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 ▼江戸の都市学(1);世界に発信しうるコンセプト  流水 04/7/17(土) 14:38
   ┣Re(1):江戸の都市学(2);世界に発信しうるコンセプト  流水 04/7/17(土) 14:40
   ┃  ┣Re(2):江戸の都市学(2);世界に発信しうるコンセプト  団塊党 04/7/18(日) 4:21
   ┃  ┃  ┗Re(3):江戸の都市学(2);世界に発信しうるコンセプト  流水 04/7/18(日) 10:21
   ┃  ┃     ┗Re(4):江戸の都市学(2);世界に発信しうるコンセプト  団塊党 04/7/19(月) 9:02
   ┃  ┗Re(2):江戸の都市学(2);世界に発信しうるコンセプト  石頭の息子 04/7/20(火) 0:52
   ┃     ┗Re(3):江戸の都市学(2);世界に発信しうるコンセプト  流水 04/7/20(火) 8:01
   ┣Re(1):江戸の都市学(1);世界に発信しうるコンセプト  珍 源齋 04/7/18(日) 12:23
   ┃  ┗Re(2):江戸の都市学(1);世界に発信しうるコンセプト  珍 源齋 04/7/21(水) 9:22
   ┃     ┗Re(3):江戸の都市学(1);世界に発信しうるコンセプト  流水 04/7/21(水) 10:14
   ┗Re(1):江戸の都市学/世界に発信しうるコンセプト  蟷螂の斧 04/7/20(火) 2:23
      ┣Re(2):江戸の都市学/世界に発信しうるコンセプト(訂正)  蟷螂の斧 04/7/20(火) 2:47
      ┗Re(2):江戸の都市学/世界に発信しうるコンセプト  流水 04/7/20(火) 7:41
         ┗Re(3):江戸の都市学/世界に発信しうるコンセプト  蟷螂の斧 04/7/20(火) 12:11
            ┗Re(4):江戸の都市学/世界に発信しうるコンセプト  流水 04/7/20(火) 12:38
               ┗Re(5):江戸の都市学/【下降思考】を返上します  蟷螂の斧 04/7/20(火) 22:46
                  ┗Re(6):江戸の都市学/【下降思考】を返上します  流水 04/7/21(水) 0:00
                     ┗Re(7):江戸の都市学/撤回感謝  蟷螂の斧 04/7/22(木) 13:17
                        ┗Re(8):江戸の都市学/了解いたしました。  流水 04/7/22(木) 13:54
                           ┗Re(9):江戸の都市学/遠慮せずに言えば  蟷螂の斧 04/7/23(金) 0:58
                              ┗Re(10):誤読は撤回!  流水 04/7/23(金) 11:03
                                 ┗Re(11):誤読は撤回!/撤回了承&終了  蟷螂の斧 04/7/24(土) 13:32

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 ■題名 : 江戸の都市学(1);世界に発信しうるコンセプト
 ■名前 : 流水
 ■日付 : 04/7/17(土) 14:38
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   先日、オフ会で東京へ出かけた。6年ぶりの東京は、相変わらず忙しい都市だった。
わたしは、江戸学に興味があり、何冊かの本も読んでいる。
その中で、【江戸・東京を読む】小木新造)(筑摩書房)という学際的研究書がある。
近世史・近代史・建築史・都市計画・民俗学・社会学など多様な視点から江戸・東京の
連続性に注目したものである。

その中で、わたしが特に注目したのは、陣内秀信(建築史・法政大学教授)の研究である。
【柔らかい都市構造】と題された彼の報告は、21世紀日本のあり方を示唆する素晴らしいものだと思う。

彼の研究は、【神輿のルート】を地図に落とし、氏子集団の地域コミュニテイが地形との関係で
どのように作られたかを研究している。
江戸時代と現在の神輿ルートを【東都歳時記】などの資料を基に地図上に落とし、地形との結びつきと、神輿ルートと氏子のコミュニテイ構成原理を考える研究である。

彼によれば、「江戸・東京には、地域ごとの祭り(浅草・深川など)はあるが、都市全体を統合する祭りはないという。これはイタリアなどでは考えられない。イタリアのシエナの祭り・ベネチアの国家的な儀式は、都市国家全体で行うものが多く、都市国家統合の役割を担っている。
これに対して、江戸の場合は、地域ごとの祭りが主体で、地域の自立性に任せることが多い。」そうである。
さらに、彼はヨーロッパの諸都市を分析して、こう述べる。
「西欧の建築の歴史では、古代、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、マニエリズム、バロック、近代、現代のように、様式のダイナミックな展開があるが、それと同様に、都市の形成原理、市街地のパターンにもはっきりした時代様式がある」「歴史的街区、いわゆる産業革命までに造られたふり町並みが残っている城壁の内側の地区は、ヒューマンスケールでできていて、いわゆる近代の都市計画で造られた都市とは異質な空間を形作っているが、そういうものを現代で現代において再生産をすることはほとんど不可能だと考えている」
だから、ヨーロッパの都市は、保存に対して熱心であると、いうのである。

ヨーロッパを旅行されたかたなら、(特にイタリア)このことは素直に納得されるであろう。
では、日本(特に江戸・東京)は、なぜそうならないのか。
彼の研究は、全く新しい視座を提供する。
彼は、東京の町並みをこのように概括する。
「古いところも新しいところもあまり違いがない」「西欧に比べて、ダイナミックな時代様式というものがない」「あたかも下町の中にある遺伝子が郊外に飛び移って、その中に吸収されながら町がつくられていく」「同時に、新しくできる郊外の街にも、商業的、文化的な刺激のある複合的な都市機能を持ったローカルなセンターをつくっていく力がある。・・・これは、ヨーロッパの都市では考えられない」

彼は、このような特徴を持った江戸・東京の都市機能を【柔らかい構造】と呼び、長所と短所を以下のように語る。
1、活力ある都市を大きく発展させていく上でプラス。
2、都市の形態を規定する要因、つまり中心がなくなり、都市が一定の規模でおさまるべきだという考え方が成立しなくなる。⇒自然を食いつぶしながらの、だらしない発展を引き起こす。

※私註⇒上記のことは、ヨーロッパの都市との比較だけでなく、京都との比較でも立証可能ではないかと思う。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):江戸の都市学(2);世界に発信しうるコンセプト  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/7/17(土) 14:40  -------------------------------------------------------------------------
   ここで問題となるのが、【中心】という思想である。
彼は、西欧の都市には、明確に【中心】という思想があることを、中世ベネチアの都市図をもとに説明する。サン・マルコ広場を図面の真ん中におき、そこからの遠近法により、都市を説明するという手法が、西欧人の【中心意識】の強さの証明であるという。
これは、パリ・ロンドンなど西欧の都市に共通する特徴である。

ところが、江戸時代、日本にはベネチアに都市図のように江戸の街全体を統合して眺めるようなものはなく、名所双六化したものが多いという。
「鳥瞰的な見方より、名所双六的なものの方が、江戸という都市の特性をつかみやすい」というのである。

なぜそうなるのか。彼の神輿のルートの研究、例えば深川についてこう語る。
「深川は町会の境界線が掘割に対応し、水が結界になっている場合が多い。鳳輦(ほうれんと読む。いわゆる山車である)が回っている間、それと平行して各町会では、神輿が自分の町の中を廻り、町境の橋のたもとで待機する。そして有力町会が示し合わせて大デモンストレーションをやる。つまり、橋や川という普段は景観的なアクセントに過ぎなかったものが、祭りの時には社会的な意味を担うようになる」
「ヨーロッパに比べて、深川自体で一つの都市になっている」「そして町会通しの間にライバル意識がある」「そういうライバル意識が浅草にも深川にも根津にもある」「そして、今度は深川と浅草がライバル意識を燃やす」⇒「都市全体のエネルギーが下から高揚してくるという構造は、西欧の都市と大きく違う」

つまり、彼は江戸・東京のそれぞれの街はそれ自体で一つの都市になっており、それぞれの町がお互いに競い合うことにより、都市全体のエネルギーが下から高揚してくるところが、江戸・東京の都市構造の特徴であるといっている。
だから、江戸時代、江戸を鳥瞰的に眺める都市図がなく、双六的に眺めるほうが特徴がつかみやすくなったという。
もう少しいえば、江戸の町には、「中心」という思想がない、ということになる。様々なところに、中心があり、そこを中心にして都市機能が働いていたのが、江戸という都市の特色であるというのである。

ここまでくれば、誰にでも同じ疑問が沸くはずである。江戸にも東京にも、江戸城という立派な中心があるではないか。
彼は、このことには明確には答えていないが、わたしは西欧の都市国家と日本の城下町の生成の違いに起因すると考える。

以前、わたしは城下町と寺内町の違いについて、書いたことがあるが、西欧の都市国家は城壁の中に権力者も民衆も共に生活していた。外敵に攻められた場合、文字通り一蓮托生で運命をともにする構造になっていた。
ところが、日本の城下町は、城に篭るのは支配者であり、民衆は城の外で自分で自分を守らざるを得なかった。
だから、形態的には、中心が城であっても、【支配者のための城】であり、自分たちの城ではないという潜在的意識が働いたであろうことは、容易に想像できる。
この彼我の「中心意識」の差が、西欧の都市と江戸・東京の都市構造に反映されていると考えられる。

明治維新以降、東京は2度都市改造を行える機会があった。一度は、関東大震災後であり、一度は太平洋戦争後である。しかし、そのいずれも、中途半端でうまくいかなかった。
特に、関東大震災後に、後藤新平が中心になった【帝都復興事業推進計画】は、世界の大都市計画の模範になりうる壮大さを持っていた。
街路・運河・公園・鉄道・築港などを含んだ総合的計画であった。計画当初の予算規模は、概算で30億〜50億(当時の国家予算が15億)という破天荒な計画であった。
その計画の一部を書くと、幹線道路(品川〜千住)の幅員40間(約72m)という当時としては、考えられない規模だった。
結局、最終的に決定されたのは、予算規模4億6800万というきわめて縮小された規模になった。

前に書いた「出羽の守」発想から見れば、この結果は日本の後進性の典型に映る。ところが「大和の守」発想の人間には、この種の都市つくりなどという発想がもともとない。陣内氏も書いているが、江戸の氏子コミュニテイが、田舎コミュニテイの類似形であることを考えれば、東京は田舎の集積体ということになるかもしれない。
これが、東京という都市の一種混沌としたイメージを生むのであろう。

しかし、この江戸・東京の「双六的都市機能」を再評価する時代が、現代ではないかと思える。
【中心意識】過剰の西欧的発想から、【双六的多様性】を重視する時代に入っているのが、現代という時代ではないか、と思う。

米国流一国主義は、西欧流【中心意識】の一方の極点を意味している。それに対置する価値観の創出が、21世紀という時代の要請である。
【双六的多様性】=(それぞれの場所ですべてが完結する)が、それに対置する有力な価値観として提示されるべきであろう。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):江戸の都市学(2);世界に発信しうるコンセプト  ■名前 : 団塊党  ■日付 : 04/7/18(日) 4:21  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:

>なぜそうなるのか。彼の神輿のルートの研究、例えば深川についてこう語る。
>「深川は町会の境界線が掘割に対応し、水が結界になっている場合が多い。鳳輦(ほうれんと読む。いわゆる山車である)が回っている間、それと平行して各町会では、神輿が自分の町の中を廻り、町境の橋のたもとで待機する。そして有力町会が示し合わせて大デモンストレーションをやる。つまり、橋や川という普段は景観的なアクセントに過ぎなかったものが、祭りの時には社会的な意味を担うようになる」
>「ヨーロッパに比べて、深川自体で一つの都市になっている」「そして町会通しの間にライバル意識がある」「そういうライバル意識が浅草にも深川にも根津にもある」「そして、今度は深川と浅草がライバル意識を燃やす」⇒「都市全体のエネルギーが下から高揚してくるという構造は、西欧の都市と大きく違う」

私は8年前から町田市に住んでいます。東京とは言っても江戸からは遠く離れた地、神奈川県境に位置しますので、深川のような町の一体感は何も感じません。
高校野球では桜美林とか日大三校が全国制覇を最近立て続けにしましたが、何の盛り上がりも感じません。
町としては本当に味気ないところです。

その前は八王子市に18年ほどいました。
甲州街道の宿場町として栄えた町ですので、町田市に比べ町の伝統、一体感を感じます。
この町には八王子祭りがあり7月の末になると山車が周ります。
各町内会は盛り上がりにぎわいを見せます。
高校野球で出場でもすればかなりの盛り上がりを見せます。

私の故郷である唐津は10万石に満たない城下町。
ここの唐津くんちは有名です。
14台の曳山が町中を疾走するのは子供心にも血が騒いだものです。
江戸後期に各町が競って作りました。今の金額で言えば一台数億円はかかると言われています。
相当のライバル意識があったものと思われます。
私は残念ながら旧城下町からはずれた所に住んでいましたので引いた経験はありませんが、それでも心がおどりました。
くんちの日には学校は2時間ほどで終わるのですが、1時間だけで早引きして帰る同級生(曳山を引くために)は何ともうらやましかったものです。

深川とか根岸、浅草などは今でもこのような熱気が残っているのかどうかは分かりませんが、祭りを中心にした町のエネルギーの名残は感じられるのではないかと想像します。
一度、行ってみたいと思います。
フーテンの虎さんの世界ともつながっているのでしょうか。
東京が田舎の集合体であるというのはそういう意味では非常に幸運なことだなと思いました。

グローバル化の時代だとか言いますが、地域や国のエネルギーをそいでしまうようなことをそれがもたらすとしたら味気ない時代になると思います。
アメリカの価値観だけを追い求めていくのはどう考えても人間を幸福にするとは思えません。
忙しく味気ない時代を自ら求めていくような気がしてなりません。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):江戸の都市学(2);世界に発信しうるコンセプト  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/7/18(日) 10:21  -------------------------------------------------------------------------
   長い文章を読んでいただいて、申し訳ありません。
わたしは、現在の子供たちの問題を解決するには、子供たちが生きる『環境』の
問題をどのように考えるかが、最も重要なことだと考えているのです。

江戸・東京に西欧的な意味での『中心』がない、ということの、光と影をきちんと検証して、その積極的な側面をどのように促進していくかが、問われているのだと思います。

環境の問題とリンクさせて考えるとき、日本は世界に誇れるきれいな『水』を保有している国だと思います。例えば、京都という都市は、いまだに地下水が充分飲み水として使用可能な世界の大都市でも稀有な例外的都市です。

ところが、京都だけでなく、もともと江戸も大阪も『水の都市』として発達してきたものです。
江戸を考えるとき、現在京都で真剣に考えられている【水】の問題も、大きな切り口の一つとして考慮されるべきだと思います。
このような問題を総合的に考えていくことが、これからの教育問題を考えるときの大きなヒントが得られると思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):江戸の都市学(2);世界に発信しうるコンセプト  ■名前 : 団塊党  ■日付 : 04/7/19(月) 9:02  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:

>わたしは、現在の子供たちの問題を解決するには、子供たちが生きる『環境』の
>問題をどのように考えるかが、最も重要なことだと考えているのです。
>
>江戸・東京に西欧的な意味での『中心』がない、ということの、光と影をきちんと検証して、その積極的な側面をどのように促進していくかが、問われているのだと思います。
>・・・・・・・・・
>・・・・・・・・・・
>ところが、京都だけでなく、もともと江戸も大阪も『水の都市』として発達してきたものです。
>江戸を考えるとき、現在京都で真剣に考えられている【水】の問題も、大きな切り口の一つとして考慮されるべきだと思います。
>このような問題を総合的に考えていくことが、これからの教育問題を考えるときの大きなヒントが得られると思います。

貴重な示唆を与えて頂き有り難うございます。
特に、教育問題を考える上で子どもの生きる「環境」をどう考えるかが「最も重要」であるというご指摘はしっかり心にとどめておきたいと思います。
彼らが今後生きていくことになる地球、日本、地域の環境を切実な問題として捉え追及していく姿勢はしっかり持たせてあげたいものです。
その前に私自身がもっと切実感を持って学んでいかなくてはと感じています。
今後ともご助言をよろしくお願いいたします。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):江戸の都市学(2);世界に発信しうるコンセプト  ■名前 : 石頭の息子  ■日付 : 04/7/20(火) 0:52  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん、

退職してからは、ほこりをかぶった本を引っ張り出しては読み直しています。

昭和55年頃の衣食住に関して著名人のエッセイ集で「住まい」の中で「日本における【住】の観念」加藤秀俊(評論家 学習院教授)が江戸の住まいに言及していた。

一部だけをかいつまんで要約しますが、彼は些か乱暴であるがと断って、日本の住まいは「仮住まいの住宅」「滅びる事を前提とした住まい」といいています。

日本の住まいは欧州と比して基礎の違いを挙げている、空爆を受けた欧州と日本を比べて、欧州は住まいの基礎が地中に残っていた、しかも煤だらけの外壁を修復して塗装すれば元の町並みが再現される、日本は文字どうりの焼け野原であった、基礎がないので焼け野原となって消滅したと。

そう言えば、戦後子供の頃は焼け野原の草むらに細長い縁石がそこに建物があった名残として不規則に横たわっていたのを鮮明に覚えている、子供心にそこに人の棲んでいた形跡をみて何かを感じていた。

そして、戦国時代の民衆つまり農民、町民はいたって気軽に住居を捨てたようだ、土豪、大名は勢力拡大に努めるが、その過程で城攻めをする、すると近在の民衆は戦火を逃れて山に登り、文字どうり高見の見物をする、戦が終われば廃墟にもどり数日で家を作るという。

その簡易な家は掘建て小屋で、武家の家も焼け落ちるのを前提にしていたとか、表向きは格式を重んじて門、玄関は立派だったが、奥向きは簡素であったらしい。

東照宮や増上寺は荘厳ではあるが、建築としてはそうでは無い、華麗で伝統的な花鳥風月やが彫られているが、それらを贅沢に飾っているから壮麗だという。

チェンバレンをの引き合いにして、日本の住まいが住居としては劣悪であったとまで言っている。

話はそこで江戸に移るが、江戸の町とて住まいは焼け落ちるのを前提としている、江戸では火事で焼け落ちないのは奇跡でさえあった、随筆【耳袋】では麹町四丁目の小西何某の薬種問屋が四回火事に遭って焼けなかったのは、皮袋をすっぽりかぶせたからだとか、そんなことは出来ないが、それほどに家が焼けないのは稀有なことであったらしい。

それから話は、文化文政の江戸熟覧期に三度の大火事があったそうで、その一は文化三年の高輪の火事、その二は文政十二年神田佐久間町、その三は天保五年の同じ神田であった、この一連の火事で江戸市民は都心を焼け出され郊外に住まいを立てた、そこは火事が怖いのでなくて、水の便の良いところと、というので本所、深川、であったそうです、焼け跡も借りの住まいが立てられたが隠居の庵のようであったそうです、要するに雨露のしのげる最低住宅を作って住み着くのだったようです。

これが日本の都市におけるメタポリズムの原像であるという。さらに家が焼ければ、しかるところに仮住居を作ってしまうという方式は、日本の都市スプロールさえ形成したと、この三度の大火で根岸村に江戸市民が移住したのは上野の山が江戸の火事から比較的安全であったからだそうですが。【寛天見聞記】には「・・百姓地へ町人住居を求むる故、地代、店賃の益を貪り、耕作に骨惜しみする輩、田畑へ家作して賃家にすることぞとなりにける」とあるそうで、現代のの郊外型住宅地を彷彿させる。

そして、先の大戦では「空襲なんぞ恐るべき」という国民歌謡があり「家が焼けたら、また建て直す、ただ、それだけのことですわい」の歌詞はプロパガンダではあったが、正しく日本文化における「住」がどのようなものであったか、意外に正しく表現していると言っている。

加藤氏の話はこの前後に渡り様々な考察があったが、この江戸のくだりは流水さんの「江戸の都市学」と重複するところと、違った視点の交錯が面白かった。

他に、このエッセイ集には、南方からの高倉、切妻造、の考察や、谷崎潤一郎の「陰エイ礼讃」(いんえいらいさん)等は日本人の住居観から、ひいては日本人のアデンティ、感性がどのようなものであったかと想像を掻き立てる。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):江戸の都市学(2);世界に発信しうるコンセプト  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/7/20(火) 8:01  -------------------------------------------------------------------------
   加藤氏の住居の考察は、日本の住居について、よく言われたことでもありますね。
今回の陣内氏の考察は、それとは微妙に違うと思います。
というのは、彼の発想は、江戸の都市学つまり江戸という都市を作り上げた思想を探るというところに力点があります。

これは、誰それの思想というものではなくて、江戸の町に総体として表現された思想を探る、その手がかりとして、神輿ルートから氏子コミュニテイを見るという手順を踏んでいます。
江戸の住居そのものが、考察の対象になっていないのです。

これが、加藤氏と陣内氏の微妙なずれとして、現れているのだと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):江戸の都市学(1);世界に発信しうるコンセプト  ■名前 : 珍 源齋  ■日付 : 04/7/18(日) 12:23  -------------------------------------------------------------------------
   江戸が人口密度から云って世界的に中世最大の都市?であったことを
聞いて驚いたことがありました。

而も、政府や行政に頼らない、町衆「市民・住民」の自治により運営されておった
ことも加えて治安や犯罪の防止に関わる岡っ引き「銭形平治・的」なども・・

消防も「火消し集団」も役人ではない一般住民からなる専門職・或いは
パートタイマーのような人達がそれに当たってたのこと・・。

それから落語などでの題材「長屋風景」にも、江戸っ子は宵越しの金は持たない
と云わせた背景には長屋の大家さんを中心とした互助機能があって・・

余分な金銭を持たずとも生活に支障が無かった・・等々。

幕府の都市経営的な行政コストは江戸住民に任せたことで信じられない程の
低いものであったと云われてます・。

環境面では華の都と云われてた当時のフランスの巴里などは糞尿の臭いに
まみれてたそうだが・・

江戸は世界中、何処にも無い清潔感溢れる都市であったと当時、日本を訪れた西洋人が
その印象を書き残してるのを、何かの本で読んだ記憶がある・・。

資源の完全な循環「リサイクル」の確立等々・・ユニークな「暮らしの知恵」の
オンパレードであった事を伺い知ることが出来る・・。

流水さんの提起として「21世紀」世界に向けて改めて発信することのコンセプト
として江戸住民の知恵を要約すれば「大きく人類に貢献」できるものと思います・。

流水さんとは少し違った切り口から考えてみました。 有難うございました!。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):江戸の都市学(1);世界に発信しうるコンセプト  ■名前 : 珍 源齋  ■日付 : 04/7/21(水) 9:22  -------------------------------------------------------------------------
   江戸は徳川家康が開府以来の都としての発展は世界中の何れの都市に
見られないごく自然な形態で人口が集まり、徐々に発展した世界中でも

例の無いユニークな都市であり徳川幕府としては政権を維持するのに
必要なマンパワーの確保と緩やかな人口抑制政策と・・・

江戸は江戸城築城に働いた職人集団を元に発展したことと
職人の親方、子方の秩序を生かした住民自治が自然発生的に機能を高めていった。

長屋もその例を元とする秩序でそれに準じてる・・。

徳川幕府の発した法律「法度」も極めてシンプルなものであった。
例えば喧嘩が多発したので「喧嘩・両成敗」など・・

江戸は男性の単身者が多かったことで遊び郷「吉原のような遊郭」及び
賭博なども「現在のパチンコ」のように「目こぼし」としての容認?も

あり・住民自治を基調とした間接統治?の形態にあったように思える・。

江戸の庶民にある程度の自由があったので住民の創意工夫が生きたことが
循環的な経済システム・寺子屋にみる教育制度などが機能したことにより

これも当時の世界でも稀に見るほどの「文盲」率の低さと
現代の数学にも通じる・・高度なものがあった・。

江戸は柔らかい統治と自然発生的な住民の創意工夫が生かされた都市で
あったと今・改めて高い評価がなされる所以と認識されてます・・。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):江戸の都市学(1);世界に発信しうるコンセプト  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/7/21(水) 10:14  -------------------------------------------------------------------------
   江戸が再評価される理由は、多々あります。珍源斎さんのご指摘の点について、2、3書いてみます。

1、循環経済について⇒人間は口から食べて、下から排泄します。この単純な原則は、人間が生きている限り、避けられないものです。これは、教育でもそうですが、この単純な原則をどのように教えるかが、まず第一に考えられなければなりません。
これは、為政者にとっても同様です。食べる、排泄する、という人間にとって最も基本的な原理をどのように考えるかが非常に重要なことになります。

江戸の場合、例えば江戸城の排泄物は、汚わい舟によって葛飾あたりの百姓に払い下げられ、それが肥料として使われたという記録が残っています。当然ながら、他の大名屋敷も同様なことが行われていました。

では、他の庶民はどうだったか。これは、厠という言葉の原義から考えれば、こうなります。厠というのは、文字通り「川屋」なのです。つまり、当初、排泄物は、ほとんど【川】に流されていたことが想像できます。それが、徐々に改善され、結局大名屋敷などと同じような形で処理されていったと想像できます。

これは、大阪や京都も同じ事情です。そのため、江戸時代の日本の都市は、同時代の他国の都市に比べてはるかに【清潔】で【衛生的】だったのです。

例えば、同時代のパリなどは、それこそ糞尿にまみれた都市で、非常に臭かったと記録に残っています。藤田嗣司という画家がパリのアパルトマンで、フランスの画家と一緒に暮らしていたところ、彼が大便を紙にくるんで平気で部屋に投げるので、臭くて困ったという話を「巴里の横顔」で書いています。
20世紀初頭でもそうだっったのですから、それ以前は想像に難くありません。

だから、巴里の下水道は、この解決法であったし、ハイヒールのかかとが高いのは、そこらあたりに捨てられた大便を踏みつけた時のことを考えた商品ですし、香水のきつい臭いは、糞尿の臭いを消すために発達したものです。

このようなことを考えれば、如何に江戸の循環型処理が優れていたかが納得できます。

2、吉原などの遊び場の設置
これには、諸説がありますが、元吉原が、現在の日本橋近くにあったことは確かです。原語では、「葭原」といい、もともと葭が生い茂っていたところだったのです。いわゆる【振袖火事】で全焼したため、現在の浅草浅草寺裏に移されたのです。
いわゆる【鉄漿どぶ】に囲まれた一角は、公許の遊び場でした。これには、「税」の徴収という財政的な問題をありましたが、もともと江戸という町は新開地で、男性の人口が女性に比べて多く、その生理的な問題が、【火事と喧嘩は江戸の華】と言われるくらい、揉め事の原因の一つになっていたのです。
だから、庶民の間では、女性の地位はきわめて強く、お嫁さんをもらうのは一苦労だったのです。これは、武家社会の女性の地位とはまるで違っていたのです。

吉原はこのような生理的問題の解決と同時に、身分制度のはけ口という側面ももっていました。吉原で最高の価値は、【金】であり、それこそ「金のないのは首のないのと同じ」であり、さらに遊びのモラル(粋の精神)が尊重されました。
ここでは、昼の秩序(身分秩序)が逆転した世界があったのです。これが、吉原の大きな存在価値でした。吉原の大門をくぐると、そこでは武士身分も町人身分もなく、あるのは【お金】と【粋の精神の有無】だけという世界が広がっていたのです。
これはまことに巧妙な【身分制度の通底口】だったのです。このような公許の遊び場という発想も、江戸の支配の特徴の一つでした。

長くなりました。江戸の話は嫌いでないので、つい筆が走るのです。お許しください。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):江戸の都市学/世界に発信しうるコンセプト  ■名前 : 蟷螂の斧  ■日付 : 04/7/20(火) 2:23  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:

こんばんは。蟷螂の斧です。

少し、お話ししたくてレス致します。

タイトルのもとになった陣内秀信(建築史・法政大学教授)の研究【柔らかい都市構造】を読んでいませんし、それで何かを言うのは失礼かと思いますが、都市構造から見たヨーロッパと日本(江戸)の比較と江戸文化/江戸都市構造に基づく日本文化・思想の優位性(?)をおっしゃっているのではないのかなと感じました。

西洋文明は、エジプト王朝文明、ギリシャ都市文明(都市国家)から、ローマ(ローマ帝国)に至り、キリスト文明(暗黒の中世)から、ルネッサンスを経て、近代文明のもとを形成し、哲学(思想)・科学・技術の発展のもとに近代国家を形成したと思います。
そのバックボーンは、カトリック、プロテスタントと形を多様化させたといえ、キリスト教(一神教)思想でした。
(この時代、平行してアラビア文明があり、暗黒の中世以前は、アラビア・中国文明の方が、科学・技術的には進んでいたと思われますが、ムスリム信仰にはルネッサンスが起こらず停滞したようです。同じく、中国では、異民族の儒教支配?で漢民族のルネッサンスが無く停滞したようです)。

西洋は、キリスト信仰(一神教)に基づく、中心城郭都市構造(中心には、教会があります)に加えて、石造建築文化で、地震、台風、洪水と言った自然災害は少なく、石造建築が壊れることは無かったのではないでしょうか。従って、都市中心からリングを拡げて都市は拡大していったと思います。

一方、日本は、シャーマニズムに基づく多神教+仏教(六道輪廻・諸行無常)の思想に加えて、木造建築文化であり、地震、台風、洪水と自然災害が絶えない日本においては、住居は永遠のものではなかったのです。「かつ消えかつ浮ぶ」だったのではないでしょうか。

このような中でも、日本にも城郭都市はありました。日本の戦国時代、統治能力に優れた統治者は必要に応じて領民を城郭に入れ、共に外敵と戦った筈です(的確な例ではないかとも思いますし、間接証拠ですが、石山本願寺の戦い、島原の乱、天草四郎時貞の戦いなどは領民が城郭内で戦っています。城郭に入る、入らないと言うことは統治者と領民との関係によるのではないでしょうか)。

さて、江戸の町ですが、中心点があちこちにあり、中央集権的ではない、といわれておりますが、まず、江戸250年戦争がありませんでした。平和な町です。城郭など意味は無かったでしょう。同質の日本人は、同質なるがゆえに異を求めて町が分散したのではないでしょうか(ヨーロッパは、異質の集まりであるがゆえに、中心・共通を求めた)。

江戸の先進性は、まず250年間の平和が町人文化を育てた。多極は日本人の置かれた環境、宗教観・思想による。都市構造は、思想の結果であり、都市構造から「思想」を考えるのは逆ではないか。

というのが小生の感想です。

支持する事実データはありません。思い浮かぶ記憶と弊価値観によって、ちょっとボケた頭で考えたものです。また、貴論を誤解しているかもしれません。

あわせて、ご批判ください。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):江戸の都市学/世界に発信しうるコンセプト(訂正)  ■名前 : 蟷螂の斧  ■日付 : 04/7/20(火) 2:47  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん:下記”アニミズム”追加・訂正します。宜しく。

>▼流水さん:
>
>こんばんは。蟷螂の斧です。
>
>少し、お話ししたくてレス致します。
>
>タイトルのもとになった陣内秀信(建築史・法政大学教授)の研究【柔らかい都市構造】を読んでいませんし、それで何かを言うのは失礼かと思いますが、都市構造から見たヨーロッパと日本(江戸)の比較と江戸文化/江戸都市構造に基づく日本文化・思想の優位性(?)をおっしゃっているのではないのかなと感じました。
>
>西洋文明は、エジプト王朝文明、ギリシャ都市文明(都市国家)から、ローマ(ローマ帝国)に至り、キリスト文明(暗黒の中世)から、ルネッサンスを経て、近代文明のもとを形成し、哲学(思想)・科学・技術の発展のもとに近代国家を形成したと思います。
>そのバックボーンは、カトリック、プロテスタントと形を多様化させたといえ、キリスト教(一神教)思想でした。
>(この時代、平行してアラビア文明があり、暗黒の中世以前は、アラビア・中国文明の方が、科学・技術的には進んでいたと思われますが、ムスリム信仰にはルネッサンスが起こらず停滞したようです。同じく、中国では、異民族の儒教支配?で漢民族のルネッサンスが無く停滞したようです)。
>
>西洋は、キリスト信仰(一神教)に基づく、中心城郭都市構造(中心には、教会があります)に加えて、石造建築文化で、地震、台風、洪水と言った自然災害は少なく、石造建築が壊れることは無かったのではないでしょうか。従って、都市中心からリングを拡げて都市は拡大していったと思います。
>
>一方、日本は、シャーマニズム・"アニミズム”に基づく多神教+仏教(六道輪廻・諸行無常)の思想に加えて、木造建築文化であり、地震、台風、洪水と自然災害が絶えない日本においては、住居は永遠のものではなかったのです。「かつ消えかつ浮ぶ」だったのではないでしょうか。
>
>このような中でも、日本にも城郭都市はありました。日本の戦国時代、統治能力に優れた統治者は必要に応じて領民を城郭に入れ、共に外敵と戦った筈です(的確な例ではないかとも思いますし、間接証拠ですが、石山本願寺の戦い、島原の乱、天草四郎時貞の戦いなどは領民が城郭内で戦っています。城郭に入る、入らないと言うことは統治者と領民との関係によるのではないでしょうか)。
>
>さて、江戸の町ですが、中心点があちこちにあり、中央集権的ではない、といわれておりますが、まず、江戸250年戦争がありませんでした。平和な町です。城郭など意味は無かったでしょう。同質の日本人は、同質なるがゆえに異を求めて町が分散したのではないでしょうか(ヨーロッパは、異質の集まりであるがゆえに、中心・共通を求めた)。
>
>江戸の先進性は、まず250年間の平和が町人文化を育てた。多極は日本人の置かれた環境、宗教観・思想による。都市構造は、思想の結果であり、都市構造から「思想」を考えるのは逆ではないか。
>
>というのが小生の感想です。
>
>支持する事実データはありません。思い浮かぶ記憶と弊価値観によって、ちょっとボケた頭で考えたものです。また、貴論を誤解しているかもしれません。
>
>あわせて、ご批判ください。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):江戸の都市学/世界に発信しうるコンセプト  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/7/20(火) 7:41  -------------------------------------------------------------------------
   ●石山本願寺の戦い、島原の乱、天草四郎時貞の戦いなどは領民が城郭内で戦っています。城郭に入る、入らないと言うことは統治者と領民との関係によるのではないでしょうか)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以前、わたしは、城下町と寺内町の比較をしました。蟷螂の斧さんが出された例は、石山本願寺の場合は、寺内町に入ると思います。
中世末期から戦国時代にかけて、日本には【自治都市】と【寺内町】が数多くありました。
自治都市の例としては、堺・博多などがそうです。寺内町というのは、一向宗の寺【御堂】を中心として住民が集まったものです。
いずれも、住民の自治的運営が行われていました。だから、御堂などを中心として一連托生の運命を選択したのです。

島原の乱は、藩に対する農民一揆が本質です。彼らが篭もった原城は、廃城です。統治者と領民との関係というと、間違いではないですが、それでは本質が見えなくなります。

あくまで、【城】は統治者のものです。例えば、城が外敵に攻められた場合、住民たちの家などを敵に利用されるのを恐れて、町に火を放つ場合も多かったのです。
城下町の住人は、敵にも味方にも攻められるという存在でもあったのです。

わたしは、これが日本の支配のあり方の独自性を形作っていると考えています。

●江戸の先進性は、まず250年間の平和が町人文化を育てた。多極は日本人の置かれた環境、宗教観・思想による。都市構造は、思想の結果であり、都市構造から「思想」を考えるのは逆ではないか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これはそうではないのです。都市構造から思想を考えるという逆過程から、江戸の思想が見えてくる、という側面があります。
【中心】が見えない都市構造という発想は、江戸という都市の独自性でもあるし、その発想から見ると、江戸の独自の都市発展のあり方がきちんと説明できるのです。
思考には、【上昇志向】と【下降思考】があります。天下国家という理念から下降して現実を説明する発想と、現実から出発して理念にいたる発想とは微妙に食い違います。
あなたの発想は、典型的な【下降思考】だと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):江戸の都市学/世界に発信しうるコンセプト  ■名前 : 蟷螂の斧  ■日付 : 04/7/20(火) 12:11  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:

こんにちは。レス有難うございました。
テーマの本も読まず、貴著も目にしないで何か言うのも憚られますが、取りあえず貴コメントについて感想を書きます。

>●石山本願寺の戦い、島原の乱

そうですね。寺内町であり、廃城であることは承知していました。従って、「的確な例ではないかとも思いますし、間接証拠ですが」と申しました。
戦国時代に、領主と領民が共に戦った例があったと思いましたが、思い出せなかったので、「牽強付会」とも思ったのですが、お断わりの上挙げたものです。失礼しました。

>●江戸の先進性は、まず250年間の平和が町人文化を育てた。多極は日本人の置かれた環境、宗教観・思想による。都市構造は、思想の結果であり、都市構造から「思想」を考えるのは逆ではないか。

>これはそうではないのです。都市構造から思想を考えるという逆過程から、江戸の思想が見えてくる、という側面があります。【中心】が見えない都市構造という発想は、江戸という都市の独自性でもあるし、その発想から見ると、江戸の独自の都市発展のあり方がきちんと説明できるのです。

そうですか。確かに、江戸の町は他の城下町と違って、リング構造をとり、「条里構造」では無いように思います。ただ、江戸という町は、「単身武士」が多数を占め、必ずしもバランスの取れた都市では無かったのではないでしょうか(貴論に関係あるかどうか分かりませんが)。

>思考には、【上昇志向】と【下降思考】があります。天下国家という理念から下降して現実を説明する発想と、現実から出発して理念にいたる発想とは微妙に食い違います。あなたの発想は、典型的な【下降思考】だと思います。

【上昇思考】【下向思考】と言う言葉は知りませんでしたが、「帰納的思考」「演繹的思考」とは違って、何か、思想的な背景があるのでしょうか。思考に際して、小生、「帰納的思考」「演繹的思考」もとります。また、物事を「権力サイド」からでなく「民衆サイド」から見る立場です。従って、この一文をもって「下向思考」と決め付けられるのは些か釈然とはしませんです。

最近、小生、「ヒトとはどのような生物か」「ヒトは何故思考するのか」・・・という観点から、科学選書などを読んでいます。

その結果、生物、生命も「物理、化学の法則」で説明できるという事がわかりました。ただ、ヒトの「意識・思考・心(情動、感情)」の発現は「ヒトの脳」が複雑怪奇ではっきり分かっていないようです。
しかし、意識(心)と身体を分離して考える「心身二元論(デカルト)」は誤りで「心身一元論」(意識・心と身体は密接不可分)を証明する途上にあるようです。
(以上は、弊スレ【14467】をチェック頂ければ幸いです。)

このようなことから「ヒトの思考・思想」に与える「自然風土・文化・歴史・・」の影響があるのではと思い、且つ、それによって獲得した「思想・思考」に「価値観の差は無い」と思ったものです。

なお、たまたま今朝の朝日新聞に梅原猛氏が「東アジア文明の語るもの」で、「・・・一神教の批判あるいは抑制なしには人類の永久の平和は不可能であると私は思う」と結んでおられます。多分、貴兄の主張にも近いかと思いますが、「東西文明の差は長いヒトの歴史の差の産物ですから(ヒトの身体に染み付いた価値観)」説得は、難しいのではと思います。当然、小生は「東の文明」に与する者ですが。

長々となりました。失礼します。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):江戸の都市学/世界に発信しうるコンセプト  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/7/20(火) 12:38  -------------------------------------------------------------------------
   ●このようなことから「ヒトの思考・思想」に与える「自然風土・文化・歴史・・」の影響があるのではと思い、且つ、それによって獲得した「思想・思考」に「価値観の差は無い」と思ったものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わたしはそのことは否定していないのです。
だから、江戸という都市構造を通じて。そのことを逆に検証できると考えているのです。まず、現にある江戸・東京という都市構造の分析を通じて、そこからあなたの言われるようなことが検証できうる、という発想です。

それから、【上昇思考】と【下降思考】はわたしの特別な造語でなく、戦前の福本理論論争などで使われた言葉です。わたしは、ある種の理論から帰納的に導く発想を下降的と使っているのです。今回の場合、あなたが上記の発想から、帰納的に推論されていると感じたもので、そういってしまいました。あなたの論理がすべてそうであると言う意味ではありませんので、お気を悪くされたならお許しください。

【価値観の差はない】といいきれば、それはどんな思想も文化もそういえると思います。そうではなくて、現在の状況から考えれば、明らかに【価値観の差】は生まれてくるのではないでしょうか。その意味で、歴史も文化も思想も、常に現代的なものではないでしょうか。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):江戸の都市学/【下降思考】を返上します  ■名前 : 蟷螂の斧  ■日付 : 04/7/20(火) 22:46  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:

こんばんは。レス有難うございました。

下記のように感想を申し上げます。

敵わずまでも蟷螂の斧を振り上げたい者にとって「下降志向」に通ずる【下降思考】は嫌な響きです。「あなたの発想は、典型的な【下降思考】だと思います。」は、本論の当否に直接関係なく、且つ、客観妥当性(証拠のない)を欠く小生の思考法に関する「判断」ですので、ここに返上させて下さい。

>わたしは、ある種の理論から帰納的に導く発想を下降的と使っているのです。

この"帰納的”は「演繹的」ではないでしょうか。「事実(個別の事象)から理論を構築すること」を、「帰納的」と理解しています。
(小生、本論も歴史的事実から帰納したつもりだったのですが・・・)

>【価値観の差はない】

これは、「客観的」には差がない、というべきでした。主観的には、差をつけて、各人固有の価値観を形成するものと思います。

「変な所で鳴いた雉が猟師の鉛玉に当たった」気分を味わっております。もう一度、先に小生がお送りした「討論」に関するスレッド【14348】をお読み頂ければ小生の感じをお分かり頂けるかもしれません。

失礼します。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(6):江戸の都市学/【下降思考】を返上します  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/7/21(水) 0:00  -------------------------------------------------------------------------
   まず、下降思考という言葉がお嫌いな様子なので言葉自体は、撤回しても良いですが、そこまでこだわりになるのなら、私のほうももう少しきちんと反論させていただきましょう。大分遠慮して申し上げたのですがね。

●このような中でも、日本にも城郭都市はありました。日本の戦国時代、統治能力に優れた統治者は必要に応じて領民を城郭に入れ、共に外敵と戦った筈です

一部の例外的事例で、そのようなことは断言できません。戦国以前の城の多くは、山城です。これに民衆が一緒に篭もれる訳がないのです。結局、篭もれるとしたら平城になった戦国期以降になります。領主がくるくる変わる戦国期にあなたの書かれたようなことは、きわめて例外的なことです。例外を持って本質を論ずることはできません。

●さて、江戸の町ですが、中心点があちこちにあり、中央集権的ではない、といわれておりますが、まず、江戸250年戦争がありませんでした。平和な町です。城郭など意味は無かったでしょう。同質の日本人は、同質なるがゆえに異を求めて町が分散したのではないでしょうか(ヨーロッパは、異質の集まりであるがゆえに、中心・共通を求めた)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これも全く論証のない推測です。江戸期に戦争がなかったからそうなったという議論は、それこそ結果論にしか過ぎないと思います。深川と浅草と根岸と異を求めてそうなったわけですか。それをどうやって論証します。ほとんど憶測にしか過ぎません。

●江戸の先進性は、まず250年間の平和が町人文化を育てた。多極は日本人の置かれた環境、宗教観・思想による。都市構造は、思想の結果であり、都市構造から「思想」を考えるのは逆ではないか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この問題についてはお答えしました・

●というのが小生の感想です。

支持する事実データはありません。思い浮かぶ記憶と弊価値観によって、ちょっとボケた頭で考えたものです。また、貴論を誤解しているかもしれません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

わたしの少々ひねくれた頭で考えれば、あなたはこの文章で、陣内氏の研究は、全く意味がないとおっしゃってるし、わたしの書いた内容も、全否定されているのですよ。理由は明確です。あなたは西欧の城郭都市の歴史理解も違うといわれているし、江戸の都市を考察する順序が逆だと言われている。
つまり、研究の方向性自体が違う、と言い切っておらられる。それでいて、事実はないし、陣内氏の本も読んでおられないという。
これだけ、失礼な文章もないでしょう。
少なくとも、これだけ全否定されれば、当然反論を受けることはご承知でしょう。

●変な所で鳴いた雉が猟師の鉛玉に当たった

これはわたしの感想です。人を全否定する文を書いておいて、自分の痛みだけ語るのはどうかなと思いますよ。
討論の仕方以前の問題ではないですか。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(7):江戸の都市学/撤回感謝  ■名前 : 蟷螂の斧  ■日付 : 04/7/22(木) 13:17  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:

こんにちは。お暑うございます。

レス有難うございました。実は、私は、先のレスで【下降思考】論者の「撤回」を、お願いしようかとも思ったのですが、それは、無礼、不遜あるいは僭越の誹りを免れないと思い直し、自主的に「返上」させて頂き、小生としては本件終わったつもりでおりました。

しかし「返上します」と言う些か切り口上の物言いで流水さんのお腹立ちを誘ったように思い、申し訳なく思いますが、「撤回」していただくことになり、ありがたく思っております。

私が、掲示板に私の意見(印象、感想、説、論など、但し、大抵コメント程度ですが)を「カキコ」する理由は、三つの「徳(得)」があると考えるからです。
(1)自分の誤り(過ち)を皆様に修正していただけること。
(2)自分の知らない知見を皆様に与えていただくこと。
(3)もの言わぬは腹膨るると申します。もの言うことによって自分の腹の膨れを解消すること(但し、このことによって、よそ様の腹を膨らませないように注意はしているつもりです)

このような考えで、失礼かとも思いましたが、先の「酔夜の一片の感想」を流水さんの「ご批判」に供したわけです。

私は、「反対論」を出し、「論争」を仕掛けたつもりは全くありません。「著書も読まない」で「酔夜の一片の感想」を「反対論」として出すような無謀なことはしません。

仮に、私が「反対論」を検討するとすれば、まず著書を読み、この論拠と論述を小生なりに咀嚼し、理解した上で、何かの非論理性、事実解釈の誤りなどがあれば「反対」しますが、建築の専門家でもない私がどうして陣内氏の著書に反対論を述べられましょうか。

しかし、私は、自分が見聞した事を「丸呑み」出来ない性質ではあります。常に、自分自身で、咀嚼し、消化し、自分が正しいと思ったことを自分の血肉にしたい、と思っているものです。

余談ですが、このような考えですので、「世の権威」というものも、そのまま受け入れませんし、例えば、「権威」でもって何らかの反論を封殺するような事も反対ですし、例えば、「立派な立場にある人」を、その故をもって、そのまま「立派」だとは思わないのです。その人が、その立場にふさわしい行為をすることをもって「その人が立派である」ことを受け入れるようにしています(政治家、学者、識者、「長」のつく人・・・・。ましてや「経済的な尺度」で人を評価するなどはもってのほかのことと思っております)。

閑話休題。

若し、流水さんが、私の「酔夜の一片の感想」をもって「反対論」と思われたのであれば、私にとっては、過大も過大評価であり、陣内氏にとっては大いに失礼に当たるものと思います。

この前提で流水さんから頂いたコメントについてお答えします。

>私のほうももう少しきちんと反論させていただきましょう。大分遠慮して申し上げたのですがね。

以上のように考えておりましたので、流水さんが遠慮されているとは全く知りませんでした。しかし、又、流水さんに論争を仕掛けたつもりはありませんので「反論」は妥当とは思えません。

>一部の例外的事例で、そのようなことは断言できません。戦国以前の城の多くは、山城です。これに民衆が一緒に篭もれる訳がないのです。結局、篭もれるとしたら平城になった戦国期以降になります。領主がくるくる変わる戦国期にあなたの書かれたようなことは、きわめて例外的なことです。例外を持って本質を論ずることはできません。

そうですね。私は、時代的に錯誤をしていたと思います。しかし、仮に、例外があれば、「例外もあるが、本質的には・・・。」というのが、まあ、誠実な記述と思います。

>
>●さて、江戸の町ですが、中心点があちこちにあり、中央集権的ではない、といわれておりますが、まず、江戸250年戦争がありませんでした。平和な町です。城郭など意味は無かったでしょう。同質の日本人は、同質なるがゆえに異を求めて町が分散したのではないでしょうか(ヨーロッパは、異質の集まりであるがゆえに、中心・共通を求めた)。
>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>これも全く論証のない推測です。江戸期に戦争がなかったからそうなったという議論は、それこそ結果論にしか過ぎないと思います。深川と浅草と根岸と異を求めてそうなったわけですか。それをどうやって論証します。ほとんど憶測にしか過ぎません。

そうですね。専門的に検証したわけでありませんので「憶測」です(「酔夜の一片の感想」です。お許しください)。ただ、「結果論」かどうかは必ずしも同意できません。この点は、見解の相違ということでお許しください。


>●江戸の先進性は、まず250年間の平和が町人文化を育てた。多極は日本人の置かれた環境、宗教観・思想による。都市構造は、思想の結果であり、都市構造から「思想」を考えるのは逆ではないか。
>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>この問題についてはお答えしました・

「結果論」ということですね。分かりました。

>●というのが小生の感想です。
>
>支持する事実データはありません。思い浮かぶ記憶と弊価値観によって、ちょっとボケた頭で考えたものです。また、貴論を誤解しているかもしれません。
>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>わたしの少々ひねくれた頭で考えれば、あなたはこの文章で、陣内氏の研究は、全く意味がないとおっしゃってるし、わたしの書いた内容も、全否定されているのですよ。理由は明確です。あなたは西欧の城郭都市の歴史理解も違うといわれているし、江戸の都市を考察する順序が逆だと言われている。つまり、研究の方向性自体が違う、と言い切っておらられる。それでいて、事実はないし、陣内氏の本も読んでおられないという。これだけ、失礼な文章もないでしょう。少なくとも、これだけ全否定されれば、当然反論を受けることはご承知でしょう。

上にも申しましたが「本も読まないで全否定」などできるわけではありません。何度も、申しますが、先の感想は、あくまで「酔夜の一片の感想」です。あまり、大上段に振りかぶらないで下さい。

流水さんも同意されると思いますが、「読書感想文」(この場合は、流水さんの要約・レジメを介しての、「間接読書感想文」とも言うべきものですが)は、いかようにでも書けます。

例えば、私は、先の感想の最後に下記を加える事も出来ます。

「・・・逆ではないか。しかし、人は環境との相互関係の中でその意識を構築してゆくのであるから、人の意識、その集合としての文化が、人の造る環境(町並み、都市空間)に化体しているとも言える。陣内氏は、建築専門家としての透徹した眼で江戸の町並みを分析し、日本人の優れた柔構造感覚を抽出したのである。」

しかし、これでは流水さんの批判を求めるわけには行きません。そこで、まあ、討論を深化させ、上記の私の「意見」の「カキコ」の目的達成のために「逆論」を提示したわけです。

>●変な所で鳴いた雉が猟師の鉛玉に当たった
>
>これはわたしの感想です。人を全否定する文を書いておいて、自分の痛みだけ語るのはどうかなと思いますよ。
>討論の仕方以前の問題ではないですか。

以上でお分かりいただいたと思いますが、私は、流水さんの説、延いては陣内氏の説を「全否定」するために書いたわけでありません。私を、啓蒙していただきたい為に書いたものです。私の「酔夜の一片の感想」を、例えば、的確に「全否定」して頂いたら、「鉛玉に当たったような」苦痛を味わうことなく、楽に、喜んで「往生」できたのにという意味で申し上げました。

最後に繰り返しますが、私の書き込み、意見表明は;

論争めいた事を仕掛け、延々と、撃ちてし止まん、と論争相手と意見交換をしたい為ではありません。また、意見表明をして、単に自分の知見を開陳する為でもありません。私の意見にコメントされる方に、私の「蒙」(誤り、過ち)を「啓」いて頂き、「啓蒙」して頂きたいためだけなのです。

長々と述べましたが、意のあるところをご理解いただきたいと思います。
今後も、流水さんには、新しい知見を教えていただきたいと願って、終わります。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(8):江戸の都市学/了解いたしました。  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/7/22(木) 13:54  -------------------------------------------------------------------------
   どうやら、私の誤読でしたか。
わたしは、掲示板上のやり取りは、顔が見えない分、相当丁寧に書き込む必要があると考えています。

わたしの理解では、あなたの文章は、陣内氏の立論の根拠それ自体を疑っていると考えたのです。
同時に、西欧の都市と日本の都市との成立の根拠の違いも、ほとんど差異を認めない、と読みました。
これでは、わたしの立論の根拠もないということになります。
間違った根拠で論を展開しても、根拠自体が違うのなら、まるで無意味です。
で、あなたは、全否定されていると考えたのです。
書いた側としては、反論せざるを得ない、ということになります。

どうやら、これは、わたしの誤読だったようです。
あなたのおっしゃることは了解いたしました。失礼、お許しください。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(9):江戸の都市学/遠慮せずに言えば  ■名前 : 蟷螂の斧  ■日付 : 04/7/23(金) 0:58  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:

こんばんは。了解いただき有難うございました。

ご了解いただいた上は、私としては、本来、言うべきでは無く、敢えて、言いたくもないのですが、「了解しました」以外のコメントがありますので、ここは私も、流水さんの顰に習って、遠慮せずに、一応言わせて頂く事にします(抑制が小さくなって、やや戦闘的になっている事をお許し下さい)。


>どうやら、私の誤読でしたか。

まあ「誤読」だと思います。しかし、酔余の感想文とは言え「一言一句」丁寧にお読み頂きかったとは思います。

>わたしは、掲示板上のやり取りは、顔が見えない分、相当丁寧に書き込む必要があると考えています。

丁寧は兎も角、書かれた「一言一句」に基づいてコメントすべきではないでしょうか。

>わたしの理解では、あなたの文章は、陣内氏の立論の根拠それ自体を疑っていると考えたのです。

私が、「陣内氏の立論の根拠それ自体を疑っている」と考えられた「私の論述」はどこにあるのでしょうか、あれば指摘されるべきだったのではと思いますが。

>同時に、西欧の都市と日本の都市との成立の根拠の違いも、ほとんど差異を認めない、と読みました。

東西「都市成立の根拠」の違いは縷縷述べました。歴史、宗教、文化、風土、建築材料(石造、木造)そして自然災害に対する耐性の違いです。

>これでは、わたしの立論の根拠もないということになります。

流水さんの立論ではないでしょう。陣内氏の立論ではないのでしょうか。

>間違った根拠で論を展開しても、根拠自体が違うのなら、まるで無意味です。で、あなたは、全否定されていると考えたのです。書いた側としては、反論せざるを得ない、ということになります。

よく分かりません。陣内氏の論ではなかったのですか。流水さんの論だったのですか。

>どうやら、これは、わたしの誤読だったようです。
>あなたのおっしゃることは了解いたしました。失礼、お許しください。

これ以上言うのも誠に失礼かとも思うのですが、流水さんは、例えば、「石山本願寺、原城」に関する私の「前提条件:間接証拠である」を外して論述されました、また、私が、「支持する事実データもない」「著作も読んでない」と「明白に述べている」のに、「憶測だ」、「本も読まないで」、「事実もなくて」と主張されました。

これは「討論の姿勢」としては奇異に感じます。「撃ちてし止まん」と感じたものです。敢えて、憶測(実は、私は「洞察」と言いたいのですが)で言わせていただければ、「まず、反対者を潰せ」と言う意識が先に働いたと言う印象を持ちました。

流水さんが、私という人間をご理解頂いていれば、上記は「流水さん」を非難する為でなく、「流水さんの言ったこと」に異を唱えている事を理解して頂いていると信じています。くどいようですが、流水さんの人格をこの件でとかくは言っていません。「この件を除く」流水さんの人格を尊敬していますから。

先の私のレスを言葉を繰り返します「今後とも宜しく啓蒙ください」。
宜しくお願いします。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(10):誤読は撤回!  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/7/23(金) 11:03  -------------------------------------------------------------------------
   かなり戦闘的な文章ですね。
わたしも、これ以上やりたくないから、誤読でしたか、と申し上げたのですが、どうもかなりの誤解があるようですね。

あなたが、根拠が分からないと書いておられるので、示します。
●西洋は、キリスト信仰(一神教)に基づく、中心城郭都市構造(中心には、教会があります)に加えて、石造建築文化で、地震、台風、洪水と言った自然災害は少なく、石造建築が壊れることは無かったのではないでしょうか。従って、都市中心からリングを拡げて都市は拡大していったと思います。

西欧都市の淵源は、都市国家にあると思います。都市国家は塀の中に住民を囲い込みます。これが、日本の城下町との決定的な違いである、とわたしは考えています。この視点は、あなたの発想には入っていません。これを否定するということは、わたしの立論の根拠の否定だと思います。

陣内氏はこう述べている。

◆欧の建築の歴史では、古代、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、マニエリズム、バロック、近代、現代のように、様式のダイナミックな展開があるが、それと同様に、都市の形成原理、市街地のパターンにもはっきりした時代様式がある」「歴史的街区、いわゆる産業革命までに造られたふり町並みが残っている城壁の内側の地区は、ヒューマンスケールでできていて、いわゆる近代の都市計画で造られた都市とは異質な空間を形作っているが、そういうものを現代で現代において再生産をすることはほとんど不可能だと考えている」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼の視点は、城壁の内側はヒューマンスケールでできていて、近代の都市計画とは異質な空間を形作っている・・というところに、力点があります。
あなたの視点では、この陣内氏の発想はほとんど視野に入っていません。

わたしが、あなたが立論の根拠それ自体を否定していると読んだ理由です。

●一方、日本は、シャーマニズムに基づく多神教+仏教(六道輪廻・諸行無常)の思想に加えて、木造建築文化であり、地震、台風、洪水と自然災害が絶えない日本においては、住居は永遠のものではなかったのです。「かつ消えかつ浮ぶ」だったのではないでしょうか。

要するにあなたの発想は、西欧の建築は石造建築で、日本は木造建築であるから、それが都市構造に大きく影響を与えているということを回りくどく書いておられるわけです。
つまり、ここでも陣内氏の江戸の『柔構造』などという視点など、意味がないとおっしゃてる思います。

●さて、江戸の町ですが、中心点があちこちにあり、中央集権的ではない、といわれておりますが、まず、江戸250年戦争がありませんでした。平和な町です。城郭など意味は無かったでしょう。同質の日本人は、同質なるがゆえに異を求めて町が分散したのではないでしょうか(ヨーロッパは、異質の集まりであるがゆえに、中心・共通を求めた)。
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前に推論と申し上げましたが、西欧の都市が広場という中心を持ったということは、異質な集まりだからというより、人間の心の外にある神を中心に思考する論理性のもたらす業だと考えるほうが当たっています。論理を構築するには、思考の原点になる中心がいります。
西欧都市の論理性ということだと思います。

江戸の先進性は、まず250年間の平和が町人文化を育てた。多極は日本人の置かれた環境、宗教観・思想による。都市構造は、思想の結果であり、都市構造から「思想」を考えるのは逆ではないか。
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ここが最大の問題点です。何度も書きますが、陣内氏は、都市の形態を調査研究することにより、総体として江戸の都市構造を形成した思想を抽出しようと試みています。あなたは、その思考方法が逆だとおっしゃる。後から説明されていましたが、わたしはこの発想はきわめて硬直的で下降的だと感じましたし、この発想からは、どう読んでも陣内氏の研究の方向性それ自体を否定していると感じたのです。

わたしは、あなたがこの程度のことは分かっておっしゃってると思ったから、反論したのです。

たしかに、あなたは最初に自分は専門ではないとか、証拠はないというようなことを書いておられましたが、これだけ全面否定しておいて(しかもかなり確信的に)、それはないと思いますよ。
わたしから言わせれば、慇懃無礼そのもののやり口ですよ。
反撃されたときは、自分は専門ではないとか証拠はないと最初から言っているという逃げ道を用意しておいて、相手を全面否定するというのが、論争の手口ですかというふうに聞きたくなりますね。

あなたは、最後まで、ご自分の書かれた文章が、相手にどのように受け取られるかを全く理解されておられないようですね。

●流水さんは、例えば、「石山本願寺、原城」に関する私の「前提条件:間接証拠である」を外して論述されました、また、私が、「支持する事実データもない」「著作も読んでない」と「明白に述べている」のに、「憶測だ」、「本も読まないで」、「事実もなくて」と主張されました。

これは「討論の姿勢」としては奇異に感じます。「撃ちてし止まん」と感じたものです。敢えて、憶測(実は、私は「洞察」と言いたいのですが)で言わせていただければ、「まず、反対者を潰せ」と言う意識が先に働いたと言う印象を持ちました。
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それはどうですかね。上記のわたしの読み方からすれば、『間接証拠』という言葉も、「逃げ道つくり」と読めますし、『憶測』『事実もなくて』『本も読まないで』という言い方は、わたしの感性からいえば、これだけ全面否定しておいて、反論されたら最初から断っているではないか、という「逃げ道つくり」と読めますね。

論争のあり方を云々されるなら、『事実も持っていない』『本も読んでいない』『証拠もない』ことについて、相手の文章を全面否定されるようなことは書かないというのが、最初の姿勢でしょう。

しかも、【論争めいた事を仕掛け、延々と、撃ちてし止まん、と論争相手と意見交換をしたい為ではありません。また、意見表明をして、単に自分の知見を開陳する為でもありません。】

などと書かれておりますが、それにしてはかなり【慇懃無礼】なやり口だと思いますよ。
わたしから言わせれば、自分の逃げ道をあらゆるところに張り巡らせて、相手の文章を全面否定するために書かれた文章と読めますね。
そうではないと否定されるでしょうが、わたしにはそう読めた、ということです。

しかし、あなたはさらに自分の正当性を主張されているようですので、わたしも
誤読という言葉は、撤回させていただきます。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(11):誤読は撤回!/撤回了承&終了  ■名前 : 蟷螂の斧  ■日付 : 04/7/24(土) 13:32  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:

こんにちは。また、また、お手数を掛けてしまったようですね。
申し訳ありませんが、これで終りにさせて下さい。

以下、コメントします。

>あなたが、根拠が分からないと書いておられるので、示します。

これを最初に示していただいたら、議論が深化し、小生にとって、大いなるメリットがあったわけです。一番最初に、「ちょっと、流水さんとお話したいから」、感想をお送りしますと、前置きした筈です。

>西欧都市の淵源は、都市国家にあると思います。都市国家は塀の中に住民を囲い込みます。これが、日本の城下町との決定的な違いである、とわたしは考えています。この視点は、あなたの発想には入っていません。これを否定するということは、わたしの立論の根拠の否定だと思います。

そうですか。ただ、私の論述を頭から「否定」と取られる事、「自論が絶対(?)」と言う事が良く理解できないのです。
「よく知る者は語らず」(神は語らず)と言います。私などは自分の知ることは「九牛の一毛」と、言っても言い過ぎで、森羅万象殆ど知らないと思っておりますので、自説、持論などは、皆さんの批判の上にいつでも修正しようと思っているものです。

従って、流水さんの説を私が理解していないとお考えなら、その説の根拠を、私にも分かるように、説明していただきたかったし、私が、理解できないとお考えになれば、そのようにおっしゃって頂ければ良いだけのことではないのでしょうか(多分、【上昇思考】と【下降思考】でそのことをおっしゃりたかったと今にして思いますが、少なくとも、そのとき、小生には、馴染みのない言葉でよく理解できませんでした。ここに行き違いがあったように思います)。

たとえば、私は、西洋(中国も入るようですが)の「防御壁」意識と、日本の「防御濠」意識(古代朝鮮由来の石造りの「城」(キ)(壁)が日本にもあったかと思いますので日本にも「防御壁」があったことは承知していますが)の差が何に由来するのか、「狩猟・牧畜民族」(囲い込み)と「水田農耕民族」(開放展開的)との差かと想像します。
(先に、ご紹介した東西文明の宗教、思想、価値観の比較と東洋思考の必要性・優位性に関する「梅原猛氏」の小論は、このような観点も入っていたかと思います。このような、東西文明、文化比較は珍しいものではなく、いろいろな切り口から、昔から、今も、広く論じられているものと認識しています。陣内氏の論も「建築」「町並み」と言う切り口からの「柔構造」観念を提示されたものと推定・憶測しています)

以上のように「お話」が展開できれば、勉強できると考えたものです。

>あなたの視点では、この陣内氏の発想はほとんど視野に入っていません。

そうであるなら、私の論述が間違っている、あるいは、陣内氏の論述はこうだと教えてくださればよいし、ご面倒なら、「陣内氏の著作を読んでからにせよ」と「匙」を投げて頂いてよかったのです。投げられた「匙」を拾ってまで、流水さんに迫る趣味は持っておりません。

>わたしが、あなたが立論の根拠それ自体を否定していると読んだ理由です。

わたしが、「否定」していないことは、先のレスで「元の感想」の最後に「少し」加えれば、陣内氏の見かたに「同意する感想」を書けたことでお示しした筈ですし、普通に読めば、そのような大それたことを言ってないことは自明と思います。

>要するにあなたの発想は、西欧の建築は石造建築で、日本は木造建築であるから、それが都市構造に大きく影響を与えているということを回りくどく書いておられるわけです。つまり、ここでも陣内氏の江戸の『柔構造』などという視点など、意味がないとおっしゃてると思います。

繰り返しになりますが、石造、木造など言う事(要因の一つとは考えておりますが)で文化、意識が異なるなどとちゃちな事を思ってはないのです。例えば、江戸の町屋構造の「柔構造」というのは、長い歴史の積重ねの上にあって、陣内氏の「解析された江戸時代の町」が、突然、江戸期のそのときに現出したわけではないでしょう。連綿と蓄積された意識・文化・技術・・・歴史の上に現出したものだと思うのです。「柔構造」視点が「新しい切り口」であることは否定してませんし、「意味がない」などと思われる言辞をどこに書いたのでしょうか。

>ここが最大の問題点です。何度も書きますが、陣内氏は、都市の形態を調査研究することにより、総体として江戸の都市構造を形成した「思想を抽出」しようと試みています。あなたは、その思考方法が逆だとおっしゃる。後から説明されていましたが、わたしはこの発想はきわめて硬直的で下降的だと感じましたし、この発想からは、どう読んでも陣内氏の研究の方向性それ自体を否定していると感じたのです。

繰り返しになりますが、流水さんの、先ず「否定ありき」と認識なさる発想が分からないのです。「思考方法」が逆だとは言ってません。「思想が化体したのが町屋」で、そこから思想を抽出できることは否定していません。「思想の抽出」は理解しています。だから、「思想が先だ」とも言ったのです。

>わたしは、あなたがこの程度のことは分かっておっしゃってると思ったから、反論したのです。

分かると思います(著作を読んでいれば。また、読まなくとも、修正感想文で述べたはずです)。反論は結構ですが、論立てが小生にも分かるようにお願いしたかったのです。

>たしかに、あなたは最初に自分は専門ではないとか、証拠はないというようなことを書いておられましたが、これだけ全面否定しておいて(しかもかなり確信的に)、それはないと思いますよ。

何度も繰り返しますが、否定はしていません(できないことは先のスレで書いております。著作を読んで、論述の非論理性でもあれば否定しますが)。話し合いというか討論の場「肴(土俵)」として「酔余の感想文」を批判に供じたつもりです。何回も同じ事を言わせないで欲しいと思います。

>わたしから言わせれば、慇懃無礼そのもののやり口ですよ。

最初のレスを頂いたときに、流水さんには、私の「意図」をご理解頂いてないことは分かりました。「匙」を投げられた事も後で分かりました。しかし、身に覚えのない【下降思考】を押し付けられたまま「匙」を投げられて「終り」では、私の一分も立ちません。そこで、【下降思考】の意味(微妙にずれがあったと感じたのは私の僻目でしょうか)を確認し、「下降思考返上」で終りにしたつもりでした(このことは先にも言っております)。

>あなたは、最後まで、ご自分の書かれた文章が、相手にどのように受け取られるかを全く理解されておられないようですね。

かも知れません。しかし、流水さんの言葉には誠実には対処して来たつもりです。

>『間接証拠』という言葉も、「逃げ道つくり」と読めますし、『憶測』『事実もなくて』『本も読まないで』という言い方は、わたしの感性からいえば、これだけ全面否定しておいて、反論されたら最初から断っているではないか、という「逃げ道つくり」と読めますね。

論争をするなら、ちゃんと証拠を探す、と言ったじゃないですか。逃げ道を作って、論争を仕掛けるなどと言う「卑怯な」ことはしない性質です。繰り返しになりますが、「論争を仕掛ける」気なら、酔余の感想文など出しません。叶わずまでも、データ・資料・情報を集めた上で論立て致します。失礼ながら、誤解・誤読と思います。

>論争のあり方を云々されるなら、『事実も持っていない』『本も読んでいない』『証拠もない』ことについて、相手の文章を全面否定されるようなことは書かないというのが、最初の姿勢でしょう。しかも、【論争めいた事を仕掛け、延々と、撃ちてし止まん、と論争相手と意見交換をしたい為ではありません。また、意見表明をして、単に自分の知見を開陳する為でもありません。】などと書かれておりますが、それにしてはかなり【慇懃無礼】なやり口だと思いますよ。

私が「論争」を仕掛けたわけでないことは、上にも、今までにも縷縷説明しました。論争とも思ってないのに、「否定された」「反論だ」と書かれて、目を白黒したものです。

>わたしから言わせれば、自分の逃げ道をあらゆるところに張り巡らせて、相手の文章を全面否定するために書かれた文章と読めますね。そうではないと否定されるでしょうが、わたしにはそう読めた、ということです。

「誤読」ということですか。
しかし、最初の「感想文」の、「本文」以外の「前置き」と「結び」を読んでおられたら「誤読」などなく、私の「意図」を理解していただけたのに、と残念に思います。

上にも書きましたが、「自分の逃げ道」を作った意識はありません。何故、ご批判を仰ぎ、議論を深化したいと考えるものが逃げ道を用意する必要があるのですか。【慇懃無礼】であったことは認めます。しかし、慇懃無礼は一人で演ずることはできません。相手があってこそのことです。【相手の受け取り方を理解しなかった】「振り」をしたことは、重々お詫び致します。このことは地に頭をつけてお詫びします。お赦しください。

>しかし、あなたはさらに自分の正当性を主張されているようですので、わたしも
>誤読という言葉は、撤回させていただきます。

残念です。しかし、撤回には別に異存はありません。小生は、理由無き「下降思考」論者の決め付けさえ撤回して頂ければ何の異存もありません。これだけは「再撤回」しないで下さい。

最後にこれをお願いして本当に終りにします(終わらせてください)。

有難うございました。

(なお、ここで、私は「さらに自分の正当性」を主張したわけでありません(もともと、「正当性」など主張したつもりはないのです。流水さんの言に応じて自分の言を述べただけだと思っています。このレスは、今までに言った事の言い方を変え、少し、補足しただけです。したがって、レスはご無用に願います。最初に、レスをしたのが、「鳴いた雉」が、私ですので、失礼ですが、私の意志で「往生」させてやって下さい)

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