Page 140 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼火事と喧嘩と、掲示板 遍巳亭 05/5/16(月) 23:12 ┣Re(1):火事と喧嘩と、掲示板 柚子 05/5/17(火) 0:41 ┗Re(1):火事と喧嘩と、掲示板/鬼神を語らぬ儒教 とうろう 05/5/17(火) 9:42 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 火事と喧嘩と、掲示板 ■名前 : 遍巳亭 ■日付 : 05/5/16(月) 23:12 -------------------------------------------------------------------------
とうろうさん 続けて投稿をしようとしたところ、「50制限」のためできません。 「新規」で投稿をします。 さて、弊疑問について流水さん、柚子さんからもレスをいただきました。ありがとうございました。 皆様のご投稿からこの数日思ってきたことを、腹蔵無く述べたく思います。 今後お返事ができない言い訳に代えまして、このところ思うところがありまして、立つ鳥後を、のマナーには反しますが、またしばらくの間老人党掲示板から、小生の常としておそらく次第にROMからも離れるつもりです。 老人党からは離れません。小生の内では「老人党」と「老人党掲示板」は同じものではありません。老人党は不都合があれば、それまでの経験をいかして新たに掲示板をつくればいいだけのことだと、小生はそう考えています。 かつてどなたかも同様の表現をされていましたが「モラル」の問題、だんだんと「痛く」なってきています。現掲示板の問題は「モラル」の問題である。小生はそう考えます。 さて、 火事と喧嘩は江戸の華といいます。火事と喧嘩を遠巻きにみるのは楽しいでしょうが、遠巻きに見る人でその場に加わろうとする人は少ないだろうと思います。そうすると当事者たちだけの場になってしまう。書き込めない環境がつくられていく。これが一番、つまり場が荒れる、場に「銃(比喩として)」を持ち出すということは恐ろしくて書き込めない環境ができしまう、ということです。 書き込めない場、老人党掲示板が多くの人にとって書き込みにくい場になってしまう、それは何かというと、老人党掲示板が機能を果たさなくなっていく、潰れていくということです。衰退して潰れていく。ですから、老人党を本当に大切に思うというのであれば、みんなが本当に安心して、のほほんと書き込めるような環境を、たとえ言いたいことがあったとしてもそこはグッとこらえてみんなでそのような環境を醸成していくということなのだろうと思います。 乱暴な言葉が飛び交う、暴言が飛び交う、恐ろしい言葉が飛び交う掲示板にあえて書き込もうとするのは結構勇気がいることです。 言論は言論でという枠組みをどこかでもたなければ、それは暴力(=排除)に向かって破れてしまいます。言論掲示板では異なる立場、見解の間で、たとえ腹が立っていくら言いたいことがあったとしても、言論の枠組みは破らない、事実には事実で、論理には論理で、という。 なにげない静かな言葉の方が訴える力は強いです。ベートーベンの「戦争交響曲」と「第三(英雄)」の違いなど。 のどかな、のほほんとした、それでいてピリリと辛く皮肉な掲示板の趣が「老人党」にはふさわしいという思いは変わりません。 ありがとうございました。 |
遍巳亭 様 私のレスをお読みいただいていたようで、どうもありがとうございました。 私も少しずつ、この掲示板を見ることはやめようと迷っておりました。 今日は運良く、多分最後の遍巳亭様の書き込みをみつけました。 最近、言葉の意味について考えています。 言葉は使い方によっては、無意味などころか、人間の心を蝕むものです。 これからは余計な言葉を控えて、生きた言葉を使って現実を生きていきたいと思います。これも言葉で書くように簡単なことではありませんので、時間はかかると思います。 この掲示板の中から、私にとって意味ある書き込みに出会えたことは幸いでした。 失礼いたしました。 |
▼遍巳亭さん:おはようございます。 もはや本掲示板には遊ばれない由少し残念に思います。 「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ 遊ぶこどもの声きけば わが身さえこそ揺るがるれ」(梁塵秘抄?詩も確かではありませんが)まぁヒトは遊ぶ為に生まれて来たようなものかも知れないと感じます。 レス有難うございました。遍巳亭さんのレスに即して、長くなりますが、少し、私の想いを敷衍します(お目通し頂ければ幸いなのですが・・・)。 今朝の天声人語に、ルーマニアの詩人、エミネスクの詩の一節が引用されていました(「世界名詩集大成」平凡社)。 「天気がよかろうと、わるかろうと、ドナウ河の流れは同じ。 ただ、定め無き人間のみが、地上をさまよい歩くのです」 初めて知った詩人であり、詩ですが、私は、ここに「自然の絶対性」と、自然の上に発生し、進化してきた、生命あるいは「ヒトの相対性」を感じました(天声人語氏は、やや、表面的に、語面(ごずら)だけを捉えておられるように感じましたが)。 と同時に、自然の「無目的性」と「己の存在に目的を求めて止まないヒト」との対比も感じました。 「鬼神を語らぬ儒教」は、多分「殺されるよりは殺す」という「ヒト社会あるいは生命社会」の「ルール・掟」に忠実なのだと思います。何故なら、我々はこの社会に生きていてこそ「人間」であることは絶対の事実です。また、「モラル」はヒトが形成してきた知恵の結晶(「ヒト社会を存続させる」ための)とも思います。 しかし、私は、自分も含めて「ヒト」は相対的存在であり、かつ、「自然は無目的」と考え、ヒト社会は、自然の上に相対的に存在するものに過ぎず、また、個々のヒトも相対的存在と考えます。 このような観点から、人が作ってきた「モラル」も、謂わば、相対的なものであるとも考えられます。従って、私には、「殺されるより殺す」と「ヒトのモラルの大事」とはやや矛盾を孕むような気がします(自然の絶対、生命(集合としての)の絶対を想うからです)。 「殺されるより殺す」意識が、眼には眼を、石には石を持って、矢には矢を、銃には銃を、大砲には大砲を、核には核を、という連鎖を生んできたのではないでしょうか。 「殺されるよりは殺す」と想っても、ある意味狂気に駆られたヒトが核爆弾を打ち込んできたら、個々のヒトに抗(あらが)う術(すべ)があるのでしょうか。 仮令(たとえ)比喩でも「銃」というような言葉は見たくない、 >・・・事実には事実で、論理には論理で、という。なにげない静かな言葉の方が訴える力は強いです。ベートーベンの「戦争交響曲」と「第三(英雄)」の違いなど。のどかな、のほほんとした、それでいてピリリと辛く皮肉な掲示板の趣が「老人党」にはふさわしいという思いは変わりません。 と、仰ることはよく理解できますが、少し、「事実・論理」を見る視野を、この老人党掲示板、日本あるいは「ヒト社会」という限られたヒトレベルの場から、ヒトを含む自然社会、地球、宇宙に向け、ある意味で「鬼神を語る」ことも必要かと、私は考えるものです。 なお、ここで私は「鬼神」を儒教の言う「神、仏、霊などというヒトが想像し、創造した超越的人格的存在」を言っているのではありません、ヒトという相対的存在を超えたもの(絶対的存在?)を言っております。 誠に失礼を申しました。 どうか、お元気に、ご自愛の上お過ごしください。 |