Page 1329 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼人権を考える・生来の権利の話題から 桃李 04/8/24(火) 23:34 ┣Re(1):参考URLの訂正 桃李 04/8/25(水) 12:11 ┣子どもの人権・人格について Ray 04/8/25(水) 21:35 ┃ ┗Re(1):子どもの人権・人格について Gokai Sezutomo 04/8/25(水) 23:11 ┣Re(1):人権を考える・生来の権利の話題から 王里 04/8/25(水) 23:09 ┣Re(1):宮崎故郷人さんへの反論 王里 04/8/26(木) 9:53 ┃ ┗Re(2):宮崎故郷人さんへの反論 宮崎故郷人 04/8/26(木) 11:53 ┃ ┗子供の「何を」、大切にするのか。 ぎみゆら 04/8/27(金) 11:22 ┃ ┗Re(1):子供の「何を」、大切にするのか。 宮崎故郷人 04/8/27(金) 15:33 ┃ ┗元ヤンキー看護師Yさんのこと。 ぎみゆら 04/8/29(日) 19:15 ┃ ┗Re(1):元ヤンキー看護師Yさんのこと。 宮崎故郷人 04/8/31(火) 17:18 ┃ ┗「先達になる」ための教育 ぎみゆら 04/9/2(木) 16:33 ┗Re(1)わたしの理解する人権教育とは 流水 04/8/27(金) 16:28 ┗Re(1):Re(1)わたしの理解する人権教育とは 宮崎故郷人 04/8/27(金) 17:48 ┗Re(2):Re(1)わたしの理解する人権教育とは 流水 04/8/27(金) 18:25 ┗Re(3):Re(1)わたしの理解する人権教育とは 宮崎故郷人 04/8/27(金) 18:31 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 人権を考える・生来の権利の話題から ■名前 : 桃李 <touri1968@aol.com> ■日付 : 04/8/24(火) 23:34 -------------------------------------------------------------------------
教育基本法の話題から派生してひとつの話になりそうなので べつのスレッドを立てさせていただきました。 勉強になればと思います。どなたか詳しい方がありましたら宜しくお願いします。 「子どもの人権」や人の生来の権利を考えようとすると、どうしても その概念が生まれた歴史に思い及びます。 私が見つけたホームページにこのようなことが記されていました。 http://www.6410.jp/bbs/c-board.cgi?cmd=psn;id=sougou 以下引用します。 *人権とは(日本では基本的人権) *人類が生まれながらにして持っている権利=国家権力ですら介入できない権利=自*然権で、日本国憲法も定めている諸々の「自由権」がある。また人が人間らしく生*きるための教育権や団結や交渉・争議などの社会的権利として「生存権」がある。*民主主義の発展にともなう「参政権」がある。さらには「幸福追求権」がある。ま*た今まで述べた権利を守らない悪政に抵抗し、正していく「抵抗権」がある。基本*的人権が守られているか検討する司法権もある。 また、広辞苑を引けば、「人間が人間として生まれながらに持っている権利。実定法上の権利のように自由に剥奪または制限されない。」とあります。これが日本では基本的人権と呼ばれますが、「子どもの人権」はこれに子どもの特徴を鑑みて、不足をたしたものを作ったのだと理解します。 |
Gokai Sezutomoさまからご指摘いただきました。 間違えていました。 良く確認しなくてごめんなさい。 誤 私が見つけたホームページにこのようなことが記されていました。 http://www.6410.jp/bbs/c-board.cgi?cmd=psn;id=sougou 正しくは「守ろう基本的人権の歴史」http://asahisakura.hp.infoseek.co.jp/kihontekijinken.htm でした。ご迷惑おかけしてお詫びします。 |
▼桃李さん(18416): こんばんは、Rayです。 旧スレッド「教育基本法改正問題・2」で話題になっていた 子どもの権利条約(と子どもの人権)についてですが、 私は桃李さんのお考えに全面的に賛成です。 もちろん、子どもに対して社会的なルールを教えるなどの しつけは必要ですけれど、そのことと 「子どもには人権はない(=親・大人であれば 子どもに対しては何をしてもいい)」 ということはまったく別の問題だと思うからです。 佐世保の事件のように、 子どもが加害者・被害者である事件が起きたときに 「子どもが何を考えているのかわからない」 とパニック(?)になる大人が報道されますが、 「なぜ子どもが考えていることが そんなに簡単にわかると思うのだろう?」 と思ってしまいます。 大人どうしがお互いの考えていることを言動から推測しても なかなかわからないのに(わかるためにはものすごく注意深く観察したり 話し合ったりすることが必要でしょう)、子どもの考えていることは さほど努力しなくてもわかると思ってしまうのは、 自分もかつては子どもだったという事実に対する過信だと思います。 大人が子どもだったころと今の社会は大きく違ってきていますし、 そうでなかったとしても、 子どもであればみな同じことを考えているだろうと思ってしまえるのは やはり子どもをひとりの人間(他者)として 認めていないからなのでしょう。 とりとめがなくなってきてしまってすみませんがこの辺で。 |
▼Rayさん:こんにちは <17261>の敦煌さんの言葉、 「ガキにも人権が・・・」などと言い出したころからこの国はおかしくなってきています。 「この意味を冷静に読むと、子供への人権感覚が人々を不幸にしていませんか?」ということなのでしょう。 人権という概念(子供の人権)はそもそも人々を幸福に導くためのものの筈ですね。ところが実際は、現実は人々を不幸にしているのではないかと疑っているのです。 本当に貴方が考えている子供の人権が、子供および周囲の人々を幸福にしてきたのでしょうか?自信がおありですか。 >旧スレッド「教育基本法改正問題・2」で話題になっていた >子どもの権利条約(と子どもの人権)についてですが、 >私は桃李さんのお考えに全面的に賛成です。 > >もちろん、子どもに対して社会的なルールを教えるなどの >しつけは必要ですけれど、そのことと >「子どもには人権はない(=親・大人であれば >子どもに対しては何をしてもいい)」 >ということはまったく別の問題だと思うからです。 > >佐世保の事件のように、 >子どもが加害者・被害者である事件が起きたときに >「子どもが何を考えているのかわからない」 >とパニック(?)になる大人が報道されますが、 >「なぜ子どもが考えていることが >そんなに簡単にわかると思うのだろう?」 >と思ってしまいます。 > >大人どうしがお互いの考えていることを言動から推測しても >なかなかわからないのに(わかるためにはものすごく注意深く観察したり >話し合ったりすることが必要でしょう)、子どもの考えていることは >さほど努力しなくてもわかると思ってしまうのは、 >自分もかつては子どもだったという事実に対する過信だと思います。 > >大人が子どもだったころと今の社会は大きく違ってきていますし、 >そうでなかったとしても、 >子どもであればみな同じことを考えているだろうと思ってしまえるのは >やはり子どもをひとりの人間(他者)として >認めていないからなのでしょう。 > >とりとめがなくなってきてしまってすみませんがこの辺で。 |
桃李さん:人権について、ご紹介されたHP拝見しました。 この問題については、みなさんお考えがおありでしょう。この国の将来がかかっていますので、是非多数のご意見をお寄せいただきたいと思います。 先日、私の住む地域で同和問題を中心にした人権教育の集会がありました。参加者がそれぞれ意見を述べあった訳ですが、きれいごとが語られただけのような感じがしました。 その中で目立ったのが、「寝た子を起こすな」という意見でした。せっかく、皆が忘れかけているんだから、このような集会で思い出させるなという主張です。主催者側は、いまでも差別があると実例をあげて説明してましたが説得力があったとは思えませんでした。 人権というと、なにか弱者の抗議がつきまとうようなイメージが先行しております。どちらかと言えば、避けて通りたいというのが一般的です。 素直なよい子、素直な良い国民には、人権なんか関係ないんだと言えば言い過ぎでしょうか? 為政者にとって、人権を主張せず、素直に黙って従う国民ほど扱いやすいものはありません。そして、そのつけは私たちとその子にまわってきます。 |
宮崎故郷人さん:はじめまして ご返事いただき、ありがとうございます。新スレッドが開かれましたので、こちらにあなたのご意見【18373】に対する私の考えを述べさせていただきます。 敦煌さんは「子供に人権はない」と言われておりますが、あなたも同意見と言われておりますので、それを前提にさせていただきます。 また、児童の権利に関する条約に言及されてますので私もその条約を読んでみました。 http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/zenbun.html でも、この条約のどこにも子供(条約上は児童という言葉が使われておりますが) に人権はないという規定はみあたりません。あえて言えば、子供に人権を認めたうえで、身体的精神的に未熟であるため、特別な保護が必要であると規定したものではないでしょうか。 法律や条約に疎いので間違っているかも知れませんが如何でしょうか。 また、権利は責任を果たすことと裏表の関係といわれてますが、責任能力のない方にも人権はあると思いますが如何でしょうか。 |
▼王里さん: >宮崎故郷人さん:はじめまして > >ご返事いただき、ありがとうございます。新スレッドが開かれましたので、こちらにあなたのご意見【18373】に対する私の考えを述べさせていただきます。 >敦煌さんは「子供に人権はない」と言われておりますが、あなたも同意見と言われておりますので、それを前提にさせていただきます。 >また、児童の権利に関する条約に言及されてますので私もその条約を読んでみました。 >http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/zenbun.html > >でも、この条約のどこにも子供(条約上は児童という言葉が使われておりますが) >に人権はないという規定はみあたりません。あえて言えば、子供に人権を認めたうえで、身体的精神的に未熟であるため、特別な保護が必要であると規定したものではないでしょうか。 >法律や条約に疎いので間違っているかも知れませんが如何でしょうか。 >また、権利は責任を果たすことと裏表の関係といわれてますが、責任能力のない方にも人権はあると思いますが如何でしょうか。 レスありがとうございました。 前にも述べましたが、私は、どうしても子どもに「権利」をつけたいのであれば、「保護・養育される人権・権利」とすべきだと考えております。 子どもに人権を認めるには大人とちがって留保条件がいっぱいつくはずです。 王里さんのおっしゃる 「あえて言えば、子供に人権を認めたうえで、身体的精神的に未熟であるため、特別な保護が必要であると規定したもの」 ということについては、順序を変えることを許していただけるならば同じ意見だといって差し支えありません。 (順序というのは、「子どもに人権を認めた上で」というよりは「特別な保護、留保条件のうえで子どもに人権を認める」というようなことです。一人歩きするような「子どもの人権」を認めてはならないというのが私の考えです) 第5条にこうあります。 「締約国は、児童がこの条約において認められる権利を行使するに当たり、父母若しくは場合により地方の慣習により定められている大家族若しくは共同体の構成員、法定保護者又は児童について法的に責任を有する他の者がその児童の発達しつつある能力に適合する方法で適当な指示及び指導を与える責任、権利及び義務を尊重する。」 児童の保護者は児童(子ども)の権利行使に対して、「責任、権利および義務」が認められております。子どもに対して「十年早い!」というのは保護者の立派な責任、権利・義務です。 責任能力のない方でも命・人格を尊ばれるのは当然のことですが、責任を果たせない方が自己主張・自己の権利の存在を声高に言うのはいかがなものか?と私は考えております。 |
宮崎故郷人さん、お久しぶりです。 横から失礼して、いちおうここにレスしますが、この話題について、 宮崎故郷人さんがこれまでにお書きになった一連の内容への、 私なりの感想として、受け取っていただければと思います。 * まず、全般的なご主張として、何ごとにも両面がある。権利と義務、 ないしは主張と責任。子供については、新しく生きている者としての 尊厳と、現在養育されている存在であること。その両方を見ずに、 一方的に権利だけを主張するような考え方は認めがたい、ということ ではないかと理解しました。 この理解が間違っていなければ、これには私も、基本的に同意します。 何と言いますか、至極当たり前のことだと思います。 ただ、そのうえで、二点、気になったところがあります。 * 第一に、子供の権利、主張について、「自己主張」「我が儘」と、 狭く理解されてはいないかという心配があります。 オモチャを買えとねだる。お手伝いなんかイヤだとごねる。食べ物を 汚く食い散らかして残す。子供のそういう類の言動は、いちいち言う までもなく、「自己主張」とも呼べない、いわゆる「我が儘」です。 親御さんによって、考え方、やり方はさまざまでしょうけれど、 それぞれに、きちんと対処されているものと信じます。 しかし一方で、たとえば「裸の王様」のお話のように、子供が思い がけないことを、言ったりやったりして、大人を驚かせるという ことが、いつの世にもあります。子供なりの、独自の直感や感受性、 正義感、邪心のない勇気のようなものが、不定形、未成熟では あっても、あるのではないかと思います。 これはこれで、子供の言うことやることだからと言って、いたずらに 軽んじたり圧殺したりされるべきではない、大事なものだと思うのです。 大人の側から見れば、月並みな日常を破るという、貴重な意味があり ます。大人の馴れ合いやゴマカシを逃さずに突いてくる、子供の視線、 鋭い直感のようなものがあります。それを、子供が何を生意気なと、 封じ込めるばかりではなく、大人たちどうしの「澱んだ常識」を、 振り返るチャンスと捉えることも、できるのではないでしょうか。 子供の側から言えば、私もいくつか覚えがありますが、自分の言動が、 大人をそれなりに揺さぶったという経験が、必ずしも褒められたりは しなくても、自我の成長にとって、何か、一種の大切な刺激というか、 支えや励みになるところが、あるような気がします。逆に、大人の力で ウヤムヤにされたという無念さが、長く胸に残ることもあります。 大酒を呑んで母親を殴る父親に、幼い子供が「お母さんをぶつな」と 立ちはだかる。そんなことだって、なかにはあるでしょう。これは もちろん、極端な例ですが、日常のなかでも、そのようなことの ミニチュアが、少なからず、あるのではないでしょうか。 そういった、子供だからこその「ユニークな言動」「曇りのない目」 「打算によらない勇気」等々を、子供の言うことやることだからと、 いたずらに封じるばかりには、しないほうがいい。そういうことが、 大人が持っていたい大切な構えとして、ひとつ、あると思うのです。 デリケートなところでもあるとは思いますが、この辺のところは、 大人の側の、いわば広量によって、できるだけきちんと、掬い上げて いったほうがよいことなのではないかと感じます。 * 第二に、宮崎故郷人さんは、「感謝」が先で「主張」は後と言います。 私はこれは、考え方としては、「同時」ではないかと考えます。 家庭教育の順番として、まず感謝を教えたい、そこを一番に考えたい というのであれば、それはそれで、一つの方法論であり、ある種の 哲学でもあるでしょう。 たぶん、宮崎故郷人さんは、そう言いながら、実際には、子供の プライドへの配慮や、持ち味の成長をじっと待つようなところは、 ご自身の子育てのなかで、ちゃんと担保している自信がおありなの ではないかなと感じます。これは、敦煌さんについても同じです。 ですから、宮崎故郷人さんや敦煌さんが、私は子供をこう育てた。 子供はちゃんと育っている。そうおっしゃるのであれば、それは、 文句なくご立派なことだと思います。 しかし、これを一般化して、感謝の気持ちを知らない者には、権利も 主張も認めないと、そこに厳格にこだわりすぎると、上に挙げた、 子供の直感や正義感のようなものまで、芽を摘んでしまいはしないか。 杞憂かもしれませんが、そこいら辺が、少し気になりました。 * 総じて言えば、「子供の権利」という言葉や理念が、子供の単なる 我が儘や、親の放任、無責任の、隠れ蓑や言い訳の道具にされて いるようなところがあるとすれば、私もそのような事態には、 共感も、理解も、賛同も、したくありません。 しかし、子供には、子供だけが持っている独自なもの、直感や気づき、 大人の「常識」にまみれていない、感受性や着眼、直感や正義感、 勇気や凛々しさなどが、それはそれで、たしかにあるようです。 そういった「ユニークなもの」「若々しい芽」「恐れずに立ち向かう 気持ち」を、いたずらに潰さずに、それ相応に、できるだけ掬い上げて いくためのアプローチとして、「子供の権利」ということが唱われるの であれば、それは、とても大切な視点と価値を持つ考え方なのではない かと、私は思います。 言い方を変えますと、子供というものを、単に「未完成な大人」と見る のではなく、それと同時に、「大人とは別種の生き物」であるという ところに着目し、その独自性と価値を認め、その独特の力が、できる だけ、自ら伸びていくように、大人たちが、気長に根気よく接していく。 そのような大人の構えが、その子供たちなりの、まだ見ぬ未来を信じて、 子供たちに未来を託す、ということにも、通じるのではないでしょうか。 |
▼ぎみゆらさん: ゆきとどいたレス、ありがとうございます。 ぎみゆらさんの投稿の多くは、人の心のひだに分け入って、また議論のひだに隠れてなかなか気がつきにくいところをさぐりあてて語られており、それは「腑分け」とでもいう作業に似て、いつも教えられます。 私の投稿に対しても同じように丁寧な作業をしていただき感謝致します。 以下逐条的なご返事になりますが、ご了解ください。 >まず、全般的なご主張として、何ごとにも両面がある。権利と義務、 >ないしは主張と責任。子供については、新しく生きている者としての >尊厳と、現在養育されている存在であること。その両方を見ずに、 >一方的に権利だけを主張するような考え方は認めがたい、ということ >ではないかと理解しました。 >この理解が間違っていなければ、これには私も、基本的に同意します。 >何と言いますか、至極当たり前のことだと思います。 ぎみゆらさんのご理解で結構です。 ただ、ちょっと私なりに敷衍させてもらえれば、私は子どもに関して「子どもの権利」という表現をするのは、世の親、大人を惑わせる危険を持っていると考えております。子どもに関しては「権利」という言葉は「保護・養育される権利」に限定するならいざ知らず、それ以外に広げる必要を認めません。 子どもが大事にされなければならない(保護・養育されなければならない)のは古今東西当然のことです。 戦争、内戦、貧困、虐待などで子どもの幸せが破られていることに対して国際社会が共同した行動をとる、または国内において警察の力をつかって虐待親を逮捕矯正する、孤児を社会として責任もって育てるということなどは「権利」という言葉を使わずとも当然しなければならないことで異をはさむ余地はありません。 私の言わむとするのは、平常における子育てにおいて「子どもの権利」なるものを設定するのに反対だということです。 一般に「権利」は「天賦不可侵」と教わります。それゆえ、これは戦後世代にとっては水戸黄門の印籠にも似て、ふりかざされると思わずひれ伏してしまう効果をもつ言葉になっています。そんな社会にあって「子どもの権利」という言葉が一人歩きすると、おっしゃるところの「子どもの我が儘」を「子どもの権利」と勘違いして、子どもにしっかり対峙できなかったり過保護になったりして子どもをスポイルする親が多くなるのは自然です。 >ただ、そのうえで、二点、気になったところがあります。 > > * > >第一に、子供の権利、主張について、「自己主張」「我が儘」と狭く理解されてはいないかという心配があります。 > >オモチャを買えとねだる。お手伝いなんかイヤだとごねる。食べ物を汚く食い散らかして残す。子供のそういう類の言動は、いちいち言うまでもなく、「自己主張」とも呼べない、いわゆる「我が儘」です。 >親御さんによって、考え方、やり方はさまざまでしょうけれど、それぞれに、きちんと対処されているものと信じます。 以上につきましては前述したところで推測してもらえると思いますが、きちんと対処できていない親、教師が増えていると私はみています。 ピアスのしほうだい、ズボンの腰履き、ブラウス・シャツの異様なはだけ方(子どもの表現の自由なのでしょうか?)公共の場における傍若無人なふるまい、こういうものは昔は自覚して「不良」をいきがる子どもに見られた現象ですが、いまはその域をこえた現象となっております。我が子を制御できない親が多いと思います。 話は変わりますが、以下のぎみゆらさんの考えには同意しますとともに、かかる感性をもっていらっしゃることに敬服いたします。(大酒のみの父親が母親をなぐるのに対して子が立ちはだかるというところは家族という問題を単純化されすぎていますので気にかかりますが)。 >しかし一方で、たとえば「裸の王様」のお話のように、子供が思いがけないことを、言ったりやったりして、大人を驚かせるということが、いつの世にもあります。子供なりの、独自の直感や感受性、正義感、邪心のない勇気のようなものが、不定形、未成熟では >あっても、あるのではないかと思います。 >これはこれで、子供の言うことやることだからと言って、いたずらに軽んじたり圧殺したりされるべきではない、大事なものだと思うのです。 >大人の側から見れば、月並みな日常を破るという、貴重な意味があります。大人の馴れ合いやゴマカシを逃さずに突いてくる、子供の視線、鋭い直感のようなものがあります。それを、子供が何を生意気なと封じ込めるばかりではなく、大人たちどうしの「澱んだ常識」を振り返るチャンスと捉えることも、できるのではないでしょうか。 > >子供の側から言えば、私もいくつか覚えがありますが、自分の言動が大人をそれなりに揺さぶったという経験が、必ずしも褒められたりはしなくても、自我の成長にとって、何か、一種の大切な刺激というか、支えや励みになるところが、あるような気がします。逆に、大人の力でウヤムヤにされたという無念さが、長く胸に残ることもあります。 > >大酒を呑んで母親を殴る父親に、幼い子供が「お母さんをぶつな」と立ちはだかる。そんなことだって、なかにはあるでしょう。これはもちろん、極端な例ですが、日常のなかでも、そのようなことのミニチュアが、少なからず、あるのではないでしょうか。 > >そういった、子供だからこその「ユニークな言動」「曇りのない目」「打算によらない勇気」等々を、子供の言うことやることだからと、いたずらに封じるばかりには、しないほうがいい。そういうことが、大人が持っていたい大切な構えとして、ひとつ、あると思うのです。 > >デリケートなところでもあるとは思いますが、この辺のところは、大人の側の、いわば広量によって、できるだけきちんと、掬い上げていったほうがよいことなのではないかと感じます。 次の点は、ゆっくり考えさせていただきたいと思います。ご指摘ありがとうございました。 >第二に、宮崎故郷人さんは、「感謝」が先で「主張」は後と言います。 >私はこれは、考え方としては、「同時」ではないかと考えます。 >感謝の気持ちを知らない者には、権利も主張も認めないと、そこに厳格にこだわりすぎると、上に挙げた子供の直感や正義感のようなものまで、芽を摘んでしまいはしないか。 >杞憂かもしれませんが、そこいら辺が、少し気になりました。 |
宮崎故郷人さん、こんにちは。 こちらこそ、書き込みを丁寧に読んでいただき、お礼を申し上げます。 それぞれの考えと気持ちが、あるところでは行き違いながら、 それなりに通じもしたように実感できて、うれしい体験でした。 数年前に、ある大学病院の、幹部クラスの看護師Hさんから聞いた、 こんな話を思い出しました。Hさんはその頃、院内の各部署の、 若手看護師たちの教育研修全般を、統括する立場でした。 ある病棟で、就職して二年目の看護師Yさんが、先輩看護師たちから 煙たがられて、その職場の看護師チームから、ちょっと浮き上がった 状態になっているというのです。 Yさんには、元ヤンキーというか、中高生時代にツッパって過ごして いた時期があるのですが、高卒後、看護学校をそれなりの成績で卒業し、 いまの大学病院に就職してきました。 元ヤンだからというのでもないのですが、どこかかわいくないというか、 先輩たちに、逆らいはしないけれど、何か素直じゃないようなところが、 あるらしいのです。女性の専門職集団は、そういうところには敏感です。 Yさんは、知識も技術も優れた看護師ではありません。動作はどちらか といえば雑だし、患者さんへの態度も、無愛想に近いくらい素っ気ない。 けれどもある時期に、先輩たちを驚かせる出来事が起こりました。 少々難しい病状で、医師や看護師に心を閉ざす患者さんが、どこの 病棟にもよくいます。そのころ先輩たちが手を焼いていた、拒否的な 患者さん数人と、Yさんがいつの間にか、言葉を交わし始めたのです。 ある程度経験を積んだ看護師には、知らず知らずのうちに、患者さんを コントロールしようという意識が生まれます。とくに、相手が看護師に 対して交流を拒んでいる患者さんとなれば、なおさらです。 よく言えばファイトを燃やすのですが、どこかで、困った人だ、私が 何とかしてやろうと思います。でも、何らかの理由で拒否的な心情に なっている患者さんは、まさにそんな気持ちが鬱陶しかったりします。 Yさんには、それがなかった。腫れ物扱いも、下手に出ることもない。 淡々と体温を測り、汗を拭き、ベッドを直す。でもたぶん、どこかで 患者さんに気持ちが向いている。働きかけずに黙って気づかっている。 先輩たちは面目丸つぶれなわけですが、そこはプロの意地があるので、 Yさんにあって私たちに欠けているのは何かと、考え始める。Yさんも、 先輩たちの目が少し変わってきたことを、どこかで意識している。 ドラマのように急に仲よくなるわけでもなく、今は緩やかな緊張状態が 続いている。それがこれからどう転んでいくのか、私は手を出さずに、 楽しみに見ているんです。教育担当幹部のHさんは、そう言います。 人と人が虚心に向き合うということには、すごい力があるんだなあと 思います。大人と子供のかかわりでも、とくに大事な場面では、 どこか同じようなところが、あるのではないかと感じるのです。 とりとめがありませんが、なんだか、そんなことに思いが巡りました。 |
▼ぎみゆらさん: >宮崎故郷人さん、こんにちは。 > > >こちらこそ、書き込みを丁寧に読んでいただき、お礼を申し上げます。 >それぞれの考えと気持ちが、あるところでは行き違いながら、 >それなりに通じもしたように実感できて、うれしい体験でした。 > >数年前に、ある大学病院の、幹部クラスの看護師Hさんから聞いた、 >こんな話を思い出しました。Hさんはその頃、院内の各部署の、 >若手看護師たちの教育研修全般を、統括する立場でした。 > >ある病棟で、就職して二年目の看護師Yさんが、先輩看護師たちから >煙たがられて、その職場の看護師チームから、ちょっと浮き上がった >状態になっているというのです。 > >Yさんには、元ヤンキーというか、中高生時代にツッパって過ごして >いた時期があるのですが、高卒後、看護学校をそれなりの成績で卒業し、 >いまの大学病院に就職してきました。 > >元ヤンだからというのでもないのですが、どこかかわいくないというか、 >先輩たちに、逆らいはしないけれど、何か素直じゃないようなところが、 >あるらしいのです。女性の専門職集団は、そういうところには敏感です。 > >Yさんは、知識も技術も優れた看護師ではありません。動作はどちらか >といえば雑だし、患者さんへの態度も、無愛想に近いくらい素っ気ない。 >けれどもある時期に、先輩たちを驚かせる出来事が起こりました。 > >少々難しい病状で、医師や看護師に心を閉ざす患者さんが、どこの >病棟にもよくいます。そのころ先輩たちが手を焼いていた、拒否的な >患者さん数人と、Yさんがいつの間にか、言葉を交わし始めたのです。 > >ある程度経験を積んだ看護師には、知らず知らずのうちに、患者さんを >コントロールしようという意識が生まれます。とくに、相手が看護師に >対して交流を拒んでいる患者さんとなれば、なおさらです。 > >よく言えばファイトを燃やすのですが、どこかで、困った人だ、私が >何とかしてやろうと思います。でも、何らかの理由で拒否的な心情に >なっている患者さんは、まさにそんな気持ちが鬱陶しかったりします。 > >Yさんには、それがなかった。腫れ物扱いも、下手に出ることもない。 >淡々と体温を測り、汗を拭き、ベッドを直す。でもたぶん、どこかで >患者さんに気持ちが向いている。働きかけずに黙って気づかっている。 > >先輩たちは面目丸つぶれなわけですが、そこはプロの意地があるので、 >Yさんにあって私たちに欠けているのは何かと、考え始める。Yさんも、 >先輩たちの目が少し変わってきたことを、どこかで意識している。 > >ドラマのように急に仲よくなるわけでもなく、今は緩やかな緊張状態が >続いている。それがこれからどう転んでいくのか、私は手を出さずに、 >楽しみに見ているんです。教育担当幹部のHさんは、そう言います。 > >人と人が虚心に向き合うということには、すごい力があるんだなあと >思います。大人と子供のかかわりでも、とくに大事な場面では、 >どこか同じようなところが、あるのではないかと感じるのです。 > >とりとめがありませんが、なんだか、そんなことに思いが巡りました。 良い話をありがとうございました。 話題がつながるかどうか心もとないですが、元ヤンキーの人たちに限らず「とっつきにくいタイプ」の人との出会いは、そうあることでないにしても、誰でも体験しがちなことですよね。私は、とっつきにくいタイプの人とのつきあいの要諦は「不即不離(つかずはなれず)」ということだと思っています。 腫れ物にさわるような接し方、媚びるような接し方、心を開かせてやろうと迫る接し方などいろいろありますが、いずれも相手を遠ざけるだけだと思います。 心のふれあいが持てる機会が訪れない限り、「即かず離れず」状態を保っていけば、相手も必ず心の接点を求めてくるというのが、今ままでの私の体験です。 職場でも住んでいる地域でも、子どもを通して新しく形成される大人つきあいでもどこでも、そういうことが言えると思っております。 もっとも私は酒が好きなものですから、早い段階から酒の席に招いて無遠慮に「心を開かせてやろうと迫る」おこがましさを持っており、それがときに失敗もし、うまく関係を結べることもあるわけですが。いずれにせよ、人は一人ではいられない存在です。必ず人を求めます。 そのかかわりのなかでときには自ら心を病む人もいれば、人を傷つけて自覚のないままの人もいたりしますが、多くは仲間を作って居心地のよい精神世界を形づくるのだと思っております。 私がいうまでもなく、このようなことは大昔から人間が営々ときずきあげてきた人間関係であって、私どもの遺伝子に刷り込まれているものだと思います。そういう大昔から存在しつづける平常の人間関係において「権利」という近代の言葉ほど邪魔になるものはないと思っています。 私は、子育てにおいても「子どもの権利」を云々するよりは、今の若者に「親になる」勉強を課すほうが大事ではないかと思うようになっております。地域の教育力が衰え、核家族の進行で世代間の子育て技量の伝承がかけてしまったいま、「親になる」訓練は社会全体で受け持つという発想で、中学高校時代から「家族論」「家庭論」のようなことを教え、結婚して妻が妊娠した段階から夫婦ともに社会学習として「親になるための勉強」を課すべきではないかと思っています。 そうでもしないと今の若者の半分くらいは親になりきれないで中途半端な大人を再生産するだけではないかと・・・・。 やっぱりうまく話を展開できませんでした。 |
宮崎故郷人さん、こんにちは。 不即不離とは、よいお言葉をいただきました。ここしばらく 気迷いを続けていたことに、一つヒントを頂戴しました。 私は子供がいない身ですので、「親になる」教育と言われると、 少々身勝手に心理的な抵抗感を感じてしまうのですが、(笑) 「先輩になる心構え」「先達になる気概」、そのような意味で 「大人になる」教育と、もう少し一般化してもよければ、 うなずける考え方だと思います。 しばらく前に、実家で七十四になる母と世間話をしていたところ、 庭のほうで何やらゴソゴソと人の気配がします。母が掃き出し窓を 開けて様子を見ると、小学校に上がるかどうかという年回りの 子供が植え込みのカゲに。「こらー! ひとんちの庭に勝手に 入っちゃダメだよー!」という母の叱声に、走り出していきました。 卓袱台に戻った母、ふうと軽くため息をつきながら、「このごろは この辺でも、外で遊んでる子供なんてあんまり見かけないからねー。 ほんとはかわいいんだけどさ。でも叱るのも大人の仕事だから」と、 ちょっと寂しそうな、少しうれしそうな表情。たとえばそんなとき、 昭和ヒトケタにはまだまだかなわないなーと、思ってしまいます。 ただ、その辺のことは、学校教育にはあまり馴染まないようにも 感じます。受け取る側が心から大事に思わなければ、意味があり ませんので。昔から言われてきたことですが、親の仕種を見たり、 職場や地域、学校ならクラブなど集団活動のなかで尊敬する先輩の 言動に学んだり、やはり、そんな形で身につけてほしいところです。 現実としては、しばらく前に「親業」という言葉がはやったことが ありますが、親の子育てや、高齢者の孫育てをターゲットにした、 民間ベースの、教育的な要素を含む子育てサポートが、すでに種々 試行されています。ちょっと複雑な心境にさせられる風潮でもあり、 そういった動きが、今後おそらく盛んになるだろうとも感じます。 スレッド本来の話題からだいぶ外れてきましたので、私からは、 これくらいにしようと思います。どうもありがとうございました。 |
★国連事務総長の演説(1965年からの人権教育の10年が決定されたとき) 「人権教育とは、知識とスキルを分かち与え、態度をはぐくむことを通して、人権の文化を世界中に築き上げることを目的とする教育・訓練・情報提供の取り組みである」 学校教育の分野で言えば、【知識とスキルを分かち与え、態度をはぐくむ】という部分がきわめて重要です。 日本では、人権教育といえば、ともすれば理屈が優先されがちです。中には【人権】という言葉自体にアレルギー反応を起こす人もいて、国連が提唱した本当の意味が理解されていないのが現状です。 もう少し、具体的に語りますと、人権教育には4つの側面があります。 1、人権のための教育⇒人権を守り育てる社会・個人を育てる教育 2、人権としての教育⇒全ての人が教育を受ける権利がある 3、人権を通じての教育⇒教育は学習過程そのものが人権を守られた状況で展開されるべきである 4、人権についての教育⇒人権について教える教育・狭義の人権教育 ここでの論議もそうですが、日本での論議の問題点は、どうしても4の問題に偏りがちなところにあります。 そうではなくて、人権教育を1と3の視点で、もう一度考え直すと、様々な問題解決に如何に【人権】という視点が重要なのかがわかります。 1・3の視点で考えますと、例えば「いじめ」の問題について新たな発想が生まれてきます。 「いじめ」を生み出す社会的傾向とは何か、それに影響を受けた個人の傾向とは何か、を考えるところから、いじめを許さない環境とは何かの視点が生み出されます。 同時に、「いじめ」から抜け出したり、いじめを生み出せないための具体的な【スキル】つまり具体的な行動につながる技術・技能をどのように育てるか。また、人とのコミュニケーションをどのようにとったらよいか、などきわめて具体的な方法論が考えられます。 つまり、人権教育とはきわめて具体的で日常的な営みなのです。現役時代、わたしが心していたのは、どのようにして人権教育に具体性を持たし、何の変哲もない日常の当たり前の営みとして定着させるか、ということでした。 ごくごく当たり前のことですが、子供たちが学校が大好きになり、毎日安心して学校に通ってくるかを、どのように実現するかだけを考えていました。 最後に、子供たちの人権を大切に考えるということは、必然的にその人の【子供観】にかかわってきます。子供観は大別すると2つあると思います。 ★子供は未熟であり、教化・保護すべき対象である⇒ヘーゲルなどはそう考えています。日本のこれまでの教育論は、おおむねこの子供観で形作られてきています。 この考え方からは、大人が未熟な子供たちに【教え込む】という教育方法が取られることになります。 ★子供は子供なりに完結しており、その表現方法が未熟なだけである。⇒【人権教育】という視点は、この考え方に連なります。 この考え方から、子供たちを育てる方向性は、如何にして他人に理解できる【表現方法】を磨くか、ということになります。 教師や大人の存在は、子供たちの【支援者】ないし【ファシリテーター(命を引き出す人)】ということになります。 この子供観の対立が、教育論議のあらゆる場面で見られるのです。 人権教育とは、その対立の大きな要因に一つなのだと思います。 |
▼流水さん: >最後に、子供たちの人権を大切に考えるということは、必然的にその人の【子供観】にかかわってきます。子供観は大別すると2つあると思います。 > >★子供は未熟であり、教化・保護すべき対象である⇒ヘーゲルなどはそう考えています。日本のこれまでの教育論は、おおむねこの子供観で形作られてきています。 >この考え方からは、大人が未熟な子供たちに【教え込む】という教育方法が取られることになります。 > >★子供は子供なりに完結しており、その表現方法が未熟なだけである。⇒【人権教育】という視点は、この考え方に連なります。 >この考え方から、子供たちを育てる方向性は、如何にして他人に理解できる【表現方法】を磨くか、ということになります。 >教師や大人の存在は、子供たちの【支援者】ないし【ファシリテーター(命を引き出す人)】ということになります。 > >この子供観の対立が、教育論議のあらゆる場面で見られるのです。 >人権教育とは、その対立の大きな要因に一つなのだと思います。 流水さん、久方ぶりにレスさせていただきます。 以上の文章を読んで、モンテッソーリだったと思いますが、近代における「子どもの発見」という言葉を思い出しました。 私は近代における「子どもの発見」(子どもは幼児においてすでに自ら学ぼうとする力を持っているということを臨床的に証明だてたというようなことだったと思いますが)というのは、子どもの養育上・教育上重要な「発見」だったと思いますが、この考え方と 流水さんが上でおっしゃっている二つ目の★の立場(★子供は子供なりに完結しており、その表現方法が未熟なだけである。⇒【人権教育】という視点は、この考え方に連なります。)とは同じなのでしょうか? もしそうだとすれば(違うのであればまた別の論を立てることになりますが)、 それと一つ目の★の立場(★子供は未熟であり、教化・保護すべき対象である⇒ヘーゲルなどはそう考えています。)とを対立させるのはどうかな?と思います。 両方は相補うというか、モンテッソーリの教育法を従来の教育方法に付加されると考えるべきものではないでしょうか。 モンテッソーリはそれまでの教育方法をすべて否定したはずではないと思いますが。 時には【教え込む】ことも必要、時にはじっと我慢して子どもを支援するのも必要、それで良いのではないかと思うのですが。 二項対立的考え方は論理分析のうえでは大変役に立つことが多いとしても、現実の世界では生産的でないと私は思っております(これは余計なことばだったかもしれません) |
▼宮崎故郷人さん: >▼流水さん: > >両方は相補うというか、モンテッソーリの教育法を従来の教育方法に付加されると考えるべきものではないでしょうか。 >モンテッソーリはそれまでの教育方法をすべて否定したはずではないと思いますが。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ この考え方は、多くの教育学者も唱えていますので、モンテッソーリだけを念頭において書いたものではありません。 わたしも他の教育方法を否定しているつもりはないのですよ。ただ、原理的なものをきちんと押さえておかなければ、論議が錯綜すると思っているのです。 > ●二項対立的考え方は論理分析のうえでは大変役に立つことが多いとしても、現実の世界では生産的でないと私は思っております(これは余計なことばだったかもしれません) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ わたしは、現場では物凄い現実主義者でした。現実を解析できないどのような教育理論も信じませんでした。ただ、どのような方法論を取るにせよ、その方法論を生み出した理念を理解しなければ決して採用しませんでした。つまり、あらゆる方法論は、その背後にある理念実現のために考え出されたものだからです。ある方法論が最も効果があるのは、不法論の背後にある理念実現を目標としたときなのです。 これで、わたしが二項対立型思考など無縁であることが理解していただけると思います。 二項対立型思考を |
▼流水さん: >▼宮崎故郷人さん: >>▼流水さん: >> >>両方は相補うというか、モンテッソーリの教育法を従来の教育方法に付加されると考えるべきものではないでしょうか。 >>モンテッソーリはそれまでの教育方法をすべて否定したはずではないと思いますが。 >・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >この考え方は、多くの教育学者も唱えていますので、モンテッソーリだけを念頭において書いたものではありません。 >わたしも他の教育方法を否定しているつもりはないのですよ。ただ、原理的なものをきちんと押さえておかなければ、論議が錯綜すると思っているのです。 >> >●二項対立的考え方は論理分析のうえでは大変役に立つことが多いとしても、現実の世界では生産的でないと私は思っております(これは余計なことばだったかもしれません) >・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >わたしは、現場では物凄い現実主義者でした。現実を解析できないどのような教育理論も信じませんでした。ただ、どのような方法論を取るにせよ、その方法論を生み出した理念を理解しなければ決して採用しませんでした。つまり、あらゆる方法論は、その背後にある理念実現のために考え出されたものだからです。ある方法論が最も効果があるのは、不法論の背後にある理念実現を目標としたときなのです。 > >これで、わたしが二項対立型思考など無縁であることが理解していただけると思います。 了解いたしました。 さっそくのご返事ありがとうございました。 |