Page 1044 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼教育問題スレッド・2 Ray 04/7/9(金) 17:40 ┣Re(1):教育問題スレッド・2 敦煌 04/7/9(金) 22:26 ┣Re(1):教育問題スレッド・2 元ウルトラ警備隊 04/7/10(土) 19:16 ┣Re(1):教育問題スレッド・2.小鉄さん:【13097】について 元ウルトラ警備隊 04/7/12(月) 11:48 ┗Re(1):教師は特殊な人達・? 珍 源齋 04/7/12(月) 17:48 ┗本当の敵は自分 団塊党 04/7/16(金) 1:01 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 教育問題スレッド・2 ■名前 : Ray ■日付 : 04/7/9(金) 17:40 -------------------------------------------------------------------------
▼みなさま: こんにちは、Ray@スタッフです。 「世直し『教育問題』」スレッドの書き込み数が100を超えましたので、 新たに「教育問題スレッド・2」を立てました。 以後のご議論には新スレッドをご利用下さいますよう、 よろしくお願い申し上げます。 以下は前スレッドの最後の書き込みのコピーです。 ---------- 【13609】Re(4):まとめレスで失礼 流水 - 04/7/9(金) 13:16 - ●特に「儀式的行事」と呼ばれるものは、文化・歴史的には「心をかたちにあらわす行為」すなわち「自分たちの思いを分かち伝えする行為(表現行為)」と言えるのではないでしょうか。このような「表現行為」は、喜びや哀しみを分かち伝え、別れ・出会い(「門出」)を「祝いの言葉」や「音楽」その他の「身体表現等」に託し、それを相手やたの出席者が「共感しこたえる」と言えます。そして、これらは「前国家的な自然権」であり、その表現のかたちは、分かち伝える側の創意により、また、それを受ける側は自由な創造的な連想と認知により「共感」するものと考えられます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「前国家的な自然権」という理念には賛成ですし、私自身は多くの行事をそのような発想で行ってきました。 ただ、現実の学校では、儀式は【前国家的な自然権】ではないのです。 卒業式が典型的な儀式なので、そのことで話しますと、開会宣言ではじまり、卒業生一人一人の名前の読み上げ(卒業証書授与)があり、校長訓示・教育委員会の祝辞・来賓祝辞(地元選出の政治家・有力者)などがあり、送辞・答辞があり、式歌(仰げば尊し)斉唱があり、国歌斉唱を行い、最後に保護者代表お礼の言葉の言葉と流れます。 この卒業式(正式には卒業証書授与式)のどこが【前国家的な自然権】とよべるのか、ということです。 卒業式の持ち方については、様々な議論を行ってきました。卒業証書授与を総代で行うか、一人一人に手渡すほうが良いかとか、来賓の呼び方をどうするかとか、送辞・答辞の内容を教師が点検する方が良いか、悪いか、式歌(蛍の光・仰げば尊し)を変えるのがいいのか悪いのか、君が代斉唱をどうするのか、など無数の論点がありました。 ところが、この卒業式の持ち方については、PTAの意向は、上記の伝統的卒業式を踏襲してほしい、というのが、大勢でした。私自身もPと何度も議論しましたが、この感情を変えることは難しかったのです。PTAの役員だけでなく、多くの保護者も同意見でした。上記のような卒業式でなかったら、卒業式という感じがしない、というのが、多数なのです。 だから、わたしは、卒業式の変革それ自体にエネルギーを費やすのは無駄だと思ったのです。そのかわり、学年独自の行事に多くの保護者を出席させ、子供たち自身の手で、企画・運営・実践させました。例えば、合唱大会・弁論大会・遠足成果の発表会(自分たちで調査し、それを冊子にまとめる)などなど。 これは、大変好評でした。「先生、子供だけでも凄いことができるんですね」というのが、大方の感想でした。 この延長線上で考えれば、卒業式の自主運営も可能でしたが、ここでは【学校行事】という法的な位置づけがネックになり、そこまでは至りませんでした。 わたしの県みたいに保守的な県では、このように【卒業式】という象徴的行事を直線的に変えるというのは、簡単にはいかないのです。 わたしの書いた事例のような具体的実践を積み重ね、保護者の信頼を勝ち取り、その後【前国家的自然権】という発想を具現化するという発想をとらないと、直線的な発想では難しいのです。 だから、わたしは日常の実践という発想に力点を置いているのです。同時に、上記のよう卒業式のありかたには、あまり意義を認めないほうが良いと考えています。 学校は、周囲の事情からそうやらざるを得ないのです。(特に校長は) それを認めるかわりに、様々な子供たちの自主的試みを企画しそれを実践させるほうが、実質的と思うのです。 【通過儀礼】の創出もその一つです。 わたしの勤務した県のようなところでは、このような柔軟な発想で実践しなかったら、やって行けません。しなやかに、したたかに、緻密に、具体的に、というのが」、わたしの信条でした。 --------- 【13611】Re(7 訂正;元ウルトラ警備隊さんへ 流水 - 04/7/9(金) 13:20 - 元ウルトラ警備隊さんへ 間違えて、下のスレッドにつけるものをここにしてしまいました。 |
珍 源齋さん >>子供、愚息達を育てるに際して多くの教師や先生方に接してきました・・が 教師、先生方には・一般の社会人に比較して「良い・悪いは別に」 常識的にズレがあるように思えてなりません・・。 学校などのシステムなど生活の場としての独特のバイアスがあることかな・ ・と見当はついてますが・・、 保守的・考え方の枠が堅い・・等々・教育界の管理システムが強固で 個性的な先生は何かにつけて生きずらいような雰囲気こ感じられますし・・ 学童の父兄であったのは遠い昔になりますが、今でも、気懸かりなことです・<< 学校を終わって直ぐに「先生」などと持ち上げられ・・・ 自分が見えなくなって居るのでしょう!? 歓楽街で「先生」とか「社長」と呼ばれるのは「金出せ!」って言っているのですから・・・(W それと似たようなもので・・・親も最近は、 「先生。うちの子お願いします」としか言わないそうで・・・ 心身を患う教師も多いとのことです。 学校は文字どおり学問の場所ですから、最低の常識ぐらいは入学前に 親が教えてしかるべきだと思います。 道徳教育をやめろ!と、どなたかが仰ってましたが、道徳は「稚拙」な子供に 常識を備え、集団生活。社会生活にも通ずる。所謂、「道徳心」を育てる為に重要です。 皆さん。親は先生に過度の期待は無用です。 |
▼Rayさん: >▼みなさま: > >こんにちは、Ray@スタッフです。 > >「世直し『教育問題』」スレッドの書き込み数が100を超えましたので、 >新たに「教育問題スレッド・2」を立てました。 >以後のご議論には新スレッドをご利用下さいますよう、 >よろしくお願い申し上げます。 > >以下は前スレッドの最後の書き込みのコピーです。 >---------- >【13609】Re(4):まとめレスで失礼 流水 - 04/7/9(金) 13:16 - > > ●特に「儀式的行事」と呼ばれるものは、文化・歴史的には「心をかたちにあらわす行為」すなわち「自分たちの思いを分かち伝えする行為(表現行為)」と言えるのではないでしょうか。このような「表現行為」は、喜びや哀しみを分かち伝え、別れ・出会い(「門出」)を「祝いの言葉」や「音楽」その他の「身体表現等」に託し、それを相手やたの出席者が「共感しこたえる」と言えます。そして、これらは「前国家的な自然権」であり、その表現のかたちは、分かち伝える側の創意により、また、それを受ける側は自由な創造的な連想と認知により「共感」するものと考えられます。 >・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >「前国家的な自然権」という理念には賛成ですし、私自身は多くの行事をそのような発想で行ってきました。 > >ただ、現実の学校では、儀式は【前国家的な自然権】ではないのです。 >卒業式が典型的な儀式なので、そのことで話しますと、開会宣言ではじまり、卒業生一人一人の名前の読み上げ(卒業証書授与)があり、校長訓示・教育委員会の祝辞・来賓祝辞(地元選出の政治家・有力者)などがあり、送辞・答辞があり、式歌(仰げば尊し)斉唱があり、国歌斉唱を行い、最後に保護者代表お礼の言葉の言葉と流れます。 > >この卒業式(正式には卒業証書授与式)のどこが【前国家的な自然権】とよべるのか、ということです。 >卒業式の持ち方については、様々な議論を行ってきました。卒業証書授与を総代で行うか、一人一人に手渡すほうが良いかとか、来賓の呼び方をどうするかとか、送辞・答辞の内容を教師が点検する方が良いか、悪いか、式歌(蛍の光・仰げば尊し)を変えるのがいいのか悪いのか、君が代斉唱をどうするのか、など無数の論点がありました。 > >ところが、この卒業式の持ち方については、PTAの意向は、上記の伝統的卒業式を踏襲してほしい、というのが、大勢でした。私自身もPと何度も議論しましたが、この感情を変えることは難しかったのです。PTAの役員だけでなく、多くの保護者も同意見でした。上記のような卒業式でなかったら、卒業式という感じがしない、というのが、多数なのです。 > >だから、わたしは、卒業式の変革それ自体にエネルギーを費やすのは無駄だと思ったのです。そのかわり、学年独自の行事に多くの保護者を出席させ、子供たち自身の手で、企画・運営・実践させました。例えば、合唱大会・弁論大会・遠足成果の発表会(自分たちで調査し、それを冊子にまとめる)などなど。 >これは、大変好評でした。「先生、子供だけでも凄いことができるんですね」というのが、大方の感想でした。 >この延長線上で考えれば、卒業式の自主運営も可能でしたが、ここでは【学校行事】という法的な位置づけがネックになり、そこまでは至りませんでした。 > >わたしの県みたいに保守的な県では、このように【卒業式】という象徴的行事を直線的に変えるというのは、簡単にはいかないのです。 > >わたしの書いた事例のような具体的実践を積み重ね、保護者の信頼を勝ち取り、その後【前国家的自然権】という発想を具現化するという発想をとらないと、直線的な発想では難しいのです。 > >だから、わたしは日常の実践という発想に力点を置いているのです。同時に、上記のよう卒業式のありかたには、あまり意義を認めないほうが良いと考えています。 >学校は、周囲の事情からそうやらざるを得ないのです。(特に校長は) >それを認めるかわりに、様々な子供たちの自主的試みを企画しそれを実践させるほうが、実質的と思うのです。 >【通過儀礼】の創出もその一つです。 > >わたしの勤務した県のようなところでは、このような柔軟な発想で実践しなかったら、やって行けません。しなやかに、したたかに、緻密に、具体的に、というのが」、わたしの信条でした。 > >--------- 流水さん 新スレッド移行のため、旧スレッドと重複しますが、ご容赦ください。 現場でのお話を伺い、ぎりぎりのところで、色々とご苦労や工夫をされたのだという印象を持ちました。私の父も教員(中学の数学)でしたので、私自身の実体験は無いものの、ご苦労の一端は理解いたします。また、これまで小・中・高とほぼ連続してPTAの役員をやらせていただいた経験から、教員の方は、部活やその他の雑用、事務、さらには他の社会教育団体の指導など、何かと駆り出され休日も満足に取れないという状況にあることも、私の心情的には「保護者や地域住民が教員の労力を必要以上に使ってしまっているなあ・・」という思いがあります。 一方、親の方はと言いますと、これまたサービス残業やノルマで父親は土日も会社に出勤し、学校行事にも出られない。単身赴任で家族はバラバラ、母親にPTAの役員を頼むと「PTAの役員になったらクビだ!」といわれる企業もあったりで、親の子に対する養育権などをまったく考慮しない企業の営利活動に、モラルのない経済活動に「教育を受けるべきは企業だろ!」などど腹立たしく思うこともありました。 |
小鉄さん:【13097】「咲き誇るジェンダーフリーの毒の花」について.その3. 遅くなりましたが、つづきを書きます。 近年の研究(飯塚信雄著「男の家政学」/朝日選書)によれば、男向けの領域「仕事」、女向けの領域「家事」などどいう境界線は産業革命とともに成立したと言われています。つまり、19世紀頃、産業革命の進行に伴って、生産の場は家から外へと変わり「家」の機能は縮小(家政から家事へ)していったと考えられます。一方、日本は明治維新によって、19世紀のヨーロッパをモデルとして、女性の役割を従前の封建社会以上に縛りつけ「男子専制社会」と言えるような体制を完成させ、制度が変わった現在に至ってもその影響を顕著に残していると考えられるのです。「女性差別撤廃条約」はまさにそのような慣行の撤廃を求めていると言えるでしょう。 また、憲法から考えれば、14条「法の下の平等」の精神を受け、24条「両性の本質的平等」があり、そして、これらの実現をするために教育基本法は、3条「教育の機会均等」、5条「男女共学」「互いの敬重と協力」を規定したものです。このような規定は、戦前のわが国において「家族制度」や「男子のみの選挙制度」などに見られるような男女差別が公認され、特に教育の分野においてそのような制度を再生産していったことへの反省があったからと考えられます(政府立法資料参照)。 憲法も教育基本法もその文言のなかに「等しく」という言葉を入れ、教育を受ける権利の平等を重要なものと位置づけています。しかし、一方で教育基本法は「個人の尊厳を重んじ」と述べまた、1条で「個人の価値をたっとび」としています。 憲法・教育基本法という法体系のなかで、「平等」と「個性(個人の尊重)」が同時に尊重されているのは、それらが相容れないものではなく、両立するものであるからであると言えるのです(両立するように扱うと理解してもよろしいでしょう)。 この一見相容れないように見える「平等」と「個性」の両立のヒントは、世界人権宣言にあると思われます。1条前段「すべての人間は生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利において平等である。人間は理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」と書かれております。 ここでの自由とは「自分の個性を創り出す自由と、それを発展させる自由」であると解釈すべきでしょう。なぜなら、「尊厳と権利において平等・・」であると謳っているからです。さらには、その個人の総体としての人格を形成する自由「人格権および幸福追求の権利」が認められるべきであります。 すなわち、すべての人は異なった存在(男女の差異を包括する。あるいはその差異を超えて)であり、誰一人として同じ人間はいないと観念付けられているのです。 また、同宣言1条後段「尊厳と権利において平等である」と書かれております。 これを理解する上で、ただ「あたりまえ」と理解してもよろしいのですが、私は是非「その昔人間は、人間と奴隷に分かれていた時代があった」という事を思い起こしていただきたいと思うのです。「男女の差異」とは、人種・門地などとは違うかもしれません。しかし、人種・門地などと同質の問題を含むかもしれません。 我々は、すべての人が異なった存在(男女の差異を包括する。あるいはその差異を超えて)であって、且つ「権利において平等である」ということに合意する他ないと言うべきなのです。 以上。 |
子供、愚息達を育てるに際して多くの教師や先生方に接してきました・・が 教師、先生方には・一般の社会人に比較して「良い・悪いは別に」 常識的にズレがあるように思えてなりません・・。 学校などのシステムなど生活の場としての独特のバイアスがあることかな・ ・と見当はついてますが・・、 保守的・考え方の枠が堅い・・等々・教育界の管理システムが強固で 個性的な先生は何かにつけて生きずらいような雰囲気こ感じられますし・・ 学童の父兄であったのは遠い昔になりますが、今でも、気懸かりなことです・・。 |
▼珍 源齋さん: >個性的な先生は何かにつけて生きずらいような雰囲気こ感じられますし・・ > >学童の父兄であったのは遠い昔になりますが、今でも、気懸かりなことです・・。 教師の仕事の難しさ生きずらさの一つは、結果がすぐには目に見えないということです。 子どもに愛情を注ぎ、かわいがり、褒めてやり自信を持たせ、時には親のような気持ちで叱ってやったりする中で少しずつ少しずつどんな子も良くなっていきます。 しかしそれは外側から一見しただけでは分かりません。 むしろ「あのクラスは統制がなく子どもを勝手にやらせている」などと言われたりすることがあります。 そして、形だけを子どもに押しつけて少しも子どもの心を育てていない、冷たい教師が評価されたりします。 流水さんが仰るように子どもの教育は粘土細工とは違います。 自分の思うように動かせると思うところに大きな落とし穴があります。 こう言っている私自身その落とし穴にはまっていることがあります。 教育の仕事は目に見えないところに深く作用していく営みです。 あせらず、見栄を張らず、地道に自分の理想を追い求めていく姿勢を保てるよう自戒しています。 本当の敵は自分の中にあるのかも知れません。 |