Page 1533 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼ぼくの好きな先生(映画) なだ いなだ 04/9/30(木) 2:07 ┣Re(1):ぼくの好きな先生(映画) 流水 04/9/30(木) 7:34 ┃ ┗Re(2):ぼくの好きな先生(映画) ウミサチヒコ 04/9/30(木) 11:48 ┣Re(1):ぼくの好きな先生(映画) しろは 04/9/30(木) 8:34 ┣Re(1):ぼくの好きな先生(映画) 桃李 04/9/30(木) 11:37 ┣Re(1):ぼくの好きな先生(映画) K 04/9/30(木) 12:30 ┃ ┗Re(2):ぼくの好きな先生(映画) 外野 04/9/30(木) 20:26 ┃ ┗Re(3):ぼくの好きな先生(映画) K 04/9/30(木) 20:52 ┃ ┗Re(4):ぼくの好きな先生(映画) 外野 04/10/1(金) 21:48 ┃ ┣Re(5):ぼくの好きな先生(映画) K 04/10/1(金) 23:14 ┃ ┃ ┣Re(6):ぼくの好きな先生(映画)/序列化? FAKE 04/10/1(金) 23:33 ┃ ┃ ┃ ┗Re(7):ぼくの好きな先生(映画)/序列化? 外野 04/10/2(土) 10:14 ┃ ┃ ┗Re(6):ぼくの好きな先生(映画) 外野 04/10/2(土) 9:48 ┃ ┗改革の流れ 団塊党 04/10/2(土) 11:32 ┃ ┣Re(6):ぼくの好きな先生(映画) ウミサチヒコ 04/10/2(土) 11:40 ┃ ┃ ┣Re(7):ぼくの好きな先生(映画) 外野 04/10/2(土) 13:09 ┃ ┃ ┃ ┣Re(8):ぼくの好きな先生(映画) ウミサチヒコ 04/10/2(土) 14:10 ┃ ┃ ┃ ┗Re(8):ぼくの好きな先生(映画) 団塊党 04/10/2(土) 22:42 ┃ ┃ ┗Re(7):ぼくの好きな先生(映画) 団塊党 04/10/2(土) 22:14 ┃ ┗Re(1):改革の流れ K 04/10/2(土) 16:12 ┃ ┗Re(2):改革の流れ 団塊党 04/10/2(土) 22:30 ┃ ┗Re(3):改革の流れ よりみち 04/10/2(土) 23:48 ┃ ┣好きでも嫌いでもない先生(映画) K 04/10/3(日) 0:39 ┃ ┗単なるノスタルジー? J.J.Mack 04/10/3(日) 8:39 ┣Re(1):ぼくの好きな先生(映画) 団塊党 04/10/1(金) 0:45 ┃ ┗学校選択制の問題の核心 団塊党 04/10/1(金) 1:06 ┣Re(1):ぼくの好きな先生(映画) FAKE 04/10/1(金) 2:44 ┣Re(1):ぼくの好きな先生(映画) オセッカイ屋 04/10/3(日) 10:15 ┃ ┗Re(2):ぼくの好きな先生(映画) ぎみゆら 04/10/3(日) 20:50 ┗ぼくの好きな先生 しろは 04/10/4(月) 6:37 ─────────────────────────────────────── ■題名 : ぼくの好きな先生(映画) ■名前 : なだ いなだ ■日付 : 04/9/30(木) 2:07 -------------------------------------------------------------------------
教育問題を抽象的に論じていても、らちがあきません。 wowwowでフランスのドキュメンタリー映画「ぼくの好きな先生」を放映していました。フランスの片田舎オーベルニュ地方の田舎の学校を密着取材して撮った映画です。学校にはたった一人の先生しかおらず、かれは20年間、三歳から十一歳まで、つまり幼稚園から小学校(フランスは小学校は5年間)までの生徒を教えてきました。勉強を教えるばかりでなく、ケンカする生徒を仲直りさせ、みなと口が聞けない子どもを少しずつ、口を開けるようにする。そんなことも仕事。 もちろん算数が苦手で、どうしても理解できない子どももいれば、遠足で麦畑に入って迷子になってしまう子どももいる。教え方がうまいも下手もない。大変な仕事です。でも、見ていてぼくも医者にならなかったら、こんな先生をしたかったと思いました。オーベルニュ地方の冬の風景は北海道を思わせます。 こういう学校は日本でも昔はよくありました。しかし、合理化によって潰されてきたのです。フランスでも、日本ほど極端ではありませんが、その傾向はあります。日本はこの先生のように、20年も同じ学校に勤めさせてはくれません。でもぼくの子どものころは、それが日本でも可能でした。日本全国の学校をこのような学校に戻せなどとはいいません。でも、映画を見たら、 学校を画一化しないで、こういう学校を存続させるのが、教育の自由というものではないかなあ、とつくづく思いますよ。よい学校と悪い学校とがあるのではなく、いろいろな学校があるのです。どちらがいいか、と比較するのはナンセンスだと思いますよ。 不毛な議論をするより、まずはこういう映画でも見てみましょう。 フランスの原題は「etre et avoir」「ある と 持つ」つまり英語の「be and have」です。勉強の本当の初歩の意味でしょう。 |
▼なだ いなださん: >教育問題を抽象的に論じていても、らちがあきません。 >wowwowでフランスのドキュメンタリー映画「ぼくの好きな先生」を放映していました。フランスの片田舎オーベルニュ地方の田舎の学校を密着取材して撮った映画です。学校にはたった一人の先生しかおらず、かれは20年間、三歳から十一歳まで、つまり幼稚園から小学校(フランスは小学校は5年間)までの生徒を教えてきました。勉強を教えるばかりでなく、ケンカする生徒を仲直りさせ、みなと口が聞けない子どもを少しずつ、口を開けるようにする。そんなことも仕事。 >もちろん算数が苦手で、どうしても理解できない子どももいれば、遠足で麦畑に入って迷子になってしまう子どももいる。教え方がうまいも下手もない。大変な仕事です。でも、見ていてぼくも医者にならなかったら、こんな先生をしたかったと思いました。オーベルニュ地方の冬の風景は北海道を思わせます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 残念ながら、その映画は見ていませんが、情景が目に浮かびます。 若いとき、全校生徒40人の山の学校、30人の島の学校に勤務した経験があります。もちろん、泊り込みです。 日曜日、下宿の部屋に子供たちが、寝ているわたしを起こしにきます。「先生、起きろ」と布団の上に上がってくる子がいます。 朝食を作っている女の子もいます。味噌汁の匂いが鼻をくすぐります。おかずを家から持ってきてくれる子供もいます。 寝ぼけ眼をこすってようやく起きたわたしに「はよー顔を洗え」とタオルを渡してくれる子供がいます。布団を干してくれる子供がいます。 本当に幸せでした。「お金も名誉もいらない」と本気で思いました。わたしの教師生活の原点です。 わたしの県では、高度成長期の中ごろまで、新採用教師は必ずこのような僻地の学校へ赴任させられました。 難しい理屈ではなく、「子供とともにある喜び」を肌で感じさせることが目的でした。 全国に無数の「24の瞳」の学校があり、無数の大石先生がいたと思います。 今の教師には、この種の経験がなくなっています。心の底から湧き出してくる「子供とともにある」喜びを知らないのです。 僻地の学校が統廃合され、赴任できる学校がなくなってしまったのです。 なださんのいわれる通り、ここでは「教え方の上手下手」など関係ないのです。 今でも脳裏にこびりついて離れない光景があります。島の学校に勤務したときのことです。土曜日、先生方が船に乗って、本土に帰ります。その時、ほとんど全校生徒が本当に寂しそうに見送るのです。「なんか見捨てられた気持ちになる」と呟いていた女の子がいました。 わたしは、この呟きを聞いたとき、島にいる間はできるだけ本土に帰らないと心に決めました。 たったそれだけのことで、子供たちのわたしに対する感情は、まるで違いました。 なださんの文を読みながら、そんな昔の光景が脳裏をよぎりました。 |
▼流水さん: >本当に幸せでした。「お金も名誉もいらない」と本気で思いました。わたしの教師生活の原点です。 あのころは、国全体が、新しい学校のために、もっとも熱が入っていたと思います。二十四の瞳、青い山脈、です。暗い戦前の教育から解放されて、新しい社会を誰よりも先生が喜んだと思います。そういう雰囲気が社会にもあったはずです。 なのに、今は文部省が恥かしげもないことを考え始めています。山の学校、島の学校がなくなったのは、先生や教育委員会がサラリーマン化し、さらに教育に悪意が入り込みはじめたからではないでしょうか。 |
なだ いなだ 様 はじめまして よろしくお願いします 学校ものの映画は大好きでして「ぼくの好きな先生」 レンタルできないか探してみます(wowwowが有りませんので) 実は私も以前からいい先生、いい学校についてですが アジア映画「初恋の来た道」を紹介させていただこうと考えておりました。 基本的には恋愛映画なのですが、恋愛以外で感動しました。 寒村に始めての学校が出来てそこに新卒の男の先生が赴任する所から 彼が亡くなった時と過去を行き来しながらストーリーは展開します 彼は村の女性と恋に落ち結婚して一生をその村で先生として 生活してそこで生涯を終える。 彼は教える事に情熱を燃やし、子供達は学ぶことに喜びと好奇心を持ち 学んだ事を胸に成長して村を出て行く この村の学校のありようと先生の生涯に対する村人達の姿からは 文字で表せる答えなんて無い、と感じました |
こんにちは。「ぼくの好きな先生」はレンタルのDVDでみました。 TUTAYAさんにありました。 冬の朝、まだ少し暗いうちから、学校へ行くバスが、子供たちを迎えに回って 学校まで連れて行きます。子供のわずかな表情の変化や、寒そうな子供のはく、 白い息まで、見えてくるような、とても丁寧なとり方です。 先生もそういう眼で、子供を細かく見て、対応しているのが感じられました。 田舎の学校なので、いろんな年齢の子供が同じ教室で勉強しています。 私は、喧嘩をした子供をふたりいすに座ってもらって、両方に、丁寧な言葉で 静かに話しながら、子供たちの思っていることも聞いて、よい方向に導こうと する先生の、子供に対する時間のかけ方と、子供を尊重した接し方が、ジーンと きて、忘れられません。 数学の宿題を、親の仕事の合間に見てもらいながら、家族で楽しそうにしている シーンも、うらやましいくらい。 ここには、子供の声を汲み取って、一緒に考える先生の姿があったし、うえから 決まりを押し付ける態度は微塵もなかったです。 私の好きな先生を思い出しました。こういう人が日本にもいます。 ▼なだ いなださん: >教育問題を抽象的に論じていても、らちがあきません。 >こういう学校は日本でも昔はよくありました。しかし、合理化によって潰されてきたのです。フランスでも、日本ほど極端ではありませんが、その傾向はあります。日本はこの先生のように、20年も同じ学校に勤めさせてはくれません。でもぼくの子どものころは、それが日本でも可能でした。日本全国の学校をこのような学校に戻せなどとはいいません。でも、映画を見たら、 >学校を画一化しないで、こういう学校を存続させるのが、教育の自由というものではないかなあ、とつくづく思いますよ。よい学校と悪い学校とがあるのではなく、いろいろな学校があるのです。どちらがいいか、と比較するのはナンセンスだと思いますよ。 >不毛な議論をするより、まずはこういう映画でも見てみましょう。 >フランスの原題は「etre et avoir」「ある と 持つ」つまり英語の「be and have」です。勉強の本当の初歩の意味でしょう。 |
▼なだ いなださん: >教育問題を抽象的に論じていても、らちがあきません。 大変失礼ですが、私には貴方が仰ってることが単なるノスタルジーの抽象論としか思えません。時代の移り変わりにより社会の包容力が減少し、かえって昔よりも子供達が不自由を強いられてる面はあると思います。しかし、 >学校を画一化しないで、こういう学校を存続させるのが、教育の自由というものではないか という考えの下、子供の個性重視、もっと自由を認めようとゆとり教育を進めた結果、平均的基礎学力は低下し、できる子とできない子の差が広がり、凶悪な少年犯罪も増えてしまったのではないでしょうか。その責任は勿論、社会、大人達にあると思いますが。自由と責任はセットで存在することを先ずは厳しく教え、それを身につけたうえでの自由でなければいけないと思います。また、画一化に反発することで初めて個性が芽生えるという見方もできると思います。 >不毛な議論をするより、まずはこういう映画でも見てみましょう。 映画を見て何かを感じたり考えたりする人もいれば、実体験から考える人もいると思います。それぞれがそれぞれの方法で考えればいいことだと思います。 |
Kさん > 子供の個性重視、もっと自由を認めようとゆとり教育を進めた結果、 > 平均的基礎学力は低下し、できる子とできない子の差が広がり、 > 凶悪な少年犯罪も増えてしまったのではないでしょうか。 失礼ですがKさんは「ゆとり教育」について何も調べもせず、単なるご自分の観念で語っていませんか。 それから、「子供の個性重視、もっと自由を認めよう」と教える内容の低下とはイコールではありません。また、教える内容を低下させて…、と なだ 氏が言及している箇所があればどうかご教示下さい。 |
▼外野さん: >失礼ですがKさんは「ゆとり教育」について何も調べもせず、単なるご自分の観念で語っていませんか。 特に詳しくは調べてませんが、教育現場の方々から聞いた話や自分の経験を通じての実感を書きました。 >それから、「子供の個性重視、もっと自由を認めよう」と教える内容の低下とはイコールではありません。 イコールではありませんが、そういう傾向を招きやすいと思います。詰め込み教育を改めるために、円周率を「3」と教えることはナンセンスでしょう。 >また、教える内容を低下させて…、と なだ 氏が言及している箇所があればどうかご教示下さい。 そんな個所はないと思います。 |
つっかかるような書き方をして申し訳ありません。 『ゆとり教育』については、憤っていますので、つい語調も荒くなりがちです(^^; 団塊党さんがこのスレッドに次のように書いてくれました。これがいわゆる『ゆとり教育』の結果であり、多分”狙い”だった状態変化です。 ▼団塊党さん: >学校選択制の一番の問題は、学校間の正当な切磋琢磨によって格差がつくのではなく、様々な他の要因、わけても地域家庭の経済的裕福度によって序列化していくということです。 >教師のがんばりで優秀な学校になるのではないというところに問題の核心があります。 >元々その地域に住む家庭が経済的に裕福な学校には児童生徒が集まるのです。 >小中学校まで序列化が始まろうとしています。 >現に私の地域はそのような現象が出てきています。 >経済による二極化、格差が急激に推進されていくでしょう。 現在、企業での正社員と、パート・派遣社員・アルバイトなどの比率は逆転しつつあります。これは、『ゆとり教育』とも見事に歩調が合っています。偶然でしょうか? この『ゆとり教育』という耳障りのよい言葉で呼ばれるものは、まず、現在の「競争社会」の状態では階級化社会を格段に進める要因になるというのは、いい学校へ進学しようとすれば、学習指導要領で縛られた学校に通っていたのではだめだということで、理の当然であり、誰にでもわかる結末といえないでしょうか。 「非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばよい」 基礎学力を培う義務教育の年間授業時間をあえて削減する『ゆとり教育』について、教課審会長がそう説明したことがあります。 |
▼外野さん: 団塊党さんが仰ってる、 >地域家庭の経済的裕福度によって序列化していくということです。 というところが、私も最近実感してるところで、どうも腑に落ちないのです。 能力によって格差がつく、序列化が起こること自体は、私は悪いこととは思いません。むしろ、無理やり平等にしようとする方がおかしいと思います。平等な機会を与えられて、その機会をどう生かすかで格差がつくのはいい。家庭の経済力が影響するのも仕方が無い。しかし。。どうも、現実に起こってることは、何かがおかしい。 義務教育のうちは、いや、せめて小学校のうちは、学校の授業をきちんと受けることにより基礎学力が身につくような教育は出来ないのか。勉強ができないといわれる子供でも、ある日勉強の面白さに気付いたら、そこから挽回できるチャンスは与えられないのか。ゆとり教育によって、その「機会」や「チャンス」が奪われることになってないのか。そういう疑問を感じます。 以前は、学歴があれば将来成功できる、楽ができるという考えが親にあって、そのために子供に勉強を勧めていた。今は、裕福な家庭の親というのは、学歴だけじゃ世の中渡っていけないと思っていて、だからこそ「学歴」は最低限の必要条件だと考える。そういう考えのもと、学習塾や私学に通わせる。じゃあ、それが出来ない家庭はどうなるのか?いくら真面目に授業を聞いたって、自分で予習復習したって、ゆとり教育の学校の教材と授業内容じゃ、私学や塾に通ってる子供には太刀打ちできない。 ゆとり授業で時間的余裕が与えられる。その分、クラブ活動を充実させたり、地域社会と協力してさまざまな催しを行ったりする。そういう機会をよく活用してるのは、実は、「出来る子」であって、勉強が苦手な子供ではないような気がする。 おちこぼれを出さぬよう、不登校を起こさぬよう、一生懸命頑張ってる先生もいる。しかし、授業中にかってに席を立って教室から出て行ってしまうような子供が、小学校でも結構いる。そういう子供まで落ちこぼれないようにと先生が頑張れば、そのクラスの授業は全く進まない。そうするとそのクラスでは、塾通いの子とそうでない子の格差は益々広がる。 何かそういう悪循環が起こってるように感じます。それがいいと思ってる人は、少ないでしょう。でも、そういう事態を目の当たりにした時、できることといえば、「自分の身は自分で守る」ということでしかない。 どうすればいいんでしょうね。少なくとも、「色々な学校があっていい」「画一的であってはいけない」と言ったところで、問題は解決しないんじゃないでしょうか。 |
このツリーに参加の皆さん: 皆さんのレスを斜め読みして、その昔「家、貧しくして孝子出ず」と言う言葉を思い出しました。 この頃はそのような子は居ないのでしょうか。居ると信じてはいますが。 若し、居ない、あるいは、少ないのであれば、何が原因でしょうか。 社会的システムの問題でしょうか。はたまた、「教育」その他の問題でしょうか。 |
FAKEさん 日本の昔の貧しさと今の貧しさは違うのではないでしょうか。 今は義務教育があって、余程のことがない限り、学問に接する機会は皆に平等に与えられています。 けれど、その義務教育制度も、今、国庫負担削減で「地方分権」という名のもとに、改悪が迫っているようです。 『サンデー毎日 04年9月19日号』には”義務教育「崩壊」へのカウントダウン 「地方で生まれるとバカになる」”という記事があり、そこに次のような記述があります。 ----------(引用始め)------------------------------------ 地方自治のカラクリを知る若手キャリア官僚は、 「予算を減らす減らさないは知事さん次第。制度として減らせるようになったら…。最初は削らないかもしれない。ただ、財源不足が進めばどうするか。背に腹は代えられない。そもそも、義務教育にいくら払っているかなんて知事さんは知らない。感覚論で自分だったら減らさないと言う。けれども、財政を担当する役人は少しでも削りたいと思う。そういう時には、かんなで削るように薄く薄く削っていくんです。教育費は削りやすい。なぜなら大きい塊だから。分からないように少し削るだけで、大きな額になる。財政をやる人間はかならず手を出す」 その結果、教師の人数が減るか給与が減るかしかない。いずれにしても、教育の質は低下する。 教員の給与は現在、行政公務員よりやや高めに設定されている。そうまでしているのに、集まっている先生の質はご存じの通りだ。これ以上給料を下げたら、学校は先生になりたいだけの、子供オタクな人ばかりになってしまう。 この官僚は正直に、 「そうなったら子供を私立に入れようと思ってますけどね」とおっしゃるのだ。 官僚であるお前がそれを言うなという気もするが、これが彼の、父親に戻った時の本音なのだ。 そもそも、経済財政諮問会議の動向を見ていると、教育を現状維持するための地方交付税が確保できるのかさえ心配になってくる。 ----------(引用終わり)------------------------------------ |
Kさん 5年ほど前からでしょうか? マスコミが「勝ち組、負け組」という、人間としての哲学が何もない、異常な画一的な言葉を流行らせたのは。 今の状態であると、社会の階層化はより進み、「勝ち組=数%、負け組=大多数」のように、一定の量で均衡がとれているような組などという分け方はできなくなり、「勝者、敗者」といわなければならない、いびつな世の中が現出すると思います。 「勝者、敗者」といえば、思い浮かぶのはアメリカ社会のようなところでしょうか。実際日本はそれに向かって、様々な政治・行政がおこなわれてきています。 -----------------(引用始め)------------------------------------ 学校選択の自由化だけではない。殊に七〇年代の「ゆとり」教育はアメリカ人の学力を著しく低下させ、経済に非効率を、社会に荒廃をもたらした。そのことを自省し、基礎に帰って初等中等教育の水準を高めることが急務だと訴えた政府報告書「A Nation at Risk」(『危機に立つ国家』、The National Commission on Excellence in Education 編、八四年)の存在は、日本でも教育関係者なら知らぬ者がない。(『機会不平等』斎藤貴男著) -----------------(引用終わり)------------------------------------ このアメリカの『ゆとり教育』は一部の者たちには利益をもたらしたといいます。それを含め、日本で今おこなわれている『ゆとり教育』の提唱者たちがそのアメリカの例を知らぬと考えるのには無理があるように思います。 どうなる司法制度改革 !? どう変わる仕事と職場 http://www.zenshiho.net/shiryo/kaikakushiryo01.html 『ゆとりのない教育』を生んできたのは、新社会人を受け入れる大人の社会のいびつさです。 自分と同期で、銀行や商社などに就職した者たちと生涯労働賃金でバランスをとるためには、官庁を退職した後の天下りで、彼らの賃金と較べたらとても安い官僚の賃金を調整するしかない、従って、官庁に在職中にその天下り先を念頭においた仕事をする必要があると言う、そういう官僚をも含めた大人たちです。そういう社会の、『ゆとりのない教育』を強要するような、いびつな状態を変えることなく、教育のほう”だけ”『ゆとり』を持たせる、なんていうのはほとんど詐欺だといえます(それが実際おこなわれているということなのかもしれません)。 フランス映画を見て思うのは(「ぼくの好きな先生」はまだ見ていません)、日本のような画一的な序列系的思考が、映画の中の人生には存在しないということです。 |
▼外野さん: >現在、企業での正社員と、パート・派遣社員・アルバイトなどの比率は逆転しつつあります。これは、『ゆとり教育』とも見事に歩調が合っています。偶然でしょうか? 偶然ではないと思います。 ゆとり教育と言っていいかどうか問題がありますが、少なくとも今の教育改革の流れは、経済の流れとつながっています。 その根っこにはどちらも新保守主義、市場原理主義という考え方が横たわっているのではないかと思います。 私も詳しくは分かりませんがレーガン、サッチャーあたりから始まったやつです。 小泉さんの始めに民営化ありきという政策もその流れをくむ考え方ですよね。 私はどうも直感的にこの考え方は人間を幸せにはしないのではないかと感じています。 人間の本当のゆとりを奪い際限なく忙しくし、また、貧富の差が広がり、ぎすぎすした世の中になるのを危惧しています。 >この『ゆとり教育』という耳障りのよい言葉で呼ばれるものは、まず、現在の「競争社会」の状態では階級化社会を格段に進める要因になるというのは、いい学校へ進学しようとすれば、学習指導要領で縛られた学校に通っていたのではだめだということで、理の当然であり、誰にでもわかる結末といえないでしょうか。 >「非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばよい」 >基礎学力を培う義務教育の年間授業時間をあえて削減する『ゆとり教育』について、教課審会長がそう説明したことがあります。 おっしゃるとおりです。 ただ、ゆとり教育の問題点は授業時間数の削減にあるのではありません。 週休二日制は世界の学校の大勢だと思います。 週に二日間ぐらい学校から離れてすごすことは悪いこととは思いません。 あるいは土曜日はクラブなど課外活動にあてるなど本当のゆとりは必要です。 ゆとり教育の問題の一つはカリキュラム(学習指導要領)の内容です。 総花的、羅列的で内容につながりがなくばらばらなんです。 もっと基礎的事項にしぼってそこをたっぷり豊かに学ばせるようになっていないのです。 円周率3.14を3にして教えるなど本当にばかげています。 基礎的なことはごまかさずに正確に教えていくべきなんです。 そして枝葉は思い切って捨てる。 そういうメリハリのある内容にすべきです。 日本の教育は詰め込み教育と、一時、よく批判されましたが、詰め込みなのは今でも変わりありません。 バラバラな知識をただ覚えさせるという点では相変わらず詰め込みなんです。 学べば学ぶほど物事がつながっていく、関連が見えてくる、そこに学習の面白さがあるのに、それが出来にくいカリキュラムなんです。 「基礎を豊かに学ばせる」これが出来ないもどかしさを感じています。 もう一つの問題点は受験のこと。 「基礎を豊かに学ばせる」と言っても、受験では「知識の量を問われる」という問題です。 「知識の量を問われる」限り、「本当のゆとり教育」は実現しません。 この問題をどうすれば解決できるのか、今のところまったく分かりません。 私立学校は競争原理が働いていますので、どうしても知識の量を問うことに向かいます。 私は個人的にはある程度規制すべきだと思います。 やたらに細かい知識を問うような問題はチェックする機関を作ってそこに審査させるようなシステムは考えられます。 このあたりまで文科省が思いめぐらすのは無理でしょうが・・・ いずれにしても文科省には今の競争主義、市場原理主義の上に立った改革の流れをくい止めて欲しいです。 文科省自体がどのような立場にあるのか、正直のとこよく分からないのです。 やることなすこと支離滅裂で一貫性がないですから・・・ 少なくとも財界や教育審議会の言うとおりに動くようなことは無しにしてもらわないと困ります。 |
▼団塊党さん: >▼外野さん: 我流の教育(行政)論ですが…。 小学校5年の国語の成績がその人間の程度を決める、とウチの兄がノタマわっておりました。もう、40年以上前の言葉ですが。これを私流に解釈しますと、つまり、受験勉強の弊害・圧力がまだない時期に、普通に身につけた力こそ、その人間の本当の姿を決めるということなんです。(言っておきますが、私は小学5年の国語は2か3でした。) 国語は、一夜漬けが出来ません。私など、国語は一貫して「放棄」して来ました。なにしろ誇り高き理系なものですから。国語は、芸術・社会科学の基礎です。芸術を学び、社会を学ぶのが、国語として結晶しています。国語を見れば人間がわかる。だから他はどうでもいいんです。芸術・社会科学を学ばせればいいんです。すると国語も自然と力がついてくる。人とのコミュニケーションがうまくやれる、仕事もできる。 社会に出れば、いろいろな問題がある。雑事を背負った庶民には、出世の道は遠い。でも、出世しようと頑張れるのは、学生時代、スポーツや勉強に頑張れた誇りと自信があるからではないか。それがあってもうまくいかないのが世の中だ。なければどうなる、人間のクズとなって行くだけだ。 ところが、今の教育は行政に走っている。役人、この軽蔑すべき日本の役人に教育など、できるわけがない。教師が自ら考えて、それを実践する以外に道はない。今の教師はエリートではない。それもいいんじゃないか。エリートでないことに卑屈になるんではなくて、一人の大人として子供とケンカし遊び、事実を学んでいく、そういう性根のすわった教育なら、そこそこの教育を受けたものなら、誰でもできるんじゃないか。ところが、君が代で起立しなかっただけで身分があやうくなるとしたら、教師が萎縮していくのは、あたりまえだ。 自由な立場に教師は自らを置くべきだ。それを阻んでいるのが役人だ。 |
▼団塊党さん: ▼ウミサチヒコさん: 行き過ぎの詰め込み教育を是正するためには、その目標である、入学試験や入社試験の内容、質を変えなくてはならない、ということで、それを実施する大人の社会のほうがまず変わる必要があるように思います。 「人の評価」という仕事は、社会の成熟度が反映されるもので、一朝一夕で変われるような簡単なものなのではないのかもしれませんが。 思うのですが、試験を目標とした勉強は現時点では仕方ないとしても、そういうなかで、それとは別に、純粋に学問に興味を持たせるという教師の本来の仕事はできないものでしょうか。 僕は教師に一人一人の人間形成の責任まで負わせるのは酷であるという気がします。第一、そんなことが可能なのであれば、親が自分の子供一人に悩むようなことも世の中には存在しなくなると思うのです。 学問への興味は、学問が人の成果であるという意味において、人への興味や尊敬、良い意味での畏怖などにもつながり、良好な人間関係や、人間形成にも大いに役立つような気がします。 団塊党さんが少し書かれていますが、今は小学校入試が勝負にまでなってきているのではないでしょうか。 それにしても、有名某私立小学校、同中学校の入学試験の問題には驚かされます。 塾でも行かない限り(親が世の中の広範囲のことを教えられれば別ですが)、出来ない問題が並んでいます。単に利発なだけではだめで、実際の知識を要求する問題があるのです。 僕などは、とても入学出来そうにありません。(^^; |
▼外野さん: >僕は教師に一人一人の人間形成の責任まで負わせるのは酷であるという気がします。 まったくその通りですね。30人もいるクラスで、そんな大それたことを学校・教師に期待するのでなく、サウンドオブミュージックやなにかにでてくる家庭教師でも雇うほうがましでしょう。 子供が学ぶべき課題を「示し」、子供が友達との関係で成長するのを「見守る」、その中でのトラブルの解決ルールを教える、それがすばらしいことです。 人間形成を、誰かとか何かの機関に任せるという各ご家庭の考えそのものが問題ですね。そう考える親がいるとすれば、まづ、親の方から教育しないとなりません。 |
▼外野さん: >思うのですが、試験を目標とした勉強は現時点では仕方ないとしても、そういうなかで、それとは別に、純粋に学問に興味を持たせるという教師の本来の仕事はできないものでしょうか。 >学問への興味は、学問が人の成果であるという意味において、人への興味や尊敬、良い意味での畏怖などにもつながり、良好な人間関係や、人間形成にも大いに役立つような気がします。 本当のゆとり教育はそれをこそ目指すべきだと思います。 もちろん基礎学力を身につけさせるのは当然ですが、その上で学ぶ意欲、世の中ことや自然や芸術などに幅広く好奇心を持てるか否か、これが人間の力だと思います。 それを小学校からきっちり大切にしていく教育。 これが出来れば理想的でしょうね。 だからこそ、学習指導要領の問題点を強く感じるわけです。 >団塊党さんが少し書かれていますが、今は小学校入試が勝負にまでなってきているのではないでしょうか。 >それにしても、有名某私立小学校、同中学校の入学試験の問題には驚かされます。 >塾でも行かない限り(親が世の中の広範囲のことを教えられれば別ですが)、出来ない問題が並んでいます。単に利発なだけではだめで、実際の知識を要求する問題があるのです。 >僕などは、とても入学出来そうにありません。(^^; ええ、私にも無理ですね。(>_<) |
▼ウミサチヒコさん: 東向島の百花園に行って、先ほど帰ってきました。 たまにはサービスをと思いまして。 下町の匂いがどことなく感じられて、向島はいいですね。 道を尋ねたおじいちゃんの顔が特に気に入りました。下町の顔をしていました。 百花園は地味ですが、萩や芙蓉など趣がありました。 >国語は、一夜漬けが出来ません。私など、国語は一貫して「放棄」して来ました。なにしろ誇り高き理系なものですから。国語は、芸術・社会科学の基礎です。芸術を学び、社会を学ぶのが、国語として結晶しています。国語を見れば人間がわかる。だから他はどうでもいいんです。芸術・社会科学を学ばせればいいんです。すると国語も自然と力がついてくる。人とのコミュニケーションがうまくやれる、仕事もできる。 国語は他教科を勉強する中で自然に力がつくから、なくても良い。 その分を他教科の時間に当てろということでしょうか。 大胆でユニークな提案ですね。初めて耳にしました。 小学校では読み書きの基本を教えるために国語は必要ですが、中学以上は確かにどうかなと思う部分はあります。 先生のどうでも良い講義の時間を取るぐらいなら、もっと文章を読んだり書いたりする時間をたっぷり保障すべきでしょうね。 私は毎朝、クラスの子ども達に15分間だけ読書の時間を与えています。 本を読む習慣があるかどうかでその人の人生における興味の幅や深さが決まるように思います。 >ところが、今の教育は行政に走っている。役人、この軽蔑すべき日本の役人に教育など、できるわけがない。教師が自ら考えて、それを実践する以外に道はない。今の教師はエリートではない。それもいいんじゃないか。エリートでないことに卑屈になるんではなくて、一人の大人として子供とケンカし遊び、事実を学んでいく、そういう性根のすわった教育なら、そこそこの教育を受けたものなら、誰でもできるんじゃないか。ところが、君が代で起立しなかっただけで身分があやうくなるとしたら、教師が萎縮していくのは、あたりまえだ。 >自由な立場に教師は自らを置くべきだ。それを阻んでいるのが役人だ。 10年ほど前までは、「ちょっと子ども達をつれて河原に遊びに行ってきます」と言えば、管理職は「はい。どうぞ。気をつけて行ってらっしゃい」などと随分呑気なものでした。 ところが今はそうはいきません。 「どういう目的で行くのか。計画はきちんと立ててあるのか。安全面での配慮は大丈夫か。」などと煩いです。 何かあると学校がすぐに責任を問われる時代です。 時代が時代ですからそれは仕方のないことですが、そうなればなるほど、皮肉なことに味気ない教育になっていきます。 窮屈な時代になったものです。 しかし、愚痴ばかり言っても拉致があきません。 おっしゃるように性根をすえるしかありません。 まだまだ一般企業に比べれば教師の自由裁量の余地はあります。 |
▼団塊党さん: >あるいは土曜日はクラブなど課外活動にあてるなど本当のゆとりは必要です。 クラブ活動は、勝ったときの喜び、負けた時の悔しさを体験することができ、自らの努力を称えられる喜びや、サポートしてくれた周囲への感謝の心を育むいい機会だと思います。小学生でも中学生でも手加減せずに、頭ごなしに怒鳴りつけるような先生の方が、子供の信頼を得るようです。但し、自らの責任からけして逃げない姿勢を見せることが同時に必要ですが。厳しさを学ぶ機会としてのクラブ活動も重要でしょう。 >ゆとり教育の問題の一つはカリキュラム(学習指導要領)の内容です。 >総花的、羅列的で内容につながりがなくばらばらなんです。 >もっと基礎的事項にしぼってそこをたっぷり豊かに学ばせるようになっていないのです。 貴方は教育者のようですが、そういう方がこんなことをいっていていいのですか?貴方自身の責任じゃないのですか? |
▼Kさん: >クラブ活動は、勝ったときの喜び、負けた時の悔しさを体験することができ、自らの努力を称えられる喜びや、サポートしてくれた周囲への感謝の心を育むいい機会だと思います。小学生でも中学生でも手加減せずに、頭ごなしに怒鳴りつけるような先生の方が、子供の信頼を得るようです。但し、自らの責任からけして逃げない姿勢を見せることが同時に必要ですが。厳しさを学ぶ機会としてのクラブ活動も重要でしょう。 子どもは怒られても、この先生は真剣だと分かれば信頼してくれます。 正面からしっかりと向き合うことが大切だと思います。 >>ゆとり教育の問題の一つはカリキュラム(学習指導要領)の内容です。 >>総花的、羅列的で内容につながりがなくばらばらなんです。 >>もっと基礎的事項にしぼってそこをたっぷり豊かに学ばせるようになっていないのです。 > >貴方は教育者のようですが、そういう方がこんなことをいっていていいのですか?貴方自身の責任じゃないのですか? 学習指導要領というのは学校が決めることではなくて、文科省が決めます。 これを教えろと言う基準を学校に示すのです。 私がどうにか出来ることではありません。 もちろん、学校で私が授業するときには、私なりに工夫していきますので、そういう意味では最終的には私に責任があるとも言えます。 しかし、大元の学習指導要領がおかしければ、現場で授業する立場としては大変に困ることなのです。 ですから、ここで訴えているのです。 |
横から失敬! 学校の先生には良い思いではありませんね。 怒鳴られるのは恐くて嫌でしたし、なんか自分に酔っているようなのも。 家庭教師の先生は勉強の面白さを教えてくれ、「学ぶ」ことだけは 大好きになりました。本当のプロだったなぁ。。 おかげさまで高校も大学も希望のとこ入れましたし。 数学の小池先生!英語の檜山先生!感謝しております。 |
「アンジェラの灰」の中に出て来る先生は、キリスト教の教義に厳格で、鞭で子供に体罰を与えるほど厳しくて、そもそも貧しい家庭の子供を汚いものを見るような感じで扱ってる。でも、主人公が出来の良い作文を書くと素直に評価し、「どんなに貧しくても、靴がぼろぼろでも、君達の心は宝物だ」なんて言う。 嫌なタイプの先生だけど、子供に媚びていないところは好感が持てる。 日本の小中学校の先生は、優しいけれど何もしてくれない先生とか、厳しいけれど無神経な先生とか、一生懸命だけどナルシストぽい先生とか、先生という名の社会人一年生とか、いろいろいてある意味個性的だけど、アンジェラの灰のような嫌われ役が似合う先生は少なくなったように思う。 |
▼よりみちさん: さらに横から失礼。 >学校の先生には良い思いではありませんね。 放課後、裏庭の殴り合いで その日の決着をつけたり、 授業中に 隠れてマンガを読んだり、早弁したり・・・ だいたい通信簿なんて、所詮は”他人の評価”だい! 気にしてられっか!! それだって、イマドキのアンチャンよりは物識りですぜ。 30人学級? かわいそ〜だよ。息が詰まるよ。 |
▼なだ いなださん: >教育問題を抽象的に論じていても、らちがあきません。 >・・・勉強を教えるばかりでなく、ケンカする生徒を仲直りさせ、みなと口が聞けない子どもを少しずつ、口を開けるようにする。そんなことも仕事。 >もちろん算数が苦手で、どうしても理解できない子どももいれば、遠足で麦畑に入って迷子になってしまう子どももいる。教え方がうまいも下手もない。大変な仕事です。 ちょっとひねくれたお返事になると思いますがお許し下さい。 日本の教師の多くが今でも一クラス40人近い悪条件の中、毎日、こういう仕事をこの先生と同じ気持ちでやっています。 教育問題を抽象的に論じてもらちがあかないかもしれませんが、さまざまな見当はずれの無責任な現場批判にたいしてはそれが善意であれ悪意であれ闘うしかありません。 >学校を画一化しないで、こういう学校を存続させるのが、教育の自由というものではないかなあ、とつくづく思いますよ。よい学校と悪い学校とがあるのではなく、いろいろな学校があるのです。どちらがいいか、と比較するのはナンセンスだと思いますよ。 これも誤解の一つですが、日本の学校ほど制度的に多様化している国はありません。 高校の履修教科は選択科目が山ほどあります。そして学力によって見事に序列化しています。 世界に例がないほど見事な選択の多様化です。お好み次第です。 日本ほど個性化の好きな国はありません。 文科省は個性化の名の下で、学校に特色ある教育を要求してきます。 学校選択制もすでに実施され始めました。 近所に住む子がまったく別々の学校に通うようになります。 親のお好み次第です。小中学校もメニュー豊富なんです。 そしてその結果地域のまとまりはうすれようとしています。 子どもが群れて遊ぶことがますますなくなっていくでしょう 二極化はここでも激しくなっていくでしょう。 ところが一方では僻地校はどんどん統廃合されこの映画に出てくるような学校はなくなりつつあります。 小規模校で荒れている学校はありません。 荒れているのは地方の新興住宅地の学校や都会の郊外の学校で大規模校ばかりです。 なださんのおっしゃっている「いろいろ」は別の意味だと言うことは承知しています。でも「いろいろ」には落とし穴があるのです。 どこかにお手本のような良い学校があろうなどとは思っていませんが、みんなで良い学校のイメージを出し合うことは必要じゃないでしょうか。 それなくして議論してもそれこそ抽象論になってしまいます。 >不毛な議論をするより、まずはこういう映画でも見てみましょう。 >フランスの原題は「etre et avoir」「ある と 持つ」つまり英語の「be and have」です。勉強の本当の初歩の意味でしょう。 分かりますが現実にもっと目を向けた議論にも参加して頂きたいというのが正直な気持ちです。 |
学校選択制の一番の問題は、学校間の正当な切磋琢磨によって格差がつくのではなく、様々な他の要因、わけても地域家庭の経済的裕福度によって序列化していくということです。 教師のがんばりで優秀な学校になるのではないというところに問題の核心があります。 元々その地域に住む家庭が経済的に裕福な学校には児童生徒が集まるのです。 小中学校まで序列化が始まろうとしています。 現に私の地域はそのような現象が出てきています。 経済による二極化、格差が急激に推進されていくでしょう。 |
▼なだ いなださん: 初めまして。 >教育問題を抽象的に論じていても、らちがあきません。 まず、一般論として、論ずると言うことは「抽象的」なことを論ずるしかないのではありませんか。個々の事例を論じていても仕様がないと思います。 >wowwowでフランスのドキュメンタリー映画「ぼくの好きな先生」を放映していました。フランスの片田舎オーベルニュ地方の田舎の学校を密着取材して撮った映画です。学校にはたった一人の先生しかおらず、かれは20年間、三歳から十一歳まで、つまり幼稚園から小学校(フランスは小学校は5年間)までの生徒を教えてきました。勉強を教えるばかりでなく、ケンカする生徒を仲直りさせ、みなと口が聞けない子どもを少しずつ、口を開けるようにする。そんなことも仕事。 >もちろん算数が苦手で、どうしても理解できない子どももいれば、遠足で麦畑に入って迷子になってしまう子どももいる。教え方がうまいも下手もない。大変な仕事です。でも、見ていてぼくも医者にならなかったら、こんな先生をしたかったと思いました。オーベルニュ地方の冬の風景は北海道を思わせます。 >こういう学校は日本でも昔はよくありました。しかし、合理化によって潰されてきたのです。 ここで言われる「合理化」とは何でしょうか。 >フランスでも、日本ほど極端ではありませんが、その傾向はあります。日本はこの先生のように、20年も同じ学校に勤めさせてはくれません。でもぼくの子どものころは、それが日本でも可能でした。日本全国の学校をこのような学校に戻せなどとはいいません。でも、映画を見たら、 >学校を画一化しないで、こういう学校を存続させるのが、教育の自由というものではないかなあ、とつくづく思いますよ。よい学校と悪い学校とがあるのではなく、いろいろな学校があるのです。どちらがいいか、と比較するのはナンセンスだと思いますよ。 >不毛な議論をするより、まずはこういう映画でも見てみましょう。 >フランスの原題は「etre et avoir」「ある と 持つ」つまり英語の「be and have」です。勉強の本当の初歩の意味でしょう。 誠にその通りと思います。 従って、「合理化」で潰された、ということを明確にし、「合理化」が何かと言うことを明らかにし、「合理化」が、教育の観点からは「不合理」だと言わないと「本来の教育」は戻らないのではないでしょうか。 「映画」の話では済まない話と思うのですが・・・。 |
旧制中学は化学の学校で担任は物理学校をでられた数学の先生でした。 後年、子供が中学、高校の段階になり数学の参考書の選択に悩みだしま したので、恩師に手紙で教えを乞いました。しばらくして丁寧なご返事 を頂きました。 その参考書でいい。何回も読み返し、考えるよう指導せよ。君に暖か い親心があれば、その参考書の最終頁の答えを破りされ!答えは麻薬で ある。 ◆現在も私達親子の大切な手紙です。時間はかかりますが・・・。 |
オセッカイ屋さん、はじめまして。 素敵なエピソード、ありがとうございました。 私にも、似たような思い出があります。 大学受験の勉強中に、ある英語の先生から教わりました。 高校三年分のリーダー教科書本文を、一年生のものから順番に、 音読して、書写して、あやしい単語はそのつど辞書で確かめる。 これを二巡か三巡、繰り返しなさい。とても役に立った助言です。 ものごとは、基礎、基本が、いちばん面白いんだと思います。 |
ぼくの好きな先生 最近校長で定年を迎えられたこの先生は部活の顧問として その昔「熱血」「炎の」「鬼」と恐れられていたそうですが 私が先生と知り合えた頃は定年間近で、もうすっかり「仏」 になっていました。 学校内での先生については私は何もわかりませんが、 部活の指導者としてはこの先生より凄い人を見たことがありません 試合やベンチでの先生と子供達の様子を見ていると分かるんです (ひとつには子供達の試合での集中力の高さが際立っています) 鬼時代の教え子の世代がそれぞれの形で指導者になり型や技術だけではない 「なにか」それを今の子供達に伝えています。 孫弟子に当たる世代が先生の影響を受けて「将来指導者になりたい」 と言って将来を考えています 「勝て」「がんばれ」ではなく「負けるなー」と声をかける あったかいというかあついくらいの先生と子供との人間関係 孫弟子世代の試合が有る時に観客席で試合を楽しそうに眺めながら 「なにか」について私の質問に答えてくれます 鬼時代の教え子の世代達は先生の話が始まると止まらなく、 それだけで軽く2時間くらいは過ぎてしまうそうです 私の好きな先生、「負けるな−」の一声は思い出すと元気になります。 |