Page 1863 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼富永仲基 『翁の文』 なお 04/11/14(日) 17:19 ┣Re(1):富永仲基 『翁の文』 ふくちゃん 04/11/14(日) 17:49 ┃ ┗Re(2):富永仲基 『翁の文』 なお 04/11/14(日) 18:22 ┃ ┗咸臨丸提督 木村善毅 なお 04/11/15(月) 10:36 ┣Re(1):富永仲基 『翁の文』 Gokai Sezutomo 04/11/14(日) 19:45 ┃ ┣Re(2):富永仲基 『翁の文』 なお 04/11/14(日) 20:12 ┃ ┗Re(2):富永仲基 『翁の文』 数理梵哲 04/11/15(月) 10:51 ┃ ┣Re(3):富永仲基 『翁の文』 松 04/11/15(月) 13:05 ┃ ┃ ┗Re(4):富永仲基 『翁の文』 数理梵哲 04/11/15(月) 19:59 ┃ ┃ ┗Re(5):富永仲基 『翁の文』 松 04/11/15(月) 22:22 ┃ ┗Re(3):富永仲基 『翁の文』 Gokai Sezutomo 04/11/15(月) 21:40 ┗Re(1):富永仲基 『翁の文』 半仙人 04/11/18(木) 11:56 ┗Re(2):富永仲基 『翁の文』 なお 04/11/18(木) 15:19 ┗Re(3):富永仲基 『翁の文』 半仙人 04/11/18(木) 17:02 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 富永仲基 『翁の文』 ■名前 : なお ■日付 : 04/11/14(日) 17:19 -------------------------------------------------------------------------
富永仲基が1738年(江戸時代)に書いた『翁の文』からの抜粋です。 それならば、その誠の道、つまり今の日本の世で実践されるべき道とはいったいなにをいうのであろうか。それは、ただ物事に対しては、その当然になすべきことをつとめ、今現在やっている仕事に生活の根拠をおき、心を素直にし、品行を良くし、言葉づかいを柔らかくし、立居振舞慎み、親のあるものは、よく親に孝養することである。 また主君に仕えるものはよく主君のために心を尽くし、子供のあるものはよく子供を教え導き、臣下のあるものはよくこれを治め、夫のあるものはよく夫に従い、妻のあるものはよく妻をしたがえ、兄のあるものはよく兄をうやまい、弟のあるものはよく弟をあわれむことである。そして、年老いたものには心をくばって大切にし、幼いものにはいつくしみをかけ、先祖のことを忘れないで、一家の親しみをおろそかにしないことである。 人と交際する場合にも、心から誠意をつくし、悪い遊びごとをせず、秀でた人を尊敬し、愚かなるものをあなどらず、またわが身にあてはめて考え、悪いことは人にしないことである。人あたりがするどく、角のたつようなことをせず、ひがんで頑固になることもなく、せかせかとせわしい態度をとらず、怒ることがあっても度を越えず、喜んでもその立場を失わないことである。たのしみごとにもおぼれず、悲しみごとにも自分を見失わず、なにごとにも十分であろうとなかろうと、みな自分にとって幸いなことであると、そう思って十分心に満足をおぼえることである。 受け取るべきでないものは、たとえ塵であっても受けとらず、また与えなければならないときは、天下国家であろうとも、それを惜しまず与えることである。衣食のよしあしも、わが身のほどにしたがって、奢ることなく、またけちけちすることなく、盗みをせず、偽りをせず、色ごとを好んでも理性を失わず、酒を飲んでもみだれず、人に害を与えないものは殺さず、飲み食いにはつつしみを忘れず、悪いものは食べず、たくさんものを食べないことである。 暇な時間のあるときは、自分の身にとって有益な学芸・学問を学んで、賢明になるようにつとめることである。 今の文字を書き、今のことばをつかい、今の食物をたべ、今の衣服を身につけ、今の調度をもちい、今の家に住み、今の習慣に従い、今の掟を守り、今の人と交際し、いろいろな悪いことをせず、いろいろとよいことを実践するのを誠の道ともいい、それはまた、今の世の日本で実践されるべき道だともいえるものである。 ところで、この誠の道というものは、そのもとはインドから来たものではない。中国から伝来して来たものでもない。また神代のむかしにはじまって、今の世に習い伝えられたものでもない。天から下ったものでもなければ、地からわき出たものでもない。ただ、いま生きている人のうえに照らして、このようにすれば人も喜び、また自分もこころよくて、はじめから終わりまでさしつかえるところもなく、すべてがよく治まるというところから生まれたものである。 また、このようにしなければ、人もこれを憎み、自分もこころよくなく、ものごとに支障がふえて順調にゆかないことばかりが多くなるので、どうしてもこのようにしなければならないという、ごくあたりまえの人のなすべきところから出て来たのが、この誠の道である。だからこれは、人がとくに頭をひねって、かりに作りだしたというものではない。だから今の世に生まれ出て、それが人間として生まれたものならば、たとえ三学(神道、儒学、仏教)を学んだ人だといっても、この誠の道をすてて、一日として人間らしく生きることはできないはずである。 右は第七節である。 (抜粋終わり) |
▼なおさん: >富永仲基が1738年(江戸時代)に書いた『翁の文』からの抜粋です。 > >それならば、その誠の道、つまり今の日本の世で実践されるべき道とはいったいなにをいうのであろうか。それは、ただ物事に対しては、その当然になすべきことをつとめ、今現在やっている仕事に生活の根拠をおき、心を素直にし、品行を良くし、言葉づかいを柔らかくし、立居振舞慎み、親のあるものは、よく親に孝養することである。 > >また主君に仕えるものはよく主君のために心を尽くし、子供のあるものはよく子供を教え導き、臣下のあるものはよくこれを治め、夫のあるものはよく夫に従い、妻のあるものはよく妻をしたがえ、兄のあるものはよく兄をうやまい、弟のあるものはよく弟をあわれむことである。そして、年老いたものには心をくばって大切にし、幼いものにはいつくしみをかけ、先祖のことを忘れないで、一家の親しみをおろそかにしないことである。 > >人と交際する場合にも、心から誠意をつくし、悪い遊びごとをせず、秀でた人を尊敬し、愚かなるものをあなどらず、またわが身にあてはめて考え、悪いことは人にしないことである。人あたりがするどく、角のたつようなことをせず、ひがんで頑固になることもなく、せかせかとせわしい態度をとらず、怒ることがあっても度を越えず、喜んでもその立場を失わないことである。たのしみごとにもおぼれず、悲しみごとにも自分を見失わず、なにごとにも十分であろうとなかろうと、みな自分にとって幸いなことであると、そう思って十分心に満足をおぼえることである。 > >受け取るべきでないものは、たとえ塵であっても受けとらず、また与えなければならないときは、天下国家であろうとも、それを惜しまず与えることである。衣食のよしあしも、わが身のほどにしたがって、奢ることなく、またけちけちすることなく、盗みをせず、偽りをせず、色ごとを好んでも理性を失わず、酒を飲んでもみだれず、人に害を与えないものは殺さず、飲み食いにはつつしみを忘れず、悪いものは食べず、たくさんものを食べないことである。 > >暇な時間のあるときは、自分の身にとって有益な学芸・学問を学んで、賢明になるようにつとめることである。 > >今の文字を書き、今のことばをつかい、今の食物をたべ、今の衣服を身につけ、今の調度をもちい、今の家に住み、今の習慣に従い、今の掟を守り、今の人と交際し、いろいろな悪いことをせず、いろいろとよいことを実践するのを誠の道ともいい、それはまた、今の世の日本で実践されるべき道だともいえるものである。 > >ところで、この誠の道というものは、そのもとはインドから来たものではない。中国から伝来して来たものでもない。また神代のむかしにはじまって、今の世に習い伝えられたものでもない。天から下ったものでもなければ、地からわき出たものでもない。ただ、いま生きている人のうえに照らして、このようにすれば人も喜び、また自分もこころよくて、はじめから終わりまでさしつかえるところもなく、すべてがよく治まるというところから生まれたものである。 > >また、このようにしなければ、人もこれを憎み、自分もこころよくなく、ものごとに支障がふえて順調にゆかないことばかりが多くなるので、どうしてもこのようにしなければならないという、ごくあたりまえの人のなすべきところから出て来たのが、この誠の道である。だからこれは、人がとくに頭をひねって、かりに作りだしたというものではない。だから今の世に生まれ出て、それが人間として生まれたものならば、たとえ三学(神道、儒学、仏教)を学んだ人だといっても、この誠の道をすてて、一日として人間らしく生きることはできないはずである。 > なおさん! これは、当スレッドが最近荒廃が目立って来ている為の、 御注意と解してよろしいでしょうか? |
▼ふくちゃんさん: >なおさん! >これは、当スレッドが最近荒廃が目立って来ている為の、 >御注意と解してよろしいでしょうか? 日本史を勉強していて出会った、富永仲基という人物の文章を読んで、共感してみんなに知ってもらいたかったので投稿しました。 勉強していてまた共感する人物に出会いましたらご紹介します。 |
今読んでいる本 『面白いほどよくわかる 日本史』(日本文芸社)に面白い文章があったのでご紹介します。 『咸臨丸の太平洋横断 1860年』 コラム「米国レディも喝采 木村提督の機知」 P255 アメリカ市民が咸臨丸を一目見ようと集まったとき、木村善毅提督は日本の慣例に従って丁重に女性の乗艦を断った。 するとアメリカ・レディたちは面目を失ったとばかり、男装して集結。集団で乗艦した。 これを見た木村提督、少しも慌てず、男装の麗人たちが見学を済ませて船を降りる際、それぞれに紙包みのプレゼントを手渡した。あとで開いてみたところ、カンザシが入っていた。 木村提督のイキな対応を知ったアメリカ市民は、やんやの喝采。サムライ、ニッポン万歳の快挙であった。 (引用終わり) なんだか東京の学校教育がおかしなことになっているようですが、石原慎太郎都知事は頑なな「男尊女卑」の発想の持ち主のようですが、この木村善毅提督のような”機知”は期待できないでしょうか? |
なおさん、こんにちは 新明解・国語辞典で、 「誠」を調べますと、真とも実とも書くそうで、 その意味は、事実よりオーバーな点も無ければ、不足する点も無いことだそうです。 従って、『誠の道』とは最も適切と思われる「人の生きるべき道」を説いたものと解釈できますが。 富永仲基氏の文が、人類の発展も含めて、人の生きるべき道を解くことが出来るほどの器量よしの内容には読めません。 せいぜい、「こうすれば、差し障り無く人生をまっとうできようか?」ぐらいの文意にしかとれません。このような心構えの日本人が大多数では日本人の血脈は危ういと私には思えました。 以上、失礼かと思いましたが、安易に悟って頂いては困るの意で、感想を述べました。 ご反論をお待ちしています。 |
Gokai Sezutomoさん 富永仲基について議論する気はありません。議論できるほど富永仲基にも日本史にも知識がありません。 話は変わりますが「アメリカに「経済制裁」を!」というスレッドを立てました。経済学の視点からフォローしていただくとありがたいです。 |
▼Gokai Sezutomoさん: >なおさん、こんにちは > >新明解・国語辞典で、 >「誠」を調べますと、真とも実とも書くそうで、 >その意味は、事実よりオーバーな点も無ければ、不足する点も無いことだそうです。 >従って、『誠の道』とは最も適切と思われる「人の生きるべき道」を説いたものと解釈できますが。 > >富永仲基氏の文が、人類の発展も含めて、人の生きるべき道を解くことが出来るほどの器量よしの内容には読めません。 >せいぜい、「こうすれば、差し障り無く人生をまっとうできようか?」ぐらいの文意にしかとれません。このような心構えの日本人が大多数では日本人の血脈は危ういと私には思えました。 >以上、失礼かと思いましたが、安易に悟って頂いては困るの意で、感想を述べました。 >ご反論をお待ちしています。 横から失礼します。 私も高校生時代、道元の正法眼蔵を読んだとき似たような感想を持ちました。 あまりにも当たり前のことしか書いて無く、道元はこんな分かり切ったことまで弟子に話さなければならなかったのかと、道元に同情したものでした。当時の私は、そのように生きておりましたので。 しかし、その後年を取るにつれ、当たり前のことを当たり前に行い続けることが如何に大変なことかと痛感するようになりました。 当たり前のことを当たり前だということはたやすいことですが、当たり前のことを当たり前に行い続けることは、非常に難しいことだと感じています。 Gokai Sezutomoさんにもいずれおわかりになるときが来るのではと思います。 ただ、一生判らないような生き方ができれば、それはすばらしいことだと思いますが。 |
▼数理梵哲さん ▼Gokai Sezutomoさん ▼なおさん 私も横から失礼します。 当たり前の事を当たり前にし続けるというのが大変な事であると言うのは自分自身を振り返ってみても実感します。 日常生活の小さな事の積み重ねと言うものがいかに大切なものであるか。 シベリア抑留から帰ってきた方の話を聞いた事がありますが、その方が仰るには 「抑留生活の中で、絶望に囚われ生活が崩れていった人から死んでいった。逆にあの様な環境であっても日常の習慣を崩さない人が生き延びた。」 のだそうです。 アメリカの学校で一部のクラスの生徒達に、試験的に文字を丁寧に書くように指導したところそのクラスの生徒の成績が上がった、と聞いた事があります。 これらの事は、日常生活を大切に丁寧に過ごす事が如何に大切であるか、という事を表していると私は思っています。 今「東洋庶民道徳」を読んでいます。 何とかこれから学んだ事を知識にとどめず実践していけるようにしたいと思っています。 でもやり始めは意欲が高くて問題ないのですが、いつもの如くなかなか継続が難しい。 この様な状況ですので数理梵哲さんのお言葉が胸に響きました。 もう一度頑張ってみます。 ありがとうございました。 |
▼松さん: >当たり前の事を当たり前にし続けるというのが大変な事であると言うのは自分自身を振り返ってみても実感します。 >日常生活の小さな事の積み重ねと言うものがいかに大切なものであるか。 > >シベリア抑留から帰ってきた方の話を聞いた事がありますが、その方が仰るには >「抑留生活の中で、絶望に囚われ生活が崩れていった人から死んでいった。逆にあの様な環境であっても日常の習慣を崩さない人が生き延びた。」 >のだそうです。 > >アメリカの学校で一部のクラスの生徒達に、試験的に文字を丁寧に書くように指導したところそのクラスの生徒の成績が上がった、と聞いた事があります。 > >これらの事は、日常生活を大切に丁寧に過ごす事が如何に大切であるか、という事を表していると私は思っています。 > >今「東洋庶民道徳」を読んでいます。 >何とかこれから学んだ事を知識にとどめず実践していけるようにしたいと思っています。 >でもやり始めは意欲が高くて問題ないのですが、いつもの如くなかなか継続が難しい。 私もそうなのですが、始めにあまり張り切りすぎるとその分燃え尽きるのも早いようです。私はそれを、もしかしたら情熱の総量というのがあって、短時間で使ってしまうか、時間を掛けて使うかの違いかも知れないと思っています。私のような年齢になってきますと、時間を掛けてじっくりと取り組む方が値打ちがあるように感じています。今の状態から後退しないように現状を何とか維持するのに忙しく、少しでも前に進むのは大変な努力が必要です。でもその分、やりがいもあります。 ともあれ、健康を害しては何にもなりません。寒くなってきました。ご自愛下さい。 |
▼数理梵哲さん: お返事ありがとうございます。 >私もそうなのですが、始めにあまり張り切りすぎるとその分燃え尽きるのも早いようです。私はそれを、もしかしたら情熱の総量というのがあって、短時間で使ってしまうか、時間を掛けて使うかの違いかも知れないと思っています。私のような年齢になってきますと、時間を掛けてじっくりと取り組む方が値打ちがあるように感じています。今の状態から後退しないように現状を何とか維持するのに忙しく、少しでも前に進むのは大変な努力が必要です。でもその分、やりがいもあります。 全く仰せの通りだと思います。 お返しする言葉が何かないかと自分の心の中を探していたのですが、いただいたお言葉は今の私にまさに必要なものであり、それを中途半端に飾った言葉でお返ししてはいけないと思いました。 上の文章は何度も繰り返し読ませていただきました。 ありがとうございました。 >ともあれ、健康を害しては何にもなりません。寒くなってきました。ご自愛下さい。 暖かだったのが急に冷え込んできました。季節の移り変わりが早くなったように思います。最近街中でも鼻を鳴らしている人を多く見かけます。 数理梵哲さんもお身体をお冷やしになりませぬようお気をつけ下さい。 どうもありがとうございました。 |
▼数理梵哲さん:こんにちは >横から失礼します。 >私も高校生時代、道元の正法眼蔵を読んだとき似たような感想を持ちました。 >あまりにも当たり前のことしか書いて無く、道元はこんな分かり切ったことまで弟子に話さなければならなかったのかと、道元に同情したものでした。当時の私は、そのように生きておりましたので。 >しかし、その後年を取るにつれ、当たり前のことを当たり前に行い続けることが如何に大変なことかと痛感するようになりました。 >当たり前のことを当たり前だということはたやすいことですが、当たり前のことを当たり前に行い続けることは、非常に難しいことだと感じています。 >Gokai Sezutomoさんにもいずれおわかりになるときが来るのではと思います。 >ただ、一生判らないような生き方ができれば、それはすばらしいことだと思いますが。 仰られるとおりですね。 確かに当たり前のことを当たり前に行い続けることの困難さもあります。 私の恩師が『継続は力なり』という言葉をよく使っておられたのを覚えています。 さて、私の言葉が足らなかったのかもしれません。 富永氏の生き方も心に留めておくべきものかもしれませんが、それだけで人の世が成り立つわけでもなく、そこから十分にはみ出た人生も考慮に入れておくべきと考えました。なぜなら、お行儀のよいものばかりでは、日本人の未来も危ういと思うのです。 お行儀のよいこと、必ずしも人類のためになるとは限らないし、 人に嫌われる生き方をしていても人々のために成る事もあるかもしれないと思いませんか? 富永仲基氏の考えだけに飽き足らず、自由に発想していただきたいと思います。 |
なおさんが提起された問題に4人の方々が真面目に意見を述べておられるのを興味深く拝見しました。それぞれに深い人生経験と見識を持つ人々とお見受けします。そこへ横合いから変なことを言うのは少し気が引けますが、決してふざけた話ではありませんから聞いてください。 西洋人が『翁の文』を見たらどう思うでしょうか。ある意味では感動するかもしれませんが、全面的に肯定する気にはならないのではないでしょうか。とくに次の段落には強い異論が出るでしょう。 >ところで、この誠の道というものは、そのもとはインドから来たものではない。中国から伝来して来たものでもない。また神代のむかしにはじまって、今の世に習い伝えられたものでもない。天から下ったものでもなければ、地からわき出たものでもない。ただ、いま生きている人のうえに照らして、このようにすれば人も喜び、また自分もこころよくて、はじめから終わりまでさしつかえるところもなく、すべてがよく治まるというところから生まれたものである。 彼らは、全知全能の神によって指し示された道を歩むのでなければ正しい行ないはありえないと考えます。 ですから、たとえば「当たり前のことを当たり前にする」という、ごく平凡なことでさえ、その拠って立つ基盤が、日本人と西洋人とではずいぶん違うのです。たぶん、西洋人は「いま生きている人のうえに照らして良ければそれでよいのか? 古今東西を貫く『真』『善』『美』は無価値だと思っているのか? 日本人は、バベルの塔を建てて天に迫ろうとした驕慢な人々や、ノアの周辺に居た堕落した人たちが神の怒りに触れて懲罰を受けたことを知らないのか?」と言うでしょう。 もちろん、西洋人の言うことが正しくて富永仲基の言うことは間違っているなどと一方的に決め付けてはなりませんし、その逆も慎まねばなりません。一方の立場に立てば他方が間違っているように見えます。お互いにそうなのですが、また同時に両方とも正しいとも言えるのです。 ここで間違えてはいけないのは、真理がその中間にあるなどと言ってはならないということです。両方とも真であるが、それらは互いに相容れないのです。 こういうことについて私が学んだのは、『菊と刀』を通じてです。その著者ルース・ベネディクトは『文化の型』という本も著わしていますが、これらを読むと「文化相対主義」と言われる考え方が理解できます。そこには人々の基本的な価値観が社会ごとに様々であり、互いに理解しあうのがはなはだ困難であること、そしてそれにもかかわらずその様々な価値観はそれ自体として尊重されねばならないことが説かれています。それを熟読することをお奨めします。 |
『日本の名著 18 富永仲基 石田梅岩 責任編集 加藤周一』 「江戸思想の可能性と現実−−享保の二家について」 加藤周一著 によりますと、 「富永仲基の著作を見てもあるいは経歴を調べても、彼が重要な西洋思想と親しく接していた形跡は見当たらない。十八世紀の前半には、西洋の知識に対する日本人の関心は、一般的にいって医学・農学・天文学と歴・地理と測量のような技術的な知識に限られていた。西洋の知識の伝統的思想体系におよぼす影響がはっきり感じられるようになるのは十八世紀も後半になってからである。」 とあります。ご指摘の通り西洋思想の影響は全く受けていないようです。 さらに、 「富永仲基は政治的見解こそ明らかにしなかったが、知的領域では徳川時代の学者の中でもっとも激しく因襲に挑戦した人で、当時の三つのイデオロギー、すなわち神道・仏教・儒教のすべてを真向から批判した−−反対者の方法に関する彼の明快な説明ほど容赦ない批判はありえないだろう。徳川時代の儒教的世界の中で、おそらくは西洋思想と何の接触もなしに、富永仲基が最近まで誰も予想もしなかった新しい学問の可能性を、ともかくも予測し、しかもある程度まで発展させたということは、驚嘆に値する。」 また、 「しかしほとんどの歴史家はこれまで徳川日本の思想家としての富永仲基の重要性を充分には強調していない。知識人一般の間でこの若い哲学者の主要な理念は、まだ正当な評価を受けたことがなかったのである。」 そうです。【31642】は『翁の文』の一部の抜粋です。 上記文献にあたってみて下さい。(私もまだ全部読んでいないのですが) 富永仲基の著作で他に現存するのは、『出定後語』、『説蔽』だそうです。 |
なおさん 有難うございます。ご教示くださった文献を手掛りとして富永仲基のことをもっとよく勉強しようと思います。 |