2/8(水) 23:31
   ┃  ┣Re(2):太鼓の響き!  ウミサチヒコ 06/2/9(木) 6:55
   ┃  ┃  ┣Re(3):太鼓の響き!  石頭の息子 06/2/9(木) 11:20
   ┃  ┃  ┃  ┗Re(4):太鼓の響き!  ウミサチヒコ 06/2/9(木) 11:43
   ┃  ┃  ┃     ┗Re(5):太鼓の響き!  石頭の息子 06/2/9(木) 11:58
   ┃  ┃  ┗Re(3):太鼓の響き!  流水 06/2/9(木) 11:37
   ┃  ┗Re(2):太鼓の響き!  流水 06/2/9(木) 11:05
   ┃     ┗Re(3):太鼓の響き!  石頭の息子 06/2/9(木) 11:33
   ┣Re(1):太鼓の響き!  安本単三 06/2/9(木) 11:00
   ┃  ┗Re(2):太鼓の響き!  流水 06/2/9(木) 11:44
   ┣Re(1):太鼓の響き!  ぎみゆら 06/2/10(金) 20:02
   ┃  ┗Re(2):太鼓の響き!  流水 06/2/10(金) 23:28
   ┃     ┣Re(3):太鼓の響き!  チャトラ 06/2/11(土) 11:39
   ┃     ┃  ┗Re(4):太鼓の響き!  流水 06/2/11(土) 12:02
   ┃     ┃     ┗Re(5):太鼓の響き!  チャトラ 06/2/11(土) 14:35
   ┃     ┃        ┣Re(6):太鼓の響き!  流水 06/2/11(土) 16:38
   ┃     ┃        ┣Re(6):太鼓の響き!  チャトラ 06/2/11(土) 17:53
   ┃     ┃        ┃  ┗Re(7):太鼓の響き!  チャトラ 06/2/11(土) 22:11
   ┃     ┃        ┃     ┗Re(8):太鼓の響き!  ウミサチヒコ 06/2/12(日) 6:25
   ┃     ┃        ┃        ┗Re(9):太鼓の響き!  チャトラ 06/2/12(日) 14:56
   ┃     ┃        ┃           ┣Re(10):太鼓の響き!  ウミサチヒコ 06/2/12(日) 15:30
   ┃     ┃        ┃           ┗Re(10):太鼓の響き!  チャトラ 06/2/12(日) 16:50
   ┃     ┃        ┃              ┗Re(11):太鼓の響き!  チャトラ 06/2/14(火) 1:09
   ┃     ┃        ┗Re(6):太鼓の響き!  流水 06/2/14(火) 11:41
   ┃     ┃           ┣Re(7):太鼓の響き!  ぎみゆら 06/2/15(水) 20:23
   ┃     ┃           ┃  ┗Re(8):太鼓の響き!  流水 06/2/17(金) 13:29
   ┃     ┃           ┃     ┗Re(9):太鼓の響き!  団塊党 06/2/19(日) 19:29
   ┃     ┃           ┃        ┗Re(10):太鼓の響き!  流水 06/2/19(日) 21:39
   ┃     ┃           ┃           ┗Re(11):太鼓の響き!  ぎみゆら 06/2/24(金) 11:58
   ┃     ┃           ┗Re(7):太鼓の響き!  チャトラ 06/2/15(水) 22:51
   ┃     ┗「自然がお師匠」という物事の見方 1  ぎみゆら 06/2/11(土) 20:11
   ┃        ┗「自然がお師匠」という物事の見方 2  ぎみゆら 06/2/11(土) 20:32
   ┃           ┗Re(1):「自然がお師匠」という物事の見方 2  流水 06/2/12(日) 11:36
   ┃              ┣Re(2):「自然がお師匠」という物事の見方 2  安本単三 06/2/12(日) 14:51
   ┃              ┃  ┗Re(3):「自然がお師匠」という物事の見方 2  流水 06/2/13(月) 21:32
   ┃              ┗Re(2):「自然がお師匠」という物事の見方 2  ぎみゆら 06/2/12(日) 20:36
   ┣Re(1):戦争を笑い飛ばせ(1)  流水 06/2/11(土) 12:36
   ┗Re(1):戦争を笑い飛ばせ(2)  流水 06/2/11(土) 12:59
      ┗Re(2):戦争を笑い飛ばせ(2);訂正  流水 06/2/11(土) 15:17

 ───────────────────────────────────────
 ■題名 : 太鼓の響き!
 ■名前 : 流水
 ■日付 : 06/2/8(水) 13:28
 -------------------------------------------------------------------------
   わたしは、和太鼓の響きが好きだ。
ドーン、ドーンと腹に響くあの音を聞くと、魂が揺り動かされる。
わたしが太鼓の音に魅せられたのは、母の実家の秋祭りの【神楽】
を見たときが最初だった。
母の実家の地域の【神楽】は、夜、山の中にある神社で行われるが、神社に
着くまでの道のりが怖い。
暗闇の中で山道を歩くと、さまざまな音が聞こえてくる。ざわざわ、という木々の
音。ビューという風の音。時折、バアーと飛び立つ鳥の音。(当時、雉などがたくさんいた)幼いわたしには、夜の山は、物の怪が住んでいる別世界のように思えた。母の手をしっかり握って、この恐怖に耐えて、一時間近く(わたしには無限に思えた)歩いていくと、暗闇の向こうから太鼓の音が聞こえてくる。最初はかすかに、じょじょに大きくなっていく太鼓の響きが、何か新しい世界を開いてくれるような気持ちを誘ったことを鮮明に記憶している。

わたしたちの地方の神楽は、神主の叩く太鼓の音に合わせて踊る。日本の撥でつむぎだされる音はきわめて単純なリズムだが、不思議に人々の心を揺り動かす。
神社の周りで焚かれている篝火のはぜる音、漆黒の闇につつまれている周囲の山々、それに反して煌々とした灯りにつつまれた舞台。そして、闇に吸い込まれるように響く太鼓の響き。そして、どこから集まったのか分からない人々のざわめき。太鼓の響きは、このような記憶を一瞬にして呼び戻す摩訶不思議な力を持っている。これは、音楽のもつ力と共通するものがある。

しかし、音楽の持つ記憶を喚起する力は、ある種の【人間的経験】を必要とする。
阿久悠論でも書いたが、その時代を生きた共通の記憶が彼の凄さを再認識させる、という側面がある。それに反して、太鼓の持つ力は、もっと原初的で、人間の本能に直接働きかけるところがある。
だから、物心つくかつかないかの幼い時代の記憶が鮮明に蘇るのだろう。

林英哲という和太鼓奏者がいる。もう数年前になるが、彼がベルリンフィルと共演した映像を見たことがある。
そのとき、ベルリンフィルの指揮者が彼の太鼓を評して、【腹に響く音】といい、【キリスト教音楽の影響下にあった西欧音楽にはない全く異質な音楽との出会いだ】と語っていたのを記憶している。
【風神・雷神】という曲目を演奏し終わった時、観客は総立ちで拍手の音が鳴り終わらなかった。【風神・雷神】という名前は、俵屋送達の名前とともに記憶されている人も多いだろうが、日本民衆の原始的宗教観に根ざしたものである。
林英哲の成功は、文化論的にいうならば、【キリスト教的文化】と【原始宗教的文化】の融合の成功だったといえるかもしれない。
その要因は、林の卓越した力量に負うところが大であるが、現代というボーダレスな時代の要因も無視できない。

翻って日本である。今や、日本人の国際性が急速に失われつつある、という説がある。その代表が、小泉政権のアジア外交であろう。
バブル全盛時代以降、日本人の海外渡航の数は飛躍的に増加した。この時代を総括すると、明治以来日本人に根強くあった【外国幻想】から解放されたということであろう。その結果、海外渡航経験者や海外暮らし経験者たちの日本は素晴らしいという【日本回帰現象】が起こった。ところが、バブル崩壊以降、この【日本回帰現象】が【日本独善主義】へと変化しつつある。政治的に言えば、世界的なナショナリズム復興傾向に応じた日本型国家優先思考への回帰現象として表現されている。

しかし、ムハンマド風刺画事件に見られるように、時代はますますボーダレスになっている。
林の成功に学ぶとするならば、【異質なもの】から学ぶ、というベルリンフィルの指揮者、観客の感性こそ学ばなければならない。
同時に、和太鼓という日本的楽器をベルリンフィルという世界標準に適合させる努力を行った林の姿勢を学ぶべきであろう。
彼の文字通り【Think Glovary Act Locary】の実践姿勢こそ本当の意味での文化的伝統を大切にする姿勢だろうと思う。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):太鼓の響き!  ■名前 : 石頭の息子  ■日付 : 06/2/8(水) 23:31  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん、

和太鼓の推考が「原始宗教的文化」から「Think Glovary Act Locary」にまで至るのを興味深く読ませていただきました。

同じ打楽器ではないかもしれませんが、芝居や講談に使ってる「拍子木」に思い出があります。

終戦後に観た無声映画(銀幕ならぬ木綿布だった)で、活弁独りが淡々と語るものでした、題名は「無法松の一生」、阪妻だったような記憶があるのですが、三味線やバイオリンなどはなかったが、拍子木を「パーン」と鳴らすのです、それで場面の変わり目を見事に切り替えるのです。

後年ラジオやテレビで講談を聞いた時も同じようにこの拍子木で語りの場面の表現をするさまは見事でした、噺を盛り上げる時は強く「パッパンパンパン」あるいは次第に盛り上げていく時は徐々に音を上げていく、極めつけは「パーン」と一叩きして場面の切り替えをする、あるいはざわめく客を黙らせ一瞬にして注目させる。

この「一叩き」で観衆の頭、思考止めてたり場面の切り替えをする技は素晴らしい、はたしてこれは日本人だけに通ずる技なのか、外国に同じようなものがあるかどうか知りませんから、外国人にも同じような思考の転回をさせられるものか。

打楽器が原始宗教と切り離せないのは世界のどの地域にも見られるものです、だが拍子木のような道具で人の思考を瞬時に切り替えるものがあるのでしょうか。

色々な日本の楽器(笙、琵琶、三味線等)、大陸から来たかどうかは別として、が海外で演奏されて評価されているようですが、この「拍子木」の素晴らしさも知って欲しいものです。

歌舞伎の海外公演などで日本文化が理解されているようですが、そこに使われている拍子木が注目されたような話は聞いた事がないのは私だけでしょうか。

例えばシェークスピア劇に拍子木なんて発想はないものでしょうか、もし実現すれば拍子木の真価が理解されると思います。

一切れの木の棒だが、拍子木は日本の演劇文化の粋の一つであると思うのです、日本人の緻密で繊細な感性がそこにあります。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):太鼓の響き!  ■名前 : ウミサチヒコ <movement@me.scn-net.ne.jp>  ■日付 : 06/2/9(木) 6:55  -------------------------------------------------------------------------
   お邪魔します。
英語綴りとしては、Globally, Locally なんだと思いますが、「Think Glovary Act Locary」、これピンとくるフレーズです。

日本人が生まれ育った土地に誇りを持つということは、私にもあることです。それは自己の合理化という心理があるのかもしれませんが、チマチマゴチャゴチャとした日本文化は、外国人と同じ視線で見たとき、ほほえましくもあり、驚嘆でもあります。
日本列島は、中緯度にあるため四季があり、背骨としての山脈・屏風が地球の水分を十分受け取ります。ここから縄文以来、列島はいろいろな民族を惹き付けて来たのでしょう。古代中国すら倭国(ワコク=イコク=邪馬壱国=邪馬台国)を同盟国と見なしてきました(古田武彦解説、三国志・魏志倭人伝より)。
倭国は韓国系政権であるという見方もありますが、いづれにせよ、この地に中国朝鮮と並ぶ文明が古くから存在し、今日があるわけです。しかし、それは現在から見た歴史観であることに変わりはありません。似たような環境にありながら、マヤ・インカがなぜ滅びたか、歴史には理論でないところの、めぐり合わせというものがあるようです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):太鼓の響き!  ■名前 : 石頭の息子  ■日付 : 06/2/9(木) 11:20  -------------------------------------------------------------------------
   ウミサチヒコさん,

確かに日本人は英語の rとl, v とb の発音が不得手なのでよく間違えます、現役時代にもよくやりました、でも英語圏の人は何故か正しく理解してくれるのが不思議でした。

閑話休題

また話が横道にそれて来たようで、流水さんの話は日本人はどこから?じゃなくて、和太鼓の響きから流水さんの追憶の喚起を語り、そして【キリスト教的文化】と【原始宗教的文化】の融合がボーダレスの時代の要因であると。

さらに、日本人の国際性が急速に失われつつあり【日本回帰現象】が【日本独善主義】となっていると危惧しています。

話の落ち着くところとして、ベルリンの「異質な(文化)ものから学ぶ感性」から学ばなければならないと、そこで Think Globally Act Locally、つまり文化伝統を大切にしなければならないと。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):太鼓の響き!  ■名前 : ウミサチヒコ <movement@me.scn-net.ne.jp>  ■日付 : 06/2/9(木) 11:43  -------------------------------------------------------------------------
   ▼石頭の息子さん:
>ウミサチヒコさん,
>
>確かに日本人は英語の rとl, v とb の発音が不得手なのでよく間違えます、現役時代にもよくやりました、でも英語圏の人は何故か正しく理解してくれるのが不思議でした。

そうです。RとL、BとVは、ほとんど気にせずしゃべっています。名詞の時は結構気にしていますが、普段は無頓着です。アジア英語、日本英語でいいんではないでしょうか。中井貴一の英語、小泉の英語なんて、ほとんど聞いていられないくらいですが、(私よりはうまい)。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):太鼓の響き!  ■名前 : 石頭の息子  ■日付 : 06/2/9(木) 11:58  -------------------------------------------------------------------------
   ウミサチヒコさん、

神戸にパルモア学院という英語の学校があります、昔そこでABCを習っていた時にこの r&l、b&v は英語圏の教師から唇の動きを徹底的に教えられました、それでも受講生の何人が会得したか疑問です、さほどに日本人には英語発音は難しい。

家内は英文科卒で、私の英語を鼻の先で笑っていました、そんな英語で仕事が出来ているのが不思議だと、、そこで引退前に海外の同僚にGoodbyを言うために家内同伴で渡航しました、そこでやっと家内は私の英語でも通じると納得してくれました。

日本人は完璧な英語をしゃべろうとします、完璧な英語なんてありません、ロンドンの下町英語なら完璧でしょうが、地球儀でみれば「点」ですよ、リバプールの英語は英語じゃないと思っています。

引退した今ではもう英語は要らない、こんなに英語が忘れられるとは思わなかった。なのに老母は今も国の言葉と日本語の完璧なバイリンガルです、やはり言葉は環境でしょうかね。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):太鼓の響き!  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/9(木) 11:37  -------------------------------------------------------------------------
   ウミサチヒコさん、
英語のスペル、間違っていました。久しく英語など書かないので、見事な
間違いをしてしまいました。年はとりたくないものです。

それはさておき、なぜ【太鼓の響き】という題名をつけたかというと、
ドイツ映画【ブリキの太鼓】を思い出したからです。
この映画の詳細は、こちらを見てください。
http://www.ne.jp/asahi/celtic/quilt/m-collection/ha/hu/dieble.html
林英哲が共演したのが、ベルリンフィル。【ブリキの太鼓】はドイツ映画。
彼我の感性の違いが比較できるのではないか、と思ったからです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):太鼓の響き!  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/9(木) 11:05  -------------------------------------------------------------------------
   石頭の息子さん、

拍子木でシエークスピア。これ、素晴らしいですね。
新劇の演出家に聞かせてやりたいですね。
活弁もそうですが、芝居での拍子木、これは心地よいものですね。
わたしの田舎はそれこそ娯楽のないところでしたので、年に1,2
回どさ周りの劇団がやってくると、それこそ村を挙げて見にいったものです。
それも時代劇でよく見る、河原にむしろで小屋がけしたものです。
文字通り、河原者の世界でした。
この田舎芝居でも、拍子木の役割は重要で、見栄を切る場面、たたらを踏んで
退場する場面、挨拶の場面など、いたるところで拍子木が打たれていました。

わたしも拍子木を打った記憶があります。わたしの田舎では、12月冬休みに
入ると、小学生(4・5・6年)が夜、町を巡って、【火の用心】を呼びかける
決まりがありました。
このとき、拍子木を打つて【火の用心】【火の用心】と連呼するのですが、
拍子木の乾いた音が冬の夜の空気に鳴り響いて、心地よいのです。
拍子木で良い音を出すためには、日本の木をきちんときれいに合わせなければ
ならないのですが、良い音を出そうと練習したものです。

太鼓もそうですが、このような単純な音が、生活の中にメリハリを与えていたのが、過去の日本人の生活だったのかもしれません。
こういう身近なところから、もう一度日本人というものを考え直す必要があるのでしょう。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):太鼓の響き!  ■名前 : 石頭の息子  ■日付 : 06/2/9(木) 11:33  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん、

そー言えば、「半ドン」も太鼓でしたね、時刻も明け六つから暮れ六つまでが仕事時間でした、つまり日の出から日没まで。

あの時刻の太鼓はなぜ「四つ」から「九つ」なんでしょうかね、一つや二つでは聞き逃すからでしょうか?

私の住んでいる団地でも、火の用心の夜回りで拍子木、春の祭りで太鼓が使われています。

太鼓も拍子木も慣れないと翌日は腕や手が張れてしまいます、軟弱になりました。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):太鼓の響き!  ■名前 : 安本単三  ■日付 : 06/2/9(木) 11:00  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:
>わたしは、和太鼓の響きが好きだ。
>ドーン、ドーンと腹に響くあの音を聞くと、魂が揺り動かされる。
>わたしが太鼓の音に魅せられたのは、母の実家の秋祭りの【神楽】
>を見たときが最初だった。

私も生家で出雲神楽を見・聴いたのが和太鼓に接した最初でした。
ドドンドドンドンッドドドン・・・腹に沁みました。
このリズムは、後の音楽教育で出てきませんでした。
ところが19才頃になってフラメンコを始めて聴いたとき、
そっくりなリズムが出て来たのです。
以来、出雲神楽はシルクロードと繋がっていると勝手に思いこむようになりました。

日本的でかつ世界に通用する他の例として津軽三味線なども挙げられます。
文化交流は成功を重ねて来ているのに、政治が邪魔をしている状況は何としても変えねばなりません。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):太鼓の響き!  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/9(木) 11:44  -------------------------------------------------------------------------
   ▼安本単三さん:
>私も生家で出雲神楽を見・聴いたのが和太鼓に接した最初でした。
>ドドンドドンドンッドドドン・・・腹に沁みました。
>このリズムは、後の音楽教育で出てきませんでした。
>ところが19才頃になってフラメンコを始めて聴いたとき、
>そっくりなリズムが出て来たのです。
>以来、出雲神楽はシルクロードと繋がっていると勝手に思いこむようになりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そういえば、ジプシーはアーリア人種ですね。明らかにアジア系人種です。
以外に勝手な思い込みではないかもしれませんよ。
>
>日本的でかつ世界に通用する他の例として津軽三味線なども挙げられます。
>文化交流は成功を重ねて来ているのに、政治が邪魔をしている状況は何としても変えねばなりません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
政治家どもの了見の狭さにはあきれ果てます。インドのネール首相の爪の垢でも
煎じて飲んだらどうだい、といいたくなりますね。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):太鼓の響き!  ■名前 : ぎみゆら  ■日付 : 06/2/10(金) 20:02  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん、こんにちは。


書いてくださったことから、二つ、思ったことがあります。

一つは、たしか流水さんが以前書かれたことだったと思いますが、
「ナショナルをどんどん掘り下げていくとインターナショナルに
なる」といったこと。

すごく簡単に言い切ってしまうと、最近見かける「新国家主義」者、
「新国粋主義」者みたいなの、ここの掲示板にもチョロチョロ見え
てるのなんぞは、そんなこと、ひとっかけらもわかってないなと、
そんなことをあらためて感じます。

「日本のよさ」なんて、ひとつも、一度も、体感したもことがない
ヤツラが、ナショナリズムを唱えるという、滑稽と悲しさ。

もう一つは、日本の楽器というのは、基本的に「木」の楽器ですし、
そして、「リズム」楽器なんですね。「メロディ」「旋律」という
考え方というか、感覚というか、それはたぶん、そもそもないんじゃ
ないかと思っています。日本には。

この頃はNHKなどで二十年、三十年前の、歌舞伎とか踊りとかの
映像(フィルム)を流したりすることがありますが、そういうのの、
とくに三味線がわかりやすいんですが、あれはけっしてメロディでは
ない。鼓や笛と一緒になって、リズムを刻んでいるんですね。言葉の
正しい意味で、「お囃子」なんです。

ですから、流水さんが「太鼓」を話題としてとり上げてくださった
のは、何というのか、すごいな、と思うのです。お神楽とか、ある種の
民謡とか、地元のお祭りとか、そういったものには、すごい「力」が、
いまでもあるんです。

大事にしたほうが、いいと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):太鼓の響き!  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/10(金) 23:28  -------------------------------------------------------------------------
   きみゆらさん、
わたしの意図を正確に読み取ってくださり、感謝します。

ナショナルなものを掘り下げていくと、インターナショナルに通底
する、というのはここ数年わたしの脳裏から離れないテーマです。
わたしは、日本人の世界観は、自然を中心として構築されたものだ
と考えています。
もう少し分かりやすくいうと、日本人には、人間を自然と対立するものだという
考え方はなかったと思うのです。
【生けとし生けるもの全てが自然の一部】というのが、日本人の自然観だった
と考えています。
これは、西欧哲学的な唯物論と観念論とは異なった考え方です。
唯物論とは、自然を物質から見ようとする考え方であり、自然を人間の側から見ようとするのが観念論だと理解すると、日本人は自然そのものに生命が宿っている
という考え方だと思うのです。

全ての自然を自然として存在させている曰く言いがたい力、それを日本人は【神】として崇拝したのです。
【風神】【雷神】は、このような日本人の自然に対する畏敬の念を象徴したものです。つまり、古来の日本人にとって、何よりも山の神、風の神、河の神、雷の神という自然の神だったのです。
こういうと、要するにアニミズムという原始宗教だという批判がくるのですが、そうではなくて、日本人の存在了解のありようがここに示されていると考える必要があると思うのです。
もう少し分かりやすく書くと、日本人の自然に対する考え方、日本人の生きる形そのものに、上記の【自然そのものに生命が宿っている】という思想が体現されていると思うのです。

和太鼓を取り上げたのは、何よりも【自然そのものに生命が宿っている】という日本人的思想がベルリンフィルというキリスト教的自然理解を体現した音楽と融合した、という点に着目したからです。

そして、【自然そのものに生命が宿っている】という思想こそが、地球存亡の危機をはらんだ21世紀環境問題を解決する根源的思想になりうると考えているからです。
そして、わたしたち日本人は【自然そのものに生命が宿っている】という思想が、生き方、生活スタイルまで刷り込まれているのです。この過去の日本人の思想を磨きあげることが、逆に21世紀の世界のありようを発信することになるのだと思います。
それこそが、憲法前文の【世界の国に尊敬される国】に道ではないかと考えているのです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):太鼓の響き!  ■名前 : チャトラ  ■日付 : 06/2/11(土) 11:39  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん

はじめまして今日は、初めてレスします。
流水さんの投稿はいつも考えながら読んでいます。含蓄のある内容に啓発さ
れるものがあります。ありがとうございます。

今日、過去に現れた世界観は、ギリシャ的世界観しかり、中世ヨーロッパ的
世界観しかり、近代的世界観しかり、思想史的局面では解体期に遭遇してい
ると思っています。この状況は日本も例外ではありません。

流水さんの思潮の展開もこの閉塞した状況を超克する志向であろうと勝手に
解釈しています。ナショナル、インターナショナルも特殊性、普遍性と勝手
に理解しています。

私は視点をかえて、自然科学の立場にたって、今日の世界観を素描しますと、
やはり、古代ギリシャから近代にいたるまで、微視的物質が巨視的物質と同
じ性質を持つものと信じられてきたものが量子力学の登場によって、日常的
な自然観や常識的な物質観が根底から覆ってしまいました。

例えば、粒子や光の状態とその時間的変化は波動関数であらわされるが、そ
の波動は、電子や光がどの状態にあるかによって確率で示すだけで、粒子が
どこに存在するのか、どれだけの運動量をもっているのかは語れないという
まことに心もとないものです。電子の軌道という概念も意味も持たないので
す。

ここからチョット飛躍しますと、量子力学は、時間・空間の概念がもってい
た直接的な意味を失ってしまうのです。つまり、古典論を特徴づけていた時
間・空間的な記述と因果性の要求という二つの契機が、観測の可能性と定義
の理想化を象徴しているに過ぎないということになってしまうのです。

こうなると、アインシュタインもハイデガーも真っ青です。ここに現代的世
界観の根本図式を、近代的主観ー客観図式そのものを超克して構築できるか
否か、苦しい状況に追い込まれいるのが現状です。

流水さんの「自然そのものに生命が宿っている」という思想が地球存亡の危
機をはらんだ21世紀環境問題を解決する根本的思想になりうると考えている
との主潮には、私なりの見解を開示したいと思っています。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):太鼓の響き!  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/11(土) 12:02  -------------------------------------------------------------------------
   チャトラさん、
あなたとお話しするのは、始めですね。よろしくお願いいたします。
わたしは科学的な話に弱いので、量子力学の詳しい内容などは不案内です。
それであなたの論理展開についていけるかどうか不安ですが、ぜひ科学の目で見た
論理展開をしてください。
わたしの感覚を科学的にみたらどうなるかを確かめて見たいと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):太鼓の響き!  ■名前 : チャトラ  ■日付 : 06/2/11(土) 14:35  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん

科学の目で見た論理展開をしてくださいとのことですが、条件が大変
厳しいことは承知ですすめましょう。ただ、量子力学について私が全
幅の信頼を寄せているものではないことを最初に断っておきます。

それは量子力学であっても歴史的に形成されたものであり、歴史的に
相対化される日がくる可能性があるからです。

古典力学の世界と量子力学の世界を区別する最大の特徴は、エネルギー
×時間、運動量×長さの次元を持つ量に、「作用量子」と呼ばれる最小
単位が存在することです。そのため、実際に電子の位置や運動量を測定
しようとすると、光を当てるとか、絞りを通すとかで観測装置と相互作
用しなければなりません。その際、作用の量に最小単位があるので、相
互作用をメチャクチャ小さくすることができない。そのため、位置を正
確に定めるような測定をすれば、運動量が決まらなくなり、運動量を正
確に定めようとすれば、位置が決まらなくなる。この関係が「不確定性
関係」です。

何故、「作用量子」を持ち出したかお分かりとは思いますが、「自然そ
のものに生命が宿っている」という思想が今日揺らぎはじめているのは
何に起因するのか知りたかったからです。「作用量子」に該当するもの
が果たしてあるのかないのか。

20世紀の歴史は、世界の合理化が世界の非合理化へと転落する歴史であ
ったと言えます。合理と非合理が結節すると言う、その結節点に何があ
ったのか。歴史はその解明を怠った。

私は、事象が運動する、変化する、その際には「作用量子」に該当する
ものがあったのではないかと推察します。日本人の自然観を動かした
「作用量子」は弥生的といわれる文化の渡来がその働きをしたのではな
いかと思います。

流水さんの文章には「象徴用語」があるので、気をつけないと地雷を踏
んでしまうので、この辺で一休み。ドテーン。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(6):太鼓の響き!  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/11(土) 16:38  -------------------------------------------------------------------------
   チャトラさん、
わたしは、量子力学などという世界は、ほとんど無縁にすごしてきました。
大学時代、哲学の授業でその話を聞いた記憶がかすかにある程度です。
あなたの投稿を見て、少し量子力学の世界を垣間見ました。
哲学で言う観念論との境目がはっきりしませんでしたが、少し理解できる
記述がありました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●量子力学とは、「思考は現実化する」ということです。世界中のあらゆる宗教で「祈り」という行為があるのもそのためです。実は、これは既に科学的に証明された事実でした。そのことを明らかにしたのが、「量子力学」という学問です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この記述、大変説得力があります。わたしは以前比叡山の行者谷で一ヶ月過ごした経験があります。真っ暗なお堂の中で一本の線香の灯りだけをともします。その灯りを見つめながら、ひたすら祈りを捧げるのです。
そういう修行を何日か続けていると、何かが変り始めます。その何かというのは、自分の【意識】だということに後から気がつきました。
そのとき、【祈り】という行為の意味をはじめて実感できた、と思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●量子力学が明らかにした真実。それは、私たちが現実と思ってるものは、「意識」という名の映写機がスクリーンに映し出した映像のようなものに過ぎない、ということです
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【現実】などという固定したものはない。わたしたちが【現実】だと思うものは、自分の【意識】が映し出した映像(幻影)に過ぎない、ということでしょう。
つまり、人間の数だけ【現実】があるということなのでしょう。
【現実を見ろ】とは、この掲示板の論者がよく語る言葉ですが、結局その論者に見えた【現実】に過ぎない、ということを量子力学は示しているということでしょう。
これも、大変よく理解できます。荒れた学校時代、同じ現実を見ているのに、教師間でどれくらい認識が違ったか。結局、人というものは、自分の意識に映し出された現実しか見えていない、ということだったのです。

あなたのいう、
●「作用量子」を持ち出したかお分かりとは思いますが、「自然そ
のものに生命が宿っている」という思想が今日揺らぎはじめているのは
何に起因するのか知りたかったからです。「作用量子」に該当するもの
が果たしてあるのかないのか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「作用量子」の話、これは難しい。
ただ、わたしの狭い経験から言うと、【現実】を変容させるのは、「言葉」だと思います。【荒れた学校】を変容させる【作用量子】は、【集団意識】を変容させる「言葉」の力だという感じがします。
【集団意識】というのは、上記の言葉で言えば、百人百様の意識に映じた【現実】をある種統一した【映像】にすることです。
この【映像】を作り出すのは、集団の成員一人一人の【意識】を変容させる「言葉」の存在だった、と思います。
それも単なる道具としての【言葉】ではなく、【言霊】とでもいうべきものだと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(6):太鼓の響き!  ■名前 : チャトラ  ■日付 : 06/2/11(土) 17:53  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん

ドテーンと寝ていましたら、頬をペロぺロ舐める奴がいるので、まさか
この歳になってカミサンでもあるまいと、目を開けたらネコであった。
「太鼓の響き」とは妙なところで追い立てられます。

少し歴史を遡ります。今日、主観、客観といわれるものは、そもそも初
めの頃に使われていた意味と全く逆になってます。退屈でしょうがチョ
コット辛抱願います。

主観(subject英、subjekt独、subjet仏)、客観(object英、objekt独、
objet仏)は元来ラテン語のsubjectum、objectum から由来したもので
subjectumは「下に投げ置かれたもの」という意味をもっています。この
言葉はローマの哲学者ボエチウスがアリストテレスのhypokeimenonの訳
語として用いたのが始まりでした。日本語では「基体」と言われている
ものです。「基に置かれているもの」「基礎にあるもの」という意味で
しょうか。ものの属性がまさに、その属性であるところの「基体」を意
味するとともに、主語(subjectum)の意味に用いられていました。

アリストテレスは「基体というのは、他の事物はそれの述語とされるが、
それ自らは決して他のなにものの述語ともされない(主語そのもの)の
ことである」と言っています。(「形而上学」第7巻 第三章 岩波文
庫上p,230)つまり、述語で表しきれない主語という意味をもっています。

スコラ哲学ではsubjectumha「実体」と言う意味に用いられました。今日
の言葉では「客観」に近い意味をもっています。

objectumは元来「前に投げ置かれたもの」の意味をもち「目的」「目的物」
のことです。スコラ哲学では「志向」(intentio)という対象の意味に近く
感じとったり、考えたり、欲したりする心の働きの対象として、心の中に
あるものを指していました。今日の言葉では「主観的なもの」という意味
でしょうか。今日、私たちが使用している「主観」「客観」とは正反対の
意味に用いられていたことを示すために長々と、流水さんには分かりきっ
たことを書きました。

これからが本論ですが、もうオマエの書くものはツマラナイから、もうヤ
メロ!と、そんな声が聞こえてきそうで・・・・



 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(7):太鼓の響き!  ■名前 : チャトラ  ■日付 : 06/2/11(土) 22:11  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん

スコラ哲学では、subjecyum、objectum が今日の「主観」、「客観」
とは正反対の意味に用いられていたことを前回の投稿で書きました。
このように subject は近世になり「基体」という意味から「主観」と
言う意味に、object は「表象」という意味から「客観」という意味に
転換してきました。

私はこの転換は、ただ事ではないと思っています。認識論において最も
根本的な概念は「主観」、「客観」であると言われていますが、認識が
成立するかぎり、認識するものと、認識されるものがあるはずです。

「認識をするもの」が主観であり、「認識されるもの」が客観であると
すると、中世では認識をする主体は『神』にあり、人間は自然的事物と
同じく『神』の被造物に過ぎなかったといえます。したがって、subjec-
tumは「基体」であり、人間の認識に依存することのない存在者、つまり、
「実体」の意味を持っていたと考えられます。

したがって、この「実体」の意味が今日で言う object(客体)意味をもっ
ていたのです。近世における哲学の根本思想は人間を哲学の中心に置いた
ことにあります。この人間の「自我」を基体の根源的なものとして捉えた
ました。それゆえ、認識する主体は『人間』にあり、意識の働きの担い手
として人間の「自我」が前面に出てきたのではないかと考えます。

中世から近世への移行は、まさに画期的な転換であったと言えます。「神
の世界」から「人間の世界」への転換をはかったのです。以下は大分眠く
なってきましたから明日にします。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(8):太鼓の響き!  ■名前 : ウミサチヒコ <movement@me.scn-net.ne.jp>  ■日付 : 06/2/12(日) 6:25  -------------------------------------------------------------------------
   ▼チャトラさん:
>中世から近世への移行は、まさに画期的な転換であったと言えます。「神
>の世界」から「人間の世界」への転換をはかったのです。以下は大分眠く
>なってきましたから明日にします。

「自我」を殺して地面と殿様に盲目的に従うしかなかった、またそれが道徳的に正しいとされてきた、そういう時代にキリスト教はまことに都合のいい宗教であった。だからキリストは欧州を千年、そして孔子は中国を二千年眠らせたと言われる。
封建時代から資本主義へと人間は解放された。人々は自由に移動できる。どんな仕事を持とうが自由だ。だが、多くの人々は剰余労働という「みかじめ金」からは自由でない。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(9):太鼓の響き!  ■名前 : チャトラ  ■日付 : 06/2/12(日) 14:56  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ウミサチヒコさん:
 2月4日の東京でのことが時々脳裏をかすめ懐かしく思い出しています。とりわけ
ウミサチヒコさんのキャラクターといいますか、また雰囲気といいますか私の周囲
には見られない繊細にして切れ味の鋭い才覚を身近に知りました。このままにして
おいたらモッタイナイというのが率直な私の感想です。

 今、流水さんに宿題を出されて、半分爛れた脳みそを駆使して書いていますが、
どうにもこうにも、流水式地雷が畦道のアッチコッチにちりばめられているので
ドツボに嵌らないように歩いています。なにしろ、田舎ジジイのことそのうち、
ドカーンと爆死ともかぎりません。そのときは笑ってやってください。

>「自我」を殺して地面と殿様に盲目的に従うしかなかった、またそれが道徳的に正しいとされてきた、そういう時代にキリスト教はまことに都合のいい宗教であった。だからキリストは欧州を千年、そして孔子は中国を二千年眠らせたと言われる。
>封建時代から資本主義へと人間は解放された。人々は自由に移動できる。どんな仕事を持とうが自由だ。だが、多くの人々は剰余労働という「みかじめ金」からは自由でない。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(10):太鼓の響き!  ■名前 : ウミサチヒコ <movement@me.scn-net.ne.jp>  ■日付 : 06/2/12(日) 15:30  -------------------------------------------------------------------------
   ▼チャトラさん&みなさん:
短い間に、老人党で多くの人々に出会いました。30年この方、1・2の例外を除いて出会いなどと無縁であった私ですが、ここ数年の出来事はまるで目が回るほどでした。少し静かにして充電(できたら)したいと思います。

「今日泊まる屋根と暖かい布団があればいい」これは2年間かけた托鉢行脚で日本全国を歩いた坊さんの述懐です。さっきまでNHK教育TVでやっていました。しばらく趣味と生活に没頭したいと思います。私は去って、ウミサチヒコという懐かしい名前とさよならをします。
2・4の社民党・共産党の「回答書」に対する返書が出来ていませんから、また登場する必要がどうしてもありますが、その時はその時の私ではなく、あくまでも過去の私の亡霊としてのウミサチヒコです。その人物はこれからの私とはまったく関係ありません。やりかけたことはやりとおさなければならない、ですからそれは私の亡霊にさせます。はたしてそのような芸当が可能かどうか分かりませんが。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(10):太鼓の響き!  ■名前 : チャトラ  ■日付 : 06/2/12(日) 16:50  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん

 昨日は途中で眠くなってしまい失礼しました。夜中に起きてモーグルを
見て、また眠くなってしまい起きたら昼過ぎでした。

 近世と中世と区別できるのは、「主観」「客観」の転換であり、「神学
の世界」から「人間の世界」への転換であると昨日書きました。この背景
にはケプラー・ガリレオの登場が大きな影響を与えたと思います。

ケプラー・ガリレオの時代に至る約二千年の間、その権威を維持していた
アリストテレスの「hypokeimenon」(基体)がもろくも解体されたのは何
に起因するのでしょうか。ケプラーは潮汐の現象を月と地球に働く「重力」
による現象であることを説明しました。アリストテレスの「hypokeimenon」
は「重力」によって解体されたと言っても過言ではありません。

時代の変革は何によって起こるのか、さまざまな要因が考えられますが、中
世から近世に至る過程では、この「重力」概念が大きく働いたと言えます。

さて、途中の歴史の経過は割愛するとして、アインシュタインの時代までい
っきに下ることにします。アインシュタインのような偉大な科学者に田舎ジ
ジイがケチをつけるとは、いやはや面映いものがありますが、昔、科学雑誌
の対談で「理論の誤謬には、皮を剥ぎ取り、肉を刻み、骨までしゃぶれ」と
温厚な朝永振一郎博士が言っていたことでもあるのでバチも当たるまい。

自然現象について、観測や測定は、二つの独立した事象の同一の時間・空間
点における一致に依存している。そして、異なる観測者による時間・空間の
座標は、その他の点でどのような違いを示すことがあっても、この一致その
ものは影響されない、というのがアインシュタインの意識の根底にありまし
た。自然現象を観測したり、測定したりする場合、誰がやっても同じ結果が
でるものだ、というのです。

アインシュタインは自信過剰であったために、その頑固さも異常であった。
このため、量子力学を認めようにも認められないハメになってしまった。
いずれにしても、観測という概念は、どの対象が観測されるべき系に含め
られるのかという点に左右されるという任意性があるのです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(11):太鼓の響き!  ■名前 : チャトラ  ■日付 : 06/2/14(火) 1:09  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん

今日は悪友に誘われて、カラオケに行ってきました。坂本冬美が歌って
いるものが好きでついつい帰りが遅くなってしまいました。「陽は登る」
「気まぐれ道中」「風に立つ」「北の挽歌」「おとこの劇場」などが好
きです。では、そろそろ・・・

微視の世界では、観測手段と対象の相互作用を無視することはできない
こと、したがって、対象の属性は観測の仕方に作用され、対象の自立的
な振る舞いや客観的な性質をかたることはできない、ということを書き
ました。

流水さんの言われる「自然」概念は、そのままの実体概念ではなく具体
的な「自然」を捨象した、抽象化された「自然」を想定された概念であ
ろうかと推察します。従って、厳密には観測手段と対象を具体的に特定
することはできません。

量子力学における「微視的物質」「巨視的物質」というのは視覚的な範
疇の世界でないことは勿論のことですが、私が視座下のは、「作用」と
呼ばれるものについて「エネルギー×時間」、「運動量×長さ」の次元
を持つ量には「作用量子」があり、これが相補性の働きを持つ点に着目
しただけの話です。

従って、日本人の自然観というのは、抽象的概念であっても日本人の精
神の基底に、或いは心底に脈打つものがあるとすれば、その脈打つ作用
に相補性のある作用量子に該当するものがあるのではないか、と思った
次第です。

狩猟採集社会を形成した縄文文化に外来の農耕社会を形成する弥生文化
の渡来には在来文化との間で相克があったものと思われます。私は新旧
の相克に働く作用量子にがいとうするものを「弥生的文化」であると曖
昧な表現を使いました。もう少し的を得た言葉が見つかりませんが「弥
生的技術」と訂正します。

流水さんが、日本人は「自然そのものに生命が宿っている」という思想
が生き方、生活スタイルにまで刷り込まれていると言われる、その「生
命」とは、有機的な生命ではなく「魂」であると翻訳しました。

この「自然そのものに生命が宿っている」思想を磨き上げることが、逆
に21世紀の世界のありようを発信することになるのだと思います、と書
かれているところ、これが私には如何ともしがたい岩盤になっている。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(6):太鼓の響き!  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/14(火) 11:41  -------------------------------------------------------------------------
   チャトラさん、
大変難しい議論なので、わたしに完全に理解できているかどうか自信が
ないのですが、わたしなりのまとめ方をしてみます。

まず、【主観】【客観】論議の問題ですが、【主観】【客観】図式というものが近代的知の根底をなしてきた、ということには疑いがありません。
この図式から見えてくることは、現代でもわれわれがその呪縛から脱し切れていない人間主義と科学主義の相互補完的な対立とか、【客体】自身である【自然界】と人間という【主体】が生み出した【文化界】とに世界を二分して考えるという発想など、多くのことが考えられます。

この対立をかっての唯物論のように弁証法的に一元的に統一するというような試みは、ほとんど成功していません。それは現在のマルクス主義のおかれた情況をみれば、明らかです。
しかし、この【主観】【客観】の二元化のもとのところから間違っていたのではないか、というのが、現在の哲学での了解事項ではないかと思います。
チャトラさんの論証もその一つだと思います。

これを私流にひきつけていいますと、【物質】と【精神】というものについて根本的な再検討が必要である、ということを意味します。
【物質】というときにわたしたちがイメージするのは、古典物理学的な物質像ですが、相対性理論や量子力学などによってそれも否定されています。
実は、ここのところが、わたしたちには、なかなか理解できないところなのですが、それはともかく、私流の理解で言うと、古典物理学的な物質像というのは、【実体主義的】な物質像で、時間・空間の古典主義的理解と不可分な関係にあったということだろうと思います。ところが、量子力学で追認されたと新しい物質観は、【関係主義的】物質観・時空観で【主観】と【客観】が分離できないということだろうと思います。

【精神】とは、各個人の内部に閉じ込めるものというのが近代的イメージでした。しかし、意識を各人に内在化させてしまうと、原理的には他人の意識は理解できないということになります。
「私」が【他人の意識】だと理解しているものは、そう【意識】している【私の意識】だということになり、どうしても【私】の枠を超えることができないということになります。【客観】でも同じことがいえます。つまり【客観】というものは、そう対象を認識している「わたしの意識の内部」であり、本当の客観自体について知ることができない。知っているのは【わたしの意識の内容】だけだ、ということになります。
これは本当にそうだろうか、ということを問うのが、脱近代の本源的課題だと思うのです。

チャトラさんの【作用量子】とはなんだろうか、という問いに、【言葉ではないか】とお答えしましたが、実はこれは上記の問題と深く関わっています。
近代的な【物質】【精神】理解では袋小路に陥ってしまう【私】の枠を超えうるものは、【共同意識】だろうと考えているのです。
マルクスが「意識とは本源的に社会的である」とか「言語が成立して初めて意識が成立した」などといっているのは、この意味でしょう。

わたしは【荒れる学校】を変容させる時、【集団意識の変容】というキーワードで実践してきました。意識が【私】という枠を超えれない、という近代的知ではこういう論理は成立しえないのですが、【話し合い】という「言葉」を媒介した【場】をもうけることにより、それが可能になると考えたのです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(7):太鼓の響き!  ■名前 : ぎみゆら  ■日付 : 06/2/15(水) 20:23  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん、チャトラさん、こんにちは。
横からごめんなさい。


精神とか心とか呼ばれるものが、「個人の内部」「私の意識」だけの
ものではないというのは、すでに多くの人たちが気づき始めている
ことなんじゃないかと思います。

たとえば深層心理学や精神医学の実践家の方たち(カウンセラーや
臨床精神医)は、ある個人の「心」をどんどん掘り下げていくと、
「世界」とか「普遍」とか呼びたくなるようなものに行き当たる
ことを、経験的に知っているように感じます。

自分の仕事のことでいうと、企画や実際の取材を進めるなかで、
「人と話す」ということがとても重要な意味をもつことがあります。
誰かと気持ちを交流させることで、企画や取材の方向性がキラリと
見えることがしばしばある。

芸能の話に戻しますと、私はもう二十年くらい歌舞伎をわりとよく
見ていますが(最近ちょっと以前よりはご無沙汰気味ですけど)、
「いい舞台」を見ているときに、自分の気持ちが宙に浮くというか、
いささか説明しにくい解放感を覚えることがあります。

ちょっと先輩にあたる、やはり長年歌舞伎を見ているある女性は、
ある有名役者(名前をいえばたいていの人が知っているはずですが、
やはりいちおう控えます、笑)のことを、「自意識のかたまり、
大嫌い」と評したことを印象的に覚えています。

役者が舞台という演劇空間で「自分から離れる」ことによって、
見ている観客も「自分を脱する」。そういった感じなんですけど。
たぶん、日本人は昔からよく知っていて、実はたいへん得意なこと
なんじゃないだろうかと、最近は思っています。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(8):太鼓の響き!  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/17(金) 13:29  -------------------------------------------------------------------------
   きみゆらさん、

●たとえば深層心理学や精神医学の実践家の方たち(カウンセラーや
臨床精神医)は、ある個人の「心」をどんどん掘り下げていくと、
「世界」とか「普遍」とか呼びたくなるようなものに行き当たる
ことを、経験的に知っているように感じます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実はこの話、わたしの「ナショナルなものを掘り下げていくと、インターナショナルに通底する」という仮説の根元にあるのです。

たしかランボーだったと思いますが、(記憶だけを頼りに書いていますので、間違っていたら御容赦ください)「何が見えた! 永遠が!」という詩があります。
このフレーズ、いろいろな解釈が成り立つと思いますが、わたしは個人の内面を
掘り下げていくときみゆらさんのいわれる「世界」とか【普遍】に行き当たる、と
いうことを書いていると解釈しているのです。

●役者が舞台という演劇空間で「自分から離れる」ことによって、
見ている観客も「自分を脱する」。そういった感じなんですけど。
たぶん、日本人は昔からよく知っていて、実はたいへん得意なこと
なんじゃないだろうかと、最近は思っています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この話、授業でもあるのです。
あるとき、わたしの書いた教案をもとに若い教師が授業をしたいといってきました。承諾して、わたしの使った資料、授業のビデオ(わたしの授業は研究授業だったので、ビデオをとっていました)などを貸しました。
その教師は一ヶ月ほど準備して、授業をしました。わたしは見ていなかったのですが、授業を見た他の教師の話ではあまり評判が良くなかったようでした。

これは当たり前だろうと思います。授業というものは、【生き物】で、可変的なものです。その時のクラスの構成員(子供)の能力、理解力、雰囲気、教師との関係等で変化します。一つのマニュアルで良い授業はできないのです。

その反対にその時のクラスの子供たちの情況にピタリとはまった授業ができることがあります。それは教師の思いと子供たちの思いがピタリと重なった時に、それこそ稀に起きるのです。ほとんど奇跡に近いものです。
わたしも長い教師生活で、一度か二度くらいしか経験していません。
そのときは、自分の発する言葉が自分の言葉ではなくなるのです。言葉が心の内側から押し出されるように出てくるのです。自分が語っている言葉なのですが、自分ではない他の何かが語っているようにそれこそ次から次へと湧き上がってくるのです。
そのときは、子供たちも一種のカタルシスに近い表情を浮かべているのです。

こういう奇跡的な時間や空間を経験すると、それをもう一度経験したくて、教師はさまざまな努力をします。ところが、それを解析し、どれだけ技術の練磨をして
も、そんな奇跡的な時間を再現することは難しいのです。
この話、菊池寛が世界の名作を分析した話に似ているのですが、マニュアルや技術の練磨だけではどうにもならない何かが良い授業にはあるのだと思います。
きみゆらさんのいう【自意識】を離れた懸命さのような何かが必要なのだと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(9):太鼓の響き!  ■名前 : 団塊党  ■日付 : 06/2/19(日) 19:29  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん きみゆらさん

興味深い話題に誘い込まれてしまいました。
授業でカタルシスというような話は現場ではめったに話題になりませんが、流水さんから聞いて嬉しく思います。

林武二という今はもう亡くなっていますが、哲学者が全国の学校に授業行脚をされたことがあります。
この先生の授業の時の子どもの表情が写真集になっていますがカタルシスといってよい深い表情をしています。
なぜあんな表情になるのか長年私の疑問にあるのですがいまだにわかりません。

「技術の錬磨だけではどうにもならない何か」「自意識を離れた懸命さのような何か」「個を掘り下げていくと普遍に」「ナショナルなものを掘り下げていくとインターナショナルなものに通底する」
答えはお二人のおっしゃるこれらとつながっているように思えます。

私なりに自分に実践可能な言葉に変換すれば、自分が夢中になって教材にのめり込むということかなと考えます。
言葉で言えば簡単ですがこれとてなかなかできることではありません。
また仮にできたにしても、子どもの気持ちや状況とぴったり波長が合わなければいけません。

あまり難しく考えると授業など恐ろしくてできなくなりますので、せめて子どもにつけたい力をはっきり具体的につかんでおこうと考えながら、毎日、教材の準備をしています。
授業以前に自分をもっと磨かなくてはとも思います。

しかし現場はますます授業以外のことで忙しくなるばかりです。
体感速度20kmは教師自身一番必要かもしれません。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(10):太鼓の響き!  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/19(日) 21:39  -------------------------------------------------------------------------
   ▼団塊党さん:

●私なりに自分に実践可能な言葉に変換すれば、自分が夢中になって教材にのめり込むということかなと考えます。
>言葉で言えば簡単ですがこれとてなかなかできることではありません。
>また仮にできたにしても、子どもの気持ちや状況とぴったり波長が合わなければいけません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
教師の宿命とでも言うべきものではないでしょうか。教材研究というのは、言葉にするとたやすく、行うのは至難の業です。
【教材に即して、教材に寄り添い、教材から離れ、教材を忘れる】ところまで、研究する(わたしの言葉でいうと読み込む)のは至難の業です。
そして授業は、虚心坦懐の境地で子供を眺め、臨機応変・融通無碍で行う必要があります。
これは達人の境地です。わたしなどはその真似事もできませんでした。

●あまり難しく考えると授業など恐ろしくてできなくなりますので、せめて子どもにつけたい力をはっきり具体的につかんでおこうと考えながら、毎日、教材の準備をしています。
>授業以前に自分をもっと磨かなくてはとも思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
団塊党さんは、ミロの絵をご存知だと思います。授業を比喩的にいうと、ミロの絵のようなものではないでしょうか。
彼の絵はまるで子供の絵のように見えますが、すべてが緻密に計算されています。それでいて何か心が浮き立つような楽しさがあります。
教材研究とは、最先端の知識や思想を吸収していく上昇的過程で、授業とはそれを平易なものに噛み砕いていく下降的過程です。
このどちらが欠けても授業は成り立ちません。そういう意味では、終わりがないのが授業だと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(11):太鼓の響き!  ■名前 : ぎみゆら  ■日付 : 06/2/24(金) 11:58  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん、団塊党さん、こんにちは。
ゆっくりなレスで失礼いたします。


お二人の書き込み、たいへん興味深く読みました。流水さんのような
ベテランの先生でも、カタルシスのような授業はほんのわずかだと
聞いて、驚くような、感心するような気持ちになりました。貴重な
体験を披露していただき、どうもありがとうございます。

ミロの絵、子供の絵のように見えて緻密に計算されている、上昇的
過程と下降的過程、どれも、私どもの仕事でも、ピンと来るものが
あります。たとえばインタビューや現場取材などに出かけるときに、
事前にどれだけ資料などにあたって「仕込み」をするか、先方との
打ち合わせをどの程度詰めておくか。

普通に考えれば、事前の資料調べは多いに越したことはないし、
打ち合わせもきちんと重ねておいたほうがいいと思うところですし、
後輩などに聞かれたときは私もそのように説明しますが、実際には、
必ずしもそうでもないのです。

事前の資料や打ち合わせを「やりすぎる」と、それである種「満足」
してしまい、本番のインタビューや取材は「いまひとつ」空振り感が
残るということが案外あります。仕事として一定水準はクリアして
いるが、「もう一歩」盛り上がりに欠ける、という感じです。

似たような話は、畑が違ってもあるようです。たとえば講演等をよく
引き受けている先生から、本人の自覚としては準備も当日の出来も
完璧という講演が聴衆の「ウケ」は案外さほどでもなく、ちょっと
つかえたりたどたどしかったりしたときのほうが、みんな一生懸命
聴いてくれた、などと聞いたこともあります。

何と言ったらいいのか。臨場感とかノリとか生き生きとした感覚とか
生命感のようなものが、どんなときに、どのようにして現出するか
というのは、理屈だけでそう簡単には割り切れず、かといって、
まったく当てずっぽうでうまくいくことはまずない。

流水さんがおっしゃるように、緻密な準備や計算と、自分を一種
「放り出す」ような感覚とが、ちょうどよくバランスしたときに、
ふっと現れるものなんじゃないでしょうか。一流の芸能者、たとえば
坂東玉三郎のような人たちは、そういった感覚を、ある程度自分で
コントロールすることができるのだろうと思っています。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(7):太鼓の響き!  ■名前 : チャトラ  ■日付 : 06/2/15(水) 22:51  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん ぎみゆらさん 今晩は

【主観】【客観】論議の問題ですが、【主観】【客観】図式というものが近代的知の根底をなしてきた、ということには疑いがありません。

この図式から見えてくることは、現代でもわれわれがその呪縛から脱し切れていない人間主義と科学主義の相互補完的な対立とか、【客体】自身である【自然界】と人間という【主体】が生み出した【文化界】とに世界を二分して考えるという発想など、多くのことが考えられます。

この【主観】【客観】の二元化のもとのところから間違っていたのではないか、というのが、現在の哲学での了解事項ではないかと思います。

これを私流にひきつけていいますと、【物質】と【精神】というものについて根本的な再検討が必要である、ということを意味します。

私流の理解で言うと、古典物理学的な物質像というのは、【実体主義的】な物質像で、時間・空間の古典主義的理解と不可分な関係にあったということだろうと思います。ところが、量子力学で追認されたと新しい物質観は、【関係主義的】物質観・時空観で【主観】と【客観】が分離できないということだろうと思います。


「私」が【他人の意識】だと理解しているものは、そう【意識】している【私の意識】だということになり、どうしても【私】の枠を超えることができないということになります。【客観】でも同じことがいえます。つまり【客観】というものは、そう対象を認識している「わたしの意識の内部」であり、本当の客観自体について知ることができない。知っているのは【わたしの意識の内容】だけだ、ということになります。

これは本当にそうだろうか、ということを問うのが、脱近代の本源的課題だと思う
マルクスが「意識とは本源的に社会的である」とか「言語が成立して初めて意識が成立した」などといっているのは、この意味でしょう。

現代思想の根幹にかかわる本質的な問題に、流水さんとお話をすることが
できましたことを大変有難く感謝しています。

科学主義的発想と人間主義的発想の超克を試みながら、認識論的な主観構
成の呪縛から脱却できないまま、その崖をよじ登るたびに崖から転げ落ち、
崖の頂から聞こえる過去の亡霊の高笑いに奮起して、また、よじ登ろうと
飽きもせずやっております。

引用させていただきました件に関しましては了解しております。省略しま
した件は私の課題として残りました。如何ともし難い岩盤のところです。

ご存知のことと思いますが、イギリスの劇作家であるハロルド・ピンター
は、彼以前の劇の多くが、何が起こったか、誰が何をしたか、その人は何
故そのようなことをしたかといったことがよく分かるようなものだった説
明を劇に盛り込むことを拒否ました。

ピンターの劇がリアリズム劇が自明なものとしていた、現実は論理的に説
明できるとする前提に疑問を呈し、人間が自分の置かれている状況を完全
に理解するなどといったことは現実にはありえない、といったところから
創作をしました。

古風なリアリズム劇の登場人物は、主語と述語の関係が明瞭な整ったセリ
フを語るのが通例であったが、実際の生活の場で、そのような言葉を遣う
人はまずいない、そのことを劇という場で実践した人です。実生活で使う
言葉は、私たちが思うほど秩序のあるものではないということを指摘した
のです。

それにもかかわらず、芸術の最終目的は人を快適にすることではなくて、
真実を伝えることにある、と言っています。

2005年2月に劇作家から引退して、ブレア首相を「戦争犯罪人」と呼びイ
ラクから英軍の撤退を求めて政治活動に専念しています。

ここから後は、ぎみゆらさんにバットン・タッチ。よろしく。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 「自然がお師匠」という物事の見方 1  ■名前 : ぎみゆら  ■日付 : 06/2/11(土) 20:11  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん、チャトラさん、こんにちは。


お話、興味深く読んでいますが、私は量子力学論議には立ち入れ
ませんので、流水さんが書いてくださった「日本人の自然観」と
いった辺りについて、私なりに思うところをもう少し書いてみます。

> もう少し分かりやすくいうと、日本人には、人間を自然と対立する
> ものだという考え方はなかったと思うのです。
> 【生けとし生けるもの全てが自然の一部】というのが、日本人の
> 自然観だったと考えています。
> これは、西欧哲学的な唯物論と観念論とは異なった考え方です。
> 唯物論とは、自然を物質から見ようとする考え方であり、自然を
> 人間の側から見ようとするのが観念論だと理解すると、日本人は
> 自然そのものに生命が宿っているという考え方だと思うのです。

長唄や常磐津などの邦楽でも、踊りでも、あるいは書道やお茶やお花
などでも、日本の芸事にはすべて「自然がお手本」「自然がお師匠」
という考え方が基本にあると思っています。武道もそうですね。

たとえば三味線や鼓などの和楽器でも、唄でも踊りでも、「定間
(じょうま) はよくない」という感覚が広く存在します。「定間」
というのはたいへん広い概念ですが、感覚的にいうと「いかにも
ピタッと決まる」ことをいいます。そういうのは「かっこわるい」
「ださい」という感じ方が、日本の芸事の至るところに見られます。

西洋音楽の四拍子で、頭が強拍なら「ドンタンタンタン、ドンタン
タンタン」、オフビートにすると「タンタンドンタン、タンタンドン
タン」となって、そこからシンコペーションとかいろんなことをして
崩していくということになります。

日本の音楽にも楽譜もリズムも旋律もあるんですが、まず「範型」が
あってそれをだんだん崩していくという考え方はしない。そもそも、
「お手本」「ひいな型」どおりにやること自体が「かっこわるい」
「ださい」という感じ方が、芸事の「構え」「土台」にあるんです。

お稽古のときから、お手本通り、お師匠さんのやるとおりにピタッ
ピタッと決まるように弾いたり唄ったりするの自体、ダメなんです。
かっこわるい。何人かで一緒に唄ったり弾いたりするとき、みんなが
キレイに揃うのも、やっぱりダメ。いい感じがしない。

それはなぜかというかというと、「自然」には「型通り」「まったく
同じことの繰り返し」というものは存在しないからなんだろうと、
私は思っています。

たとえば歌舞伎の舞台で長唄が十人くらい、三味線も十人くらい、
ズラッと並んでることがありますが、あれ、今度テレビでやってたら
見てほしいんですけど、唄方も三味線方も真ん中の人がいちばん偉くて
端に行くほど下っ端なんですが、その唄十人の唄い出し、三味線十人の
弾き始めが、「せーの」で揃うということはけっしてないんです。

唄方なら自分の左隣、三味線方なら自分の右隣の、自分より一つ上の
兄弟子が唄い出す、弾き始める、そのちょっと後に自分も入るという
のが決まり。なんにせよ自分より上位の人より先に出ちゃいけない。
だから、みんなが「せーの」で揃うことはけっしてなくて、三味線も
唄も、真ん中から端っこに向けてドミノ倒しみたいにダラダラダラ
ダラッて入っていくんです。

キレイに揃ったり、ピタッと決まったりするのは、かっこわるい。

(*以下、次のコメントに続きます)

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 「自然がお師匠」という物事の見方 2  ■名前 : ぎみゆら  ■日付 : 06/2/11(土) 20:32  -------------------------------------------------------------------------
   (*前のコメント【73356】からの続きです)

どんな楽器や技芸や流派でも、やろうと思えば何でも自在に合わせ
られるというのも、日本の芸事をやっている人たちにとってはごく
当たり前の考え方です。いま手にしている楽器や、これまで身に
つけてきた「型」や「技」は、たまたまの方便に過ぎず、いずれ
すべては「自然」のなかでのことだからです。

いまどきは「コラボレーション」なんていう気持ちの悪い言葉が
あって、西洋楽器と和楽器のアンサンブルなんていうことが、さも
ユニークな企画のように言われたりしますが、邦楽とか日本の芸事の
人たちにとって、そんなの特別なことでも何でもない。すべて自然の
なかでの人間の技ですし、何をどう合わせるのでも、やろうと思えば
どうにでもなるという感覚が、ごく当たり前にあるんです。

> そして、【自然そのものに生命が宿っている】という思想こそが、
> 地球存亡の危機をはらんだ21世紀環境問題を解決する根源的思想に
> なりうると考えているからです。
> そして、わたしたち日本人は【自然そのものに生命が宿っている】
> という思想が、生き方、生活スタイルまで刷り込まれているのです。
> この過去の日本人の思想を磨きあげることが、逆に21世紀の世界の
> ありようを発信することになるのだと思います。
> それこそが、憲法前文の【世界の国に尊敬される国】に道ではない
> かと考えているのです。

壮大な構想なので、理屈でトレースするのはそろそろ難しくなって
きましたけれど、(笑) 上で書いたことからお察しいただけると思い
ますが、大いに共感できるところがあります。

昨今の「新自由主義」「競争礼賛」「経済合理主義万能」的な発想
というのは、そういった、日本人が長く大事にしてきた「自然観」
「世界観」「人間観」と、まったく相反するものだと思っています。

小泉さんのワンフレーズ政治など「定間」「ださい」「薄っぺら」の
典型ですし、アメリカと中国を秤にかけてどっちかを明確に選んで
みせるという見え透いた政治ポーズも、日本人が長く培ってきた
「和」の巧緻(狡知)をまったく踏まえない愚挙としかいえません。

平和憲法と日米軍事同盟という「矛盾」をそのつど上手に縫い合わせ
ながらバランスと舵取りに努めてきたのは、戦後日本人の「生きる
知恵」だったはずですし(今後もずっとそのままでいいとはもちろん
思いませんが)、それを見かけ上の整合性だけで「スッキリ」したい
などというのは、それこそ「浅はか」な「定間」の典型です。

「戦争」も「軍隊」も「植民地」も、もう「前時代」のものである
という認識は、世界的に共有されつつあります。「国境」もいずれは
過去のものとなるであろうことも、しだいに多くの人々の展望や
射程に入ってきているように感じます。

そのように、人間として、人類として、「明日」を見通す「未来の
構想」と、しかしどうしようもない「現実」とを、どちらも上手に
呑み込みながら、縫い合わせたりすることもできるような、資質や
伝統、蓄積を、日本人はちゃんと備えていると思います。

そして、そういった日本人の「美質」を十分に活かしていくため
にも、現在の「平和憲法」は大切な武器になるはずですし、その
ような意味でも、しっかりと大事にしていかなければならないもの
なのではないでしょうか。私はそう思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):「自然がお師匠」という物事の見方 2  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/12(日) 11:36  -------------------------------------------------------------------------
   きみゆらさん、
日本家屋に【障子】というものがあります。
きみゆらさんは行かれたことがあるかどうか知りませんが、京都嵯峨野に
祇王寺という小さなお寺があります。平家物語の中に祇王、祇女の話がありますが、彼女たちが余生を過ごしたお寺です。
すぐ近くに化野念仏寺があることから分かるように、当時としてはそれは辺鄙な
場所だったに違いありません。

この祇王寺の庭は素晴らしいのですが、それにもまして素晴らしいのは、寺の
中に作られている丸い明り取りの窓です。
障子を通して柔らかい日の光が差し込み、秋には庭の色づいた紅葉の色が、丸窓を通してうっすらと見えるのです。
もちろん、新緑の季節にはうっすらと緑の色が見えるのです。
障子ですから、色だけではなくて、庭の木々が影絵のように写ることもあります。

わたしは、伝統的日本人の感性は、この【うすぼんやり】とした姿に風情を感じるというところにあるのではないか、と思っているのです。
窓を開ければ、たしかに外の景色はクリアーに見えます。日の光もさんさんと降り注ぐでしょう。これは西欧伝来の【ガラス窓の思想】です。
それをあへて障子でさえぎり、うっすらと見える紅葉の赤、新緑の緑、木々の影、
に美を求める思想、これを【障子窓の思想】となずければ、伝統的日本人は【障子窓の思想】により親近感をおぼえていたのではないかと思います。

もちろん、これは思想と呼べるような体系的なものではなく、生理的な感性(生きる様態)のようなものだと思います。
何でも白黒はっきりすればよいものではない、という庶民の生きる知恵のようなものが、体現されていると思います。
当然ですが、このようなありようからは、革命的なエネルギーは生まれません。
ですから、日本人は時折外部からの文化を刺激剤としてうまく取り入れ、それを咀嚼することにより、変化をしてきました。
しかし、その基底には、【露骨は厭よ】という感性が流れていると思います。

もう少し、上品に書くとすれば、【絶妙なバランス感覚】とでもいえばよいのでしょうか。他の一つは、【この世のことはすべて幻】という【無常観】があると思います。
日本家屋の障子に込められた思想は、意外に深いものだと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):「自然がお師匠」という物事の見方 2  ■名前 : 安本単三  ■日付 : 06/2/12(日) 14:51  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん

私の下手な話よりも、安田喜憲を引用します。
森を守る文明・支配する思想:PHP新書↓
http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeBookPhoto/MorinoBunmei.htm

1.日本で神仏混淆が起こり得たのは、生きとし生けるものが平等であるという点において、原始神道と仏教に共通点があったと推察される。

2.日本政府は明治以降、欧米に習い一神教としての国家神道をうち立てたが、対外戦争が激しくなると山寺の梵鐘を兵器増産のため供出させた。〜〜♪〜ゆうやけこやけでひがくれてやまのおてらのかねがなる〜♪〜という山里の農民の心を守るのではなく心まで奪い兵器化したのである。
お国を守るために軍隊があった・・というが、梵鐘を供出させた時点で日本人の心=郷を守ることを放棄し軍隊を守る軍隊になったのである。あまねく村に響きわたるゴーンという音の安らぎまでも軍が奪ったのである。
〜♪〜うさぎおいしかのやま〜♪〜すら弾圧された時期があったとは知らなかった。望郷の念が強すぎて兵の志気にかかわるということであったらしい。

3.縄文と弥生がまだ残っているようなあちこちの日本の故郷が、今、過疎の危機に喘いでいる。私も里を捨てざるを得なかった。私に語る資格があるのか。

4.TVで仏教に帰依するラオスの人々が踊っている映像があった。踊っているリズムは、日本の盆踊りと共通であった。彼らの間にある平同感が伝わって来た。照葉樹林文化論と縄文1万年平和文化。

5.ざっと眺めてみると、仏教国はどこも対自然で神仏混淆すなわち多神教的であるようだ。ほとんどが森林国である。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):「自然がお師匠」という物事の見方 2  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/13(月) 21:32  -------------------------------------------------------------------------
   ▼安本単三さん:
1.日本で神仏混淆が起こり得たのは、生きとし生けるものが平等であるという点において、原始神道と仏教に共通点があったと推察される。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神仏神仏混淆(融合)は、日本人の信仰の形を作っています。役の行者などから始まり、空海が完成したとされていますが、この考え方はもっともっと研究されてしかるべきと思います。
例えば、高野山では、鳥居(神道では鳥居より向こうは死者の世界とされている)の向こうは極楽浄土の世界とされています。見事な換骨奪胎です。
>
>2.日本政府は明治以降、欧米に習い一神教としての国家神道をうち立てたが、対外戦争が激しくなると山寺の梵鐘を兵器増産のため供出させた。〜〜♪〜ゆうやけこやけでひがくれてやまのおてらのかねがなる〜♪〜という山里の農民の心を守るのではなく心まで奪い兵器化したのである。
>お国を守るために軍隊があった・・というが、梵鐘を供出させた時点で日本人の心=郷を守ることを放棄し軍隊を守る軍隊になったのである。>3.縄文と弥生がまだ残っているようなあちこちの日本の故郷が、今、過疎の危機に喘いでいる。私も里を捨てざるを得なかった。私に語る資格があるのか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明治政府が行った政策で日本各地の鎮守の森が消えてしまいました。その中で最も地方の神社が消え去ったのは、三重県です。伊勢神宮があったからだとされています。
>
>5.ざっと眺めてみると、仏教国はどこも対自然で神仏混淆すなわち多神教的であるようだ。ほとんどが森林国である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アイヌのコロボックル伝説はご存知だと思います。アイヌの祖先かどうかという論争はさておいて、【小人伝説】であるところが象徴的です。
森(大自然)の中では、人間の存在が如何に小さいものか。その中で人間は自然の偉大さを畏怖し、謙虚になるのです。この感覚は、ほとんどの人が共有できる感覚です。
原始宗教とは、この人間の当たり前の感覚に依拠していると思います。コロボックル伝説は、この普通の人間の感覚を【小人】という形で語っていると思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):「自然がお師匠」という物事の見方 2  ■名前 : ぎみゆら  ■日付 : 06/2/12(日) 20:36  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん、安本単三さん、こんにちは。
ご一緒のお返事でごめんなさい。


流水さん。関西と関東の温度差もあるようですが、「露骨は嫌よ」
という日本的な「粋」とか「通」とかの美意識は、いろんな文脈で
ありますよね。それこそ、チラリズムとか艶っぽい話題なんかを
いくつも思いつきますが。

それが、こういった形で「平和論議」と結びつくということは、
これまであまり掘り下げて考えたことがありませんでした。でも、
そういう話って、とても大事だと思います。

いわゆる平和運動家みたいな人たちって、マジメ、カタブツ、ヤボ、
そんなのが多くて、「それじゃダメだよ」と思うことしばしばです。
何をやるにしても、人間味とか猥雑感とかを抜きにして、「広がり」
なんかつくれるわけないのに。(笑)

とてもよいヒントになりました。
どうもありがとうございます。

安本単三さん。安田喜憲さんのご著書にはこんなのもあるんですね。

 ◆『敵を作る文明 和をなす文明』(PHP研究所、2003年)
 http://www.php.co.jp/bookstore/detail.php?isbn=4-569-62215-1

本の紹介をざっと見る限り、大事な指摘がいろいろとありそうな気が
します。「自然」の側からものを見ている人の言うことには、いつも
学ぶものが多いように感じます。

ご紹介、深く感謝いたします。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):戦争を笑い飛ばせ(1)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/11(土) 12:36  -------------------------------------------------------------------------
   小那覇舞天(通称ブーテン)という芸人がいた。
本名小那覇全孝。本業は、沖縄の歯医者である。
彼は敗戦直後打ちひしがれた沖縄民衆を笑いでもって励まし続けた
稀有の芸人である。
正直なところ、わたしは彼の名前だけは知っていたが、詳しいことは
何も知らなかった。今日、日本TV系列で放映された【戦争を笑え!伝説の芸人ブーテン】を見て、はじめて彼の凄さを認識しました。

何はともあれ、少し彼の生涯を紹介してみる。彼は現在の沖縄那覇高校を主席で卒業、東京の日本歯科大学に進学した。丁度そのころ、東京の浅草は大衆芸能のメッカとして田谷力三などをはじめ、多くの芸人が活躍していた。彼は、たちまち浅草に魅せられ、学生時代から学業のかたわらお笑い芸人として修行していたようである。
卒業後、沖縄に帰り、歯医者として開業するかたわら、お笑い芸人としてあらゆる集まりで活躍し、彼が団長を務めた消防団の団員は全員舞台に立つ役者にしたなどというエピソードを残している。
しかし、太平洋戦争が勃発。沖縄は本土防衛の最前線として軍事一色に染められます。
ブーテンさんは、その中で徐々に反戦色の濃い漫談を舞台で披露し始めるのです。
ヒトラーを皮肉ったり、沖縄娘に色目を使う軍人を皮肉ったり、使用禁止になった沖縄方言を使用したりして、精一杯の抵抗を試みます。

戦況利あらず、ついに沖縄本島に米軍が上陸します。山の中に避難したブーテンさんは、同じく着の身着のままで避難し、悲嘆にくれている島民たちを笑いで励まし続けます。
【ヌチヌスージサビラ―命のお祝いをしましょう 】
彼の口癖でした。命が助かっているだけ良いではないか。それを喜ぼうではないか。
そうやって、悲惨な避難生活を笑いで励まし続けたのです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):戦争を笑い飛ばせ(2)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/11(土) 12:59  -------------------------------------------------------------------------
   悲惨な沖縄戦が終わり、沖縄本島は米軍支配下に置かれます。
多くの避難民は、石川市におかれた避難民キャンプに収容されます。
米軍は占領支配をどうするかを真剣に検討し、芸能をその道具に使うことを
思いつきます。そして、キャンプの中で絶大な人気を博していたブーテンさんに
眼をつけ、文化課長として任命します。ブーテンさんは名実ともに沖縄芸能の大元締めになったのです・
ところがブーテンさんは、その権力を私することなく、敗戦に打ちひしがれ、多くの家族・親戚をなくし失意のどん底に沈んでいた沖縄民衆の励ましに全力を尽したのです。その当時の証言が残っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・「ヌチグスージサビラ(命のお祝いをしましょう)」。民家から、すっとんきょうな甲高い声が響く。「ジャカジャカジャン」。三線が鳴り、うたげが始まる。突然やってきた中年の男が、即興の歌を民謡の節に乗せ、琉舞を崩したヘンテコな踊りを舞う。珍客にあぜんとする住民たち。だがやがて、ユーモラスな姿に乗せられ、一緒に踊りだす。終戦の年、四十八歳のブーテンはそうやって地域を回った。

当時、ブーテンに連れられ民家を訪ね歩き、後に弟子となった芸能家・照屋林助さんの印象に残っているシーンがある。
ともに訪問したある屋敷。 家の中には位牌があり、家主が涙を流していた。「何でこんな悲しいときに歌うの」。問われたブーテンは答えた。「亡くなった人たちのためにも生き残った者が元気を出して、沖縄をしっかりつくっていかないと。はい、スージ(祝い)しましょう」。彼の言葉に家主の表情が変わった。林助さんはそのとき、芸能の力と、その魅力を引き出すブーテンの天賦の才能を感じた。
 集まりがあれば必ず顔を出し、場を盛り上げる変わった男がいる-。ブーテンの存在は、水面にさざ波が立つように知られて行った。「スージに来てほしい」。打ひしがれた人々の心が活力を取り戻しはじめた。ブーテンを中心に、地域の輪が広がりはじめた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://www.ishikawa-shoko.jp/buten.html
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/info/online-book/furusato100/html/furusato099.htm

このように彼は、戦後沖縄の人々に笑いを通じて、生きる意欲、復興の意欲を与え続けたのです。
彼は役職を退いた後も、地域のどんな小さな集会にも顔を出し、芸を披露し続けました。

【ヌチグスージサビラ(命のお祝いをしましょう)】
彼の生涯変らぬ信念でした。
彼の信念は今も沖縄の人々に脈々と受け継がれ、語り継がれ、沖縄芸能の火は今や
日本中に広がり続けています。
その原点に位置し、生涯を人々を笑わすことに捧げた無私の人、それが小那覇舞天という人を評するのにもっともふさわしい人物だったと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):戦争を笑い飛ばせ(2);訂正  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/11(土) 15:17  -------------------------------------------------------------------------
   以下の文章を以下のように訂正します。

その原点に位置し、生涯を人々を笑わすことに捧げた無私の人、それが小那覇舞天という人を評するのにもっともふさわしい人物だったと思います。
....................................................................
その原点に位置し、生涯を人々を笑わすことに捧げた無私の人、それが小那覇舞天
という人を評するのにもっともふさわしい言葉だったと思います。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━    通常モードに戻る  ┃  INDEX  ┃  ≪前へ  │  次へ≫    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━                                 Page 1520