Page 1203 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼私と憲法(1) 蟷螂の斧 04/8/5(木) 7:14 ┣Re(1):私と憲法(1) 蟷螂の斧 04/8/5(木) 7:15 ┣Re(1):私と憲法(3) 蟷螂の斧 04/8/5(木) 7:17 ┣Re(1):私と憲法(4) 蟷螂の斧 04/8/5(木) 7:18 ┣Re(1):私と憲法(5) 蟷螂の斧 04/8/5(木) 7:20 ┣Re(1):私と憲法/皆さん意見を、言われませんか。 蟷螂の斧 04/8/8(日) 17:22 ┃ ┗Re(2):私と憲法/皆さん意見を、言われませんか。 ふくちゃん 04/8/8(日) 18:56 ┃ ┗Re(3):私と憲法/皆さん意見を、言われませんか。 蟷螂の斧 04/8/8(日) 19:45 ┃ ┗Re(4):私と憲法/皆さん意見を、言われませんか。 ふくちゃん 04/8/9(月) 8:13 ┗Re(1):私と憲法(1) ごまめの翁 04/8/9(月) 16:33 ┗Re(2):私と憲法(1) 蟷螂の斧 04/8/9(月) 19:46 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 私と憲法(1) ■名前 : 蟷螂の斧 ■日付 : 04/8/5(木) 7:14 -------------------------------------------------------------------------
皆さんおはようございます。 憲法については種々本掲示板でも論じられており現在も論じられておりますが、それぞれのスレッドへの書込みでは意を尽くせないこともあり, ここに私の憲法観という趣旨でまとめて書き込みます。 以下、私の思い込みや錯誤も多々あると思いますが、若し、何らかの意義がここにあれば幸いです。 先に、私は「改憲護国」「護憲平和」スローガン政治に対する短評として下記を書き込みました。 「「改憲・護国!」←「破憲」の現状を良いことに、真っ当な改憲努力もしないで、未だ生きている「平和憲法」を無視するな! 「護憲・平和!」←「破憲」の現状を無視して、言霊(ことだま)政治みたいに「護憲」「護憲」と 唱えても平和は達成できない。「現実」を直視せよ!」 以下、長くなりますので5回に分けて上の私の短評を敷衍して、順々と述べてゆきたいと思います。 1.ヒト(人、人間)と良心(倫理・道徳・不文律) 「ヒト」:生物学的人、ホモサピエンスを意味します。 「人」 :個人的ヒト、個人を意味します。 「人間」:社会的ヒト、社会の構成員としての人を意味します。 ヒトはこの地球(46億年)のうち40億年をかけて自然(地球環境)が作り上げた、進化の頂点に位置する生命体、生物、動物で、ホモサピエンス(〔知恵ある人の意〕(1)動物分類上、現生人類の属する種の学名。ヒト。(2)〔哲〕 他の動物に比して、人間の本質は理性的な思考を行うことにあるとする人間観。知性人。)(出典 @nifty 国語辞書(三省堂))と言われる所以です。地球、生命の進化、ヒトにいたる経緯は、例えば、http://georoom.hp.infoseek.co.jp/rightindex.htm を参照下さい。 ヒトは、その進化・誕生以降、人種に分岐し、民族に分かれ、一方、家族を作り、群れ(社会)を作り国を設立して来たわけです。 ヒトは「知恵ある」がゆえに、ヒト同士が協力しまた闘争して来たのでしょう。或る社会(群れ)の中では言語、文化を共有し、共存、共栄し、同時に、他の群れ(社会)とは争って、これを滅ぼし、征服して来たと思われます。このようにしながら、他の生物に卓越して地球上で繁栄してきました。人・人間は、大昔から、殺人を犯し、姦淫し、盗みを働き、偽証(嘘をつく)し、貪欲を貪るものでもあったのです(以上は、「十戒」に述べられたものの一部です)。 人は、太古から度し難い存在でもあったのです。人間は、人を殺し、人のものを盗み、嘘を吐(つ)く動物であり、敵を、他人を、攻撃し、誹謗し、中傷し、誹(そし)り、貶(けな)し、罵詈雑言を浴びせ、罵倒し、また、慇懃無礼に応じて来たのです。そして、また、他人を嫉(そね)み、妬(ねた)み、やっかみ、羨(うらや)み、僻(ひが)み、怨み、恨み、怨念、憎悪を心に抱く動物でもあります。優越感と劣等感(優・劣コンプレックス)を持つものでもあります(私も人ですから分かりますし、このことは多くの書物、現に見聞する事実からも顕かだと思います。人間の「眼は外に向いて」いますから、人間には、他人が(特に、他人の悪い点、欠点、短所)良く見えます。その割には自分が見えないようです。私は常々このことを自省します。当然、十分とはいえないまでも常に意識はしています)。 このように考えると、自分も含めて「人は嫌なもの(醜悪)」だと思わざるを得ません。しかし、このようなことは人の一面であり、他方では、人は崇高な面も発揮します。まさに、聖人、得悟の人、覚悟の人、君子、仁慈・仁愛の人、偉人、哲人、賢人に値する人、また、求道の人、妙好人(在家の聖人)、博愛の人、献身の人、白樺派的人道の人(ヒューマニスト)、篤志の人、善意の人、真実一路の人(?)、職人気質(かたぎ)の人(?)、侠気の人(強きを挫き弱きを助ける人)(?)、粋の人(?)・・・と呼ばれる人も過去多数存在していましたし、今も、存在しています。いつの世(時代)も、社会(国)は、このような立派な人と、世の大多数を占める、平凡で誠実に、正直に生きる人々・人間に支えられて来、今も、支えられているものと私は考えています。 閑話休題。(続く) |
「私と憲法(2)承前」 しかし、このような悪行が蔓延(はびこ)るとヒトの群れの崩壊に繋がります。従って、ヒトは、このような悪行を押さえ込む為に、これら悪行を「悪」とし、反悪を「善」とする「倫理・道徳」観を醸成し、本能的「良心」を培かい、ヒトの遺伝子に組み込まれ、代々「良心」として受け継がれて来たものと想像しています。 下って、社会が進化し、複雑になってくると、為政者は「法」の下に「社会」を統治しようとし(法は往々にして統治者(権力者)によって「恣意的」に運用されたことでしょう)一方、人間は、「良心」に基づく、「倫理宗教(神)」を「発明(捏造)」し、倫理・道徳を広め、社会の安寧を保つと共に「神」の権威の下に「統治者」の横暴を掣肘し、また、「被統治者」には死後の「天国・浄土」を約束したのです。 (近代、「宗教は阿片」と言われる所以は、倫理宗教以降、世俗の「統治者」が宗教を利用して人民を統治し、宗教者「聖職者」が堕落し、世俗権力の協力者、共犯者となった事情を言っています。そして、このような「世俗権力」と「聖職権力」の癒着、堕落は、西洋、東洋また日本を問わず、繰り返し発生し、「宗教改革」も繰り返し行なわれていることは、歴史の教えるところです) 「法」は以上のようにヒトの良心が培って来た不文律、倫理・道徳を基礎として統治者がある社会を統治する為に(ある意味では、統治者に都合の良いように)成文法として作り上げたものと思われます。 2.人・人間と「法」について 以上のように「法」が、いわば、「統治者(権力者)」の統治の道具として運用されて来た事情が大きく変わったのは「フランス革命」の思想的背景となった人権思想の創出に始まると思います。 この人権思想は、人は「自由」「独立」であり、生まれながらの自然権(天賦の人権);生命・自由・財産の確保の権利を有し、「(法の下の)平等」が確保されねばならず、また、「統治権力」は「社会との契約」に基づき存在し、「主権は人(国民)」にある、ということと理解します。これが、私が立脚する理念です。 「基本的人権」については、例えば、田村氏のHP「基本的人権」の説明の中に、「自由権・平等権・社会権・参政権・請求権・幸福追求権・他」などといわれ、法技術的に、労働権、教育権など色々の分類があるようです(http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/yogo-horitu4.htm#kihonntekijinnkenn を参照ください) しかし、私は、ここで先ず自然権(天賦の人権)を基に、人が作る「法(憲法)」以前の「人・人間の権利;生存権・自由独立権・平等権・社会契約」から「法」を考えてゆきたいと思います。 (1)生存権 ヒト(人・人間)は、生きていてこそ「ヒト」であります。ヒトは死ねば物質に還ります。これは、ヒトに限らず全ての生命(原始生命体・細菌〜動植物)について言えることです。ヒトが「人間として生きる・人間らしく生きる」というかなり高度のことはさておいても、先ず「生存する」ことが法以前に最優先されるべきと考えています。 このことを「人、一人の命は地球より重い」などといったセンチメンタル?な意味で言ってはおりません。かって、このように言って、テロリストに屈し、超法規的措置で犯罪人を釈放した宰相が、いました。これは嘘と思います。若し、テロリストに屈せず、人質の命が失われたら、人質関係者から、同じように「人、一人の命は地球より重い」と責められ、「何個もの地球の重み」に押しつぶされるのを回避したに過ぎないと見ています。もし、本当に「人、一人の命は地球より重い」と信じているのなら、当時も日本社会の底辺で理不尽にも命を失っている人がたくさんいた筈です。その宰相がこのような不幸な人々の命を救う為に格別の施策を行ったと言うような記憶はありません。 私は、人の命など、「鴻毛の軽きが如く」と思っております。しかし、ヒトが40億年にわたる累積淘汰の上に生じ、他の生命体(種)との競争に打ち勝ち、曲がりなりにも卓越した社会を構築して来たことを健気に思い、また、自然の進化の驚異を考えるとき、他の生命体についても同じですが、ヒトの命に驚異の感、畏怖・畏敬の感(センス オブ ワンダー)を持たざるを得ないのです。そして、これら生命が、儚く、鴻毛の軽きがゆえに大切に考えたいのです。 自然主義者ですから、宗教はフィクションと考えており、霊魂、天国、浄土などは信じませんが、人の世で愛情をもって交わった人はその人の死後も私の記憶に生きています。たとえ、犬猫でも記憶に残るものです。その記憶が幸せなものであってほしいと願い、「人の幸せな生存」を第一に置くものです。同時に、他人の生存を脅かす行為、その行為をなす人は、社会として許すべきでないとも思っております。 (続く) |
「私と憲法(3)承前」 (2)自由・独立権 ヒトは意識を持つ動物です。人は自分個人を意識できます。したがって、人は自由であるべきで、外的強制あるいは誘導で人の自由と独立とを侵害してはならないと考えます。その代わり、人は、自律して自尊心を持って自立して生きる必要があります。これは、侵してはならない権利です。当然、その裏返しに、人は、他人の自由・独立に干渉し、その権利を侵してはならないのです。 (3)平等権 人は残念ながら生まれながらにして「不平等」に生まれます。そして生まれる条件・環境を選択できないのです。ヒトは、異なる人種、民族、国に生まれ、男あるいは女として生まれ、異なる身体形態、運動能力を持ち、また。知的能力にも差があります。 これらを「不平等」というのが適切でなければ、「差異・多様性」と言っても良いと思います。身体能力、知的能力は人の努力で改善、向上させることが出来ますが「環境」の影響が大きく、「環境」は平等に与えられてはおりません。 また、「努力する能力」も先天的と考えればヒトは不平等の下に生まれてくると言わざるを得ません。これが現実と思います。この現実・事実に目をつぶっても仕方ありません。現実は事実です。 一方、「人・人間の価値」は絶対同一と認識すべきです(自分自身も他の人も)。人は、好んで劣悪な環境に生まれたわけではありません。好んで、或る人種、国、男・女、更には身体障害などをもって生まれたわけではありません(勿論、産んだものにも何の責任もありません)。その人の責任に帰すべき問題ではないのです。夭折の詩人「金子みすず」の「みんなちがって みんないい」はこのことを暗喩したものと思います。(金子みすずの詩は、http://www.geocities.com/sisimaikusiki/2001/1028/kanekomisuzu.htmlを参照下さい) 「人・人間の価値」は絶対同一であり、人の、人間の「法の下の平等」は大原則のひとつです。 また、人は生まれながらのハンディキャップ(不利な条件・環境)を克服する為に努力し、向上を目指して生きるのです。環境、運命により「努力」が報われる場合もあり、残念ながら報われない場合もあります。しかし、このような「人の努力」を公正に担保するために、先の「自由・独立権」および「法の下の平等権」は、何にもまして、厳正に保証されねばならないと考えます。 (4)社会契約 或る社会、国はその構成員である人、人間から構成されます。そして、社会は、上に述べた「天賦の人権(自然権)」を保証された人、人間との「契約・合意」で構築されるべきであり、社会を律する法も、また、全(多数過半の)構成員の合意の下に制定されるべきであり、構成員はその法を遵守すべき義務を負うべきです。 なお、繰り返しますが、「法」は、上記の「天賦の人権」を侵してはならないと考えます。 (続く) |
「私と憲法(4)承前」 3.日本国憲法について 私は、以上の法以前の「天賦の人権」の法定を理念として、法の法源たる「憲法」日本国憲法を考えたいと思います。 (1)生存権からの問題 「平和憲法」の破壊 自分の生存権を確保し、人の生存権を侵さないという観点からは、「戦争(殺し合い)」は認められません。戦争放棄、戦力放棄は当然のことです。「自衛権」(正当防衛)が自然権で認められているから、「自衛戦力」が国に認められ、平和憲法の下でも自衛戦力が認められると言う論理については、自然権は自然人たる人には認められても法的存在である「国」に認められるかは法的に疑問のあるところです(国際法で認められていると言うのは、人が人殺しをしているから、当然私もしても良い、といった響きがあります)。 “正当防衛”にしても、私は勿論相応の抵抗はしますが、先に述べましたように、私は自分の命など「鴻毛の軽き」と思っておりますから、しゃにむに護る必要も感じていません。代わりに誰か他のヒトが生きれば良いと思っていますし、戦争が起これば「非暴力・不服従」は貫きたいとは思いますが、自衛せず、死んでも仕方がないとも思っています。このような意味から自衛戦力も必要なしと思うものです。国民の総意があり、創意工夫があれば、侵略阻止は他の手段でも出来るのではないでしょうか。 「命の尊重」重視の必要性 命の尊重と言う観点から、憲法各章をチェックする必要があると思います(よく調べていません)。 (2)自由・独立権からの問題 個人の自由と独立に干渉するような条文は全てチェックする必要があると思いますが、具体的にはよく調べていません。しかし、例えば、「教育」の問題にしても「人格の自由・独立」という観点から観れば正すべきことが有るようにも思います。 (3)平等権からの問題 ヒトは生物学的に見れば生まれながらにして平等です(人種、民族を問わず、人は同属、同種であり、「池田光穂」氏のHPには、生物種(species)としても亜種(subspecies)としても「自然な集団」としての人間を生物学的に区分できないことで否定された(http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/000609race.html)と記されています)。 通婚し、ヒトを再生産できます)。また、法の下の平等をいうなら、戸籍を持たない「万世一系家」が存在するのは矛盾です。日本教信者の宗家ですから、なかなか言うのも憚られますが、いつごろからこの存在について論議されなくなったのでしょうか。民間出の妃様が問題になっていますから、今根本問題を論議しても良いと思いますが、言論界も沈黙で、本質的問題を論じていないように見えます。 平等権と生存権の関係からいえば、社会の多数の合意があれば、自己の責めに因(よ)らず生存を脅かされている人々の救済手段は、より一層充実されるべきと考えます。 (4)社会契約(主権在民)からの問題 日本は、憲法前文「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」とあるように主権在民でありますが、「代表者」を選ぶ「厳粛な信託」行為、即ち、選挙の公正が保たれていない(一票の格差、平等権の侵害)状況を最高裁が長い間追認して来たことは信じがたいことであります。 (続く) |
「私と憲法(5)承前(完)」 4.改憲護国・護憲平和について 以上、私が理想とする「天賦の人権・平和」国家構築を理念とする観点から少し憲法を見て見ました。現今の国内状況、国際状況から遊離・隔絶した、「空想・理想主義的な理念」であることは十二分に承知していますが、改憲護国も護憲平和も如何なる理念に基づいて憲法を考え、どのような国家社会を考えるのか、いずれも「九条の改正攻撃、保護防御」と言った面しか見えてきません(少なくとも、選挙公約上、マスコミの上からは。多分、HPなり、審査会では話されているとは思います。もう少し丁寧に体系立てて国民に説明し、理解を求めるべきと感じます)。 時代も変わり、人の考えも変わってきている現在の社会状況の中で「それぞれの憲法理念」をよく考え、国民にその考えを浸透し、国民的合意の上に憲法の改正あるいは護持を考えて貰いたいと思うものです。 なお、「憲法」あるいは「法律・令・規則」はあくまで「紙に書いた条文」にすぎません。「理想的な憲法」があるから「理想的な社会」が出来るわけもないのです。法を執行するのは行政であり、「行政官」です。また、行政官を法で律するのは「裁判官」という人間です。また、法の執行を要請するのは国民という人間です。これら各人間が、即ち、国民全てが「憲法」を正しく認識し、正しく執行することが何より求められることと思います。 また、統治権力は腐敗し、被統治者(国民)にとって「悪」だという観点(私もそれを否定しませんが)からの批判もいわれますが、今の日本は、少なくとも建前では、主権在民であり、国民が、特に、暴力、金力・・・で強制されて統治権力を選んだわけでは無いと思います。合法的に、比較多数の国民が選択し、信託した政府です。これを、徒に、罵倒し、否定することは、現政府を支える多数の国民を、罵倒し、否定することになるのでは?と常々感じています。また、「権力への憎悪・怨念」からと思える各主張は私の受け入れられるところではありません。勿論、自己の信ずるところを世に広め、共感・賛成を得る努力をすることを否定するものでは決してありません。 そのような意味からもその責任にある方々に憲法問題の論議を深めてほしいと願うものです。 なお、付言すれば、私は、世界、社会を構成する「人間界」のできごとは、ほぼ全て、直接的・間接的に「冷徹・冷厳な経済原則(ほぼ全ての価値を律している「お金」と言い換えることも出来ます。また、「人間の現世的欲望」と言っても良いと思います)」に支配されている(が通底している)と見ております。このことを「憲法」に絡めて論じることも出来ると思いますが、ここでは触れませんでした。 以上(完) |
皆さん:こんにちは。 広島原爆記念日も過ぎ、明日は長崎原爆記念日です。 誠に悲惨な日々を日本は経験しました。今頃は、高校野球に明け暮れる日々ですが、このように本来野球などを楽しめた若者が、幾ら、恨みを呑んで死んだことでしょう。誠に哀しい、悲痛なことです。死者に言葉はありません。生きている我々が言葉を挙げるべきで、老人党の皆様が声を挙げられていることを心強く思います。 しかし、この声を、アメリカに、世界に届けるためには、きっちりと理論(論理)武装をしなければならないと思います。 皆さん、「戦争被害は嫌だ」「戦死者を身内から出すのは嫌だ」と言う個人的感情からでの戦争反対、平和憲法護持と言う主張は、先ず、世界に通じないと思います。戦争など、今も各地で起こっています、歴史上戦争が無い時代が短いのではないでしょうか。 だから、何故「戦争が悪い」ことなのか、それぞれが真摯に考え、個人的経験、個人的被害を超えて考え、世界を説得する論理で語る必要があるのではないでしょうか。単に、戦争が「悪」だから「ダメ」と言うだけでは、世界に対する説得力は無いと考えます。 人は闘う動物です。このことは、本掲示板のレスのやり取りを見ても明らかではありませんか。護憲・平和らしい方の、攻撃的なコメントを見ると誠に奇異な感じ、違和感を覚えるものです。だから、この人の闘う本能を如何に宥(なだ)め、操縦するかを考える必要があるのではないでしょうか。 そんなこんなを含め、意を尽くして「平和憲法」を語りませんか。 何故、平和憲法を守りたいのか、世界に通じる論理で語ってください。期待してます。 幾ら長くなっても少なくとも私は読み通すつもりです。皆さん、意を尽くしてください。 平和のために、ここから、世界に発信してください。 お願いします。楽しみにしています。 (長たらしいと言われる方もおられるようですが、意を尽くす為には相応の長さも必要でしょう。老人党の趣旨には反してないと思われますので、大いに、意見を述べようではありませんか) |
▼蟷螂の斧さん: 明日は原爆記念日ですね! 私は、昨年、広島の平和公園に行きました。 平和はこれからも大切にいつまでも、 みんなで守って行かねばと、そして 戦争に善者・悪者はないと考えさせられました。 皆さんが願いを込めて「織った鶴が燃やされた」 といったニュースを聞いてショックを受けました。 悲しい人だ! きっと地獄に行って火あぶりの刑にあうことだろう。 それにしても”私と憲法”と題してよくもまあ、 あれだけの内容わずかの時間で打てたものです。 恐れ入りました。私はPS苦手なもので、 あれだけ打つのは1日いやもっと掛かると思います。 どう打ったらあれだけ打てるのか? 蟷螂の斧さんにただただ、感心するばかりです。 ところで、2もあるのですか? >幾ら長くなっても少なくとも私は読み通すつもりです。皆さん、意を尽くしてください。 >平和のために、ここから、世界に発信してください。 >お願いします。楽しみにしています。 |
▼ふくちゃんさん: こんばんは。レス有難うございます。阿波の方でしょうか。 私は関東圏です(流れ、流れてです。四国にも縁はあります)。 鋭い批判精神に感服しています(一応、今のところ、掲示板の書き込み全てをチェックはしています。全てを完全に読んではいませんが)。 >ところで、2もあるのですか? 短時間に送った理由は、粗原稿を作り、推敲しました。丸々二日ではありませんが、二日で原稿を完成し、5回に分けて送信できるようにしました。その間、他のレスが付かないように時間を選んで送信しました。従って、慌てて、タイトルが(1)(1)(3)(4)(5)になってしまいました。勿論、(1)(2)(3)(4)(5)のつもりだったのですが。 ところで、「2」とは、どのような意味でしょうか(「経済原則が通底している」分析?でしょうか)。これは、私の手に負えることとは思っていませんが、想像はしています。 いずれにしてもレス有難うございました。平和である限り、人の血を見ることがなく、幸いです。 では。 |
▼蟷螂の斧さん: >▼ふくちゃんさん: > >こんばんは。レス有難うございます。阿波の方でしょうか。 >私は関東圏です(流れ、流れてです。四国にも縁はあります)。 > >鋭い批判精神に感服しています(一応、今のところ、掲示板の書き込み全てをチェックはしています。全てを完全に読んではいませんが)。 > >>ところで、2もあるのですか? > >短時間に送った理由は、粗原稿を作り、推敲しました。丸々二日ではありませんが、二日で原稿を完成し、5回に分けて送信できるようにしました。その間、他のレスが付かないように時間を選んで送信しました。従って、慌てて、タイトルが(1)(1)(3)(4)(5)になってしまいました。勿論、(1)(2)(3)(4)(5)のつもりだったのですが。 > >ところで、「2」とは、どのような意味でしょうか(「経済原則が通底している」分析?でしょうか)。これは、私の手に負えることとは思っていませんが、想像はしています。 2とは(2)を意味しているもので(1)から(3)に飛んでいたもので尋ねたのです。最初から通しで(1)から(5)と言うことが解りました。すみません。再度読み返しさせて頂きました。内容もさることながら、大変ご苦労されたと思います。 >いずれにしてもレス有難うございました。平和である限り、人の血を見ることがなく、幸いです。 私の住んでいる県では先日来の台風で、本日からダムにたまった沢山の材木の除去作業が本日から始まります。話では1日の除去の量は3,700トンくらいで、いつまでかかるか解らない程、貯まっているらしいです。そのままにしておくと集まった材木が、ダムを壊し下流域やダムの公益を受けている方々に影響を及ぼすらしいとのことです。1日でも早く片付けできたらと個人的に考えています。 では。 |
蟷螂の斧さま・お邪魔します。 >ヒトは、その進化・誕生以降、人種に分岐し、民族に分かれ、一方、家族を作り、群れ(社会)を作り国を設立して来たわけです。 長い文献なのでディスプレーで拝見していると目にきますので全文印刷したところです。 私は学が有りませんから、思いつきで書きますので的外れな事を書くかもしれませんが御許し下さい。 私も宇宙や地球の生いたち等好きですので、 http://georoom.hp.infoseek.co.jp/rightindex.htm をPCに登録しました。後でゆっくり拝見します。 大宇宙の中にあっては埃にも成らない地球で、40億年は人間にとっては途方も無い年月ですが宇宙年から見たら一瞬かも知れません。そして人類が登場したのは宇宙から見ればごく新しく、色々な人種が誕生したのは不思議を通り越して自然の偉大を感じます。 人類が誕生した時はどうなんでしょう。おそらく1人か其れに近い状態で生きていたと思います。そして貴兄が書かれている様に、其の人類が小さなグループを創り、そして宗教を創り、人種や宗教により纏まって来て、其の行動半径が大きく成ったものが国家だと解釈しています。 人類にとって一番最小単位のグループである家族でも知らず語らずルールというものが有ります。国家という大きな集まりには、国家として最低のル−ルが必要なので、創られたものか憲法だと思っています。 しかし私は最近此の憲法に少々異議を感じているのです。先日新聞に、民法の内の何かを現代用語に変えると載っていたと思います。しかし民法の一部でなく其の内容の全文を現代用語に変えるべきではないでしょうか。と云って憲法九条を変えるというのではありません。 ひらがな六法 http://www.ne.jp/asahi/adachi/hiroaki/ >>第2章 戦争の放棄 >>第9条〔戦争の放棄,軍備および交戦権の否認〕 >>日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動>>たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段と>>しては,永久にこれを放棄する。 >>前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国>>の交戦権は,これを認めない。 私は第2章・第9条で何故軍隊が持てるかが不思議でなりません。法律らしくは有りませんが、判りやすく書くと法解釈を替えにくいと思います。 >>>第2章 戦争は絶対致しません(戦争の放棄) >>>第9条 戦争は絶対致しません。武器はいっさい持ちませんから戦う事は出>>来ません。〔戦争の放棄,軍備および交戦権の否認〕 >>>前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国>>の交戦権は,これを認めない。 >>>しかし軍隊を持ちたい人間は「国の交戦権は,これを認めない。」だけであって軍隊は持たないとは書いて居ないとも解釈できると思います。 ですから法律全体を、もっと判りやすい現代用語の法律に直して、色々な解釈ができない法律にしてほしいと私は思っています。 書き込み内容が纏まりのないものですみません。 |
▼ごまめの翁さん: こんばんは。ご意見有難うございます。 弊長駄文お読みいただき恐縮です。間違った点、おかしなところがあればコメントお願いします。 法律を分かり易く書くことは大賛成です。法律は国民の為にあるのであって、司法関係者、法曹関係者、口悪く言えば「三百代言」のような方々の為にあるのでは無いと思っております。 憲法9条明文規定では「自衛隊」(戦力)をもてないのは明らかです。いわば、屁理屈で既成事実化したものと思います。 なお余分なことを申しますが、大体、日本では、官尊民卑の風潮が長くあり、国民もお上にお任せで、あまり自分の事と考えてこなかったことがその原因のひとつであると思います。 近時の、医療訴訟にしても「お医者さまにお任せ」あるいは警察不祥事にしても「警察にお任せ」、官僚不祥事にしても「お国にお任せ」が、少し改まってきた所為ではないかと今後の行く末を楽しみにしています。 つい余分なことを言い、長くなりました。失礼します。 |