Page 12 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼小さな正義、大きな不正義! 流水 05/4/23(土) 12:01 ┣窮屈でない社会に 珠 05/4/23(土) 15:33 ┃ ┣Re(1):窮屈でない社会に MNG 05/4/23(土) 16:15 ┃ ┗Re(1):窮屈でない社会に 流水 05/4/23(土) 16:28 ┗Re(1):小さな正義、大きな不正義! 流水 05/4/23(土) 15:59 ┣Re(2):小さな正義、大きな不正義! 頑固生きがい 05/4/23(土) 16:13 ┗Re(2):小さな正義、大きな不正義! 笹井明子 05/4/23(土) 17:27 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 小さな正義、大きな不正義! ■名前 : 流水 ■日付 : 05/4/23(土) 12:01 -------------------------------------------------------------------------
下でも話題になっていたが、先日、「37歳の男性が74歳の寺の住職をホームから線路に突き落とし、頭を骨折させ重傷をおわせたのですが、原因は被害者の住職がホームの点字ブロック上に荷物を置いていたのを、加害者の男性が注意したことが発端のようです。注意された住職がいったん荷物をどけたので加害者の男性が立ち去りながら振り向くと住職がまた点字ブロックの上に荷物を置いたので後帰って「落としたろうか」言いながら突き落としたのです」(49362 頑固生きがいさん) この事件に対する見かたはさまざまであろうが、わたしは加害者の男性の心のありように興味を覚えた。 被害者の住職が点字ブロックの上に荷物を置いたことを注意する行為は、加害者男性にとっては「正義」である。自分が行った「正義」の行為を無視する人間に対して制裁を加えるのは、当然である、という心の流れが見て取れる。 実は、今の日本には、この種の「正義」が満ち溢れているといってよい。特に公的機関(各種施設、駅など)は、ゴミ、タバコ、大声を出すこと等の迷惑行為禁止など、全国どこにいっても見事なばかり同じようなルールが設けられている。 多くの人は、「仕様がないか」程度の意識で、この種の規制に対処しているが、中にはこの種の規制・ルールなどを自分の「正義の証」に考えている人も存在する。 実は、この事件の加害者は、どうやらこのタイプの人ではなかったか、と思う。 多くの歴史書が、戦前を暗い時代と総括しているが、実は私自身は逆ではないかと考えている。たしかに戦争が行われている時代、言論が統制されている時代は、「暗い時代」だと考えるのが普通ですが、逆にこのような時代だからこそ、明るく生き生きと活躍した人間も多数いたじゃずである。 地域の隅々までいきわたった戦争協力の風潮の中で、その仕事に携わった人間たちの中には、その仕事に生きがいを感じていた人も多かったはずである。若い男女が公園で恋の語らいをしているのを「この非常時に」と叱り飛ばした人間も。彼なりの「正義」に酔っていたはずである。 どうやら現在の日本は、この種の「正義」に対しては、異様に尖鋭になり、大きな不正(政府・官僚・経済界など)に対しては、寛大になりすぎる社会になりつつあるのではないか、と思える。 東京都が条例で青少年の性行為までを規制の対象にしようとしているが、どうやら「小さな正義」に傾斜する人々の心のありようを先取りした権力の狙いが仄見えてくる。 実は、この種の「監視社会」の到来は、人々の「小さな正義」に依拠しているということをわたしたちは忘れてはならない。あまり話題にならないが、現在企業は正社員の数をどんどん減らして、派遣社員に切り替えている。そのうち、40%が10万円未満の低賃金で働かざるを得ない状況に追い込まれている。しかも、彼らの労働は、会社の厳しい監視の目にさらされている。 派遣社員の生活の保障(安心)という【大きな正義】が忘れられ、小さな正義(労働の質の吟味)だけが問われる、という逆立ちした現象が日常化している。 このような現象が社会のあらゆる場面で現れているのである。人間社会にはある種の「いかがわしさ」は必要であり、この「いかがわしさ」を許容できない社会は、衰退する。 その意味で、今回の大阪の事件は、時代の象徴ではないかと思える。 |
▼流水さん: >自分が行った「正義」の行為を無視する人間に対して制裁を加えるのは、当然である、という心の流れが見て取れる。 >実は、今の日本には、この種の「正義」が満ち溢れているといってよい。(略) >多くの人は、「仕様がないか」程度の意識で、この種の規制に対処しているが、中にはこの種の規制・ルールなどを自分の「正義の証」に考えている人も存在する。 >多くの歴史書が、戦前を暗い時代と総括しているが、(略)逆にこのような時代だからこそ、明るく生き生きと活躍した人間も多数いたはずである。(略)若い男女が公園で恋の語らいをしているのを「この非常時に」と叱り飛ばした人間も。彼なりの「正義」に酔っていたはずである。 >どうやら現在の日本は、この種の「正義」に対しては、異様に尖鋭になり、大きな不正(政府・官僚・経済界など)に対しては、寛大になりすぎる社会になりつつあるのではないか、と思える。 >東京都が条例で青少年の性行為までを規制の対象にしようとしているが、どうやら「小さな正義」に傾斜する人々の心のありようを先取りした権力の狙いが仄見えてくる。 >実は、この種の「監視社会」の到来は、人々の「小さな正義」に依拠しているということをわたしたちは忘れてはならない。(略) 流水さんのこのご意見にハッとさせられました。そして深く頷きました。「正義」という旗をふりかざされると、なかなか反対出来ないものです。たしかにそれは間違ってはいないからです。そして守った方が良いことだからです。でも「正義」ばかりが大手を振ってまかり通る社会は、息苦しい。 人間ってどんなに立派な人でも過ちを犯すし、失敗をするし、ダメなところがあるし、だらしなかったり、いい加減だったり、おっちょこちょいだったり、私自身反省ばっかりしては、また忘れてやってしまうようなダメ人間ですから、失敗も許されないような、あまり息苦しい社会にはしたくないなあ。それに社会が窮屈になれば、自由な思考を遮られ、新しい発想は生まれてこないですしね。 だからルールなんていらないっ! 「紳士たれ」で充分! としたいところなんですけれど、そうもいかないのがまた人間なんでしょうね(と、ここは管理スタッフの嘆きです)。 自由には責任が伴うことを自覚したいものと思うと同時に、自由は、守る意志がないと奪われてしまうものであり、今その怖れがひしひしと迫っているように思えます。国旗・国家法による行き過ぎた締め付けや、個人情報保護法も必要な部分も有りながら、知る自由を犯すものとなるかも知れないこと、何か事件が起きれば法を厳しくという動き等、私たちは余程注意深く考えて行かなければならないと思います。 |
▼珠さん: >▼流水さん: 東京都は、「公共空間において多数の者を不快にさせる行為の防止に関する検討会」(座長、前田雅英首都大学東京教授)を発足させ、初会合を開きました。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050421-00000071-mailo-l13 確かにマナーやモラルの低下は問題ですが、何でもかんでも取り締まろうという都の姿勢には背筋が寒くなります。 光を当てれば影が出来ます。より強い光を当てれば影もより濃くなるでしょう。 社会にも個人にも、光の部分と影の部分があり、無理やり影を消そうとすれば、必ず無理が生じます。その無理が蓄積しての爆発が、最近の異常な犯罪のように思います。 水木しげるさんは、最近は夜が明るくなりすぎて妖怪が住めない世の中になったと嘆かれています。 ホッとできて、少し不気味な夜の闇も必要なのではないでしょうか。 |
▼珠さん お久しぶりです。レスありがとうございます。 ●流水さんのこのご意見にハッとさせられました。そして深く頷きました。「正義」という旗をふりかざされると、なかなか反対出来ないものです。たしかにそれは間違ってはいないからです。そして守った方が良いことだからです。でも「正義」ばかりが大手を振ってまかり通る社会は、息苦しい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 現役時代、わたしは【人間ちょぼちょぼ】が口癖でした。管理教育というのは、簡単に概括すると、【正義】が大手をふるってまかり通る教育だといえます。 これは生徒にとっても教師にとっても大変息苦しいものでした。 どうやら、今の時代、管理教育の後追いをしているのではないかと思えてなりません。 ●人間ってどんなに立派な人でも過ちを犯すし、失敗をするし、ダメなところがあるし、だらしなかったり、いい加減だったり、おっちょこちょいだったり、私自身反省ばっかりしては、また忘れてやってしまうようなダメ人間ですから、失敗も許されないような、あまり息苦しい社会にはしたくないなあ。それに社会が窮屈になれば、自由な思考を遮られ、新しい発想は生まれてこないですしね。 > >だからルールなんていらないっ! 「紳士たれ」で充分! としたいところなんですけれど、そうもいかないのがまた人間なんでしょうね(と、ここは管理スタッフの嘆きです)。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 間違えるから人間だし、失敗するから成功が貴重になる。駄目な奴がいるから、優秀な奴が目立つ。簡単な理屈ですが、それを腹にストンと落とすのが難しい。 現役時代、何度反問したことか、数え切れません。ある精神科の医師に不登校の子供を登校させる相談をしたとき、「誰のために、何のために、登校させるのですかか」と厳しく問いかけられました。そのとき、【子供のために】という美名に隠れて、【自分の都合や学校の都合】しか考えていない自分の醜さを思い知らされました。 人間という奴は本当に勝手な生き物だとつくづく思い知らされました。 【ルールに即してルールから離れる】、言うは易くして、行うのは難しいのですが、子供に対する場合のわたしの座右の銘でした。 |
新自由主義者と呼ばれる人たちは、きわめて細部のデイテイルに固執する。これには、パソコンの普及が大きく影響している。一つでも操作を間違えると、パソコンは思い通りに動かない。つまり、一点の瑕疵も許さない構造になっている。 この細部の積み重ねが、想像もできない大きな仕事ができる原動力になっているのである。 その逆に、人間は間違える存在である。間違えるから人間である、といってもよい。ところが、人間は本質的なところでは、間違えない存在でもある。 殺人を例にとってみよう。大多数の人間は、人を殺した場合、うなされるそうである。殺人犯が見つかるのに、夜うなされるのを見られて怪しまれたケースが多いのもよく聞く話である。理屈でなく、感情が殺人を許さないのである。これなどは、人は本質的なところでは間違えない好例であろう。 昔から、人々は、本能的にこの人間に対する【信頼】によりかかって生活してきた。 もし、この【信頼】が崩壊したら、【社会】は成立しなくなる。 現代社会の不安の根源は、この【信頼】が成立しなくなり始めている、という獏とした感情が広がり始めているところにある。 かって、カフカが書き、キリコが描き、ダリが描いた人間存在に対する根源的不安が、現実のものになり始めたのである。 デイテイルに異常にこだわったり、自分の正義にこだわったり、とにかく論理的整合性だけを追い続けたり、国家に必要以上に自分を仮託したり、一種のお宅的人間が増加しているのは、人間存在の根源的不安がその根底にあると思われる。 これが政治として表現されているのが、【新自由主義】である。新自由主義者の特色は、異様に【論理的整合性】にこだわるところにある。逆にいえば、論理的整合性さえあれば、その結果については人間的に何の痛痒も感じない、一種のサイボーグ的感性の持ち主である。 ところが、その人間観は恐ろしく単純で、人間を【敵】と【味方】の二つに分けて考える。また、その世界観も恐ろしく単純で、支配する国と支配される国とに分けて考える。そして、物事を常に【正義】と【悪】の2種類に分別する。 【新自由主義】の特徴を一言で言えば、細部に異常にこだわり、きわめて論理的整合性にこだわるが、その人間観・世界観は恐ろしく単純な二分法に支配されている思考法だと概括できる。 現代日本社会の不安の根源は、この思考法が社会を覆い始めたところにある。 この思考法に絡め取られた人間は、迷いがない。当たり前である。自分を【正義】と考え、自分を【正義】と考え、自分を【支配する側】と信じれば、それに反対する人間を徹底的に攻撃すれば、自分の不安を払拭できるからである。 このような体制を歴史上では【ファッショ体制】と呼ぶのだが、それも【新自由主義】と読み変えれば、罪意識もなくなるというものである。 今の時代の住みにくさ、生きにくさは、人間の本質が上記のような単純な人間観、世界観で割り切れるようにできていない、というところにその淵源がある。 自殺論争なども、この側面を抜いた論議は、ほとんど意味をなさない。 今一番必要なのは、人間の多様性を認め、間違いを許容し、お互いがお互いの違いを認め合い、共生出来る社会、国家、世界観を作り出すことであろう。 その意味で、21世紀が【哲学の世紀】で【宗教の世紀】だといわれるのもむべなるかなと思える。 |
▼流水さん: >新自由主義者と呼ばれる人たちは、きわめて細部のデイテイルに固執する。これには、パソコンの普及が大きく影響している。一つでも操作を間違えると、パソコンは思い通りに動かない。つまり、一点の瑕疵も許さない構造になっている。 >この細部の積み重ねが、想像もできない大きな仕事ができる原動力になっているのである。 > >その逆に、人間は間違える存在である。間違えるから人間である、といってもよい。ところが、人間は本質的なところでは、間違えない存在でもある。 >殺人を例にとってみよう。大多数の人間は、人を殺した場合、うなされるそうである。殺人犯が見つかるのに、夜うなされるのを見られて怪しまれたケースが多いのもよく聞く話である。理屈でなく、感情が殺人を許さないのである。これなどは、人は本質的なところでは間違えない好例であろう。 >昔から、人々は、本能的にこの人間に対する【信頼】によりかかって生活してきた。 >もし、この【信頼】が崩壊したら、【社会】は成立しなくなる。 > >現代社会の不安の根源は、この【信頼】が成立しなくなり始めている、という獏とした感情が広がり始めているところにある。 >かって、カフカが書き、キリコが描き、ダリが描いた人間存在に対する根源的不安が、現実のものになり始めたのである。 > >デイテイルに異常にこだわったり、自分の正義にこだわったり、とにかく論理的整合性だけを追い続けたり、国家に必要以上に自分を仮託したり、一種のお宅的人間が増加しているのは、人間存在の根源的不安がその根底にあると思われる。 > >これが政治として表現されているのが、【新自由主義】である。新自由主義者の特色は、異様に【論理的整合性】にこだわるところにある。逆にいえば、論理的整合性さえあれば、その結果については人間的に何の痛痒も感じない、一種のサイボーグ的感性の持ち主である。 >ところが、その人間観は恐ろしく単純で、人間を【敵】と【味方】の二つに分けて考える。また、その世界観も恐ろしく単純で、支配する国と支配される国とに分けて考える。そして、物事を常に【正義】と【悪】の2種類に分別する。 > >【新自由主義】の特徴を一言で言えば、細部に異常にこだわり、きわめて論理的整合性にこだわるが、その人間観・世界観は恐ろしく単純な二分法に支配されている思考法だと概括できる。 >現代日本社会の不安の根源は、この思考法が社会を覆い始めたところにある。 >この思考法に絡め取られた人間は、迷いがない。当たり前である。自分を【正義】と考え、自分を【正義】と考え、自分を【支配する側】と信じれば、それに反対する人間を徹底的に攻撃すれば、自分の不安を払拭できるからである。 > >このような体制を歴史上では【ファッショ体制】と呼ぶのだが、それも【新自由主義】と読み変えれば、罪意識もなくなるというものである。 > >今の時代の住みにくさ、生きにくさは、人間の本質が上記のような単純な人間観、世界観で割り切れるようにできていない、というところにその淵源がある。 >自殺論争なども、この側面を抜いた論議は、ほとんど意味をなさない。 >今一番必要なのは、人間の多様性を認め、間違いを許容し、お互いがお互いの違いを認め合い、共生出来る社会、国家、世界観を作り出すことであろう。 >その意味で、21世紀が【哲学の世紀】で【宗教の世紀】だといわれるのもむべなるかなと思える。 余り難しい論議は苦手なので貴方の全文を理解するのは無理ですが、冒頭の一文だけ、パソコン云々でこの加害者の心理が理解できたような気がします。 この加害者の職業がプロバイダーなんです。私の愚息も同じような職についていますが、確かに似たような性格を持ち合わせているようでなるほどと思いました。 それが全てではないでしょうが、ヒントにはなりました。有難うございました。 |
▼流水さん: 最近の傾向、今必要なことなど、日頃私が感じていることを、きちんと分析的に話していただきました。心から共感すると共に、久々にもやもや気分が晴れました。有難うございます。 |