Page 226 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼【内なる少年A】;神戸児童殺傷事件に思う! 流水 04/3/11(木) 14:09 ┣Re(1):【内なる少年A】;神戸児童殺傷事件に思う! しまったk 04/3/11(木) 20:27 ┃ ┗Re(2):【内なる少年A】;神戸児童殺傷事件に思う! 海幸彦 04/3/11(木) 20:56 ┃ ┗Re(3):【内なる少年A】;神戸児童殺傷事件に思う! 海幸彦 04/3/12(金) 14:04 ┃ ┗Re(4):【内なる少年A】;神戸児童殺傷事件に思う! 流水 04/3/12(金) 14:44 ┃ ┗Re(5):【内なる少年A】;神戸児童殺傷事件に思う! しまったk 04/3/12(金) 20:59 ┃ ┗Re(6):【内なる少年A】;神戸児童殺傷事件に思う! 流水 04/3/12(金) 22:53 ┃ ┣Re(7):【内なる少年A】;神戸児童殺傷事件に思う! 海幸彦 04/3/12(金) 23:39 ┃ ┗Re(7):【内なる少年A】;神戸児童殺傷事件に思う! しまったk 04/3/13(土) 20:15 ┃ ┗Re(8):【内なる少年A】;神戸児童殺傷事件に思う! 流水 04/3/13(土) 21:58 ┗Re(1):【内なる少年A】;神戸児童殺傷事件に思う! 団塊党 04/3/20(土) 7:33 ┗Re(2):【内なる少年A】;神戸児童殺傷事件に思う! 団塊党 04/3/20(土) 12:48 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 【内なる少年A】;神戸児童殺傷事件に思う! ■名前 : 流水 ■日付 : 04/3/11(木) 14:09 -------------------------------------------------------------------------
神戸児童殺傷事件の犯人、少年Aが関東医療少年院から、仮退院することが決定、被害者家族にも告知された。 神戸児童殺傷事件は、1997年2―3月にかけ、神戸市須磨区で小学生の女児ら4人が金づちで殴られたり、ナイフで刺されたりして、小学4年の山下彩花ちゃん=当時(10)=が死亡。5月24日には、同6年の土師淳君=同(11)=が殺害され、27日に遺体の一部が中学校の正門前で見つかり、その後、犯行声明文が神戸新聞社に届いた。同年6月、兵庫県警は殺人容疑などで近くの中学三年の少年=同(14)=を逮捕。神戸家裁は医療少年院送致とし、関東医療少年院などに収容された。神戸家裁は2002年7月、20歳になった男性を仮退院後の保護観察期間も含めて04年末まで収容継続を決定。同少年院は昨年3月、関東地方更生保護委員会に男性の仮退院を申請した。―神戸新聞― 神戸児童殺傷事件は、犯行の手口の残忍さで全国の親を震え上がらせた。「酒鬼薔薇 聖斗」と名乗り、新聞社に犯行声明文を送りつけた犯人が、14歳の中学2年生であったことが、さらに問題の深刻さを浮き彫りにした。 この事件の後、少年法が改正されたことが、事件の与えた衝撃の大きさを証明している。 通称「酒鬼薔薇」事件と呼ばれるこの事件から、わたしたちは何を学び、何が分かったのか。神戸家裁での審判で、「性的サデイズム」傾向と「未分化な性衝動」および「発達障害」が指摘されていたが、これも普通の青年レベルに回復したとされる。 昨年の長崎幼児殺害事件の少年もそうであったが、思春期の少年の「性」の問題は大人が考えるより、はるかに大きい。 「精通」現象は、中学一年までに大多数の子供が経験する。少年にとって「性」の問題は、身体に巣食った「猛獣」と同じである。子供が、良い子であればあるほど、優秀であればあるほど、口にだすのが恥ずかしい問題でもある。朝起きたとき、下着が濡れていることに気づいたときの恥ずかしさは男なら誰でも経験している。精神と肉体のアンビバレンツな時代、「疾風怒濤」時代のはじまりである。 ほとんどの人間は、先輩や友達から処理の仕方を聞いたり、スポーツに打ち込んでみたり、何とかこの「疾風怒濤」時代をやり過ごしてきた。 少年Aは、「友達とポルノビデオを見たとき、自分が何にも感じなかった」ことに気づいたとき、「自分が異常ではないかと思った」と語っているそうである。 「性癖」という言葉が象徴するように、「性」の問題は、個人的嗜好の落差が大きい。まして、少年時代には、「性の問題」が脳裏にこびりついて離れないケースもある。 少年Aの「性的サデイズム」と「未分化な性衝動」が犯行の大きな要因を占めているという家裁の審判は、その意味では大きくは間違っていない。 しかし、少年Aの犯行は、「性的サデイズム」や「未分化な性衝動」や「反社会的性向」「発達障害」だけで説明しきれるのだろうか、という疑問はぬぐいきれない。 たとえ、「性的サデイズム」があり、「反社会的性向」があったとしても、少年Aの犯行はあまりにも衝撃的であった。 普通の人間(子供)にとって、「心の中に住み着いた猛獣」の処理は、「理性」と「本能」の葛藤として意識される。 頭の中で消そうと努力しても、鎌首を持ち上げる「妄想」との戦い(もやもやとした気分)は、青春時代特有のものである。 しかし、男の子なら誰にも経験のあるこの種の悩みは、文学的に昇華するタイプ・哲学的に昇華するタイプ・スポーツに昇華するタイプ・勉強に昇華するタイプ・遊びに昇華するタイプ・問題行動に昇華するタイプなど、多種多様な方向へ分化して、解消される。人それぞれの個性がくっきりと現れる。 関東医療少年院は、このような問題をどのような手法で解決したのだろうか。 専門家によると、少年Aの生育暦の分析から、母親が少年の精神的領域に占めた役割の大きさに着目して、医療プログラムを組んだそうである。母親の厳しいしつけ、それからくる過保護・過干渉(広義の虐待行為)。この結果としての発達障害、未分化な性衝動を処理処理しきれずにおこった性的サデイズムへの傾斜などを、どのようにして矯正するかの視点でプログラムが組まれたのであろう。 具体的には、少年Aにかかわる10名を超えるプロジエクトチームを結成。 擬似家族的形態をつくり、それぞれの役割分担をこなした。父親役、母親役、兄弟役などを分担し、ほとんど毎日少年と接触し、カウンセリングを行ったという。 通常、少年院では、一人の職員がつき、一週間に一度くらいの割合で「カウンセリング」を行うことから考えれば、異例中の異例の方法である。神戸児童殺傷事件の社会に与えた衝撃の大きさを配慮した法務省の苦労がみえる。 年齢構成、男女比、専門的能力など全てを考慮して、少年Aの成育を【一からすべてやり直す試み】とでもいうべきものである。 しかも、あらゆる検査を駆使し、細大漏らさず記録に取り、それをチームで検討し、日常の観察と照らし合わせて議論し、医療プログラムを手直ししていく。 おそらく、「矯正教育」としては、考えうるあらゆる手段がつくされた、と推測できる。 一方、被害者の家族の心情や社会の反応としては、【六年そこらで、本当に人間として立ち直れたのか】という疑問が消えないのは、当然であろう。 問題は、ここである。この反応には、意識するしないにかかわらず、わたしたちの社会に対する認識が投影されている。 少年Aの正体が周囲の人に分かったとき、わたしたちの社会は一体どのような反応を示すのか。一口に【社会の厳しさ】とか【冷たさ】とか言われるが、犯罪を犯さなくてもこのことに泣いている人は多い。 ましてや、Aの場合はなおさらである。そのとき、一体Aはどうするのか。 つまり、保護された(閉ざされた)擬似空間の中での【更生】が、現実の空間(社会)に適合できるのか、という問いである。 劇作家別役実は、神戸の少年事件を【中景の人間関係の崩壊社会】と定義している。 彼は、社会を【近景・中景・遠景】の三つのパースペクテイブから分析し、以前は近景における違和感や葛藤は中景の場で社会化され、表現されていたが、その【中景=会社・近所・学校など】が崩壊したため、【遠景】を誰かに見せる為の犯罪が必要になったと分析している。(中央公論) 彼の分析に従えば、神戸の事件・京都の事件・桶川事件・池袋通り魔事件などの犯人は、自分の【近景=家族・兄弟・自分自身の内面の葛藤】を【中景】で解決するのでなく、遠景【社会=自分と直接関係ない誰か】にぶつける事により、自らの思いを表現した事になる。 彼の分析に従えば、関東医療少年院の【プログラム】は、【近景の回復】プログラムであっても、【中景】の回復プログラムではない。 まして、今後の少年Aにとっては、【中景】こそ自分が最も警戒し、神経を尖らさなければならない存在である。 彼が、どこか一人で暮らしたい、と語っているのは、【中景】の【目】に対する 本能的【恐れ】の表現に他ならない。 私たちがいだく神戸児童殺傷事件の【不可解さ】の根底には、少年Aの内面の葛藤の軸と葛藤解決の表現の軸との間に、あまりの【乖離】があることである。 この【乖離】の説明が家裁の審判からも、関東医療少年院の取り組みからも、多くの専門家の解説からも見えてこない。 つまり、この【乖離】の問題こそが、わたしたちの社会が抱え込んだ病根であろうし、同時にわたしたちが、21世紀に目指すべき社会の姿にかかわる根本的な問題であろうと思う。 わたしたちの社会が抱え込んだ【内なる少年A】を問い続けねばならない所以である。 |
▼流水さん: >神戸児童殺傷事件の犯人、少年Aが関東医療少年院から、仮退院することが決定、被害者家族にも告知された。 >この【乖離】の説明が家裁の審判からも、関東医療少年院の取り組みからも、多くの専門家の解説からも見えてこない。 > >つまり、この【乖離】の問題こそが、わたしたちの社会が抱え込んだ病根であろうし、同時にわたしたちが、21世紀に目指すべき社会の姿にかかわる根本的な問題であろうと思う。 >わたしたちの社会が抱え込んだ【内なる少年A】を問い続けねばならない所以である。 仮退院の決定についての新聞発表を見ますと、少年院、Aの両親、被害者の父親、母親の方々のコメントは、予め予想できたというか、少年法に副った形になっており、妥当な結果ではないかとも思えます。 ただし、これはどの少年犯罪でも、現状では同じですが、あくでも加害者に注目し主人公にしたプロセスになっており、その教育的な処遇が問題になっています。それはそれで非常に重要なことではあります。 しかし、犯罪には、加害者と被害者、それを取り巻く環境社会という出演者と舞台があるわけです。ですから、この事件に対応して被害者にはどう対処するのか、社会にはどう対処するのか、ということも、当然、同時に考えなければならない問題と思います。 ところが、そこのところの問題は別問題として扱われて、この事件と関連の無いところで議論されているか、あるいは全然議論されていないのか、よく解りません。 2人の尊い子供の命と人生が失われ、社会に大きな不安を与えたことに対する、少年Aの役割は、なにも無いのでしょうか。これは、懲罰を与えるという短絡的な意味ではありません。ここのところは、少年Aの自発的な意志が無くても、何か拘束的に与えるべきではないか、と思っております。 それによって、事件の再発防止と、失われた命と人生に対する償いにしなければならないように思えます。 |
▼しまったkさん: >▼流水さん: >>神戸児童殺傷事件の犯人、 私は彼を死刑にすべきと思います。もてあそぶのはいいかげんにしてやってほしい。 |
▼海幸彦さん: >▼しまったkさん: >>▼流水さん: >>>神戸児童殺傷事件の犯人、 > > >私は彼を死刑にすべきと思います。もてあそぶのはいいかげんにしてやってほしい。 失礼致しました。自分が死刑廃止論者であったこと忘れていました。それほど人の命をもてあそぶあの殺人事件と犯人(?)には頭に来ているし、犯人を腫れ物のように扱う当局にも屈折した感情を持ちます。 怒りにまかせて殺人、お金ほしさの口封じ殺人、いろいろな凶悪事件はあるけれども、あの事件だけは特に許せません。しかし、死刑については認めるべきでない、というのが自論だったのです。忘れていました。 |
▼海幸彦さん: >>▼しまったkさん: >>>▼流水さん: レス感謝します。 しまったKさんの少年Aになんらかの制裁措置をという意見は、よく理解できます。 少年Aは、矯正教育を受けていますが、罪を償ったわけではありません。それは、旧少年法の趣旨でもあります。 被害者の家族の心情を考えれば、釈然としないものが残るのは、無理はありません。 この問題は、少年法に具現化された子供観の問題でもあるのです。 【子供は未熟であり、教化・保護すべき存在である】という【子供観】が、法の根底にあります。 この子供観は、日本の教育論の根底にも流れている考え方です。 わたしが、少年法の改正論議にあまり賛成できなかったのは、この【子供観】の変容なしに、【厳罰化】の方向へ論議が傾斜していたからです。 わたしは、【子供は子供なりに完結しており、未熟なのはその表現方法が未熟なせいである】と考えています。 少年Aの最大の問題点は、母親に対する感情表現、友達に対する表現などが、いかにも稚拙であり、彼が作り上げた【奇怪な精神世界】と【現実世界】との境界線が見えなかった点にあります。 関東医療少年院の矯正教育の主眼点は、【表現方法の育成】と【自分の精神世界】と【現実世界】との落差の認識にあったと推測できます。この受容的方法論は、【子供は子供なりに完結している】という子供観に基づいて行われているはずです。 本当は、この子供観に基づいて、少年法改正も論議されるべきだったのです。そうなれば、【表現方法の育成】などをどのようにして育てるか、「精神世界」と【現実世界」の落差をどのように理解させるかなど、さまざまな議論が必要になります。 何も育てず、【子供は未熟であり、教化・保護すべき存在】という子供観を押し付けて、それにそむいたら【厳罰】というのは、論理的ではありません。 【子供は子供なりに完結しており、未熟なのはその表現方法である】という子供観ならば、「未熟な表現方法」をどのようにして育てるか、もし未熟な表現方法で間違いを起こしたならば、自分でそれなりの責任を負う、という論理構成ならば、子供たちも納得できるのです。 そうなれば、しまったKさんのいうように、少年Aが自らの贖罪意識をどのようにして表現するか、ということを考えさせることができます。 海幸彦さんの、極刑に処さないと【許せない】という感情も、当然だと思うし、 これが当たり前の感情だと思います。 ただ、【法】というものは、ニュートラルであるべきです。あらゆる条件を勘案して、処置は決められるべきだと思います。 |
▼流水さん: >▼しまったkさん: >被害者の家族の心情を考えれば、釈然としないものが残るのは、無理はありません。 > >わたしが、少年法の改正論議にあまり賛成できなかったのは、この【子供観】の変容なしに、【厳罰化】の方向へ論議が傾斜していたからです。 > >わたしは、【子供は子供なりに完結しており、未熟なのはその表現方法が未熟なせいである】と考えています。 > >少年Aの最大の問題点は、母親に対する感情表現、友達に対する表現などが、いかにも稚拙であり、彼が作り上げた【奇怪な精神世界】と【現実世界】との境界線が見えなかった点にあります。 > >関東医療少年院の矯正教育の主眼点は、【表現方法の育成】と【自分の精神世界】と【現実世界】との落差の認識にあったと推測できます。この受容的方法論は、【子供は子供なりに完結している】という子供観に基づいて行われているはずです。 > >本当は、この子供観に基づいて、少年法改正も論議されるべきだったのです。そうなれば、【表現方法の育成】などをどのようにして育てるか、「精神世界」と【現実世界」の落差をどのように理解させるかなど、さまざまな議論が必要になります。 > >何も育てず、【子供は未熟であり、教化・保護すべき存在】という子供観を押し付けて、それにそむいたら【厳罰】というのは、論理的ではありません。 >【子供は子供なりに完結しており、未熟なのはその表現方法である】という子供観ならば、「未熟な表現方法」をどのようにして育てるか、もし未熟な表現方法で間違いを起こしたならば、自分でそれなりの責任を負う、という論理構成ならば、子供たちも納得できるのです。 > >そうなれば、しまったKさんのいうように、少年Aが自らの贖罪意識をどのようにして表現するか、ということを考えさせることができます。 > 家族の心情は、心情的には十分配慮すべきと思います。 しかし、私が考えさせられることは、そういう情緒的な問題ではなくて、少年Aと同じ重みを持っている2人の子供の命が失われたことに、人間として少年Aはどう対峙していくべきか、ということを、もっと物理的に、拘束的に対処させなければならないのではないか、ということです。 それは、少年Aにフォーカスを絞ることでなく、失われた命に対してどうするか、ということから出発していくべき問題ではないかと、考えております。主が「失われた命」で、従として「少年A」があるとしていかなければならないのではないか、ということです。 それに、筋道をつけることが出来れば、それによって社会の安全も担保されます。 現状では、あくまでも主は「少年A」です。 |
▼しまったkさん: >家族の心情は、心情的には十分配慮すべきと思います。 >しかし、私が考えさせられることは、そういう情緒的な問題ではなくて、少年Aと同じ重みを持っている2人の子供の命が失われたことに、人間として少年Aはどう対峙していくべきか、ということを、もっと物理的に、拘束的に対処させなければならないのではないか、ということです。 物理的に拘束的ということは、残念ながら旧少年法では無理でしょう。 成人なら、刑務所で拘束ないし自分の命で償うことも可能でしょうが。 気持ちは理解できますが、旧少年法の下では、無理だと思います。 > >それは、少年Aにフォーカスを絞ることでなく、失われた命に対してどうするか、ということから出発していくべき問題ではないかと、考えております。主が「失われた命」で、従として「少年A」があるとしていかなければならないのではないか、ということです。 >それに、筋道をつけることが出来れば、それによって社会の安全も担保されます。 > 社会の安全が担保されるということは、どうでしょうかね。わたしは無理だと思います。 荒れる学校時代、その荒れを押さえるために、ルールについて大きく分けて4つの考え方がありました。 1、一人の違反も許さない⇒徹底した管理主義 2、原則守らせる ※注意はするが力は使わない。どうしても従わない子供は排除 ⇒やさしい管理主義⇒排除の論理が貫徹 3、原則守らせる⇒注意はするが、力も使わず排除もしない⇒根本的な対策を講じ ない 4、守らせるようにする⇒力も使わず排除もしない⇒生徒がルールつくりに参画 ⇒生徒の自治的力に期待 あなたの発想を上記の論理にあてはまれば、1ないし2に近いと思います。 なぜ、そうなるかといえば、少年Aのように殺人を犯した人間が許されるかと問えば、決して【許すことができない】と答えるのが普通です。【許すことができない】ことを突き詰めれば、せめて「同じ死をもって償うべき」に行き着きます。おそらく犯罪被害者の家族は、それでも犯人を許すことができない、と考えるでしょうが、せめて【同じ死を】と願うのが普通でしょう。 では、加害者の立場にたって考えれば、自らの命をもってしても償えない【罪】を犯したわけですから、どのような方法をもってしても謝罪は不可能に近いわけです。 それでも、贖罪の心を持っていき続ける以外に道はないと考えるか、俺は人の恨みを背負って生きてやると開き直るか、自らの罪を正面から見つめることを避けて、こそこそと生きるか、選択肢は限られます。 あなたの意見は、贖罪の心で生きることを社会的なシステムで担保しろという意見でしょうが、わたしはそれを強制するのは無理だろうという意見です。 人間は弱い生き物です。生きている限り、生の感情を抑えることは不可能なのです。贖罪の気持ちもあるでしょうし、時にはそれに嫌気もさすでしょうし、時にはどうせ俺は、と捨て鉢な気持ちにもなるでしょう。 時にはおいしい食べ物も食べたくなるでしょうし、好きな女性と幸せな人生を送りたいとも願うでしょう。 少年Aに対するあなたの意見は、【生涯、贖罪の気持ちでいき続けろ、自らの幸せを願ってはいけない】という論理に行き着きます。 上記の学校方針でいえば、1の一人の違反者も許さない、という意見です。 気持ちは痛いほど理解できますが、社会的システムとしてあまりにも過酷なルールは、よい結果をもたらさないと思います。 最後に加害者の立場の論理にかたより過ぎる考え方が多いとお考えのようですが、 重要なのはこのような不幸な事件を犯させないためには、加害者の心理などから教訓を汲み取り、子供たちの育て方に活かす以外に、不幸な事件を不幸な事件として終わらせないための方策がないのではないですか。 |
▼流水さん: >▼しまったkさん: > >>家族の心情は、心情的には十分配慮すべきと思います。 >>しかし、私が考えさせられることは、そういう情緒的な問題ではなくて、少年Aと同じ重みを持っている2人の子供の命が失われたことに、人間として少年Aはどう対峙していくべきか、ということを、もっと物理的に、拘束的に対処させなければならないのではないか、ということです。 > >物理的に拘束的ということは、残念ながら旧少年法では無理でしょう。 >> >最後に加害者の立場の論理にかたより過ぎる考え方が多いとお考えのようですが、 >重要なのはこのような不幸な事件を犯させないためには、加害者の心理などから教訓を汲み取り、子供たちの育て方に活かす以外に、不幸な事件を不幸な事件として終わらせないための方策がないのではないですか。 流水さん ちょっと視点を変えると、私たちには報道以外なにも真実は知らされていない、ということです。知らされたとしても、なおかつ真実は知りえないくらいなのに…。 そのこともあって私は死刑反対論を支持する訳なんですが。(さっき忘れてしまったばかりですけれども) 逮捕してから起訴するまで、だれも知ることができない。遺族でさえも。なぜかくすのか。この構造が非常に問題であると思います。法治国家の闇の部分です。留置所、拘置所、刑務所―この部分を公開すること、これも少年のために教育になるのではないかと思います。 |
▼流水さん >> >物理的に拘束的ということは、残念ながら旧少年法では無理でしょう。 >成人なら、刑務所で拘束ないし自分の命で償うことも可能でしょうが。 >気持ちは理解できますが、旧少年法の下では、無理だと思います。 ここで、言いたいことは、旧少年法の中での取り扱いではなくて、これからの課題として、貴方がいわれるように、どうすればこのような加害者、被害者、社会にとって不幸な事件をなくすることができるか、ということです。そのために加害者にも自身の人生を全とうするだけではなく、外部に向けた重要な役割があっていいのではなか、ということです。 >荒れる学校時代、その荒れを押さえるために、ルールについて大きく分けて4つの考え方がありました。 >1、一人の違反も許さない⇒徹底した管理主義 >2、原則守らせる ※注意はするが力は使わない。どうしても従わない子供は排除 ⇒やさしい管理主義⇒排除の論理が貫徹 >3、原則守らせる⇒注意はするが、力も使わず排除もしない⇒根本的な対策を講じ ない >4、守らせるようにする⇒力も使わず排除もしない⇒生徒がルールつくりに参画 > ⇒生徒の自治的力に期待 > >あなたの発想を上記の論理にあてはまれば、1ないし2に近いと思います。 >なぜ、そうなるかといえば、少年Aのように殺人を犯した人間が許されるかと問えば、決して【許すことができない】と答えるのが普通です。【許すことができない】ことを突き詰めれば、せめて「同じ死をもって償うべき」に行き着きます。おそらく犯罪被害者の家族は、それでも犯人を許すことができない、と考えるでしょうが、せめて【同じ死を】と願うのが普通でしょう。 どうしても、少年A自身の「ために」、どうするのかという枠組みから出ようとしないために、貴方が言われる、1ないし2という風になりますね。「死には死」ということは、あまり意味が無いでしょう。そうではなくて、3ないし4を普通の子供達が自発的に行うために、少年Aにも、何か役割を与えるべきではないか、そのための強制があっていいのではないか、ということです。それを、子供達に行わせるために、少年Aの役割がないのか、ということです。 >時にはおいしい食べ物も食べたくなるでしょうし、好きな女性と幸せな人生を送りたいとも願うでしょう。 少年Aが、人生を送るときに、当然、正当に営まれるべきことであり、これらは否定されることがあってはならないでしょう。しかし、少年Aが、正常に覚醒しているとしたら、自分が抹殺した、2つの命について思いを寄せたとき、そのことに、なんの代償も払っていないことを、どのように考えるでしょうか。非常に、辛い気持ちになることが道義だと思われます。 >最後に加害者の立場の論理にかたより過ぎる考え方が多いとお考えのようですが、 >重要なのはこのような不幸な事件を犯させないためには、加害者の心理などから教訓を汲み取り、子供たちの育て方に活かす以外に、不幸な事件を不幸な事件として終わらせないための方策がないのではないですか。 少年Aが、安堵して人生を送るために、被害者や世の中に、どう向き合うかということの、ひとつの「案」として、彼に、こうした犯罪の防止システムの中で、何かしてもらうと、いうことを拘束的に与えることができないか、と考えます。例えば、具体的には少年院で矯正担当補佐などをしてもらう、とかです。そのほかにも、いろいろ考えられるでしょう。「正常」と判断され仮出所ができるほどに、回復しているならば可能なことではないでしょうか。 それが出来れば、すくなくとも、現在のように犯罪少年が、司法結果を予測して「確信犯」を犯さなくなる、抑制になるのではないでしょうか。 |
▼しまったkさん: > >どうしても、少年A自身の「ために」、どうするのかという枠組みから出ようとしないために、貴方が言われる、1ないし2という風になりますね。「死には死」ということは、あまり意味が無いでしょう。そうではなくて、3ないし4を普通の子供達が自発的に行うために、少年Aにも、何か役割を与えるべきではないか、そのための強制があっていいのではないか、ということです。それを、子供達に行わせるために、少年Aの役割がないのか、ということです。 その発想には賛成ですね。米国では、ボランテイアなどさまざまな社会的貢献を義務付けているようですね。 問題は、【敗者復活戦】が戦える社会をどのようにして構築するか、という点に求められると思います。 > |
▼流水さん: >・・・・・・・・・・・・ >問題は、ここである。この反応には、意識するしないにかかわらず、わたしたちの社会に対する認識が投影されている。 >少年Aの正体が周囲の人に分かったとき、わたしたちの社会は一体どのような反応を示すのか。一口に【社会の厳しさ】とか【冷たさ】とか言われるが、犯罪を犯さなくてもこのことに泣いている人は多い。 >ましてや、Aの場合はなおさらである。そのとき、一体Aはどうするのか。 >つまり、保護された(閉ざされた)擬似空間の中での【更生】が、現実の空間(社会)に適合できるのか、という問いである。 > >劇作家別役実は、神戸の少年事件を【中景の人間関係の崩壊社会】と定義している。 >彼は、社会を【近景・中景・遠景】の三つのパースペクテイブから分析し、以前は近景における違和感や葛藤は中景の場で社会化され、表現されていたが、その【中景=会社・近所・学校など】が崩壊したため、【遠景】を誰かに見せる為の犯罪が必要になったと分析している。(中央公論) > >彼の分析に従えば、神戸の事件・京都の事件・桶川事件・池袋通り魔事件などの犯人は、自分の【近景=家族・兄弟・自分自身の内面の葛藤】を【中景】で解決するのでなく、遠景【社会=自分と直接関係ない誰か】にぶつける事により、自らの思いを表現した事になる。 > >彼の分析に従えば、関東医療少年院の【プログラム】は、【近景の回復】プログラムであっても、【中景】の回復プログラムではない。 >まして、今後の少年Aにとっては、【中景】こそ自分が最も警戒し、神経を尖らさなければならない存在である。 >彼が、どこか一人で暮らしたい、と語っているのは、【中景】の【目】に対する >本能的【恐れ】の表現に他ならない。 > >私たちがいだく神戸児童殺傷事件の【不可解さ】の根底には、少年Aの内面の葛藤の軸と葛藤解決の表現の軸との間に、あまりの【乖離】があることである。 > >この【乖離】の説明が家裁の審判からも、関東医療少年院の取り組みからも、多くの専門家の解説からも見えてこない。 > >つまり、この【乖離】の問題こそが、わたしたちの社会が抱え込んだ病根であろうし、同時にわたしたちが、21世紀に目指すべき社会の姿にかかわる根本的な問題であろうと思う。 >わたしたちの社会が抱え込んだ【内なる少年A】を問い続けねばならない所以である。 世の多くの事件には、加害者側、被害者側双方に運命的と言ってもいいくらいの避けられない悲劇性、苦悩が一生ついて回る。 それを社会がどう考え、対応し、解決していくかという問題として流水さんのご意見を捉えました。 神戸の児童殺傷事件、長崎の児童突き落とし事件などは、この悲劇性が極限まで出たケースだと思います。 よく子供が事件を起こすと、家庭や学校の教育のあり方に非難の矢が向けられます。 もちろん、そういう一面があるのは否定できないことですが、何故そんな事件を起こしたのか、自分たちのいったい何が間違っていたのか、当事者自身何も分からない、こうなる運命だったとしか言いようのない種類の悲劇的な事件も多いのではないかと私は想像します。 その典型的な場合は、上記事件のような人間の闇の部分や後天的障害が犯罪として現れた場合です。 一般の人たちにとっては全く理解できないこのような不可解な事件を社会としてどう裁き、あるいはどう受け入れ、被害者側の苦悩もどう癒していくのか。 そしてより根本的には、そのような事件を未然に防げるような社会をどう創っていくのかということが問われています。 別役実氏の「中景の人間関係の崩壊」としてこれを捉えるのは重要な示唆だと思います。 中景としての地域や学校をこのような視点から見直し、あり方を探り、創っていく。 これは即、すべての人を受け入れる事の出来る、包容力のある地域や学校の構築につながっていくわけです。 それは理想論だと言って片づけないで、そのような視点や理念を持ったところから出発していくことしか、未来の灯りは見えてこないと思います。 切り捨てるのは簡単です。 しかし、そこから発想を出発させたのでは、どこかで何かが間違いゆがんでいきます。 しまったkさんのような具体的な提言はできませんが、考える方向性だけは以上に述べたとおりです。 ですから、流水さんのご意見にまったく賛成です。 その通りだと思います。 海幸彦さんのお気持ちも分かりますが、考える方向性としては違うのではないかと思います。 |
>海幸彦さんのお気持ちも分かりますが、考える方向性としては違うのではないかと思います。 海幸彦さんの一部の発言で上のように思いこんでいたのですが、私の勘違いでした。 上記は取り消します。 申し訳ありません。 |