Page 139 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼教育の階層化:隠れた教育問題の本質 流水 04/2/21(土) 11:48 ┣教育の階層化 ひろあき 04/2/21(土) 15:02 ┃ ┣Re(1):教育の階層化 流水 04/2/21(土) 15:30 ┃ ┃ ┣Re(2):教育の階層化;訂正 流水 04/2/21(土) 15:34 ┃ ┃ ┗Re(2):教育の階層化 ひろあき 04/2/21(土) 16:14 ┃ ┗Re(1):教育の階層化 太郎 04/2/21(土) 17:17 ┗Re(1):教育の階層化:隠れた教育問題の本質 団塊党 04/2/21(土) 16:23 ┗Re(2):教育の階層化:隠れた教育問題の本質 流水 04/2/22(日) 9:55 ┗Re(3):教育の階層化:隠れた教育問題の本質 団塊党 04/2/22(日) 18:42 ┗Re(4):教育の階層化:隠れた教育問題の本質 流水 04/2/22(日) 20:11 ┗Re(5):教育の階層化:隠れた教育問題の本質 団塊党 04/2/22(日) 23:04 ┗Re(6):教育の階層化:隠れた教育問題の本質 流水 04/2/24(火) 11:15 ┗Re(7):教育の階層化:隠れた教育問題の本質 団塊党 04/2/24(火) 20:40 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 教育の階層化:隠れた教育問題の本質 ■名前 : 流水 ■日付 : 04/2/21(土) 11:48 -------------------------------------------------------------------------
先日、早稲田実業初等部の入学選抜面接で、一口10万円の寄付金を35口以上納めて欲しいと要求したというニュースが流れていた。小学校の35口=350万円以上の寄付金というわけである。これに、正式な入学金、授業料などを加えたら小学校卒業までの負担金は1千万円を超えると思われる。 これは氷山の一角であるが、【教育の階層分化】とは、このようなものである。公立学校を解体して、自由化しようという論調が出ているが、これも上記のような【教育の階層化】を促進するものである。 実は、先に書いた早稲田の例のようにこのような高額の教育費を負担できる階層は、限られている。ということは、そこに通学できる子供たちの【階層】は、ほぼ同一になる。 この【階層】出身の子供の多くが、日本のエリート層を占めている。 東大入学者数を見れば、開成・麻布・灘・洛星・ラサールなど一流私学出身者が上位を占めていることが一目で分かる。 東大出身者の家庭の年収が、他大学の家庭の年収をはるかに凌駕していることも周知の事実である。 つまり、日本のエスタブリッシュメントが、ほぼ構築されているのである。 彼らに自分たちと違う【階層】の人間の気持ちが分かるだろうか。明日の飯に困っている人間の気持ちが想像できるだろうか。 わたしは、教育のこの現状を日本が活力を失いつつある証左であると考えている。 環境問題を研究している人がよく言う言葉に、【雑木がない森は、死んだ森である】というのがある。 生き生きとした森の活力を取り戻すためには、様々な雑木が育っている【多様性に溢れた】森に育てることが重要である、というのが、ほぼ定説になっている。 実は、戦後教育の最大の長所は、【異なる階層の子供】が【同一の場所】で学ぶというところにあったのである。この中で、日本のエリート層も一般市民も同時に育成する理念構築を行うことが、戦後教育の中心課題になるべきだった。 わたしが、文部省の教育政策を批判するのは、彼らがエリート育成を学力のみに傾斜しすぎた発想をとったため、【異なる階層の子供】たちの同一の条件で学ぶというもっとも重要なポイントを忘れたところにある。 現在の教育改革の狙いは、この【異なる階層の子供】が【同一の場所】で学ぶという前提を壊すところにある。 中高一貫教育とか、学区制を崩すとか自由化とか、競争原理の導入とかという発想は、戦後教育の本質である【異なる階層の子供が同一の場所】で学ぶという前提を崩す。 逆に言えば、【均質な階層の子供】を効率的な教育によって、能力開発することに狙いがある。 もっと、分かりやすく言えば、戦後各地で行われた「植林」の発想と考えれば、分かりやすい。戦後、各地の山林で行われたのが、【杉】【檜】という建築用資材として高級とされた木々の植林である。 そのため、ブナとか、ナラという広葉樹が森から姿を消し、山々に保水力がなくなり、洪水が増えた。そのため、各地にダム建設が行われ、河川の姿がかわってしまった。 さらに、安い外国産木材の大量輸入により、国内産木材が競争力を失うにつれ、山は荒れ果ててしまった。 ところが、当時植林された大量の杉が生長し、今や杉花粉による【花粉症】は国民的疾病になってしまった。 現在進行中の教育改革は、この【植林】の発想である、と思う。多様性を拒否した森が死んでしまうように、「均質な階層の子供」を【効率的に教育】する発想は、この国を殺してしまう可能性がある。 わたしは、【多様性を求めた】戦後教育の原点は、変えてはならないと考えている。 この条件を最大限生かした【子供の育成法】が、日本にふさわしい新たな【指導層】を生み出す基盤になる可能性がある。 文部省とわたしの決定的な違いは、この【異なる階層の子供】を【同一の場所】で学ばせることの意味を重要と考えるか、そうでないかの違いであると思う。 |
▼流水さん: 拝読しました。 エリート階級が世襲制になりつつあるのは事実だと思います。 たしかに、同じ能力(知能、意思など)の生徒が二人いれば、年収の多いほうの家庭の子どもほうが成績が上になるのに決まっています。私立高校へ通わせて、しかも、塾へ通わせて、おまけに家庭教師までつけているという医者の子どもを知っていますが、こういうのはあまり珍しくはないそうです。もちろん、塾や家庭教師側にもそのような子をターゲットにしたところがあります。 同じ階層の子どもばかりいる環境で小学校から勉強しても、長い目でみるとその子にとってもよくないのではないかと思います。そういう環境で育ってしまうと、やはり自分と違う階層の人にはシンパシーを持てないと思います。 具体的な解決策は思い浮かばないのですが、現在の大学の入試制度(または問題)を根本的に変えることしかないのではないでしょうか? |
▼ひろあきさん: >同じ階層の子どもばかりいる環境で小学校から勉強しても、長い目でみるとその子にとってもよくないのではないかと思います。そういう環境で育ってしまうと、やはり自分と違う階層の人にはシンパシーを持てないと思います。 > >具体的な解決策は思い浮かばないのですが、現在の大学の入試制度(または問題)を根本的に変えることしかないのではないでしょうか? 根本問題はそこなのです。 義務教育の目標は、わたしたちの社会を維持発展するための、基礎的な知識・スキルなどを育成することにあると考えています。 わたしは、エリートとよばれる人間は必要だと考えています。これは、人間社会の宿命みたいなものだと思います。だとするならば、どのような人間がエリートにふさわしいか、を考える必要があります。 人間の一生をよく考えると、【異なる階層】の人間が【同一の場所】で学ぶ機会は、義務教育時代しかありません。 この機会をどう教育するかは、エリート層の感性をどう変容させるかという問題にかかわってきます。異なる階層の子供たちとの【もめごと体験】や【共同体験】や【共同作業】を通じて、エリート層の想像力が広がります。 長じて彼らが国の政策決定にかかわるときには、義務教育時代の仲間の顔が浮かぶ可能性があります。少なくとも均質な集団しか知らない人間よりは、はるかに思考の幅が広がる可能性があります。 ハンセン病の問題でも論議されていましたが、障害児(この言葉も厭な言葉ですが)との共生などの問題に対して想像力が及ぶか想像もできないかでは、政策決定が全く変わってきます。 しかも、均質化された集団(私流にいえば、植林集団)から生まれるエリート層では、結局【花粉症】を撒き散らすだけだと考えています。 わたしが、【異なる集団】を【同一の場所】で教育することにこだわるのは、効率はいくら落ちても、結局は社会を浄化することになると考えるからです。 |
> >わたしが、【異なる集団】を【同一の場所】で教育することにこだわるのは、効率はいくら落ちても、結局は社会を浄化することになると考えるからです。 【訂正】 いくら→いくらか に訂正します。 |
▼流水さん: >わたしは、エリートとよばれる人間は必要だと考えています。これは、人間社会の宿命みたいなものだと思います。だとするならば、どのような人間がエリートにふさわしいか、を考える必要があります。 ぼくは、フェアな競争を経てのエリートなら大いに結構だと思うのですが、残念ながら、今の入試というのは、経済力が学力を左右している――、そこが問題だと思います。 |
▼ひろあきさん: >エリート階級が世襲制になりつつあるのは事実だと思います。 >たしかに、同じ能力(知能、意思など)の生徒が二人いれば、年収の多いほうの家庭の子どもほうが成績が上になるのに決まっています。私立高校へ通わせて、しかも、塾へ通わせて、おまけに家庭教師までつけているという医者の子どもを知っていますが、こういうのはあまり珍しくはないそうです。もちろん、塾や家庭教師側にもそのような子をターゲットにしたところがあります。 >同じ階層の子どもばかりいる環境で小学校から勉強しても、長い目でみるとその子にとってもよくないのではないかと思います。そういう環境で育ってしまうと、やはり自分と違う階層の人にはシンパシーを持てないと思います。 > >具体的な解決策は思い浮かばないのですが、現在の大学の入試制度(または問題)を根本的に変えることしかないのではないでしょうか? 経済力は確かに有力な原因になると思います。でもそれ以上に努力すれば高収入家庭よりも 飛躍はできると思います。 大学の入試制度はこのままで問題ないと思います。センターはある程度勉強すればかなり得点率は上がるし、 2次試験もそれなりに努力すれば報われます。だたし東大と京大だけは例外にならざるをえません。 |
▼流水さん: >わたしは、【多様性を求めた】戦後教育の原点は、変えてはならないと考えている。 >この条件を最大限生かした【子供の育成法】が、日本にふさわしい新たな【指導層】を生み出す基盤になる可能性がある。 > >文部省とわたしの決定的な違いは、この【異なる階層の子供】を【同一の場所】で学ばせることの意味を重要と考えるか、そうでないかの違いであると思う。 クラスの中にいろいろな個性の子がいることで、どれだけ子供は人間について学ぶか知れません。 私のクラスには特に多くの問題を抱えた子がいます。 その子達と普段から当たり前のように自然に接していく中で、周りの子達は多くのことを学んでいます。 ただしその場合、担任一人では抱え込めない問題も多々出てきますので、それを補助していくような体制が必要です。 それには予算も必要になってくるのですが、どうも行政は財政赤字を理由に人員のカットをねらっています。 まったく逆行です。 06年度から実施予定の特別支援教育の本質は人員カットにあるようなのです。 |
▼団塊党さん: >クラスの中にいろいろな個性の子がいることで、どれだけ子供は人間について学ぶか知れません。 これは、教師経験者なら誰でも経験することです。 わたしは、【もめごと】を歓迎する教師でありたいと願っていました。【もめごと】解決を通じて、子供たちは【自己表現能力】【他者の話を聞く能力】やその対立する意見をどのような方法で解決するかを学びます。 教師自身の反省としては、「もめごと」を起こさないとか嫌うという体質(事なかれ体質)が全面に出すぎていた、と思います。 これは、教師に対する評価が【減点法】で行われているという教育界の官僚的体質が背景にあると考えています。 >私のクラスには特に多くの問題を抱えた子がいます。 >その子達と普段から当たり前のように自然に接していく中で、周りの子達は多くのことを学んでいます。 大変苦労されているのは、よく分かります。問題を抱えている子供が問題ではなくて、周りの子供の【意識変容】にあるという認識は正しいと思います。 ただ、その場合【集団】というベクトルに対する理解の仕方を間違うと、うまくいかない場合があるということだけは指摘しておきたいとおもいます。 > >ただしその場合、担任一人では抱え込めない問題も多々出てきますので、それを補助していくような体制が必要です。 学級・学年・学校という関係をどのような視点で構築するかは、その多くは校長の認識にかかっています。今の校長連中に欠けているのは、【組織論】なのです。 ※これは長くなりますので、また項を改めてやりましょう。 >それには予算も必要になってくるのですが、どうも行政は財政赤字を理由に人員のカットをねらっています。 >まったく逆行です。 >06年度から実施予定の特別支援教育の本質は人員カットにあるようなのです。 現在の教育政策の方向性は、一握りの「エリート育成」重視とそれ以外の大多数の子供は【守】をすれば良いというものだと考えています。 つまり、義務教育の【遊び場】化だと思います。 |
▼流水さん: >これは、教師経験者なら誰でも経験することです。 >わたしは、【もめごと】を歓迎する教師でありたいと願っていました。【もめごと】解決を通じて、子供たちは【自己表現能力】【他者の話を聞く能力】やその対立する意見をどのような方法で解決するかを学びます。 >教師自身の反省としては、「もめごと」を起こさないとか嫌うという体質(事なかれ体質)が全面に出すぎていた、と思います。 >これは、教師に対する評価が【減点法】で行われているという教育界の官僚的体質が背景にあると考えています。 流水さんが教師をされていたということは心強い限りです。 今後ともアドバイスを下さい。 もめごとを起こさないようにという自己防衛本能が働きやすいことは事実です。 子供同士であれ、教師と親の間であれそうですね。 これは、教師にゆとりがない、絶えず追い立てられている状況や、ミスをすると親、マスコミ、市会議員などの外部からの批判が出やすくなったことも一因でしょう。 しかし、基本は教師の哲学の問題。 もめ事を歓迎できる境地を持ちたいものです。 >大変苦労されているのは、よく分かります。問題を抱えている子供が問題ではなくて、周りの子供の【意識変容】にあるという認識は正しいと思います。 >ただ、その場合【集団】というベクトルに対する理解の仕方を間違うと、うまくいかない場合があるということだけは指摘しておきたいとおもいます。 ここをもう少し説明頂くと有り難いです。 >学級・学年・学校という関係をどのような視点で構築するかは、その多くは校長の認識にかかっています。今の校長連中に欠けているのは、【組織論】なのです。 >※これは長くなりますので、また項を改めてやりましょう。 私も同感です。これが出来る校長はまれですね。 >現在の教育政策の方向性は、一握りの「エリート育成」重視とそれ以外の大多数の子供は【守】をすれば良いというものだと考えています。 >つまり、義務教育の【遊び場】化だと思います。 本当にそう思います。 教育改革は叫ばれていますが、とんでもない方向に改革されそうで心配です。 |
▼団塊党さん: > >>大変苦労されているのは、よく分かります。問題を抱えている子供が問題ではなくて、周りの子供の【意識変容】にあるという認識は正しいと思います。 >>ただ、その場合【集団】というベクトルに対する理解の仕方を間違うと、うまくいかない場合があるということだけは指摘しておきたいとおもいます。 > >ここをもう少し説明頂くと有り難いです。 今、教師の多くは、【異質なものの集まりを、均質な集団に変容させる】ということを指導と称しています。 だから、学級委員とか学級の係りなどを【教師の下請け】にする傾向があります。 この発想を根底から変えないと、【集団意識】は変わりません。 【異質なものの集まり】ということは、竹でいうならば太い竹、細い竹、短い竹、長い竹、曲がった竹、真直ぐな竹などが混在しているということです。 【学級経営】などといいますが、この竹を同じ太さ、同じ長さにしようという発想が主流だと思います。 もう少し、説明の仕方を変えると、 仏像を思い浮かべてください。仏様の顔は、男でしょうか、女でしょうか。 どちらでもないのです。男の特徴と女の特徴をできる限り削いでいって、【人間】という抽象的な概念に近づけたものです。わたしは、これはこれで一つの哲学だと思いますが、教育の場で【男】【女】の特徴を削いでいくということは、子供たちの個性を削いでいくことになりがちなのです。 しかも、それが【人間】という抽象的な概念ではなく【法】とか【秩序】という概念に傾斜しがちなのが現状だと思います。 新しい時代の教育は、子供たちそれぞれの顔がくっきり見えてそれでいて【集団】として機能していくという方法論が模索されなければなりません。 竹の例でいうならば、それぞれの竹の特徴を如何にして組み合わせて美しい文様を作り出すかが、学級経営の要諦だと思います。 この文様をつむぎだす過程で、【集団の意識】が変容し、それにつれて子供たち自身が変容するのです。 多くの教師は、【集団意識の変容】は、個人の変容の後にくると考えていますが、逆なのです。 しかも、竹の例で語るなら、【集団】というものを同じ太さ、同じ長さに切りそろえることが重要であると考えているのです。 この考え方の相違が、すべての方法論の違いになるのだと思います。 |
▼流水さん: >新しい時代の教育は、子供たちそれぞれの顔がくっきり見えてそれでいて【集団】として機能していくという方法論が模索されなければなりません。 >竹の例でいうならば、それぞれの竹の特徴を如何にして組み合わせて美しい文様を作り出すかが、学級経営の要諦だと思います。 >この文様をつむぎだす過程で、【集団の意識】が変容し、それにつれて子供たち自身が変容するのです。 >多くの教師は、【集団意識の変容】は、個人の変容の後にくると考えていますが、逆なのです。 >しかも、竹の例で語るなら、【集団】というものを同じ太さ、同じ長さに切りそろえることが重要であると考えているのです。 > >この考え方の相違が、すべての方法論の違いになるのだと思います。 私もそのように考えることが少しは出来るようになりました。 教師の価値観で一様にそろえようとしているときは、たいがい失敗しますね。 「それぞれの竹の特徴をいかにして組み合わせて美しい文様を作り出すか」 授業も学級経営もここが要ですね。 有り難うございました。 |
▼団塊党さん: 前回の事例をもう少し、具体的に語っておきます。比喩的に語ると、どうしても具体性に欠けるので、少し補足しておきます。 わたしは、【集団】【個人】【指導者】の役割をメージするときに、ラグビーを考えます。ラグビーに具現化されたあり方は、教師にとって非常に参考になるものです。 では、ラグビーの理念とは何か。 1 【忍耐力】→肉体的痛さ、しんどさなどに耐える 2 【服従の精神】→レフリーのジャッジに従う。チームの方針に従う 3 【責任感】→自分の役割を果たす 4 【自己犠牲の精神】→フォワードに代表されるように自分を殺して、バックスに生きた球を供給し、チームの勝利に貢献する 5 【フェアーネスの精神】→肉体をぶつけ合う激しい競技だからこそ、ルールを破らないフェアーなプレイが要求される→これがないと、すぐ殴り合いの喧嘩に陥る。 6 【身体を強健にする】→ひ弱な体格では、この激しいスポーツには耐えられない。足腰、腕力、体格など強靭なものに鍛える必要がある。 7 【勇気の育成】→現在で言えば、2m、100kgを超える大男が、全速力で走り込むのを身体を張って阻止するのは勇気がいる。一瞬の気の迷いが相手のトライにつながる。躊躇なく果断に飛び込む精神を養う 8 【状況判断】→ラグビーボールは楕円形である。どちらに弾むか、予測できない。このボールの予測できない動きに瞬時に判断できる能力が求められる。つまり、マニュアル的でない【自己判断能力】の育成ができる。 9 【継続の精神】→ラグビーは球を前に投げれない。球は【後ろ】に投げなければならない。つまり、前進するためには【後退】しなければならないスポーツである。ここにラグビー精神の真骨頂がある。 前に進むためには、よい球を後ろに続く人間に渡さなければならない。よい球を渡すためには、球を持った人間は自分を犠牲にする覚悟が求められる。 10 【ノーサイドの精神】→どんなに激しく戦っても戦いが終われば、お互いの健闘をたたえ合い、友人として相手を遇する精神である。 11 【集団の理念・戦術・戦略】→ラグビーは15人で戦う集団競技である。そのため、集団の戦略・戦術という理念の浸透がなければ、チームとして機能しない。これが、指導者の一番問われるところである。 今回のワールドカップでの日本の戦いぶりを見ていると、技術・スピード・チームとしてのまとまりなどは、世界のトップと遜色ない。 しかし、体格・腕力・接点でのスキルなどは明らかに見劣りする。 これを克服するには、激しく厳しい試合の【経験】が必要である。同時に、上記に掲げた【理念の浸透】が必要である。 日本にもよく似た理念として【武士道精神】が論議されるが、英国のGentleman Idealの発現であるラグビー精神と決定的に違うところは、【集団の理念・戦略・戦術】と【継続の精神】が武士道にはない。 武士道は、【集団の理念】をアプリオリの前提としている。そのため、【殿様が白いといったものは黒いものでも白い】と思い切ることが求められる。 いい変えると、権力に対する【盲目的追従】が【善】とされている。 さらに、【武士道はあくまでも個人の覚悟】の倫理であり、自分を犠牲にしても、よい球を後ろに続く人間に供給するという【継続の精神】がない。 現代ラグビーでもっとも求められるのが、【継続の精神】と【チームの戦略・戦術】と【スピード】である。 わたしには、これが現在の日本に最も欠落している精神だと考えている。 |
▼流水さん: >わたしは、【集団】【個人】【指導者】の役割をメージするときに、ラグビーを考えます。ラグビーに具現化されたあり方は、教師にとって非常に参考になるものです。 >では、ラグビーの理念とは何か。 >1 【忍耐力】→肉体的痛さ、しんどさなどに耐える >2 【服従の精神】→レフリーのジャッジに従う。チームの方針に従う >3 【責任感】→自分の役割を果たす >4 【自己犠牲の精神】→フォワードに代表されるように自分を殺して、・・・・ >5 【フェアーネスの精神】→肉体をぶつけ合う激しい競技だからこそ、ルールを >6【身体を強健にする】→ひ弱な体格では、この激しいスポーツには耐えられな >7 【勇気の育成】→現在で言えば、2m、100kgを超える大男が、全速力で >8 【状況判断】→ラグビーボールは楕円形である。どちらに弾むか、予測できな >9 【継続の精神】→ラグビーは球を前に投げれない。球は【後ろ】に投げなけれ >10 【ノーサイドの精神】→どんなに激しく戦っても戦いが終われば、お互いの健 >11 【集団の理念・戦術・戦略】→ラグビーは15人で戦う集団競技である。そ ラグビーというゲームの中にこれだけの理念が内在していることの意味は大きいですね。示唆に富む例を挙げて頂き有り難うございます。 最後の「集団の理念・戦術・戦略」を、教師がどう捉えるかで教室という空間は全く違った雰囲気を醸し出すことでしょう。 教師が自分の理念を全面に出してそれを子供達に強く要求していくのか 、自分の中には強烈にあるが、それが子供達の中に熟成していくのを待つのか、ここが大きな別れ道です。 私はだんだん後者が良いと思うようになりました。 日本の教師の授業観もだんだん変わって来ています。 教師の技量でぐいぐい引っ張っていくような授業が良いとされていましたが、どうもこれは行き詰まりが見えて来ています。 今はあちこちで静かに授業観の変革が進んできています。 教師が中心になり子供の発言を組織していく華やかな授業から、 教師はとにかく子供の発言に耳を傾ける、そして教師は子供と子供、子供と教材のつなぎ役に徹する。 子供達も活発に発言するよりも友だちの意見によく耳を傾ける。 授業は教師が発問で紡いでいくよりも子供達の発言自体が次の授業の展開を生んでいく。 このようなイメージに変わって来ています。 私自身も、そのような授業観に変わってきています。 教師は子供の発言をすべて肯定的に受け入れる。優れた発言を組織していくという考え方でなく、どの発言にも価値を見出していく。 そのような方向に変わってきています。 学級経営においてもこれは同じです。 ラグビーにおける集団の理念、戦略、戦術と個人の関係はこのようなゆるやかなものではないと思いますが、選手自体がゲームの展開を作り出していくという意味においては共通するものを感じます。 そして、そこには監督の理念が確実に生きて働いているという意味においても。 |