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 ▼〜道徳授業を参観して〜  梶原景昭 05/10/22(土) 1:15

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 ■題名 : 〜道徳授業を参観して〜
 ■名前 : 梶原景昭 <kagenobu-takao@king.odn.ne.jp>
 ■日付 : 05/10/22(土) 1:15
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       道徳授業地区公開講座についての感想   2005[平成17]年

 道徳と改めて考えると、非常に堅苦しい情感の押し売りと思うのは、あの過去の恨めしい日本人の起した戦争の想いが、脳のどこかに残っているからなのだろうか。修身から道徳へと移行した時は、大変な抵抗があった事を忘れる事ができない。今回の講座の中にも、人に物を借りる場合に丁寧に言いながら感謝する事を生徒は教わっていた。これは、逆に間違って人に悪い気分にさせてしまったら、どうするかを自然に対応する事の裏返しである。

 折角日本には、修身(戦後、道徳教科となる)があるのに感謝の部分はあっても、謝罪の部分が何故か呆けてしまっているのが気になる。それが疎かになると、人間は傲慢になる事も歴史が証明してくれる。謝罪をする事は、非を認める事で非常に心苦しいから謝りたくないと言う気持ちはあるが、それではそれを認めてしまったら、非を気がつかないで一生を終る事に疑問が沸かないのか?と思う。公開講座ではないが、時間がないから5分で書き終わりなさい!の命令口調で、授業をされたのでは、ガリ勉教育は生かされても、ゆとりのある教育には程遠いと思います。

 現在の道徳教科は、過去の修身教育を顧みての新しい概念で作られたものだろうか。元来の教育は、見て・判断して・学ぶと言うのが本筋ではないだろうか。生徒が学ぼうとするのを影からそっと援助するのが、本来の基本的な教育の姿ではないだろうか。命令口調は、今風で言うならば子供にとっては、うさん臭く感じられるからである。命令口調になると、子供達にとっては何の為に関係のない勉強するの?とか、何の役に立つの?の疑問が出る教育では、ゆとり教育と叫んでいても、叫んでいるに過ぎなくて、時間だけが経過してゆくのだと思う。先生自身にも、ゆとりがなければ、子供達はそれに習って、教育そのものに疑問が出る事だろう。昔の教育の良かったのは、先生と子供達の交流が家庭的であった事が上げられる。
10月17日(月)梶原景昭

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