Page 1204 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい 団塊党 04/7/31(土) 20:20 ┣Re(1):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい もの申す 04/7/31(土) 21:15 ┣Re(1):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい ギアえもん 04/7/31(土) 22:03 ┣Re(1):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい 珍 源斎 04/7/31(土) 22:36 ┣現・教育基本法の前文と3条まで 団塊党 04/8/1(日) 1:28 ┣Re(1):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい 珍 源斎 04/8/1(日) 8:16 ┃ ┗Re(2):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい [名前なし] 04/8/5(木) 8:59 ┃ ┗Re(3):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい 珍 源斎 04/8/5(木) 9:02 ┣まず、基礎学力の向上を望みます。 ぎみゆら 04/8/1(日) 9:48 ┣Re(1):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい 団塊党 04/8/1(日) 12:52 ┣「何が」損なわれそうなのでしょうか。 ぎみゆら 04/8/1(日) 19:04 ┃ ┗Re(1):「何が」損なわれそうなのでしょうか。 団塊党 04/8/1(日) 22:25 ┃ ┗トップダウン改革指向なのですね。 ぎみゆら 04/8/2(月) 11:40 ┃ ┗Re(1):トップダウン改革指向なのですね。 団塊党 04/8/2(月) 20:34 ┃ ┗Re(2):トップダウン改革指向なのですね。 ぎみゆら 04/8/3(火) 19:37 ┃ ┗Re(3):トップダウン改革指向なのですね。 団塊党 04/8/4(水) 18:58 ┣Re(1):教育基本法改正の真のねらい 流水 04/8/2(月) 15:15 ┃ ┣Re(2):教育基本法改正の真のねらい ぎみゆら 04/8/2(月) 17:23 ┃ ┃ ┗Re(3):教育基本法改正の真のねらい 流水 04/8/2(月) 18:28 ┃ ┃ ┗Re(4):教育基本法改正の真のねらい ぎみゆら 04/8/2(月) 23:51 ┃ ┣Re(2):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) ワン太郎 04/8/2(月) 17:53 ┃ ┃ ┣Re(3):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) 流水 04/8/2(月) 18:17 ┃ ┃ ┃ ┗Re(4):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) ワン太郎 04/8/3(火) 10:45 ┃ ┃ ┃ ┗Re(5):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) 流水 04/8/3(火) 11:39 ┃ ┃ ┃ ┗Re(6):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) ワン太郎 04/8/3(火) 14:02 ┃ ┃ ┃ ┗Re(7):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) 流水 04/8/3(火) 16:19 ┃ ┃ ┃ ┗Re(8):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) ワン太郎 04/8/3(火) 18:26 ┃ ┃ ┃ ┣Re(9):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) 流水 04/8/3(火) 19:04 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(10):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) ワン太郎 04/8/4(水) 9:37 ┃ ┃ ┃ ┣Re(9):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) 流水 04/8/3(火) 20:07 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(10):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) ワン太郎 04/8/4(水) 10:24 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(11):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) 流水 04/8/4(水) 14:16 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣Re(12):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) ワン太郎 04/8/5(木) 10:56 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(13):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) 流水 04/8/5(木) 12:50 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(14):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) ワン太郎 04/8/5(木) 15:33 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(12):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) ワン太郎 04/8/5(木) 11:50 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(13):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) 流水 04/8/5(木) 17:15 ┃ ┃ ┃ ┗Re(9):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) 団塊党 04/8/3(火) 20:56 ┃ ┃ ┃ ┗Re(10):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) ワン太郎 04/8/4(水) 9:23 ┃ ┃ ┃ ┗Re(11):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) 団塊党 04/8/4(水) 18:00 ┃ ┃ ┃ ┗Re(12):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) ワン太郎 04/8/5(木) 11:02 ┃ ┃ ┃ ┗Re(13):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) ワン太郎 04/8/5(木) 11:53 ┃ ┃ ┣Re(3):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) イワオ 04/8/3(火) 2:32 ┃ ┃ ┃ ┗Re(4):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) ワン太郎 04/8/3(火) 11:41 ┃ ┃ ┃ ┗Re(5):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) イワオ 04/8/5(木) 1:11 ┃ ┃ ┃ ┗Re(6):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) ワン太郎 04/8/5(木) 16:23 ┃ ┃ ┗Re(3):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) 流水 04/8/5(木) 1:50 ┃ ┃ ┗Re(4):教育基本法改正の真のねらい (その前に オネガイ!) ワン太郎 04/8/5(木) 18:06 ┃ ┗Re(2):教育基本法改正の真のねらい 団塊党 04/8/3(火) 4:09 ┣Re(1):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい 宮崎故郷人 04/8/3(火) 11:50 ┃ ┣Re(2):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい aube 04/8/3(火) 12:01 ┃ ┃ ┗Re(3):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい 宮崎故郷人 04/8/3(火) 12:06 ┃ ┃ ┗Re(4):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい aube 04/8/3(火) 14:07 ┃ ┗Re(2):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい 団塊党 04/8/3(火) 18:17 ┣Re(1):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい ごまめの翁 04/8/3(火) 13:00 ┃ ┗Re(2):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい 団塊党 04/8/3(火) 19:55 ┃ ┗Re(3):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい ごまめの翁 04/8/4(水) 11:49 ┃ ┣Re(4):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい 団塊党 04/8/4(水) 18:41 ┃ ┗Re(4):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい 高橋 04/8/5(木) 21:28 ┃ ┣Re(5):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい 団塊党 04/8/6(金) 0:42 ┃ ┗Re(5):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい ごまめの翁 04/8/7(土) 15:19 ┃ ┗Re(6):できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい 高橋 04/8/8(日) 13:09 ┣ダメ教員は退場! 南国人J(宮崎市民) 04/8/4(水) 18:04 ┃ ┗Re(1):ダメ教員は退場! 団塊党 04/8/4(水) 18:28 ┣出来ない子を出来るようにするのが教育 団塊党 04/8/5(木) 21:04 ┃ ┣Re(1):出来ない子を出来るようにするのが教育 団塊党 04/8/5(木) 21:21 ┃ ┣本物のエリート教育 団塊党 04/8/8(日) 21:27 ┃ ┗本物のエリート教育(2) 団塊党 04/8/9(月) 19:39 ┗新スレッドに移行願います Ray 04/8/9(月) 19:50 ─────────────────────────────────────── ■題名 : できない子はそれなりに・・・教育基本法改正のねらい ■名前 : 団塊党 ■日付 : 04/7/31(土) 20:20 -------------------------------------------------------------------------
日本もアメリカのように貧富の格差が広がり、「二極化」の時代が来たと言われるようになった。 そして、それは教育の世界にも訪れようとしている。 「グローバル化の中で日本が勝ち抜くにはトップ層の育成が必要だ」(経団連)とか「非才,無才にはせめて実直な精神だけを養えば良い」(三浦朱門)とか「いずれは就学時に遺伝子検査を行い、能力に見合った教育をしていく」(江崎玲於奈)などの声が財界や政府側の関係者から上がっています。 平たく言えば「出来る子は伸ばし、出来ない子はそれなりに」ということであろう。 こうした考えが教育基本法改正の流れを作っているのである。 個人の尊厳と人格の完成を高らかに謳った現教育基本法を改正して、人材育成に重点を置こうという意図である。 愛国心(国を愛する心)という文言もその延長線上にあると考えられる。 学校教育が結果として人材育成の役割を果たすというのなら否定しないが、学校教育の中心を「人材育成」に置く考え方には反対である。 学校教育の中心は「人格の完成」にあると思うのだが、いかがでしょうか。 みなさんのご意見をお願いします。 |
団塊党 様 私見を申し上げます。教育の目的は「人格の形成」と「知識の伝授」にあると思います。人材という概念は「知識と人格がバランスして社会に貢献できる人」であると考えたらどうでしょうか。 スレッド「15504」で友人の大学教授の嘆きを記しましたが、現在の日本の教育は人格の形成面でも知識伝授の面でも中途半端で、レベルの低下は疑う余地がないと考えます。自分自身のことで恐縮ですが大昔某都立高校在学時、阿部次郎の「三太郎の日記」や倉田百三の「出家とその弟子」を愛読し、人生や社会、人間のあり方等を考えそして悩みました。両書とも相当難解な本でしたが、何回も繰り返し読んで意味を理解したものでした。当時の在学校は有名な進学校で、優秀なクラスメートに囲まれ勉学面で大きな刺激を受けましたが、教育熱心な教師にも恵まれ受験勉強の傍ら、社会や人生について多くを学びました。 現在の学校教育の実態についてはよく分かりませんが、親戚、知人の親と子弟を見る限り受験勉強に熱心なわりには教育水準はあまり高くないと感じざるを得ません。人格面のことは適切な評価は難しいものの、礼儀や常識に欠けていることは確かなようです。子供の教育の全てを学校に任せるのは誤りであり、特に人格形成には親の役割が重要ですが、教師も親も子供達をせかすだけで真の教育をしていないように思えてなりません。どうしたらよいのか今即効薬的な方法は言えませんが、 現状を改善するのに教育基本法の改定で済むとは思えません。法律の改定で全てをよしとするのは、木っ端役人の発想であり賛成できません。要は今の社会のあり方日本の目指す方向など、将来を見据えた時どのような人間が必要なのかを見極めれば、おのずと教育方針や教育内容は決められるはずです。今必要なのは国家百年の計を政府・教育界・産業界が私利私欲を拭って論議することではないでしょうか。 |
遺伝子検査して能力に見合った〜〜うんぬんは、昔、7.8年前にフジテレビで たしか木曜午後8時にやってたSFドラマにも出てましたね。 滝沢君が主人公で未来人の警察官が現代にやってきて犯罪者を逮捕するっていうやつ。 未来人の少年二人がフライドチキンを食べるために現代にやってきて 主人公と身の上話してるときの少年の発言。 (ちなみに未来では高機能な人工の味気ない食べ物ばっからしい) 「未来では、能力(遺伝子?)を調べられてそれで将来を決められるんだ。」(みたいなセリフ) 他にも「多重人格探偵サイコ」ってマンガでは、秘密結社が数十年前にヒトゲノム解読をしてて それを日本政府は犯罪を起こす可能性が高いと思われる遺伝子を持つ人間を間引くために 利用しようとしていた。という設定話があったなあ。 つうか江崎ってあの化学者の江崎だよね?そんなこと言ったんかい。 どうせなら、「できない子をできる子にするために遺伝子操作する」ぐらい言ってくれ。 他には天才の精子、卵子を無償提供するとか。 「ARMS」ってマンガだと脳の神経細胞の活性化・増殖能力を高める薬を 赤ちゃん(妊婦だったような気もする)を投与して人工的に天才を作る計画の話があった。 正攻法でいくなら右脳教育とか絵本の読み聞かせとか。 普通の子供なら神経細胞の増殖能力には大して違いは無いだろ。 できない子をできる子にする政策をしろ!俺が首相なら七田さんとかに協力してもらって 一大プロジェクトを組むな。キャッチコピーは「全ての子供を天才に!」 教育の話からズレました。すいません。<(_ _)> 俺は能力を高めるという方針なら「人材育成」には反対しません。 御幣がありますが、今の教育は単なる「問題の解き方」を教えてるだけと思うから。 でも、勉強のできるやつにはエリート意識を叩き込むとか、そういう方向のは反対。 学校言ってる間じゃ人格完成は無理だから、多感な10代にこれからの人生の土台を 作るためというとこですかね。俺の学校教育の印象は。 このまえテレビで観ましたが、100じゃない10マス計算をやらせて 国語では子供に役者のように感情を込めて音読させ、 踊りなんかもさせてる先生がいます。名前は忘れたけど。 子供らはイキイキしてましたよ。 |
団塊党さん!こんばんわ! 人間「十人・十色」「百人・百葉」と云われるように多様な面を持つのが 自然界にて生物が繁栄してきた原則に照らして、教育と云う型枠に嵌めて しまったり個性という多様の中にあっての価値まで奪ってしまう・、 ・・日本の教育システムの至らなさを痛感しております・・。 特に創造的な自由な発想の芽生えを矯めてしまってる事の現実は 嫌と云って良いほど見てきました。 数十年ぶりの同窓会でも秀才の誉れ高く一流大学〜一流企業に入社してた 人達より、どちらかと云えば「洟垂れ」で学業の思わしいタイプでない 連中の方が歳をとっても元気があり企業の経営や自営業などで 見た目にも若々しく、エネルギッシュな感じにて世の中を背負って 立つような「自信に満ちてる様子も」ありました・。 自立しての生き方の中で鍛えられる事もあると思います・・。 事例としては狭い範囲かも知れませんが、このあたりは、世代を越えて共通した 現象を見て取れる処です・・・。 できない子はそれなりに・・は、ある面では結構なことでないでしょうか! 社会が多様で広範囲な価値観を持つようになれば、就学時において 多少、学力が劣ったとしても、長い人生の中で如何様にも成長は可能であり 豊かな人生を送ってる人の多いことも例を挙げるまでもない事です・・。 ただ「寺子屋レベル」でも良いですから「読み書きソロバン」に例えられる 基礎的なものと、最も大切な事は「嘘や繕い」に逃げない誠実であることの 生き方は勿論、家庭での躾と教えが第一ですが、学校、教育でもそれに沿った ものが大切ではないでしょうか・・? 「現在、日本国民が」一様にその責めを負わなければならぬ事は 嘘つきが、多くなってしまった事・ 日常での不祥事・事故・事件の殆どは「嘘・つくろい・」「不誠実」に その端を発してる事は・・どなたでも認識する・ところでないでしょうか・・。 欧米諸国の大学のように入学時の選抜より、「真の学力の履修が叶ったか否か」 をもって卒業資格を与える・・とか・。教える側も権威に縋「すが」らずに 実質本意であること・教えることに情熱を失ってる教員は自然淘汰の仕組みも 必要ではないかと思います・。 |
ご参考までに、現・教育基本法前文と3条までを以下に・・・ 全部で11条まであります。 教育基本法 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない。 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。 第一条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。 第二条(教育の方針) 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。 第三条(教育の機会均等) 1 すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。 2 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によつて修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。 http://www.ne.jp/asahi/uzomuzo/home/kyoiku_kihonho.html |
もし、if・文部省が無っかたら? もっと、多様な人間本意の地域の特色と個性的な教育システムが可能に なるのではないか? 「フリースクール」を主宰してる知人の話によると登校拒否や 未就学児童が抱えてる問題は文部省の官僚的な考え方では対応しきれない ことは現実的には明白である・・との事で私も納得する処です・。 明治維新から形を変えながらも続いてる・富国強兵・産業興国的モードを背景とする日本の教育システムは既に実状に合わなくなってる現実を認識して根本的に 再構築を図る必要があると・・考える・但し文部省は抜きにすることも 一つのアイデイアではないか・・・? 「文部省の官僚や教育界の権威と云われてる方々を抜きにすると云う意味!で そうしなければ真の改革はできない・。」 |
>もし、if・文部省が無っかたら? > >もっと、多様な人間本意の地域の特色と個性的な教育システムが可能に >なるのではないか? > >「フリースクール」を主宰してる知人の話によると登校拒否や >未就学児童が抱えてる問題は文部省の官僚的な考え方では対応しきれない > >ことは現実的には明白である・・との事で私も納得する処です・。 > 私の子供たちはいずれも小中高と公立校のお世話になりました。 多くの先生方にお世話になりましたが、振り返ってみて公立校の 先生、教師に共通してる印象は幾人かの良い意味での例外はありましたが、 何かにつけて官僚的な、ある種の「発想の狭さ」「想像力の弱さ」 一般社会の世事「政治的側面は除いて」への疎さもからも・それら教師の限界を 感じたことは度々でした。 年月を過ぎてからその辺りの事情は文部省が細事にまでの「監督?」 が行き届いてることにあるとのこと・・で納得?した経緯もありました。 教師稼業を続けて行くためには「発想の広さや想像力の豊かさ」を持ってる ことは邪魔にこそなれ決してプラスにならない・・!とベテラン級の教師から 聞くに及んで・・行く先に・強い不安を持つに至っております・・。 その後日本の教育の現状を関心をもって見るに、やはり前述のことは 肯定されるべき諸々の現象を目の辺りにしております・・・。 |
>もし、if・文部省が無っかたら? > >もっと、多様な人間本意の地域の特色と個性的な教育システムが可能に >なるのではないか? > >「フリースクール」を主宰してる知人の話によると登校拒否や >未就学児童が抱えてる問題は文部省の官僚的な考え方では対応しきれない > >ことは現実的には明白である・・との事で私も納得する処です・。 私の子供たちはいずれも小中高と公立校のお世話になりました。 多くの先生方にお世話になりましたが、振り返ってみて公立校の 先生、教師に共通してる印象は幾人かの良い意味での例外はありましたが、 何かにつけて官僚的な、ある種の「発想の狭さ」「想像力の弱さ」 一般社会の世事「政治的側面は除いて」への疎さもからも・それら教師の限界を 感じたことは度々でした。 年月を過ぎてからその辺りの事情は文部省が細事にまでの「監督?」 が行き届いてることにあるとのこと・・で納得?した経緯もありました。 教師稼業を続けて行くためには「発想の広さや想像力の豊かさ」を持ってる ことは邪魔にこそなれ決してプラスにならない・・!とベテラン級の教師から 聞くに及んで・・行く先に・強い不安を持つに至っております・・。 その後日本の教育の現状を関心をもって見るに、やはり前述のことは 肯定されるべき諸々の現象を目の辺りにしております・・・。 |
団塊党さん、みなさん、こんにちは。 私なりに、つねづね感じていることを、少々書いてみます。私には 子供がいませんし、昨今の学校の現状をさほど知っているわけでも ないので、的外れかもしれませんが、ご勘弁いただければと思います。 * まず学校に望むいちばんは、学力、とくに基礎学力の習得と向上です。 これは、多くの親に共通する願いなのではないでしょうか。簡単に 言えば、読み書きソロバンです。日本語を読む力、書く力、目の前の 問題を科学や数理の目でとらえる視点。自分の手で計算して具体的な 解決策につなげる力。全部、人が生きていくうえで大切な力です。 そのためには、相当量の継続的な訓練が必要と思います。基本的には、 スポーツと同じです。自分の学校時代を思い出すと、漢字の書き取り、 数学の計算練習、その類のことは、高校生になってさえ、しょっちゅう やっていましたし、教師からも常々そうするように言われていました。 いまの学校教育に、技術主義、反復訓練主義への、軽視、蔑視傾向は ないでしょうか。たとえば百マス計算のようなものが流行ると決まって、 もっと本質を踏まえた教授法でなければならないという批判が出ます。 齋藤孝氏の『声に出して読みたい日本語』がベストセラーになったとき にも、まるで戦前教育の復活のようだと揶揄する声があがりました。 このような反発は、一部のものなのでしょうか。昨今の学校教育全般に、 技術や反復訓練を軽視する傾向がありはしないでしょうか。別に百マスや 音読を奨励したいわけではありませんが、教授法の工夫は多様であって いいし、成功しているノウハウには大いに学べばよいと思うのですが。 学校、とくに小中学校を、専修学校、技術習得機関の初等コースのような ものにしてしまうことには、私も違和感を覚えます。しかし、そのような 「社会的要請」に対抗するためにも、現在の学校の先生方が、自分たちは こんなに優れた学力向上技術を持っている、私たちの教え子を見てくれと、 実地で示さなければ、何を言っても説得力を持たないように思うのですが。 全般的な学力の低下傾向が、このところまた、しばしば指摘されますが、 それは実態を反映したものなのでしょうか。もしそうだとすれば、まず 現場の先生方が、早急に、それに対する何らかの「答え」を出すべきでは ないでしょうか。学力向上の具体的な取り組みと、その成果を、速やかに 示すべきではないでしょうか。教育には時間がかかるなどと言わずに。 * 「できない子は、それなりに」についても、人格形成のことについても、 それぞれ思うところがいくつかあります。そういった話題を軽視している つもりはありません。ですが、既にだいぶ長くなりましたので、まず上の 点にとどめます。現場のご苦労を知りもせずに、かなりきつい言い方に なってしまったかもしれません。その点、あらかじめお詫びをいたします。 |
みなさん、早速ご意見を頂き有り難うございます。 おっしゃることはどれもごもっともなことばかりだと感じました。 特にぎみゆらさんのおっしゃる「自分たちは(教師達は)こんなに優れた学力向上技術を持っている、私たちの教え子を見てくれと、実地で示さなければ、何を言っても説得力を持たない。」というご意見には教師である私自身が深く共感します。 教師はこの心意気を持って常に発言をしていくべきだと思います。 学校はすぐにでもそのような社会の声に答えていかなければいけないですね。 ですから、私に発言する資格があるのかどうか自信はないのですが、一方では、自分が疑問を持ったりおかしいと感じたりしていることはやはり訴えていくべきじゃないかなと思います。 このスレッドを立てたのもそういう気持ちからです。 私は教育基本法改正の動きについては非常に危機感を感じていますので、みなさんにこれを理解して頂きたいのです。 学校というところは子どもが学習していく中で人間的にも学力的にも成長していく場です。 教育基本法で言うところの「人格の完成」というのは簡単に言うとそういうことです。 大勢の友達や教師と一緒に学習したり学校行事に取り組んだりしていく中で、学ぶ喜びを感じたり、友達の良さに気づいたり、優しさを感じたり、自主性や忍耐力を身につけたり、想像力や思考力をつけたりしていくのが学校です。 もちろん、学力をしっかり身につけさせるのは当然のことです。 これらの結果として、自分を向上させていく喜びを知る人間になっていくのだと思います。 また長いものに巻かれないで、自分の頭で考えることの出来る、自立した、真に民主主義を支える人間にもなっていくのだと思います。 教育基本法の謳っている理念や目的はそういうことだと私は解釈しています。 少し大げさな言い方かも知れませんが、人類がこれまでに築いてきた文化遺産を学んでいく中で学力も人格も向上していくのだと思います。 そのような授業を教師は工夫して創り出して行かなくてはいけないと思っています。 従って、単に塾を真似したような授業、技能向上だけをねらったような授業、能率だけを優先したような授業とは違った授業を創って行かなくてはいけないと思っています。 ところが、ここ数年の基本法改正の動きはそれを根本的に変えようとしていると見えるのです。 子どもを一人の人間として尊重する立場ではなく、産業界を担う人材、道具としてみる立場だと思うのです。 これは根本的に教育の方向性を変えてしまう見過ごせないことではないでしょうか。 |
団塊党さん、こんにちは。 ほとんど失礼に近い書き込みにもかかわらず、冷静にお読みいただき、 感謝いたします。学力についてのお立場が確認できて、安心しました。 不勉強で内容的なことがまだよくわからないのですが、聞きかじりだけ で言うと、去年の中教審答申、自民党の教基法改正方針、公明党との すりあわせ、という流れですよね。そのなかで、団塊党さんのような 現場の教師にとって、どのへんが、危機感を感じさせるのでしょうか。 あるいは、いまのままで流されていくと、いまは(曲がりなりにも?) できている「何が」損なわれようとしているのでしょうか。いまは (何とか?)存在している「どんなものが」失われるのでしょうか。 ちなみに、私自身の体験を振り返ると、小中学校は地元の公立の学校に 通いました。本当にいろんな子供がいました。大づかみに言えば、戦後の 高度成長期に、大型の公団住宅がいくつかでき、それに続いて宅地開発が 進んだ、典型的な東京の住宅地でした。以前から住んでいる、農家の子、 地主の子、小商店の子。公団も、昭和三十年代ですから、全国からの 上京家庭の坩堝で、いろんな意味で、実にさまざまな子たちがいました。 そのなかで、いまもつきあいが続いている相手は、ほとんどと言っていい くらいいません。にもかかわらず、そんな「種々雑多」な子たちと小中学校 九年間を過ごしたことが、とくに自分のような狭量で狷介な人間にとっては、 いちばんよかったことかなと。漠然とした言い方ですが、そういうことが、 いまの自分の大事なところを作ってくれたのかなと、何となく思っています。 時間をつくって自分でも、中教審答申を読んでみたいと思いますが、いま 進められようとしている「中教審的改革」と、団塊党さんがそれに対して 感じている「危機感」を、もう少し具体的、実感的にお話しいただけると、 みなさんからも、私も、また何か知恵が出せるかもしれないと思うのですが。 率直に言うと、団塊党さんの危機感が、私には、見えないとは言いませんが、 まだ何となく、ぼんやりとしか、わからないのです。ゴツゴツした手ごたえが、 まだ感じられないので、何をお返ししたらいいのかも、よくわからないのです。 勝手な言い分で、ごめんなさい。 |
▼ぎみゆらさん: >あるいは、いまのままで流されていくと、いまは(曲がりなりにも?) >できている「何が」損なわれようとしているのでしょうか。いまは >(何とか?)存在している「どんなものが」失われるのでしょうか。 何が損なわれそうなのか、何に危機感を持っているのか、自分では15971で書いたつもりだったのですが、私の言葉足らずのために理解して頂いていないようですね。 読み返してみると確かにはっきりしない書き方をしているようです。 具体的でもありませんね。 一言で言えば、「授業のあり方を変えさせられてしまう。これまで大事にしてきた授業の考え方や方法が無価値なものとして葬り去られそうだ」ということです。 教師にとっても子どもにとっても学校にいる時間のかなりの部分を占める授業は大変に大事なものです。 その授業をどうやったら子どもが興味を持ち、しかも力を付けてくれるのか、教師にとってはここが勝負のしどころなのです。 これまでは、まがりなりにも「人類が築いてきた文化遺産を学ばせる中で、人間的にも学力的にも力をつけさせる。」という理念でやってきました。 ここの説明がなかなか難しいのですが、例えば、分かりやすい例で言えば、漢字を教えるとします。 「包」という漢字があります。これを教えるのに、書き順をおぼえさせていくつかその用例を考えさせる。そして後は練習させる。 まあ、これでも良いのかも知れないですが、教師としてはもう少しこの字と感動的な出会いをさせてあげたい。そういうこともあるのです。 そのために教師は授業のプランをあれこれ考えるわけです。 そして「包」という字が母親のお腹の中に包まれている赤ちゃんを表しているところから生まれた字だということを子ども達に発見させていく。 その時の子ども達の輝いた顔。 この瞬間に子どもは単に字を覚えただけでなく、ある感動を持ってこの字を受け取ります。 これはほんの一つの例に過ぎませんが、こういう事の積み重ねの中で子どもは学力だけでなく、人格的にも成長していくのではないかと考えているのです。 友達の発言をよく聞いて自分の考えとすり合わせる等という討論の力をつけるのも授業の中でつけていくわけです。 また友達の良さに気づいてもいくのです。 何よりも勉強が楽しい、勉強にはこんなに楽しい世界があったんだという発見は人生の何よりの宝になります。 こういう子は一生、生きることに興味を持って過ごせると思います。 勉強は何も楽しいばかりが値打ちではなく、ねばり強く練習していくという側面もあります。 繰り返し訓練し、練習していくことは力を付けていく上では絶対に必要なことです。 ぎみゆらさんもその点をおっしゃていましたね。 そういうことも含めて、色々な意味で勉強は人間の力を付けていくものではないでしょうか。 そういう中で教育基本法で述べられている目的を達成していけると考えているわけです。 ところが、今、財界や政府関係者の中から出ている声というのはこういう考え方とは相容れることの出来ない考えだと感じています。 子どもは学校で人間的に成長していくというとらえ方ではなく、とにかく将来の人材育成のために、能率的にどんどん教えていく。 勉強の楽しさなどということは二次的なこととして隅に押しやられ、とにかく力に応じてばんばん詰め込んでいく。 こういうことではないでしょうか。つまり学校の塾化です。 法律が変わったからと言って、現場がすぐにこうなるとは思いませんが、長い目で見れば、じわっと変わっていくのではないか、そういうことを恐れているのです。 >ちなみに、私自身の体験を振り返ると、小中学校は地元の公立の学校に >通いました。本当にいろんな子供がいました。大づかみに言えば、戦後の >高度成長期に、大型の公団住宅がいくつかでき、それに続いて宅地開発が >進んだ、典型的な東京の住宅地でした。以前から住んでいる、農家の子、 >地主の子、小商店の子。公団も、昭和三十年代ですから、全国からの >上京家庭の坩堝で、いろんな意味で、実にさまざまな子たちがいました。 > >そのなかで、いまもつきあいが続いている相手は、ほとんどと言っていい >くらいいません。にもかかわらず、そんな「種々雑多」な子たちと小中学校 >九年間を過ごしたことが、とくに自分のような狭量で狷介な人間にとっては、 >いちばんよかったことかなと。漠然とした言い方ですが、そういうことが、 >いまの自分の大事なところを作ってくれたのかなと、何となく思っています。 「種々雑多」という点が大切ですよね。 ところが、財界の声は、早い段階から能力を測り(入学時の子どものヒトゲノムを解読という話まで出ています。)振り分けようとしているわけです。 私はある意味で英才教育があっても良いと考えますが、あまりにも早い段階でそれを行うのには反対です。 人間的な色々な面が固まる前から、そうすることが良いとは思えません。 何かが欠落するのではないかと思います。 モーツアルトなどの天才は別でしょうが。 |
団塊党さん、こんにちは。 団塊党さんのおっしゃったことを、私なりに受け止めると、 「現場教師の一人ひとりが、創意工夫を重ねることが大切である」 「学力だけでなく、友達どうしのつながりなどを実践のなかで 実感することなどを通じて、子供たちは人間的に成長していく」 というところかな、と感じました。 どちらも、とても大事なことと思います。 * その後、中教審の昨年三月答申や、いくつかの論評を読みました。 民間教育臨調等々の活発な動きがあることも知りました。大きな 流れの一つとして、教育が低迷、混迷しているという強い危機感が あり、これを国によるトップダウンマネジメントで乗り切ろう という姿勢が、色濃く感じられました。 でも、このような着想では、たぶんうまくいかないのではないかと、 私は感じます。国が教育と評価の基本を策定し、現場に下ろしていく。 当然そのときには、現場の教師らがそれに忠実に沿って動いているか、 成果が上がっているかという、何らかの数字化できる評定システムを、 あわせて作動させていく、という発想になるのだろうと思います。 これは私には、この十年、多くの民間企業が次々と失敗を重ねてきた、 成果主義指向の繰り返しに見えます。いま具体的な資料名等を挙げる ことができませんが、富士通の例などは有名ですし、そういった、 民間企業の事例なども、一つの参考になるのではないでしょうか。 現場の教師をバカにして信頼しない「改革意欲」の流れがあるのだと 思います。団塊党さんの怒りや焦りが、少しわかってきたような気が しました。私もかつての職場で似たような経験があるのですが、現場の 先生方は、そこのところに、強く反発しなければいけないと感じます。 現場の活力を無視した改革は、結局なかなかうまくいかないのです。 * それから、「学力だけでなく」という部分ですが、自分を振り返ると、 一日二日はともかく、長い期間、学校に行くのが嫌だと思ったことは、 幸せなことにありませんでした。それは、嫌なヤツも、恐い先輩も 含めて、そこに「みんな」がいたから、そこが「子供たちの社会」 だったからだろうと思います。そこに行けば、みんなに会える場所。 団地育ちですので、小学生のころまでは、近所の公園が「子供たちの 社会」でした。学校から帰ると、玄関にランドセルを放り出して、 そのまま公園に向かうこともしばしばでした。私はどちらかというと、 細身でひ弱で男の子の遊びが苦手という子供でしたが、それでも、 みんながいる場所に行くのです。そこに行けば、みんながいるから。 中高生のころは、やはりそれなりに自立心のようなものも出てきて、 集団が鬱陶しい、一人になりたいと思うことも、よくありました。 それなのに、夏休みなど長い休みも後半になると、何だかまた、 学校に行ってみんなに会ってみたくなります。勝手なものですよね。 学力の立て直しは急務と思いますし、そのために、いろいろな方法論や システムの見直し、効率化等々も必要だろうと思うのですが、それと 同時に、学校は、「子供たちの社会」、少々嫌なことがあっても、また 何となくそこに行きたくなる場所で、あり続けてほしいと思います。 * 長くなりました。とりあえず、ここまでにします。 優等生的な言い方ですが、改革すべき現状と、その道筋。守り、残すべき もの。その両方の勘所を、見定める必要があるのではないでしょうか。 |
▼ぎみゆらさん: >団塊党さんのおっしゃったことを、私なりに受け止めると、 >「現場教師の一人ひとりが、創意工夫を重ねることが大切である」 >「学力だけでなく、友達どうしのつながりなどを実践のなかで > 実感することなどを通じて、子供たちは人間的に成長していく」 >というところかな、と感じました。 > >どちらも、とても大事なことと思います。 私は最近よく思うのですが、一番大切なのは教師の「何としてでもこれを子ども達に」という熱意なんです。 熱意があるからこそ「創意工夫」も出てくるのです。 何だそんなこと当然だと思われるかも知れませんが、ますますその大切さを感じています。 この時間はこういう事を子どもに分かってもらいたい、こういう力を付けてあげたいという教師の強い思いがあるかないかが、子どもの目の輝きの違いになって現れてきます。それは恐ろしいほどです。 ところがそういう情熱を持続させるには、バックボーンが必要です。 一人一人それは微妙に違っていると思いますが、大本の所では教育基本法で謳われている理念につながっているはずです。 しっかりした理念に支えられて教師の仕事は熱意を失わずに続けられます。 教師に限らず、どんな職業もそうですが、教師の場合は特にそうじゃないかと思います。 その大本になる教育基本法が変わるというのは、我々現場の人間にとっては家の土台が変わってしまうことと同じ意味を持っています。 せっかく立派な土台があったのにそれが取り壊されていくような気持ちです。 >でも、このような着想では、たぶんうまくいかないのではないかと、 >私は感じます。国が教育と評価の基本を策定し、現場に下ろしていく。 >当然そのときには、現場の教師らがそれに忠実に沿って動いているか、 >成果が上がっているかという、何らかの数字化できる評定システムを、 >あわせて作動させていく、という発想になるのだろうと思います。 > >これは私には、この十年、多くの民間企業が次々と失敗を重ねてきた、 >成果主義指向の繰り返しに見えます。いま具体的な資料名等を挙げる >ことができませんが、富士通の例などは有名ですし、そういった、 >民間企業の事例なども、一つの参考になるのではないでしょうか。 そういうことになれば、教師の一番大事な部分である、子どものためにという熱意が冷めてしまうと思います。 ほとんどの教師は給料アップのために働いているのではなく、純粋に教育に情熱を傾けているのですから。 結果的に教師の創意工夫の芽をつむようになると思います。 >現場の教師をバカにして信頼しない「改革意欲」の流れがあるのだと >思います。団塊党さんの怒りや焦りが、少しわかってきたような気が >しました。私もかつての職場で似たような経験があるのですが、現場の >先生方は、そこのところに、強く反発しなければいけないと感じます。 >現場の活力を無視した改革は、結局なかなかうまくいかないのです。 そうなんです。現場を信用して欲しいのですが・・・・・ >学力の立て直しは急務と思いますし、そのために、いろいろな方法論や >システムの見直し、効率化等々も必要だろうと思うのですが、それと >同時に、学校は、「子供たちの社会」、少々嫌なことがあっても、また >何となくそこに行きたくなる場所で、あり続けてほしいと思います。 「少々嫌なことがあっても何となく行きたくなるような場所」私も学校がそういう場所であり続けて欲しいと思います。 学校の残しておきたい部分です。 種々雑多な子どもがいることでそれが可能だと思います。 それが公立学校の一つの良さかもしれません。 間違ってもヒトゲノムの個別検査なんかをして欲しくありません。 どんな子も能力を見限らないことが、教師の情熱を失わないための前提です。 |
団塊党さん 「熱意」のお話は、私なりに、わかるつもりです。僭越とは思い ますが、どんな仕事でも、共通するところがあるんだなと感じました。 私の仕事で言えば、取材やインタビュー、あるいは書いていただいた 原稿についてのやり取りでも、熱意というか、気合いとでもいいますか、 そのようなものは、単なる精神論、根性論ではなく、たしかにあります。 私たちはよく、「ねらい」という言葉を使いますが、そのねらいが、 ちゃんと研ぎ澄まされていて、自分自身の「本音」のようなところと 結びついているときには、何と言いますか、相手もノッてくれることが 多いですし、こちらも、お腹あたりからジワジワッと湧いてくるような、 ある種の静かな自信を、仕事の最中に感じることができます。 これまでも、教育基本法改正の話は、何度かぼんやりと聞いたことがある のですが、正直言って抽象論に聞こえて、よくわかりませんでした。でも 今回、団塊党さんとお話しして、これはなかなか厳しいなと実感しました。 そこからまた逆に、流水さんもおっしゃるように、「いま学校で何が起きて いるのか」「何が変えられようとしているのか」が、多くの「普通の人」に、 あまりわかっていないのかな、現場に立つ職業人、「教えのプロ」の苦心、 生の声として、あまり伝わっていないのかもしれないな、とも感じました。 現場で毎日、子供が大好きで、工夫を重ねているような人たちの、熱意を 削ぐような「改革」であるのならば、私は明確に反対します。またいろいろ 聞かせてください。それから、何かできるご協力があれば、教えてください。 よろしくお願いいたします。 |
▼ぎみゆらさん: >「熱意」のお話は、私なりに、わかるつもりです。僭越とは思い >ますが、どんな仕事でも、共通するところがあるんだなと感じました。 > >私の仕事で言えば、取材やインタビュー、あるいは書いていただいた >原稿についてのやり取りでも、熱意というか、気合いとでもいいますか、 >そのようなものは、単なる精神論、根性論ではなく、たしかにあります。 > >私たちはよく、「ねらい」という言葉を使いますが、そのねらいが、 >ちゃんと研ぎ澄まされていて、自分自身の「本音」のようなところと >結びついているときには、何と言いますか、相手もノッてくれることが >多いですし、こちらも、お腹あたりからジワジワッと湧いてくるような、 >ある種の静かな自信を、仕事の最中に感じることができます。 どの仕事にも共通しているんですね。 非常に参考になるお話が聞けて良かったです。 有り難うございます。 > >これまでも、教育基本法改正の話は、何度かぼんやりと聞いたことがある >のですが、正直言って抽象論に聞こえて、よくわかりませんでした。でも >今回、団塊党さんとお話しして、これはなかなか厳しいなと実感しました。 そう言ってもらって大変嬉しいです。 このスレッドを立てた甲斐がありました。 >そこからまた逆に、流水さんもおっしゃるように、「いま学校で何が起きて >いるのか」「何が変えられようとしているのか」が、多くの「普通の人」に、 >あまりわかっていないのかな、現場に立つ職業人、「教えのプロ」の苦心、 >生の声として、あまり伝わっていないのかもしれないな、とも感じました。 なかなか伝わらないということを感じています。 自己弁護しているようで言いにくいという面もありますし、ストレートに受け止めてもらえないという面もあります。 マスコミに学校や教師の不祥事がばっと出るとそれに影響されますし。 右翼の逆宣伝もきついですからね。 やはりぎみゆらさんが始めに仰った、事実で示すということが一番かなと思います。 しかしこの老人党の掲示板にできるだけ現場の生の声を書いていきたいと思います。 |
団塊党さん、 教育基本法改正が、いよいよ政治日程に上ってきました。 一体、何が問題なのか、国民には判然としない。 実は、教育基本法改正の本質は、教育の主体を【国家】に取り上げようというところに本質があると思います。 教育の歴史を見れば、子供の教育の主体が【親・地域社会】⇒【国家】へと転化していく過程であることが分かります。 教育問題は、常に【親=国民】と【国家】の主導権争いの歴史だったということを忘れてはならないと思います。 ここ数十年、日本社会に噴出している諸問題をすべて教育のせいにする議論が横行してきました。 そして、その諸悪の根源が「日教組によるイデオロギー教育」であるという宣伝が行われてきたのです。 実は、この論議には、落とし穴があります。教育政策を司るのは、文部省(つまり国)であり、その結果責任は第一義的に国(文部省)とそれを主導した【自民党】にあります。 日本の教育を語るとき、そのことを抜きにした議論は、全く意味を持たないということを頭におく必要があります。 「しかし、官僚が利用しやすい馬鹿な政治家ばかり選ぶよう国民総白痴化を進めて来たのも官僚、特に文部省である。共産主義の脅威という口実を最大限利用して、批判精神の根を摘み取り、画一的教育の徹底を計り、国民全体の金太郎飴化に成功し、現在のおかしなおかしな日本を生んだのである」 宮内 邦雄 評論家 1931年 東京に生まれる。 「日本株式会社の誤算と誤魔化し」(1999)衆芸社刊 宮内の指摘は重要です。わたしも、国民の【金太郎飴】化=画一教育の弊害が、噴出する学校問題の根底にあることは、つとに指摘してきたが、現在の状況は戦後の文部省の教育政策がほとんど破綻に瀕してきたことを意味しています。 これが、現在の教育改革の根っこにある問題です。簡単に言えば、現在の日本の教育制度は、【破綻銀行】【破綻会社】にあると言っても過言ではないのです。 総合学習を中心とする現在の教育改革は、【破綻銀行】を何とか生き延びようとさせる小手先に改革に過ぎません。 破綻企業を再生させるには、最低以下の作業が必要になります。 1.破綻の原因の究明 2.責任者の処罰 3.冗費節約とリストラクチャリング 4.システムの再構築 5.未来への展望を語る⇒現場社員の労働意欲の喚起 1.破綻原因の究明と2.責任者の処罰が、最も重要です。これを間違えると、改革ではなくて、【改悪】になります。 教育は「国家百年の計」などと力む必要はないのですが、教育の結果は10年・20年後にしか現れません。 もし、間違った教育方針で教育された結果を引き受けるのは、【子供たち】なのです。その責任は非常に重いものです。 ところが、現在の風潮は、1.破綻原因をすべて、日教組とか現場教師とか駄目な親に押し付ける発想です。これでは、問題の解決には決してなりません。 会社で考えたらすぐ分かります。企業破綻の原因がすべて労働組合と現場労働者にあるのでしょうか。三菱自動車の現在の苦境の原因は、現場労働者にあるのでしょうか。誰が考えても、最大の責任は、企業経営者にあることは自明のことです。 教育の場合、経営者にあたるのが、文部省であり、文部省の教育政策を仔細に検討することが、破綻原因を明確にすることになります。 2.責任者の処罰は、戦後文部行政を司ってきた自民党文教族・文部官僚にたいしてこそ行われるべきであり、現在東京と広島で行われている戦前の赤狩りに匹敵する思想統制のようなやり方は、問題の本質をそらすものであると断ぜざるを得ません。 3.の冗費節約とリストラクチャリングは、現在の財政状況を考えればある程度やむ負えません。ただ、教育は、労働集約型の産業であり、人のリストラは教育の質に即影響します。現場教師の雇用条件を厳しくすればするほど、それは教育の質に跳ね返ります。※【良い人材は、良い雇用条件からしか得られません】 教師で子供が嫌いな人間はごく稀でづ。多くの教師は、子供のために少々自分が犠牲になっても仕方がないと考えています。これを「教師聖職論」といいます。しかし、それを他から強制されるのは釈然としないものです。 だが、現在進行している事態は、教師聖職論の事実上の強制です。 この弊害は、すぐには分からないが、そのうち大きな問題になることは必至です。 4.のシステムの再構築は、まったなしです。 問題は、システム再構築を政府自民党・文部省にゆだねるのか、という問題です。 どこの世界に、破綻銀行や破綻企業の責任者が、もう一度企業再生の責任者になりますか。 全く違う発想で取り組むためには、違う組織・違う人間で行わなければ、抜本的改革など不可能です。 5.の未来への展望が、政府自民党の打ち出した【教育基本法の改正】でしょう。 しかし、内容をみれば一目瞭然ですが、【国を愛する心】の強調が、21世紀の子供たちの未来への展望になるのでしょうか。 これは、完全に【先祖がえり】の発想です。 21世紀の世界をどのように考えているか、全く見えない改革です。はっきりしていることは、子供は『国のもの』と姿勢です。 教育問題は、原因と結果が即座に結びつくものではありません。教師にも力量不足の教師が多々います。どうしようもない親もいるでしょう。勉強が嫌いで嫌いで仕方のない子もいます。時間や労力をかけても、効果の上がらない子供もいます。 だから、教育問題を語る人の言い分は、すべて当たっていますが、それが全てではないのです。 ここに、教育問題を語るときの難しさがあるのです。 拙速を避けて、問題の本質を見抜いて、じっくりした議論が必要だと思います。 |
流水さん、こんにちは。 よろしければ、一つ教えてください。 今回の教育基本法改正への動きについて、私立学校の関係者は、 どのように反応しているのでしょうか。 いくつかの資料に目を通して、今回の改正は、教育の主体を国家に 移そうとする流れであると、私も感じました。そうであるならば、 その影響を大きく被るのは、ある意味で、日頃から独自の教育内容を 売り物にしている、私立の学校なのではないでしょうか。 少子化時代で、どこの私立学校も子供集めに必死だと聞きます。 そんななかで、教育計画の基本を国からトップダウンされるように なってしまえば、独自性の打ち出しがたいへん困難になるはずです。 私立学校としては、それはそのまま死活問題であると思うのですが。 何かご存じのことがあれば、お聞かせいただければと思います。 よろしくお願いいたします。 |
私立学校については、詳しいことは知りませんが、基本的には国の方針を如何にして逆手にとって運営するか、を強かに考えていると思います。 1、指導要領の束縛なしにエリート教育ができる⇒有名私立校は基本的にそうなっていると思います。 2、公立校から排除された子供を集めて、徹底的に面倒を見る⇒例えば、不登校の子供を全寮制で面倒を見るなど。これも、経営的に行き詰った私立高校の再建策としてよく取られます。 3、各種学校的要素を色濃く出して、生徒を集める。⇒わたしの近所の高校では、もう10年以上前から、調理科(フランス料理・イタリア料理など)を設けて特色を出しています。 4、スポーツ・芸能の特化した運営⇒外国人留学生の積極的受け入れ などが見られます。現在の公立学校システムの『隙間』を狙って強かに生き残りを図っていると思います。 |
流水さん、お返事ありがとうございました。 一般社会では、私企業は、権力者と癒着しつつ、しかし本質的には 公的規制による束縛を最も嫌います。私立学校経営者の場合はどう なんだろう、内心不満はないんだとうかと考えてのご質問でした。 私なりに、もう少しそちら方面にも、今後は目を配るようにして みたいと思います。 |
▼流水さん: どうしても 流水さんと 思考が衝突してしまいます。 「教育基本法改正」の中身の話ではありません。 「それ以前の問題」についてであります。 文部省の教育行政は確かに ほめられたものではありません。 しかし、教育現場における 日教組の罪も見逃せないのです。 自分自身が受けた教育を思い返してみると、とても歪んだ教育を受けた実感があります。 まともな「物の見方、考え方」ができるようになろうと どれ程苦労し、時間のかかった事か、 恨みに思うところがあります。 なんという教育を私に施したのか! これは「文部省」だけではなく「日教組」でもあった、と思えるのです。 私にとっては、文部省も日教組も「どちらも反省して、引っ込んでいて欲しい」のです。 そういった意味で、流水さんの、 総てが 文部省:自民党に その責があるかのような考え方には 同調できないのです。 国歌、国旗についても同じことが言えます。 起立、斉唱を「強制」するとか「拒否」するとか、そんなことを教育の場に持ち込んでもらっては困ります。 それぞれ理屈はあるでしょう、しかし 私にとって見れば「どっちもどっちだ」という気分です。 「イデオロギーの衝突」など どこか閉じられた(見えない)ところで やってもらいたいものです。 どちらかが「正しい」という「決着」のつく事でもないでしょう。 そんな衝突のとばっちりで 迷惑するものの身にも なってもらいたい、と言いたいのです。 一番の被害者が「子供たち」であることを もっと意識して欲しいのです。 かなり、八つ当たり気味の意見を言いましたが、かなり本心からであります。 |
現在の教育問題を語るとき、まずそのような教育政策を司ってきた国(文部省)の責任を問うのが筋でしょう。 日教組のイデオロギー教育といいますが、教育現場で教えるのは、検定済みの教科書ですし、教える内容は指導要領で決められていますし、授業時間も決められているのですよ。 つまり、手足を完全に縛られた状況で、イデオロギー教育に血道を挙げるなどできない仕組みになっています。おまけに、教員採用の時点で、かなり身上調査を行い、思想傾向が左翼的な人間はかなり排除されています。 国旗・国歌など広島・東京などを除けば、もう30年近く全国の学校で実施されていましたよ。 よく宣伝に使われた徒競走で順位をつけないなど、わたしたちの県では聞いたこともありませんし、した経験もありません。 あなたの通われた学校での経験は、あなたの県に特有なものなのか、あなたの学校だけで行われていたのか、それとも全国共通のものなのか。そこのところもはっきりしませんね。 つまり、教育というものは、きわめて『個人的なもの』なのです。『個人的な経験』を普遍化するためには、かなり慎重な手続きで語る必要があります。 ところが、教育を語るときには、ほとんどの人が自分の個人的な経験を普遍化してしまいます。だから、わたしは、教育を語る人の言い分は、みな正しいのだが、それが全てではないと言っているのです。 だから、教育を語るときには、『制度としての教育』と『あるべき教育の理念』とは厳密に分けて語る必要があります。 まして、政治的思惑で教育を語ることなど決してしてはならないことです。 『制度としての教育』として考えるとき、その制度(システム)を構築した文部省の問題を第一に考えることは当然ですし、それを抜いて議論しても始まらない、といっているのです。 |
▼流水さん: >現在の教育問題を語るとき、まずそのような教育政策を司ってきた国(文部省)の責任を問うのが筋でしょう。 その通りですが、行政に対して我々国民は批判や圧力をかけることが「制度的」に可能です。 日教組に対してのそれは、ありませんね、その差を勘案すると・・・ 「どっちもどっち」と思うのであります。 >日教組のイデオロギー教育といいますが、教育現場で教えるのは、検定済みの教科書ですし、教える内容は指導要領で決められていますし、授業時間も決められているのですよ。 これは、はっきり云って「実態ではない」でしょう。 「社会的な意識」について、子供たちへの影響力というのは、教科書以外のところで発揮されます。 そのような「建て前」についての議論は望んでおりません。 この場では、本質論を議論したいと望んでおります。 >つまり、手足を完全に縛られた状況で、イデオロギー教育に血道を挙げるなどできない仕組みになっています。おまけに、教員採用の時点で、かなり身上調査を行い、思想傾向が左翼的な人間はかなり排除されています。 これも「建て前」と思います。 >国旗・国歌など広島・東京などを除けば、もう30年近く全国の学校で実施されていましたよ。 では、なぜ今になって 国旗・国歌への態度を意固地にする 教師やその教え子が出て来るようになったのでしょうか? 4・50年前には そのような現象は少なかったと思います。 (その頃には 文部省の締め付けも 緩かった筈です) 近年になって 極端な行動(をする教師)が発生するようになってきたのじゃありませんか? そういった教師が「増えた」のはどうしてでしょう。 そういった教師を「教育した」のは誰でしょう? 少なくとも「文部省の差し金」ではありえませんね。 >つまり、教育というものは、きわめて『個人的なもの』なのです。『個人的な経験』を普遍化するためには、かなり慎重な手続きで語る必要があります。 その通りだと思います。 ですから4・50年経って 自分自身の過去を客観的に見られるようになって、その事実を述べているのです。 ですから「個人的」ではありますが、「客観性」を外してはいないつもりです。 私は、代々 国粋的・民族主義的な思想がしっかりと根付いている家庭に育ちました。 祖父母たち年寄りに育てられた人間です。 それが、学生運動に身をおくようになったのは、間違いなく学校の教師の影響であります。 (誤解なきよう、祖父母たちへの反発では決してありませんし、祖父母から反対もされませんでした) >だから、教育を語るときには、『制度としての教育』と『あるべき教育の理念』とは厳密に分けて語る必要があります。 >まして、政治的思惑で教育を語ることなど決してしてはならないことです。 全くその通りであります。 ですから、教育の現場から「政治的思惑」を排除してください、とお願いしているのです。 国旗・国歌への姿勢について、子供たちの前で「パフォーマンス」しないでいただきたいと申しているのです。 校長との議論は職員室でやってください、 規律・斉唱がイヤなら トイレにでも行っていて下さい、とお願いしたいのです。 >『制度としての教育』として考えるとき、その制度(システム)を構築した文部省の問題を第一に考えることは当然ですし、それを抜いて議論しても始まらない、といっているのです。 順序論争(卵か鶏かどちらが先?)など どちらが「第一」であろうと構いません、 何十年も連れ添った夫婦が「どちらが先に惚れたか」などを言い合う様に「意味を持たない」のと同じです。 今となっては「右も左も引っ込んどくれ」と云いたいだけです。 |
●「社会的な意識」について、子供たちへの影響力というのは、教科書以外のところで発揮されます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ その通りでしょう。教師の授業中に語る内容によって、影響を受ける生徒もいるでしょう。 わたしはそのことを否定していませんよ。ですが、それは教師個人個人によって違うといっているのです。同じ学校に勤務していても、A教師が授業中に何を語ったかなどは、ほとんど周りの教師は知りません。 教育が【個人的】なものというのは、そういうことです。つまり、あなたのいわれることは、あなたにとって正しくても、普遍化できないことです。 わたし個人についていえば、日教組の組合員であっても、日教組の理論や考え方で子供を教育したことなど一度もありません。(断言します)自分で勉強し、自分で確かめ、自分の信念に基づいたことを語ってきました。だから、あるときは文部省の言うことと重なったり、あるときは日教組の理念と重なったりしたかもしれませんが、それはわたし個人の責任で行ったことです。しかし、わたしの経験が教師全般に普遍化できるものでないことは確かです。 だから、あなたが建前と言われることが、教師全般のおかれている【実態】ということにならざるを得ないのです。そこからはじめなければ、教育という普遍的な問題について、語ることにはなりません。 ●それが、学生運動に身をおくようになったのは、間違いなく学校の教師の影響であります ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ それは、あなたがその教師の言説について、信頼を置いたか、あなた自身の考え方の中にそれを是とするものがあったからだと思います。 人間の思想信念に基づいた行動を決定するのは、【1】自分 【2】所属する集団【3】親・兄弟・家族【4】友人【5】教師とか影響を受けた思想家・評論家など が考えられます。 あなたの場合は、それが【5】の教師だったのでしょう。 それを持って、教師の思想的傾向を普遍化することはできない、と思います。 問題を普遍化するのだったら、【教師の行動】【教師の言説】に対する【責任】という視点なら、ある程度できると思います。 私自身は、常にそれを念頭において、授業してきた、と思っています。 ●ですから、教育の現場から「政治的思惑」を排除してください、とお願いしているのです。 国旗・国歌への姿勢について、子供たちの前で「パフォーマンス」しないでいただきたいと申しているのです。 校長との議論は職員室でやってください、 規律・斉唱がイヤなら トイレにでも行っていて下さい、とお願いしたいのです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ どちらが先かの議論をしても仕方がありませんが、国旗・国歌の問題は、少なくとも教師が仕掛けたものではありません。ただ、そのような国家意思の表明に対して抵抗の意思を表明したものだと思います。 わたし個人は、その方法手段については、異論がありますが、わたしからみればそれだけ教育現場に対する国家の介入が顕著になっている一つの証左だと思います。 ●何十年も連れ添った夫婦が「どちらが先に惚れたか」などを言い合う様に「意味を持たない」のと同じです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ これは、適切でない比喩ですね。 文部省は国家機関です。国の教育政策を決定する機関です。彼らの決定には法的拘束力があり、予算措置が取られているのです。 日教組は、組合ですよ。政策決定機関でもなければ、法的拘束力などどこにも持っていませんし、まして予算措置など何もありません。 それを同列に捉える発想は、全く納得できませんね。 |
▼流水さん: >それは教師個人個人によって違うといっているのです。同じ学校に勤務していても、A教師が授業中に何を語ったかなどは、ほとんど周りの教師は知りません。 >わたし個人についていえば、日教組の組合員であっても、日教組の理論や考え方で子供を教育したことなど一度もありません。(断言します)自分で勉強し、自分で確かめ、自分の信念に基づいたことを語ってきました。 私は、それで結構なのです。 教師が自分の信念に従って教育する、それで充分です。 その教育現場へ 「右や左を持ち込んでくれるな」 と云ってるだけです。 右や左を持ち込もうとする、行政も組合も排除したいのです。 教育現場を「ガラス張り」にして、市民・父母が観察できるようにして欲しいのです。 要するに教育は「誰の『ため』のものか」であります。 少なくとも「国民の代行者」としての行政機関と その下部機関である現場の教師の『ため』のものではないはずだ、・・・ということが言いたいのです。 >だから、あなたが建前と言われることが、教師全般のおかれている【実態】ということにならざるを得ないのです。そこからはじめなければ、教育という普遍的な問題について、語ることにはなりません。 建て前を持ち出せば どうしても政治的・イデオロギー的な対立関係にならざるを得ません。 それが判っていて、建て前を振りかざし、対決を挑む 教師に共感を持ち得ないのです。 >どちらが先かの議論をしても仕方がありませんが、国旗・国歌の問題は、少なくとも教師が仕掛けたものではありません。ただ、そのような国家意思の表明に対して抵抗の意思を表明したものだと思います。 >わたし個人は、その方法手段については、異論がありますが、わたしからみればそれだけ教育現場に対する国家の介入が顕著になっている一つの証左だと思います。 教育に「国家の介入」がある事は「当然」です。 (これに異議があれば「別議論」としなければいけません) 問題は「介入の中身」です、中身に対して 行政に対抗しようとする、 その前に 「国民の評価・選択」を得ようとする姿勢が組合に希薄なのが不可解なのです。 疑念があれば「こういう内容で教育してもいいですか?」と国民に尋ねるべきではないか、と思うのです。 行政は「国民の代行者」です、代行者の過ちは 大元の国民に糾すのが 本筋だと思うのです。 その点、日教組の皆さんは、自分たちが「国民の代行者(代表者)」として振舞われる所が 違ってはいないか、と思うのです。 >文部省は国家機関です。国の教育政策を決定する機関です。彼らの決定には法的拘束力があり、予算措置が取られているのです。 >日教組は、組合ですよ。政策決定機関でもなければ、法的拘束力などどこにも持っていませんし、まして予算措置など何もありません。 >それを同列に捉える発想は、全く納得できませんね。 いや本当にそうですか? 今までの日教組の行動は、自分達を国家機関と同レベルに位置付けた「物言い」をしてきたように見えるのですが。 「国民の目」から見れば、法的拘束力も予算措置も、こういった建て前など興味はありません。 教育行政の上部機関と下部機関の対立としか見えません。 そして、両者の国民からの「遊離度合い」は同じ程度に思えるのです。 上下で対立する前に、問題を国民に糾さない体質に差はありません。 だから何度も云いますが「どっちもどっち」に見えるのです。 |
●いや本当にそうですか? 今までの日教組の行動は、自分達を国家機関と同レベルに位置付けた「物言い」をしてきたように見えるのですが。 「国民の目」から見れば、法的拘束力も予算措置も、こういった建て前など興味はありません。 教育行政の上部機関と下部機関の対立としか見えません。 そして、両者の国民からの「遊離度合い」は同じ程度に思えるのです。 上下で対立する前に、問題を国民に糾さない体質に差はありません。 だから何度も云いますが「どっちもどっち」に見えるのです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ こんな論争は厭ですが、誤解だけは正したいと思います。 わたしの知っている限り、日教組が自分たちを国家機関と同一だと考えたことなど一度もありませんよ。 日教組の指導者は、それほど馬鹿ではありません。 国民の目から見れば、とおっしゃいますが、そんなことは国民はとっくに承知しているのではありませんか。 それが証拠に、何か問題があれば、すぐ教育委員会に電話する人の多いこと。 これは、教育が、そのように上部に規定されていることをよく知っているからでしょう。 文部省と日教組が国民から遊離しているとの指摘は、わたしの反論することではありません。国民の認識がそうなら、そうでしょう。 どっちもどっちという認識は、納得できませんね。 理由を1,2申し上げましょう。 つまり、あなたのおっしゃってることを端的にまとめれば、破綻会社になったのは、社長など経営者の責任と同様な責任が組合にあるといっているのと同じなのです。 わたしは、最初から組合員(社員)に責任がないといっていません。社員ににも一部の責任はあるでしょう。しかし、社員だけに責任を転化する論理は、間違いだといっているのです。 あなたは、執拗に組合員(社員)に責任があるとおっしゃってる。わたしは、制度としての教育を論じるなら、第一義的に経営者の責任を論じなければ、物事の本質を論ずることができないといっているのです。 善悪ではないのです。物事を考えるときの順序をいっているのです。あなたには、それが日教組擁護にしか写らないようですが、それこそあなたの目が、イデオロギーに毒されているとしか思えないですね。 |
▼流水さん: >こんな論争は厭ですが、誤解だけは正したいと思います。 >わたしの知っている限り、日教組が自分たちを国家機関と同一だと考えたことなど一度もありませんよ。 私が申したのは、 日教組の行動は、自分達を国家機関と同レベルに位置付けた「物言い」をしてきたように見える。 であります。 「日教組が自分たちを国家機関と同一と考えた」との決め付けは いたしておりません。 似てはいますが、趣旨は全く異なります。 >社員だけに責任を転化する論理は、間違いだといっているのです。 私の主張を歪曲しないで下さい。 一貫して「どっちもどっち」と云っております。 「社員だけ」に責任転嫁など いたしておりません。 流水さんが、「経営者の責任だ」とおっしゃったから、「社員『にも』責任」がありますよ、と云っただけの事です。 >あなたは、執拗に組合員(社員)に責任があるとおっしゃってる。 執拗に言っているのは 「組合員『にも』 」 であります。 組合員にも「加害者意識」の一端くらいは持って欲しいということです。 (文部省の責任は 自明の事であります) >善悪ではないのです。物事を考えるときの順序をいっているのです。あなたには、それが日教組擁護にしか写らないようですが、それこそあなたの目が、イデオロギーに毒されているとしか思えないですね。 私は一貫して「イデオロギーを教育の現場に持ち込まないで下さい」とお願いしています。 それが「私の目が、イデオロギーに毒されている」というのは・・・ 訳がわからなくなりました。 私の主張を端的にまとめます。 「教育の現場に、文部省と日教組の対立を持ち込まないでくれ!」 という お願いだけであります。 この主張に まだお答えをいただいていないと思うのですが。 |
現在の教育問題に教師が責任を感じていない? 冗談じゃあありません。20年以上前から、現場教師は何回も何回も、提案してきましたよ。あなたが知らないだけです。 戦後、多くの良心的教師が、自ら教壇を去りました。自分の戦争中の言葉に責任をとったのです。(これもあまり知られていない話です) 子供たちの問題に必死で取り組んでいる教師の姿を見ることができます。 みな、責任を感じているのです。抽象的なことでなくて、具体的な日常的なことで責任を感じているのです。 彼らの声があなたたちの耳に届いていないだけです。 |
▼流水さん: >現在の教育問題に教師が責任を感じていない? > >冗談じゃあありません。20年以上前から、現場教師は何回も何回も、提案してきましたよ。あなたが知らないだけです。 >戦後、多くの良心的教師が、自ら教壇を去りました。自分の戦争中の言葉に責任をとったのです。(これもあまり知られていない話です) > >子供たちの問題に必死で取り組んでいる教師の姿を見ることができます。 >みな、責任を感じているのです。抽象的なことでなくて、具体的な日常的なことで責任を感じているのです。 >彼らの声があなたたちの耳に届いていないだけです。 申し訳ありませんが、流水さんの口調がだんだんきつくなってきた様に感じます。 誤解(被害者意識?)があるように思います。 もう少し私の意見を「正確に」受け止めてください。 私は「現場教師の個々」を 批判した事も 攻撃したことも ありません。 教育に真摯な姿勢で取り組んでいる教師の方々を知らぬわけでもありません。 (同様に、文部科学省の役人にも「まっとうな人」がいることも知っています) 私が攻撃しているのは、 「教育の名を借りて、イデオロギー闘争、階級闘争している連中」の事であります。 |
●自分達を国家機関と同レベルに位置付けた「物言い」をしてきたように見える。 であります。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ではそんな紛らわしいことは書かないでください。あなたにそう見えただけで、何の根拠もない話です。 ●一貫して「どっちもどっち」と云っております。 「社員だけ」に責任転嫁など いたしておりません。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 文部省も駄目だが、教師も駄目だ、ということは、一見もっともらしく聞こえますが、あなたの書いたものを見て御覧なさい。一貫して、教師の駄目ということの証明に費やされています。結局、教師を非難することに力点があるのは、一目瞭然です。だから、わたしはそう理解しているのです。 ●組合員にも「加害者意識」の一端くらいは持って欲しいということです。 (文部省の責任は 自明の事であります) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ あなたはないとおっしゃる。わたしは現場教師からよく悩みを聞きますが、みな悩んでいますよ。そんなことは、普通の教師なら当然です。 |
▼流水さん: >●自分達を国家機関と同レベルに位置付けた「物言い」をしてきたように見える。 >であります。 >・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >ではそんな紛らわしいことは書かないでください。あなたにそう見えただけで、何の根拠もない話です。 「見解」の差でありますので、「私の勝手な見解」という事に依存はありません。 (自分の「見解」を述べる事は「ダメ」ですか?) > >●一貫して「どっちもどっち」と云っております。 >「社員だけ」に責任転嫁など いたしておりません。 >・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >文部省も駄目だが、教師も駄目だ、ということは、一見もっともらしく聞こえますが、あなたの書いたものを見て御覧なさい。一貫して、教師の駄目ということの証明に費やされています。結局、教師を非難することに力点があるのは、一目瞭然です。 しかし、流水さんの方が「問題は文部省だ、自民党だ」とおっしゃったはずです。 流水さんのご意見に 「対して」 ですから、教師側への批判論が多くなった だけの事です。 (流水さんも、行政、自民党批判 「ばかり」 だった、でしょ?) 教育行政についても、批判の話はいくらもあります。 (流水さんとのやり取りで、そちらの話に ならなかっただけであります) もしかして、流水さんご自身が、私の批判対象と一致してしまった、という事ですか? それでしたら、お詫びします。 流水さんへの議論に教員問題は『タブー』といたしますが。 >●組合員にも「加害者意識」の一端くらいは持って欲しいということです。 >(文部省の責任は 自明の事であります) >・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >あなたはないとおっしゃる。わたしは現場教師からよく悩みを聞きますが、みな悩んでいますよ。そんなことは、普通の教師なら当然です。 お言葉ですが、ダメな教師も沢山いますよ。 総ての問題を「上部機構の問題」で片付けてしまう(逃げてしまう)人、 教育という本質には 全く熱意を示さず、保身ばかりに努力を注ぐ人。 (どこの世界でも同じですが・・・不幸にも私はそういう教員にめぐり合いすぎた様です) 私の意識(またも「見解」)ですが、この数十年を観察しますと、 だんだん教師の 質というかレベルが「落ちてきた」様に思えるのですが。 少なくとも「公立学校」は そう思えるのです。 ですから私の子供は、私立に通わせました、 学校・教師を選べますので。 |
●もしかして、流水さんご自身が、私の批判対象と一致してしまった、という事ですか? それでしたら、お詫びします。 流水さんへの議論に教員問題は『タブー』といたしますが。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ そんなことで腹を立てていません。 全く議論がかみ合っていませんね。当初からわたしは、【制度としての教育】と【教育論】とは厳密に分けるべきだと書いています。 わたしの当初からの意図は、制度論の問題から今回の教育基本法改正の問題を考えようという発想で書いたものです。 あなたは、当初から教師の資質とか日教組問題だけを語っています。それはご自分の経験から導き出されたものです。 わたしは、そのことについては、教育というものは本質的に個人的なものだから、それぞれの人の議論はすべて正しいが、それが全てではないと申し上げています。 しかし、あなたはずっとそれにこだわった言い方をされるから、あなたの経験は普遍化できない、と申し上げているのです。 同時に、わたしの経験も普遍化できないとも申し上げています。 教師の資質問題など、全国30万の教師の中には、あらゆる資質の教師がいますよ。それを槍玉に挙げるなら、どのような組織でも、様々な人間がいるのです。 そんなことは教育を語るときの前提でしょう。それを普遍化されれば、それは違うというしかないでしょう。 あなたはどんな職業をなさっているか知りませんが、あなたの職場の全ての人が素晴らしく、専門的知識を有していて、自分の言動にすべて責任を持てる人ばかりですか。 そして、中におかしな人間がいたとして、あなたは同じ職業だからその人の言動に責任をもてますか。 あなたの執拗に語っている問題は、それと同じなのですよ。 あなたは日教組とその同調者は悪い、と書かれていますが、あなたは日教組の組合員全員をしっているのですか。わたしが勤務していた時代、わたしの勤務していた学校の教師はほぼ全員日教組でしたよ。 わたしはそういう環境で教師生活を過ごしましたが、自慢にもなりませんが、ただの一度もストライキをしたこともなければ、組合幹部からイデオロギーの洗礼を受けたこともありませんよ。まして、教育内容について、こうしろああしろという指示を受けたこともありませんよ。 教師であったわたしが、日教組のイデオロギー教育などと騒ぐ理由が全く分からないのです。当然、県や地域によって事情は違うので、【わたしの経験は普遍化できない】と書いていますが、あなたのように断定的に言われると少々腹が立ちます。 あなたが普遍化してそう言い切る根拠は何か、と言うことです。個別具体的な事象か、普遍化できる事象かの区別さえはっきりしない物言いは、デマゴギーに過ぎないと思います。 さらに言えば、日教組とその同調者の何が悪いのですか。【思想信条】ですか。 それを表現したことですか。 あなたは教師は【思想・信条の自由】がないとおっしゃるのですか。 思想信条の表現もしてはいけないとおっしゃるのですか。 結局、あなたのおっしゃってることは、教師は【ただの管】になれといわれているのですね。【知識を吐き出すだけのただの管】になれと言われているのですよ。 あなたは、自分は思想信条を述べてよいが、教師は駄目だ、ということをいわれているのですか。 しかも、あなたは国と日教組を最初から並列的に論じています。何度もいいますが、組合と国が同等ですか。 ここから、完全に食い違っているのです。 何度も書きますが、わたしは日教組の方針については、全面的に賛成でもなければ、全面的に反対でもありません。わたしはただの組合員として、わたしの考え方で行動してきました。しかし、あまりにも一方的な断定は、結局【現在の教育危機は、教師が悪い】という論理と同じになります。 日教組の研究会に一度でも参加して御覧なさい。どれだけ、街宣右翼がくると思います。大音声のスピーカーで怒鳴り散らします。そうなれば、会場周辺の住民には大変な迷惑になります。 それを県が嫌がって、会場すら確保できないこともしばしばです。これがもう30年以上前から続いているのですよ。 この研究会の内容は、子供たちの諸問題について実践報告をするまじめなものですよ。中には、非常にすぐれた実践報告を数多くあります。 街宣右翼は別に日教組が呼んだものではないですよ。勝手にくるのですが、その結果非難されるのは、右翼ではなくて日教組という結果になっています。 これが、日教組が政治的イデオロギー的に行動しているという、一つの心証になっていることは否めません。 誤解なら誤りますが、わたしは、あなたの論理を突き詰めれば、この街宣右翼と同じだと読みました。最初にわたしが提起した問題には、何も触れず、結局は日教組批判・教師批判に問題の焦点を歪める発想と読みました。 だから、少々言葉がきつくなるのです。 |
▼流水さん: 丁寧なレスありがとうございます。 しっかり読ませていただきました。ほとんどの点で「納得」であります。 流水さんは、私が経験した「日教組(が原因と思われる)事象」は経験したことが「ない」とおっしゃいます。 ところが、私には「ある」・・・水掛け論であります。 そこで、一つの事例をあげて 流水さんのご意見をうかがいたいと思います。 「歴史教育」カリキュラムであります。 私が学んだ日本史の教科書には縄文から第二次大戦終了後までが書かれていました。 しかし、実際の歴史の時間は、明治維新の直前(黒船の来航)で終了してしまいました。 当時 私はこのことについて理由が理解できませんでした。 教師に尋ねたところ、彼はかなり激昂し私を叱り付けました。 (今では理由を理解できますが、当時は何のことやら訳がわかりませんでした) その教師が特別な個性を持っていた人だとは思えません。 (とても熱心な「いい先生」で、思想的には多分「保守的(右寄り)」な人だったと思います) これが私が「イデオロギーの対立」による影響を受けた 最初の経験でしょう。 (以後 色々な経験をしました) 流水さんにお尋ねします。 こういった事象 (黒船来航で終了)は「特別」な事だったのでしょうか? これは、教育現場における「イデオロギーの対立」による影響ではないのでしょうか? そして、この私の経験は「誰が(何が)原因」とお考えになるのでしょうか? こういった事が教育現場で発生する事は日本(人)の教育における「不幸」な事だと思うのです。 私は教育の専門家ではありません、特定の思想に心酔している人間でもありません。 しかし、この50年余の教育の状況が「まともな姿」とは見ていません。 その「まともでない原因」の大きな要因が「右と左の対立」にある、と観察しているのであります。 (余談) 私の発言・主張は、右の人からも 左の人にも攻撃されます。 右の人には 「お前は 左」だと、 今回、流水さんから 私は「右」 と判断されてしまったようです。 失礼ながら、流水さんは「左」ですか? <余談を含め「4っつの質問」をさせていただきました。> |
▼ワン太郎さん: ●流水さんは、私が経験した「日教組(が原因と思われる)事象」は経験したことが「ない」とおっしゃいます。 >ところが、私には「ある」・・・水掛け論であります。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ だから、最初から、普遍化できない、と申し上げています。様々な人の教育におけ る言説は、ほとんど正しいのです。しかし、それが普遍化できるかどうかには、かなり慎重に考えなければなりません。その意味で、教育というのは本質的に個人的なものだと申し上げているのです。 > >●「歴史教育」カリキュラムであります。 >私が学んだ日本史の教科書には縄文から第二次大戦終了後までが書かれていました。 >しかし、実際の歴史の時間は、明治維新の直前(黒船の来航)で終了してしまいました。 > >当時 私はこのことについて理由が理解できませんでした。 >教師に尋ねたところ、彼はかなり激昂し私を叱り付けました。 >(今では理由を理解できますが、当時は何のことやら訳がわかりませんでした) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ わたしは社会科教師でしたので、お答えしましょう。 【理由】(一般的) 1、歴史教科書の分量が多いため、時間数が足りなくてできない。 2、(中学の場合)高校入試科目から、外れたときには、無理をしてしない。 3、第二次大戦後の歴史は、少しの言葉の間違いでも父兄から抗議される場合がある。⇒これが面倒 4、実質上、入試問題に、戦後史は出ないことが多い。 5、多くの生徒が歴史が嫌いなので、好きにならすため工夫を凝らしすぎて、進度が遅れる、などが考えられます。 【わたしの場合】 教科書の内容はすべて教えました。特に現代史の場合は、できるだけ多様な資料 (教科書・生徒に持たせている資料集・わたしが作成した資料)を読ませて、自分で考えさせました。(時には、デイベートも行いました) イデオロギーの対立や保護者への配慮(自主規制)など全く考慮に入れません。すべて、資料に基づいて、子ども自身に判断させます。 「あなたの先生の場合」 きわめて、特殊な例だと思います。何故なら、教科書を残す場合でも、戦後史だけを残すのが普通です。明治維新までで終わった教師の例は、わたしは知りません。 明治史・大正史・昭和史をきちんと教えないなどということは、信じられませんね。(ただ、高校教師の場合はあるかもしれません。わたしは中学教師ですので、そのあたりの事情は良く分かりません) 「あなたの先生の理由」 もし、彼がこれをイデオロギー対立の性にしたのであれば、それは彼が敏感すぎたか、よほど臆病だったとしか考えられませんね。 そんなことが、明治維新で終わる理由にはならないと思います。 【一般論】 ただ歴史教育(歴史教科書)は、常にイデオロギー闘争の主戦場だったことは確かです。だから、このあたりに敏感な保護者などから抗議がきたりして、問題になるケースもあったやに聞いています。(※右左でいえば、抗議がくるのはほとんど右です) これが有形無形の圧力になり、現代史をネグレクトする場合があるとは思います。 ただし、この圧力が日教組からくることはありません。その逆の立場からがほとんどだといえます。 あなたは、そのあたりを【イデオロギー対立】でくくられていますが、それは現場の実態からいえば、そうではなくて一方的に右から攻められているというのが、実感ですね。もう何十年も前からこの種の圧力がかけられているのは、現場教師であります。 だから、あなたの先生のような普通の先生が「自主規制」をしてしまうのです。 ●しかし、この50年余の教育の状況が「まともな姿」とは見ていません。 >その「まともでない原因」の大きな要因が「右と左の対立」にある、と観察しているのであります。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ まともでないという観察には、同意します。 わたしから言わせれば、【右・左の対立と考えること】が違っていると考えているのです。戦後一貫して、教育現場に政治的意図を露骨に持ち込んできたのが、文部省です。戦後教育改革をみればすぐ分かります。 【右・左】の対決という図式ではないのです。【教育における国家統制】を強めようとする文部省と【教育を国民のもの】と考える考え方の対立なのです。 その【教育を国民のもの】とする考え方の根底が、教育基本法に示された精神なのです。 つまり、法を遵守しなければならない文部省が、法の精神を骨抜きにしてきた歴史が、戦後教育政策の歴史であったと概括できるかもしれません。分かりやすくいえば、憲法を解釈改憲によって捻じ曲げていったと同じ構図と考えてもらえばよく分かります。 【教え子を二度と戦場に送るな】というスローガンで始まった日教組は、当然ながら【教育は国民のもの】という立場にたちました。だから、文部省の改革には反対してきたのです。 ただ、日教組は組合です。組合員は、みな教師です。教師は、毎日毎日子供と接しています。教師にとっては、遠い理想より、【目の前の子供】が重要なのです。 目の前の子供をいかにするか、で頭が一杯なのです。 ちなみにわたしの現役時代20年以上続けた生活を書いて見ましょう。 起床6:00 食事 6;10 学校 7;00 朝練習7;15 〜8;00 朝テスト(読書)8;30 朝の職員会議 8;30 授業 9:00 〜15;30 部活動16:00 〜 18;30 家庭訪問・補導 19:00 〜時間制限なし(問題があれば、学校に泊り込む場合もある:残業手当なし) 土・日もほとんど学校にいっていました。(部活動の練習・補導・家庭訪問・子供と遊びに行く:すべて自腹です) この生活のどこにイデオロギー教育に血道をあげたり、政治活動み血道をあげる時間がありますか。帰宅したら疲れきって、ただ寝るだけです。 多くの教師は、わたしと似たような生活を送っています。とにかく、頭にあるのは【目の前の子供】なのです。 このような生活を送っている教師に対して、イデオロギー教育だけしかしていないとか攻撃するのですから、わたしなどはあっけにとられるだけです。あなたのように「どっちもどっち」と言われても、全く納得できるものではありません。 彼らもみな日教組の組合員でしたよ。 わたしがこのことを執拗に書くのは、一部マスコミなどによる教師批判に乗るだけでなく、もう少し教師の実態を見て欲しいからです。これまで、現場教師の言葉が届いていないと考えているからです。 |
▼流水さん: 流水さんが熱心になられる理由が良く判りました。 ありがとうございます、とても参考になりました。 >わたしは社会科教師でしたので、お答えしましょう。 >【理由】 ・・・・・・ とてもよくわかりました。 ところで、私の経験(その2)をお話ししますと、 私の子供(二人)が通った中学では、やはり「明治維新・日露戦争」あたりで終了になりました。 昔の経験があったので、教師にそのことを質問しました。 終始一貫「時間が無かった」の言い訳です。 「では、毎年時間切れになるのは何故?」の問いには「逃げの姿勢」ばかりであります。 父兄は辛いものです。子供が人質になっています。 それ以上の追求は躊躇せざるを得ません。 流水さんが「極めて特殊」とおっしゃるのは、実体験の中からは 納得できません。 ただ、被害者は子供だけでなく、教師にも及んでいるというのは良く判りました。 素直に(右の見解、左の見解、等を交えて)歴史教育できる環境に 早くなってもらいたいのが私の望みです。 >このあたりに敏感な保護者などから抗議がきたりして、問題になるケースもあったやに聞いています。(※右左でいえば、抗議がくるのはほとんど右です) > >ただし、この圧力が日教組からくることはありません。その逆の立場からがほとんどだといえます。 > >一方的に右から攻められているというのが、実感ですね。もう何十年も前からこの種の圧力がかけられているのは、現場教師であります。 >だから、あなたの先生のような普通の先生が「自主規制」をしてしまうのです。 ありがとうございました、認識を新たに いたしました。 >わたしから言わせれば、【右・左の対立と考えること】が違っていると考えているのです。 >戦後一貫して、教育現場に政治的意図を露骨に持ち込んできたのが、文部省です。戦後教育改革をみればすぐ分かります。 >【右・左】の対決という図式ではないのです。【教育における国家統制】を強めようとする文部省と【教育を国民のもの】と考える考え方の対立なのです。 このあたりの認識に差があるのでしょう。 私は 対立関係が総て悪いといっている訳ではありません。 対立した立場で意見を出し合い、解決の道を見出す、というのは悪くはないと思っています。 ですから、政府が「国」を意識したものを出してくる事は さほど不思議でもなく、当然の事と受け止めれば良いと思うのです。 それに対抗する提案を 教師は政府と国民に提示すれば いいことでしょう。 しかし、そこに「思想」が入り込んでくると、解決の道が見えなくなります、 どう見ても、最初から「解決の道を見つける気などない」様に見える活動が目に付いて仕方が無かったのです。 (国民の中には こういう見方をしている人は 多いと思います) そういったことが永年続くと、どちらが先に仕掛けたのか「藪の中」でしょう? という認識になってしまいます。 結局、そこには本来の教育からは、まったくズレたものになってしまっている。 こういった観察を 私は してきました。 >このような生活を送っている教師に対して、イデオロギー教育だけしかしていないとか攻撃するのですから、わたしなどはあっけにとられるだけです。あなたのように「どっちもどっち」と言われても、全く納得できるものではありません。 >彼らもみな日教組の組合員でしたよ。 一般の組合員(教師)はそうかもしれません。 しかし、日教組の「組織」としての活動は、とても政治的で、政府・与党との対決姿勢を崩さない、妥協の余地は無い、といった風に見えるのです。 |
▼流水さん: すみません、自分のことばかりレスして、流水さんのご指摘を漏らしてしまっていました。 一番基本の重要ポイントだけレスします。 >しかも、あなたは国と日教組を最初から並列的に論じています。何度もいいますが、組合と国が同等ですか。 >ここから、完全に食い違っているのです。 そうですね、この点をはっきりしておかないと いけないと思います。 私の視点は常に 「顧客サイド」にあります。(そういった仕事を永年続けてきました) 教育における「顧客」は「子供たち」であります。 子供たちの視点から見れば、「国」と「日教組」の違い(公権力の有無、指示命令権、予算執行権・・・)など 何の関係もありません。 判り易く云えば、 ある企業の 出資者、経営者、従業員の「関係」など 消費者にとって何の関係も無い のと同じです。 問題は、提供される「商品」です。 その「商品」が労使(資)の関係によって品質が左右されては「迷惑だ」といっているのです。 世の中から「学校教育の役割を請け負っている」人々(文部省、日教組)の間で 「いつまでも対立」していてもらっては「迷惑」なのです。 学校教育を「毒して」いるのは「国だ」いや「日教組だ」と、いつまで対立しているのか、 「もういい加減に止めてくれ」と客は悲鳴を上げているのじゃないですか? >誤解なら誤りますが、わたしは、あなたの論理を突き詰めれば、この街宣右翼と同じだと読みました。最初にわたしが提起した問題には、何も触れず、結局は日教組批判・教師批判に問題の焦点を歪める発想と読みました。 >だから、少々言葉がきつくなるのです。 流水さんが「最初に提起された問題」について考える前に、 「もういい加減にしてくれ、お願いだから」と叫びたくなったのです。 流水さんの問題提起を 「対立現象」の一つと「みなした」からでもあります。 |
●の視点は常に 「顧客サイド」にあります。(そういった仕事を永年続けてきました) 教育における「顧客」は「子供たち」であります。 子供たちの視点から見れば、「国」と「日教組」の違い(公権力の有無、指示命令権、予算執行権・・・)など 何の関係もありません。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 私自身のことで言えば、そのために教師生活を続けたと思っています。他から見てどうかは、知りませんが、わたし自身はそう思って教師生活を送ったと考えています。 だからそのことに批判は無いのです。 問題は、戦後の教育行政を語るなら、文部省の問題を語るのが先決であるし、文部省の教育政策の精密な点検なしに語っても、何にも語ったことにはならないと考えているのです。 わたしは、教育論と教育行政の問題は厳密に分けて考えなければならないと考えているのです。 教育基本法の改正で、国の教育理念の大転換が図られようとしています。 これからは、これまであまり見えなかった国権主義的教育の姿が、必ず顕在化してきます。これは子供を持つ親だけではなく、それによって育てられた子供たちが成長して大人になり、彼らが形成する国・社会のあり方も変えます。 簡単に言えば、上ばかり気にして子供のことも考えず、ものいわぬ教師が増え、能力と金のある子だけが勉強し、公立学校(義務教育)の教師は、ただ【子供の守】をする役目になるでしょうね。 つまり、賢くない人間が文句ばかりいうような子供を育てる教育は、支配者が困る、というわけです。だから総合学習でせっせと遊べといっているのです。 そんなのは、厭という親は、金を出して私立へ行きなさい、というわけです。 一口でいえば、教育の階層化の進展です。まあ、戦前の教育へ先祖がえりをすると考えてください。 後、必要なのは、戦争へ喜んで行く国民を作らなければいけません。だから、【国を愛する心】を強調するでしょうね。 つまり、賢い国民はたくさん要らない、というわけです。他の国民は、馬鹿で、愛国心に富んで、お上の言うことに逆らわず、黙って黙々と馬車馬のように働いて、疑いを持たずに税金を収めればよい、というわけです。 国民がそれでよいのなら仕方がありませんが、今のように日教組や親に責任をなすりつける発想で教育基本法を変えたら、必ず後悔します。これは、何十年も教師を続けてきた人間の勘です。 だから、わたしは大声で現在の教育界の諸問題に一番責任があるのが、教育行政に権限を持っている文部省だと叫んでいるのです。 もはや「どっちもどっちも」といえる状況ではなく、次の通常国会で法案が提出される段階なのです。 |
▼ワン太郎さん: >私は一貫して「イデオロギーを教育の現場に持ち込まないで下さい」とお願いしています。 >私の主張を端的にまとめます。 >「教育の現場に、文部省と日教組の対立を持ち込まないでくれ!」 >という お願いだけであります。 > 流水さんとはこれまで何度も教育について考えを交換しあってきましたが、イデオロギーを教育の場に持ち込まれるような方ではありません。 また、文部省と日教組の対立を持ち込むなどということも全くありません。 私は先日、流水さんの著書を読みました。 そこには純粋に子どもの成長だけを願った理念と方法が隅から隅まで綿密に語れていました。 あなたが批判されているようなイデオロギーじみた言葉は何一つありませんでした。 ご心配には及びません。 やや流水さんの言葉尻に強く反応されすぎているように感じます。 |
▼団塊党さん: 申し訳ありません、全くの誤解です。 「流水さんを攻撃」しているつもりは全くありません。 一般的に文部省と日教組(及びそれぞれのシンパ)を批判(と、お願い)しただけのつもりです。 流水さんが 教師をされていた事も このやり取りの中で知った様な訳です。 どうも私の議論の進め方は「一つ一つ積み上げ」ていきたいので、 一つのことを双方に納得・了承が成立しないと「次に進まないクセ」があります。 そのこだわりが「強く反応」と とられたのかも知れません。 申し訳ありません、今後は誤解を受けないような投稿を心がけます。 |
▼ワン太郎さん: >申し訳ありません、全くの誤解です。 >「流水さんを攻撃」しているつもりは全くありません。 > >一般的に文部省と日教組(及びそれぞれのシンパ)を批判(と、お願い)しただけのつもりです。 日教組や全教の組合員は私の周りにたくさんいますし、過去にもたくさんいました。 しかし、イデオロギーに凝り固まったようながちがちの人はほとんどいませんし過去にもいませんでした。 多くは子どもの教育に熱意を持ち、悩みながら仕事をしている人ばかりです。 戦後教育をダメにしたのは日教組だというような論調は、現場を知らない一部マスコミと右翼によって意図的に広められ、誤解を与えている面が強いのではないでしょうか。 |
▼団塊党さん: レスありがとうございます。 団塊党さんにお答えしようとしましたが、 流水さんへのそれと ほとんど内容が一致してしまいますので、 申し訳ありませんが【16384】をごらんいただけませんか? |
▼ワン太郎さん: >▼団塊党さん: > >レスありがとうございます。 > >団塊党さんにお答えしようとしましたが、 >流水さんへのそれと ほとんど内容が一致してしまいますので、 > >申し訳ありませんが【16384】をごらんいただけませんか? すみません【16499】の間違いですです。 |
▼ワン太郎さん: 横レス失礼 >文部省の教育行政は確かに ほめられたものではありません。 >しかし、教育現場における 日教組の罪も見逃せないのです。 なぜそう考えられるのですか? 何事も順番があります。 日本の教育を担当する政府機関が、文部省(文部科学省に名前変わりましたが)、教育現場で混乱、不備が起これば当然文部省の責任です。 教育関連が日々の仕事で、安くはない給料をもらっているわけですから。 日教組関連で使われるお金(少なくとも直接税金は使われません)と、文部省関連で使わ れる予算(人件費も、特殊法人の補助金も含め)と比較したら比べ物にならないでしょう。 前者は税金ではなく、後者は税金が使われます。責任はどちらが取るべき? この論理はよくこうも使われます。 労働組合のおかげで会社が傾いた。 そうではなく、経営者が無能だから会社は傾くのです。 >自分自身が受けた教育を思い返してみると、とても歪んだ教育を受けた実感があります。 >まともな「物の見方、考え方」ができるようになろうと どれ程苦労し、時間のかかった事か、 >恨みに思うところがあります。 >なんという教育を私に施したのか! これは「文部省」だけではなく「日教組」でもあった、と思えるのです。 人によって違うでしょうが、私に関しては学校には一応マジに高校まで通ってましたが 自分の人生左右するような教育受けた覚え有りません。 私の周りの友人も、学校の教育で人生左右などされてませんが。 ずーと高校まで公立で、いわゆる一般庶民のコースですけども。 世の中に対する物の考え方、対処の方法何一つ学校からは学ばなかったです。 第一、学校の先生自体世間知らずでよく投資話等でだまされ、教え子の金有りそうな 家に金借りに回ってた奴もいましたし。 しかも、卒業後、数年たってから。 私の家系、山師が多く小さな頃から近い親戚の倒産や夜逃げが数年おきに起こっていました。 親や親戚の夜中のひそひそ話、たまに親が漏らす愚痴、祖父の戦争話おもしろかったですよ。たまに切った張ったの刃傷沙汰もあったようですが。 世間知らずの学校の先生の話信用する方が悪いです。 今考えても先生の話そのまま信用するような生徒、クラスの中に一人か二人くらいしかいませんでした。 >私にとっては、文部省も日教組も「どちらも反省して、引っ込んでいて欲しい」のです。 > >そういった意味で、流水さんの、 >総てが 文部省:自民党に その責があるかのような考え方には 同調できないのです。 公的機関の政府、文部省、政権政党の自民党 と 公的機関ではない日教組 同列に考える方がおかしいです。 >国歌、国旗についても同じことが言えます。 >起立、斉唱を「強制」するとか「拒否」するとか、そんなことを教育の場に持ち込んでもらっては困ります。 持ち込んでいるのは、自民党政権、文部科学省です。 >それぞれ理屈はあるでしょう、しかし 私にとって見れば「どっちもどっちだ」という気分です。 理屈に強制力持っているのは、文部科学省です。 その状態で、どっちもどっちとは言えませんでしょう。 >そんな衝突のとばっちりで 迷惑するものの身にも なってもらいたい、と言いたいのです。 >一番の被害者が「子供たち」であることを もっと意識して欲しいのです。 「子供たち」そんな柔ではありません。 彼ら未完成ではありますが、生命力が上り調子の人たちです。 ほとんどの子供たち、私らオヤジや老人のように臭くありません。 したたかな面すごくあります。 自分の子供時代考えてみてください、常に弱々しい被害者でしたか? |
▼イワオさん: >>文部省の教育行政は確かに ほめられたものではありません。 >>しかし、教育現場における 日教組の罪も見逃せないのです。 > >なぜそう考えられるのですか? >何事も順番があります。 「順序論」については、流水さんへのレス【16150】をご参照ください。 >日本の教育を担当する政府機関が、文部省(文部科学省に名前変わりましたが)、 >前者は税金ではなく、後者は税金が使われます。責任はどちらが取るべき? 「責任追及」の可能性についても、流水さんへのレスをご参照ください。 >この論理はよくこうも使われます。 >労働組合のおかげで会社が傾いた。 >そうではなく、経営者が無能だから会社は傾くのです。 ノンポリの私としては、「どちらも意固地で無能」だから、と観察しています。 >自分の人生左右するような教育受けた覚え有りません。 >世の中に対する物の考え方、対処の方法何一つ学校からは学ばなかったです。 チョット信じがたいですけれど、先生から何の影響も受けなかったとは、 良いことなのか悪いことか・・・? >公的機関の政府、文部省、政権政党の自民党 >と >公的機関ではない日教組 >同列に考える方がおかしいです。 教育「される側」の子供にとって なんの変わりがあるでしょう。 文部省の木で鼻をくくった様な態度と、 日教組が国民の批判にエキセントリックな反発をすることと、「同列」に感じています。 (何度も云います、こんな「建て前」の議論をしたいとは思っていません) >>国歌、国旗についても同じことが言えます。 >>起立、斉唱を「強制」するとか「拒否」するとか、そんなことを教育の場に持ち込んでもらっては困ります。 > >持ち込んでいるのは、自民党政権、文部科学省です。 >理屈に強制力持っているのは、文部科学省です。 >その状態で、どっちもどっちとは言えませんでしょう。 こういう風に 結論を持っていくところが イヤですね。 私の観察では、戦後の文部行政はかなり リベラルでした。 そこへ、左翼思想の教師たちが組織だって文部省と対決を始めた、 そしてその後は泥仕合。 というのが実態と思います。 そこで国歌・国旗が対決の「道具」とされた のではありませんか? (だから日教組の方に責任が大きいなどと 云っているのではありません) 一般国民にとって見れば、「権力を行使」する文部省、「子供を人質」にする日教組、 (何度も云います) 「どっちもどっち」です。 >>そんな衝突のとばっちりで 迷惑するものの身にも なってもらいたい、と言いたいのです。 >>一番の被害者が「子供たち」であることを もっと意識して欲しいのです。 > >「子供たち」そんな柔ではありません。 >彼ら未完成ではありますが、生命力が上り調子の人たちです。 >ほとんどの子供たち、私らオヤジや老人のように臭くありません。 >したたかな面すごくあります。 >自分の子供時代考えてみてください、常に弱々しい被害者でしたか? 子供の生命力・成長力に心配はしておりません、 しかし、子供の成長への「味付け」を心配しております。 「右」や「左」の「濃厚な味付け」をすべきではないと、願っているのです。 |
▼ワン太郎さん: >▼イワオさん: > >>>文部省の教育行政は確かに ほめられたものではありません。 >>>しかし、教育現場における 日教組の罪も見逃せないのです。 >> >>なぜそう考えられるのですか? >>何事も順番があります。 > >「順序論」については、流水さんへのレス【16150】をご参照ください。 「16150」ですか。 要は、「建前と順序論争」に集約されると思いますが あなたがおっしゃっている意味がよくわかりませんが。 建前とは まず建築用語、この意味ではないでしょう。 通常は 1)表向きの基本方針 2)大道商人の売り口上 の二つの内(1)の意味にほとんど使われます。 さらに「本音」と組み合わせて、「本音と建て前」と使われるケースが多いですね。 このときは本音は、「本心から出た言葉」ですから、建前は「世の中の規範ではあるけど 現実は実行が難しい口当たりの良い言葉」という意味です。 >>公的機関の政府、文部省、政権政党の自民党 >>と >>公的機関ではない日教組 >>同列に考える方がおかしいです >(何度も云います、こんな「建て前」の議論をしたいとは思っていません) 「文部科学省が公的機関で、日教組が公的機関ではない」と言うことが、「建前」 ですか?よくわかりませんが。 さらに「1650」で 流水さんの >>『制度としての教育』として考えるとき、その制度(システム)を構築した文部省の >>問題を第一に考えることは当然ですし、それを抜いて議論しても始まらない、といっ >>ているのです。 の問いに対し >順序論争(卵か鶏かどちらが先?)など どちらが「第一」であろうと構いません、 >何十年も連れ添った夫婦が「どちらが先に惚れたか」などを言い合う様に >「意味を持たない」のと同じです。 何ですかこれ、古来から営々と築き続けた人間社会組織の原則を、「卵が先か鶏が先か」 ですか? 何のため国家があり、政府機関が存在するのです。何のため徴税権を彼らが持ち、国によ っては究極の暴力権、死刑の判決権まで持っているのですか? 権力が有れば、同じだけ義務は発生します。 どちらが「第一」ではなく、責任は公的機関が第一義です。 それともあなたは、「ノンポリのアナーキスト」ですか? さらに、発生学的にも、進化論からも「卵が先か鶏が先か」なんてパラドックス あり得ません。 >>この論理はよくこうも使われます。 >>労働組合のおかげで会社が傾いた。 >>そうではなく、経営者が無能だから会社は傾くのです。 >ノンポリの私としては、「どちらも意固地で無能」だから、と観察しています。 経営者は、成功すればそれだけの権力と自由を手にします。 労組とは同じ土俵には乗っていません。 ノンポリは究極の「傍観者」、一山いくらの大豆粒、一個こぼれても、3個腐っても 大勢に影響有りません。そんな粒が、観察してどうなります。 観察後、誰かにその結果伝えるのですか。 たぶん聞いてくれるのは、同じノンポリの大豆粒だけですよ。 >>自分の人生左右するような教育受けた覚え有りません。 >>世の中に対する物の考え方、対処の方法何一つ学校からは学ばなかったです。 > >チョット信じがたいですけれど、先生から何の影響も受けなかったとは、 >良いことなのか悪いことか・・・? それこそ、建前論です。 先生は生徒に勉強だけでなく、人生の師にもなる? 本当ですか? 教育界、他の業界との交流のないクローズな場所です。 一度中に入ってしまえば、無能でも、変態でも犯罪が表沙汰にならない限り守ってもらえ る所ですし。 一言で言って、現実社会からスポイルされている世間知らずの人が影響与えるのですか。 そんな人を、信じたから、ワン太郎さん人生一時誤ったのではないですか? |
▼イワオさん: >▼ワン太郎さん: >>▼イワオさん: 申し訳ありませんが、 こういった「原理論争」「原則論争」等は 私の望むところではありませんので、 カンベンしてください。 私の「物の見方、考え方」が一番理解していただけるのは、 【16503】流水さんへのレス、と思いますので、 よろしければ そちらを参照いただければと思います。 >建前とは >まず建築用語、この意味ではないでしょう。 > >通常は >1)表向きの基本方針 >2)大道商人の売り口上 >の二つの内(1)の意味にほとんど使われます。 > >さらに「本音」と組み合わせて、「本音と建て前」と使われるケースが多いですね。 >このときは本音は、「本心から出た言葉」ですから、建前は「世の中の規範ではあるけど >現実は実行が難しい口当たりの良い言葉」という意味です。 > >>>公的機関の政府、文部省、政権政党の自民党 >>>と >>>公的機関ではない日教組 >>>同列に考える方がおかしいです > >>(何度も云います、こんな「建て前」の議論をしたいとは思っていません) > >「文部科学省が公的機関で、日教組が公的機関ではない」と言うことが、「建前」 >ですか?よくわかりませんが。 > >さらに「1650」で > >流水さんの >>>『制度としての教育』として考えるとき、その制度(システム)を構築した文部省の >>>問題を第一に考えることは当然ですし、それを抜いて議論しても始まらない、といっ >>>ているのです。 > >の問いに対し > >>順序論争(卵か鶏かどちらが先?)など どちらが「第一」であろうと構いません、 >>何十年も連れ添った夫婦が「どちらが先に惚れたか」などを言い合う様に >>「意味を持たない」のと同じです。 > >何ですかこれ、古来から営々と築き続けた人間社会組織の原則を、「卵が先か鶏が先か」 >ですか? >何のため国家があり、政府機関が存在するのです。何のため徴税権を彼らが持ち、国によ >っては究極の暴力権、死刑の判決権まで持っているのですか? >権力が有れば、同じだけ義務は発生します。 > >どちらが「第一」ではなく、責任は公的機関が第一義です。 >それともあなたは、「ノンポリのアナーキスト」ですか? > >さらに、発生学的にも、進化論からも「卵が先か鶏が先か」なんてパラドックス >あり得ません。 > >>>この論理はよくこうも使われます。 >>>労働組合のおかげで会社が傾いた。 >>>そうではなく、経営者が無能だから会社は傾くのです。 > >>ノンポリの私としては、「どちらも意固地で無能」だから、と観察しています。 > >経営者は、成功すればそれだけの権力と自由を手にします。 >労組とは同じ土俵には乗っていません。 >ノンポリは究極の「傍観者」、一山いくらの大豆粒、一個こぼれても、3個腐っても >大勢に影響有りません。そんな粒が、観察してどうなります。 >観察後、誰かにその結果伝えるのですか。 >たぶん聞いてくれるのは、同じノンポリの大豆粒だけですよ。 > >>>自分の人生左右するような教育受けた覚え有りません。 >>>世の中に対する物の考え方、対処の方法何一つ学校からは学ばなかったです。 >> >>チョット信じがたいですけれど、先生から何の影響も受けなかったとは、 >>良いことなのか悪いことか・・・? > >それこそ、建前論です。 >先生は生徒に勉強だけでなく、人生の師にもなる? > >本当ですか? >教育界、他の業界との交流のないクローズな場所です。 >一度中に入ってしまえば、無能でも、変態でも犯罪が表沙汰にならない限り守ってもらえ >る所ですし。 > >一言で言って、現実社会からスポイルされている世間知らずの人が影響与えるのですか。 > >そんな人を、信じたから、ワン太郎さん人生一時誤ったのではないですか? |
▼ワン太郎さん もう一度最初から丁寧に逐語的にやりましょう。あなたとの違いは結局このレスにあると思います。 ●どうしても 流水さんと 思考が衝突してしまいます。 > >「教育基本法改正」の中身の話ではありません。 >「それ以前の問題」についてであります。 > >文部省の教育行政は確かに ほめられたものではありません。 >しかし、教育現場における 日教組の罪も見逃せないのです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ まず、日教組の罪を語ることありきですね。ここがポイントです。あなたの教育論は、反日教組から始まるというわけです。 ●自分自身が受けた教育を思い返してみると、とても歪んだ教育を受けた実感があります。 >まともな「物の見方、考え方」ができるようになろうと どれ程苦労し、時間のかかった事か、 >恨みに思うところがあります。 >なんという教育を私に施したのか! これは「文部省」だけではなく「日教組」でもあった、と思えるのです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 歪んだ教育と書かれていますね。どのような教育が歪んでいるのですか。どのような教育がまっすぐなのか。何にも分かりませんね。 まともな【ものの見方】とはどのような見方ですか。 そしてそれがなぜ日教組に直接に結びつくのですか。 要するに、あなたの個人的な恨み節にしか聞こえませよ。 > >●私にとっては、文部省も日教組も「どちらも反省して、引っ込んでいて欲しい」のです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ なぜ、文部省と日教組が同列になるのですか。これも理解できませんね。あなたは教師が組合を持つことも否定されるのですか。教師には基本的人権もいらないとおっしゃるのですか。 > ●そういった意味で、流水さんの、 >総てが 文部省:自民党に その責があるかのような考え方には 同調できないのです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 結局、あなたとの違いはここです。 文部省は、教育政策を決定するところ。法的権限を持っている所。 日本の教育政策の全ての責任は、文部省にあります。何故なら、他のどこも法的権限を持っているところはないからです。 日教組は組合です。全く責任の次元が違います。 日教組が責任を負うのは、第一義的には組合員に対してであって、国民に対してではありません。組合員の利益を守るのが、組合の役目です。 あなたはここのところを全く分かっていらっしゃらない。 ただ、日教組は教育労働者の組合なのですから、当然のことですが国の教育政策などに対して意見を言います。意見をいっても、それが実現したことなどほとんど無いと言ってよいですがね。教師の労働条件・雇用条件などは、基本的には地方公共団体と交渉をします。 つまり、組織の成り立ちからして、国の教育政策の責任など負う必要は少しもありません。 同時に、組合ですから、選挙のときに政党支援をしています。これは、何も日教組だけでなく、どの組合も同じです。 教師の責任は、個別具体的な子供に対する責任です。教育政策全般に対する責任ではありません。ただ、賛成・反対であるにかかわらず、国の教育政策の推進者であることの責任は免れないと思います。ただし、それをしないと教師であり続けることは難しいのです。だから、前にも責任は感じていると書いているはずです。 このように見てみると、どう考えても、文部省と日教組がどっちもどっちという論理は納得できませんね。 わたしから言わせれば、結局日教組批判に力点があるとしか読めません。 まあ、あなたの言葉を借りれば、国民から見れば一緒ということなのでしょうが、その程度のことも分からないなら国民の勉強不足ですよ。分からないことが立派でも何でもないでしょう。 まあ、国民年金問題で実際に文句をいわれるのは、現場の職員で、システムを考えた人間が国民から文句を言われることはないのと同じですがね。 結局、批判の矢面にたつのは現場職員ということです。あなたも同じことをしていると考えれば納得もいきますか。 ●国歌、国旗についても同じことが言えます。 >起立、斉唱を「強制」するとか「拒否」するとか、そんなことを教育の場に持ち込んでもらっては困ります。 >それぞれ理屈はあるでしょう、しかし 私にとって見れば「どっちもどっちだ」という気分です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ これを強制したいのが、自民党、文部省です。物事には原因があって結果があります。これについては前に述べました。 ●「イデオロギーの衝突」など どこか閉じられた(見えない)ところで やってもらいたいものです。 >どちらかが「正しい」という「決着」のつく事でもないでしょう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ イデオロギーの衝突などほとんど現場ではありませんよ。個別具体的な問題についての議論はありますが、今は、文部省イデオロギーの強制だけで、ほとんどの教師は物言わぬ人形ですよ。 静かなものです。あなたの認識は全く違います。 あなたの大好きな【物言わぬ管】のような教師ばかりですよ。 あなたの言い分は、要するに教師はお国の教育方針に何もいうな、といっているのと同じです。 それでいて、教師が自分の責任で主体的にものをいうのは正しいというのだから、矛盾もはなはだしいですがね。 つまり、あなたの間違いは、日教組の組合員は日教組のイデオロギーにいかれた教師だと思い込んでいるところにあるのです。わたしから言わせれば、これほど人を馬鹿にした考え方はないと思いますよ。 教師という人種は結構誇り高い人種で、組合のイデオロギーなどを鵜呑みにするタイプはあまりいません。オーム真理教の信者ではないのです。みな自分の頭で考えて、自分の行動を決めています。 日教組のイデオロギーどおりに行動するに違いないという風にあまり人を馬鹿にした見方はやめていただきたい。そんな人間は皆無とは言いませんが、ほとんどいませんよ。 教師はあなたが考えているより、はるかに自分の意見を持っています。 ●そんな衝突のとばっちりで 迷惑するものの身にも なってもらいたい、と言いたいのです。 >一番の被害者が「子供たち」であることを もっと意識して欲しいのです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 教師のほとんどが子供のことを考えていますよ。ご心配いりません。 あなたのニュアンスでは、日教組の組合員は子供のことを考えていないとお考えでしょうが、前にも書いたようにみな真剣に考えています。(例外はあります) |
▼流水さん: >▼ワン太郎さん すみません、このスレ見落としていました。 (もうチョット 見つけ易くしてくれれば・・・と言い訳を先ず) >もう一度最初から丁寧に逐語的にやりましょう。あなたとの違いは結局このレスにあると思います。 そうですね、目指していくところは 流水さんとそんなに差が無いように思うのですが、 どうも二種類の「認識の差」があるようです、 一つは、「教育行政と教育現場」に対するもの。 もう一つは、お互いの「思考の出発点(原点)」が障害になっているので、と言う気がしています。 >まず、日教組の罪を語ることありきですね。ここがポイントです。あなたの教育論は、反日教組から始まるというわけです。 ここも私の認識では、 流水さんが ≪諸悪の根源が「日教組によるイデオロギー教育」であるという宣伝が行われてきた≫ と日教組を擁護し、 ≪教育政策を司るのは、文部省(つまり国)であり、その結果責任は第一義的に国(文部省)とそれを主導した【自民党】にあります≫ との攻撃、を目にしたことが、私にとっての「発端」です。 >歪んだ教育と書かれていますね。どのような教育が歪んでいるのですか。どのような教育がまっすぐなのか。何にも分かりませんね。 私の「不幸な歴史」を披露しても詮無いことであります。 ≪何にも分かりません≫と云われれば、披露しなきゃいけませんか・・・ね。 あまり詳しくは言えませんが、 「実験教育(カリキュラム)」によって 私は「進路を変更せざるを得なく」なりました。 後年になって、それが日教組の支援する研究チームによる「実験」であったことを知りました。 これが一つ。 次に、私は(成績は結構良かったからか)選抜されて、ある「合宿」に招待され(送り込まれ)ました。 「建て前」は自由参加ですが、教師から「特別 お前だけ」と言われれば 参加するに決まったようなものです。 その合宿では、左翼思想を「やわらかく 叩き込まれ」ました。 後は学生運動への道へ一直線となりました。 正直に言えば、日教組には「恨み」があります。 こういったバックグランドをご理解いただいたうえで、議論の再スタート地点に立ちたいと思います。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 申し訳ないのですが、とても急なことが起きました。 これ以降のレスは今出来ません。ここで中断させていただき、後は「また」とさせていただきます。 |
流水さん、ご意見を頂き有り難うございます。 最近矢継ぎ早に行われている改革の真意がよく分かりました。 我々や親が求めている改革にはいっさい応じないのに、子どもの教育には 関係なかったり、障害になるような改革は次々にやってきます。 都では一つの学校にとどまれるのが6年に短縮されました。 一つの学校に腰を据えてじっくりと教育などできなくなっています。 学校選択制度は一見、親の要望に添った制度のようですが、私は地域の子ども達や親のつながりがバラバラになる恐れを感じています。 ますます群れて遊ぶことが少なくなりそうです。 そしてちょっと見の親の評判、見かけだけを気にする教師が増えていくでしょう。 こうやってあげていけばまだいくつもあります。 一方で、本当にやって欲しい30人学級の実現にはまったく手がつけられません。 私は今、組合活動からは離れていますが、組合員であるかどうかに関わらず、現場の多くの教師達はつぎつぎにやって来る制度改革に振り回されています。 しかし、今はまだ教師の創意工夫できる余地があります。 子どものために熱意を傾けていけば、いくらでも子どもを良くしていくことができます。 教育基本法がそれを護ってくれているのだと思います。 基本法は最後の砦です。 これだけは何としてでも護って行かなくてはと思います。 |
▼団塊党さん: >日本もアメリカのように貧富の格差が広がり、「二極化」の時代が来たと言われるようになった。 >そして、それは教育の世界にも訪れようとしている。 > >「グローバル化の中で日本が勝ち抜くにはトップ層の育成が必要だ」(経団連)とか「非才,無才にはせめて実直な精神だけを養えば良い」(三浦朱門)とか「いずれは就学時に遺伝子検査を行い、能力に見合った教育をしていく」(江崎玲於奈)などの声が財界や政府側の関係者から上がっています。 >平たく言えば「出来る子は伸ばし、出来ない子はそれなりに」ということであろう。 > >こうした考えが教育基本法改正の流れを作っているのである。 >個人の尊厳と人格の完成を高らかに謳った現教育基本法を改正して、人材育成に重点を置こうという意図である。 >愛国心(国を愛する心)という文言もその延長線上にあると考えられる。 > >学校教育が結果として人材育成の役割を果たすというのなら否定しないが、学校教育の中心を「人材育成」に置く考え方には反対である。 >学校教育の中心は「人格の完成」にあると思うのだが、いかがでしょうか。 >みなさんのご意見をお願いします。 現代の教育を語るときにせっぱつまっているのは、次のような問題ではないでしょうか。乗り物の中における携帯電話マナー、同化粧、同お年寄り等が目の前に立っても我が子をそのまま座らせ続ける、教師や年長の者に対する言葉遣いのぞんざいさ、学級崩壊、学校崩壊、低年齢犯罪の残虐化などなど。 これらは現行教育基本法でも防ぎきれていません。今までの政権党と文部(科学)省があげて責任をとる問題なのでしょうか。教育基本法をいっさい改正するなという前に、我々が直面している課題をどうするべきかを、国会、行政、学校、家庭、地域(社会)で考えることが大事であって、それを語るときに教育基本法を改正すべきだという議論が出ても抑圧するべきではないでしょう。 教育基本法改正はひとり自民党だけが考えていることではなく、国民のかなりの人が考えていることです。老人党のなかにも反対派ばかりではないでしょう? 私は現在の教育荒廃は、1960年代末から70年代にかけて作られた高等学校準義務教育化の流れ(15の春を泣かすな!)によるところが大きいと思っております。 学問・勉強がいやな子どもに「高校に行かんでもよろしい。おまえの好きな道を進んで立派な社会人になれ」と励ますのではなく、「高校ぐらいは出るべきだ、お父ちゃんは学歴がないから苦労した」などと言い、行政もそれに応じて高等学校を有象無象に作った。 それでほんとうに勉強したくない子どもも高校に通うため、高校にまで授業の荒れが広がったと聞きます。その結果、高校間格差は滅茶苦茶広がって、今や「高卒」だけでは、ほんとうに指導要領にのっとった高卒教養があるかどうか信じられません。 高校がやたら増える一方で、職業訓練学校や中卒で入学できる各種学校が消滅していきました。 腕の良い大工さんがいなくなる。左官技術がすたれる。こういうのは時代の流れですませて良いものではないと思うのですが。 私の勝手な考えを述べさせていただきましたが、以上のようなことについてもご意見があれば嬉しく思うのですが。 |
> 腕の良い大工さんがいなくなる。左官技術がすたれる。こういうのは時代の流れですませて良いものではないと思うのですが。 時代の流れでだから、いらない職業はなくしてよいです。 古墳に壁画の職人も、埴輪の職人もいまはいない、いなくても支障がない。 古墳壁画の修復する、研究員や学芸員がいればいいだけす。 大工も左官も、建築で必要ないなら、なくなってもいいと思います。 |
▼aubeさん: >> 腕の良い大工さんがいなくなる。左官技術がすたれる。こういうのは時代の流れですませて良いものではないと思うのですが。 > >時代の流れでだから、いらない職業はなくしてよいです。 >古墳に壁画の職人も、埴輪の職人もいまはいない、いなくても支障がない。 >古墳壁画の修復する、研究員や学芸員がいればいいだけす。 >大工も左官も、建築で必要ないなら、なくなってもいいと思います。 う〜ん、さびしい気持ちになるけど、納得。レスありがとうございました。 |
> う〜ん、さびしい気持ちになるけど、納得。レスありがとうございました。 大工の話のつづき 今の住宅問題は、職人が問題だと思います。なんで、欠陥住宅が多いのか トレサビリティー(適正な基準の体系)確保してない、業者が多い 客を馬鹿にして、説明をしない、客も説明を聞かない、書類をもらわない 一部業者では、現場での加工は、設計どおりにできないので プレカットを行って、品質を確保しています。 すべての大工が、最新の技術や情報を習得するのは不可能です。 施工を、材料加工と組み立てにわけて、大工は組み立てだけをするように 専門化したほうが、消費者にとって安心して住宅が手に入ると思います。 大工の現場での、材料加工を法律で禁止するくらいの方がいいでしょう。 決して、古い技術は不要とは、思いませんが、優先されるのは、 安心できる住宅が確保できるシステムだと思います。 |
▼宮崎故郷人さん: > これらは現行教育基本法でも防ぎきれていません。 現・教育基本法の理念や文言に欠陥があるから、教育の荒廃といわれるような状況が生まれているのではなく、現代社会のゆがみが子ども達の姿に出ていると考えます。 もちろん、それに対応できなかった文部省の責任は大きいものがあります。 また、学校や家庭も子どもの変化についていけていないという意味では責任があります。 理念が間違っていたのではなく、教育システムや教育方法が社会や子どもの変化に対応できなかったと私は考えます。 教育基本法をよく読んで下さい。あそこに書かれていることの何分の一かでも実現されているなら、目を覆いたくなるような現象はもう少し減っていたでしょう。 >教育基本法をいっさい改正するなという前に、我々が直面している課題をどうするべきかを、国会、行政、学校、家庭、地域(社会)で考えることが大事であって、それを語るときに教育基本法を改正すべきだという議論が出ても抑圧するべきではないでしょう。 > 教育基本法改正はひとり自民党だけが考えていることではなく、国民のかなりの人が考えていることです。老人党のなかにも反対派ばかりではないでしょう? 教育基本法改正について広く議論が起こるのは賛成ですが、結局は政権党の考えが基本法の隅から隅までを決めてしまいます。 それに、もし多くの人が現行基本法の文言を読んだにしてもほとんどの人は何も変える必要を感じないと思います。 そのくらい普遍的な価値が盛り込まれているのではないですか?あそこには。 > 私は現在の教育荒廃は、1960年代末から70年代にかけて作られた高等学校準義務教育化の流れ(15の春を泣かすな!)によるところが大きいと思っております。 > 学問・勉強がいやな子どもに「高校に行かんでもよろしい。おまえの好きな道を進んで立派な社会人になれ」と励ますのではなく、「高校ぐらいは出るべきだ、お父ちゃんは学歴がないから苦労した」などと言い、行政もそれに応じて高等学校を有象無象に作った。 > それでほんとうに勉強したくない子どもも高校に通うため、高校にまで授業の荒れが広がったと聞きます。その結果、高校間格差は滅茶苦茶広がって、今や「高卒」だけでは、ほんとうに指導要領にのっとった高卒教養があるかどうか信じられません。 そういうことは私も感じます。 世の中全体が高学歴志向になったために中卒で就職したり、職業校に行ったりする人が極端に少なくなった。 そのために、勉強よりも世の中に出て力を発揮するタイプの子まで普通高校へ行きだしました。 そこにどうしても無理が生じたということは言えると思います。 町中でエネルギーを持てあましている少年少女達を見るにつけ、早く社会に出て大人にさせてあげたい思うことがあります。 行政側も学校もその辺の予測が甘かったのではないでしょうか。 しかし、それは基本法の欠陥から生じたことではないでしょう。 教育の機会均等という理念自体には間違いはありません。 制度の問題だと思います。 受け入れを必要以上に甘くしたということでしょう。 |
▼団塊党さん:お邪魔します。 人それぞれに個性が有ります。 現代の教育は平等とうたいながら能力主義で、机上の勉強だけが最優先されているのが現状ではないでしょうか。 其れは職業に貴賤が有りこれによって収入の格差が有り過ぎるからと思います。其の実例は日本では体を使う職業は異常に収入は低く、頭脳職ほど高収入と云う現象は,身体を使って生きてきた私には痛い程感じています。 以前、評論家の竹村健一氏が此れからは頭を使って金儲けをする時代だと、恰も肉体労働者を卑下する発言をしていました。 どうなんでしょう。此の世の中は、色々な職業の人びとが知らぬ処で知らぬ間に助け合って生きて居る事を此の評論家忘れていらっしゃる。自分が毎日生きていく為に食している食べ物は誰が作ったり獲ったりしているのでしょうか。そして其の排泄物は誰が処理しているのでしょうか。自宅や別荘誰が建てたのでしょうか。世界各地に移動する飛行機は誰が造ったのでしょう。そして其れを運行するのに必要な人びとは一生懸命身体を使っておられます。 汚い言葉で言いますと、「あんたあほかいな」と言いたく成ります。 >「グローバル化の中で日本が勝ち抜くにはトップ層の育成が必要だ」(経団連)とか「非才,無才にはせめて実直な精神だけを養えば良い」(三浦朱門)とか「いずれは就学時に遺伝子検査を行い、能力に見合った教育をしていく」(江崎玲於奈)などの声が財界や政府側の関係者から上がっています。 >平たく言えば「出来る子は伸ばし、出来ない子はそれなりに」ということであろう。 世の中の識者と称する方は基本的なことを忘れていらっしゃる。ご自分が頭が良かったから出来ない子のことはご存知ないのはしかたがありません。 しかし出来ない子でも其の職業に付けば、其の仕事に付いては貴方達のしていることより数段秀いでた人びとはごまんといます。 文部科学省がいくら机上で考えた教育基本法でも社会の中格になる人びとが「グローバル化の中で日本が勝ち抜くにはトップ層の育成が必要だ」等云っている間はどうにもならないと思います。 国旗や国歌でも法案をつくる時には強制や無理じいはしないと言っていたと私は思ってますが、法律が出来たとたんの現場の対応は全く逆です。教育現状が此れでは、嘘も方便を教えているのは文部科学省が張本人だと言う事で、いくら良い法案も絵に書いた餅と同然です。 因に愛国心など押し付けても沸いてくるものではありません。また押し付けた愛国心は紙に書いた愛国心と同じだと云うことを知るべきです。 |
▼ごまめの翁さん: > >人それぞれに個性が有ります。 > 現代の教育は平等とうたいながら能力主義で、机上の勉強だけが最優先されているのが現状ではないでしょうか。 > 其れは職業に貴賤が有りこれによって収入の格差が有り過ぎるからと思います。其の実例は日本では体を使う職業は異常に収入は低く、頭脳職ほど高収入と云う現象は,身体を使って生きてきた私には痛い程感じています。 これからはますます二極化が進むと思います。 グローバル化の流れにそのまま乗ると必ずそうなるんじゃないでしょうか。 これは教育の力ではどうにもなりません。 政治がどう舵取りをしていくのかにかかっています。 小泉さんはどうも、二極化を加速させているように感じます。 貧富の差が拡大するのは豊かな社会とはとても言えませんよね。 > 世の中の識者と称する方は基本的なことを忘れていらっしゃる。ご自分が頭が良かったから出来ない子のことはご存知ないのはしかたがありません。 > しかし出来ない子でも其の職業に付けば、其の仕事に付いては貴方達のしていることより数段秀いでた人びとはごまんといます。 その通りだと思います。 社会全体が色々な意味でもう少しバランス良くなって欲しいです。 今の社会は要領の良い、頭の一部分だけを使うタイプの人ばかりが尊重されています。 情報化社会がそれをますます加速させています。 もっと、人間の多面的な能力を発揮できる職場が数多くあって欲しいものです。 これも政治の力に負うところ大ですね。 > 国旗や国歌でも法案をつくる時には強制や無理じいはしないと言っていたと私は思ってますが、法律が出来たとたんの現場の対応は全く逆です。教育現状が此れでは、嘘も方便を教えているのは文部科学省が張本人だと言う事で、いくら良い法案も絵に書いた餅と同然です。 > > 因に愛国心など押し付けても沸いてくるものではありません。また押し付けた愛国心は紙に書いた愛国心と同じだと云うことを知るべきです。 この点も同感です。(ただしこの場合は文部科学省ではなく、都の教育委員会です) 現場の教師達(組合員か否かを問わず)は日の丸君が代問題そのものよりも、今回の強圧的なやり方に皆怒っています。 強制的なやり方でこの問題を解決することはあり得ません。 世論の支持は得られないでしょう。 (私自身は着席することにも反対ですが、強制的なやり方にはもっと反対です。) |
団塊党さま 早速の返書有難うございます。 >この点も同感です。(ただしこの場合は文部科学省ではなく、都の教育委員会です) 他府県でも同じ事が起こっていますが、これは文部科学省が適切な指導を怠っているのではないのでしょうか。 >現場の教師達(組合員か否かを問わず)は日の丸君が代問題そのものよりも、今回の強圧的なやり方に皆怒っています。 >強制的なやり方でこの問題を解決することはあり得ません。 >世論の支持は得られないでしょう。 >(私自身は着席することにも反対ですが、強制的なやり方にはもっと反対です。) 私は国旗も国歌もだい好きです。反対論者は戦争に利用されたと言います。しかし国家どうしの戦には国旗と国歌は付いてまわります。日本だけが国旗と国歌を戦場に持って行ったのでは有りません。 昔、日本国旗を売ってくれと申し入れた國が有ると聞きおよんでいます。もし日本の国旗を競売に賭けたらどの様な結果が出るでしょうか。もし日本国旗を買った國が日の丸を掲げると、日本の戦争責任を背負ってくれるのでしょうか。私は白地に太陽をアレンジした赤丸の国旗は、オリンピック会場に掲げても直ぐ目につきますから大好きです。 国歌も君が代の君を天皇とするから話しが難しく成ります。以前、多くの子供達に「君が代」の「君」に付いて質問した事が有ります。「君」を天皇と思っている子供は1人も居りませんでした。多くの子供は君と僕の君と解釈していました。「君」が天皇と解釈するのは、私達老人と、どうしても国歌にしたくない人びと達でしょう。「君(天皇)が代」を「君達の世のなかは」と解釈すれば此の様な穏やかな国歌はありません。ただし他国の国歌の様に行進曲調では有りませんから行進には向きませんが笑い! 私も貴兄と同じく >>(私自身は着席することにも反対ですが、強制的なやり方にはもっと反対です。) に大賛成で、何処の國の国歌でも吹奏されると自然に起立が出来る国民になってほいしものです。 追伸、今夜のTさとうきび畠の唄Uたかがドラマされどドラマ,明石家さんまさんがどの様な縁起をするか、見て反戦の気持を新たにしたいと思います。 |
▼ごまめの翁さん: >>この点も同感です。(ただしこの場合は文部科学省ではなく、都の教育委員会です) > > 他府県でも同じ事が起こっていますが、これは文部科学省が適切な指導を怠っているのではないのでしょうか。 確かにそうですね。 ちょっと言葉足らずでした。 >私も貴兄と同じく >>>(私自身は着席することにも反対ですが、強制的なやり方にはもっと反対です。) >に大賛成で、何処の國の国歌でも吹奏されると自然に起立が出来る国民になってほいしものです。 補足しておきます。 私が着席に反対なのは、国旗国歌問題は政治的立場とも微妙に絡んでいますのでそれを父母と子どもの前で見せたくないという意味です。 >追伸、今夜の・さとうきび畠の唄・たかがドラマされどドラマ,明石家さんまさんがどの様な縁起をするか、見て反戦の気持を新たにしたいと思います。 私も見てみます。 教えて頂き有り難うございます。 |
ごまめの翁さま 貴殿のご投稿を見て、私も(2回目ですが)昨夜”さとうきび畑の唄”を見ました。 出征兵士を乗せ、船が出港するときに、「海行かば」が流れましたね。 海行かば 水漬く屍 山行かば 草むす屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みは せじ 子供の頃この歌を歌った時は、私は子供ながら戦争に疑問を持っていたのですが(父から聞かされていたのです)、何だか死ぬことはとてもきれいなことだという感じがしたものです。 さて、私は未だに君が代、日の丸に対し、無心にはなれません。大相撲でも、サッカーの中継でも、君が代が流れるとその間チャンネルを切り替えてしまいます。かっての戦争に対する生理的な嫌悪感が、そのまま君が代、日の丸に残っているようです。 思うに、第1には、君が代は最高の軍歌であり、日の丸は最高の軍旗でありました。この旗の下、この歌を聴き、鼓舞(?)されて兵士は死んでいったのです。 日の丸のデザインは簡明で美しいし、君が代も荘重で名曲ではあるかもしれません。これがもっと駄作であれば、死ぬことが嫌になった人もいたかもしれません(そんなことはないか)。 (序ながら、戦歌であれ、反戦歌であれ、良いものは良いといわれた方が居られましたが、私には賛成できません。芸術と言えど、最終的には人間のため、敢えて言えば平和の為にあるべきだと私は思います。) 第2には、日本国民が明確に過去の戦争についての反省、清算をつけているのか、少なくとも私には判然としないことです。未だに、隣国を蔑称で呼んだり、あの戦争は悪くなかった、と主張される方々が居ます。そのような人たちが”日の丸、君が代は国家そのもの”と言ったりすると、私には過去の悪夢がよみがえってきます。 貴殿が、君が代,日の丸を強制するのは反対と仰るのは、私にとって救いです。しかし、流水さん(突然の引用で申し訳ありませんが)が前に述べておられたように、日の丸が掲揚され、君が代が歌われるのは自然だが、強制は良くない、とする意見が、この掲示板でも当然視されるのは、私は未だ釈然としないのです。 日の丸、君が代、靖国、愛国・・・いつの間にか、いつか来た道を歩かされたりしないと本当に言い切れるのでしょうか。 |
▼高橋さん: 横から口だし失礼します。 >・・・日の丸が掲揚され、君が代が歌われるのは自然だが、強制は良くない、とする意見が、この掲示板でも当然視されるのは、私は未だ釈然としないのです。 > この掲示板で当然視されるというのはやや語弊があります。 私は日の丸君が代について高橋さんほど拒否感を持っていないのは事実です。 かといって賛美する気持ちにもなりません。 非常に複雑なとでも言うしか表現できないような妙な気持ちになるというのが正直なところです。 いっそ新しい国旗、国歌を作ったらすっきりするだろうなと思います。 |
高橋さま 返信遅くなりました。 >出征兵士を乗せ、船が出港するときに、「海行かば」が流れましたね。 >海行かば 水漬く屍 >山行かば 草むす屍 >大君の辺にこそ死なめ >顧みは せじ 私も此の歌は好きでは有りません。こんな人間を人間とも思わない歌はありません。特攻に出撃して行った先輩の顔が目にちらつきます。 >子供の頃この歌を歌った時は、私は子供ながら戦争に疑問を持っていたのですが(父から聞かされていたのです)、何だか死ぬことはとてもきれいなことだという感じがしたものです。 私は其の当時は、何の疑念も有りませんでした、それが教育の恐さです。 何が海行かばの歌が死を綺麗にみせているものですか。世界で一番淋しい歌ですよ。 >さて、私は未だに君が代、日の丸に対し、無心にはなれません。大相撲でも、>サッカーの中継でも、君が代が流れるとその間チャンネルを切り替えてしまいます。かっての戦争に対する生理的な嫌悪感が、そのまま君が代、日の丸に>残っているようです。 君が代も日の丸もあの戦争のために創ったものでは有りません。オリンピックもそうです。戦争もそうです。国家間の力の争いには国歌に国旗はつきものです。 もし新しい国歌と国旗を創ったとしましょう。憲法改正が有り紛争地に新しい国旗が上がり、そこで戦闘が有り彼我に多くの死傷者が出たとします。国旗が悪いから国旗を変えますか。軍隊が有れば此の様な事はつきものです。だから私は日本は兵隊を持ってはいけないと云うのです。 ただ当時の軍旗や軍艦旗を掲げるのは私も大反対です。 よく調べてご覧なさい。君が代は絶対に戦争のために創った国歌ではありません。それは此の国旗や国歌を使った人間に問題が有るのです。 君が代を調べてみると天皇の治世を祝う歌とありました。 >>>「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌 (いわお) となりて苔のむすまで」。 古来、祝賀の歌、酒宴の歌とされていた。古今和歌集に初句を「我が君は」として初見。「和漢朗詠集」流布本などに現在の歌詞と同じものが載る。 1893年(明治26)、小学校の祝祭日の儀式用唱歌として文部省が告示。以後、事実上の国歌として歌われた。 現行曲は宮内省楽人林広守の作曲にドイツ人エッケルトが洋風和声を付したもの。 と有り軍隊の為とは一言も書いていませんでした。 >思うに、第1には、君が代は最高の軍歌であり、日の丸は最高の軍旗でありました。この旗の下、この歌を聴き、鼓舞(?)されて兵士は死んでいったのです。 >日の丸のデザインは簡明で美しいし、君が代も荘重で名曲ではあるかもしれません。これがもっと駄作であれば、死ぬことが嫌になった人もいたかもしれません(そんなことはないか)。 >序ながら、戦歌であれ、反戦歌であれ、良いものは良いといわれた方が居られましたが、私には賛成できません。芸術と言えど、最終的には人間のため、敢えて言えば平和の為にあるべきだと私は思います。) 君が代や日の丸が最高の軍歌で軍旗ですか、あなたは被害妄想です。 下のアドレスは自動翻訳で読んだ世界の国歌翻訳だそうです。 http://periko.fc2web.com/anthem/anthem.html >第2には、日本国民が明確に過去の戦争についての反省、清算をつけているのか、少なくとも私には判然としないことです。未だに、隣国を蔑称で呼んだり、あの戦争は悪くなかった、と主張される方々が居ます。そのような人たちが”日の丸、君が代は国家そのもの”と言ったりすると、私には過去の悪夢がよみがえってきます。 私は彼方から引き揚げて来ていますので、少しは戦前戦中の中国、北朝鮮は見ています。確かに貴兄が云われる通りで、日本国家が常に何事にも曖昧にしていたことは良く有りません。ですから彼の地で死んだ両親も昔の日本国家がしていた付けが廻って来たと思っています。 しかし日本が全く中国に対して何にもしてないと云うのは少し違うと思います。 ODAの莫大な中国への援助金も日本は世界一で全援助金の60%を日本が負担していいます。それでも中国人でそれを知してる人って少ないそうです。そして其れは日本国民の税金からです。 確かに日本は教育の中に戦前戦中の事を伝える教育を怠っています。しかし中国も自国に都合の悪いODAの援助の事を国民には口を噤んでいるのはどうなんでしょう。 巨大な軍事国家が受けているODA援助に日本国民として知りたいです。 >貴殿が、君が代,日の丸を強制するのは反対と仰るのは、私にとって救いです。しかし、流水さん(突然の引用で申し訳ありませんが)が前に述べておられたように、日の丸が掲揚され、君が代が歌われるのは自然だが、強制は良くない、とする意見が、この掲示板でも当然視されるのは、私は未だ釈然としないのです。 >日の丸、君が代、靖国、愛国・・・いつの間にか、いつか来た道を歩かされたりしないと本当に言い切れるのでしょうか。 先にも書きましたが、愛国心は押し付けるものでは有りません。国家(為政者)が誠心誠意国家国民に尽くしているならば,国民はひとりで日本の國が好きになり、1人で湧いてくるも其れが愛国心です。 靖国も日本国民としてお国のためと云うと叱られそうですが、一般庶民で戦争に駆り出されたり空爆等で亡くなられた方々の合祀は何等か必要に思います。 それは今まで生き長らえて来た私の心の端に何時までも残っている気持かも分りません。 |
ごまめの翁さま ご返信有難う御座いました。 ”銃後の少年”でしかなかった私は、貴殿ほどの過酷な戦争体験を持っては居ません。偶々一寸早熟だったため、我が一家が受けた苦難にも増して、隣国を蔑視し戦争をたたえ、個人の犠牲を美化し強制する風潮、人を殺し、自らも死んでゆくことが善であるような世の中が嫌でたまらなかったのだと思います。 君が代、日の丸が好きかどうかは、個人の体験、性向等にもよるのでしょう。そういえば、ドラマの「大地の子」では、満蒙開拓団の人たちが日の丸、君が代のもとにまとまって、祖国をしのぶ場面がありましたね。かの地で筆舌に尽くしがたい苦難を受けた人には、日の丸、君が代は祖国への思いの結晶であったのでしょう。 私は、個人的にはやたらに賑々しい軍歌(軍艦マーチなど)より、(クラシックでも交響曲より室内楽の方が好きだったりするからか)いくらか悲しみを帯びたような、荘重、甘美なもののほうが好きでした。今でも時々思い出すのは、「海行かば」のほか、(題は知らないが) 恩賜の煙草を戴いて 明日は死ぬぞと決めた夜は 曠野の風も生臭く ぐっと睨んだ敵空に 星が瞬く 二つ三つ とか、いくつかは今でも時々思い出します。これは、私が少年時代にも多少死に憧れる感情を奥深くに持っていたのか、或いは「桜井の別れ」じゃないけれど忠臣、愛国、義の為にわが身を捨てることを美化する明治以来の教育の影響か、私は良く分かりません。 君が代の由来について、またその意味についてお教え頂きました。これはよく言われることで、”君が代、日の丸には罪はない”のです。 私が言いたかったのは、日の丸、君が代が最高の軍歌、軍旗として利用された、と言うことです。 大多数の兵士は、君が代、日の丸に鼓舞され、天皇のため、靖国で会おうといって死んでいったのです。皇室は戦後一貫して国民のため、平和友好のため尽くされて来られた。天皇制に対して多少の疑問の論調があっても、それが多くの国民の声にならないのは、今の天皇家のその姿勢に、国民が敬愛の念を抱き、更には再び天皇制を「国家」の道具に利用しようとする勢力があっても、それはもうあり得ないことを国民が確信しているからではないでしょうか。 君が代、日の丸にはそうした確信がおけるのでしょうか。ある意味名曲、名旗であるだけに、情緒的に国民感情を揺さぶり、ある方向に持って行こうとする動きに利用されることは絶対にあり得ないでしょうか。はじめは国旗掲揚、国歌斉唱を強制しないといいながら、現場ではどんどん強制の方向に持ってゆこうとするのはどういうことなのでしょう。 ごまめの翁さまが過酷な戦争体験を経られた上で、なお君が代、日の丸が大好きと仰るのは、それなりの思いがあることなのでしょう。これは結局”個人の好み”に帰する問題かもしれません。 ただ、”戦争を知らない人達””普通の国に戻したい人達”に利用されないよう、(この掲示板にもそのような発言が見られることだし)被害妄想といわれようが(もうこの歳では残念ながら直せそうもありません)、私は少しの可能性にも過敏にならざるを得ないのです。 |
▼団塊党さん: 教育の荒廃や偏向教育が今日でも跋扈しているのは、これはひとえに、教育内容を教師の自主性に任せ過ぎた結果でしょう。 「自主性」、無気力能無し教員や偏向サヨク教員にとってこんなに楽で 便利で無責任な言葉とシステムはない。 自主性というと聞こえは良いが、教育の成果は自主性に委ねては得られるものではない。 明確な目標を掲げ、成果を出す。目標に達しない教員は配置転換か退職して頂く。 勿論国家そのものを否定する行為である国歌斉唱、国旗掲揚に反対する反日教員は 即刻退場してもらわねばなりません。 |
▼南国人J(宮崎市民)さん: >教育の荒廃や偏向教育が今日でも跋扈しているのは、これはひとえに、教育内容を教師の自主性に任せ過ぎた結果でしょう。 偏向教育が今どこに跋扈していますか。 現状認識が違います。 それに教育内容を任せられているというのも違います。 学習指導要領という枠があります。 これからはもっと手かせ足かせがついてくるでしょう。 >自主性というと聞こえは良いが、教育の成果は自主性に委ねては得られるものではない。 >明確な目標を掲げ、成果を出す。目標に達しない教員は配置転換か退職して頂く。 >勿論国家そのものを否定する行為である国歌斉唱、国旗掲揚に反対する反日教員は >即刻退場してもらわねばなりません。 「明確な目標を掲げ、成果を出す」という流れは既に始まっています。 それに基づいて給料にも格差がつけられています。 この制度には一長一短がありますが、ここでは脇にそれますので議論しません。 |
三浦朱門氏(元教育課程審議会会長)は「できんものはできんままで結構」「できるものを限りなく伸ばすことに振り向ける」ことが教育の目標と言いきっています。 ところがこれと全く反対の事を言った人がいます。 小澤征爾を始め数多くの世界的音楽家を育てた斎藤秀雄氏です。 彼は「ピラミッドの底辺を教えるのが教育だ。頂上にいる人間は教えなくてもわかる。」 と言っています。 音楽の本場ドイツで学ぶ斎藤は劣等生でしたが、師事したチェリストのフォイアマンはそうした斎藤にも熱心に教えてくれました。 このときのフォイアマンの態度に感動して斎藤はこのような信念をもつようになったそうです。 斎藤は一番できの悪い生徒が出来るようになるまで、徹底して鬼のように厳しく教え込んだそうです。 他の生徒達もその生徒ができるようになるまでつき合わされたのです。 そのおかげでこれらの生徒達も徹底して基礎が身に付いたのです。 結局、このような情熱が優秀な音楽家を数多く育てたというわけです。 それが今証明されています。 その結晶がサイトウキネンオーケストラとなって今、花開いているわけです。 今年ももうすぐ松本でサイトウキネンフェスティバルが開かれますね。 私も斎藤の考えが実感として分かります。 これが教育の情熱であり本質なんです。 この情熱がないところに教育は成立しません。 「出来ない子にはせめて実直な精神だけを与えれば良い」等という人が、いかに教育の本質を分かっていないかと言うことです。 こういう人が進める教育改革がいかに間違っているか、いずれ答えが出るでしょう。 改革を提唱する権利のあるのは、教育の本質がよく分かっている人だけに限るべきだということを痛感します。 |
誤解を与えないように言っておきます。 情熱がなければ教育は成立しませんが、情熱だけで教育ができるものでもありません。 斎藤氏には独創的な教育方法があったことは言うまでもありません。 かなり個性的な方法が確立していたようです。 それが徹底して弟子達に伝わったのです。 |
斎藤秀雄の言葉をもう少し引用します。 ここに本物のエリート教育の考え方が出ているように思います。 「教育家のすることは何かというと、クズを作らないということ、世の中に不要の人間を作らないということが第一番で、偉い奴はその中から偶発的に出てくるんですね。偉い者を作ろうと思っても偉い者は出てこなくて、クズを作るまいと思うと、その中から偶然いいのが出てくる。」 つまり斎藤のいいたいことはピラミッドの底辺を広げるということです。 底辺を広げることによって、優秀な人材も数多く出てくる。 エリートを育てようと思って少数精鋭の教育に力を入れても、なかなか期待するような人材は出てくるものではない。 実際、斎藤は力のある子よりも弱い子に対して、より熱心に教えました。 特に基礎教育に力を入れました。 日本の音楽教育の底辺が斎藤の「子どものための音楽教室」によって広がったのです。 彼はエリートを育てようとは思わず、ひたすら基礎教育の徹底を図ったのです。 その結果、世界に通用する多数の優秀な音楽家達を育てたわけです。 エリート教育を叫ぶ人達に斎藤の考え方を是非学んで欲しいものです。 |
「出来ん者は出来んままで結構」とか「入学時に遺伝子情報を検査」などという人に日本の教育の将来を決められてはたまりません。 個人の力をそんなに小さい年齢から決めつけられてしまったのでは、遅咲きのタイプは切り捨てられてしまいます。 小さい頃にはその子どもが何に向いていて、将来どのような方面で活躍するのか分かるものではありません。 義務教育の段階では少なくとも全人間的な発達を優先すべきと思います。 人間として生きる上で基礎となるような諸々の力をバランスよく身につけさせるのが義務教育時代は何より大切なこと。 産業界が求める力ばかりが優先されるようになれば、子ども達の荒れはますますひどくなることは確実です。 人口肥料だけで育ったひょろひょろの優等生では本物のエリートとは言えません。 教育はまず豊かな土作りから始めるべきです。 学校で勉強することが楽しい。 友達と遊ぶことが楽しい。 こんな当たり前なことをちゃんと保証してあげられるような学校でありたいと思います。 |
▼みなさま: こんばんは、Ray@スタッフです。 このスレッドの書き込み数が60を越え、だいぶ重くなってきましたので 新スレッド「教育基本法改正・2」スレッドを立てました。 以後のご議論は新スレッドをご利用下さいますよう よろしくお願い申し上げます。 |