Page 2545 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼理念なき改憲論の危険・2 ぎみゆら 05/3/18(金) 17:22 ┣理念なき改革とニヒリズム ぎみゆら 05/3/18(金) 17:38 ┃ ┗Re(1):理念なき改革とニヒリズム 流水 05/3/18(金) 20:36 ┃ ┣Re(2):理念なき改革とニヒリズム 遍巳亭 05/3/18(金) 21:44 ┃ ┃ ┣Re(3):理念なき改革とニヒリズム 遍巳亭 05/3/18(金) 22:20 ┃ ┃ ┗Re(3):理念なき改革とニヒリズム 流水 05/3/18(金) 22:33 ┃ ┃ ┣Re(4):追記 流水 05/3/18(金) 22:49 ┃ ┃ ┗Re(4):理念なき改革とニヒリズム 遍巳亭 05/3/19(土) 8:31 ┃ ┗Re(2):理念なき改革とニヒリズム 王里 05/3/18(金) 22:19 ┗[管理者削除] ┗削除します 管理スタッフ 05/3/19(土) 2:27 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 理念なき改憲論の危険・2 ■名前 : ぎみゆら <gimiyura@fox.dti2.ne.jp> ■日付 : 05/3/18(金) 17:22 -------------------------------------------------------------------------
流水さんが先般立ててくださった、「理念なき改憲論の危険」という 有意義なスレッドが、50レスを超えて書き込めなくなりましたので、 僭越ながら、新スレッドを立てます。 *前スレッド「理念なき改憲論の危険」 http://www.6410.jp/bbs/c-board.cgi?cmd=one;no=45612;id=sougou |
*前スレッドでの私ぎみゆらの発言【45746】 http://www.6410.jp/bbs/c-board.cgi?cmd=one;no=45746;id=sougou *それに対する流水さんのお返事【45763】 http://www.6410.jp/bbs/c-board.cgi?cmd=one;no=45763;id=sougou ──に続けてのコメントです。 * 流水さん、こんにちは。 丁寧なお返事をいただき、感謝します。 つまり、いま「改憲」を核心とする種々の「改革」を進めようと している人たちというのは、国会議員も上級官僚も、産業界等で 支援している面々も、総じて、「小者」「使い走り」、さらに何か 「上」の意を受けて、動いている人たちなんだろうなと感じます。 そういった人たちにとって、目の前の一つひとつの事柄は、憲法で あれ、人権であれ、「作業課題」ですので、現場の空気を読むとか、 不特定の錯綜した声に耳を傾けるとか、そのようなことはすべて、 作業促進に対する「阻害要因」「煩わしいこと」に過ぎないのです。 職場でも、地域でも、誰に頼まれたわけでもないのに、そのように 自ら小役人のように振る舞う「プチエリート」たちを、とくにここ 十年ほどで、何人も見てきました。小者とバカにするのではないん です。むしろその逆で、いちばん警戒すべき人たちだと思います。 そういった「プチ優等生」たちには、情とか、本音とか、この場に とって、人として、いまとこれからの世の中に対して、結局いちばん 大切なことは何なのか、そういった問いかけや議論が通じません。 自動販売機やゲーム機を相手に話しているようなものなんです。 その十年が、この日本の国が、政治的、社会的にはアナキズム、 世相、人心としてはニヒリズムの状況に、はっきりと足を踏み入れた 十年なのだろうと思います。青島幸雄と横山ノックが東京と大阪の 知事に揃って当選したのが、ちょうど十年前、1995年4月9日です。 あの晩のことは、よく覚えています。 私の家に両親を呼んでの夕食に、年の離れた弟がいきなり、後に 結婚する彼女を連れてやってきて、いささか羽目を外した家族宴会の ような雰囲気になっていました。そこに、テレビから東京と大阪の 開票速報が流れ、青島とノックの当選が相次いで報じられました。 酒酔いの勢いも借りて私は、「なんてバカな知事選だ。もう日本は オシマイだ!」と叫びました。父母は「一種のアナキズムだね」と 頷き合っていました。振り返ればあの辺りが、いまのような状況が 表面化した、わかりやすい「合図」だったのだろうと思います。 そう思えば、昨今の「新国家主義」的な潮流や、防衛的、防犯的な 色彩を押し立てた排外主義的傾向、とくに近隣諸国に対する露骨な 敵愾心が、若い人たちに魅力的に映り、持て囃されるのも、実感も 含めてよくわかりますし、「教科書通り」の成り行きでもあります。 毎度のことながら、流水さんとお話をするたびに、状況認識と 頭の中味が整理されていきます。とても助かります。 いつも、本当に、ありがとうございます。 |
▼ぎみゆらさん: 非常に示唆に富んだお話ありがとうございます。 ●職場でも、地域でも、誰に頼まれたわけでもないのに、そのように >自ら小役人のように振る舞う「プチエリート」たちを、とくにここ >十年ほどで、何人も見てきました。小者とバカにするのではないん >です。むしろその逆で、いちばん警戒すべき人たちだと思います。 > >そういった「プチ優等生」たちには、情とか、本音とか、この場に >とって、人として、いまとこれからの世の中に対して、結局いちばん >大切なことは何なのか、そういった問いかけや議論が通じません。 >自動販売機やゲーム機を相手に話しているようなものなんです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ このことは、日本社会にとって、骨がらみといってよい体質だと思います。 教育現場で語りますと、文部科学省⇒都道府県教育委員会⇒市町村教育委員会⇒現場管理職⇒現場教師という教育政策の伝達過程があります。 この伝達過程で、文部科学省の政策が膨らんでくるのです。 例えば、愛国心という徳目を見てみましょう。文部科学省の当初の案では、これは「評価になじまない」としているのですが、県レベルや市町村レベルの教育委員会では、いつのまにか【評価する】に変っているケースが多数あります。 この種の事例は、枚挙に暇がありません。 このように、国の政策が増幅した形で現場に下りてくるのです。 これが、日本型官僚主義のありようです。 この形は、明治以来変わらないのです。官僚機構の中で出世するとは、【上には決して抵抗せず、下には余分なものを付け加える】ことを巧妙にできる人材ということになります。 きみゆらさんのいう「小役人」とは、こういう人材でしょう。おっしやるとおり、実は、この種のタイプが一番怖いのです。 夏目漱石の坊ちゃんの中に、赤シャツという人物が出てきます。山嵐という人物は、直情径行なので御しやすいのですが、赤シャツタイプは煮ても焼いても食えません。面と向かっては何も言いませんが、陰では足を確実に引っ張ってくれます。 ところが、このタイプが権力者になると、「君子は豹変する」のです。部下には強権的に振る舞うのです。 現役時代、この種の人間を厭と言うほど見てきました。その意味で官僚主義の弊害を厭と言うほど経験してきたと思っています。 外から見ている多くの人は、この官僚機構のメカニズムがよく理解できないのです。だからこそ、中央官僚が作成する政策が失敗するケースが多いのです。自分たちの作成した政策がどのような扱われ方をし、どういう形で現場に下りてくるかの裏まで読まなかったら、本当の意味でその政策がどのような結果をもたらすかを予測できないのです。 その逆もあります。どちらとも読めるような政策決定をして、政策が地方へ降りる段階で、本当の狙いを付け加えていくという手法です。これもまた、現場を混乱させる結果になります。 いずれにしても、本当の意味での日本の構造改革は、この官僚機構のメカニズムやそれに付随する政治家・業界のズル体質を根底から変えなければ決して成功しないと思います。 |
流水さんのご立派な立論、しかし、「山嵐という人物は、直情径行なので御しやすいのですが」と言われて、末尾に「この官僚機構のメカニズムやそれに付随する政治家・業界のズル体質を根底から変えなければ決して成功しないと思います」は整合性に欠けるのではないでしょうか。つまり、ズルイ体質にとっては「山嵐」は決して御しやすくはない。御しやすい状況はズルイ体質が支配的な場であるからにすぎない。単なる「場の論理」。しかし、「山嵐」は「場の論理」の外で「場の論理」を批判する。そうであって、なぜに「御しやすい」のか。解釈は「場の内でしか考えないとして」。このようになりませんか? むしろ、「赤シャツタイプは煮ても焼いても食えません。面と向かっては何も言いませんが、陰では足を確実に引っ張ってくれます」という類型は「ところが、このタイプが権力者になると、「君子は豹変する」のです。部下には強権的に振る舞うのです」と言われるがごとく、機を見るのに敏で人参(誘因)で「御しがたい」のではないかと思われるのですが、事実と異なるでしょうか。 山嵐は「利」では動かし難い。それはもっとも「御しにくい」類型と言うべきではないかと、私は考えます。「理」には動くけれども「利」には動かない人間。西郷南州の言う「始末に 困る」もの。 私は西郷隆盛よりも勝海舟が好みですが、海舟の評する「高士」としても西郷南州は「代表的日本人」として最も尊敬する日本人の一人です。 |
書き間違いがありました。お詫びをして訂正します。 人参(誘因)で「御しがたい」 →人参(誘因)で「御しやすい」 失礼いたしました。 |
▼遍巳亭さん: >流水さんのご立派な立論、しかし、「山嵐という人物は、直情径行なので御しやすいのですが」と言われて、末尾に「この官僚機構のメカニズムやそれに付随する政治家・業界のズル体質を根底から変えなければ決して成功しないと思います」は整合性に欠けるのではないでしょうか。つまり、ズルイ体質にとっては「山嵐」は決して御しやすくはない。御しやすい状況はズルイ体質が支配的な場であるからにすぎない。単なる「場の論理」。しかし、「山嵐」は「場の論理」の外で「場の論理」を批判する。そうであって、なぜに「御しやすい」のか。解釈は「場の内でしか考えないとして」。このようになりませんか? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ではないですね。むしろ、逆だと思います。 場の論理の外で場の論理を批判する、といわれますが、このタイプの人の多くは、 人間性で評価するのが多いと思います。 一例をあげましょう。 ある人の行動を多くの人が批判したとしましょうか。その中には山嵐タイプの人もいれば、完全に理屈で批判する人もいます。しかし、山嵐タイプの人は、酒でも酌み交わしながら、「君のいうことはもっともだ。君のその勇気はたいしたものだ。しかし、彼も辛いんだ。」などと掻きくどかれればころっと態度を変えることが多いのですよ。 つまり、だましやすいということです。 その意味で「男気」とか「侠気」などを売り物にする人間は御しやすいのですよ。 赤シャツタイプは、御しにくいですよ。こちらの立場が有利な時は、もみ手をしてこちらに味方しますが、立場が逆転するとこちらのいうことなど歯牙にもかけなくなります。利で動くから御しやすいという側面もありますが、いつ裏切るか分からないのですから、これほど危険なことはありません。 一番御しにくいのは、理屈でしか動けない人間です。それもかなり頑なに自分の理屈にこだわるタイプの人間です。これは一旦反対に回ると、懐柔は難しいと思います。 最後に、官僚体質(一種のズル体質)の問題は、学校現場でいうとわたしの経験知で言うと、赤シャツタイプが出世する確率が高いので、そう書いているのです。 つまり、赤シャツタイプが出世するメカニズムが、官僚体質には内包されているということを言いたかったのだと考えてください。 |
わたしと偏己亭さんとの見方の違いは、部下という立場で見た場合と、 上司という立場で見た立場の違いだと思います。 |
▼流水さん: おはようございます。 >>流水さんのご立派な立論、しかし、「山嵐という人物は、直情径行なので御しやすいのですが」と言われて、末尾に「この官僚機構のメカニズムやそれに付随する政治家・業界のズル体質を根底から変えなければ決して成功しないと思います」は整合性に欠けるのではないでしょうか。つまり、ズルイ体質にとっては「山嵐」は決して御しやすくはない。御しやすい状況はズルイ体質が支配的な場であるからにすぎない。単なる「場の論理」。しかし、「山嵐」は「場の論理」の外で「場の論理」を批判する。そうであって、なぜに「御しやすい」のか。解釈は「場の内でしか考えないとして」。このようになりませんか? >・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >ではないですね。むしろ、逆だと思います。 少しわかりにくい表現でしたので、付言します。 「山嵐」的な類型を「御しやすい」となすのは、「山嵐」的な人間が場に属さざるを得ない、(例えば職場)環境として「場」が圧倒的な力を持つ場合でしょう。そこで「御しやすい」とするのは場(内部)の論理を肯定することです。一方、そのような場の典型である「ズルイ体質」の場(内部)を否定する。肯定しつつ否定する、ここに論理の不整合をみたということです。 >場の論理の外で場の論理を批判する、といわれますが、このタイプの人の多くは、 >人間性で評価するのが多いと思います。 >一例をあげましょう。 >ある人の行動を多くの人が批判したとしましょうか。その中には山嵐タイプの人もいれば、完全に理屈で批判する人もいます。しかし、山嵐タイプの人は、酒でも酌み交わしながら、「君のいうことはもっともだ。君のその勇気はたいしたものだ。しかし、彼も辛いんだ。」などと掻きくどかれればころっと態度を変えることが多いのですよ。 >つまり、だましやすいということです。 >その意味で「男気」とか「侠気」などを売り物にする人間は御しやすいのですよ。 まず「男気」はともかくとして「任侠」というような言葉には強い違和感があります。 漱石の「ぼっちゃん」の「山嵐」を類型として考えるのですが、小説の最後に「その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた」とあります。「山嵐」は御されるのではなく、場の外に出ました。流水さんの類型とされる「山嵐」と私の想定する「山嵐」は異なると言うことが分かりました。 また、表現として人を「御しやすい」、「だましやすい」については強い疑問を感じます。 「御する」とは人を自分の思い通りに動かす、意のままにする、ということでしょう。他の人格に対する配慮、尊敬、それが上司と部下の関係であったとしてもが希薄です。少なくとも私にとっては、私を「御そう、だまそう」という上司、職場との関係は愉快なものとはなりません。 |
▼流水さん: >▼ぎみゆらさん: >非常に示唆に富んだお話ありがとうございます。 > >●職場でも、地域でも、誰に頼まれたわけでもないのに、そのように >>自ら小役人のように振る舞う「プチエリート」たちを、とくにここ >>十年ほどで、何人も見てきました。小者とバカにするのではないん >>です。むしろその逆で、いちばん警戒すべき人たちだと思います。 >> >>そういった「プチ優等生」たちには、情とか、本音とか、この場に >>とって、人として、いまとこれからの世の中に対して、結局いちばん >>大切なことは何なのか、そういった問いかけや議論が通じません。 >>自動販売機やゲーム機を相手に話しているようなものなんです。 >・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >このことは、日本社会にとって、骨がらみといってよい体質だと思います。 >教育現場で語りますと、文部科学省⇒都道府県教育委員会⇒市町村教育委員会⇒現場管理職⇒現場教師という教育政策の伝達過程があります。 >この伝達過程で、文部科学省の政策が膨らんでくるのです。 >例えば、愛国心という徳目を見てみましょう。文部科学省の当初の案では、これは「評価になじまない」としているのですが、県レベルや市町村レベルの教育委員会では、いつのまにか【評価する】に変っているケースが多数あります。 >この種の事例は、枚挙に暇がありません。 >このように、国の政策が増幅した形で現場に下りてくるのです。 >これが、日本型官僚主義のありようです。 > >この形は、明治以来変わらないのです。官僚機構の中で出世するとは、【上には決して抵抗せず、下には余分なものを付け加える】ことを巧妙にできる人材ということになります。 >きみゆらさんのいう「小役人」とは、こういう人材でしょう。おっしやるとおり、実は、この種のタイプが一番怖いのです。 >夏目漱石の坊ちゃんの中に、赤シャツという人物が出てきます。山嵐という人物は、直情径行なので御しやすいのですが、赤シャツタイプは煮ても焼いても食えません。面と向かっては何も言いませんが、陰では足を確実に引っ張ってくれます。 >ところが、このタイプが権力者になると、「君子は豹変する」のです。部下には強権的に振る舞うのです。 >現役時代、この種の人間を厭と言うほど見てきました。その意味で官僚主義の弊害を厭と言うほど経験してきたと思っています。 > >外から見ている多くの人は、この官僚機構のメカニズムがよく理解できないのです。だからこそ、中央官僚が作成する政策が失敗するケースが多いのです。自分たちの作成した政策がどのような扱われ方をし、どういう形で現場に下りてくるかの裏まで読まなかったら、本当の意味でその政策がどのような結果をもたらすかを予測できないのです。 >その逆もあります。どちらとも読めるような政策決定をして、政策が地方へ降りる段階で、本当の狙いを付け加えていくという手法です。これもまた、現場を混乱させる結果になります。 >いずれにしても、本当の意味での日本の構造改革は、この官僚機構のメカニズムやそれに付随する政治家・業界のズル体質を根底から変えなければ決して成功しないと思います。 横から失礼します。お二人の書き込みから、 強制しないとされた国旗国歌が、東京では口パクもいやがった教師を処罰したことを思い出しました。 自由人かと思えた将棋差しが、小役人的なプチエリートであったというおまけまで露呈していただきました。 |
この書き込みは管理者によって削除されました。(05/3/19(土) 11:26) |
▼森下 泰典さん: 相手名をかえただけの同一投稿につき削除します。このようなことはなさらないで下さい。 なおご覧になりたい方は、下記に同一の書込みを残しました。(珠) 【46155】海幸彦さん、ニックさん 森下 泰典 |