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 ▼教育基本法改正(改悪)?問題(1)  流水 04/10/6(水) 22:26
   ┣Re教育基本法改正(改悪)?問題(2)  流水 04/10/6(水) 22:28
   ┣Re:教育基本法改正(改悪)?問題(3)  流水 04/10/6(水) 22:30
   ┣Re:教育基本法改正(改悪)?問題(4)教育基本法の意義  流水 04/10/6(水) 22:34
   ┃  ┗Re(1):教育基本法改正(改悪)?問題(4)教育基本法の意義  流水 04/10/6(水) 23:09
   ┃     ┗Re(2):教育基本法改正(改悪)?問題(4)教育基本法の意義  流水 04/10/6(水) 23:13
   ┗Re(1):教育基本法改正(改悪)?問題(1)  団塊党 04/10/9(土) 12:27
      ┗Re(2):教育基本法改正(改悪)?問題(1)  流水 04/10/9(土) 17:49
         ┗Re(3):教育基本法改正(改悪)?問題(1)  団塊党 04/10/9(土) 21:54

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 ■題名 : 教育基本法改正(改悪)?問題(1)
 ■名前 : 流水
 ■日付 : 04/10/6(水) 22:26
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   教育基本法改正問題は、なぜ変えなければならないか、何をどう変えるのか、その結果教育がどのように変わるのかという基本的な事項が全く説明されないまま進行している。
そこで、教育基本法を改正する視点を明確にして、現行の教育基本法との比較、現行の教育基本法成立時の議論を検討して、改正の狙いを明確にする必要がある。

まず、大雑把に教育基本法改正の視点をまとめてみる。
中央教育審議会の答申は、以下のように述べている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【 教育の現状と課題】
○  我が国社会は大きな危機に直面。自信喪失感や閉塞感の広がり、倫理観や社会的使命感の喪失、少子高齢化による社会の活力低下、経済停滞の中での就職難。
 このような危機を脱するため、政治、行政、司法、経済構造等の抜本的改革が進行。創造性と活力に満ち、世界に開かれた社会を目指し、教育も諸改革と軌を一にする大胆な見直し・改革が必要。

○ 教育は危機的な状況に直面。青少年が夢を持ちにくく、規範意識や道徳心、自律心が低下。いじめ、不登校、中途退学、学級崩壊が依然として深刻。青少年の凶悪犯罪が増加。家庭や地域の教育力が不十分で、家族や友人への愛情をはぐくみ、豊かな人間関係を築くことが困難な状況。初等中等教育段階から高等教育段階まで学ぶ意欲が低下。初等中等教育における「確かな学力」の育成と、大学・大学院における基礎学力、柔軟な思考力・創造力を有する人材の育成、教育研究を通じた社会貢献が課題。
以下の「規範意識や道徳心、自律心が低下。いじめ、不登校、中途退学、学級崩壊が依然として深刻」がなぜもたらされたかについて、一切の言及がない。

○ この半世紀の間、我が国社会も国際社会も大きく変化。国民意識も変容を遂げ、教育において重視すべき理念も変化。

【 教育基本法改正の必要性と改正の視点】
○  21世紀を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成を目指す観点から、重要な教育の理念や原則を明確にするため、教育基本法を改正する。

  信頼される学校教育の確立
  「知」の世紀をリードする大学改革の推進
  家庭の教育力の回復、学校・家庭・地域社会の連携・協力の推進
  「公共」に主体的に参画する意識や態度の涵養
  日本の伝統・文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養
  生涯学習社会の実現
  教育振興基本計画の策定

【教育基本法関係条文 改正の方向 】

(教育の基本理念) ○  教育は人格の完成を目指し、心身ともに健康な国民の育成を期して行われるものであるという現行法の基本理念を引き続き規定することが適当。

(新たに規定する理念)
○ 法改正の全体像を踏まえ、新たに規定する理念として、以下の事項について、その趣旨  を前文あるいは各条文に分かりやすく簡潔に規定することが適当。 
  ・ 個人の自己実現と個性・能力、創造性の涵養
 ・ 感性、自然や環境とのかかわりの重視
 ・ 社会の形成に主体的に参画する「公共」の精神、道徳心、自律心の涵養
 ・ 日本の伝統・文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養
 ・ 生涯学習の理念
 ・ 時代や社会の変化への対応
 ・ 職業生活との関連の明確化
 ・ 男女共同参画社会への寄与
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re教育基本法改正(改悪)?問題(2)  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/10/6(水) 22:28  -------------------------------------------------------------------------
   【教育の現状と課題】からみて見る。
「教育は危機的な状況に直面」という認識には同意できるが、「規範意識や道徳心、自律心が低下。いじめ、不登校、中途退学、学級崩壊が依然として深刻」がなぜもたらされたのか、について一切言及がない。
少なくとも、この部分については、文部省の教育政策への反省が盛り込まれるべきである。

さらに、「青少年の凶悪犯罪が増加」は同意できるが、「家庭や地域の教育力が不十分」とすべての責任を家庭・地域の責任に転嫁することができるのか。なぜ、「家族や友人への愛情をはぐくみ、豊かな人間関係を築くことが困難な状況」が生まれたのか、について何の言及もない。

少なくとも、これには高度経済成長による「農村共同体」の上げ底化、農村人口の都市流入による人口構成比率の劇的変化など戦後日本の社会構造の変化が基底部にあり、すべてを【家庭・地域】の責任にするには無理がある。

さらに、上記の社会構造の変化が人間の意識にもたらす変化を無視している。少なくとも昭和60年代後半には、過去の日本人を縛ってきた【農村共同体的倫理観】や世間様に恥ずかしい、とか顔向けできないという【世間意識】などは、完全に上げ底化していたのである。
この意識が子供や若者たちの行動に対する大きな歯止めになっていた。これが上げ底化すれば、行動に歯止めがかからなくなるのは、当たり前である。
これに対して文部省の施策は、【道徳教育の強化】だった。それも、古色蒼然たる儒教的倫理観の徳目の復活だった。

社会の基底部でおこっている変化を読めば、当時日本社会にもっとも求められたのは、【世間意識】ではなくて、【社会意識】の育成であり、【農村共同体的倫理観】にかわる【コミュニテイ意識】(※農村とか封建的という言葉をとった共同体意識とでもいうべきもの)構築であり、【儒教的倫理観】の復活でなくて【市民意識】と【民主主義的価値観】の育成でなければならなかったはずである。

さらに、明治時代〜高度成長期までは、国民に具体的手触りがあった「身を立て名を上げ」式の立身出世主義が、教育の大衆化・国民の中流意識の浸透とともに、激しい受験戦争と教育の商品化の波にさらされ、新たな教育の階層化を生み出したのである。これに対する反発が「落ちこぼれ」から「登校拒否」を生み出し、さらには激しい【校内暴力】として現出したのである。

中教審の答申には、この文部省の時代認識のずれが、現在の学校危機の大きな要因になった、ということに対する反省が全くない。
それどころか、家庭・地域に対する責任転嫁・現行教育基本法に対する責任転嫁が目立っており、これでは教育基本法改正の問題意識すら疑われかねない。

次に、まるで屋上屋を重ねるように書かれている【改正の視点】と「改正の方向」を見てみよう。
上のほうが原則論、下のほうが具体論であろう。

まず、改革の視点として書かれている「21世紀を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成を目指す観点」という文言であるが、【たくましい】という言葉にこの改正の意図が垣間見える。
では【たくましくない】人間は駄目なのか、という反論がすぐ浮かぶ。このような価値判断を伴う言葉を教育基本法という教育にとっての憲法とでもいうべき法令に使用すること自体間違っている。
この言葉から連想されるのは、なよなよした男の子、女性などに対する蔑視である。明らかに男女平等の原則に反するような言葉を盛り込むことじたい、この改革案の基本的精神を疑わざるをえない。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re:教育基本法改正(改悪)?問題(3)  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/10/6(水) 22:30  -------------------------------------------------------------------------
   では、改革案の内容を具体的に見てみよう。
(1)、家庭の教育力の問題に踏み込んでいる。→「公」が個人の家庭の問題に介入できる法的根拠が与えられる。⇒戦後の教育理念の大転換
(2)、【公共】に主体的に参画する意識・態度の涵養とは、どういうことを意味するのか。→具体論では、【社会の形成に主体的に参画する「公共」の精神、道徳心、自律心の涵養 】となっているが、ここは非常に微妙で、相当な議論が必要である。

現行教育基本法の精神は、基本的には【国家】からの教育の独立を基本としている。
だから、教育基本法第10条では、1.【教育は、不当な支配に屈することなく、国民に対して直接に責任を持って行われるべきものである】と規定し、2.では【教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するために必要な諸条件の整備確立を目標として行わなければならない】と規定している。
つまり、国家は家庭の教育などに踏み込んではならないといっているのである。

原則論的にいえば、社会=【公共】という議論は一度立ち止まる必要がある。この論理には、現在の日本が成熟した民主主義社会であるという前提がある。
しかし、現在の日本の状況をみれば、成熟した民主主義社会の担い手が育っているかどうかには相当な疑問符がつく。
現行の教育基本法は、この民主主義社会の担い手育成を重要な目標にしていた。それが、なぜできなかったかについての、厳密な検証なしに、【社会の形成に主体的に参画する「公共」の精神、道徳心、自律心の涵養 】といわれても、あまり信用できない。

過去の文部行政を知っているものは、「社会の形成に主体的に参画する」は社会向けの理屈であり、主眼点は【公共の精神】【道徳心】の涵養にあると読む。つまり、お上のいうことに従順な国民を育てることに主眼点があると読める。

(3)、日本の伝統・文化の尊重→総論としてこれに反対する人は少ない。
郷土や国を愛する心→郷土を愛することに反対する人も少ない。普通に考えれば、国を愛することに反対する人も少ない。
ただ、【伝統・文化】とは何かが全く分からない。【郷土や国を愛する心】も、愛することのできる郷土を作り、国を作れば、自然と生まれるものであり、ことさら強調しなければならない理由も分からない。

戦前の痛切な反省は、【神州日本】とか【愛国心】を強調するあまり、完全に国際性を失い、悲惨な戦争に突入していったことにある。
だから、多くの国民の間には、【愛国心】をことさら強調したり、強要したりする人間・組織に対して、必要以上の警戒心がある。
この批判を意識しているためか、「国際社会の一員としての意識」という言葉を挿入しているが、如何にも取ってつけているという印象は拭いきれない。
【伝統・文化】とか【郷土や国を愛する心】をことさら強調して、教育基本法に入れようとする意図はある程度見えている。

神の国発言で有名な森前首相・中曽根元首相などが、この改正のもっとも熱心な促進者であることを見れば、【伝統文化】と【郷土や国を愛する心】の本当の狙いがどのあたりにあるかぐらいは誰にでも見当がつく。
だからこそ、戦前の思想弾圧の記憶がある公明党も強く反対するのであろう。

さらに、改正案をよくみてみると【涵養】という言葉が、頻繁に使われている。
「個人の自己実現と個性・能力、創造性の涵養」「社会の形成に主体的に参画する『公共』の精神、道徳心、自律心の涵養」「日本の伝統、文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養」などのように、当用漢字にもない「涵養」を多用している。
「涵養」とは、「自然に水がしみこむように、徐々に時間をかけてじっくりやしない育てること」(『広辞苑』)であり、「・めぐみでうるおし養う。・道徳や学問のなかにひたるようにして身をつける」(『角川新字源』)という意味である。

つまり、意地悪な読み方をすれば、【公共の精神や道徳心や伝統・文化の尊重や郷土・国を愛する心、の中にひたるようにして身につける】というのが真の狙いと読める。具体的にイメージするならば、【将軍様のおかげ】を繰り返す某国の教育を連想すれば充分であろう。

上記の視点を総合して考えると、【教育における「公」の役割の肥大】という視点でくくられると思う。
しかも、最初に【信頼される学校教育の確立 】と書かれているが、これでは現行教育基本法があったため、「信頼されない学校教育」になったといわんばかりの書き方である。
【信頼されない学校教育】になったという反省があるのなら、【教育基本法】にそのすべての責任をなすりつける発想ではなく、戦後の文部行政のあり方からきちんと洗いなおすのが筋というものである。
これでは、文部行政はよくやったが、うまくいかなかったのは、現行教育基本法のせいだったといわんばかりの書き方である。

現在の教育問題の根源には、文部省(国)の教育に対する過剰な統制があり、まず文部省権限の縮小が教育改革の最大の目標であるべきにもかかわらず、これではまるで焼け太りとしか思えない内容である。
教育基本法第10条2項の【教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するために必要な諸条件の整備確立を目標として行わなければならない】という規定は、国の責務は教育条件の整備確立であるとされていることの意味に全く逆行するものだといわざるを得ない。

教育には、(1)内的事項と(2)外的事項がある。【内的事項】とは、文字通り教育内容に関するものであり、【外的事項】とは教育条件の整備確立(校舎など)に関するものである。
教育基本法第10条2項の規定は、教育行政は「外的事項」だけにかかわりなさい、という規定なのである。
ところが、教育の地方分権化とか自由化という名目で行われている一連の教育改革は、(2)の外的事項は地方に、「内的事項」は国家に、という全く逆の発想で行われている。

このことから考えると、今回の教育基本法改正の狙いは、【教育の国家統制】以外にないことが、明確になっていると思う。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re:教育基本法改正(改悪)?問題(4)教育基本法の意義  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/10/6(水) 22:34  -------------------------------------------------------------------------
   戦後60年近くたった今でも、教育基本法の精神は、それほど国民に定着しているとは、言いがたい。
戦前の教育は、天皇主権のもと、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」(教育勅語)にあるように、いざというときは天皇に命をささげるという臣民をつくるためのものだった。
参考までに、教育勅語を書いておく。

【教育勅語】
【朕(惟フニ 我カ皇祖皇宗 國ヲ肇ムルコト宏遠ニ 璽鮗D張襯灰反叱」淵蝓_罐^談院々逎b薀法々逎XД法_b^乾魄譽縫轡董\だひ丱糧」鰡札札襯蓮〆.豌罐s鵐寮魂撻縫轡董ゞ軌薀諒ジ史鰌薀忘.紡献后ーた談院”稱譽帽Д法〃残錺僕Д法”徂愾袁促景ヒЯ蠖」掘ゞ角W淵譽鮖D掘’邂サ哀傍撻曠掘》椒鮟ぅ瓠ゞ肇鮟」辧^淵特卩愁魴錫ぅ掘。紗撻鮴サ▲掘/淵童ッ廛鰈▲瓠\ぬ灰魍D@‐錺穆オD鮟泥掘《∨.暴絅辧^戝挟傍泪▲譽蓮ゝ鼠Ω」吠凜掘^淵禿茎疚亀腑旅脹織鯢淪礇好悒掘\Д稜.D蓮÷廛蠶織b蚓疋凌談吋織襯離潺淵薀后)ョ淵銅ち沈茱琉簓D鴃]乾好襯紡D薀鵝〇曠瞭札蓮》薀鵬罐X珍長捗.琉箏吋縫轡董〇丗洪談吋龍罐暴綣薀好悒\蝓’轡鮓添D膨魅轡読汽薀糠轡鮹羈哀忙椒轡敦D薀后…深た談吋閥罐法〃Vh蜷D轡董〈aカ璽魄譽縫札鵐灰肇鮟邊」奸ロ

この短い文章の中に【臣民】という言葉が6回もでている。
つまり、【勅語】というのは、天皇から臣民へ下しおかれた言葉である、ということが理解される。

戦後、「教育勅語」は廃止され、戦前の「教育勅語」体制は、新憲法・教育基本法体制に転換した。
教育基本法の前文は、このことを以下のように述べている。
「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。 」

ここには、「民主的で文化的な国家の建設」と「世界平和と人類の人類の福祉に貢献しよう」という理想が述べられ、その実現のためには「根本においては教育の力」しかないということが述べられている。

「教育勅語」の理念と「教育基本法」の理念との明確な違いが、これだけでも感得されるはずである。
ここで、戦前の教育と、教育基本法が目指した戦後教育理念との違いを書いておく。

1、(教育の目的)
・戦前⇒軍国主義と戦争に備えるための「臣民」つくりの教育。国家有為な人材を育成するエリー   ト教育
・戦後⇒国民が主権者であり、一人一人の子供たちの人間性の開花、「人格の完成」を目指す教育。
教育基本法では【第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。】と述べられている。

2、(国と教育の関係)
・戦前⇒国家目的に従属する、国家目的の手段としての教育
・戦後⇒子供一人一人の可能性を育てることを目的としている。
     国家は、教育に口を出したり、統制するのではなく、一人一人の人間の【権利】としての教育をどのように保障するのか、その条件整備に責任を負う、とされた。

【教育基本法 第10条 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。】
※ここで重要な解釈上のポイント→「不当な支配」という文言に、【時の政治権力も含まれる】というのが立法時の解釈であり、当時の文部省の解釈だった。

この「教育を受ける権利」は、日本国憲法にも書かれている。
「第二十六条【教育を受ける権利、教育の義務、義務教育の無償】
1 、すべて国民は、法律(教育基本法第三条第二項)の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 、すべて国民は、法律(教育基本法第四条)の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。 」

人間の学ぶ権利が明記され、【人権としての教育】という思想が、戦後教育の中心になった。
また、【義務教育】規定も書かれているが、これも戦前とは全く概念が違う。
戦前⇒「臣民」の義務、という義務教育概念。
戦後⇒人権としての教育を保障する責任と義務を「親」「地方自治体」「国」が負う。教師の任務とその責任も「子供の学習権の保障」に求められている。

3、(教育の方針)
戦前⇒国民道徳形成のためには真実はゆがめられてもよい。(滝川事件、天皇機関説問題など)
↓ 『反省』
戦後⇒『学問の自由』という方針が出されている。
教育の目的は、あらゆる場所において(学校・家庭・地域・職場など)実現されなければならないと述べており、そのためには真実を追究する『学問の自由』は尊重されなければならないとしている。
(教育基本法)
「第2条 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。」

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):教育基本法改正(改悪)?問題(4)教育基本法の意義  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/10/6(水) 23:09  -------------------------------------------------------------------------
   教育勅語が文字化けしているようなので、もう一度書く。

【朕(惟フニ 我カ皇祖皇宗 國ヲ肇ムルコト宏遠ニ 璽鮗D張襯灰反叱」淵蝓_罐^談院々逎b薀法々逎XД法_b^乾魄譽縫轡董\だひ丱糧」鰡札札襯蓮〆.豌罐s鵐寮魂撻縫轡董ゞ軌薀諒ジ史鰌薀忘.紡献后ーた談院”稱譽帽Д法〃残錺僕Д法”徂愾袁促景ヒЯ蠖」掘ゞ角W淵譽鮖D掘’邂サ哀傍撻曠掘》椒鮟ぅ瓠ゞ肇鮟」辧^淵特卩愁魴錫ぅ掘。紗撻鮴サ▲掘/淵童ッ廛鰈▲瓠\ぬ灰魍D@‐錺穆オD鮟泥掘《∨.暴絅辧^戝挟傍泪▲譽蓮ゝ鼠Ω」吠凜掘^淵禿茎疚亀腑旅脹織鯢淪礇好悒掘\Д稜.D蓮÷廛蠶織b蚓疋凌談吋織襯離潺淵薀后)ョ淵銅ち沈茱琉簓D鴃]乾好襯紡D薀鵝〇曠瞭札蓮》薀鵬罐X珍長捗.琉箏吋縫轡董〇丗洪談吋龍罐暴綣薀好悒\蝓’轡鮓添D膨魅轡読汽薀糠轡鮹羈哀忙椒轡敦D薀后…深た談吋閥罐法〃Vh蜷D轡董〈aカ璽魄譽縫札鵐灰肇鮟邊」奸ロ

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):教育基本法改正(改悪)?問題(4)教育基本法の意義  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/10/6(水) 23:13  -------------------------------------------------------------------------
   どうも文字化けが訂正できないので、以下のところで読んでください。
http://www.meijijingu.or.jp/intro/education/

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):教育基本法改正(改悪)?問題(1)  ■名前 : 団塊党  ■日付 : 04/10/9(土) 12:27  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:

>現行教育基本法の精神は、基本的には【国家】からの教育の独立を基本としている。
>だから、教育基本法第10条では、1.【教育は、不当な支配に屈することなく、国民に対して直接に責任を持って行われるべきものである】と規定し、2.では【教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するために必要な諸条件の整備確立を目標として行わなければならない】と規定している。
>つまり、国家は家庭の教育などに踏み込んではならないといっているのである。

現行教育基本法が「国家からの教育の独立」を基本としているにもかかわらず、これまでの文部行政はこれを無視し続けて来ました。
学習指導要領が教師の授業をしばるものとして存在し続けたことが、日本の教育を良くも悪くも決定づけた最大の要因だと思いますが、流水さんは如何お考えでしょうか。

>・・・・現行の教育基本法は、この民主主義社会の担い手育成を重要な目標にしていた。それが、なぜできなかったかについての、厳密な検証なしに、【社会の形成に主体的に参画する「公共」の精神、道徳心、自律心の涵養 】といわれても、あまり信用できない
>【信頼されない学校教育】になったという反省があるのなら、【教育基本法】にそのすべての責任をなすりつける発想ではなく、戦後の文部行政のあり方からきちんと洗いなおすのが筋というものである。
>これでは、文部行政はよくやったが、うまくいかなかったのは、現行教育基本法のせいだったといわんばかりの書き方である。

まったくその通りだと思います。
何故、現行教育基本法が改正されなければならないのか、説得力がありませんね。
家庭や学校や社会を批判するのみで文部省自身の反省はどこにも見られません。
まさか反省点がなかったとは思っていないでしょうに。

>・・・・ところが、教育の地方分権化とか自由化という名目で行われている一連の教育改革は、(2)の外的事項は地方に、「内的事項」は国家に、という全く逆の発想で行われている。
>・・・・このことから考えると、今回の教育基本法改正の狙いは、【教育の国家統制】以外にないことが、明確になっていると思う。

どこの国もある程度の国家統制はありますが、日本は戦後の一時期を除いてこれが大変に顕著です。
その結果、日本の学校は世界の中でも珍しいぐらい統制型の画一教育を行っています。

未だに40人近い子どもが狭い教室の中で前を向いて教師の一斉授業を受けています。
教師自身がこれに慣れきっています。
私の学校でもほとんどこのことに疑問を持っていません。
私自身もつい最近まで、疑いを持ちませんでした。
慣れると言うことは恐ろしいことです。
一斉授業の技術にかけては日本の教師は世界のトップクラスではないでしょうか。

高度成長時に一時、世界からこの効率優先の授業形態が注目されましたが、今では逆の意味でまた注目され始めています。
主要国の学校は20人前後の子ども達が、様々な学習形態の中で教師の個性に応じて多様な学習活動を展開しています。

教育基本法が改正されて国家統制が強まれば、世界の先進的な教育からますます取り残されていくのではないかと危ぶんでいます。
何よりも教師個々の創意工夫を尊重するような、包容力のある行政を期待するのですが、そこから遠ざかる一方です。
教師自身がしばられることを好んでいる面があることも大きな問題です。
長い間飼い慣らされてきた結果、自由に耐えられる力を持ち合わせてはいませんから。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):教育基本法改正(改悪)?問題(1)  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/10/9(土) 17:49  -------------------------------------------------------------------------
   ▼団塊党さん:

>現行教育基本法が「国家からの教育の独立」を基本としているにもかかわらず、これまでの文部行政はこれを無視し続けて来ました。
>学習指導要領が教師の授業をしばるものとして存在し続けたことが、日本の教育を良くも悪くも決定づけた最大の要因だと思いますが、流水さんは如何お考えでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わたしも同意見です。ただ、わたしは、常に斜めの抵抗姿勢でこれに対処してきたつもりです。
指導要領は読みます。教える内容もきちんと網羅します。中学校では、そうしないと、高校入試に困ります。また、複数の教師で同一教科を持つ場合が多いので、進度などをあわせる必要があります。そういう意味では指導要領は便利といえば便利なのです。

こういう枠を受け入れた上で、授業は教師と生徒の共同作業というのが、わたしの基本的な立場でした。生徒の興味関心をかきたて、時間的制約の中で、あらゆる方法を駆使しました。(※一斉授業・主体性授業・ロールプレイイング・パネルデイスカッション・デイベートなど)
時には、積極的に地方史研究を取り入れ、一冊の冊子にまとめたこともあります。
当然ながら、指導要領の内容をはるかに超えたものを教えてきました。
中学校では、模擬テストの結果がよければ、それで文句をいう管理職は誰もいません。わたしは、その意味では点数にこだわりました。自由の範囲を広げるためです。ですから、模擬テストの結果で、他校にひけをとったことはほとんどありません。そうしないと、自分が理想とする授業ができないからです。

わたしの発想は、【巴投げ】でした。相手の土俵で相撲を取るのです。一度自分の身を投げて、相手を倒すのです。ですから、多くの同僚教師は、わたしのことを受験指導のうまい教師だと思っていました。
これからは、ますますわたしのような発想が必要になる時代だと思います。

●まったくその通りだと思います。
>何故、現行教育基本法が改正されなければならないのか、説得力がありませんね。
>家庭や学校や社会を批判するのみで文部省自身の反省はどこにも見られません。
>まさか反省点がなかったとは思っていないでしょうに。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
無反省・無責任・無恥が特徴でしょう。
国立教育研究所の研究の自由のなさを嘆いていたある教授を知っていますが、ほとんどあれをしろ、これをしろ、という上意下達の世界だそうです。
わたしの県の指導課では、指導主事などは指導課長の前では、直立不動だそうです。わたしは多くの同僚や後輩が指導主事になっていますので、彼らからよく話を聞きました。やはり、上下のヒエラルヒーをきちんとしないと、一枚岩の指導ができないのでしょう。
こういう世界では、反省などという人間的行為はなかなか出せないはずです。

●>未だに40人近い子どもが狭い教室の中で前を向いて教師の一斉授業を受けています。
>教師自身がこれに慣れきっています。
>私の学校でもほとんどこのことに疑問を持っていません。
>私自身もつい最近まで、疑いを持ちませんでした。
>慣れると言うことは恐ろしいことです。
>一斉授業の技術にかけては日本の教師は世界のトップクラスではないでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本の教師の指導技術はすばらしいと思いますよ。ただ、技術(方法論)というものは、それを生み出した理念が背景にあります。その理念実現のためにもっとも有効な方法論(技術)というものがあるはずです。
往々にして、自分の理念とは違う理念のために生み出された方法論(技術)をそのまま借用するケースが多いのが、欠点でしょう。
自分の教育理念を磨いて、そこから自分なりの方法論(技術)を作り出す気概が必要だと思います。
>
●主要国の学校は20人前後の子ども達が、様々な学習形態の中で教師の個性に応じて多様な学習活動を展開しています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
米国では、クリントン大統領が18人学級を打ち出していましたね。現代のような時代では、小学校はこの程度の人数規模が適当ではないでしょうか。
わたしは、45人から12人までの学級規模を経験しましたが、経験的に言うと中学校では、25人〜30人くらいが最適だと思います。
丁寧な個別指導と適度な競争意識と集団意識の向上という視点から考えれば、あまり少なすぎてもよくないと思います。
>
●教育基本法が改正されて国家統制が強まれば、世界の先進的な教育からますます取り残されていくのではないかと危ぶんでいます。
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現在の教育改革が進行し、教育基本法が改正されれば、間違いなくそうなります。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):教育基本法改正(改悪)?問題(1)  ■名前 : 団塊党  ■日付 : 04/10/9(土) 21:54  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:

>指導要領は読みます。教える内容もきちんと網羅します。中学校では、そうしないと、高校入試に困ります。また、複数の教師で同一教科を持つ場合が多いので、進度などをあわせる必要があります。そういう意味では指導要領は便利といえば便利なのです。

>こういう枠を受け入れた上で、授業は教師と生徒の共同作業というのが、わたしの基本的な立場でした。生徒の興味関心をかきたて、時間的制約の中で、あらゆる方法を駆使しました。(※一斉授業・主体性授業・ロールプレイイング・パネルデイスカッション・デイベートなど)
>時には、積極的に地方史研究を取り入れ、一冊の冊子にまとめたこともあります。
>当然ながら、指導要領の内容をはるかに超えたものを教えてきました。

現状ではそのようなスタンスで行くしかありませんね。
日本の教師達は様々な制約のある中で、民間教育団体を中心にして本当に良くやってきていると思います。
流水さん達の年代はその先頭に立って引っ張って来たんじゃないでしょうか。
それがかろうじて現在の教育にもつながってきています。
それがなかったらもっと悲惨な状況になっていたでしょうね。

>中学校では、模擬テストの結果がよければ、それで文句をいう管理職は誰もいません。わたしは、その意味では点数にこだわりました。自由の範囲を広げるためです。ですから、模擬テストの結果で、他校にひけをとったことはほとんどありません。そうしないと、自分が理想とする授業ができないからです。
>
>わたしの発想は、【巴投げ】でした。相手の土俵で相撲を取るのです。一度自分の身を投げて、相手を倒すのです。ですから、多くの同僚教師は、わたしのことを受験指導のうまい教師だと思っていました。
>これからは、ますますわたしのような発想が必要になる時代だと思います。

巴投げですか。相手の土俵で一度自分の身を投げる。
したたかさが必要ですね。
制約のある中でのちょっとした工夫を私もいろいろやっています。
そうせざるを得ないですね。

>無反省・無責任・無恥が特徴でしょう。
>国立教育研究所の研究の自由のなさを嘆いていたある教授を知っていますが、ほとんどあれをしろ、これをしろ、という上意下達の世界だそうです。
>わたしの県の指導課では、指導主事などは指導課長の前では、直立不動だそうです。わたしは多くの同僚や後輩が指導主事になっていますので、彼らからよく話を聞きました。やはり、上下のヒエラルヒーをきちんとしないと、一枚岩の指導ができないのでしょう。
>こういう世界では、反省などという人間的行為はなかなか出せないはずです。

そういう世界に興味のある人、生きることの出来る人達が集まりますから、そうなっていくのでしょう。
指導的な立場に立つ人はそれなりの実質を内面に持って欲しいですが、そうはなりません。皮肉なことです。

>日本の教師の指導技術はすばらしいと思いますよ。ただ、技術(方法論)というものは、それを生み出した理念が背景にあります。その理念実現のためにもっとも有効な方法論(技術)というものがあるはずです。
>往々にして、自分の理念とは違う理念のために生み出された方法論(技術)をそのまま借用するケースが多いのが、欠点でしょう。
>自分の教育理念を磨いて、そこから自分なりの方法論(技術)を作り出す気概が必要だと思います。

その通りですね。
そのへんの自覚を持っている教師はだんだん少なくなってきているのではないでしょうか。
法則化運動などその典型です。

>わたしは、45人から12人までの学級規模を経験しましたが、経験的に言うと中学校では、25人〜30人くらいが最適だと思います。
>丁寧な個別指導と適度な競争意識と集団意識の向上という視点から考えれば、あまり少なすぎてもよくないと思います。

30人を超えると、急に親密度がうすれます。
つい、子どもを束にして見てしまいます。
授業の形態も限られてきます。
やはり、25人程度がベストだと思います。
世界の多くがその程度なのは偶然ではないように思います。
学級規模は単に子どもの一人一人に目が行き届くかどうかだけでなく、授業の可能性を規定する重要な要素だと思います。

日本の学校が未だに戦前の軍隊と似た要素(例えば集団行動の訓練、全校朝礼など)を残しているのも、これと無関係ではないのではないでしょうか。
大人数だとどうしても統制的な教育になりがちですし、子ども達も集団の中に埋没してしまいがちです。

新人類という言葉が生まれて久しいですが、本質的には昔から子どもは変わっていません。
自分を表現できない、群れないと安心しないと言ったような点で、変わっていないように感じています。
外国の子ども(後進国とか先進国にかかわらず)と比べて、どこか伸びやかでないように感じます。
個性化の時代と言われていますが、全然そうなっていません。
むしろ昔の子よりも一層、没個性化しています。

先日、中学の授業を見てきましたが、まるで印象が良くないですね。
特に女の子がひどいですね。
きゃっきゃっとがさついている割にはちっとも開放的ではありません。
今の子ども達はもっと親密で家庭的な雰囲気の中でしか自分を開かないと思います。
なだいなださんの紹介された映画「僕の好きな先生」をこの前見ましたが、あの親密な雰囲気はあの人数でしか不可能です。

学級規模の問題だけではないでしょうが、この問題をもっと行政は深刻に捉えるべきだと思います。
これをほっておいては、改革も何もあったものではありません。
少人数授業などと小手先の対策で安上がりの教育費をごまかそうとしているとしか思えません。

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