Page 2370 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼老人党 渡り鳥論 流水 05/1/31(月) 13:43 ┣Re(1):老人党 渡り鳥論 佐藤 圭 05/1/31(月) 17:23 ┣Re(1):老人党 渡り鳥論 しげちよ 05/1/31(月) 17:40 ┃ ┗Re(2):老人党 渡り鳥論 流水 05/1/31(月) 17:48 ┃ ┗Re(3):老人党 渡り鳥論 しげちよ 05/1/31(月) 18:09 ┣Re(1):老人党 渡り鳥論 ぎみゆら 05/2/1(火) 23:45 ┃ ┣Re(2):老人党 渡り鳥論 流水 05/2/2(水) 11:51 ┃ ┃ ┗Re(3):老人党 渡り鳥論 こんぺいとう 05/2/6(日) 9:32 ┃ ┃ ┣Re(4):老人党 渡り鳥論 流水 05/2/6(日) 10:47 ┃ ┃ ┃ ┗Re(5):老人党 渡り鳥論 こんぺいとう 05/2/6(日) 12:27 ┃ ┃ ┗褒めるのは、たしかに難しいです。 ぎみゆら 05/2/6(日) 23:43 ┃ ┗Re(2):老人党 渡り鳥論 パンドラ 05/2/6(日) 2:12 ┃ ┣Re(3):老人党 渡り鳥論 流水 05/2/6(日) 10:59 ┃ ┗浦河べてるの家 ぎみゆら 05/2/6(日) 23:28 ┗つまり、言いように依っちゃあ ニッチモサッチモ 05/2/6(日) 11:08 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 老人党 渡り鳥論 ■名前 : 流水 ■日付 : 05/1/31(月) 13:43 -------------------------------------------------------------------------
海老沢NHK会長が辞職する当日、記者団に心境を聞かれて、国定忠治の「赤城の山も今宵限りか」という台詞を引用していたが、その台詞の中に「雁が鳴いて飛んでいかあ」というのがある。 雁はご承知のように渡り鳥である。渡り鳥は、集団で飛んでいく。空軍で言うなら【編隊飛行】をする。 編隊飛行の技術は、最初の1羽が飛び立って2番手のために道を切り開き、2番手は3番手に道を示し、3番手のエネルギーに助けられて4番手が飛翔し、4番手が5番手を引っぱり、5番手の勢いにのって6番手が羽ばたき、6番手は7番手に力を与えていく。 先頭に立つ雁は疲れたら群れの最後尾につき、別のものに場所を譲る。この雁が、空に描かれた逆V字の頂点へと進む。全ての雁が順送りで、群れの先頭と最後尾を務めることになる。いかなる雁も、先頭に立つからと優越感を持ったり、最後尾につくからと劣等感を持ったりすることはない。 これが雁に備わった生存の本能である。つまり、生き残るとは、【集まる】ことという原則をきちんと守っている。 ツールド・フランスという自転車競技がある。この自転車競技は、チーム競技と個人競技がミックスされたものであるが、きわめて上記の原則に忠実な競技で、常に先頭が入れ替わる。 先頭に立つ人間は、風圧を受けるため、疲れが大きい。そのため、選手がかわるがわる先頭に立つ。しかも、チーム競技なので、チームの中で最も力のある選手を勝たせるために、他の選手がある程度犠牲になったその選手を守る。 だから、【先頭に立つからと優越感を持ったり、最後尾につくからと劣等感を持ったりすることはない】 この競技の最も盛んな国々が、ヨーロッパであることに、ヨーロッパがなぜEUを 作り上げることができたか、という秘密を見ることができる。 米国の流儀は違う。それこそ、雁の群れの先頭に立って、飛ぶ方向、飛ぶ速度などすべて自分で決めて、ついてこれない雁は置いていくやり方である。 先頭に立つ雁の方向感覚がずれていたり、速度が速すぎると、それこそ群れ全体の生存にかかわる。 これはどんな集団・組織・国家でも同じである。それぞれの構成員が【先頭に立つからと優越感を持ったり、最後尾につくからと劣等感を持ったりすることはない】集団・組織・国家は強い。 現在の小泉内閣や国権主義者や日本版ネオコン派の多くは、飛ぶ方向・速度を自分で決めるタイプである。 こういう集団・組織・国家は、弱い。 ★生き残るとは、【集まる】ことという原則を、無視しているからである。 もう一度、わたしたち老人党は【渡り鳥】の原則に立ち帰る必要がある。 |
うーん、なーるほど。 私の関係する市長と社長に教えてやります。 日本の経済成長策もこれでいきたいですね。 流水さん どうも有難う。 |
▼流水さん: >ツールド・フランスという自転車競技がある。この自転車競技は、チーム競技と個人競技がミックスされたものであるが、きわめて上記の原則に忠実な競技で、常に先頭が入れ替わる。 >先頭に立つ人間は、風圧を受けるため、疲れが大きい。そのため、選手がかわるがわる先頭に立つ。しかも、チーム競技なので、チームの中で最も力のある選手を勝たせるために、他の選手がある程度犠牲になったその選手を守る。 >だから、【先頭に立つからと優越感を持ったり、最後尾につくからと劣等感を持ったりすることはない】 >この競技の最も盛んな国々が、ヨーロッパであることに、ヨーロッパがなぜEUを >作り上げることができたか、という秘密を見ることができる。 この伝でいくと,日本もそうですよね。 競輪もまったく同じです。チームプレイであり,力ある人間のためになかまが犠牲になります。(いろいろやりとりはあるでしょうが) まぁ,昔はやったローラーゲームもそうなのではないですか。あれはアメリカ産だったような…。 >米国の流儀は違う。それこそ、雁の群れの先頭に立って、飛ぶ方向、飛ぶ速度などすべて自分で決めて、ついてこれない雁は置いていくやり方である。 そうでもないですよ。 アメリカンフットボールをご存じでしょう。 あれは,先頭にいるラインメンがディフェンスの体を,それこそ体を張って止め,ボールキャリアを進ませるゲームです。パスをしたときにも,スクリーンパスというプレイでは,パスレシーバーを走らせるために,襲ってくる敵に対してぶつかっていきます。 こういうことで,米国の性質を言い得るのかどうか,疑問です。 |
▼しげちよさん: >そうでもないですよ。 >アメリカンフットボールをご存じでしょう。 >あれは,先頭にいるラインメンがディフェンスの体を,それこそ体を張って止め,ボールキャリアを進ませるゲームです。パスをしたときにも,スクリーンパスというプレイでは,パスレシーバーを走らせるために,襲ってくる敵に対してぶつかっていきます。 ●これは、ラグビーがルーツでしょう。 ラグビーとアメフトの決定的な違いは、ボールを後ろにしか投げられないのと、ボールを前に投げることが許されることの違いですね。 この違いが大きいのですよ。 |
▼流水さん: >●これは、ラグビーがルーツでしょう。 そうです,そうです。アメリカも初めはラグビーをしていたのですが,その当時スクラメージがなくて,その件でいろいろな経緯があって,改良したのです。 >ラグビーとアメフトの決定的な違いは、ボールを後ろにしか投げられないのと、ボールを前に投げることが許されることの違いですね。 アメリカンフットボールでも,前に投げるにはいろいろと制限があります。 1)1プレイに1回しか前に投げられない。(フットボールは「ダウン…ボールキャリアが倒れる,またはOBに出ること)」で1プレイが終わります) 当然2回投げると反則で,罰退となります。 2)ボールキャリアがスクリメージライン(プレイスタート地点)を越えて前に出て,フォワードパスは投げられない。 反則。 3)パスを投げるときは,無資格レシーバー(主にラインメン)はダウンフィールド(スクリメージラインより前の地域)に,相手との接触なしには出られない。 反則。 もちろん,ラグビーと同じように,後ろへのパスは無制限です。しかし,ダウンフィールドに出たら,滅多に後ろへのパスはしませんが。 攻撃側は止めるといっても,相手をつかむことはできません。あくまで体で相手がボールキャリアへ迫るのを妨害するのです(ブロックといいます)。 守備側はある程度手を使えるので,攻撃側のブロッカーはよく倒されたりするんです。 ただ,ボールを進めるために,味方が犠牲になって止める(ラグビーでは反則)行為は,やはり自転車などの先頭を走ることに通じるのではないでしょうか。 |
流水さん、こんにちは。 書いてくださったこと、その通りと私も思います。とくに、こういう 場所、こういうことは、一人の頑張りでは、どうにもなりません。 少しずつ言い方を変えながら、よく言われることではありますが、 私なりの整理で言えば、こんな感じです。 ●できる人が、できることを、できるときに、できるだけ。 ●自分のやったことを誉めて、人ができたことを喜ぶ。 ●自分ができないことを悔やまず、人のやらないことを責めない。 それから、別スレッドの「自立」のお話、うんとゆっくりで結構です ので、続けていただけませんでしょうか? 楽しみにしています。 流水さんはこれを、本当の意味での民主主義という観点からとらえて いらっしゃいますが、それはまた、本当の意味での、心身の健康と 成長ということにもつながっていくのだろうと、私は思っています。 つまり、自立、自律、試行、向上、成長、その円環的な繰り返し、 といったプロセスです。人間の心身は、一生成長し続けることが できる、ということです。 釈迦に、ならぬベテラン教師に説法、生意気ごめんなさい。 いつの間にか、豆まきの季節ですね。どうかご自愛ください。 |
▼ぎみゆらさん: > > ●できる人が、できることを、できるときに、できるだけ。 > ●自分のやったことを誉めて、人ができたことを喜ぶ。 > ●自分ができないことを悔やまず、人のやらないことを責めない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ これは人と何かを成し遂げようとするときの基本でしょう。しかし、これが 難しいのです。 人が一番腹を立てるのは、自分でも分かっていることを責められた時です。 アウシュビッツのカポーもそうですが、彼らは自分の裏切りの事実をよく 知っているのです。だからこそ、彼らを見る他の同胞たちの目が自分に突き 刺さってくるように感じるから、余計残虐になるのです。 何も、アウシュビッツを見なくても、この現象はイラクでも見ることができます。 イラク暫定政府の警察官や軍隊に雇用された人々も、彼らにとっては生きるために やむ負えない選択だったのですが、占領行政に抵抗する人にとっては敵そのもの に映るのをよく知っているのです。彼らも、現在のイラクの占領状態を決して素晴らしいものだとは思っていないのです。しかし、彼らは抵抗勢力により、容赦ない 攻撃にさらされます。 だから、ファルージャなどの戦闘で、かなり残虐な行為を働いているらしいのも よく理解できます。 つまり、人は自分が置かれた環境によっては、どんな残虐なことでもやってのける 存在だということです。 これを止めることができるのは、こういう残虐なことや裏切り行為をしなければ生きていけないような状況(環境)をつくらないということに尽きるのです。 ●流水さんはこれを、本当の意味での民主主義という観点からとらえて >いらっしゃいますが、それはまた、本当の意味での、心身の健康と >成長ということにもつながっていくのだろうと、私は思っています。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ これはまさにわが意を得たりです。そう読んでもらえれば、ありがたいと思います。 ●つまり、自立、自律、試行、向上、成長、その円環的な繰り返し、 >といったプロセスです。人間の心身は、一生成長し続けることが >できる、ということです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ そうありたいと思います。 わたしは本当をいえば、人間の能力差などほとんどないと考えています。 例えば、目が不自由な人は、聴覚が発達します。 これは人間が与えられた条件の中で足りないものを他の能力で補う、 ということを示しています。 目のみえる人が聴覚がそれほど発達しないのは、結局必要性を感じない からでしょう。 わたしは、日本である時期から、本当の意味で自律した人間が育たなかったのは、 それが必要でなかった、というより邪魔になる場合が多かった、ということを 示していると考えます。 現在の日本はさまざまな革命的改革が必要ですが、上記のことを含んだ「改革の 理念」が提示されていないところが、問題なのだと思います。 |
▼流水さん: >▼ぎみゆらさん: >> >人が一番腹を立てるのは、自分でも分かっていることを責められた時です。 >アウシュビッツのカポーもそうですが、彼らは自分の裏切りの事実をよく >知っているのです。だからこそ、彼らを見る他の同胞たちの目が自分に突き >刺さってくるように感じるから、余計残虐になるのです。 このスレッドを見逃していました。 私の長年の勤めやボランテイア活動からの経験ですが、日本人は人を褒める ことが下手ですね。学校へ勤務していた時、先生方の褒め下手を感じました。 何より褒めている時の裏を感じさせる態度が気になりました。 少しの欠点を責めたり、責任を他へ押し付ける、これは子供への接し方も同じ でした。笑顔の素敵な先生は、子供を褒めるのうまかったと思いました。 私自身は青少年団体のリーダーとして子供を褒めることを努力しているつもり ですが、本当に子供に合った褒め方の難しさは感じていますが。 流水さんは学校関係者なのでこういう書き込みには嫌な思いをされると思い ますが、駄目教師に限って人を褒められませんでした。 校内にいる教師以外の人間の仕事を認めない人、教師以外の人間の話を 鼻先であしらう人、20年間の学校勤務でこんな環境で育つ子供達は可哀想 だと思いました。職場を離れて10年になりますが、いまだに親しく付き 合っていただいている先生は、子供を褒められる先生、教師以外、学校外の 人間と普通に付き合っていた先生です。 私、思うのですが、環境に慣れすぎて他への想像力が欠けてきたとき、人は 自分のやっていることに反省することを忘れてしまうのでしょうか。 環境に慣れることは必要ですが、その中で人は互いに楽なほうへ同調して しまうので中にチョッと違う人が出てくると、つぶしてしまう、渡り鳥なら 叩き落して列から落してしまうのでしょうか。 雁は傷ついた仲間を群れが助けて飛ぶと子供のとき本で読んだ気がしますが. お二方の話しから、離れてしまってますか? 失礼しました。 |
▼こんぺいとうさん: ●私の長年の勤めやボランテイア活動からの経験ですが、日本人は人を褒める >ことが下手ですね。学校へ勤務していた時、先生方の褒め下手を感じました。 >何より褒めている時の裏を感じさせる態度が気になりました。 >少しの欠点を責めたり、責任を他へ押し付ける、これは子供への接し方も同じ >でした。笑顔の素敵な先生は、子供を褒めるのうまかったと思いました。 >私自身は青少年団体のリーダーとして子供を褒めることを努力しているつもり >ですが、本当に子供に合った褒め方の難しさは感じていますが。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ これは教師にとって永遠の課題ですね。 私自身は、スポーツの指導者(バレー)も長く続けていたので、闇雲にほめることはしませんでした。 原則的にいうと、「七叱り、3褒める」で行っていました。 ただ、叱るときには、本気で叱り、褒める時には大声で本気で褒めるということに留意していました。 もう少し、詳しく書くと、叱る時には人前でなく、できるだけ個人的に。 褒める時は、短い言葉でできるだけ人前で、ということを原則にしてきました。 たしかに、書かれておられるように、「人を見て法を説け」ということも必要です。 同時に、同じメッセージを子供たち全員に届けることも必要になります。 もう一つ書きますと、学校という場所で何を育てるか、という視点が重要になります。つまり、叱るにしても褒めるにしても、子供たちをどのように育てるかの理念で全く内容が変ってきます。 【叱る場合】 わたしの場合でいいますと、「子供が自分自身を駄目にするような言動をした」時には、全身全霊をあげて叱りました。子供が自分の可能性を開けるかどうかは、【子供の意識】の問題です。わたしは、この意識変革をどのように図れるかが、教師の役割だと考えていました。 もう一つは、子供の自尊心は大切にしますが、人を馬鹿にしたり、人を見下したり、人を差別したりするような言動をした場合、どんな些細なことでも決して見逃さなず間髪をいれず叱りました。(※この場合、他の子供の前でも叱ります。これは他の子供に対するわたしのメッセージでもあります。同時に、叱った子供は、後から本人が納得できるまで話し込みます) 【褒める場合】 叱る場合と逆で、自分自身の可能性に挑戦している場合、どんな些細なことでも人前で、大声で褒めます。(※これもわたしのメッセージを子供に届けるためと本人の勇気を支援するためです) ただ、この場合、あまり褒めることを連発したら、中学生くらいになりますと、白ける子供が出てきます。あまり褒めない人が褒めてくれたら、本当だ、と思わせるような日常的な環境つくりが必要です。同時に、褒めるタイミングが必要です。 タイミングを間違えると、逆効果になる可能性があります。 こっそり個人的に褒める時に一番重要なのは、「先生は君をじっと見ているよ」とか【先生は君の味方だよ】という信頼感を醸成するという目的を忘れないことです。比喩的にいうと、難破しかかった船がやっと見つけた灯台の火のような存在になる、という教師としての本質的なありかたに関わることなのです。 私自身は、教師というのは、【ファッシリテーター(命を引き出す人)】だと考えていました。褒めるとか叱るとかの方法論が問題なのでなく、褒めるにしろ、叱るにしろ、如何にして子供たちの【命を引き出す】かが問題なのだと思います。 |
▼流水さん: 珍しく日曜日の朝パソコンで仕事をしていましたので、早速のお返事を見つけました。 >【叱る場合】 >わたしの場合でいいますと、「子供が自分自身を駄目にするような言動をした」時には、全身全霊をあげて叱りました。子供が自分の可能性を開けるかどうかは、【子供の意識】の問題です。わたしは、この意識変革をどのように図れるかが、教師の役割だと考えていました。 これは賛成です。子供は本気で叱っているか、そうでないかを見抜きます。 もう30歳を過ぎてしまった20年も前にかかわった子供が、今父親になって 私に叱られたことが身にしみるといってたずねてくれます. >もう一つは、子供の自尊心は大切にしますが、人を馬鹿にしたり、人を見下したり、人を差別したりするような言動をした場合、どんな些細なことでも決して見逃さなず間髪をいれず叱りました。(※この場合、他の子供の前でも叱ります。これは他の子供に対するわたしのメッセージでもあります。同時に、叱った子供は、後から本人が納得できるまで話し込みます) この経験もあります。口から先に生まれてきたような子で、すぐに[死ね!」 という言葉を口にしました。このこと一緒に同じ[死ね!」といって回りの子供 に乱暴をしていた子に私は本気で「人の死をなんと思ってるか」と大声で叱り 親御さんにもこうした言葉は日常使わないように家庭でも気をつけて欲しいと 話しました。当時低学年だった子供は私の勢いに驚いたそうですが、中学生になったいまも母親に本気で叱ってくれたのはあの人だ、といっているそうです。 > >【褒める場合】 >叱る場合と逆で、自分自身の可能性に挑戦している場合、どんな些細なことでも人前で、大声で褒めます。 >>こっそり個人的に褒める時に一番重要なのは、「先生は君をじっと見ているよ」とか【先生は君の味方だよ】という信頼感を醸成するという目的を忘れないことです。比喩的にいうと、難破しかかった船がやっと見つけた灯台の火のような存在になる、という教師としての本質的なありかたに関わることなのです。 > >私自身は、教師というのは、【ファッシリテーター(命を引き出す人)】だと考えていました。褒めるとか叱るとかの方法論が問題なのでなく、褒めるにしろ、叱るにしろ、如何にして子供たちの【命を引き出す】かが問題なのだと思います。 先生がこのファシリテーターに気づいてくださると良いですね。 私はアウトドアで人とかかわる時ファシリテーターという言葉を大事にしています 先生は、先生(テーチャー、一方的に教える?)の前にエデイケーターでありファシリテーターであって欲しいと思っています。 流水さんのような先生がどの学校にもいてくれると、日本の子供達は安心です。 私達の団体は任意の団体ですから、親が子が入ってこないとかかわることがで きませんから。 有難うございました。 |
こんぺいとうさん、流水さん、こんにちは。 人を褒めるのは、たしかに難しいですね。流水さんのお話は、大人 どうしのことにも通用しそうな、思い当たるところが多く、とても 参考になりました。ありがとうございました。 精神科医やカウンセラーと話していると、日本人にはまだ本当には、 カウンセリング、心理治療といった類のものは、根付いていないの ではないか、といった話題になることがあります。 「心が弱る」「心を病む」こと自体をとても罪悪視する。心理的な 話し合いを受けることを、「心を覗かれる」「心をいじられる」と いった感覚で、ひどく嫌う。 褒める、褒められるということにも、何かそういった、体よく 操られているような感覚が、生じてしまうことが少なくないの だろうなと、流水さんのお話を聞いて、あらためて思いました。 叱る、叱られるのほうがまだ、社会的なルールとか、倫理とか、 そうしたものを躾けられている感じで、イヤはイヤだけど、まだ それなりに受け止められる。 だけれども、褒められるほうが、「人」「自分自身」をいじられて いるような、そんな感じ方が、かなり広く存在するんだろうなと、 取材の経験などを振り返っても、そんなことを感じます。 難しいものですね。 |
▼ぎみゆらさん: >流水さん、こんばんは。 どのスレッドへ、書き込もうかと、思い ぎみゆらさんの > ●できる人が、できることを、できるときに、できるだけ。 > ●自分のやったことを誉めて、人ができたことを喜ぶ。 > ●自分ができないことを悔やまず、人のやらないことを責めない。 というご意見を読んで思い出しました それは、一月の中頃、千葉県であった 「べてるの家」の講演会と その社会福祉法人としての活動についてです この、老人党にリンクしている、サイトの公開掲示板で書いた内容と重複しますので、一度お読みになった方はお許しください べてるの家は、北海道浦河町にある 「昆布も売ります、病気も売ります」 というキャッチ・フレーズで150人近くの当事者が運営する 社会福祉法人です。 そして効率を優先しないで安心してサボれるところにしたら、 年商一億円の有限会社、見学者年間1800人の人が訪れる 地域が元気に安らげるところになったそうです。 北海道の浦河町は過疎の町で本当に何も無い所だそうです そこで、お年寄りのオムツ交換の宅配をしたり、お弁当を届けたり、引越しの手伝いとか、行政も企業もしない仕事、すきま産業とでもいうのでしょうか そういうことをきめ細かく拾い集めるように、仕事にして、成長してきたようです 北の老兵さんも、べてるのことは、御存知でお返事を頂きました。 サボるというと、何か悪いことのように聞こえますがでも 生き生き、安心してサボれる(仕事でのドタキャンは当たり前、A君がダメならC君、B君がいるというシステム)というべてるが、過疎の町を支える一大地場産業になっている、という現実が凄いと思いました。 幻聴や妄想を語り合う『幻覚&妄想大会』もあり 「幻聴さん今来てますか?」 「ハイ、来てます」 「それは女性ですか?男性ですか?」 「女性だったり、男性だったり、おじいさんの声だったり、こどもだったり 色々です」 とかいう会話が自然に行われ、ありのままの自分を、あんなに自然に語れる なんて、凄いなーと思いました。ギターを弾いて歌ったり、当事者研究の話など、興味は尽きない時間を過ごすことが出来ました 「作業所や、自立支援施設をつくろうとしたら潰されていただろう」 という言葉や 「自分達はまず、金を稼ぐためのベンチャー企業を立ち上げようとした」 「「だから行政に届けるとか、許可を得るとか考えはしなかった」 という言葉が印象に残りました もちろん、当事者がこれだけの施設を運営する為には 大変なことは数限りなくあるだろうとは思います。 これは「ベテル」だけでは無く私達の生き方にも通じるものであり 流水さんの、「老人党渡り鳥論」にも通じるものだと思うのです 仕事でも、家庭でも、もしかした地域でも、ぎりぎりまで 頑張ることを要求されている、大人の人達に是非知ってもらいたいと 思います。 流水さんの「老人党 渡り鳥論」に賛同致します。 そして、このような、折角の良いスレッドが下に、下に、落ちていって 過去ログに埋もれてしまうのはとても残念に思います。 |
▼パンドラさん: > ●べてるの家は、北海道浦河町にある >「昆布も売ります、病気も売ります」 >というキャッチ・フレーズで150人近くの当事者が運営する >社会福祉法人です。 >そして効率を優先しないで安心してサボれるところにしたら、 >年商一億円の有限会社、見学者年間1800人の人が訪れる >地域が元気に安らげるところになったそうです。 > > >生き生き、安心してサボれる(仕事でのドタキャンは当たり前、A君がダメならC君、B君がいるというシステム)というべてるが、過疎の町を支える一大地場産業になっている、という現実が凄いと思いました。 >幻聴や妄想を語り合う『幻覚&妄想大会』もあり >「幻聴さん今来てますか?」 >「ハイ、来てます」 >「それは女性ですか?男性ですか?」 >「女性だったり、男性だったり、おじいさんの声だったり、こどもだったり >色々です」 >とかいう会話が自然に行われ、ありのままの自分を、あんなに自然に語れる >なんて、凄いなーと思いました。ギターを弾いて歌ったり、当事者研究の話など、興味は尽きない時間を過ごすことが出来ました > >「作業所や、自立支援施設をつくろうとしたら潰されていただろう」 >という言葉や >「自分達はまず、金を稼ぐためのベンチャー企業を立ち上げようとした」 >「「だから行政に届けるとか、許可を得るとか考えはしなかった」 >という言葉が印象に残りました > >もちろん、当事者がこれだけの施設を運営する為には >大変なことは数限りなくあるだろうとは思います。 > >これは「ベテル」だけでは無く私達の生き方にも通じるものであり >流水さんの、「老人党渡り鳥論」にも通じるものだと思うのです > >仕事でも、家庭でも、もしかした地域でも、ぎりぎりまで >頑張ることを要求されている、大人の人達に是非知ってもらいたいと >思います。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ これは、非常に大切ですね。こういうのを本当の意味での【現場主義】というのだと思います。 わたしは、【現場】を離れた理論は、あまり信じません。 現場の試行錯誤の中にこそ、汲めども尽きない宝物が埋まっているという立場です。 同時に、現場で活躍してる人たちにとっては、理論というものは、自分たちの方向性を確認するために必要なものではあります。 しかし、理論の検証のために実践をしているのでなく、実践のために理論が必要なので、決してその逆ではありません。 「ぺテルの家」の活動は、その意味でわたしたちにとって「知恵と理論の宝庫」だと思います。 |
パンドラさん、流水さん、こんにちは。 「べてるの家」は、私も数年前から断片的なエピソードなどを聞く ことがあって、そのつど気になる存在でしたが、ここしばらくで 本が何冊か出て、だいぶ広く知られるようになりました。 何かのときの資料にと控えておいた書名として(読んではいないの ですが)、下記4件が見つかりましたので、ご参考までに挙げて おきます。 『べてるの家の「非」援助論−そのままでいいと思えるための 25章−』(浦河べてるの家著、医学書院、2002年) 『とても普通の人たち 北海道べてるの家から』(四宮鉄男著、 北海道新聞社、2002年) 『悩む力−べてるの家の人びと−』(斎藤道雄著、みすず書房、 2002年) 『降りていく生き方−「べてるの家」が歩む、もうひとつの道−』 (横川和夫著、太郎次郎社、2003年) いずれかの本を、お読みになった方がいらっしゃいましたら、 ご感想など、お聞かせいただければうれしく思います。 |
平成政治ジプシーか。 取り敢えず彼の森、彼の島。ある時は西へ、気に入らなければ北へ飛ぶ。 |