Page 2137 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼戦争による心の傷は、ずっと癒えない ぎみゆら 04/12/11(土) 20:23 ┣Re(1):戦争による心の傷は、ずっと癒えない げしたかゆき 04/12/11(土) 20:50 ┃ ┗Re(2):戦争による心の傷は、ずっと癒えない ぎみゆら 04/12/12(日) 11:59 ┣老人党掲示板にご参加の皆様に ぎみゆら 04/12/12(日) 12:14 ┃ ┣Re(1):老人党掲示板にご参加の皆様に 宮天狗 04/12/12(日) 13:53 ┃ ┣Re(1):老人党掲示板にご参加の皆様に 北の老兵 04/12/12(日) 17:23 ┃ ┣Re(1):老人党掲示板にご参加の皆様に 石頭の息子 04/12/12(日) 18:19 ┃ ┣Re(1):老人党掲示板にご参加の皆様に 松林 04/12/12(日) 20:34 ┃ ┃ ┗おつらい体験を、書き残すということ。 ぎみゆら 04/12/13(月) 9:21 ┃ ┗Re(1):老人党掲示板にご参加の皆様に とうろう 04/12/13(月) 11:05 ┃ ┗Re(2):老人党掲示板にご参加の皆様に ぎみゆら 04/12/13(月) 18:26 ┃ ┗Re(3):老人党掲示板にご参加の皆様に とうろう 04/12/15(水) 15:14 ┃ ┗戦争は、そのものが犯罪である。 ぎみゆら 04/12/16(木) 10:45 ┃ ┣Re(1):戦争は、そのものが犯罪である/戦争は悪 とうろう 04/12/16(木) 11:49 ┃ ┃ ┗Re(2):戦争は、そのものが犯罪である/戦争は悪 ぎみゆら 04/12/17(金) 18:11 ┃ ┃ ┗Re(3):戦争は、そのものが犯罪である/戦争は悪 とうろう 04/12/18(土) 8:32 ┃ ┗Re(1):戦争は、そのものが犯罪である。 MNG 04/12/16(木) 22:47 ┃ ┗アメリカは中東から出て行け! ぎみゆら 04/12/19(日) 20:48 ┣Re(1):戦争による心の傷は、ずっと癒えない ぎみゆら 04/12/12(日) 19:41 ┣Re(1):戦争による心の傷は、ずっと癒えない ごまめの翁 04/12/13(月) 14:00 ┃ ┗Re(2):戦争による心の傷は、ずっと癒えない ぎみゆら 04/12/13(月) 19:49 ┣Re(1):戦争による心の傷は、ずっと癒えない 相良唯夫 04/12/13(月) 17:36 ┣Re(1):戦争による心の傷は、ずっと癒えない ほい 04/12/13(月) 18:43 ┣Re(1):戦争による心の傷は、ずっと癒えない ぎみゆら 04/12/14(火) 10:13 ┃ ┣Re(2):戦争による心の傷は、ずっと癒えない 相良唯夫 04/12/14(火) 11:02 ┃ ┃ ┗Re(3):戦争による心の傷は、ずっと癒えない ぎみゆら 04/12/15(水) 14:26 ┃ ┃ ┗「原爆ぶらぶら病」についての補足 ぎみゆら 04/12/16(木) 23:39 ┃ ┗Re(2):戦争による心の傷は、ずっと癒えない ほい 04/12/14(火) 18:38 ┃ ┗Re(3):戦争による心の傷は、ずっと癒えない ぎみゆら 04/12/15(水) 14:40 ┣「平和」は、ずっと作り直し続けなければならない。 ぎみゆら 04/12/17(金) 0:14 ┃ ┗Re(1):「平和」は、ずっと作り直し続けなければならない。 枯葉 04/12/17(金) 2:22 ┃ ┗Re(2):「平和」は、ずっと作り直し続けなければならない。 ぎみゆら 04/12/20(月) 17:56 ┃ ┗Re(3):「平和」は、ずっと作り直し続けるには何を、、ぎみゆらさん、 枯葉 04/12/22(水) 19:15 ┃ ┗自分の心に、「平和の砦」を築くこと。 ぎみゆら 04/12/26(日) 12:46 ┃ ┗Re(1):自分の心に、「平和の砦」を築くこと。 ビーンズきし 04/12/27(月) 1:19 ┃ ┗Re(2):自分の心に、「平和の砦」を築くこと。 ぎみゆら 04/12/29(水) 21:03 ┗ずっと戦争をし続ける国、アメリカ ぎみゆら 04/12/29(水) 18:44 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 戦争による心の傷は、ずっと癒えない ■名前 : ぎみゆら <gimiyura@fox.dti2.ne.jp> ■日付 : 04/12/11(土) 20:23 -------------------------------------------------------------------------
中井久夫さんという精神科医がいます。まだお会いしたことは ありませんが、私の尊敬する精神医療者の一人です。 神戸大学名誉教授。七十歳。現・兵庫県こころのケアセンター長。 日本における統合失調症の治療と研究に貢献し、阪神大震災後の 精神面のケアを引っ張ってきた方でもあります。 日経新聞夕刊に、毎週月曜から金曜まで五回、ある人物の若い頃から 現在までの半生を追う『人間発見』というコーナーがあって、今週、 そのシリーズに中井さんが登場し、毎日興味深く読んでいました。 その最終回で、震災後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)への 対応と研究に取り組むなかで、「ひどい災厄」としての「戦争」に、 あらためて関心を強めているとして、次のように語っています。 ////////// PTSD はもともと戦争から出てきた概念です。ベトナムからの復員 米兵への補償を可能にするために必要とされた。心のケアを考える うえで、戦争による心の傷の把握は避けて通れないと思っています。 …… 戦争による心の傷はなかなか癒えない。自国民同士で殺し合う内戦は 特にひどい。為政者は常に戦争が短期で終わると想定します。…… ところが、たいてい見込み違いが続いて戦争は長引き、様々な悲劇を 生んで終わります。 …… 「無意識の発見」を著した著名な精神科医で、私が師と仰ぐ エランベルジェ先生は、個々の戦争犯罪ではなく、戦争そのものを 犯罪学や精神医学の対象とすべきだと語っていました。 (日本経済新聞2004年12月10日夕刊より、……は中略を示す) ////////// たとえば、「戦争も外交の一部」などというもの言いがあります。 そうとも言えばいえるのかもしれません。しかしそれは、自分が 戦争で傷つくようなことはないと無邪気に信じている人間が、戦争を 他人事として語る言葉に過ぎないのではないでしょうか。 実際の戦争は、いったん始めたら、そう簡単にはやめることはできず、 その間に、大勢の無名の人々を、繰り返し、繰り返し、深く傷つける。 そして、その傷は、心の傷を含めて、何十年も癒えない。 だから、何はどうあれ、戦争は絶対に起こしてはいけない。起こさせ てはいけない。──「ただの人」である私たちが、けっして忘れては ならないのは、そこのところなのだと、あらためて感じ入りました。 政治家や平和運動家の「手慣れた言葉」ではなく、長年にわたって、 多くの精神疾患患者を診療し、近年は阪神大震災被災者のケアにも あたってきた、学識、経験ともに豊かな精神科医の口から発せられた 言葉であるだけに、独自の深い意味があるとも思いました。 よろしければ、老人党の諸先輩方に、思うところ、感じるところを お聞かせいただければ、たいへんうれしくと思います。 |
中井先生はお元気の御様子、なによりです。 戦災や地震が目に見えたけが人のみではなく、多くの心を傷を作ってしまうことは思う以上のものがあるようです。 挑発的なものいいがこのネットでも増えていますが、どんどん加速する終わりは止まらないものがあります。 戦災や地震等の実情を知る、とても正視にたえないこの現実を見据える中で防災や戦争回避のぎりぎりの努力を私はしたい。 |
げしたかゆきさん、はじめまして。 意を汲んだレスをいただき、ありがとうございます。 > 戦災や地震が目に見えたけが人のみではなく、多くの心の傷を > 作ってしまうことは思う以上のものがあるようです。 何十年と残るというケースも、けっして珍しくないと思います。 先日あるベテラン臨床心理士から聞きました。神戸の震災後、 比較的早く「心のケア」を始めた地域と、それが遅れた地域では、 その後の「心の傷」の回復度や経過がずいぶん違うのだそうです。 そんなことも教訓として、今回の新潟の件では、「心の専門家」 たちの取り組みが、その多くはメディアには現れない水面下の 動きながら、非常に精力的に行われているとのことです。 心のケアという観点からも、戦争は、無条件に、絶対に、 ダメなんだと、中井先生のお話から、あらためて思いました。 |
上の自コメント【34764】の末尾、「老人党の諸先輩方に」と書いた のを、勝手ながら、「老人党掲示板にご参加の皆様に」と改めます。 先の戦争を直接間接に見聞した方々に、とくにお話を聞いてみたい という気持ちから、上のような文言が自然に出てきたのですが、 読み返してみると、老人党員、自分より年長の方にレスを限定する もの言いのようにも見えてきたものですから。失礼いたしました。 どなたでも、何でも結構です。「傷」について語るのは、自分に ついても、誰かについてでも、簡単なことではないと、私も少しは 知っています。無理にとは申しません。ただ、何か感じるところが あれば、どんなことでも、お聞かせいただければうれしく思います。 よろしくお願いいたします。 |
ぎみゆらさん 先日はありがとうございました。 1945年3月11日私は友達と二人日暮里駅の上から 浅草方面を眺めると見渡す限りの焼け野原で、浅草国際 劇場の壁だけが白く残っていたのが印象的でした。 ついで4月13日深夜B29の大編隊は私たちに襲い掛 かり、着の身着のままで逃げ出した路上わずか50セン チほどのところに焼夷弾がばらばら落ちてきました。 やっとたどり着いた公園から下を見ると、地獄もかくや と思われる紅蓮の炎が我が物顔にすべてをなめ尽くし、 「そして誰もいなくなった」。 何があろうと戦争だけは二度としてはならない、その願 いは新憲法によってかなえられました。しかしいまやそ れを変えようとする動きが高まっている。恐ろしいこと です。 |
ぎみゆらさん 戦争経験者の言葉には重みがあります。 私の父は明治42年生まれ。甲種合格で戦争経験者です。私には全く記憶がないのですが、父には5歳下の弟がおり戦死したそうです。 両親に早く死なれた父は、その弟の事を特別可愛がっていたそうで、母の話では本当にやさしくて思いやりのある人だったそうです。母は戦争を本当に憎んでいました。 父は寡黙な人だったのであまり多くを語りませんでしたが、私が大人になってから父に聞いたら、心の中では一度も天皇陛下のためなどと思った事はないと言っていました。ただ当時は政府の批判は国賊と言われ仕方なく戦地に赴いたそうです。 負ける事が分かっていたのに、全くバカな戦争をしたものだ。理不尽な事でビンタを食らったりで、ガキの喧嘩となんら変わらない、今思っても腹が立つが口癖でした。 私は戦争の記憶は殆どないのですが、空襲で防空壕に逃げた時、きっと私が泣いたのでしょう。母に口をきつく抑えられ、今にも死にそうに苦しかった事が、ぼんやりと覚えているだけです。 父は戦死した弟と靖国神社の大きな写真を床の間に飾っていました。弟を失った悲しさを、無理にお国のために死んだと自分に思い込ませているように見えました。きっと父の気持ちは複雑なものがあったのだろうなと思っているところです。 その父も母も亡くなったので、靖国神社の写真は処分しました。 戦争は二度とするべきじゃないです。不戦の誓いをたてたはずなのに、最近の右傾化は戦争を知る者が少なくなったためでしょうか? ここの掲示板にも好戦的な輩が跋扈しておりますが、逆らわずに老人党本来の議論を進めていきましょう。 |
ぎみゆらさん、 私も空襲はしりませんが、子供の頃にその恐ろしさを聞かされて育ちました、戦場から戻った方からも聞かされました、街角には傷痍軍人さんが白装束でアコーデオンを弾いていました、子供心に胸が痛みました。 私達世代は生の声を直接聞いた時代でもあります、そしてそれが青年期には全学連世代と云われました、彼らの暴走を云う方もいますが、真剣に日本を考えての運動であったと思っています、私はそのような運動に参加できなかった無念さを今でも持っています。 今の日本ではあの時の、あの世代の熱い気持ちで行動する若者はいるでしょうか?いいえ、逆に戦前復帰しているように感じています。 愚民政策とは云いませんが、庶民の口を封じるとしか思えない政治、経済社会が進んでいるように思います。 老人党では、少なくなった戦前を知る、戦争を知る方々の生の声をお聞きしたいのです、軍隊や戦争のやり方などはこの掲示板にはふさわしく無いと思います、それを許す風潮にも危機感を持っています。 |
ぎみゆらさま、 戦争を仕掛けた国であっても、銃後(といいました〕の国民はひどい目にあっています。とくに空襲をうけた方々は大変でした。これは「護憲+」の掲示板に半年以上前に書いた、現在70歳の教え子の経験です。 空襲の夜、下町の彼女の家の近くに焼夷弾が落ちた――逃げられないように 一定の地域を囲むように落とすのが常だったようですーーので一家五人、1枚の敷布団をかぶって逃げた。ある地点で、皆の目指す学校の校庭のほうに行こうとしたとき、お父さんが、そっちは風下だから駄目だといって、反対方向にいき、風上の川〔大きな池だったかも)にお父さんが入って、敷布団をかぶった家族に一晩中水をかけ続けて、なんとか助かった。朝になり、一家は上野駅目指して歩き始めたが、道には焼けた死体がゴロゴロ転がっていてそれらをまたいで歩いた。道が熱くてやっと歩いて、駅にたどりついた。 校庭に逃げた人たちは全滅だった。 戦後、お父さんは職を失い、酒びたりになり、彼女は高校三年で定時制に移り、銀行につとめた。 実は、私がこの話を聞いたのは昨年、何十年ぶりに会ったときでした。その時彼女は、この話は二人の子供たちにもしていないといっていました。それから何ヶ月 かたっても、「まだ話せない」と。 その時受けた心の傷はまだ癒されていないようです。 今もイラクでは市民たちが空襲に遭っているのですね。 |
松林さん、こんにちは。 東京オフ会では、いろいろと興味深いお話を聞かせていただき、 どうもありがとうございました。 * もし可能ならば、東京空襲でおつらいめにあわれた教え子の方に、 機会を見つけて、ご自身の体験を「書いてみてはどうか」と おすすめになってみてください。 以前に宮天狗さんにも同じ趣旨のことを申し上げたのですが、 「話す」というのは案外難しい一面があります。親子や兄弟でも、 本人の「話そう」という意志と、周りの「聞こう」という気持ちが うまく出会わないと、というようなところがあります。 でも「書く」ことは、とりあえず一人でできます。書いてすぐ 見せなくてもいいし、納得がいくまで何度も書き直すことも できます。いつか、お子さんやお孫さんに渡せばいいのです。 * おつらい体験を書くときのコツのようなものを、いくつか挙げると。 ・書きたいと思うことから書く (体裁や、歴史的・客観的な意義などはあまり気にしない) ・事実を中心に書く (そのほうがかえって、わかりやすく、伝わりやすい) ・一文に、一つのことを (あれもこれもと急がずに、1000字前後で一つのことを) 書くための手がかりとして、やってみてよいこともあります。 ・自分の年表を作ってみる (生まれた年から、歴史上の出来事なども簡単に添えて) ・書きたいことについて調べてみる (東京空襲の資料はたくさんあります。区立図書館が所蔵して いる郷土史なども、案外何かのヒントになるかもしれません) * いまこれをお読みになっているみなさまにも、戦争体験、あるいは その他のことでも、お子さん、お孫さんに伝えておきたいという 「何か」を、「書き残す」ということを、いつかお考えになって みるようおすすめします。 |
▼ぎみゆらさん: こんにちは。お久し振りです。 >上の自コメント【34764】の末尾、「老人党の諸先輩方に」と書いたのを、勝手ながら、「老人党掲示板にご参加の皆様に」と改めます。 直接的に言及されておられませんので、的外れかも知れませんが、上の貴コメントの修正が、若しかしたら、私がレスし、自ら削除したことに関係があるのではと思いその経緯を説明いたします。 ぎみゆらさんの本スレッドにレスしたあと、「老人党の諸先輩方に」と書かれていることに気付き、「老人党員でない」私がレスをつけたのは間違いでないかと気付き、そうであれば「スルー下さい」と言う「コメント」を追加しました。 このときは、このような「コメント(わざとらしくも見える)」を付けずに、自分で「原レスを削除すること」を思いつかなかったのです(夜は、大体、少し頭脳が麻痺していることが多いものですから)。 朝になって、このことに気付き自分で、原レス、追加コメントの二つを削除しました。 以上が経緯です。 なお、削除した私のレスには「30数ヒット」とありました。どのように読まれたかは解りませんが、ひょっとしてこの方々が奇異に思っておられるかとも思い説明させて頂きました。 |
とうろうさん、こんにちは。 お察しの通り、昨夜の書き込み二つ、拝見しています。 【34893】は、二つめの書き込みをきっかけとして書いたもの です。ただ、そのように受け取られた私の言い方が不適当だった と感じたので、みなさんに向けての言い改めとして書きました。 また一つめのほうは、私の意を汲んで丁寧にお考えを披露して くださり、とてもありがたい書き込みでした。感謝しています。 * 「戦争」と「差別」は、それぞれの人が、それぞれに生きていく なかで、それぞれなりのやり方で、とことん考え尽くす価値のある テーマだし、本当は、誰にとっても、けっして避けて通れない話題 なのではないかとの思いを、このごろになって、また強めています。 中井久夫氏やエランベルジェ氏(この方は、私は不勉強でこれまで 知りませんでしたが)のようなすぐれた精神医学者が、「戦争」を 自らのテーマとしていることに感じ入り、うれしく思ったことが、 このスレッドの最初の書き込みにつながりました。 お気が向けば、昨夜のものの再掲でも、その後のみなさんや私の コメントを読んでお感じになったことでも、また何か書き込んで いただければ、うれしく思います。 |
▼ぎみゆらさん: こんにちは。レス有難うございました。 >お気が向けば、昨夜のものの再掲でも、その後のみなさんや私のコメントを読んでお感じになったことでも、また何か書き込んでいただければ、うれしく思います。 遅くなりましたが、お言葉に勇気付けられて先の弊レスを再掲いたします。 (少し、僻んだもの言いですが、ぎみゆらさんにあるいはご迷惑だったかとも思い先に削除しましたので) ・・・・再掲・・・・ ▼ぎみゆらさん: こんばんは。ご無沙汰しています。 先日の「オフ会」は楽しく過ごされたようですね。若し、会場が公表されていれば、飛び入りで、せめて、ぎみゆらさんに一言ご挨拶をとも思っていましたが、主催者の方が用心をされたようで少し残念でした。 この貴コメントには全く同感いたします。 >実際の戦争は、いったん始めたら、そう簡単にはやめることはできず、その間に、大勢の無名の人々を、繰り返し、繰り返し、深く傷つける。そして、その傷は、心の傷を含めて、何十年も癒えない。 その通りと感じています。そして、どうして人間は「歴史に学ばないのか」と常々思っています。 >だから、何はどうあれ、戦争は絶対に起こしてはいけない。起こさせてはいけない。──「ただの人」である私たちが、けっして忘れてはならないのは、そこのところなのだと、あらためて感じ入りました。 僭越ですが、私が「絶対平和主義者」と揚言するところはそこにあります。 >政治家や平和運動家の「手慣れた言葉」ではなく、長年にわたって、多くの精神疾患患者を診療し、近年は阪神大震災被災者のケアにもあたってきた、学識、経験ともに豊かな精神科医の口から発せられた言葉であるだけに、独自の深い意味があるとも思いました。 その通りと思います。 そして、敢えて言えば、「戦争の狂気」は、普段平和な環境にあれば、そのようなことをしないであろう方々が(武器を手にするばかりに、敵を恐れるばかりに、自己防衛の心を含めて)「暴行、拷問、残虐行為を行い、虐殺行為など」に手を出し、その被害者に心の傷を与えるのだと考えています。 尤も、そのような行為を行なう方々には潜在的に、本質的にそのような気質を持っている人も居られるのでしょうが、「戦争(殺し合い)」と言う「異常な環境」に触発されて、思わずも「残虐行為に加担する」人も多いと思います。 近くは、イラクの米兵の残虐行為、ヴェトナムでのソンミの虐殺、古くは、南京事件、ナチの数々の行為、歴史上「戦争」に伴う「残虐行為」そして「数多くの被害者の発生」などは、少し想像力を働かせば、容易に考えられることと思っています。 >よろしければ、老人党の諸先輩方に、思うところ、感じるところをお聞かせいただければ、たいへんうれしく思います。 以上貴メッセージに触発され、少し、思うところを書いてみました。 ・・・・・再掲 終り・・・・・ |
とうろうさん、こんにちは。 再投稿、感謝します。内容も、とてもうれしいものでした。 このスレッド冒頭の書き込みで挙げた、精神科医・ 中井久夫氏の言葉を、もう一度引きます。 > 私が師と仰ぐエランベルジェ先生は、個々の戦争犯罪では > なく、戦争そのものを犯罪学や精神医学の対象とすべき > だと語っていました。 中井先生は、エランベルジェ氏の指摘として、しかも 非常に慎重な言い回しで紹介していますが、もう少し 直截に言えば、こういうことではないでしょうか。 ◆ 戦争は、そのものが、犯罪である。◆ ◆ 戦争は、そのものが、無数の「心の傷」の ◆ ◆ 源泉であり、温床である。 ◆ とうろうさんがご示唆の、普段ならしないようなことをして しまうというのも、極度の過戦闘モード、過緊張状態とでも いうのか、そういったものがもたらすのではないでしょうか。 だとすれば、やはり、何よりも大事なのは、そういった状況 自体を、作ってはいけないということなんだろうと思います。 ありがとうございました。 |
▼ぎみゆらさん: こんにちは。レス有難うございました。 私は「戦争は悪」だと思います。法に基づく「犯罪」以前の「善悪の問題」だと思っています。 いつかも書き込みましたが、「法に基づく戦争、宣戦布告して戦争を行なうなど、あたかもルールに基づいた正当な行動」などと考えることはあり得てならないことだと、「戦争の実体」をよく見れば当然のことと思うのです。 「ルールに基づいた個人間の決闘」の延長のように「戦争」を考えているのが現在でも各国の為政者の考えのように想像しますが、個人が手にする武器だけで戦争を行なっていた牧歌的な戦争と「大量破壊兵器」(私は、「大砲」などの時代からそうだと考えています)が存在して来た時代とは、戦争の悲惨さ、無慈悲さは質的に異なってきていると思うのです。 このことは第一次世界大戦における戦争の悲惨な有様(大量の死者、大量の戦争被害者、自然破壊、都市破壊、数多くの生き残った兵士の精神的後遺症、戦争被害者のトラウマ・・・)が「戦争は悪」だ、「戦争をなくそう」と言う思想を生んだと思いますが、敢え無く、第二次世界大戦に突入しました。 その後も「大量破壊兵器」の開発は進み、決して使えないと思われる「核兵器」も、ミサイルも、先進的な兵器も開発され保有されています。 人は歴史に学ばないものですね。何故「戦争」がなくならないか。余りに考える要素が多く、とても分かりませんが、それは、「人間という動物の本質に関わること」ではないのか、などと考えています。 ちょっと前に新聞のコラムに柳澤桂子氏?(よく中村桂子氏と混同しますのではっきりしませんが)が、戦う動物人間と言うようなテーマで、チンパンジーの戦争について書いておられたように記憶します。 今頃は、このように「戦争」の政治的、経済的、社会的側面の研究よりも、人間と言う動物の本質から戦争を考えてみることに興味を持っております。 以上、著述が業でないので読んだ図書など資料が手元になく全くの記憶だけで書いておりますので錯誤が多いと思いますが、「戦争は悪」と言う観点で思うところを少し書きました。 失礼しました。 >◆ 戦争は、そのものが、犯罪である。◆ |
とうろうさん、こんにちは。 > 私は「戦争は悪」だと思います。法に基づく「犯罪」以前の > 「善悪の問題」だと思っています。 私の考えもほぼ同じです。一人ひとりの生命や暮らし、人間 社会の存立そのものを根底から覆す、法律その他さまざまな 約束事の「手前」での、「悪」そのもの、「罪」そのもの。 中井氏もエランベルジェ氏も、著作の該当部分にあたって 確かめたわけではないので、たぶん、としか言えませんが、 似たようなイメージなのではないかと想像します。 でもこの種のことは、多くの人に響く言葉を見つけるのが、 なかなか難しいですね。ありがとうございました。 |
▼ぎみゆらさん: おはようございます。レス有難うございました。 >> 私は「戦争は悪」だと思います。法に基づく「犯罪」以前の「善悪の問題」だと思っています。 >私の考えもほぼ同じです。一人ひとりの生命や暮らし、人間>社会の存立そのものを根底から覆す、法律その他さまざまな約束事の「手前」での、「悪」そのもの、「罪」そのもの。 何だか少し「異」を唱えたような気がして気になっていました。中井氏もエランベルジェ氏もぎみゆらさんもそのような意味で仰ってることは理解していました。 ただ「戦争の大義云々」と「大義」があれば、「法の下」戦争が許されて良い(今のところこれが正論ですが)と思われそうな、私の観点からいえば、人間として皮相と言うか敢えて言えば浅薄な風潮に(皆さんには生意気言うなと、お叱りを受けそうですが)それは違うのではないか、という思いを込めて「法以前の問題」と申しました。 >でもこの種のことは、多くの人に響く言葉を見つけるのが、なかなか難しいですね。 仰る通りと思います。 「 戦争 」には、人間社会の全ての要素が反映し、また、全ての「利害得失」(思想上、生活上の)が絡んでいると考えますので人類共通の認識を持つことは困難かと思っています。 一言、補逸をと思いました。 |
▼ぎみゆらさん: > ◆ 戦争は、そのものが、犯罪である。◆ > > ◆ 戦争は、そのものが、無数の「心の傷」の ◆ > ◆ 源泉であり、温床である。 ◆ 体験談ではないので、趣旨から外れていたらすいません。 アメリカではイラク戦争から帰還した退役軍人達が、国内各地のホームレス避難施設で見かけられるようになり、ベトナム戦争以来の新世代ホームレスが増加する兆候ではないかと懸念されているそうです。 http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2004/12/post_4.html 戦場で心身ともに傷つき、帰国してもホームレスになってしまう悲惨さ。 アメリカに攻撃されるアフガニスタンやイラク市民の悲惨さは言うまでもないことですが、攻撃するアメリカ兵も傷ついています。 そして彼らの命を代償にして、利益を得る者たちがいます。 許せないことです。 |
MNG さん、こんにちは。 > 体験談ではないので、趣旨から外れていたらすいません。 そんなことはまったくありません。貴重な情報をご提供いただき、 ありがとうございました。UPI 電なのですね。 > アメリカではイラク戦争から帰還した退役軍人達が、国内各地の > ホームレス避難施設で見かけられるようになり、ベトナム戦争 > 以来の新世代ホームレスが増加する兆候ではないかと懸念されて > いるそうです。 > http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2004/12/post_4.html > > 戦場で心身ともに傷つき、帰国してもホームレスになってしまう > 悲惨さ。 正直言って、ご紹介の記事を読みながら、涙が出てきました。 戦場に駆り立てられて、帰国した後も、こんな境遇が待って いるなんて、やりきれません。 > アメリカに攻撃されるアフガニスタンやイラク市民の悲惨さは言う > までもないことですが、攻撃するアメリカ兵も傷ついています。 > そして彼らの命を代償にして、利益を得る者たちがいます。 > 許せないことです。 まったくおっしゃるとおりだと思います。 珠さんがお知らせくださった内容を見ても、 http://www.6410.jp/bbs/c-board.cgi?cmd=one;no=36408;id=sougou イラク市民の方々の生活もこのうえなく厳しいようです。 アメリカは、イラクから出て行け! 中東全域から出て行け! やはり、それしかないのではないでしょうか。 |
【34906】宮天狗さん、【34935】北の老兵さん、 【34942】石頭の息子さん、書き込みありがとうございました。 スレッドをあまり横に広げたくないので、こちらにお返事する 勝手をお許しください。 * 先に紹介した精神科医の中井久夫さんは、戦争被害の心理について、 こうも言っています。 ////////// 戦死者の遺族は記念碑を求め、死の状況を詳しく知りたがる。 犯罪被害者の遺族と似ています。理不尽な死を受け入れられず、 死を意義づけたいという願いが強くなる。 (日本経済新聞2004年12月10日夕刊より)////////// 宮天狗さんの書き込みを拝見しても、60年前の記憶が鮮明に 焼き付いていることが、よくわかります。そのような記憶は、 消えないのです。 * 私の父は長崎原爆の被爆者です。当時中学2年生、13歳でした。 郷里は島原半島なのですが、単身長崎市内に下宿して長崎中学に 通っていました。そのころ既に中学校は、旋盤その他の機械類が 持ち込まれて学校工場となり、生徒たちが動員されていました。 原爆が落ちたとき父は、爆心地から3キロほどの場所にいました。 長崎市は、地理の教材にしたいようなきれいな盆地です。爆心地と 父がいた場所は、標高400メートル弱の山で隔てられていました。 それでも、そのとき、瞬時に視界が真っ白になった少し後に、 体が宙に浮き、10メートル先の板塀に叩き付けられました。 しかしそのような被爆状況が幸いしたのでしょう。現在に至るまで 心身とくに障害なく、私ら三人の息子を成人させました。父自身、 最も幸運なケースといっていいのではないかと振り返っています。 板塀に叩き付けられた13歳の少年はその後、山腹の防空壕で一夜を 明かした翌朝、市内に下りて大勢の人たちの惨い姿を見ています。 むけ剥がれた肌を垂らした人、全身火傷した体に木の葉や新聞紙の 切れ端を貼り付けている人。これ以上、中に入ってはいけない。 一刻も早くここから脱出しなければと、決心したそうです。 * 【34942】石頭の息子さん > 老人党では、少なくなった戦前を知る、戦争を知る方々の生の声を > お聞きしたいのです、軍隊や戦争のやり方などはこの掲示板には > ふさわしく無いと思います、それを許す風潮にも危機感を持っています。 まったく同感です。 父は定年まで小さな通信社勤めで、自分の被爆体験を、記事として、 手記として、自分史として、何度も書いています。本職のかたわら、 被爆者援護の活動にもずっと携わっています。私もそのような父の 体験を、子供の頃から聞いています。 でも、このごろになって、私はまだちゃんと聞いていない。いちばん 大事なところを、まだまるで聞くことができていないという思いを、 強めています。父は今年73歳になりました。幸いまだまだ元気です。 聞かなければと、いまこの投稿を書きながら、また思っています。 長文失礼いたしました。 |
▽ぎみゆらさん:お久し振りです。 護憲のBBSに16年12月8日について少し書きましたが、私の年代では戦場で戦った経験はありません。 しかし、小学校6年と3年私の弟と妹は、満州でソ連兵や戦車に追われ 「もう駄目だ」 と、その時恐怖の経験を話してくれた事がありまが、あまりたち入った話しは嫌がって話してくれません。 もう其の弟も71歳の年齢に成りましたが、色々なめんで未だに戦争を引きずっている感じが抜けません。 兄の私が見ても、 「ソ連兵に追われ、親に死なれ、今までよく生きて来たな」 と思いっきり、背伸びをして生きてきた弟の気持を哀れに思う時があります。 兔に角戦争は弱い者の犠牲者によって成り立っています。弟も妹も当時は子供でした。恐らく私も含めて私たち兄妹は戦場で戦ってはいませんが、お墓に入るまで先きの戦争を引きずって行くでしょう。 先日、妹が 「お兄ちゃん。満州孤児に成らず、ソ連兵に殺されず,生きて帰れたから、孫に囲まれた生活が出来る様に成ったんや、お父さんやお母さんに孫を見せられなかっただけが残念悔しい」 と言うのを聞いて、 「戦争だったのだから仕方がないな」 と言いましたが、やはり戦後を引きずっていると感じました。 |
ごまめの翁さん、こんにちは。 私の父は、ごまめの翁さんや、弟さん、妹さんほど酷い目に遭っては いないんです。先に書いたとおり、爆風で10メートル先の板塀に叩き 付けられただけなんです。目立ったケガも火傷も負っていない。 8月9日の朝、父は長崎駅前にいました。午前11時2分に投下された 原爆投下後、長崎駅は全焼し、大勢の人が死んでいます。父はその少し 前の市内電車に乗って、電車を降りたしばらく後に、爆心地から山一つ 隔てた場所で被爆したんです。 翌朝、市内に入ったものの、子供の直感か、すぐに脱出を決意して、 残留放射線からも逃れた。広島でも長崎でも、原爆投下数日後に爆心地 近くに入った、ご家族や、兵隊、役人、警官、医者など、放射線傷害で 直接被爆者と同じような惨い死に方をした人たちが大勢います。 うまく難を逃れた。運がよかった。十代の頃は、そう思っていた。 でも、二十歳を過ぎる頃から、そう思えなくなった。自分が子供の はしっこさで市内電車にもぐり込んだ分、誰かが長崎駅前で死んだん じゃないか。そんな思いから逃れられなくなったそうです。 しばらく前にこの掲示板でも紹介した、映画『父と暮せば』(井上 ひさし原作、黒木和雄監督)の、宮沢りえが演じた主人公の女性、 美津江は、級友がみんな原爆で死んでしまったのに、自分一人生きて いるのは申し訳ないという思いにとらわれています。 原作者の井上氏は、たくさんの被爆者の手記を読み、生き残った人たち のほとんどが、「生き延びて、亡くなった人たちに申し訳ない」「生き 延びた者に、幸せになる権利はない」と考えていると知り、この作品を 書いたと、『父と暮せば』の映画パンフレットのなかで述べています。 戦争は、死者や負傷者だけでなく、生き延びた人、残されたご家族、 その他のさまざまの人々のことを、その後も何十年にもわたって、 いろんな形で、繰り返し傷つけ続けるものなのだと思います。 |
ぎみうらさま はじめまして >ここの掲示板にも好戦的な輩が跋扈しておりますが、逆らわずに老人党本来の議論を進めていきましょう。 ここに投稿の皆様は私のような者を好戦的な輩と思われるかもしれませんが、私自身はそんな自覚はありません。 いたって普通の生活をしています。 実は、私の尊敬する恩師も戦争犠牲者であり、その悲しみは今も鮮明に思い浮かべることができます。 世界中が平和にならなければ日本の平和はありえないという考え方から、まず日本が、平和国家にならなければなりません。心の中に争いがある内は本当の平和はやってこないという考えから進めますと、この愛する日本が「尊敬にたる人格を整える教育」を行うことが急務であると思います。そして全ての争いは、自己中心的な考え方から起きていると思います。 日本と日本人を律しながら、他国の立場を理解する。そして他国の誤りは誤りとして妥協するのではなく毅然と指摘できることは、相手国にとっても大切であると思います。 若者代表さんのところでも、私の考え方に反発されるであろうと承知の上で、持論を書かせていただきましたが、そんな私を好戦的であると断言されるとなれば心外ですが、物の見方、考え方は一方向だけではいけないから、幅広く議論されたらよいと思います。 世界中が平和であることを祈念いたします。 |
私の父方の祖父は父が生まれる前、東京大空襲で亡くなりました。そのため少年時代、養父にいじめられるのが嫌で自衛隊に入ったそうです。 また、母の再婚相手は被爆二世です。 ひょっとしたら私は戦後生まれとは思えないほど戦争に脅え、かつ怨んでるかもしれません。 しかし、惨い戦争を仕掛けたがる国は残念なことに日本の近くにあります。 わが国の良きパートナーであるはずのアメリカ 50年近く前韓国に侵略し、今なお侵略の機会を窺う北朝鮮 武力で台湾を併合したがっている中国 かつて間違えを犯した日本はそれらの国々の戦争を止める努力をせねばならないと考えています。 |
相良唯夫さん、ほいさん、はじめまして。 もちろん、お気持ちがあれば、ということなのですが、 できれば、お願いしてみたいことがございます。 相良唯夫さんの、戦争の犠牲になられた恩師の方。 ほいさんの、東京空襲で亡くなられたお祖父さま。 お母さまのお連れ合いの、広島ですか、長崎ですか、 お父さまでしょうか、お母さまでしょうか、 原爆の被害に遭われた親御さま。 それぞれ、どのような状況で、 どういったおつらい目に遭われたのでしょうか。 それを、できうる限り、当事者のお言葉や、実在の資料、 日記とか、手紙とか、ご本人や身近な方が書き残したもの、 あるいは、近しい方々のお話などから、できるだけ実地に 沿って、辿ってみることはできないものでしょうか。 私には幸い、長崎の原爆で、爆心地から山一つ隔てられた 場所で、10メートル先の板塀に叩き付けられた父親が、 今年73歳で健在です。 その父親に、1945年8月9日、どのような状況で瞬時に 吹き飛ばされて、その午後をどうやって過ごしたのか。 山腹の防空壕で燃え続ける長崎の街を一晩中眺めていた。 そう聞いてはいますが、そのときどんな思いだったのか、 これから、もっと詳しく尋ねてみたいと思っています。 翌朝、街に下りたとき。自分の身の皮をだらんとむけ剥がれ させたり、焼け爛れた肌にそこらで拾った木の葉や紙切れを 貼り付けたりして、さまよっている大勢の男女を目にして、 脱出を決意したとき。何を思い、どんな気持ちだったのか。 13歳の少年が、長崎市から雲仙の麓の郷里まで何の伝手も 持たずにとにかく帰ろうと思い、どこまで自分の足で歩いて、 どこで物運びの車に拾われて、どうやって帰り着いたのか。 もっともっと、根掘り葉掘り聞いてみたいと思っています。 戦争で、「ただの人」たちが、どのように、ボロ屑、紙屑、 木っ端のように、踏みにじられてきたのか。身近な人の声から、 できるだけ実際に近い形で聞く。政治家でも役人でも学者でも ない私たちが、戦争を知り、戦争のない世界を希む道は、 それくらいのやり方しか、ないのではないでしょうか。 どうか、相良唯夫さんの、戦争の犠牲になられた恩師の方。 ほいさんの、東京空襲で亡くなられたお祖父さま。お母さまの お連れ合いの、広島ですか、長崎ですか、お父さまでしょうか、 お母さまでしょうか、原爆の被害に遭われた親御様。どのように おつらい目に遭われたのか、ご自分の目と耳で、できる限り 詳しく、お確かめいただくことを、心より希望いたします。 書き込み、ありがとうございました。 |
私の恩師は広島の掛川で原爆に被災されました。 奇跡的に立ち直り、昭和47年まで、平和社会実現のために東奔西走されました。 その人のご縁により、なだいなださまを知ることになりました。 現在は先師の御意志をご子息の方が継承されておられます。 あの廃墟となった日本が立ち直り、今日の社会を築くことになったのは、先輩諸兄姉の努力があったからと思います。戦争により優秀な若者が戦場に散りました。あの地獄絵からやっと逃れられ、敗戦となりましたが戦争が終わったことを喜ぶ人も多くいました。しかし師は、現状を直視し、憎いのは戦争ではない。人の心の間違いを正さなければ、本当の平和はやってこないと立ち上がられたのです。 先輩諸兄姉の努力と書きましたが、戦前の教育を受けた方によってこの日本を再建されたのです。先輩諸兄姉には今の若者にはない大和魂がありました。貧しくとも希望がありました。そのようなことから、戦前のものが全て悪いというのではなく、良いものは良いとして、受け継いで行くことが大切であると考えます。 |
相良唯夫さん、レスありがとうございました。 ご存じかもしれませんが、かつて「原爆ぶらぶら病」という 言葉がありました。原爆被爆者は、被爆後何年という長い年月を 経ても、疲れやすい、元気もやる気も出ない、仕事や家事をすぐ 休む、根気がない、……等々という人たちがとても多かった。 それで、誰が言うともなく、そんな呼び名ができた。 いまどきならば、それこそ、「被爆うつ」などという 通称病名ができたかもしれませんね。 放射線障害などいわゆる原爆後遺症に苦しみ、被爆した体験 そのものを隠す人も多く、周囲からはサボリ屋のぶらぶら病と 疎んじられる。戦後十年、二十年、三十年、大勢の被爆者が、 そのようにして、何重もの苦痛と差別を背負い続けてきました。 相良さんの先生は、きっと、とても粘り強い心をおもちの方 だったのでしょうね。深く信じて、期するものがおありだった のでしょう。被爆後二十七年、信念を貫いて、活動され続けた のですから。頭が下がります。 相良さんは、よい先生に恵まれて、お幸せだと思います。 その先生は、おつらいこともたくさんありながら、それでも、 相良さんのような先生思いの教え子をもって、お幸せだった のではないでしょうか。 僭越ながら、先生のご冥福を、心よりお祈りいたします。 * 被爆者たちの願いは、たった一つだと私は思います。 戦争のない世界。核兵器のない世界。すべての生命ある者が、 いわれのない罪の意識や劣等感に苛まれることなく、遠慮なく、 健やかに成長することができる、本当の意味で、平和な世の中。 それに尽きるのではないでしょうか。 |
少し補足しておきます。 自分が上で書いた文章は、読み返すと、「原爆ぶらぶら病」が 「原因不明の体調不良」や「気持ちの問題」とのみ読まれて しまうかもしれないと、思い直しました。 ぶらぶら病といわれていた人たちの大勢が、その後、白血病、 多臓器癌、骨髄腫などを発症して亡くなっています。とくに 1950年代にかけて多発したと聞いています。そういった人たちの 場合、「ぶらぶら」は、深刻な放射線障害の先触れだったわけです。 多くの被爆者たちは、自分もいつか、白血病とか、そういった 取り返しのつかない病気におかされて、ある日突然死んでしまう かもしれないと、ごく当たり前に思っています。いまでもです。 原爆の被害は、比喩でも象徴でも何でもなく、現実に、いまも 終わっていないのです。そのことをあわせて言わないと不十分だ と思い、あえてもう一度書きました。 |
母の再婚相手は元々呉に住んでおり、ご両親は黒い雨に打たれたみたいです。 |
ほいさん、こんにちは。 もしかして、おつらい気持ちにさせてしまったでしょうか。 だとしたら、ごめんなさい。 私はこの歳(今年46歳です)になって、私のほうから 父に、もっと聞いてみようという気持ちが出てきました。 小学校に上がる前から、折にふれて聞いてきた話なのに。 きっと、心のどこかで、聞き流していたのでしょうね。 父の体験と記憶を、自分の記憶にしたいという気持ちに、 いまようやく、なってきました。 レスありがとうございました。 |
このスレッド冒頭の書き込みで引いた、精神科医・中井久夫さんの 言葉の、別の部分を紹介します。このスレッドは、どこまでも 中井先生頼りです。(笑) > ……平和には始まりも、終わりもない。無際限とも > 言える維持の努力の産物が平和です。 > 今の日本に戦争は関係ないと言われるかもしれない。 > でも戦争体験者が死に絶えると、戦争が起きる危険性が > 高まることを歴史は教えている。 > (日本経済新聞2004年12月10日夕刊より) ふむふむと思って、ある友人にこの記事のコピーを見せたところ、 そういえば、作家の池澤夏樹さんが似たようなことを言ってたよと いいます。たしかこんな内容だったと。 「『平和』は消費財だ。年月が経つにつれて、どんどん消耗して 減っていく。だからいつも、新しく作り直し続けなければいけない」 友人は、いつ何で見たのかは、どうも思い出せないといいます。 どなたか、この池澤さんのセリフの出典等をご存じの方がいたら、 教えていただけませんでしょうか? |
▼ぎみゆらさん: 時々名文をよませていただいております。 老人党で戦争を体験した数少ない一人かもしれません。 今目の前にも、北の将軍様が経済封鎖をしたら日本を攻めていくぞと おぞましい祝詞をご発言されました。 ミエミエの偽遺骨を渡して開戦の言いがかりを正当化しているとしか思えま せん。 汚れた化学兵器の洗礼を日本国民が受けるかもしれない瀬戸際です。 平和を渇望しながら、戦争を繰り返してきた人間さまは何ナンデショウネ? >> ……平和には始まりも、終わりもない。無際限とも >> 言える維持の努力の産物が平和です。 > >> 今の日本に戦争は関係ないと言われるかもしれない。 >> でも戦争体験者が死に絶えると、戦争が起きる危険性が >> 高まることを歴史は教えている。 > >> (日本経済新聞2004年12月10日夕刊より) >>ふむふむと思って、ある友人にこの記事のコピーを見せたところ、 >そういえば、作家の池澤夏樹さんが似たようなことを言ってたよと >いいます。たしかこんな内容だったと。 > >「『平和』は消費財だ。年月が経つにつれて、どんどん消耗して >減っていく。だからいつも、新しく作り直し続けなければいけない」 太平洋戦争終結してから60年になろうとしています。多くの人が血を流して やっと手に入れた平和とやらも消費され、残り少なくなったのは、まさに今年のことですね。 人災,天災、戦争の危機、今年が無事乗り越えられますように、、、(祈) |
枯葉さん、こんにちは。 > 太平洋戦争終結してから60年になろうとしています。 > 多くの人が血を流してやっと手に入れた平和とやらも > 消費され、残り少なくなったのは、まさに今年のことですね。 ほんとうにそうです。 「戦争だけは絶対にダメ」という世の中の空気を作り直す ためには、何ができるのでしょうか。繰り返しになりますが、 私はやはりまず、父からもっと話を聞くことにします。 先日父と会って、そう言ってきました。 今度の「年とり」は能代で過ごします。 レスありがとうございました。 |
▼ぎみゆらさん: レスありがとうございました。 もう、わたくしめをお忘れとも思いましたが 東銀座の「郷土料理秋田藩」のきりたんぽ、 それもママさんが能代の美人さんと週刊新潮12月23日号のグラビアで みたら、一番にぎみゆらさんに伝えなくっちゃ〜と、思っておりました。 今日の此方はがんがん凍り付いて道路は凍結状態ですよ。 今年はハタハタが思いのほか安いのでお正月には能代で沢山ご馳走に出 るでしょうね。お楽しみに、、、。 戦争の心を、小さくしてみると私にも人を良く思えない、欠点を許せない心 他人の持ち物が良く見えて欲しがる心があります。 誰にもある煩悩って言う奴ですが、これの延長線上に国と国とのいさかいが こじれた場合に戦争となって、国が滅び、民は命を失い、傷ついてきたのが 人類の歴史ですよね。 すぎ去った戦争の歴史は否定しても詮無く、ここから学ぶのが今を生きてる 私共の任務とおもっています。 善と悪の心を人間が併せ持っている以上、非常に難しいテーマですが。 平和の心=協調、許しあい、違いの認め合い、の心を育てたいと この老人党の皆様からから学びました。 先ず身近から家の中から始めましょうと、少〜し分ってきたこのごろです。 一皿のご馳走はどんないさかいも解決してくれるのが我が家流です。 あったかい味噌汁、お鍋の記憶がお子様には何ものにも変えがたい 財産です。 知的なご職業に従事のぎみゆらさんには、私の投稿など子供だましかも知 れません、、 笑ってください。 >> 太平洋戦争終結してから60年になろうとしています。 >> 多くの人が血を流してやっと手に入れた平和とやらも >> 消費され、残り少なくなったのは、まさに今年のことですね。 > >ほんとうにそうです。 > >「戦争だけは絶対にダメ」という世の中の空気を作り直す >ためには、何ができるのでしょうか。繰り返しになりますが、 >私はやはりまず、父からもっと話を聞くことにします。 >先日父と会って、そう言ってきました。 > >今度の「年とり」は能代で過ごします。 >レスありがとうございました。 |
枯葉さん、こんにちは。 少々ゆっくりのお返事になりました。 週刊新潮のこと、お知らせ感謝します。ですが、タッチの 差で店頭で次の号に切り替わった後でした。残念。今度近くの 図書館に行ったときに、おもな雑誌のバックナンバーを置いて いたはずなので、探してみますね。 戦争と平和、人の心のこと、おっしゃるとおりと思います。 自分の心に、無用な争い、不毛な戦いに抗う砦を築くこと。 それが、いちばん大事なことなのではないか。私も近頃、 そのようなことに、折にふれて思いをいたします。 高望み、過ぎた欲張り、思い上がり。それが、人を見下したり、 踏みつけて省みなかったりする気持ち、傲慢や侮蔑、差別に つながっていくのだと思います。 でも、望みも欲も、顔をあげて上を見るのも、生きていくため には、必要で大切な気持ちでもあります。やさしいだけでは、 生き抜いてはいけません。人というのは、平和に生きることは、 やはりなかなか、一筋縄では行かないものなのでしょうね。 人を見下す気持ち。誰かを踏みつけて、しかもそれを省みない ような行い。過去のそういった気持ちや行いを、平然と忘れ 去ったり、なかったことにしようとする思い上がり。 そういったものを、まるで虱潰しか何かのように、気がつく たびに、一つひとつ、正したり、なくしたりする努力をして いくしかないのだろうと思います。 レスありがとうございました。 どうか皆様ともども、穏やかなお正月をお迎えください。 |
ぎみゆら 様 前略 ぎみゆらさんを始め、書き込まれた皆様の体験談・見聞談はとても勉強になりました。 個人個人の思いは「悲惨な戦争はいやだ。平和が一番」なのに、組織が大きくなるほど、その頂点に立つ人々は痛みから遠ざかり、「国益」といいつつ自分の利益を優先してしまうのでしょうね。 ちなみに昭和4年生まれの私の父は、低空で飛来するB-29の爆弾層を見上げ、地面にブスッ!ブスッ!と突き刺さる焼夷弾をよけながら逃げ、気がつくと火災の上昇気流で20mほど吹き飛ばされ、水を張った田んぼに落ちて一命を取り留めたそうです。 「不思議と怖さはなかった」と言いましたが、その光景を鮮明に憶えているのは、このスレッドの冒頭でぎみゆらさんが書き込まれた心理状態によるものでしょう。草々 |
ビーンズきしさん、こんにちは。 オフ会ではどもでした ^_^; > ちなみに昭和4年生まれの私の父は、低空で飛来するB-29の > 爆弾層を見上げ、地面にブスッ!ブスッ!と突き刺さる焼夷弾を > よけながら逃げ、気がつくと火災の上昇気流で20mほど吹き飛ば > され、水を張った田んぼに落ちて一命を取り留めたそうです。 > > 「不思議と怖さはなかった」と言いましたが、その光景を > 鮮明に憶えているのは、このスレッドの冒頭でぎみゆらさんが > 書き込まれた心理状態によるものでしょう。 お父さまにとって、きしさんにとって、大切なご経験を話して くださり、深く感謝します。きしさんは、おやさしいですね。 お気持ちが、胸にしみます。 * 【34952】で書いた、爆心地から3キロ余、その間に山が一つ あった場所で、長崎の原爆で吹き飛ばされた、当時13歳だった 私の父の心理も、ある種似たようなものだったのではないかと 想像しています。 市内電車を降りて下宿先へ歩いて帰る途中に、出会った中学校の 級友と立ち話をしている時だったそうです。閃光が走り、視界が 真っ白になった。熱さは感じなかった。焼夷弾! と思い、路地の 奥に向かって走った。爆発音は、覚えがない。 五六歩走ったところで、ズシンと突き上げるような地鳴り。体が 宙に浮き、飛ばされ、板塀にひどく打ちつけられた。音がまったく なかった。一分経ったのか、五分くらいか。そっと目を開けると、 全面土色、何も見えない。自分が生きているかどうかもわからない。 火のついたような子供の泣き声が聞こえてきて、生きてる、と気が ついた。少しずつ視界が開けてくると、近くの雑貨屋の商品から 家財道具までが、投げ出したように散らばっている。家から飛び 出してくる人たちは、ガラスの破片で顔や腕から血を流していた。 でも自分は、打ちつけられた腰が痛むくらいで、傷はなさそうだ。 ──何度か聞いた話ですが、やっぱり、恐かったとか、つらかった とか、そういった感情のようなものが、感じられないんですね。 * 子供の頃からずっと、原爆で吹き飛ばされはしたけれど、ケガ一つ せずに、その後も心身とくに障害もなく、父は幸運だったんだと、 思ってきました。……でも、本当にそうなんだろうかと、いまごろに なって、思うんです。 ケガがなかったから、恐くなかったから、それで幸運だったのか。 そんなんじゃ、ないんじゃないか。恐いとか、大変だとか、そんな ふうに感じることすら、できなかったんじゃないだろうか。 それが、父の話を、もっときちんと聞き直さなければと、 私がいま思っている気持ちです。 レスありがとうございました。 |
みなさま このスレッドに、さまざまなご感想や、ご自身、ご家族の 体験などを書き込んでいただき、ありがとうございます。 昨日、以前の職場で同僚だったある女性から、クリスマス カードが届きました。毎年、律儀に送ってくれるんです。 彼女はいま、夫の仕事の関係でカリフォルニアに住んで います。 そのクリスマスカードの、文面の一部です。 //////////////////// 六度目のクリスマスをこちらで迎えます。でも夫は、 ここは今年が最後、と言います。 毎年サンクスギビングデイが終わると、その後は終日 クリスマスソングを流し続けていたFM局があるのですが、 そのなかで、これまでは定番だったのに、昨年から急に 全然かからなくなった曲があります。 ジョン・レノン『ハッピー・クリスマス』 (別名 ウォー・イズ・オーバー 戦争は終わった) どうやら自粛しているようなのです。そんなことが、 こちらに新たな仕事の場を求めてやって来た夫が、いま アメリカに見切りをつけようとしている理由の一つでも あるようなのです。 //////////////////// いつも戦争ばかりしている国、アメリカ。 ヒロシマもナガサキも、一つも省みない国、アメリカ。 どこまで行っても、戦争しかしない国、アメリカ。 私たちの日本は、そんなアメリカから、どうすれば、 少しでも距離を取ることができるのでしょうか? |