Page 1208 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼被爆者に終戦は無い・原爆の日によせて・・・ 桃李 04/8/5(木) 22:43 ┣Re(1):被爆者に終戦は無い・原爆の日によせて・・・ 森下 泰典 04/8/5(木) 23:02 ┃ ┣Re(2):被爆者に終戦は無い・原爆の日によせて・・・ taka 04/8/5(木) 23:28 ┃ ┃ ┗Re(3):被爆者に終戦は無い・原爆の日によせて・・・ よんさま 04/8/6(金) 12:11 ┃ ┗Re(2):被爆者に終戦は無い・原爆の日によせて・・・ 月光仮面のおじいさん 04/8/7(土) 7:28 ┣Re(1):被爆者に終戦は無い・原爆の日によせて・・・ ニック 04/8/5(木) 23:09 ┣中国新聞より 森下 泰典 04/8/5(木) 23:26 ┣原爆の日によせて・・・ 映画 「父と暮せば」 詫田 04/8/5(木) 23:38 ┣Re(1):被爆者に終戦は無い・原爆の日によせて・・・ 石頭の息子 04/8/6(金) 0:08 ┣Re(1):封印されたとき 流水 04/8/6(金) 8:40 ┃ ┣Re(2):封印されたとき 石頭の息子 04/8/6(金) 9:02 ┃ ┣Re(2):封印されたとき 王里 04/8/6(金) 9:47 ┃ ┗Re(2):封印されたとき 浜三圭 04/8/8(日) 18:05 ┃ ┣Re(3):封印されたとき 流水 04/8/8(日) 19:03 ┃ ┃ ┗Re(4):封印されたとき 浜三圭 04/8/10(火) 5:54 ┃ ┗Re(3):封印されたとき 石頭の息子 04/8/8(日) 19:11 ┃ ┗Re(4):封印されたとき 浜三圭 04/8/10(火) 5:33 ┣Re(1):あなたが、戦争を過去のものにしてる aube 04/8/6(金) 8:58 ┣「平和宣言」と「首相挨拶」 森下 泰典 04/8/6(金) 19:51 ┃ ┗Re(1):「平和宣言」と「首相挨拶」 マゴ 04/8/6(金) 20:21 ┃ ┗Re(2):「戦争支持表明」と「平和宣言」 猫猫 04/8/8(日) 10:39 ┃ ┣Re(3):「戦争支持表明」と「平和宣言」 大野弘雄 04/8/8(日) 11:15 ┃ ┣Re(3):「戦争支持表明」と「平和宣言」 森下 泰典 04/8/8(日) 11:20 ┃ ┃ ┗訂正 森下 泰典 04/8/8(日) 11:21 ┃ ┣Re(3):読売社説 「反核の訴えに政治を絡めるな」 猫猫 04/8/9(月) 0:43 ┃ ┗Re(3):読売新聞の社説に 王里 04/8/9(月) 11:05 ┣今日の朝日の社説から なお 04/8/6(金) 20:55 ┣Re(1):被爆者に終戦は無い・原爆の日によせて・・・ 団塊党 04/8/7(土) 0:12 ┣明日は長崎原爆の日 森下 泰典 04/8/8(日) 15:41 ┃ ┣Re(1):明日は長崎原爆の日 桃李 04/8/9(月) 0:41 ┃ ┗式典をテレビで見て 森下 泰典 04/8/9(月) 11:41 ┃ ┣「広島での挨拶」と「長崎での挨拶」 森下 泰典 04/8/9(月) 13:27 ┃ ┃ ┗Re(1):「広島での挨拶」と「長崎での挨拶」 悠々 04/8/9(月) 18:47 ┃ ┗メルマガ(拾い読み編19)の補足 管理スタッフ 04/8/10(火) 4:54 ┃ ┗Re(1):メルマガ(拾い読み編19)の補足 悠々 04/8/10(火) 8:27 ┣1945年8月9日 午前11時2分 ぎみゆら 04/8/9(月) 10:54 ┃ ┗Re(1):1945年8月9日 午前11時2分 月光仮面のおじいさん 04/8/9(月) 11:56 ┃ ┗Re(2):1945年8月9日 午前11時2分 ぎみゆら 04/8/9(月) 19:02 ┗ラジオ番組のご案内 なお 04/8/9(月) 17:56 ┣感想 なお 04/8/9(月) 22:07 ┗Re(1):ラジオ番組のご案内 桃李 04/8/9(月) 22:53 ┗ありがとうございます。 なお 04/8/9(月) 23:15 ┗Re(1):ありがとうございます。 桃李 04/8/9(月) 23:41 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 被爆者に終戦は無い・原爆の日によせて・・・ ■名前 : 桃李 <touri1968@aol.com> ■日付 : 04/8/5(木) 22:43 -------------------------------------------------------------------------
普段は自分の戦争体験を語り継ぐことに積極的な私の料理の先生、80歳の先生 尊敬している方のお一人です。その先生がこんなことを言いました。 「私は原爆の日にはテレビを消して見ないようにしているの。あの日のことをまざまざと思い出すのが辛くて耐えられないの。」 先生は静かに、はっきりとそういいました。 先生にとって、戦争はまだ、続いているのがわかりました。 8月は料理はお休みですが先生はお一人暮らしなので、決まっているわけでもないのに、生徒さんが、なんとなく気にして、入れ替わり立ち代り、電話なり、直接会いに行くなりしています。温かいつながりだと思います。 私は今日は夫と一緒にうかがって、ヒロシマの精霊流しにインターネットでメッセージを送った話などをしました。 すると冒頭の言葉をおっしゃったのです。先生にとって戦争は終わっていないことは、今までにも肌で感じていましたが、今日は心の底から「戦争はまだ終わったわけではない」ことをヒリヒリと感じて、強く生きていらっしゃる先生を見るにつけ 悲しみと、怒りがこみあげます。 被爆者の生の声を聞いたのは、私は生まれて初めてです。 |
せめて明日の6日、そして9日、さらに15日、 この3日だけでも、日頃の「左右対立」の矛をおさめて、 私たち「老人党」党員全体で、あの戦争で命を亡くされた方々の魂を 弔っておきたいものだと考えます。 国を超えて、人種を超えて、政治体制を超えて。 その気持ちでないと、「憎しみの連鎖」が解消されることはないでしょうから。 |
▼森下 泰典さん: >せめて明日の6日、そして9日、さらに15日、 >この3日だけでも、日頃の「左右対立」の矛をおさめて、 >私たち「老人党」党員全体で、あの戦争で命を亡くされた方々の魂を >弔っておきたいものだと考えます。 > >国を超えて、人種を超えて、政治体制を超えて。 >その気持ちでないと、「憎しみの連鎖」が解消されることはないでしょうから。 何時も拝読し勉強させて頂いて居ります。 貴兄のご提案の通り、この三日間は心を込め「合掌」致します。 「憎しみの連鎖」がいかに醜く、馬鹿げた事かを、子供、孫達に、しっかりと 教えたいと思っております。酷暑の折、お身体ご自愛の程。 taka |
原爆投下は戦争による被害じゃないよ。不当な虐殺による被害だよ。憎しみの連鎖って言うけど怒る所は怒らなきゃ舐められる一方だよ。 |
森下様 すがすがしい意見有難うございました。皆様の意見では小泉首相の参加を非難している内容も見られます。私は別の感慨で映像を見ました。 それは、反核運動が反米、親ソ連という図式に乗って動いていた事実が忘れられないのです。(007の映画の観過ぎか)。小泉首相の参加は政治理念として平和を望むと言うメッセージを左右の対決を超えて日本の意思として表明していると捕らえれば是認するのが一つの考え方です。 最終的に日本の核廃絶運動を高めるには、なんとしても反米運動の重なりを排除すべきと思います。そんな姿を小泉首相の後姿に見て良かったと思います。 老人党の中からもジョン・レノンのイマジンのような心に染みる歌が出来る日を目指したいですね。。 |
またあの日が近づいてきましたね、原爆投下をしたのはアメリカですが、その原因を引き起こしたのは日本軍の侵略戦争でした。 その影で国内、海外に多数の被爆者の方々が苦しんでいらっしゃいます、「もう2度とあの過ちを繰り返しません」と言う言葉に拒否反応を起こされる方もいらっしゃる様ですが、原爆投下を引き起こした過ちを2度と繰り返さないと言う事だと考えれば矛盾無く納得できると思います。 原爆投下国のアメリカは、いまだにあの行動を正当化しようとしていますが到底許される行為ではないのは確かな事実です。 これからもあのような醜い戦争を引き起こさない為に、これからも声を出していかなければなりませんね。 |
「2004 ヒロシマ」のサイトが開設されましたので、 ここにリンクを張っておきます。 http://www.chugoku-np.co.jp/abom/04abom/index.html 私としても、あいにく東京のど真ん中で、日々の仕事に従事しなければならない 身ではございますが、原爆で命を落とされた方々のために、心の中で、通勤電車の 中で、黙祷をささげる所存でございます。 |
今話題の映画、『 父と暮せば 』 を見てきました。 「おとったん、ありがとありました」という台詞に、何度も涙が流れました。 映画を見終わって、何故か、懐かしいフォークソングを思い出しました。 ご存知ですか、『戦争は知らない』。 寺山修司の作詞です。 < 戦争は知らない > 野に咲く花の名前は知らない だけども野に咲く花が好き ぼうしにいっぱい摘みゆけば なぜか涙が涙が出るの 戦争の日を何も知らない だけど私に父はいない 父を想えばああ荒野に 赤い夕陽が夕陽が沈む いくさで死んだ悲しい父さん 私はあなたの娘です 二十年後の故郷で 明日お嫁にお嫁に行くの 見ていて下さいはるかな父さん いわし雲とぶ空の下 いくさ知らずに二十才になって 嫁いで母に母になるの |
私の子供の頃には、嫌と云う程に戦争の恐ろしさ、原爆の言葉にならない恐ろしさを見て、聞いて、育ちました、なので今ではもうその様な写真とか本等は見たくありません、脳裏に焼きついているからです。 私の子供たちは小学時代にマンガ本ですが「はだしのゲン」と「火垂るの墓」をみてショックだったようです、部屋でそっと泣いていました、今でも本箱に納まっています、まともな教育はできなかったと後悔していますが、戦争の悲惨さだけは自分の子供には伝わっていると信じています。 毎年八月は重苦しい気持ちになります、森下 泰典さんにならって、あの日、あの時刻に鎮魂と平和に黙祷をささげ祈念します。 |
今年、BS−iで放映されたドキュメンタリー「原爆の夏 遠い日の少年」は、最近にない力作だった。 見終わったとき、不覚にも涙が止まらなかった。 主人公は「一枚の写真」である。否、正確には、その写真に写っている一人の少年の姿といったほうが良い。 一人の少年が、歯を食いしばってまっすぐ前を見てたっている。素足の足。ぼろぼろの服。背中には、すでに息絶えた小さな弟を背負っている。場所は、長崎の浦上川の川沿い。当時、原爆で亡くなった人を荼毘にしたのだが、あまりの多さに至る所で荼毘にされた。その少年は、死んだ幼い弟を背負って順番を待っていたのである。 わたしは何回も広島や長崎を訪ずれ、原爆の悲惨な写真を数多く見てきたが、この少年の写真ほど心を打たれたものはない。 12歳前後の少年が、背中に幼い弟の死体を背負って、それでも涙を見せずに、唇を血が出るくらいかみ締め、きっと前を見つめて直立不動の姿勢で、じっと荼毘の順番を待っている。 この少年の姿に、戦後の日本の復興を支えた人々の心が象徴されているように見えた。 写したのは、ジョー・オダネル。彼は、ホワイトハウスの専属カメラマンとして、戦後の歴代大統領の写真を撮影したカメラマンとして知られている。 しかし、その前、彼は海兵隊のカメラマンとして、戦後の日本を多くの写真で記録していた。 当時、従軍カメラマンは、軍の厳しい検閲を受けていた。GHQの占領政策に不利益になる写真を残さないためであろう。彼は、長崎県の佐世保、福岡、長崎などの戦後すぐの写真を撮影していたのだが、あまりの惨状に軍の命じた写真以外の写真を数多く撮った。 軍の検閲を何とか誤魔化して、その写真のネガを米国に持ち帰ったのだが、ホワイトハウスを退職するまで、その写真を現像しなかった。あまりの惨状を思い出すのが、怖かったのである。 現像した写真を見たときから、彼の人生は変わった。手作りの写真集をつくり、反核運動を行い、長崎で写真展も開いた。 彼は、この幼い弟を背負った少年を必死に探した。 81歳の彼は、この少年に会うためと自分の過去に会うため、日本を訪ずれる。佐世保・福岡では、彼が撮影した少年・少女の何人かと会うこともできた。 特にわたしに強く印象に残ったのは、大浦天主堂でのことである。 彼は、被爆後の大浦天主堂の写真を撮影していた。ほとんど崩れた大浦天主堂の前に、首だけ残った聖人の像が写っている写真である。 この聖人の像はどこにあるのか、と大浦天主堂のシスターに尋ねた彼は、「それは原爆資料館に展示されているはずです」と聞いたとき、「それは残念です。あの像は、ここに置くべきです。あの聖人の像の見ていた方向には、廃墟と化した長崎の街がありました。あの像は、ここに置くべきです」と語った。 この言葉に、わたしは戦後の日本人の歴史の向き合い方を叱られたように思えた。 戦後の日本人は、戦争の記憶を博物館の中に閉じ込めたのではないか。 彼は、そのことを厳しく指摘し、「どんな悲惨な歴史でも正面から向き合え、決して博物館に入れては駄目だ」と叱ったのではないか。 だが、彼の旅の最大の目的であった少年にはついに合えなかった。 テネシー州のナッシュビルの自宅に帰った彼は、日本での写真を整理して写真展を開いた。ホワイトハウスの専属カメラマンとしての彼は知っていても、それ以前の彼を知らなかった多くの人が会場を訪ずれた。 会場で一番人々を感動させたのは、やはり「あの少年の写真」だった。 写真に添えられた彼のコメントを読んで、もう一度写真を眺め、涙をぬぐう人が絶えなかった。 小さな子供を抱っこした若い母親のほほを伝う涙を見て、「ママ、泣いてるの。悲しいの」と問いかける無邪気な子供に一生懸命説明して、「こんな悲しいことを二度と起こしては駄目なのよ」と語りかける母親の姿に感動した。 「人間は捨てたものじゃない」と思った。 今の日本は、この人間の原点を忘れつつあると思う。 わずか12歳前後の少年が、死んだ幼い弟を背負う惨い現実に必死に耐えながら、それでも涙を見せず、きっと前を見据えて、直立不動で立っている姿に、戦後日本の出発点があった。 広島の原爆資料館に壁に焼き付けられた人間の影が飾ってある。原爆の高熱で一瞬で焼き尽くされた人間の痕跡が、影として残っている。 わたしは、このドキュメンタリーを見ながら、この焼き付けられた影を思い出した。 この影を残した人にとっては、1945・8・6は、文字通り【封印された時】であり、生き残っているわれわれにその日・その時の意味を問い続けているのである。 ジョー・オダネルは最後にこう語る。「どちらが良い、悪いではないんだ。こんな悲惨なことは、二度と起してはならないんだ」と。 ※この文章は、一度掲示しました。二度目になることをお許しください。8・6を迎えるわたしの気持ちです。 |
流水さん、 貴方の投稿を読みながら、涙が込上げて止まらない、あの少年の写真が蘇ってきた、様々な思いがよぎり、言葉が無い、涙が止まらない。 |
流水さん:こんにちわ 自分の心の中に、つらく悲しいものは、見たくないという気持ちがありました。あなたの文章は、こんな私にも現実と向き合う勇気を与えてくれます。ありがとうございました。 戦争は、もう嫌です。殺されたくも殺したくもありません。世界平和のためなら、国益なんてどうでもいいことです。自分だけよければいいというのが、この国を駄目にする考え方だと思います。 |
始めまして、その原爆の日の死んだ弟を背負っている少年の写真、私も是非見たいと思いますが、もしその写真をお持ちでしたら是非見せて頂けませんか、お話しを聞いただけで 涙が出てきました、昭和30年に所要で長崎に行きましたが、もうその時は当時の面影は崩れた大浦天主堂くらいでした、よろしくお願い致します、 |
拙文、お読みいただいてありがとうございます。 残念ながら、TVのドキュメンタリー番組だったので、写真は持っておりません。 ただ、長崎では、写真展が開かれていたようなので、長崎の原爆資料館などに 問い合わせていただければ、何か分かるかも知れません。 下のHPを見てください。 http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/na-bomb/museum/ |
流水さん、 早速「石頭の息子」さんから「直立不動の少年」の写真ご紹介いただきました、 写真を見て涙を新たにしました、 昨日は丁度「長崎原爆の日」でした、この写真の事、長崎の人でどなたか語り継いで下さればいいなと思います、 この少年のお父さんもお母さんもきっと原爆で亡くなられたんでしょうね、それで この弟を葬ってやるのは自分しかないという想いで背負ってきたんでしょうね、 原爆資料館のホームページ有難うございました、色々見せて頂きました、 半世紀もたつと人の記憶も薄らいできます、記憶を新たに過ちをおかさないようにしたいものです、有難うございました、 |
▼浜三圭さん: >始めまして、その原爆の日の死んだ弟を背負っている少年の写真、私も是非見たいと思いますが、もしその写真をお持ちでしたら是非見せて頂けませんか、お話しを聞いただけで >涙が出てきました、昭和30年に所要で長崎に行きましたが、もうその時は当時の面影は崩れた大浦天主堂くらいでした、よろしくお願い致します、 浜三圭さん、 今でもこの写真を見る時、こみ上げてくるものがあります。 http://nakanihon.net/gennbaku.htm |
石頭の息子さん、「死んだ弟を背負った直立不動の少年」の写真を見ることが出来て あらためて涙しました、この弟はまだ乳飲み子で満一歳になるかならぬかくらいですよね この世に生を受け天寿をまっとうすることなく荼毘にふされる、この直立不動の兄の気持 はいかばかりか、新たに涙がこみ上げてきます、写真あり等ございました、こんなに早く 写真を見ることが出来てほんとに嬉しく感謝いたしている次第です、 私は81歳です、前大戦にも二年弱参加しましたが、このような体験はしませんでした、 |
戦争はいま、イラクで、アフガニスタンで、イスラエルでやってます。 それも、日本から軍隊を出兵して 太平洋戦争と、今の戦争と切り離しちゃいけない。 太平洋戦争の過ちを、いま、国会で繰り返す事が賛成多数で決まってます。 こんどの敵は、イスラムです。「石油を、イスラムから開放せよ。」 石油の開放と自由のために、ユダヤ、キリスト教国とその属国は、戦うのです。 それを、とめないと、あなたの家族が石油の犠牲になって死んでいく事になるよ、 |
今年の8月6日も終わろうとしています。 改めてここに記しておきますが、 秋葉忠利市長による、米国の「自己中心主義の極み」を非難し、「核兵器のない 世界を創るための記憶と行動の一年」にむけた決意のこもった広島平和宣言 http://www.chugoku-np.co.jp/abom/04abom/news/2004hiroshima.html その一方で、いかにも官僚が作文したかのような、「平和憲法を順守し非核 三原則を堅持する」という、およそ自分の言葉の見られない内容の、首相 あいさつ http://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2004/08/06aisatu.html どちらが、平和に向けての強い意志を表現してるか、明らかであると考えます。 しかも小泉首相、 「高齢化の進行など被爆者の実状を的確に反映させながら、援護施策の推進に誠心 誠意努力してまいります。」 と言いながら、「被爆者代表から要望を聞く会」へは3年連続欠席 (今年は午後から衆院本会議があると言っても、去年は関西訪問に式典後の 時間を費やした) http://www.chugoku-np.co.jp/abom/04abom/index.html 「平和憲法を遵守」と言いながら、自衛隊のイラク派遣を 「憲法の枠内でイラクに自衛隊を派遣している」 と言い逃れるだけ http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn04080637.html 改めて、かような不遜な首相に、日本の平和を委ねていいものか、疑念を深く せざるをえません。 |
平和を破壊し新たな戦争被害者を沢山生みだそうと躍起になってる小泉は『要望を聞く会』なんかバカバカしくて出る気もしないんだろう。小泉は反戦平和の維持なんて全く望んでないのだから。 きっと小泉は腹の中では“米国の協力とメディアを使ってこの目障りな市長を失脚させる事は出来ないのだろうか?”とでも考えてるんじゃないの?小泉にとって反戦平和主義者こそが一番の抵抗勢力なんだろうから。 いずれは核武装論もクローズアップしそうだし。どうせ小泉もそれを望んでるだろうから |
7日付・読売社説「反核の訴えに政治を絡めるな」 http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20040806ig90.htm 読売新聞のねじ曲がった文章は、意味不明。 「冷戦時代の左翼勢力の思考だ」 と評論する心の貧しさ。仁徳の無さ。 国際平和のために、頑張るはずのジャーナリズムが、 権力者をフォローするのに、夢中。 |
猫猫殿 理解できなければ、10回でも100回でも読んだらどうですか。どこが意味不明なのか、具体的にその個所を示したらどうなのかね。 |
▼猫猫さん: >7日付・読売社説「反核の訴えに政治を絡めるな」 >http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20040806ig90.htm > >読売新聞のねじ曲がった文章は、意味不明。 >「冷戦時代の左翼勢力の思考だ」 >と評論する心の貧しさ。仁徳の無さ。 いやあ、さすが、「たかが選手が」とのたまう御仁がグループ会長を勤める 新聞らしい、「強気を助け、弱きをくじく」論調、と言えましょう。 |
「強気」→「強き」 |
7日付・読売社説「反核の訴えに政治を絡めるな」 http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20040806ig90.htm 「反核の訴えを政治に絡めるべきだ」の一言。 |
猫猫さん:こんにちわ 7日付・読売新聞社説読ませていただきました。一言でいって、この社説は被爆者の心を全く理解してないひどい内容だと思います。 特に、「広島市長の主張は被爆地の心とかけ離れ、反核運動から国民を遠ざける」というくだりは主語を読売新聞に置き換えたら、ぴったりの表現です。 被爆者やその遺族で反核・反戦でない人がいるでしょうか。改憲に賛成の人がどれだけいるでしょうか。お得意の世論調査を広島・長崎の会場で実施してみられたらいかがでしょう。 「護憲を反戦や反核と結びつける主張は冷戦時代の左翼勢力の思考だ」は護憲・反戦・反核を時代遅れと決めつけ、日本の将来を改憲・戦争・核保持につなげたいという考えの表れではないでしょうか。 私は、新聞社は弱者の味方、庶民に代わって権力に物を申してくれる存在と思っていた時期がありました。今、それがはっきり幻想だと解りました。 被爆者の考えを示す参考記事です。 http://www.janjan.jp/area/0408/0408037616/1.php http://www.janjan.jp/area/0408/0408037618/1.php |
抜粋です。 「こうした無差別爆撃は、20世紀の戦争の非人道性のもっとも分かりやすい象徴だろう。先例となったのは、スペイン内戦中の37年に独軍機が行ったゲルニカ攻撃であり、日本軍機が38年から中国の重慶に対して繰り返した大空爆だった。それらがドレスデンへ、東京大空襲へとつながり、結局、広島と長崎への原爆投下に行き着く。 破壊力が格段に大きく、いったん使えば生き残った人々の体をもむしばみ続ける核兵器は、通常兵器に比べてはるかに恐ろしい。だが、大戦争になれば、人間はそんな兵器も通常兵器と同じように手軽に使ってしまう。それが、広島・長崎の人類に発した警鐘である。 」 「アフガニスタンからイラクへと戦禍が広がり、市民が犠牲になっている。それがまたテロを誘発する。テロの制圧が目的だとしても、米軍が市街地を空爆する様は何ともおぞましい。 核の脅威も姿を変えた。核兵器の拡散、とくにそれが国際テロリストの手に渡ることの脅威が叫ばれる。核の闇市場の存在も明るみに出た。 テロリストには核の抑止が効かない。ならば、テロ集団とつながる独裁政権を事前につぶすため小型核兵器を使ってもいいと米国は言う。そんな時代だ。 これでは、いつまでたっても核の脅威は去らない。」 「日本がなすべきことは、被爆国としての主張がもっと世界に対して説得力を持つようにするための努力だろう。 被爆体験から非核三原則が生まれたが、米国の核の傘への依存に安住する余り、アジアに非核原則を広げる構想力も外交力も身につけてこなかった。 中国をはじめ、日本が侵略したアジアの国々との和解を十分進めてこなかったことも痛い。アジアには「原爆投下はわれわれの解放をもたらした」とする受け止め方があるのも事実だ。日本の核武装への警戒の目も忘れてはならない。 中国との和解を進めつつ、中国に核の廃棄を求める。同時に、アジアの人々と肩を組んで、米国をはじめとする他の保有国にも廃絶を迫る。そんな日本の姿を見たい。」 全文は http://www.asahi.com/paper/editorial.html です。 |
昨日NHKのクローズアップ現代でもやってましたが・・・ 50年前のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験が実は人体実験であったのではないかとのこと。 島民はみな自分たちはモルモットにされたと思っている。 恐ろしい国だ。 http://www.morizumi-pj.com/bikini/bikini.html |
去年の8月9日、伊藤一長長崎市長は、1982年に来崎された故マザー・テレサ氏に ならい、核保有国首脳に対し、 「原爆資料館に来て、核兵器がもたらす悲惨な結末を自分の目で見てほしい」 と訴えられました。 それに対し、小泉首相は、広島におけるのと同様、 被爆者団体からの要望聴取や慰問を行わない、という行動を取られました。 http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2003/kiji.html 明日は犠牲者の霊に対し、静かに弔いたい、と思うのと同時に、 誠意の見受けられない小泉首相に対し、改めて、抗議の声を挙げていきたい、 と考えています。 |
▼森下 泰典さん: >明日は犠牲者の霊に対し、静かに弔いたい、と思うのと同時に、 >誠意の見受けられない小泉首相に対し、改めて、抗議の声を挙げていきたい、 >と考えています。 私の料理の先生は長崎で被爆されました。 「小倉に落とすつもりだったのに、曇っていたので、やめて帰ろうとしたら、偶然、長崎の空が晴れていたから落としたのですって。私の姉はそれでなくなったけれど、長崎には山が多いでしょ、私はそれで、命だけは助かったの。でも、どこに落ちたとしても、あれだけは、絶対に許せない。」 と、話していらっしゃいました。 森下さまと同じく、犠牲者を静かに弔い、これからを考えていきたいと思います。 |
本日の長崎平和式典を、NHKで拝見いたしました。 伊藤一長市長は、「アメリカ市民」に対し、 「私たち人類の生存のために残された道は、核兵器の廃絶しかないのです。 今こそ、ともに手を携えてその道を歩みはじめようではありませんか。」 と呼びかけ、世界中の人々に対しては、 「地球市民による連帯の力を結集し、非人道兵器の象徴ともいえる核兵器の廃絶に 道筋をつけさせようではありませんか。」 と呼びかけ、日本政府に対しては、 「非核三原則の法制化」と「朝鮮半島の非核化」を呼びかけ、 そして、「若い世代」に対しては、 「一人ひとりが平和の問題に関心を持ち、身近なところから行動すること」を 呼びかけました。 http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/abm/heiwasengen/sengen_j.htm それに対し、小泉首相の挨拶は(現時点では官邸のサイトで紹介されていないが) 広島でのそれと内容的に、文言的にかなり似通っており、改めて、小泉首相の 誠意の無さを証明する形となってしまいました。 改めて小泉首相に訴えたいことは、広島・長崎の方々の、平和を希求する気持ちに 対し、言葉で、そして、行動で、しっかり答えて欲しい、ということです。 |
広島での挨拶 http://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2004/08/06aisatu.html そして、午後になって官邸サイトで紹介されましたが、長崎での挨拶 http://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2004/08/09aisatu.html を紹介しておきます。 いかに内容が似通いすぎてるか、そしていかに自分の言葉というものが見られない か、よく分かると思います。 |
内容もさることながら、発する言葉が平坦で、 気持ちも、その重みも力も感じられませんでした。 |
roujinntou-news(拾い読み編19)を発行しましたが、長崎での挨拶の部分で不手際がありましたので、お詫びするとともに次のように補足いたします。 16942悠々さんの「広島での挨拶」「長崎での挨拶」は、16924森下泰典さんの同名の投稿への返信として述べられたものであり、長崎市長の「平和宣言」についてのものではありません。 誤解を招きそうな配列になりましたことをお詫び申しあげます。 なお、roujintou-newsは随時の発行ですが、老人党掲示板のトップページから配信の登録ができることを申し添えます。(北極星) |
お気遣いいただきまして、ありがとうございます。 投稿の際、返信先の森下さんと明記すべきでした。 6日の広島、9日の長崎での平和式典のLIVE映像では、 首相のるると読み上げる挨拶文の言葉の軽さが際立っておりました。 両市長の平和宣言には胸に迫る言葉の持つ力がありました。 自らの思いを言葉にかえて、その背負ってきた歴史を内に秘めての 表現だったからでしょうか。それにしても、あまりに対照的でした。 言葉が人の心に響く、あるいは捉えるという点では。 秋葉広島市長の『平和宣言』は、昨年同様、深く心に残るものでした。 「75年は草木も生えぬ」と言われたほど破壊し尽くされた8月6日から59年。 ・・残念なことに、人類はいまだにその惨状を忠実に記述するだけの語彙を持たず、 その空白を埋めるべき想像力に欠けています。また、私たちの多くは 時代に流され惰眠をむさぼり、将来を見通すべき理性の眼鏡は曇り、 勇気ある少数には背を向けています。 ・・今日から来年の8月9日までを 「核兵器のない世界を創るための記憶と行動の一年」にすることを宣言します。 私たちの目的は、被爆後75年目に当たる2020年までに、 すべての核兵器をなくすという「花」を咲かせることにあります。 そのときこそ「草木も生えない」地球に、希望の生命が復活します。・・ (広島市長平和宣言から抜粋) 暑さ厳しき折、みなさまくれぐれもお大事にお過ごしください。 |
広島の平和式典は、毎年、朝方に開催されます。お勤め人が職場に、 子供たちが学校に出かけるころです。広島に原爆が投下されたのが、 午前八時十五分だからです。 長崎の平和式典は、お昼前の、今日もだいぶ暑くなってきましたね、 というくらいの時間に行われます。長崎原爆投下の公式発表時間が、 午前十一時二分だからです。 1945年8月6日 午前8時15分 広島 1945年8月9日 午前11時2分 長崎 平和式典のテレビ中継を見なくても、子供の頃に親から教わった この日時だけは、時、分に至るまで、私は忘れたことがありません。 今後もずっと、忘れません。 先日、取材でお会いした方から、あるきっかけで、「私は大牟田の 生まれなんですが、子供のころ、長崎のキノコ雲を見たんですよ」 というお話を聞きました。外で遊んでいたら、西の空を覆うような、 赤というか、煉瓦色というか、何とも言えないきれいな色の、大きな 輪が見えて、しばらく後に、ものすごい風がやって来たそうです。 九州の地図を、見てください。原爆が落とされたのは、長崎市です。 ジャンケンのチョキを逆さにしたように、九州の西にぶら下がって いる長崎県の、西の端です。そこから、いまは大きな空港ができて いる大村市を越え、雲仙岳を越え、有明海を向こう岸に渡ったところ、 福岡県の南西岸にあるのが、大牟田市です。そこで遊んでいた子供が、 キノコ雲を見て、爆風を身に感じたわけです。 「大牟田で、とは驚きました」と私が言うと、その方、「そう言えば、 こんなこと、人に話したのは初めてです」とのことでした。 犠牲者の皆様に、あらためて、お悔やみを申し上げるとともに、 いまもお元気な被爆者の方々が、和やかなお気持ちで日々を 過ごされることを、心より、お祈りいたします。 |
ぎみゆら様 爽やかな内容有難うございます。こんな文がとても心にしみます。 平和な日本をいつまでも守りたいものですね。 追記 当方の投稿文は語句に間違いが多く、見ている人が不愉快かもと反省。ぎみゆら様は文に破綻がない。羨ましい。 |
月光仮面のおじいさん、こんにちは。 早速ご感想をいただき、ありがとうございました。 「爽やか」と評していただいたこと、とてもうれしく思います。 できれば、このような内容でも、恐くなりすぎず、押しつけがましく ならないように書けたらいいなと、つねづね願っているものですから、 今後とも、よろしくお願いいたします。 |
今日午後8:05から、NHKラジオ第一で、 「被爆地の子に生まれて」 高校生平和大使…小川 綾華 筑波大学生…草野 史興 という番組があります。ご紹介します。 |
国連で発表される小川さんの英語のスピーチが最初頼りない。先生に「もっとゆっくり一つひとつの意味を自分なりに噛みしめながら伝えないと」と指摘され、「はい」。 しかし、叔母さんから被爆体験を聴き、スピーチの言葉一つひとつにも力が入ってきました。 もしかしたら、英語のスピーチの内容が最後まで紹介されないのかと思いましたが、最後に翻訳されました。 「戦争の悲惨さは誰よりもその被害者が知っている。イラク戦争で傷ついたイラク市民は誰よりも平和の尊さを知り、核兵器の恐ろしさは誰よりも被爆地の市民が知っている。 私は被爆者の孫、被爆三世として、あの日8月9日の悲劇を二度と繰り返さないために、このメッセージを伝えます。」 彼女自信の言葉による、説得力のあるスピーチです。 番組自体は長崎での反戦の市民運動が衰退している現状や被爆者の高齢化などの紹介し、螺旋を描くように周辺の状況を伝えて、最後は若者二人に希望を感じさせるものでした。 |
放送を聴きました。 高校生や大学生にとっては、小川さんや草野さんのような同世代の活動は、世代の違う人の活動よりも身近に感じられ、聞く耳をもつ人も多いのかと思っていましたが、草野さんの運動はなかなか思うように進んでいないようでしたね。 小川さんや草野さんがご自分たちのことを「被爆3世」と言う言葉が、心に残りました。良し悪しはべつとして、何代になっても被爆という言葉がつくのかと。 やはり上智大学の猪口先生が草野さんにおっしゃっていたように、長い見通しを持って、孤独でも、気を長く持って、こつこつと続ける。というお話には、私も自然とうなづきながら、ラジオの前にいました。 また、途中から活動を離れた方たちについても、番組内で触れられていましたね。 「大学生になると運動から離れていく」と言われていましたが、色々な勉強ができる時期ですから、自分の本当にやりたいことを見つけるための猶予も必要でしょうし、運動から離れることがあってもいいと思いました。 過去にやってきたことは完全に忘れ去られるわけでは無いところに希望の光もあります。草野さんのように動的な働きかけではなくても、大切なことを人に伝えていく方法は人それぞれのやり方があるのかななど、色々と考えながらラジオを聴き終えました。 |
紹介した甲斐がありました。聴いてくれてありがとうございます。(私はNHK関係者ではありませんが) 私が毎日チェックしているNHKの番組表のページを紹介します。新聞のテレビ・ラジオ欄よりも詳しく分ります。 http://www3.nhk.or.jp/hensei/ |
なおさん、こちらこそ、教えていただいてありがとうございました。 教えていただいた、番組プログラムは活用させていただきます。 テレビは殆ど見ませんが、ラジオはもっと使いませんでしたから、どっかにあったはずだわ。と、こまこました雑貨の入った箱の中から探しましたら、結婚式のお祝い返しにもらったものが出てきました。間に合って聞けてよかったです。 実は私はつくば市に住んでいますので、草野さんのことは 知っていました。 草野さんは筑波大学の学生さんですし、つくば市民なら、大学新聞が 公共施設でもらえます。 草野さんのことは、昨年、筑波大学に入学された折、大学新聞で大きく報じられていました。彼の大学生活が実り多いものとなること、志がうまく運ぶことを祈っています。 |