Page 1698 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼心とは;仏教的空について 流水 04/9/25(土) 22:39 ┣Re(1):心とは;仏教的空について ウミサチヒコ 04/9/25(土) 23:57 ┃ ┣Re(2):心とは;仏教的空について 流水 04/9/26(日) 7:08 ┃ ┃ ┗Re(3):心とは;仏教的空について ウミサチヒコ 04/9/26(日) 7:47 ┃ ┗Re(2):心とは;仏教的空について しろは 04/10/16(土) 18:02 ┣Re(1):心とは;仏教的空について しろは 04/10/5(火) 21:22 ┃ ┗Re(2):心とは;仏教的空について 流水 04/10/5(火) 22:25 ┃ ┗Re(3):心とは;仏教的空について 東光 04/10/18(月) 0:39 ┃ ┗天使 しろは 04/10/18(月) 4:29 ┃ ┣Re(1):天使? 桃李 04/10/18(月) 6:48 ┃ ┃ ┗Re(2):天使? しろは 04/10/26(火) 8:44 ┃ ┃ ┗しろはさまへ贈る言葉 桃李 04/10/26(火) 17:31 ┃ ┗Re(1):天使 英 04/10/18(月) 20:49 ┃ ┗Re(2):天使 しろは 04/10/26(火) 8:48 ┣Re(1):心とは;仏教的空について しげちよ 04/10/5(火) 22:34 ┣Re(1):心とは;仏教的空について 英 04/10/7(木) 23:43 ┣Re(1):心とは;仏教的空について 蟷螂の斧 04/10/17(日) 0:08 ┃ ┗Re(2):心とは;仏教的空について しげちよ 04/10/17(日) 22:57 ┣Re(1):、まとめレスにて失礼 流水 04/10/18(月) 9:57 ┃ ┣Re(2):、訂正 流水 04/10/18(月) 10:02 ┃ ┗Re(2):、まとめレスにて失礼 東光 04/10/18(月) 22:48 ┣Re(1):心とは;仏教的空について 英 04/10/18(月) 21:00 ┗Re(1):心とは;仏教的空について 高橋 04/10/19(火) 18:53 ┗Re(2):心とは;仏教的空について 57歳未老人 04/10/19(火) 22:03 ┗Re(3):心とは;仏教的空について 高橋 04/10/26(火) 22:07 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 心とは;仏教的空について ■名前 : 流水 ■日付 : 04/9/25(土) 22:39 -------------------------------------------------------------------------
ロラン・バルトは、「表徴の帝国」の中で、大要次のようなことを述べている。 【ヨーロッパの大都市の中心はつねに充実している。官庁があり、デパートがあり、あるいは教会があり、それぞれ権力性や金銭性や、宗教性を代表している。そういうものが、年の中心に充満している。ところが、日本の東京という大都市の中心には、『空虚なるもの』がある。それは、もちろん、緑と濠によって隔てられた、誰からも見られることのない皇帝の住居である。その周囲を素早い速度で車が迂回している。その「空虚」な中心がある種の力を放射していて、『都市の一切の動きに空虚な中心点を与えて、動きの循環に永久の迂回を強制するためにそこにある』】 これはこれで非常に面白い天皇制論の一つですが、その問題はさておいてバルトが【空】なるものに、ある種の意味を認めているところが興味深い。 茶碗の中は空だからこそ有用であるとか、日本建築の一見無駄に見える空間が、きわめて重要であるとか、【無用の用】という老子的東洋思想にきわめて近い考え方を提示している。 彼の見方は、日本文化論として、ある意味正鵠を得ている。 日本文化にとって【空】という考え方は、きわめて重要である。特に仏教的思考においては、「空」という考え方は、その中心に位置していると考えても過言ではない。 わたしが辛うじて暗誦できるお経の一つに、「般若心経」がある。日蓮宗と真宗以外の大方の宗派で唱えられている。このお経を暗誦できれば、お葬式でそれほど恥をかくことはないというくらいポピュラーなお経である。 日本人の大多数の人が一度や二度は聞いたことがあるし、日本人で「般若心経」の名前を知らない人もごく少数であろう。 しかし、「般若心経」の意味は、名前を知られているほど理解されているとは思えない。それほど「深い」ということでもある。 お経の解説は、今では解説本が多数出ているので、そちらで読んでいただくとして、ここでは【空】の意味を探ってみたい。 ★観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 般若心経の冒頭の句である。観自在菩薩とは観世音菩薩と同じ意味である。 「自在」という文字を挿入したところに、このお経の真骨頂がある。観自在は「観ること自在」と読む。 ここで重要なのは、【見る】と【観る】の意味の違いである。【見る】はわれわれ凡人のように、さまざまなものや事象を、ただ単に見る、あるいは見過ごしていることを指している。 ところが、【観る】は単に【見る】ではなくて、細部にいたるまですべて観る、ということを意味し、それが【自在】ということは、あらゆることすべてをお見通しであるということを意味している。 つまり、【観世音菩薩】は、人間のすべてをお見通しの【自在な】【観る力】を持っているということ意味している。 次に、行深般若波羅蜜多時を考えてみる。 まず、「般若」の意味を考える必要がある。 解説書では、【般若】とは、おおいなる知恵のこと、と書かれている。 ここで説かれている【知恵】とは、われわれが一般的に理解している【知恵】とは多少異なり、仏から授かるものだと考えられている。もちろん、【知識】などとは、全く意味合いが違う。 人口に膾炙している「知恵」の持ち主が、だいたい老人を想定しているのは、生きる経験をつんでいるため、【仏】に近くなっている人、という意味合いが込められているのであろう。 波羅蜜多は【知恵】を得るための道という意味であり、そのための修行をして悟りを完成させることを言っている。 照見五蘊皆空とは、【知恵】を得るための修行をしていたら、突如【照見】したという意味で、 何をというと、【五蘊】=(色受想行識)が「空」だということを悟ったといっているのである。 この場合、【五蘊】=(色受想行識)とは、物質・肉体や感受作用・想念・意思・認識などを意味しており、そういうものは一切【空】だと言っている。ここで述べられていることは、いわゆる【悟り】の原体験に近い。 「悟り」を開いたとされる人の経験談を読んでいると、共通しているのが、何かが【光る】ということである。 例えば、わたしは【座禅】経験の深い人から直接そういう話を聞いたことがある。だからその人は、仏像が【光背】を背負っている意味が実感できるという。あれは、「悟り」の瞬間をあらわしているのだ、というのである。 われわれ凡人にはとても理解できないが、【悟り】とは、本当にパット光が差し込むような体験なのであろう。 つまり、ここでは、人間の心身に起こることすべてが、何もかも【空】だと【悟る】ことが書かれているのである。 この【空】が、般若心経全体のテーマなのである。 もう少し、【空】について、説明すれば、仏教的【縁起】という考え方に深く結びついている。 五蘊皆空について言えば、「色受想行識」(物質・肉体や感受作用・想念・意思・認識)は、自分以外の一切のものから成立している(縁起)と考える。仏教では、このことを仮に和合している、という意味で、「仮和合」という。 しかし、仮に和合しているだけだから、【縁】がなくなれば、たちまち和合は飛び散ってしまう。これが、【死】ということになる。つまり、仏教的に考えれば、【死】とは、【縁】がなくなる=和合がなくなる、ということを意味するのである。 ここに仏教的思想の核心がある。人間というものは非常に不安定な存在で、その生き死には他の【縁】という不可思議なものによって左右される。だから、人の【生死】は背中合わせだというのである。その意味で、「朝に紅顔、夕には白骨」というのは、見事な仏教的人生観の表現なのである。 これを少し現代的に解釈すると、仏教的【空】の思想は、人間の欲(仏教的にいうと煩悩)を諸悪(人間の悩み・迷いなど)の根源と考えており、この欲をいかに克服して心の平安を取り戻すかという視点で貫かれている、と考えられる。 もともと仏教では、、ものの見方に関して言えば、分別することを極端に嫌う。これは、西欧流のものの見方に慣れたわれわれにはきわめてわかりにくい考え方である。 近代社会というものは、ものを細かに分類することから成り立っている。物質を細かく分類して、分子・原子・原子核という風に、物の成り立ちを理解していくというのが、科学的であると考えている。 この考え方が社会のあらゆるとこに応用されて、われわれのいう近代社会は成立しているといってよい。コンピュ−ターなどはその典型である。 しかし、仏教的世界観はそのように考えない。 よく見れば、なずな花咲く垣根かな(松尾芭蕉) という句で考えてみる。 分析的に解釈していけば 「よく見れば」・・・・・→「あまり周囲に注意をはらわなかったが、不図気がついてよく辺りを注意深く見れば」、の意であろう。 「なずな花さく」・・・・・・→春の七草の一つであるなずなの花が咲いていた。なずなは風に揺れたときの音から「ペンペン草」(ぺんぺんぐさ) とも、 実が三味線の撥(ばち)に 似ているため、「三味線草」(しゃみせんぐさ) とも呼ばれるが、このときはかすかな音でも出していただろうか。 「垣根かな」・・・・・→木の垣根がふさわしいか、竹の垣根のほうだろうか。 という風に細かく分析していく。そのうちに、「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」という句の持つ全体の味わいとか余韻など、どこかに消えてしまう。 実は、この句の一番のポイントは、「垣根かな」の「かな」というところにある。 この句の字句的な解釈は誰にでもできる。「よく観察してみれば、垣根になずなの花がさいているではないか」程度の意味であろう。別に珍しくもない平凡な風景である。芭蕉の句だといわれなければ、そんなに注意を払わないかもしれない。 しかし、この句の持つ深さは、われわれ凡人にはなかなか到達できる世界ではない。 この句の最後の言葉に注目してほしい。なぜ、芭蕉は「かな」という言葉を使ったのだろうか。 芭蕉は、何の変哲もない日常の風景を読みながら、そこに何かを感じた自分の心を「この感じは、いったいなんだろう。わかるでしょ?」と含みを持ってわれわれに投げかけている。 少し、説明すれば、上の分析的な解釈というのは、「花とわたし」「垣根とわたし」は位相が別なのである。「見られる花」「見るわたし」、「見られる垣根」「見るわたし」とは明らかに分けて考えている。 ところが、芭蕉の句は、花を垣根も見ているわたしも、渾然一体となっている。ここには、「見る主体としての自分」が、消えている。おそらく、彼が歩いているだろう、田舎の風景も彼と一体となっているのである、 彼の目は、「なずな」や「垣根」を見ているが、「なずな」も「垣根」も見ていない。彼の目に映じているのは、田舎、なずな、垣根などと一体となった「心象風景」なのだと思う。 「かな」という言葉に込められた「含み」とは、そういう意味であると考えられる。 芭蕉の句からもう一首。 「山路きて なにやらゆかし すみれ草」 これも分析的解釈をすれば、味もそっけもない。しかし、暮れなずむ山々の風景、道に匂うような草いきれ、道のかたわらにそっと咲いたすみれ草、それぞれが一体になった芭蕉の心象風景と解すれば、そんなにたやすく理解できる世界ではない。 実は、「癒し」とか「心の豊かさ」など、マスコミでもてあそぶほど、そんなに簡単に得られるものではない。 仏教で言う「空」の世界も、芭蕉のような境地も、逆説的にいえば、【五蘊】(色受想行識とは、物質・肉体や感受作用・想念・意思・認識)の世界を本当によく生き抜いてこそ到達できるものであろう。 その意味では、ストレス(欲)に満ちた現代だからこそ、仏教的【空】の思想の意味を再評価する意義はあると思う。 |
▼流水さん: >もともと仏教では、、ものの見方に関して言えば、分別することを極端に嫌う。これは、西欧流のものの見方に慣れたわれわれにはきわめてわかりにくい考え方である。近代社会というものは、ものを細かに分類することから成り立っている。物質を細かく分類して、分子・原子・原子核という風に、物の成り立ちを理解していくというのが、科学的であると考えている。 >この考え方が社会のあらゆるとこに応用されて、われわれのいう近代社会は成立しているといってよい。 こんばんわ。 私の場合は仏教と西欧が半々に同居しているようです。分析し尽くして、わからないところは感覚で無理やり納得させます。私の場合は「ベクトル」を非常に気にします。混沌とした状態を認めますが、分子分子がどちらを向いているかに過敏になります。そして、全体がどちらを向いているか、絶えずかぎ分けようとします。おっとりしたところ、総領の甚六的なところがないですね。人徳がない原因でしょうか。あと20−30年修行して、どうなるか、というところです。 以前は自分は典型的な農耕民族と思っていましたが、どうやら狩猟民族のようでもあります。 芭蕉の句から、流水さんのような風景は全然描けません。現国・古文はいつも20−30点でした。「空」の考え方には、どうしても静的なイメージがつきまといます。着物を着て、床の間を背に、黙とうしているような年配の人物が浮かんできます。 流水さんの『批評・般若心経と芭蕉』を読んでの感想でした。 |
▼ウミサチヒコさん: ●私の場合は仏教と西欧が半々に同居しているようです。分析し尽くして、わからないところは感覚で無理やり納得させます。私の場合は「ベクトル」を非常に気にします。混沌とした状態を認めますが、分子分子がどちらを向いているかに過敏になります。そして、全体がどちらを向いているか、絶えずかぎ分けようとします。おっとりしたところ、総領の甚六的なところがないですね。人徳がない原因でしょうか。あと20−30年修行して、どうなるか、というところです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 現代に生きている人の多くはそうではないですか。 仏教的にいえば、「こだわり」の多いのが、現代人の特徴だと思います。 ただ、馬齢を重ねると、少しずつ「こだわり」を消そうという「ベクトル」が働き始めます。 理屈ではなく感覚的に、日本人は、「空」という思想に、慣れているのです。 サチヒコさんが、【20−30年修行して】と書いているのは、きわめて正しい読み方で、サチヒコさんは、たくまずして【自力本願】の考え方を理解しているのです。 だから、【浄土真宗】では、あまり般若心経を読まないのです。なんとなく、【自力】の匂いがするからです。 親鸞の言う【他力】とは、サチヒコさんのいうように、そんなことが【20−30年修行して】本当に可能なのか、という深い問いから入っています。 サチヒコさんは、たくまずして、親鸞と同じ思考のとば口にたっているのです。 ●芭蕉の句から、流水さんのような風景は全然描けません。現国・古文はいつも20−30点でした。「空」の考え方には、どうしても静的なイメージがつきまといます。着物を着て、床の間を背に、黙とうしているような年配の人物が浮かんできます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 仏教の修行には、【静】と【動】のダイナミズムが必要なのです。サチヒコさんのいう座禅でもしているような【静】と一転して山野を駆け巡る獣のような【動】のイメージと、この二つがバランスよく共存させることが【修行】なのです。 この考え方は意外に現代でもあらゆるところに浸透しています。 わたしなども、クラスの作るとき、如何に【静】と【動】を組み合わせた行事を作成するかに苦心しました。 少し、薀蓄を語らしてもらえれば、京都・修学院に「詩仙堂」という石川丈山が住んでいた庵があります。非常にすばらしい庭で有名なのですが、この庭の表情が【静】と【動】の二つの顔を持っているのです。昔、栗田勇という評論家が、この【静」と【動】のダイナミズムこそが、「詩仙堂」の庭の特徴だというようなことを書いていましたが、仏教にはこのようなダイナミズムがあると思いますよ。 |
▼流水さん: >▼ウミサチヒコさん: >●私の場合は仏教と西欧が半々に同居しているようです。分析し尽くして、わからないところは感覚で無理やり納得させます。私の場合は「ベクトル」を非常に気にします。混沌とした状態を認めますが、分子分子がどちらを向いているかに過敏になります。そして、全体がどちらを向いているか、絶えずかぎ分けようとします。おっとりしたところ、総領の甚六的なところがないですね。人徳がない原因でしょうか。あと20−30年修行して、どうなるか、というところです。 >・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >現代に生きている人の多くはそうではないですか。 >仏教的にいえば、「こだわり」の多いのが、現代人の特徴だと思います。 >ただ、馬齢を重ねると、少しずつ「こだわり」を消そうという「ベクトル」が働き始めます。 >理屈ではなく感覚的に、日本人は、「空」という思想に、慣れているのです。 > >サチヒコさんが、【20−30年修行して】と書いているのは、きわめて正しい読み方で、サチヒコさんは、たくまずして【自力本願】の考え方を理解しているのです。 >だから、【浄土真宗】では、あまり般若心経を読まないのです。なんとなく、【自力】の匂いがするからです。 >親鸞の言う【他力】とは、サチヒコさんのいうように、そんなことが【20−30年修行して】本当に可能なのか、という深い問いから入っています。 >サチヒコさんは、たくまずして、親鸞と同じ思考のとば口にたっているのです。 > >●芭蕉の句から、流水さんのような風景は全然描けません。現国・古文はいつも20−30点でした。「空」の考え方には、どうしても静的なイメージがつきまといます。着物を着て、床の間を背に、黙とうしているような年配の人物が浮かんできます。 >・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >仏教の修行には、【静】と【動】のダイナミズムが必要なのです。サチヒコさんのいう座禅でもしているような【静】と一転して山野を駆け巡る獣のような【動】のイメージと、この二つがバランスよく共存させることが【修行】なのです。 >この考え方は意外に現代でもあらゆるところに浸透しています。 >わたしなども、クラスの作るとき、如何に【静】と【動】を組み合わせた行事を作成するかに苦心しました。 > >少し、薀蓄を語らしてもらえれば、京都・修学院に「詩仙堂」という石川丈山が住んでいた庵があります。非常にすばらしい庭で有名なのですが、この庭の表情が【静】と【動】の二つの顔を持っているのです。昔、栗田勇という評論家が、この【静」と【動】のダイナミズムこそが、「詩仙堂」の庭の特徴だというようなことを書いていましたが、仏教にはこのようなダイナミズムがあると思いますよ。 おはようございます。 感想の講評ありがとうございます。仏の道におもわず引き込まれてしまいそうになりました。親鸞は吉本隆明がしきりにとりあげていたような気がします。親鸞を学んであのような皮肉家になっても困りますが。【静】と【動】があるのは初めて知りました。特に【動】は意外でした。 |
流水 様 ウミサチヒコ 様 皆様 すみませんでした 潮目? 私は人が困っている時面白い人がつまらないです ゴーグル、ウエットスーツ、ウエイト着用で釣り場のメッカに潜水、 時間感覚、思考、視覚、聴覚、、まあ適当に酸素の流れを閉じる ただひたすら海の美をイメージ、すらしない 一定深度を潜ると後は自由落下、これは飛行機で急降下するより楽しい どうしても機体はバイト先に返さないと、、よそにツケが回る つまらない、楽しくない どこまで落ちるかを判断し、てきとうに切り上げる ゆっくりと時間をかけて海の底を楽しむ 比較的安価なゲーム 帰って来れるギリギリまで落ちるのが楽しい これに潮の流れが加わるとさらにリスクが増えて面白い 風と水は同じ体感 空、海の体感似て異なるがゆえに快 空とは何か? 答え無し 頭空っぽ状態で十分です 大馬鹿者の問答に答えをいただきましたこと 感謝いたします。 しろは 皆様ご迷惑をどうかお許し下さい |
流水 様 こんばんは よろしくおねがいします 般若心経を以前何回か写経したことが有ります 書籍「世界がわかる宗教社会学入門」の中で 般若心経についての解説文が有ったのを 読みました。 >これを少し現代的に解釈すると、仏教的【空】の思想は、 人間の欲(仏教的にいうと煩悩)を諸悪(人間の悩み・迷いなど) の根源と考えており、この欲をいかに克服して 心の平安を取り戻すかという視点で貫かれている、と考えられる。 【空】について内容を理解できるようになるのは いつになるか、理解できるのかわかりません ただ、私の中のイメージでは 【空】に 敦盛 あつもりが近いように感じられます 敦盛に思うところのひとつが 「どうやったら楽しく生きていけるか?」です 「人生はおもちゃ箱何が出てきても楽しいだけ」 (NHK大河ドラマ毛利元就より引用) 生きていく上で何があってもおもちゃ箱の おまけみたいなものだと思って心を軽くして 生きれたらいいと私は思っています。 |
▼しろはさん: ●ただ、私の中のイメージでは 【空】に 敦盛 あつもりが近いように感じられます ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ これは人によりいろいろな感じ方があると思います。 わたしの考えていることを少し書いて見ます。 最初のスレッドにも書きましたが、仏教的思想に、「縁起」という考え方があります。 わたしたちが住んでいるこの世界の「物」や出来事は、常に現れたり、消えたりしながらしていると見ているのです。 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくにごとし。」という、方丈記の書き出しの文章は、この「縁起」という考え方を見事にあらわしていると思います。 この考え方を、もう少し自分たち結びつけると、私やあなたという人間の存在も何らかの縁起によって存在している、と見るのです。(もちろん、あらゆる生き物も) 人間の存在している根拠となる縁は、私やあなた以外のさまざまな要素によって成り立っています。したがって、私やあなたの存在の根拠であるこの縁が消えると、私とあなたの存在もなくなります。 この世の中は、「縁起」によっていつも現れたり、消えたりする事象よって成り立っているのです。だから、仏教を知らない普通の人(衆生)はそれらの事象に振り回されて、生きているのです。 (わたしのような凡人が典型です。) つまり、この世は無常だといっているのです。縁起によってコロコロ変化するのですから。 このように「縁起」によって現れては消えていく事象の中に、はたして本質があるのかといっているのです。 そんなものに振り回されていて、本当に幸せなのだろうか、と問うているのです。 仏教は、それは人間の本然の性ではないといっているのだろうと思います。 だから、仏教は、「縁起」によって現れては消えていく事象の中に、本質などない、という考え方から 「心」という概念を抽出したのだと思います。 「心」とは、西田哲学でいう【パッと見た瞬間の意識現象を「純粋経験」であると定義して、それこそが真実の実在である】というものだろうと考えています。 どうも、わたしは死ぬまでその境地に達することは難しいようです。それだけ、近代の毒に犯されているのだと思います。 |
▼流水さん: >だから、仏教は、「縁起」によって現れては消えていく事象の中に、本質などない、という考え方から 「心」という概念を抽出したのだと思います。 >「心」とは、西田哲学でいう【パッと見た瞬間の意識現象を「純粋経験」であると定義して、それこそが真実の実在である】というものだろうと考えています。 うん、おじいさんはやっぱりこういうことを考えていないといけない、という見本のようなスレッドです!バルト、西田、等々といわれるとむずむず、むずむず、と口を挟みたくなりますが、ここはこらえることにしましょう(^^; しかしこのあたりはちょっと、もうすこしひねらないといけないと思いますよ。仮にも般若系の教典をかたるのであれば、華厳で言う理事無碍というところが少しは射程に入っていないといけない。 まぁ、大拙なんかもいいが、玉城こうしろう氏みたいな、重厚さのある学究のものも読んでみることです。これはあんまり理事無碍とは関係ありませんが。 最初からなんでも空だ、なんだと言っていると軽くなってしまいますからね。 |
表題 子供達はみんな天使です 仮定 子皆天使 証明 私が体育会を掃除していると ほんのまれに 天子の羽が落ちている そんなことがあるからです。 まさか? ですか?だってかれらは地上にいる時間より、 空の中にいる時間のほうが長いのです。 ゆえに … 人間=翼の折れた天使 こども= 翼のまだ生きている天使 子供達 = みんなてんしです しろはb |
人は苦しみの中より生まれる。聖書に書いてあるそうです。 赤毛のアンの映画で、そういう言葉がありました。 天使はギリシア語のangelos(使者)からユダヤ教、イスラム教、キリスト教 で信じられているそうです。 霊的なもの。もともとは、羽が生えた裸ん坊の子供のかたち出はなかったそうです。 14から15世紀、ルネサンス以降こういうかたちで表される典型画のイメージになった んだそうですよ。 しろはさま *高貴な心がいま砕ける。おやすみなさい、王子よ。天使の群れが お休みの歌を歌います。(シェイクスピア・ハムレットより) |
桃李 様 お返事ありがとうございます 大変勉強になりました。 天使の落とした一枚の白い羽それもしろはなのです。 |
「親愛なるベートーヴェンよ。君は今、久しい望みかなって。 ヴィーンへ旅立とうとしている。モーツァルトの天才は、その子 の死を未だ嘆き悲しんでいる。涸れる事なきハイドンの下に身を 寄せたが、、留まることなく、さらに再び何者かと一体にならん と欲しているのだ。 たゆまぬ努力によって、モーツアルトの 精神をハイドンの手から受け取るように。君の真の友ヴァルトシュタイン ボンにて。1792年10月29日」 |
あ〜、いいですねぇ☆ パパ・トールド・ミーの世界みたいです。 |
>あ〜、いいですねぇ☆ >パパ・トールド・ミーのみたいです。 全巻もっていました、売ってしまいましたが、 大好きな作品です |
仏教的な話について,一言。 「般若」とは何か。般若とは菩薩の知恵の意味です。 菩薩とは何か。仏になるために修行している段階を菩薩といいます。 では,「空」とは何か。三諦(さんたい)(物の見方)に「空」「仮」「中」があります。 一つの物体に対して,その三つの見方があるというのです。 「仮」というのはその姿です。 「空」というのはその変化相です。 「中」というのはその本質です。 例を挙げれば,水。水は液体だったり固体だったりしますが,それがその環境に応じた「仮」です。 しかし,水はそのようにいろいろ変化する姿をもっていて,何が「水」の姿かわからない,それが「空」です。 その上で,水は固体だろうと液体だろうと気体だろうと,H2Oの本質はかわらない。というのを「中」というのです。 この中で,「空」という見方は何かというと,「あると言えばある,ないと言えばない」という存在状態なのです。 たとえば,我々は「おもしろい」「悲しい」「腹が立つ」…というような感情を持っています。しかし,「おもしろがれ」と言われても,おもしろいという感情は出てこない。しかし,外界におもしろいことがあればそれが出てくる。こういう心の状態を「空」という。 「色即是空」といいますが,「色」とは物質です。その物質があるかないか,わからない存在とはどういうことでしょう。 つまり,物質も命も仮和合しているというのです。そうでしょう。われわれの体も酸素原子や水素原子,炭素原子などがくっついてできているのですが,ばらばらにすればそのへんにある物質と同じです。物質も同じです。 ものすごく早回しにすれば,机も家も何もかにも,そのときに和合しているものに過ぎません。 物と事,という見方がありますが,長いスパンで見ると,物も「出来事」にしかすぎません。原子がくっついたり離れたりしているだけです。 また,量子力学からいうと,物質とはエネルギーの密度が高いところでしかありません。 ただし,仏教では仮和合するのに,それなりの理由がある,というのです。 あまりに行をとるので,次に書きます。 |
流水さんゴメンなさいね〜、チョト補足させて下さい。 般若心経に出てくる「色即是空 空即是色」ですが。 色とはこの世におこる事象を意味しています。 空とは仏の説く理(ことわり)を意味しています。 そしてつまりは、それらは表裏一体であり繋がっているものであると。 観自在とありますが、まさにこれの事です。 色を観れば理(空)の流れが解り、空を見れば事象(色)の因縁果報が解ると。 故に観る事自在なのです。 (過去も現在も未来も、色を観れば空(因縁果報)によりすべてが解る。) 解り辛かったらゴメンなさい。 |
▼流水さん&皆さん: こんばんは。お久し振りです。 「空」なる言葉をお伺いして、嬉しくなりました。 般若心経については、良く分からないながらも、先に【17555】で「般若心経講義」を紹介させて頂きました。 「空」なる意味は、なかなか、実感、体感難しいことと思っております。 若し、お気が向けば、上記本に目を通して頂き、「貴感想」をいただければ、弊滋養になると思っております。 宜しくお願いいたします。 |
▼蟷螂の斧さん: こんばんは 「空」って確かにとらえにくい概念です。 東洋哲学を大学で少しやりましたが,天台教学では,「有」と「無」をこえた概念のようです。 よけいわからん(^^; 有るともいえるし,無いともいえる。 たとえば感情のようなもので,「怒り」という感情は怒りたいときには出ているけど,ふつうのときは出ていない。では怒りの感情はどこへいったのか,なくなったのかというと,怒りたいときにはまた出てくる,といった存在(状態)?を指すということだったと思います。寝ているときの意識とかなど。 また,真言密教の(密教と言っても日本には大きく分けると東密と台密がありますし,後者には山門派と寺門派がありますが)教学では,またちがう解釈がなされていたと思います。ちょっと人に言葉で説明するには,能力を超えてます(T_T) ではでは。 |
多くのみなさんにレスいただいてありがとうございます。 実は、わたしも仏教的無についてよく分かっているわけではありません。 各宗派の違いについても、勉強不足で、これだという明確な違いを述べることもできません。 ただ、大雑把な論を提示して、皆さんの談論風発の材料になればと思っております。 今日は、仏教的空の思想に非常に影響がある唯識思想について、簡単な素描をして、皆さんのレスへの返事とさしてください。後は、皆さんの議論をうかがわせていただければ幸いです。 わたしは、社会科の授業のとき、よくこんなことをやりました。消しゴムでも鉛筆でも良いのですが、子供たちにこれは何だと聞くのです。 子供たちは、「消しゴム」だとか「鉛筆だ」とか答えます。 で、次の質問を投げかけます。「どうして、消しゴムなんだ」「どうして鉛筆なんだ」と。 子供たちは、「消しゴムだから消しゴムなんだ」とか「みんな消しゴムと呼んでいる」とか答えます。 そこから、どうして皆「消しゴム」や「鉛筆」と認識したのか、ということを考えさせるきっかけにしました。 日ごろ、わたしたちは、あまりに当たり前すぎて考えもしませんが、「消しゴム」という認識は、ただわたしたちがそう「認識」しているに過ぎないかもしれないのです。 確かに、消しゴムを見ているのです。触ってその触感も確かめています。その結果たしかに消しゴムはそこに実在しているのです。 しかし、そのメカニズムをよく考えてみると、まず目で見て脳に認識された消しゴムという映像と、触覚という神経系から脳に伝わって認識された信号とで、消しゴムと認知したにすぎないのです。 こんな当たり前の問いから、唯識思想は出発します。我々は、このコップを実は認識しているのに過ぎないのではないか。つまり、確かに眼で見ている、触ってもいる、その結果このコップは確かに、そこに有ります。(と、認識しています)でも、どうでしょうか。よく考えてみてください。我々は目で見て脳に認識されたコップという映像と、手で触った触覚という神経系から伝わって脳に認識された信号とで、コップを認識しているに過ぎないのです。 たしかに、消しゴムはゴムでできていますが、正確にいうと、わたしたちがその材質に「ゴム」という言葉で材料を識別しているだけであって、本当は単なる物質なのか、あるいはなんなのかわかりません。 こなことを言い出すと、子供たちは目をぱちくりさせて、いったい先生は何を言い出すのだろうかと疑いの目を向けます。 実は、これは科学技術の進歩などを考えさせる文化史の授業でよく使った手法です。 しかし、人間は、この種の疑問から、ついには量子力学などという、わたしのような文科系の人間には創造もつかない領域にまで踏み込んできたのです。 わたしなどができることは、そういう疑問の持ち方、考え方を子供たちに紹介して、子供たちの可能性を広げるのが仕事だと考えていたのです。 それは、ともかく、このように、人類は、色々なものを認識して、それらを区別、整理してさまざまな名前を付けて識別し、その性質を(人間の認識の範囲で)分析してきたということには異論がないと思います。 実は、人間が言葉を持つということの意味は、上記のことに集約されるのです。 また、授業に戻って失礼なのですが、この「言葉」の原初的な意味を考えることは、「詩」や「文学」の本質的な意味を考えることでもありますし、「哲学」の根本的な意味を考えることでもあるし、「科学」の根本を考えることでもあるのです。 わたしは、授業中、よく子供に目をつぶらせました。そして、「海」とか「花」とか「木」とか「猿」とかを思い浮かばせるのです。 そして、例えば、「海」という言葉を使わないで、海を描写しなさい、とか「木」という言葉を使わないで、「木」を皆に分かるように説明しなさい、とかという問いをしました。 皆さんもやってみていただければわかると思いますが、これが実に難しいのです。「海」という言葉を使わないで、海を表現しようとすれば、自分がどのように海を観察してきたかが問われますし、海を眺めているときの心の状態も影響していることがみえてきます。それを皆に分かるように説明しようと思えば、自分の言葉に対する感覚も問われます。 そのことが理解できれば、それを的確に表現した「詩」や「文学」の凄さも実感できるし、「海の表情」を的確に捉えた絵画の凄さも分かるでしょうし、「海」を分析的に表現した科学の凄さも理解できるでしょう。 話があらぬ方向に飛びました。元に戻しましょう。 上記の人類が、色々なものを認識して、それらを区別、整理してさまざまな名前を付けて識別しする行為は、すべて人間の認識構造から抜け出ていません。 ひょっとしたら、実は何も無いかもしれないという立場もあるのです。 唯識(仏教)では、実は後者の方(外には何も無い)の立場を取ります。 一言でいえば、「我々が見ているこの世界は、すべて心の中にある。逆に、心の外にものは存在しない」という思想だと、NHKの心の時代で、横山氏が解説していました。 それを、「一切不離識 唯識無境」というのだそうです 最初の書き込みで述べた般若心経の「無」とか「空」とか言う言葉(無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意・・・)実はこの唯識の考え方がベースになっているのです。 長くなりました。本当はここから、唯識の説明がはじまるのですが、自分が本当によく分かっていないことを書くのは疲れるので、詳しい話は、稿を改めさせてください。 |
こんな当たり前の問いから、唯識思想は出発します。我々は、このコップを実は認識しているのに過ぎないのではないか。つまり、確かに眼で見ている、触ってもいる、その結果このコップは確かに、そこに有ります。(と、認識しています)でも、どうでしょうか。よく考えてみてください。我々は目で見て脳に認識されたコップという映像と、手で触った触覚という神経系から伝わって脳に認識された信号とで、コップを認識しているに過ぎないのです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ コップを「消しゴム」に訂正してください。コップというのは、わたしが読んだ解説書にでていた例ですが、これが頭に残っていたため、間違えてしまいました。 |
如来蔵思想を勉強しましょう。それと西洋思想史の、普遍論争なども調べるといいでしょう。 |
ちょと「空」や「無」などの言葉が独り歩きしているように見受けられますが。 「空」とは字から受ける印象の「から」とは違います。 解釈によって姿かたちを変えますが、どこから見ても姿かたちを貫いて見えるただ一点の中心、御釈迦さんの説く知恵です。 本を本として読むと見えなくなってきます。 また似たような印象を受ける字、「無」ですが… これ漫画チックで申し訳ないんですが、「無」の境地ってあると思いますか? 「無」も「有」も無いんですよ、実は。 (電子顕微鏡の世界のお話とはまた違う意味ですよ。) |
原始(初期)仏教の教えと般若心経は私にとっては知識とか教養ではなく、心の拠りどころであリ、生涯この教えに沿って生を努めてゆきたいと思う大いなる教義であります。 経というものが本来釈尊の言行を綴り合せたものであり、般若心経が大般若波羅蜜多経600巻の「心経」であることからも、釈尊の教えを出来るだけ忠実に広めようとした原始(初期)仏教の集大成であり、大乗仏教の出発点に立つものと私は理解しています。 従って般若心経を理解するためには原始(原始という言葉が”未開の”という響きがあるのを嫌って初期と称する学者もいて私も多少そう思う)仏教を併せ理解するのが良いかと思います。 初期仏教については、有名な中村元先生の岩波文庫”ブッダ4部作”(私が勝手にそう呼んでいるだけですが)がバイブル的存在としてあります。釈尊の教えも初め殆ど一人で,或いは数人の弟子を連れて歩いて居られた頃と、数百人の”教団”が彼に付き従ってからでは、多少説く内容が変わってきて、それはまたそれで面白いのですが、兎も角釈尊の教えの核心は「執着を去る」ということにあると思います。 初めはお金や財産のみでなく、「愛する人に対する執着」も断つため、家族をも捨てて修行せよと言っておられましたが、それでは一般人の生活は成り立たない。そこで(断食修行をしても何ら悟ることがなかったことで)「中道」を説かれました。しかし「我執を断つ」ということが常に教えの中心にありました。自己の判断の元となっている己を捨てる、そうするとバラモンの権威も、富者の奢りも、皆客観的に見えてくる。勿論自分に対しても、自分は偶々ある環境に生まれ、育ったのでこんななりをしている、ということが良く見えてくるのです。 般若心経のいう「空」とは、その境地の理論的発展であるように思います。世の中に絶対的なものは何もない。即ちそのものだけで完全独立し、永久不変に確固と存在するような物はなく、皆相対的な、いろんな要素(因縁)が寄り集まって、お互い影響されながら、しばし形を留めているに過ぎない。 これは現代の科学(勿論釈尊の意識したことではないでしょうが)でも当てはまることではないでしょうか。机も岩も、更には昔は永久不変の象徴みたいに思われていた「恒星」も変化するものである。どんな物質も分子,原子で構成され、素粒子をさらに分割すれば波動になるとか・・・ 私はたまたま私の両親の遺伝子を引き継ぎ、(銃後ながら)大戦を経験し、人の情けでどうやら大学をでて、高度成長の中で(今思えば)好きなように仕事をさせて貰って、今のところ何とか年金等で食べて行ける。だからこのような所で、小偉そうなことを書いている。何か間違ったら、ホームレス(そういう方々には申し訳ないが)になっていたかも知れないし、或いはイラクあたりに生まれていたかもしれない。人も空、花も空、流水先生初め皆様と私のご縁も空です。 私の父は仏文学者でした。父の著書に「人生とは、この虚無の大いなる空間に自己の自画像を描くことである」という言葉があります。父達の言う「虚無」は、私の感じでは、西欧流の”自己の確立”とか”実存”とかの思考の末にある、”あるべきものがない”ということではないかと思っております。 しかし、初期仏教で言う「空」は、”ない”(といってもおかしくない)ものがある(存在している)、みな空だけれど、空が集まって世の中ができている。逆に空(相対的存在)だからこそ世の中が出来ている。これが「色即是空」とそれに次ぐ「空即是色」の意味だと思います。 世界が、自分が相対的存在であることを深く悟ると(行深般若波羅蜜多)、自分の執着を離れ、相手の立場に立つことが自然に出来るようになる、と思います。 人を見れば相手の立場に立ち、虫を見れば虫の立場を尊重しようという気になります。 これが初期仏教でいう「慈悲」ではないか。(通俗的な)キリスト教のように、上から下に、強者から弱者に与えるものでなく、他者をも自分のこととして受け止める。それが自然に慈愛となって現れる、そういうものであるように思います。 仏教の第一の掟である「殺生戒」も、この立場に立てば自然と出てくる。誰も殺されたくないからです。自己に執着して、他人を害してはならない。これが基本になるのです。 六波羅蜜多の第一の行が「布施行」です。上座仏教が今も残っているタイでは、布施をする人,貰う僧は、互いに顔を見てはいけないのだそうです。顔を見ると、今日はあの坊さんに上げたい、とか、あの人は良い食事を呉れた、とかお互いに執着が沸くからだそうです。上げる方も、貰う方も全く無心で、自然でなければいけない。お互いの立場に立つということは、そこまで行かなければならないのかもしれません。 でも本当に自分を「空」と思い定めるのは、中々難しいことで、だからこそ六波羅蜜多というような行が必要だと考えられたのでしょうね。禅宗の高僧が死ぬ間際に怖い怖いと叫んだそうですが、私もやはり、「神」を信じて救われた方が楽かもしれないと思ったりします。(実は私は”気”或いはもしかすると”霊魂”のようなものの存在も多少信じるべき経験も持っているので、死ぬときの祈りと、上記の人生哲学とは一寸矛盾するかも知れないと思っていますが。) 長くなって申し訳ありませんでした。 |
高橋様 始めまして。 実は、私も般若心経と原始仏教に深い関心を抱いております。 と申しましても、どちらもまだなまかじりで書くべき言葉を持ちえておりません。 今は、中村先生の「真理の言葉」など鞄にしのばせつつ、折に触れ読んでおります。また、偶然見つけた日本テーラワーダ仏教協会のHPから勝手にプリントアウトしたものを読んでおります。今後も高橋様のご投稿を心待ちしております。 |
57歳未老人様 愚見がお目に留まり光栄です。雑用やら、書き込み能力の乏しさなどから中々投稿が出来ずに居りますので、お返事が遅れて申し訳ありません。書くべき言葉がないなどと仰らず、お考えをお聞かせいただければ嬉しく存じます。 私は頭が粗雑なのでしょう、余り難しい抽象論議は得意ではありません。青臭い人生論みたいだけれど、自分がどうすればより良く生きられるか、いつも実地に即して考えていたいのです。 釈尊は難しいことは何も言われていない。ただ、その教えがやや断片的で、根幹の思想が見えにくいのかも知れません。執着を捨てる、我執を捨てるということに出来るだけ徹底しよう、自分を相対化してみようとしたら、「一切の苦厄を度する」とまではとても行きませんが、随分楽になったような気がします。 スッと相手の立場に立つことで、却って自分が自由になり、心がゆっくりしてきたように思います。(思い上がりかもしれませんが) お返事有難う御座いました。どうか貴殿の現在のお気持ちなど、お教えください。 |