Page 1284 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼米国的世界観のパラダイム転換を:憲法論への一視点 流水 04/8/20(金) 12:04 ┗Re(1)持続可能な開発・成長は可能か 流水 04/8/20(金) 21:31 ┣Re(1):Re(1)持続可能な開発・成長は可能か(2) 流水 04/8/21(土) 9:27 ┗Re(1):Re(1)持続可能な開発・成長は可能か 団塊党 04/8/22(日) 0:27 ┗Re(2):Re(1)持続可能な開発・成長は可能か 流水 04/8/22(日) 9:03 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 米国的世界観のパラダイム転換を:憲法論への一視点 ■名前 : 流水 ■日付 : 04/8/20(金) 12:04 -------------------------------------------------------------------------
よく言われる言葉に、米国は、ホッブス的世界に住み、西欧はカント的世界に住むというのがある。 では、ホッブス的世界とは何か、というとあまりはっきりしない。 簡単に言うと、ホッブスがその著「リバイアサン」の中で展開した世界観である。 彼は、以下のようにいう。 【1】「人間の本性の中に、われわれは、争いの三つの主要な原因を見出す。第一は競争であり、第二は不信であり、第三は誇りである・・・・すなわち、人々は、すべての人を威圧しておく共通の力を持たずに生活している間は、彼らは戦争と呼ばれる状態にあるのであり、そして、その戦争は、各人の各人に対する戦争なのである」 【2】「人々を平和に向かわせる諸情念は、死への恐怖であり、快適な生活に必要なものごとを求める意欲であり、かれらの勤労によってそれらを獲得しようとする希望である」 【1】から導かれる論理は、世界は【競争】【不信】【誇り】の争いの原因に満ち満ちており、これをなくすためには【すべての国を威圧しておく力】が必要ということになる。 これが、米国流「ユニラテラリズム」(一国主義)の理論的根拠になる。つまり、スーパーパワーとしての米国の圧倒的力による【平和実現】という理論であり、俗に言う【パックスアメリカーナ】こそが、世界に平和をもたらすという理論に帰結する。 一言で言えば、【力】と【恐怖】による支配ということである。きわめて、単純で荒っぽい【力信仰】の世界である。 しかし、単純で荒っぽいからこそ、人々に人間としての原初的恐怖心を呼び起こすという意味では、きわめて有効な方策である。 日本でもこの種の単純な力信仰の信奉者は多い。最も下世話なところから言えば、【暴走族】【暴力団】は間違いなく【力信仰】の世界である。さらに、一般社会にもこの種の強引な力信仰を標榜している人間は多い。政治家の多くも表現の仕方は変わっても【力信仰】であることは間違いない。特に地方政界には、この種の強引な力を行使することが、政治力と考えている議員もまだまだ多いと考えられる。 それが一番強いのが、国権論者であろうし、その極端な表現が【右翼民族派】であろう。 しかし、現代の人間は、原始時代にすんでいるわけではない。ただただ、力による支配を甘んじて受けるほど馬鹿ではない。 人類の抵抗の歴史の記憶が現代の人々に生きているのである。しかも、情報化時代であり、世界の人々が一瞬にして同じ情報を手に入れることができる。簡単に国民をだませる時代ではなくなっている。 だから、人々に受け入れられやすいスローガンがいるし、それなりの理論武装も必要になる。 暴力団組織に「任侠道」というスローガンがあるように、米国にもスローガンが必要になる。 これが、【自由】と【民主化】である。自由な国アメリカという人々の心をくすぐる【スローガン】が唱えられる。戦後日本の人々が最も心をくすぐられ、憧憬の念を抱いたスローガンである。 ところが、現代のアメリカは自由の国ではあるが、その自由は【アメリカに都合のよい自由】【アメリカの許容する自由】であり、その【自由】を他国に押し付ける【タイラント】としての存在になってしまった。 特にこの傾向が顕著に見られるのは、経済・通商分野における【グローバルスタンダード】の押し付けである。この自由競争至上主義ともよべるアメリカンスタンダードの押し付けは、それこそ地球的規模での【貧富の差】の拡大をもたらし、地球的規模での地域文化の破壊をもたらした。 例えば、過去40年間に、世界中で生産される富が著しく増加したにもかかわらず、不平等は爆発的に拡大した。1960年には1対30であった最貧層20%と富裕層20%の間の所得格差は、現在では1対80に拡大している。 「もし、世界が百人の村だったら」の世界が、地球規模で広がったのである。 これが新たなテロリズムの温床になる。イラク戦争前、エジプトのムバラク大統領が、「イラク戦争をすることは、何百人何千人のビン・ラデインを生み出す」と警告したことが、現実のものになりつつある。 このまま進めば、21世紀の米国は、常にテロの恐怖におびえ続けねばならない国家になる。また、テロリズムという姿が見えない敵に対処するためには、最新テクノロジーを駆使した監視国家にならざるを得なくなる。新たな装いをこらしたファシズム的国家の現出である(現にそうなりつつある) それもこれも、もとを正せば、米国的世界観がもたらしたものである。この米国的世界観の「パラダイム転換】を図らねば、21世紀の世界はそれこそテロと殺戮と一部の金持ちと大多数の貧乏人とがすむ寒々とした世界になる。 今やハリウッドの大スターになったメル・ギブソンの出世作【マッド・マックス】の荒涼たる世界が待っていると予感させる。 現在の憲法改正論議は、上記の世界的視点でもう一度根底から考え直す必要がある。 右派の憲法改正論者の多くは、上記の米国流【ホッブス的世界観】の持ち主であると思われる。 しかし、わたしは、ホッブス的世界観それ自体のパラダイム転換を図らねば、21世紀の世界の未来はないと考えている。 憲法改正を論議するのなら、21世紀の世界に発信しうる新たな世界観に基づいて論議されるべきである、と考える。 つまり、憲法それ自体をもう一度国際的視野で洗いなおす新たな視点を提示すべきと思う。 |
現代日本の最大の問題点は、日本の抱え込んでいる問題を統合的に見る視点を持っていない、というところに求められる。 保守陣営から提出される【戦後日本の総決算】という政治テーマも進歩派陣営から提示される【護憲】という政治テーマも、経済テクノクラートから提示される「日本の構造改革」というテーマも、問題の根本的解決の「統合的視点」を保有していない、という一点で共通している。 国連が公式の理念とする「持続可能な開発」は、将来の世代の福祉を犠牲にせずに、現在の世代の福祉を保障するとみなされている。 少なくとも、この理念に根本的な疑問を呈した政治勢力はいない。 しかし、本当に、このことが実現可能なのであろうか。 【持続可能な開発】という理念は、無限に経済成長を続けていくことと、自然環境の均衡を維持し、社会問題を解決していくことと両立しうると仮定されている。 わたしたちは、この【仮定】そのものの可否を厳密に検証する時期に入っている。 【1】 持続可能な開発という考え方の根底には、持続可能な成長という考え方がある。では、成長は無限に持続可能なものであろうか。成長には生産が不可欠である。生産するためには、資源を消費しなければならない。 【持続可能な】という考え方の背景には、資源の消費の【効率化】という視点がある。例えば、自動車の燃費で考えれば、これまでリッター8kmで走ったものを、リッター16km走るようにすれば、これまでと同じエネルギー消費量で、倍の自動車生産が可能という理論である。 しかし、この理論には、根本的な錯誤がある。それは、低開発国の成長という視点である。現在の石油価格の高騰の背景に、中国の石油消費量の飛躍的な増大があることは、疑いがない。 これは何も中国だけではない。つまり、資源消費の効率化だけで、資源消費の増加をまかなえるか、という問題である。 現に国連報告書でも、資源消費の効率化だけでは、資源消費の拡大・増加に追いつかないことが指摘されている。 また、自然環境の均衡という理念が、如何にもろいものであるか、ということは、昨年のヨーロッパの猛暑・今年の日本の猛暑とか、太平洋の島国が水没の危機(海水面の上昇)に瀕していることから見ても明らかである。 また、中国その他の地域における石油消費量の急速な拡大は、Co2排出量の急速な増大につながり、これによる環境汚染の急速な進展も憂慮されている。 このことは、【自然環境との均衡】を実現するためには、根本的なパラダイム転換が求められていることを示している。 |
【2】 の問題点、自然環境の均衡を維持し、社会問題を解決することが可能なのか。 社会問題の解決のためには、【貧富の差の解消】と【社会的不平等の解消】ということが必要である。 しかし、現実にわれわれに見えるのは、全く逆の風景である。 現実には、過去40年間に、世界中で生産される富が著しく増加したにもかかわらず、不平等は爆発的に拡大した。1960年には1対30であった最貧層20%と富裕層20%の間の所得格差は、現在では1対80に拡大している。 「世界が百人の村だったら」に書かれている世界が広がったのである。 しかし、それは驚くに値しない。資本蓄積体制への移行にともなって、生産された価値の分配メカニズムが激変したからだ。資本家階級が配当金の増額などによる報酬の要求を強めたことにより、給与所得者に分配される付加価値は、給与そのものについても福利厚生についても減少の一途をたどった。 これは日本の現状をみれば、一目瞭然である。世界の金持ちランキングに100人を超える日本人が入る一方、3万4000人を超える自殺者が出ている現状を直視すれば、上記の進行が原因であることはすぐ分かる。 分かりやすく言えば、【富の分配の不公平】さが、世界的に拡大したのである。 世界一豊かな国米国でも、学校へ満足に通えない子供が、5人に1人ということも報告されている。 わたしたちの眼前に広がっている世界は、【持続可能な成長】という理念が、如何に神話的な理念であるかということを証明している。 このように、現在の成長の不振(幸せを実感できない成長)の陰には、自由資本主義によって侵食された社会におけるアノミーの増大が潜んでいる。 デュルケムの定義によると【アノミーとは共同体的価値および社会的規則の欠如あるいは喪失】ということになる。 これも、日本社会の現状を見れば、即座に納得できる。 地方農村地域の共同体の崩壊・各種犯罪の増加は、大方の日本人は、自由資本主義(わたしの言葉でいえば、自由競争原理主義)の暴力的な侵食によるものであると感じている。 米国が象徴する自由資本主義が指し示す社会生活の価値は、大量消費、浪費、天然資源や経済的所得の専有ということに尽きる。 この論理の行き着くところは、【富の一極集中】であり、世界の富が一国に集中することにより、無視できないほどの貧富の差の拡大、最終的には世界的な不平等の拡大につながっていく。 これがテロリズムの温床になり、世界の不安定化の要因になっている。 「成長は人々の新たなアヘンとなり、文化的な拠り所や連帯は破壊され、人々は商品経済の底なし沼のなかに転落する」。マルクスの資本論の予言がそのまま当てはまる状況が現出しているのである。 21世紀の世界は、われわれがアプリオリに前提にしてきた【持続可能な成長】というパラダイムからの脱却を如何にして提示できるか、という新たな地平に入っているのである。 |
▼流水さん: >現代日本の最大の問題点は、日本の抱え込んでいる問題を統合的に見る視点を持っていない、というところに求められる。 >保守陣営から提出される【戦後日本の総決算】という政治テーマも進歩派陣営から提示される【護憲】という政治テーマも、経済テクノクラートから提示される「日本の構造改革」というテーマも、問題の根本的解決の「統合的視点」を保有していない、という一点で共通している。 アメリカはその内容の良し悪しはともかく、世界の中でどのような戦略を立てて臨むかが政府にきちんとあり、その戦略に基づいて内政も外交も行われていると思います。 ところが日本には政府にも政党にも官僚にもそのようなグローバルな視点での戦略を持つという自覚も発想ももともとないかのように見えます。 仮にあったにしても、部分的、縦割り的、分業的な発想で、統合的な視点が非常に弱いのではないでしょうか。 各分野の頭脳集団を集結した本格的、統合的な政策集団のようなものが日本にあるのでしょうか? それは我々国民も同様で、憲法論議にしても流水さんが仰るような意味での総合的な視点からの話はあまり聞きません。 教育問題もそのような視点からの話をもっと活発にしていかなければいけないと感じているところです。 |
▼団塊党さん: ●それは我々国民も同様で、憲法論議にしても流水さんが仰るような意味での総合的な視点からの話はあまり聞きません。 >教育問題もそのような視点からの話をもっと活発にしていかなければいけないと感じているところです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ そうなんです。 わたしは社会科教師でしたが、20年以上前(バブル全盛期前)、社会科授業で、現代のような時代は日本の歴史では特殊例外的な時代だということを強調してきました。 特に【子供が神様にされる時代は異常だ】と保護者にも強調してきました。子供を人間として尊重する(人権を尊重する)ということと、神様にするということとは全く別のことです。 その中で特に言ってきたのは、「神様にする発想は、子供を丸抱えにする発想とメダルの裏表」ということです。 現代の「児童虐待」に象徴される子供の受難時代は、【神様】として育った子供たちが親の世代となって、【神様】としての自分の存在が普通の人間としての地位になることに耐えられなかった、一つの表現ではないか、と思います。 教育を語るとは、未来を見据えて、過去の素晴らしさを伝承しながら、目の前の子供たちを育てていくことだと思います。 |