Page 179 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼教育問題・教育を創ろう・2(新規スレッドにします) 管理スタッフ 04/2/28(土) 16:33 ┣教育問題に関心のある方へ、スレッドのご紹介 珠 04/2/28(土) 16:48 ┃ ┗Re(1):教育問題に関心のある方へ、スレッドのご紹介 団塊党 04/2/28(土) 19:07 ┣競争と共生と! 流水 04/2/28(土) 19:24 ┃ ┗浜の郷小学校 珠 04/2/28(土) 21:19 ┃ ┣Re(1):浜の郷小学校 団塊党 04/2/28(土) 22:36 ┃ ┗Re(1):浜の郷小学校 流水 04/2/28(土) 23:00 ┃ ┗Re(2):浜の郷小学校 団塊党 04/2/29(日) 10:09 ┃ ┗Re(3):浜の郷小学校 流水 04/2/29(日) 11:55 ┃ ┗集団と個について 団塊党 04/3/2(火) 2:25 ┃ ┗Re(1):集団と個について 流水 04/3/2(火) 8:50 ┃ ┗Re(2):集団と個について 団塊党 04/3/2(火) 20:28 ┃ ┗Re(3):集団と個について 流水 04/3/2(火) 22:36 ┃ ┗Re(4):集団と個について 団塊党 04/3/3(水) 3:08 ┃ ┗Re(5):集団と個について 流水 04/3/3(水) 11:01 ┃ ┗Re(6):集団と個について 団塊党 04/3/4(木) 7:04 ┣Re(1):教育問題・教育を創ろう・2(新規スレッドにします) 団塊党 04/2/28(土) 20:58 ┃ ┗Re(2):教育問題・教育を創ろう・2(新規スレッドにします) 海幸彦 04/2/28(土) 21:35 ┃ ┗Re(3):教育問題・教育を創ろう・2(新規スレッドにします) 団塊党 04/2/28(土) 22:48 ┃ ┗Re(4):教育問題・教育を創ろう・2(新規スレッドにします) 海幸彦 04/2/28(土) 23:07 ┗教育の基本は家庭教育から 珍 源斎 04/2/29(日) 18:17 ┗Re(1):教育の基本は家庭教育から 珍 源斎 04/2/29(日) 18:39 ┣徴兵制を設ければ、権利を主張することしか知らないガキは減る 風鈴カザン 04/2/29(日) 19:54 ┃ ┣Re(1):徴兵制を設ければ、権利を主張することしか知らないガキは減る peace 04/2/29(日) 22:32 ┃ ┣Re(1):徴兵制を設ければ、権利を主張することしか知らないガキは減る ひろあき 04/2/29(日) 23:47 ┃ ┃ ┗Re(2):徴兵制を設ければ、権利を主張することしか知らないガキは減る 太郎 04/3/1(月) 16:15 ┃ ┗Re(1):徴兵制を設ければ、権利を主張することしか知らないガキは減る 亀井襄治 04/3/3(水) 5:44 ┗嘘とリーダーシップのおもしろい関係 peace 04/2/29(日) 23:35 ┗Re(1):嘘とリーダーシップのおもしろい関係 ひろあき 04/2/29(日) 23:54 ┗辛(から)い真実より、甘い「ウソ」を喜ぶ 珍 源齋 04/3/1(月) 15:32 ┗Re(1):辛(から)い真実より、甘い「ウソ」を喜ぶ peace 04/3/2(火) 10:29 ┗Re(2):辛(から)い真実より、甘い「ウソ」を喜ぶ 珍 源齋 04/3/2(火) 17:19 ┗Re(3):辛(から)い真実より、甘い「ウソ」を喜ぶ peace 04/3/2(火) 18:14 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 教育問題・教育を創ろう・2(新規スレッドにします) ■名前 : 管理スタッフ ■日付 : 04/2/28(土) 16:33 -------------------------------------------------------------------------
団塊党さんから、教育問題と教育を創ろうのスレッドの統合をという希望が出て、その方向で進んでいますが、何分スレッドが長くなり過ぎています。 少し問題が変わった時は新スレッドを立てて頂く方が、皆さんが読みやすいと思いますので、気分一新して、新スレッドにさせて頂きます。今後はこちらにどうぞ。 なお前の文章に続けたい時は、返信してそれをコピーしてから、こちらのスレッドに書き込んでいただければ、新スレッドで以前の問題と続けて議論できます。下記はその方法で書き込んであります。 >>▼kogaさん: >>「教育を創ろう」という前向きな表題が、団魂党さんから提案された。 >>皆さんからの忌憚のないご意見を乞う!。 >▼団塊党さん >合流させてもらったのに少しも意見を出せずにすみません。 >kogaさんや流水さんにばかりに頼らないで、私もぼちぼち意見を出していきます。 >みなさんもどしどしご意見お願いします。 |
教育問題に興味のある方はぜひ読んで頂きたいスレッドがあります。 【1839】understandとupperstandと です。本当に相手を思い遣るために必要なのは、想像力だとつくづく思いました。 ハンセン病のスレッドでも、在日外国人の選挙権に対する書き込みでも、その問題を 理解するために必要だと思うのは「自分が相手の立場だったら?」と思う想像力です。 イラクのことでも、パレスチナのことでも、自分がその立場だったら、と思うと、 心に鋭い痛み、悲しみを感じてしまいます。そこから考えたいと、いつも願います。 |
▼珠さん: >教育問題に興味のある方はぜひ読んで頂きたいスレッドがあります。 >【1839】understandとupperstandと >です。本当に相手を思い遣るために必要なのは、想像力だとつくづく思いました。 >ハンセン病のスレッドでも、在日外国人の選挙権に対する書き込みでも、その問題を >理解するために必要だと思うのは「自分が相手の立場だったら?」と思う想像力です。 >イラクのことでも、パレスチナのことでも、自分がその立場だったら、と思うと、 >心に鋭い痛み、悲しみを感じてしまいます。そこから考えたいと、いつも願います。 まったく仰る通りです。 今の世の中に一番足りないのは相手の立場に立つ想像力かもしれません。 どういう部分を切り取ってみても、そのことを感じますね。私を含めてですが。 教育現場にいるものとして、このことだけは子供達に伝えていかなくてはと思います。 子供達は時としてエゴイスティックな面を見せますが、また時として優しい面を見せます。 私がかなわないなあと思うこともしばしばです。 こんな時代でも、まだ子供は大人より健全なものをたくさん持っています。 教室の中の小さな優しさを見つけてはそれをみんなの価値観に広げていくのが教師の役目かなと思います。 一方、行政もunderstanndの立場で学校を後押ししてくれればいいのですが、現実はまったく逆です。 今、文科省が提案している特別支援教育は、学校だけに負担をかけるものになりそうです。 ほかにも現場の意向を軽視し、上からのトップダウンで様々な改革が次々に出てきそうです。 教育改革の成り行きを注視していかなければなりません。 |
先日、NHKを何気なく見ていたら、「人間ドキュメント:浜の大横綱」というドキュメント番組が放映されていた。 途中から見たので、正確とは言えないが、わたしの考えている理念に近いものが現実に実現されているのを見て感動した。 このドキュメントは、三陸海岸「宿戸」(多分こう書くはず)の鮑の素もぐり漁の猟師たちの話である。 この浜では昭和30年代ごろから、あわびの素もぐり漁が始まった。それまでは、船をもって鉤で鮑をとる漁だけであり、船を持たないものは鮑を取ることができなかった。 ところが、はじめてウエットスーツを着て、素もぐりで鮑を取ることをはじめたAさん(今でも健在)は、一日100kg近い鮑を取った。 Aさんは、自分がそれだけ鮑を取れたことに満足せず、この素もぐりの技術を周りの人々に教えた。それも、ウエットスーツを買う金のない人には自分のお金で買い与えて、素もぐり漁の普及に努めた。 Aさんは、「みな、鮑を取って生活が楽になればええが、と思った」と淡々と語っていた。 そして、現在鮑の素もぐり漁は宿戸の人々の生活を支えているが、これが地域共同体と密接に関係している。 というのは、現在宿戸では、鮑の稚貝を共同で2年育て、それを海に放して3年後にとるようにしている。 しかも、その鮑の素もぐり漁の漁獲高の個人の番付表をつくり、猟師の競争心をくすぐり、お互いが切磋琢磨している。そして、競争に勝ったものは「横綱」として一年間地域の尊敬を集める。 中には、80歳を超える老人がいまだに「幕内」として、がんばっており、周囲の良い目標になっている。 ここには、「競争」と「共存」が見事に調和した姿がある。地域と共に生きる住民たちの生き生きとした姿がある。 大工の棟梁だった、80近い老人が、材料費だけをもらって1000個近い漁礁つくりを引き受け、黙々と汗を流しながら「自分のつくったものがみなの役に立つのがうれしい」と働いている。 ここには、地域と共に生きてきたことに対する心の底からの「感謝」の気持ちがある。 これが、日本社会に伝統的に息づいてきた「共生」の精神だと実感させるものだった。 わたしは、義務教育は「国家目標」を強調するより、「社会目標」をと主張している。宿戸の素もぐり漁師のような感覚を子供たちに提示することが、わたしたちの社会を維持・発展させることになるし、このような社会を維持発展させ、このような体験をした子供たちの中から生まれた「エリート」は、文字通り、原義通りのエリートに育っていく基礎的感性がはぐくまれると考えているからである。 さらに、宿戸の凄いところは、「競争意識」を「自分だけ勝てばよい」、という意識から、もう一段高い意識に変えているところである。 しかも、奉仕精神が見事に自分の生き方になっている。 わたしは、米国流の「競争原理主義」の導入に強く反対している。 日本人は上記のような「競争」と「共生」が共存するやり方を理論でなく、生きる「知恵」として持っているし、米国流の「競争原理主義」よりはるかに世界に共感を得ることができるものを持っていると考えているからである。 |
以前、話題になった、浜の郷小学校が、今NHKで放送中です。 校長先生もですが、ごく普通の先生達が、自分の授業をオープンにして、 父母や宣誓同士で遠慮なく見合うことが、こんなにも授業内容を良くし、 オープンにしたことで研究しやすくなるのかと、感心しました。 学校や教室が閉鎖的なのって、ホントによくないですね。 |
▼珠さん: >以前、話題になった、浜の郷小学校が、今NHKで放送中です。 >校長先生もですが、ごく普通の先生達が、自分の授業をオープンにして、 >父母や先生同士で遠慮なく見合うことが、こんなにも授業内容を良くし、 >オープンにしたことで研究しやすくなるのかと、感心しました。 >学校や教室が閉鎖的なのって、ホントによくないですね。 私も家族に言われて気づいて途中から見ました。 珠さんが以前取材された学校ですね。 佐藤学氏がその著書「教師達の挑戦」の中で「学校改革とは、つまるところ、学校を構成するすべての人々が信頼に基づく学び合いの関わりを築く改革にほかならない。」と述べています。 浜の郷小はまさにそれを実践しているということが画面から伝わってきました。 教師同士が大瀬校長を中心にして、本音で議論しているのが何ともうらやましかったです。 普通の学校ではああは行きません。 人の授業をごく自然に批判しあう雰囲気というのは、残念ながら今の学校では常識になっていません。 教師同士、親と教師の間に心を開き、へそを出し合えるような信頼関係が十分に築かれるには、まだまだという感がします。 浜の郷小はその第一歩を日本の教育の中に築いたと言えるでしょう。 |
▼珠さん: >以前、話題になった、浜の郷小学校が、今NHKで放送中です。 >校長先生もですが、ごく普通の先生達が、自分の授業をオープンにして、 >父母や宣誓同士で遠慮なく見合うことが、こんなにも授業内容を良くし、 >オープンにしたことで研究しやすくなるのかと、感心しました。 >学校や教室が閉鎖的なのって、ホントによくないですね。 その通りです。【情報公開】というのは、何もお役所だけの問題ではないのです。 【情報公開】の本質は、双方向性にあるのです。浜之郷小学校の試みは、このことを教えてくれます。 実は、もう15年以上前になりますか、わたしが現役教師だった時代、わたしの学年では、常に授業公開をしていました。人権学習をするとき、すべての教師がそのクラスの授業を見るのです。わたしは社会科教師でしたので、他の教科の先生に部落差別の歴史や人権の考え方などの授業をすべて公開していました。 これを日常のすべての授業に広げたのです。また、若い教師のクラスの学活などをわたしが担当して見せたことや、会議のやり方を全ての先生を集めて子供たちと一緒に勉強もしました。 わたしのクラスでは、学級活動の授業も生徒がしたことが何度もありました。当然、その前に相当なトレーニングをするわけですが、最後にはわたしが何にも口を出さなくても一時間生徒だけで授業がスムーズに流れていました。 これは、自分たちのクラスの生活その他は自分たちで律するという【自律】の精神を養うために行ったものです。 学年全部が集まる【学年集会】もすべて子供たちの手で行っていました。学年集会の議題から、司会、前に立って話す内容、整列、聞く態度の注意などすべて生徒が行っていました。教師が前にたって行う集会よりはるかに静かで、真剣に聞いていたし、集会を企画・運営した生徒たちは懸命に知恵を絞り、責任感に溢れていました。自分が発表する原稿を何度も書き直し、友達の前で何度も練習し、原稿を見ないできちんと語れるようになるまでになりました。 また、学級委員会では、授業時間の評価も行い、それを表にして教師と子供に配布していました。ここで、授業時間が乱れていると評価された教師は大変です。教師間の評価よりはるかに厳しい評価が下されるのですから、反論のしようがありません。これが引き金になって、教師自身の態度が見違えるように変わりました。 【情報公開】というのは、このような効果をもたらすのです。 |
▼流水さん: >その通りです。【情報公開】というのは、何もお役所だけの問題ではないのです。 >【情報公開】の本質は、双方向性にあるのです。浜之郷小学校の試みは、このことを教えてくれます。 > >実は、もう15年以上前になりますか、わたしが現役教師だった時代、わたしの学年では、常に授業公開をしていました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >また、学級委員会では、授業時間の評価も行い、それを表にして教師と子供に配布していました。ここで、授業時間が乱れていると評価された教師は大変です。教師間の評価よりはるかに厳しい評価が下されるのですから、反論のしようがありません。これが引き金になって、教師自身の態度が見違えるように変わりました。 > >【情報公開】というのは、このような効果をもたらすのです。 流水さんの現役時代の颯爽とした活躍ぶりの一端がよく分かりました。 学校のリーダーとして抜きん出た力をお持ちだったことが容易に想像できます。 私の学校も今、少しずつ変わってきています。 親や子供に学校の評価アンケートを去年から取るようになりました。 また、親たちがクラブ活動の補助に来たり、クラスに本の読み聞かせに来たり、普通の授業にも応援を兼ねて参加するようになっています。 私自身はクラスの親にはいつでも教室に来て授業を見て欲しいと訴えています。 教師はどうしても20坪の教室王国に閉じこもりがちになります。 まず教師自身が心を開いていくことが、同僚とも親とも子供とも信頼関係を築いていく上での必要条件です。 中でも、教師同士が授業を日常的に見合いお互いに批評し合うことは特に大切な事だと思いますが、そこまではなかなかいきません。 話の合う同僚とはやりますが、全校的にとなるととてもそんな雰囲気ではありません。 これができるかどうかが正念場、学校改革の中心なのですが・・・ やはり大瀬校長のような存在、流水さんのような抜きんでたリーダーの存在が必要のようです。 教師の転勤が早められたこと(東京では最長6年)、 教師達の年齢構成が高齢化していること、(私のような世代ばかりです。) 校長の評価で給料に格差をつけるようになったこと、 社会情勢の悪化(財政、安全)が益々教師を多忙化させていること (浜の郷小では会議を月1回に減らて、その分を授業研究に充てるようにしたそうですが、この点は研究の余地がありそうです。) などのハードルをクリアーするだけでも大変です。 最後は言い訳になってしまいましたが、 何とかしていかねばなりません。 |
▼団塊党さん: > >私の学校も今、少しずつ変わってきています。 >親や子供に学校の評価アンケートを去年から取るようになりました。 >また、親たちがクラブ活動の補助に来たり、クラスに本の読み聞かせに来たり、普通の授業にも応援を兼ねて参加するようになっています。 >私自身はクラスの親にはいつでも教室に来て授業を見て欲しいと訴えています。 > 大変よいことですが、教師にとっては大変なことですね。ぜひ、がんばってください。 > >中でも、教師同士が授業を日常的に見合いお互いに批評し合うことは特に大切な事だと思いますが、そこまではなかなかいきません。 >話の合う同僚とはやりますが、全校的にとなるととてもそんな雰囲気ではありません。 実は、わたしの学校の同和教育で、この授業公開をきわめて重要なものとして位置づけていたのです。 団塊党さんは、東京の方らしいので、あまりご存知ないかもしれませんが、関西から西の地区では【同和教育】【人権学習】は非常に重要なものでした。 同和教育というと、反差別教育と短絡的に捉える方が多いのですが、そうではなくてunderstand的発想で、学校生活すべてを洗い直し、組み立てなおすという発想でなければ、そんなものは身につかないものなのです。 私自身は、社会的問題としての【同和問題】と、日常生活の中でその理念を生かすことをきちんとつなげなければ、生きたものにならないという考え方でした。 例えば、子供たちの生活の中で「いじめ」という問題があります。いじめを受けた子供にとっては命にかかわる問題なのです。ではどうするか。 多くの研究書や参考書は、心理学的・社会学的・教育学的方法論を提示しています。しかし、それは結局対症療法的解決策にすぎません。 わたしが同僚教師たちに常に語っていたのは、「いじめ」は顕在化したときは遅い。指導したとしても、完全な解決は難しい。 それよりも、「いじめ」を起こさない【環境】をどのように醸成するかを考えるのが先決、と語っていました。 この【環境】醸成の中に、先に書いた方法論などがあります。 もう少し詳しく書くと、「いじめ」は常に集団の中で起こります。そもそも【集団】がなければ、「いじめ」は起こりません。誰もがわかっている当たり前の常識から、【集団】の質を変容させなければ、【いじめ】はなくならないという結論が導き出されます。 もう一つごく当たり前のことなのですが、【集団心理】という言葉があるように、【個人】と【集団】の位相が違うのです。個人として向き合っているときの人格と【集団】として行動しているときの人格は違う場合が多いのです。 ここから導き出されるのは、【個人】と【集団】の位相が違うことを前提にして、指導のあり方を組み立てなおす必要があるということです。わたしは【集団】の変容を最重要な課題として、子供たちの学校生活すべてを組み立てなおしました。 【同調圧力】という言葉が流行したことがありましたが、わたしは【集団の変容】を先にして、この【同調圧力】を逆の意味で使うことを考えたのです。 つまり、「いじめ」をしている子供に対して、周囲の子供たちが「やめろ」とか、その事実を【学級会で公開】して皆で解決法を考えるなどの【圧力】をかけうる【集団】に変容させることを意味します。 このような【集団つくり】には、さまざまな方法論がありますが、最大のネックは教師自身なのです。教師自身が【指導する】意識から【子供と共に成長する】という意識にどのように変容できるかが、問われるのです。 わたしはよく若い教師を連れて、学級委員会に出席しました。そこで、具体的な問題を学級委員と若い教師と同じ立場で議論させました。中学生くらいになりますと、実に鋭い意見を吐いて、若い教師などはよく子供にやり込められます。 このような経験をさせますと、若い教師は「俺はまだまだ青い」としょげかけるのですが、そこから【指導する】とは、【教師とは】を真剣に考え始めます。 ここから、【指導する】と【支援する】という立場の違いを考え始めます。子供とともに進歩するとは、このようなことでしょう。 「いじめ」問題一つ例にとっても、学校・学年・学級・教師すべてを変容させることが、結局一番の近道であると考える由縁です。 長くなりました。現場の方には、ぜひがんばって欲しいと思います。 |
▼流水さん: >わたしが同僚教師たちに常に語っていたのは、「いじめ」は顕在化したときは遅い。指導したとしても、完全な解決は難しい。 >それよりも、「いじめ」を起こさない【環境】をどのように醸成するかを考えるのが先決、と語っていました。 ここまでは、全くその通りだと思います。 >もう少し詳しく書くと、「いじめ」は常に集団の中で起こります。そもそも【集団】がなければ、「いじめ」は起こりません。誰もがわかっている当たり前の常識から、【集団】の質を変容させなければ、【いじめ】はなくならないという結論が導き出されます。 >もう一つごく当たり前のことなのですが、【集団心理】という言葉があるように、【個人】と【集団】の位相が違うのです。個人として向き合っているときの人格と【集団】として行動しているときの人格は違う場合が多いのです。 > >ここから導き出されるのは、【個人】と【集団】の位相が違うことを前提にして、指導のあり方を組み立てなおす必要があるということです。わたしは【集団】の変容を最重要な課題として、子供たちの学校生活すべてを組み立てなおしました。 >【同調圧力】という言葉が流行したことがありましたが、わたしは【集団の変容】を先にして、この【同調圧力】を逆の意味で使うことを考えたのです。 > >つまり、「いじめ」をしている子供に対して、周囲の子供たちが「やめろ」とか、その事実を【学級会で公開】して皆で解決法を考えるなどの【圧力】をかけうる【集団】に変容させることを意味します。 このあたりからよく分からなくなりました。 私には集団を変容させるのが先という考えがどうもなじめません。 それは一つ間違えば個の軽視、犠牲につながらないでしょうか。 そんな甘いことを言っていては、いじめや差別をつぶすことなんか出来ない厳しい現実があったことは想像できるのですが・・・ >このような【集団つくり】には、さまざまな方法論がありますが、最大のネックは教師自身なのです。教師自身が【指導する】意識から【子供と共に成長する】という意識にどのように変容できるかが、問われるのです。 この点については異存ありません。 集団つくりに限らず、教師の基本的な姿勢として普遍的なものでしょう。 実践するとなると簡単ではありませんが・・・ understandの立場ですね。 ただ、集団つくりとどうつながっているのかよく分かりません。 もともと私には集団つくりという考え方が薄いようです。 個を育てることから出発する。 そしてその結果、集団が高まりそれが個へ帰っていくということではないでしょうか。 |
▼団塊党さん: >このあたりからよく分からなくなりました。 >私には集団を変容させるのが先という考えがどうもなじめません。 >それは一つ間違えば個の軽視、犠牲につながらないでしょうか。 >そんな甘いことを言っていては、いじめや差別をつぶすことなんか出来ない厳しい現実があったことは想像できるのですが・・・ これは、団塊党さんに限らず、教師のほとんどがそう考えると思います。わたしの書き方も誤解を招く書き方をしているのですが、真意は、個人の意識の総体=集団の意識にならないというところに力点があるのです。 教師に「個人指導」は欠かせません。ところが、多くの教師は個人の感情の変化は見ることができますが、集団の感情の変化をみるのが苦手なのです。 ところが、子供の行動は、「集団の感情の変化」に敏感に反応します。この「集団の感情の変化」を敏感に感じることができないから、指導が後手を踏むケースが多くなるのです。 この考え方の基本になるのが、私流の人間理解です。少し、長くなりますが、説明させてください。 まず、真ん中が0で左がマイナス、右がプラスの半円の「はかり」を想像して下さい。「マイナス」は、悪いことをする方向、「プラス」は良いことをする方向と考えてください。 通常、人間の心の針は、0あたりに位置しています。ところが、うれしいことがあったり、ほめられたりすると、この「心の針」は「+」の方向へ振れます。腹が立つことがあったり、叱られたりすると「−」方向へ振れます。 人間の心は、0を基点にして、「+」「−」へ常に振れているものだと考えているのです。この心の針は、一瞬にして変化するものです。「+」へ振れたり、「−」へ振れたりしながら、おおむね0の方向へ収斂していくのが、普通の人の心の動きだと考えているのです。 ところが、時折この「心の針」が振り切れる場合があります。「+」の方向へも「−」の方向へも。振り切れて、0に帰ってこない心が、多くの問題を起こすのです。 ここはわたし独特の考え方だと思うのですが、「+」に振り切れる心も「−」に振り切れる心も問題だと考えているのです。 とにかく、人を困らせたり、悪いことをしなければ、自分の存在証明がないといわんばかりに、「−」に振り切れた子供も、「+」の方向へ振り切れて、正しいことだけいいつのる子供も、同じように問題があると考えているのです。 わたし流の人間理解では、0を基点に「+」「−」に常に揺れ動きながら、振れたら0へ帰る、振れたら0へ帰る、そしてその振幅が徐々に小さくなるのが通常の人間だと考えているのです。 ところが、教師はどうしても「+」の方向へ心を固定させたがる傾向があります。それを「個人指導」と称している場合が多いのです。 ところが、指導を受ける子供も生きる知恵があります。教師の心が何を望んでいるかを敏感に察知します。そして、その望んでいる方向にあわせた演技をします。 ところが、子供は自分でその方向へ変わろうと思ったわけではないのですから、無理をしています。上のはかりでいえば、無理をして「+」の方向へ針を固定しているのです。だから、その「無理」が限界に達したとき、一気に「−」方向へ針が振れる場合が多いのです。 「個人指導」に往々にしてみられる欠陥です。 例えば、非常に怖い教師が一年間力づくで問題児を押さえ込んだとします。ところが、次の年、やさしい教師が担任したら、その問題児が前より一層悪くなったというケースがよくあります。 これは「心の針」の復元作用で、当たり前の「心のメカニズム」だと思います。 わたしのいう「集団つくり」とは、「心の針」の振幅をできるだけ自分で小さくできる「環境」を醸成することを指します。このためには、子供の心を「安心」させることが必要です。子供の心が「不安」だったら、「心の針」の振幅が大きくなります。 では、どうしたら「安心」できる環境をつくることができるのか。 これがわたしのいう「集団つくり」なのです。 個を押さえるのではなく、個をできるだけ正直に出させながら、その振幅の幅ができるだけ小さく、できるだけ復元力のある「集団」を作り出すことが重要なのです。 なぜなら、子供たち一人一人が「自分の心の揺れ」を認識するためには、できるだけ自分を表現できる空間が必要になるからです。そのためには、「自由」が必要になります。子供たちにできるだけの「自由」を与えて、それを自分で統御できるように育てることが必要になるのです。 そうすれば、「いじめ」のようなケースでも、「集団」の復元力が機能して、0の方向へ戻す力が働きます。 このような「集団つくり」には、非常に綿密な方法論の構築が求められます。これは、紙幅が足りませんので、これからの議論の中でじょじょにお話したいと思います。 ※これだけは言っておきたいのですが、わたしのいう「集団つくり」は、従来の「集団つくり」とは、似て非なるものです。 > |
▼流水さん: >教師に「個人指導」は欠かせません。ところが、多くの教師は個人の感情の変化は見ることができますが、集団の感情の変化をみるのが苦手なのです。 > >ところが、子供の行動は、「集団の感情の変化」に敏感に反応します。この「集団の感情の変化」を敏感に感じることができないから、指導が後手を踏むケースが多くなるのです。 そうですね。確かに「集団の感情の変化」というようなことは普段あまり意識しないで個々の子供を観ていますね。 私の場合、小学生を相手にしているのであまり感じないのかも知れません。 しかし、友だちの影響やクラスの雰囲気による影響が大きいのは小学生の場合でも同じです。 >ところが、時折この「心の針」が振り切れる場合があります。「+」の方向へも「−」の方向へも。振り切れて、0に帰ってこない心が、多くの問題を起こすのです。 >ここはわたし独特の考え方だと思うのですが、「+」に振り切れる心も「−」に振り切れる心も問題だと考えているのです。 > >とにかく、人を困らせたり、悪いことをしなければ、自分の存在証明がないといわんばかりに、「−」に振り切れた子供も、「+」の方向へ振り切れて、正しいことだけいいつのる子供も、同じように問題があると考えているのです。 > >わたし流の人間理解では、0を基点に「+」「−」に常に揺れ動きながら、振れたら0へ帰る、振れたら0へ帰る、そしてその振幅が徐々に小さくなるのが通常の人間だと考えているのです。 このあたりは流水さん独特の考え方ですね。 現実を説明する一つの論だと思います。 素直で良い子と言われていた子供がある時突然に問題を起こすというのが最近多いですが、これは「+」の方向へ振り切れたと考えられます。 私の下の息子など「−」へ振り切れています。 >ところが、教師はどうしても「+」の方向へ心を固定させたがる傾向があります。それを「個人指導」と称している場合が多いのです。 >ところが、指導を受ける子供も生きる知恵があります。教師の心が何を望んでいるかを敏感に察知します。そして、その望んでいる方向にあわせた演技をします。 >ところが、子供は自分でその方向へ変わろうと思ったわけではないのですから、無理をしています。上のはかりでいえば、無理をして「+」の方向へ針を固定しているのです。だから、その「無理」が限界に達したとき、一気に「−」方向へ針が振れる場合が多いのです。 >「個人指導」に往々にしてみられる欠陥です。 子供は教師の本音を敏感にキャッチしますからね。 十分に気をつけたいところです。 しかし、一方では大人や教師の価値観など受け入れようとしない全く異次元の世界にいるような思いに駆られる子供も現れてきています。 つまり、針が他からの働きかけに少しも反応しないとでも言ったらいいでしょうか。 昔よりもそういう傾向が強くなっているように感じます。 >例えば、非常に怖い教師が一年間力づくで問題児を押さえ込んだとします。ところが、次の年、やさしい教師が担任したら、その問題児が前より一層悪くなったというケースがよくあります。 >これは「心の針」の復元作用で、当たり前の「心のメカニズム」だと思います。 そういうことはあると思います。 >わたしのいう「集団つくり」とは、「心の針」の振幅をできるだけ自分で小さくできる「環境」を醸成することを指します。このためには、子供の心を「安心」させることが必要です。子供の心が「不安」だったら、「心の針」の振幅が大きくなります。 >では、どうしたら「安心」できる環境をつくることができるのか。 >これがわたしのいう「集団つくり」なのです。 >個を押さえるのではなく、個をできるだけ正直に出させながら、その振幅の幅ができるだけ小さく、できるだけ復元力のある「集団」を作り出すことが重要なのです。 >なぜなら、子供たち一人一人が「自分の心の揺れ」を認識するためには、できるだけ自分を表現できる空間が必要になるからです。そのためには、「自由」が必要になります。子供たちにできるだけの「自由」を与えて、それを自分で統御できるように育てることが必要になるのです。 子供達に自由を与えるだけでは、なんでもありのはちゃめちゃな集団になります。したがって、そこに自己統御が必要になるのですね。 そこを育てることが出来れば理想的な集団になりますね。 自由が十分に与えられていて、しかも規律もあるという理想の集団です。 私はもっと統制的な集団つくりをイメージしていましたが、流水さんのはどうもそういうのではないようですね。 >そうすれば、「いじめ」のようなケースでも、「集団」の復元力が機能して、0の方向へ戻す力が働きます。 >このような「集団つくり」には、非常に綿密な方法論の構築が求められます。これは、紙幅が足りませんので、これからの議論の中でじょじょにお話したいと思います。 > >※これだけは言っておきたいのですが、わたしのいう「集団つくり」は、従来の「集団つくり」とは、似て非なるものです。 流水さんのお話、非常に興味を惹かれます。是非、ご教示下さい。 |
▼団塊党さん: > >そうですね。確かに「集団の感情の変化」というようなことは普段あまり意識しないで個々の子供を観ていますね。 >私の場合、小学生を相手にしているのであまり感じないのかも知れません。 >しかし、友だちの影響やクラスの雰囲気による影響が大きいのは小学生の場合でも同じです。 実は、わたしの存在価値はそのことにあったといってよいのです。 わたしは、自分の学年も、他の学年でも、問題が噴出して「荒れ」の状況になる一ヶ月ぐらい前(時には2〜3ヶ月)前ぐらいから、そのことを予想できました。わたしが教師生活で自慢できるものといったらそれくらいでした。 「集団意識」の変容を見ていれば、今の子供たちの意識レベルがどこにあるかを測ることができるのです。その意識レベルが測れれば、結果の予想はそう難しいことではありません。 逆に、今はがさついていて、落ち着きのないクラスでも、必ず素晴らしいクラスになることも、大体予想できます。 これさえ、予想できれば、そうならないように事前に手を打つことができます。 ※ただし、これは集団意識の位置に合わせた方法が必要になります。 >素直で良い子と言われていた子供がある時突然に問題を起こすというのが最近多いですが、これは「+」の方向へ振り切れたと考えられます。 「良い子と悪い子はメダルの裏表、180度回転させれば一致する」というのが、わたしの見方です。勉強のできる子の中には、「自分だけがよければよい」という発想の子供が多くいます。この「自分だけ良ければ」という発想の表現が、問題行動として現れるか、勉強だけできればよいという形で表現されるかの違いなのです。 教師の「個人指導」の重点が、「問題行動」におかれすぎるために、「勉強だけできればよい」という子供に対する指導がなおざりにされるのです。 この指導のありかたが、「集団意識」を規定します。勉強さえしてればよい、とか、おとなしくしてればよい(見せかけていればよい)という意識が「集団の倫理観」をゆがめるのです。 「集団意識」の変容を図るには、「良い子をどれだけ叱れるか」というのが、一つのキーワードになります。 >しかし、一方では大人や教師の価値観など受け入れようとしない全く異次元の世界にいるような思いに駆られる子供も現れてきています。 >つまり、針が他からの働きかけに少しも反応しないとでも言ったらいいでしょうか。 >昔よりもそういう傾向が強くなっているように感じます。 これが、現在の子供の特色でしょう。人間としての基本的能力が退化しているのです。幼稚園でお絵かきで、人間が描けない子供が増えている、という報告が出ていますが、これらの子供は何も見ていないのです。見ていないということは、興味がないということです。つまり、幼児時代から人間を見ていない、人間に興味がないということになります。この子供に現れた退行現象は、社会を崩壊させる可能性があります。 このような問題の重要性はどれだけ強調されてもされすぎはないと思います。 >子供達に自由を与えるだけでは、なんでもありのはちゃめちゃな集団になります。したがって、そこに自己統御が必要になるのですね。 問題は【自由】という概念を教師がどう考えるかの問題です。上記のわたしの予測は、子供たちの【自由意識】のレベルを捉えることなのです。 【自由】というのは、人間の深部から沸きあがってくるものです。どんな小さな子供でも、【自由】を束縛すると嫌がります。つまり、【自由】とは、人間の【本能】であり【本質】なのです。 【しつけ】とは、人間が生きていくうえに必要な事柄を教えることです。例えば、排泄の仕方、食事の仕方、言葉の使い方、あいさつの仕方などなどです。 教育とは、子供たちの【自由意識】を縛り、一定のルールの下に行動することを教えることです。 教師はこのことに慣れすぎて、子供たち(※人間にとって本質的な)にとって本質的な【自由】の問題を軽視しすぎたのです。 わたしの「集団つくり」の始まりは、この子供たちの【自由意識】をどのように捉えるかを問うことなのです。 |
▼流水さん: >実は、わたしの存在価値はそのことにあったといってよいのです。 >わたしは、自分の学年も、他の学年でも、問題が噴出して「荒れ」の状況になる一ヶ月ぐらい前(時には2〜3ヶ月)前ぐらいから、そのことを予想できました。わたしが教師生活で自慢できるものといったらそれくらいでした。 >「集団意識」の変容を見ていれば、今の子供たちの意識レベルがどこにあるかを測ることができるのです。その意識レベルが測れれば、結果の予想はそう難しいことではありません。 >逆に、今はがさついていて、落ち着きのないクラスでも、必ず素晴らしいクラスになることも、大体予想できます。 >これさえ、予想できれば、そうならないように事前に手を打つことができます。 > >※ただし、これは集団意識の位置に合わせた方法が必要になります。 集団が今どの意識レベルにあるかを測ることができるということは、流水さんの中に、何段階かの尺度があるわけですね。その辺を具体的に教えて頂けないでしょうか。(下に書かれている自由意識のレベルのことだと思いますが。) また、集団意識の位置に合わせた方法とはどういうことでしょうか。 >「良い子と悪い子はメダルの裏表、180度回転させれば一致する」というのが、わたしの見方です。勉強のできる子の中には、「自分だけがよければよい」という発想の子供が多くいます。この「自分だけ良ければ」という発想の表現が、問題行動として現れるか、勉強だけできればよいという形で表現されるかの違いなのです。 >教師の「個人指導」の重点が、「問題行動」におかれすぎるために、「勉強だけできればよい」という子供に対する指導がなおざりにされるのです。 >この指導のありかたが、「集団意識」を規定します。勉強さえしてればよい、とか、おとなしくしてればよい(見せかけていればよい)という意識が「集団の倫理観」をゆがめるのです。 >「集団意識」の変容を図るには、「良い子をどれだけ叱れるか」というのが、一つのキーワードになります。 ここに書かれていることを私は目の覚めるような思いで読みました。 「良い子をどれだけ叱れるか」という発想は私の中にはまったくありませんでした。 「勉強だけ出来れば良い」とか「おとなしくしてればよい」という意識が「集団の倫理をゆがめる」。言われてみればそうかと納得できます。 しかし、私はとかく表面に出る問題行動だけに目を奪われがちです。 流水さんのお考えが少しずつ解ってきたように思います。 そして、それがどんなに核心をついていることか。 >これが、現在の子供の特色でしょう。人間としての基本的能力が退化しているのです。幼稚園でお絵かきで、人間が描けない子供が増えている、という報告が出ていますが、これらの子供は何も見ていないのです。見ていないということは、興味がないということです。つまり、幼児時代から人間を見ていない、人間に興味がないということになります。この子供に現れた退行現象は、社会を崩壊させる可能性があります。 >このような問題の重要性はどれだけ強調されてもされすぎはないと思います。 この点については、機会をあらためてお願いします。 >問題は【自由】という概念を教師がどう考えるかの問題です。上記のわたしの予測は、子供たちの【自由意識】のレベルを捉えることなのです。 >【自由】というのは、人間の深部から沸きあがってくるものです。どんな小さな子供でも、【自由】を束縛すると嫌がります。つまり、【自由】とは、人間の【本能】であり【本質】なのです。 >【しつけ】とは、人間が生きていくうえに必要な事柄を教えることです。例えば、排泄の仕方、食事の仕方、言葉の使い方、あいさつの仕方などなどです。 > >教育とは、子供たちの【自由意識】を縛り、一定のルールの下に行動することを教えることです。 >教師はこのことに慣れすぎて、子供たち(※人間にとって本質的な)にとって本質的な【自由】の問題を軽視しすぎたのです。 > >わたしの「集団つくり」の始まりは、この子供たちの【自由意識】をどのように捉えるかを問うことなのです。 私は卒業して教師になるとき(正確に言えばしばらく民間会社に勤めていたのですが)ニールの自由学校に憧れ「自分のクラスを自由学校のように子供の自由や主体性を大事にしていこう」と思って子供達の前に立ちました。 それは今考えると子供達にベテランの先生にはない新鮮さを感じさせていたように思います。 しかし、私自身がそれに耐え切れませんでした。 何しろがさがさ落ち着かない、騒がしさ、統制のとれなさに我慢できませんでした。 そして、いつのまにか一定のルールの中に閉じこめていくようになりました。 基本的には今もそうです。 流水さんがまさに仰る通りです。 これは必要なことだと思いますが、確かにより本質的な「自由」の問題を軽視しています。 私の盲点になっているようです。 子供達の自由意識に着眼した集団つくりを是非教えてください。 |
▼団塊党さん: > >集団が今どの意識レベルにあるかを測ることができるということは、流水さんの中に、何段階かの尺度があるわけですね。その辺を具体的に教えて頂けないでしょうか。(下に書かれている自由意識のレベルのことだと思いますが。 >また、集団意識の位置に合わせた方法とはどういうことでしょうか。 これは具体的な数値があるわけではないので、マニュアル化することがきわめて難しいのですが、基本的な考え方だけ書きます。 まず、頭の中に座標軸を描いてください。 Y軸の上を【獲得の自由】下を【無為】の自由とします。X軸の左を【抵抗の自由】とし右を【遵法の自由】とします。 そうしますと、【第一象限】は【獲得の自由】と【遵法の自由】の間に設定されます。【第2象限】は【獲得の自由】と【抵抗の自由】【第3象限】は【抵抗の自由】と【無為の自由】【第4象限】は【無為の自由】と【遵法の自由】の間にあります。 子供たちの【自由意識】のレベルを測るということは、どの象限にいちしているかを測ることになります。 例えば、【第4象限】に位置している集団を考えて見ましょう。【無為の自由】の意味は、老荘思想からきているもので、本来的には積極的な意味を持っているのですが、ここでは字句どおり【何も積極的にはしない】自由と解してください。 【遵法の自由】とは、ここではルールを守るとか先生のいうことに唯々諾々と従う自由という程度の意味に解してください。 この子供を想定すると、よく考えてみると、教師にとって(担任にとって)きわめて都合のよい子供たちだと考えられませんか。 あまり積極的に何もしないが、おとなしくて、言うことをよく聞く【集団】というイメージがわいてきます。 ところが、【第4象限】でも【遵法】の軸のほうに限りなく近い【集団】と【無為の自由】の方に限りなく近い【集団】では、まるで違います。これも想像してもらえればすぐ理解できると思いますが、授業をしても静かに聴いているのだが、反応がまるでなく、投げやりな気分が満ち満ちている【集団】などは、【無為の自由】軸に限りなく近い集団です。 ところが、集団の雰囲気が、【無為の自由】軸に近くなると、これは黄色信号が点滅しはじめ、赤信号が点る寸前だと考えられます。生物学的に考えても、子供たちは身体の中からエネルギーがほとばしる時期なのですから、【無為の自由】に安住できるわけがないのです。いつかは、この状態から脱出しようと試みます。 つまり、一気に【象限移動】をするのです。 X軸の【抵抗の自由】に振れる可能性がきわめて高いのです。【荒れ】の前史には、必ずと言ってよいくらい【無為の自由】に満ち溢れた時期があるのです。 このように見ると、【荒れ】にも積極的な意味があるのです。つまり、【何もしない自由】からの脱却を試みた子供たちの生きる意欲の現われでもあるのです。 ところが、この【荒れ】を静かにさせるためにとられた【管理教育】の間違いは、もとの【遵法】と【無為】の象限に子供たちを強制的に押し込めようとする発想にあります。この発想は、【遵法の自由】ではなくて、ただの【遵法】の強制に過ぎません。 しかし、いくら積極的意味があるとしても、学校・教師。多くの子供たちにも【荒れ】は困ります。 多くの場合【荒れる子供たちの行為】は【抵抗の自由】として許容される【範囲】を超えているからです。 つまり、最初に書いた【獲得の自由】【無為の自由】【抵抗の自由】【遵法の自由】の【自由】には、一定の【枠】が必要になるのです。この【枠】の設定に、学校・教師の【理念】が試されます。 さらにもう一つの問題があります。教師の立つ位置(視点)の問題です。教師はどこに立てば良いのか、これで教師の【自由理解】が問われるのです。例えば、【抵抗の自由】といっても、教師に口答えをする子供に対してどのような【応対】をするかで、その教師の【自由】に対する理解の深浅が問われるのです。 わたしは、理念的には教師はグラフの原点に位置すべきだと考えていました。【原点】ということには、意味があります。 一つは、上記の4つの【自由】の【枠】を的確に子供たちに指摘するためです。 他の一つは、上記の学校内の子供が本来的に持っている4つの【自由】は、時代の趨勢や学校の現状によって、グラフごと少しずつどちらかに移動しているのです。 例えば、現在の学校を取り巻く環境(政府・文部省の施策、地域の状況など)は、 第4象限の【遵法の自由】方向にずれつつあると考えられます。 その【状況】にあわせてグラフの原点の位置も右下(遵法の自由・無為の自由)方向へずれていくのです。つまり、教師の位置はこの【状況】にあわせて少しずつ変化していかざるを得ないと考えています。そうしなければ、学校という場で生きていけないからです。 長くなりました。本当は、4つの象限をさらに細かく分けて、それぞれにあわせた方策があるのですが、紙幅が足りません。大まかな説明だけで終わりますが、お許しください。 > |
▼流水さん: 集団と個についてというスレッドを新しく立てましたので、今後この議論はそちらの方に投稿下さい。 |
▼管理スタッフさん: >団塊党さんから、教育問題と教育を創ろうのスレッドの統合をという希望が出て、その方向で進んでいますが、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 統合と言っても意識の上だけのことですから、「教育を創ろう」は事実上kogaさんの「教育問題」のスレッドに吸収されたととらえて下さい。 kogaさんもそのように理解されていると思います。 |
▼団塊党さん: >▼管理スタッフさん: >>団塊党さんから、教育問題と教育を創ろうのスレッドの統合をという希望が出て、その方向で進んでいますが、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ > >統合と言っても意識の上だけのことですから、「教育を創ろう」は事実上kogaさんの「教育問題」のスレッドに吸収されたととらえて下さい。 >kogaさんもそのように理解されていると思います。 団塊党さん ご統合おめでとうございます。しかし見ていて時間がかかりましたね!1週間ぐらいかかってます。ヴァーチャル故でしょうかそれとも… 発言しないけれど見ています。(私、そういう性格なのです。控え目で…) |
▼海幸彦さん: >ご統合おめでとうございます。しかし見ていて時間がかかりましたね!1週間ぐらいかかってます。ヴァーチャル故でしょうかそれとも… >発言しないけれど見ています。(私、そういう性格なのです。控え目で…) 小話の弟子を破門されて、がっくりしています。 ジョークの部屋もそうですがここでも見ているだけではいけません。 父親としての意見などどんどん出してください。 4人もお子さんがいらっしゃるでしょう。 子育てのベテランじゃないですか。 お師匠さん役はもう免除しますから・・・控え目な海幸彦さん。 |
▼団塊党さん: >▼海幸彦さん: >>ご統合おめでとうございます。しかし見ていて時間がかかりましたね!1週間ぐらいかかってます。ヴァーチャル故でしょうかそれとも… >>発言しないけれど見ています。(私、そういう性格なのです。控え目で…) > >小話の弟子を破門されて、がっくりしています。 > >ジョークの部屋もそうですがここでも見ているだけではいけません。 >父親としての意見などどんどん出してください。 >4人もお子さんがいらっしゃるでしょう。 >子育てのベテランじゃないですか。 >お師匠さん役はもう免除しますから・・・控え目な海幸彦さん。 ありがとう団塊党さん、では失敗談を中心に―なんて謙虚になっちゃって。いや実は私の長男が、これが将来の地球の指導者になるんじゃないかと思わせるくらいよくで来たもので、埃におもってます。―ただし、今のところの見通し。一方、デキのわるい二男がいまして、これが未来の―――普通のヤツだな。 長女がいまして、これは平凡だな。二女が、これがまたすばらしい。――なんという差別、偏見オヤジ、この二女が芸術的センスがある――ただし今のところな。あとわしが教育したカミさん、これがまた出来が良くて、もう姉のようにお慕い申している。ただチョッと、アッチがチョッと――。いやそれはわしの責任じゃ。 今後とも控え目に発言する。よろしく。 |
人間としての教育の原点は,乳児期、幼児期、小学校低学年において 基本は決定ずけられるように思う・・。 現在,教育は職業的教育者に全てを委ねてるが「人間を長くやってきた身」として 考えると、知識を学ぶ以前に「善・悪」と虚実に絡む因果応報や他を思いやる想像力を獲得するのには親の教え無しには考えられない・・・。 初期的かつ基本的な思考回路を醸成(じょうせい)或いは「スリコミ」をするのに 最も大切な時期は親やそれに順ずる人以外係われない・・・。 ・・・「幼稚園・学校へ入園入学前の意味」・・・ 「親を見れば子供が解かる、子を見れば親がわかる」とか云われるように 難物の再生産?世代送りはしたくないものです・・。 他人事のように聞こえるでしょうが、自分の子らの成長を通して・・自分自身で 今にして納得をする処です。 してみると平和な家庭を維持する社会環境・政治経済も含めての後ろ盾が何よりも 必要であると・・・痛感しております。 |
子供が自我に芽生える前後・知的な発達の中で嘘をおぼえるようになる、 その時の対処の仕方で「嘘も方便」とする日本の仏教的?な環境?の背景の 中では嘘に対する罪悪感が低くなり、その後、嘘がもたらす罪悪を意識できなくなる。 政治家でも大企業経営者でも嘘をもって言い訳や弁解する人を多く見聞きするが それも「スグバレ」のことで・還って自分自身を窮地に追い込んでる現実もある・・・。 今の日本のバブル経済の以前から崩壊・長期不況、荒廃の元凶は其の辺りにあることに 気がつかねばならぬ・・・。 |
絶対、そう思う。 ついでに言えば、そういったガキと同じ精神性を持つ年だけ喰った「老人」 も減って、下手に「ゆとり教育が」なんてくだらない議論をしたり ガキどもを甘やかさなくても、ましな大人ができるよ。 そう思う。 どうしてもそれが無理なら、子供はもっと体を鍛えさせるべきだね。 所構わず座り込んでいるような奴らは、精神がへたり込んでいるのは言うに及ばず、 体が弱すぎるんだ。 飯も食わせ放題じゃなくって、たまには我慢させる事も覚えさせなきゃ。 あと、聞き分けのないことを抜かすガキは、容赦なく張り倒す。 そうやって大人と子供の位置関係をはっきりと分らせる機会を作らないと駄目だよ。 学級崩壊なんて、張り倒してやる教師がいても、すぐにマスゴミやインチキ人権屋が 喧しいもんだから、どっかの掲示板みたく「わっ」と糾弾されて抹殺されちゃうから 防ぎ様がないよ。 「うるせえ、馬鹿野郎!」って時には殴ってやらなきゃ。 基本的に子供なんて物事が分っていない馬鹿なんだから。 二言目には「子供にも人権が」なんて、ガキどもをちやほやしてるんじゃないよ、全く。 |
▼風鈴カザンさん: 口悪いけど、たまには良いこと言うね。全面的には認められないけど。 |
▼風鈴カザンさん: こんばんは。 このような主張はよくありますね。目新しいものではないので、また、やってるな、と思って読んでいたのですが、1つ質問があります。 >権利を主張することしか知らないガキ とありますが、いったい今の若者のどのへんが、「権利を主張することしか知らない」というのでしょう? ぼくなんかは、反対に今の若者は、たとえば、学生運動華やかなりしころの若者(といっても、ぼくはそれよりかなり後の世代なので、本でしか知らないのですが)と比べて、権利も主張できない、という気がしてならないのですが。 |
▼ひろあきさん: >▼風鈴カザンさん: >こんばんは。 >このような主張はよくありますね。目新しいものではないので、また、やってるな、と思って読んでいたのですが、1つ質問があります。 > >>権利を主張することしか知らないガキ > >とありますが、いったい今の若者のどのへんが、「権利を主張することしか知らない」というのでしょう? ぼくなんかは、反対に今の若者は、たとえば、学生運動華やかなりしころの若者(といっても、ぼくはそれよりかなり後の世代なので、本でしか知らないのですが)と比べて、権利も主張できない、という気がしてならないのですが。 全く同感ですね。今社会を動かしている大人の方がよっぽど昔権利主張してたと思います。 今の若いのはむしろ、権利を主張する前に諦めたりしているように思います。 |
賛成、詳しくは私のhttp://www.h5.dion.ne.jp/~j-kamei/を見てください。 合掌 |
すみません、お話とはちょっと違いますが 思い出したので。 嘘とリーダーシップ 10数年ほど前に嘘とリーダーシップの関係を実験したアメリカのテレビ番組(日本のNHK教育テレビのようなチャンネルでやっていました)を見ましたが非常に興味深い内容でしたのでご紹介させていただきます。 番組内での実験はこうです。 まず幼稚園児数十人の普段の行動をこまかくチェックしリーダーシップの備わっている子とそうでない子を個別に判断してゆきます。 次に、一人づつ子供を部屋に入れテーブルにつかせコップに入れた苦いジュースを飲ませます。 そして、その次に部屋に入ってくる大人に「甘いジュースだよ」と勧めて飲ますように子供に指示します。 要するにいかに苦いジュースを甘いと偽れるかのテストです。うまく表情に出さず偽れる子、もじもじしたりしてうまくできない子が出てきます。 そして、リーダーシップを持つ子供は嘘もうまいと言う結果になったのです。それは関連性には良いアイデアを出す子供やその他の要因はあまり関連性を見いだせなかったとのことです。 リーダーシップを持つ者は嘘つきである。みなさん何となくご自分のまわりを見て納得できませんか? そしてこの番組の最後にはこの実験結果のリーダーシップと嘘つきの関連性は男性のみに当てはまるもので女性には全くその関連性は認められなかったと言うことです。 みなさんこの実験をどう見ますか。女性でリーダーシップを持つ人が嘘つきである事はあるでしょうが男性のように関連性がないのであれば、リーダーは女性の方が向いていると言うことでしょうか?でも、リーダーはうまく嘘をつかなければいけない時もあるような気もします、難しいですね。 |
▼peaceさん: >すみません、お話とはちょっと違いますが >思い出したので。 > >嘘とリーダーシップ > >10数年ほど前に嘘とリーダーシップの関係を実験したアメリカのテレビ番組(日本のNHK教育テレビのようなチャンネルでやっていました)を見ましたが非常に興味深い内容でしたのでご紹介させていただきます。 > >番組内での実験はこうです。 >まず幼稚園児数十人の普段の行動をこまかくチェックしリーダーシップの備わっている子とそうでない子を個別に判断してゆきます。 >次に、一人づつ子供を部屋に入れテーブルにつかせコップに入れた苦いジュースを飲ませます。 >そして、その次に部屋に入ってくる大人に「甘いジュースだよ」と勧めて飲ますように子供に指示します。 >要するにいかに苦いジュースを甘いと偽れるかのテストです。うまく表情に出さず偽れる子、もじもじしたりしてうまくできない子が出てきます。 >そして、リーダーシップを持つ子供は嘘もうまいと言う結果になったのです。それは関連性には良いアイデアを出す子供やその他の要因はあまり関連性を見いだせなかったとのことです。 > >リーダーシップを持つ者は嘘つきである。みなさん何となくご自分のまわりを見て納得できませんか? > >そしてこの番組の最後にはこの実験結果のリーダーシップと嘘つきの関連性は男性のみに当てはまるもので女性には全くその関連性は認められなかったと言うことです。 > >みなさんこの実験をどう見ますか。女性でリーダーシップを持つ人が嘘つきである事はあるでしょうが男性のように関連性がないのであれば、リーダーは女性の方が向いていると言うことでしょうか?でも、リーダーはうまく嘘をつかなければいけない時もあるような気もします、難しいですね。 面白い実験ですね。 かなり納得してしまいました。 女性の嘘とリーダーシップの関連性がないのは、たぶん、女性というのは、嘘をついていても自分で嘘をついているという自覚がないからではないと思います。 ま、これは冗談ですが。 |
▼ひろあきさん: >▼peaceさん: ご両人、こんにちわ! 面白い展開ですね! 人間は得てして、「辛い真実」より「甘いウソ」に喜んでしまう性質があるや・・ に見受けられます・。現実より逃れるためにウソの架空現実をつくって逃避する こともあるようです・・。 事件や事故の当事者の対応をみると良く判ります。ウソがウソを呼んで ニッチモ・サッチモならなくなる事など、 第三者としてみると滑稽ですらあります。 |
▼珍 源齋さん: >事件や事故の当事者の対応をみると良く判ります。ウソがウソを呼んで >ニッチモ・サッチモならなくなる事など、 そうですね、嘘は良くないものと教えられ、また認識しています。そして、嘘のはびこらないような社会が形成されればこんなに良いことはないとも思います、 自分だけの利益になる嘘はいけないと思いますがしかしある局面において皆の利益になる嘘をつけることが必要な場合も実社会にあるのは否めない事実ではないでしょうか。 これは今となれば笑い話なのですが、僕の友人が数人で釣り船を借りて沖に釣りに行ったときのこと、突然海は大荒れになり船は木の葉のように波間を舞ったそうです、そのとき友人は船頭さんに「大丈夫ですか?」と聞くと、船頭さんは「大丈夫!大丈夫!よくあることだ」と言って船を港にむけました。そして、やっとこさっとこ港に着くと船頭さんは一言「実はかなり怖く危なかった!」と言ったそうです。 要は何の為に嘘をつくのか?につきるのではないでしょうか。 |
▼peaceさん: こんにちわ! 私が述べてるウソの「定義」は言い換えますと「真実で無い!」と 云うことで・・、社会は真実と信用が前提として成立してます・・。 嘘つきが、ウソの効用として成立するのはウソでない真実が前提とする社会があってのことで・・社会がオール嘘の集団と化したら人々の生存すら危うくなります。 信用、信頼の元に成立してることの解りやすい例は航空機の計器飛行がありますが 航法、姿勢、速度を指示する計器が「ウソ」事実と異なる指示をするようでしたら 航空機は飛ぶことが出来ません・・。 企業の経営でも従業員が「うそ」をつき「経営者」もウソをついたら 経営は成り立ちません。 事件や事故の当事者の対応をみると良く判ります。ウソがウソを呼んで ニッチモ・サッチモならなくなる事など、半面教師には事欠きません・。 そのとき友人は船頭さんに「大丈夫ですか?」と聞くと、船頭さんは「大丈夫!大丈夫!よくあることだ」と言って船を港にむけました。そして、やっとこさっとこ港に着くと船頭さんは一言「実はかなり怖く危なかった!」と言ったそうです。 >要は何の為に嘘をつくのか?につきるのではないでしょうか。 上記の船頭さんの発した「大丈夫!大丈夫!」は明らかにウソではありません。 「ウソも方便」としてお釈迦様が云われてるのは、真実を曲げてと仰有てるのでは ないはずです・・。 キリスト教徒である外国人にとって嘘つきと云われるのは最大の侮辱とのことで それが元で決闘に及んだ話は物語でも聞いたことがあります・・。 |
▼珍 源齋さん: こんにちは ありがとうございます、そうですね、僕もそう思います。 ところで 今度からキリスト教徒には「うそつき」と言わないようにします。 |