Page 1367 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼『東條英機宣誓供述書』を読んで pierre 06/1/12(木) 17:48 ┗Re(1):『東條英機宣誓供述書』を読んで あぶさん 06/1/12(木) 18:03 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 『東條英機宣誓供述書』を読んで ■名前 : pierre ■日付 : 06/1/12(木) 17:48 -------------------------------------------------------------------------
東條由布子編、渡部昇一解説『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』2005 WACを読んだ。編者や巻末に解説を書いた渡部昇一氏が口を揃えて本書を高く評価していることを、どうしても理解できない。それはこの供述書をいかに読んでも、あの愚かな戦争に踏み切ったことを正当化する論理は見つからないからである。 私が最も衝撃を受けたのは、東條氏が自らの責任を認めるのはあくまで「敗戦」に対してであって、「開戦」に対してではないことであった。東條氏はもっともらしく「敗戦の責任」と言うが、そもそもこの戦争は初めから負けるべくして負けたのではなかったか。たしかに開戦当初、いくつかの目立った戦果が挙がったことは事実だ。しかしそれは長く続くことはなく、開戦翌年の6月にはミッドウェーで敗れ、さらに年末にはガダルカナルの撤退が決まった。力を発揮し始めた米軍は、その恐るべき底力を発揮し、瞬く間に日本は本土とその周辺に封じ込められてしまった。それからポツダム宣言受諾までの間、サイパン、沖縄、あるいは本州大都市の空襲など、多くの一般市民を巻き込んだ悲劇が繰り返された。 東條氏はさかんにこの戦争を「自衛戦」であったと強調し、編者も渡部氏もそのことを唯一の拠り所にしているが、それにしてはその戦争準備に至る過程はあまりにお粗末だったのではないか。また、東條氏は東京裁判で問題視された「共同謀議」がなかったことを立証すべく懸命であり、渡部氏はこれをもって 「『共同謀議』『平和に対する罪』といった『戦争犯罪』を犯していないと喝破している」(P.250) とまであげつらうが、それは換言すれば、当時の日本にいかに準備が不足していたかを如実に示すことに他ならない。永年手こずってきた中国に加えて米英さらにはオランダをも相手に戦争をするという、有史以来最大の難事に乗り出すにしてはあまりに無手勝流であり、追い詰められてまさに窮鼠猫を噛むように超大国に刃向かったに過ぎないのである。それは多数の国民を抱え、長い歴史を持った国家・日本を担う為政者としては、あまりに無思慮、無定見であり、しかも敵を知らなかったばかりではなく、自らの真の力も分かっていなかったのではないか。 だから東條氏が本当に自らの責任を感じていたのであれば、それは「負けた」ことではなく、「開戦」したことに感じるべきなのである。勿論あのとき、東條氏1人では「開戦」を阻止できなかったであろう。しかしだからといって彼が「開戦」へ駒を進めた1人であったことは否定できない。編者は 「すべてはこの『自衛戦争をしたのであります』という一行が鍵を握っている」(p.6) と言うが、本当に国と国民を守るための自衛なら、そのための万全の備えをすべきなのであり、開戦直前においてすら 「日本の対米英戦に対する準備は応急的のもの」(p.95) であり、しかも 「対米英戦は確実なる屈敵手段なきを以て、結局長期戦となる算が多い」 にもかかわらず 「今日において数年後の確算の有無を断ずること困難」(以上、p.126) というのだから、要するに支離滅裂なのである。こんな状態で開戦して、よくも「『敗戦』に責任がある」などと言えたものである。 私には、編者と異なり、これを読んで 「『誇り』と『勇気』が湧いてきます」(p.6) などということは決してないのである。 |
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