Page 204 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼日本の道徳は桜花のごとく散ったか オルトン 04/1/30(金) 23:45 ┗Re(1):日本の道徳は桜花のごとく散ったか オルトン 04/1/31(土) 0:08 ┗Re(2):日本の道徳は桜花のごとく散ったか ひまんじい 04/2/1(日) 10:17 ┗Re(3):日本の道徳は桜花のごとく散ったか オルトン 04/2/1(日) 11:43 ┗Re(4):日本の道徳は桜花のごとく散ったか ひまんじい 04/2/11(水) 9:43 ┗Re(5):日本の道徳は桜花のごとく散ったか オルトン 04/2/13(金) 9:13 ┗Re(6):日本の道徳は桜花のごとく散ったか オルトン 04/2/13(金) 9:21 ┗Re(7):日本の道徳は桜花のごとく散ったか オルトン 04/2/13(金) 9:30 ┗Re(8):日本の道徳は桜花のごとく散ったか ひまんじい 04/3/13(土) 19:09 ┗Re(9):日本の道徳は桜花のごとく散ったか オルトン 04/3/14(日) 13:17 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 日本の道徳は桜花のごとく散ったか ■名前 : オルトン ■日付 : 04/1/30(金) 23:45 -------------------------------------------------------------------------
老人党公式サイト同スレッドを引き継ぎます。 この題名スレッド「日本の道徳は桜花のごとく散ったか」を 皆さんとの彩りある意見対話のもと、建設的展開を経て、 日本における道徳の歴史的変遷、現状認識、日本人の性質などを話し合い、後々には 「日本に新たな桜花(道徳)の芽が生まれ、その息吹が聴こえる」予感を 日本のあちこちに芽生えさせる事に少しでもつながるスレッドにしたいと思います。 「教育を創ろう」において、道徳の話題が少しずつ提起されてきたので 道徳・思想の意義などを論じるうえでスレッドを分別させておくと すっきりするかなと思い、立ち上げてみました。 色々、気軽にご投稿ください☆ |
以前の民の声BBSとは別の観点からの考察・・ 「教育を創ろう」での投稿にあった、ひまんじいさんが想う事に刺激を受けて。 宗教・道徳・哲学の存在意義とは。 内面に行動指針として宿す、一つの骨格めいた公式ではないか。 人生と向き合い、よくよく考察すると、 内面に溶け込んだ無数の体験、価値観が培養として内面を漂っていたのに、 それらを集約して意識に昇らせる、言語化という骨格づけ作業によって形を与えられる。 それを自身の「信念」「教訓」「格言、勲章」などとも呼称する。 そうした信念、教訓、価値観が、新たな未知体験に際して選択意思決定の拠る所となる。 しかし・・信念や価値観を明確に持たざる者も、居る。 そうした人にとって、内面に宗教・道徳・思想・哲学を宿す事は、遭遇する問題・物事 に対する公式(行動指針、ひまんじいさんの言葉を引用すれば「正解を導くキー」)としての代替機能をもたらすのではないか。また、宗教・道徳・思想・哲学は、一度に 多数の人間に作用する巨大なる力をも内包するように想う。 |
オルトンさん こんにちは。 昨日、例の新渡戸稲造先生の「武士道」の本、買いました。新撰組のコーナーに何種類か並んでいたので、奈良本先生の訳のものを買いました。安かったからです。 全く知りませんが、新撰組との関連が深いのですか。 |
ひまんじいさん、おはようございます。 >昨日、例の新渡戸稲造先生の「武士道」の本、買いました。新撰組のコーナーに何種類か並んでいたので、奈良本先生の訳のものを買いました。安かったからです。 >全く知りませんが、新撰組との関連が深いのですか。 恐らく察するに、NHK大河ドラマ「新撰組」がスタートした事や、 昨年に「ラストサムライ」「たそがれ清兵衛」といったサムライ映画の上映ならびに アカデミー賞ノミネートにより、侍・武士への関心が世相において高まっているのでは ないか・・という書店側の「読み」で、新撰組関連の本を買う人と、新渡戸稲造氏の 武士道を買う人との相関関係性(関心などについて)が高いと洞察して、何種類か 並べているのではないでしょうか? 新撰組に出場する沖田ら侍の内面に流れる思想を理解するのに、 新渡戸稲造氏の「武士道」は一役買う・・と本屋側が考えているからではないでしょうか 。 岩波文庫より出版されている新渡戸稲造氏の「武士道」に新撰組が侍・武士生活の 一例として、ほんの一文だけ記載されていた・・かもしれません(間違ってるかも しれませんが)。 個人的には岩波文庫の「武士道」が一番英語から日本語への翻訳作業 において余計に手をつけてないように感じるのでいいのではないか・・と 想っていましたです。。 |
オルトンさん こんにちは。 ようやく「武士道」、最後までたどり着くことが出来ました。残念ながら最後までざっと目を通したに過ぎませんが、これでも結構わたくしには大変なことです。失敗したと思うのは、オルトンさんの言われる岩波の矢内原氏の訳によるものにしたら、もっと原文の雰囲気が感じられたのかなあと思った次第です。 たまたま奈良本先生の解説に、「しかし、あの太平洋戦争の敗戦が日本の伝統の何もかもに大打撃を与えて過ぎた。武士道などは、地を払って退けられたような気がする。だが、かつて私たちの生き方を規制していた絆がすべて解かれてしまったとして、私たちは今、何をどのようにして身につけてゆくのだろうか。」という観点こそ小生の危惧と一致しているのを見ます。 ことに最終章にみられる感覚が、あなたがこのスレッドに名づけられた思いが強く伝わりました。 非常に感銘を覚える言葉が多く、傍線を引きながら読み勧めたつもりですが、まとめということでも最終章の次の言葉に私の思いもつきます。すなわち 「人間の闘争本能というものは普遍的で、かつ自然なものであり、また高尚な感性、男らしい徳目であるとしても、それは人間性のすべてではない。もっと神々しい本能、すなわち愛するという本能が闘争本能の下にある。」 「私たちは、不死鳥はみずからの灰の中からのみ再生すること、けっしてどこかから渡ってくる鳥ではないこと、そしてまた他の鳥から借りた翼で飛びたつものではないことを忘れてはならない。」 実は傍線を弾いた箇所にあなたにお尋ねしたい箇所があったのですが、それが何処だったのかすら分からなくなるというボケ振りです。 最後に例によって、司馬先生のこのあたりを言われているのかな、と思う部分を引用します。 「日本はご存じのようにキリスト教がなかったし、仏教はより哲学的ですから、あえてキリスト教世界を基準に言いますと、倫理、道徳はなかったに等しい。それに変わるものとして、恥ずかしいことをするなという精神が、坂東武者からおこったんです。 当時から「名こそ惜しけれ」というのがモラルの中心になりました。この「名」というのは名声欲の「名」ではなく、恥ずかしいことをしたら「あいつが」と言われる、その名です。変なことをしたら「名こそ惜しけれ」。倫理、道徳をヨーロッパ的にたたき込まれなくても、われわれ日本人がこの社会で、何とか大間違いをせずに来られたのは、関東からひろまって江戸末期あるいは明治以後までつづいた「名こそ惜しけれ」によってです。」 これですと、日本の道徳の起源は坂東武者ということで、それ以前の中央集権国家の形態には存在しなかったような感じですが、儒教というものは仏教と同様、あるいはもう少し前から日本に入ってきているはずで、聖徳太子の17条の憲法の例の「和をもって尊しとなす」が第1条ですが、憲法といいながら処世訓をまとめた儒教の徳目の列挙だと思うのですが。若きオルトンさんにもそのあたり追求していただきたいと思っています。長々と失礼しました。 |
ひまんじいさん、おはようございます。 そうですね・・ 聖徳太子の制定した憲法十七条に儒教の影響が見られるかと想うのですが、 「和を以て尊しとなす」が、単に人間関係を表層的に保つ手段として批判的な目で もって解釈される事が少なくない事を考えると、 内面感情と共鳴して動作に連結しなかった・・一面があるのではないかと思えるのです。 「和を以て尊しとなす」は、彩りある多様な意見を歓迎する活気ある風土・・を尊し の意と解釈してもいいと想うのです(現代であればサントリーの風土でしょうか)。 しかし、この句がそうした風土を奨励する句として解釈された事がないように 見受ける事に、「和」の本質にどこまで日本人が価値観や内面感情を深く融合させて いたか(多面的解釈が可能であるほど、その言葉が多くの意味・感情・価値観を内包するように思えるのです)・・に違和感めいたものが生じるのです。 今少し不調ですので、上記内容を記述するにとどめます。 |
追記 内面感情より芽生えた信念・価値観ではなく、他方より取入れたる信念・価値観(この 際、宗教や哲学、思想も含めましょう)であれば、それを内面に取り入れるとき、 融合のための激しい葛藤や相反作用が過程において生じると想うのです(米国で文化的 衝突の過程のすえに見事に溶け込み、調和的に融合する感覚です)。 儒教、自由、他国発祥の思想、これらを日本が受容するとき、そうした激しい葛藤や 相反作用が過程になかったために(あったのなら推測の誤りですが)、内面感情と 共鳴して調和的に融合することなく、表層的地層が新たに生まれる・・に終わった一面が あるのではないでしょうか??? |
再度追記 他方より取り込む思想や信念が内面に深く調和的に融合するためには 激しい葛藤や相反作用が過程において生じる事を必ずしも必要としないかもしれません (大体はあると想うのですが)。 自分が共感できる思想、信念、公式であれば、すぽっと共鳴されて内面に溶け込むと 想ったからです。 ただ、その場合でも自分の持つ価値観・信念・経験・感情と 多く連絡作用を持たせないと(何度も考える、議論する)、 自分の内面の主軸足ることはないと思えます。 十分な議論、国民への理解浸透を行うことなしに政府が他国の制度を導入する結果、 国民の無理解・無関心のままに制度が形骸化した過去の経緯が、 儒教や自由・他国思想が日本の内面土壌に深く結ばれることがなかった事に通ずる一面 が見出せるのかもしれません。。 |
▼オルトンさん こんにちは。 いつもどおりの真摯な姿勢に共感します。 4月号の文春の巻頭言で、いつもの阿川弘之先生が 《まことに骨の太い歴史観の持ち主》 と絶賛される、磯田道史先生という、確か慶応の講師をされている方かと思いますが、新潮新書の「武士の家計簿」という本が紹介されています。恥ずかしながら小生未読ですが、一度挑戦したいと思っています。 |
▼ひまんじいさん、こんにちわ。 おひさしぶりですが、お変わりありませんか。 大学生活最後の春休みを過ごし、「塩狩峠」という小説を読んでいます。 少しばかり、旅行しようか・・という、漠然とした「若さ」と 塩狩峠の舞台が結びついたようで、近々、北海道は同小説舞台を始めとして 各地を訪れてみようと想っています。 最近は、うららかな春の日々に、心が日だまりの温かさを感じています。 |