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 ▼懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  流水 06/2/2(木) 14:34
   ┣Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(2)  流水 06/2/2(木) 14:38
   ┣Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(3)  流水 06/2/2(木) 14:43
   ┣Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(4)  流水 06/2/2(木) 14:45
   ┣Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(5)  流水 06/2/2(木) 14:46
   ┣Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  流水 06/2/2(木) 15:39
   ┃  ┗Re(2):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  石頭の息子 06/2/2(木) 16:42
   ┃     ┗Re(3):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  流水 06/2/2(木) 18:09
   ┃        ┗Re(4):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  石頭の息子 06/2/2(木) 21:28
   ┃           ┣Re(5):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  山本春彦 06/2/2(木) 23:05
   ┃           ┃  ┗Re(6):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  流水 06/2/3(金) 15:13
   ┃           ┗Re(5):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  安本単三 06/2/3(金) 12:58
   ┃              ┣Re(6):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  流水 06/2/3(金) 14:58
   ┃              ┗Re(6):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  石頭の息子 06/2/5(日) 0:46
   ┣Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  あぶさん 06/2/2(木) 15:43
   ┃  ┗Re(2):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  流水 06/2/2(木) 16:55
   ┃     ┣Re(3):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  あぶさん 06/2/2(木) 17:09
   ┃     ┗懺悔の値打ちもないの4番  あぶさん 06/2/2(木) 17:13
   ┣Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ウミサチヒコ 06/2/2(木) 17:59
   ┃  ┗Re(2):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  流水 06/2/2(木) 18:20
   ┃     ┗Re(4):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  流水 06/2/2(木) 22:45
   ┃        ┗Re(5):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  あぶさん 06/2/2(木) 23:38
   ┣Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  石頭の息子 06/2/5(日) 0:15
   ┃  ┗Re(2):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  流水 06/2/5(日) 14:37
   ┃     ┣Re(3):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ウミサチヒコ 06/2/5(日) 19:02
   ┃     ┃  ┗Re(4):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  流水 06/2/6(月) 12:09
   ┃     ┃     ┗Re(5):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ウミサチヒコ 06/2/6(月) 13:26
   ┃     ┃        ┣Re(6):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ウミサチヒコ 06/2/6(月) 13:50
   ┃     ┃        ┗Re(6):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  流水 06/2/6(月) 16:39
   ┃     ┃           ┣Re(7):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ウミサチヒコ 06/2/6(月) 17:27
   ┃     ┃           ┗常識とは何か−その1  ステディ ベア 06/2/7(火) 1:36
   ┃     ┃              ┣常識とは何か−その2  ステディ ベア 06/2/7(火) 2:09
   ┃     ┃              ┗Re(1):常識とは何か−その1  流水 06/2/7(火) 11:49
   ┃     ┣Re(3):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ぎみゆら 06/2/6(月) 20:12
   ┃     ┃  ┗Re(4):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  流水 06/2/7(火) 11:30
   ┃     ┗Re(3):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  宮天狗 06/2/7(火) 10:50
   ┃        ┗Re(4):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  流水 06/2/7(火) 11:39
   ┃           ┗菊池寛の『フランダースの犬』  BadBloke 06/2/8(水) 7:15
   ┃              ┗Re(1):菊池寛の『フランダースの犬』  k.satou 06/2/8(水) 7:56
   ┣Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  キタキツネ 06/2/5(日) 17:06
   ┗Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  団塊党 06/2/5(日) 20:33
      ┗Re(2):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  流水 06/2/6(月) 11:48
         ┗Re(3):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  団塊党 06/2/7(火) 22:11

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 ■題名 : 懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)
 ■名前 : 流水
 ■日付 : 06/2/2(木) 14:34
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   著作権法にかからないように配慮して再投稿します。

阿久悠という作詞家がいる。もちろん、ペンネームである。
”悪友”からとったと本人が証言しているのだからそうだろう。
何か高尚な意味を期待していたファンにとっては、拍子抜けするほど簡単な類推だが、
ここに阿久悠という戦後最高の作詞家の真骨頂がある。

「あれは8月暑い夜/拗ねて十九を超えた頃/細いナイフを光らせて/憎い男を待っていた/愛というのじゃないけれど/私は棄てられ辛かった」

わたしが:阿久悠という作詞家を意識した最初の作品である。
60年安保世代の挫折の歌として、「アカシヤの雨に打たれて」がよく知られているが、70年世代の歌としてはこの歌と梶芽衣子の「怨み節」が双璧だろう。「怨念」という言葉が流行った時代である。
西田佐知子の「アカシヤの雨に打たれて」は、60年安保世代の感性をよく物語っている。
非常に理知的で上品で、如何にも若者の理想主義が挫折した後の無力感、脱力感が伝わってくる。挫折感は本物であろうが、その挫折感の表現自体が昇華されている。
しかも歌の基調になる色が紫。紫は古来よりきわめて高貴な色とされている。

それに比べて、【懺悔の値打ちもない】にしろ【怨み節】にしろ、藤圭子の【新宿の女】をはじめとする演歌(怨歌)にしろ、もっともっとどろどろした人間の情念が歌いこまれている。
ところが、阿久悠の書いたものは、どこか乾いている。藤圭子にしろ北原ミレイにしろ、陰々滅々とした過去の演歌の湿っぽさに比べるとどこか乾いている。この乾き方が時代の影響だと考えられる。
この乾き方の差異に60年と70年代の学生運動の到達した地平の違いがある。

しかし、わたしはそんな政治的時代的なことより、彼のフレーズにショックを受けた。
「あれは8月暑い夜/拗ねて十九を超えた頃/細いナイフを光らせて/憎い男を待っていた」
一体このフレーズは何なんだ。

「拗ねて十九を超えた頃」「細いナイフを光らせて/憎い男を待っていた」
 このフレーズを聞いただけで、この少女の青春(人生)が一瞬にして分かる。汗で光っている二の腕。髪の毛がへばりついた額。薄暗がりの中で一人思いつめ、目だけが光っている顔。
汗でぬれているタンクトップのTシャツ。一瞬にして情景が浮かび上がる。
「細いナイフを光らせて/憎い男を待っていた」
こんなフレーズを書いた人間はいない。このように若い女の子の感情の起伏を書いた人間はいない。
一体どんな奴がこんなフレーズを書いたんだ。この時代の切り取り方は尋常ではない。
これ以降、阿久悠という作詞家は、わたしの中では気になる存在になっていった。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(2)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/2(木) 14:38  -------------------------------------------------------------------------
   阿久悠の本質を一言で書くのは難しい。
♪私の名前はカルメンです♪

♪あなたも狼に変りますか♪

♪あなたに抱かれてわたしは蝶になる♪

♪ペッパー警部 邪魔をしないで♪

♪噂を信じちゃいけないよ♪

50代以上の人の大半は、このフレーズを見たとたん何の歌か、誰の歌かおおよそ見当がつくだろう。
この意表をついた書き出し、漫才や落語で言う「つかみ」の見事さ。これが阿久悠の凄さの第一である。

あべ静江 (みずいろの手紙 )、石川さゆり (津軽海峡冬景色 )、石野真子 (狼なんか怖くない) 五木ひろし(契り )五木ひろし&木の実ナナ (居酒屋 )岩崎宏美 ( 思秋期) 大橋純子 (たそがれマイ・ラブ) 尾崎紀世彦 (また逢う日まで) 河島英五 (時代おくれ )郷ひろみ&樹木希林 (林檎殺人事件 )小林旭 (熱き心に )堺正章 (街の灯 )桜田淳子 (私の青い鳥) 沢田研二 (時の過ぎゆくままに ・勝手にしやがれ・ 憎みきれないろくでなし ・カサブランカ・ダンディ )ズー・ニー・ヴー (白いサンゴ礁 )杉田かおる (鳥の詩 )ザ・タイガース (色つきの女でいてくれよ) チェリッシュ (若草の髪かざり) 新沼謙治 (嫁に来ないか) 西田敏行 (もしもピアノが弾けたなら )
ピンクレディー (ペッパー警部 ・S.O.S・ カルメン'77 ・渚のシンドバッド・ ウォンテッド(指名手配) UFO ・サウスポー ・モンスター ・・)フィンガー5 (恋のダイヤル6700) ペドロ&カプリシャス (ジョニーへの伝言 ・五番街のマリー )都はるみ (北の宿から )森進一 (北の蛍 )森田公一とトップギャラン (青春時代 )森山加代子 (白い蝶のサンバ )八代亜紀 (雨の慕情 ・舟唄 )山本リンダ (どうにもとまらない )和田アキ子 (笑って許して ・あの鐘を鳴らすのはあなた )・アニメソング、特撮など (宇宙戦艦ヤマト ・ウルトラマンタロウ )

煩雑を承知で彼が作詞した歌のごく一部を書き出してみた。演歌・ポップス・フォーク。ニューミュージック、CMソングなど、この幅広さには脱帽以外にない。戦後最高の作詞家だと考える由縁である。
これぞプロの作詞家という以外にない。阿久悠は文字通りプロの作詞家だった。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(3)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/2(木) 14:43  -------------------------------------------------------------------------
   さらに阿久悠の作詞は、非常に映画的で情景が一瞬にして浮かび、物語性がある。 
「上野発の夜行列車降りた時から/青森駅は雪の中/北へ帰る人の群れは/誰も無口で/海鳴りだけを聞いている/・・・」
冬の暗い津軽海峡の情景、吹き付ける雪にまみれた青函連絡船の船上、それにもまして凍りつくような心の傷に泣いている女の子の心象風景が一瞬して感得できる。
まさに言葉の紡ぎ人、言葉の魔術師としか言いようがない見事さである。

【津軽海峡冬景色】とか【懺悔の値打ちもない】のフレーズを見ると、阿久悠は如何にも「女歌」の書き手に見えるが、作詞家としての彼の本質は、「男歌」にある。 
次の歌を見て欲しい。

[ 時代遅れ」

「一日二杯の酒を飲み/さかなは特にこだわらず/マイクが来たなら 微笑んで/十八番(おはこ)を一つ 歌うだけ・・・・
目立たぬように /はしゃがぬように/似合わぬことは無理をせず/人の心を見つけつづける/時代おくれの男になりたい」

鬼籍に入った河島英五の歌である。見事に男ではないですか。これは俺のことを歌っている、という多くの男どもの呟きが聞こえるようではないですか。
この歌に託された男の人生の歴史が感得できない人間に政治など語る資格はない。

「勝手にしやがれ」

壁ぎわに寝がえりうって/背中できいている/やっぱりお前は出て行くんだな
・・・・せめて少しはカッコつけさせてくれ/寝たふりしてる間に出て行ってくれ」

「カサブランカ・ダンディー」
しゃべりが過ぎる女の口を/さめたキスでふさぎながら/背中のジッパーつまんでおろす他に何もすることはない
ボギー ボギー /あんたの時代は良かった/男のやせがまん粋に見えたよ
・・・・」

ジュリー(沢田研二)の曲である。男のダンデイズムをこれほど見事に描いた作家はいない。
ジュリーの圧倒的な色気と裏腹に歌の内容は「男」が「男」であり続けることの困難さを
「せめて少しはカッコつけさせてくれ」とか「背中のジッパーつまんでおろす/他に何もすることはない」という言葉で見事に表現している。
このジュリーの色気と「男のダンデイズム表現」の乖離に、戦後民主主義の一つの到達点があると読まなければ、時代と文化とのかかわりなど理解できない。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(4)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/2(木) 14:45  -------------------------------------------------------------------------
   阿久悠が意識している、していないに関わらず、彼はこの歌で「政治」というものの本質を見事に暗示している。
つまり、時代を突き動かすものは、【両性具有の資質】が必要であるということを示唆している。
「カサブランカダンデイ」で「ボギー ボギー あんたの時代はよかった」と書いているのは、「男」が単純に「男」であった時代を指している。

【俺も行くから 君も行け 狭い日本にゃ 住み飽いた・・】 この歌は、戦前、満州浪人の歌としてよく歌われた。この歌に表現されている一種のロマンテイシズムが政治を動かした時代である。
男が単純に「天下国家」を論じたり、「仕事に夢中になる」ことが当然のこととして許された時代を指している。

阿久悠の凄さは、このような単純な男志向が生きられなくなった時代を、見事につかんでいたことにある。
「背中のジッパーつまんでおろす/他に何もすることはない」
彼は、男のダンデイズムが「ジッパーつまんで下ろす」以外に表現できなくなった時代を感じていた。この時代感覚の凄さが他の凡百の作詞家と一線を画している。
現代、雨後のたけのこのように増殖しているネット右翼連中の感性は、時代をボギーの時代に戻そうとするところにある。その意味では、阿久悠の感性に比較しても如何に古色蒼然としているかが分かるというものである。

では、【両性具有の精神】とは何か、
難しい理屈をこねるより、演歌歌手で考えてみよう。
北島三郎という歌手がいる。彼の演歌は、見事に【男歌】である。
「親の血を引く兄弟よりも/固い契りの義兄弟・・・」
この歌詞を歌う彼の歌い方には濁りがない。どこか突き抜けた爽快さがある。この濁りのなさは日本的ロマンテイシズム発露の典型だといってよい。左右を問わず、日本の政治運動はこの【濁りのなさ】を追い求めてきた。一種の【浄めの思想】である。小林秀雄が【様々なる意匠】で指摘したように、思想の意匠は新しくなっていても、その内実はほとんど変っていないのかもしれない。
この【濁りのなさ】こそ日本的男のロマンテイシズムとするならば、北島三郎は、見事に伝統的【男歌】の継承者だといってよい。

森進一という個性的な歌手がいる。彼の歌は、【男歌】のように見えて、【男歌】ではない。
しかし、【女歌】かというとそうでもない。彼の演歌はどこか濁っている。北島三郎のような
突き抜けた爽快さはない。
彼の演歌の特徴は、感情の微妙な揺れにある。この揺れが北島演歌にない、濁りをかもし出している。
他の一つの特徴は、【男歌】を歌いながら、その表情、かもし出す雰囲気が見事に【女】であるという一種の倒錯した世界を演じているところにある。

鹿児島に【よか 稚児たい】という言葉がある。戦国時代には別に不思議でなかった美少年をかわいがる【寵童】という風習をあらわす言葉である。織田信長の寵童趣味は有名だし、徳川家光もそうだったらしい。
これは現代のホモセクシャルとも少し違う。信長もそうであったが、寵童趣味もあったが、普通に女性とも交渉があった。
森蘭丸が一番分かりやすいが、非常な美少年であると同時にきわめて男らしい性格の持ち主だった。彼は、女という性と男という性の両方とも持っていた。
森進一の演歌には、この【寵童】の系譜が感じられる。彼の演歌の濁りや揺れは、そこに要因がある。
そう考えると、上に書いたジュリーの歌う【男歌】の倒錯した世界との共通項が見つかる。

日本武尊が熊襲を征伐する時、女性に扮していたことはよく知られている。同様な話は、中大兄皇子の大化の改新の時にも残っている。曽我兄弟の仇討も女性に扮していた。
西郷隆盛と僧月照の話も有名である。この種の【変性】が、政治という世界の根底にあったこと
がよく分かる。
現代の【政治】の世界を考える時、右派は北島三郎的男歌の感性で政治を考えており、左派は、どうやら【女歌】の感性で考えていると概括できる。
しかし、どちらも、【濁りのなさ】を追い求める姿勢では共通するところがある。極左と極右の連中が、感性的に合い通じるところがある、という話は、よく聞く。
これはどちらも【濁りのなさ】を追い求めるため、どこか突き抜けたところがあるという共通点があるからであろう。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(5)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/2(木) 14:46  -------------------------------------------------------------------------
   日本の差別問題を考える時、平安時代以降の【浄穢の思想】を避けて通ることはできない。
この思想が生まれた背景には、映画【羅生門】で描かれたような餓死者が道端にごろごろ転がっている凄まじい現実があった。この世を【穢土】として感得する現実的基盤があったのである。
だからこそ、あの世(彼岸)を【浄土】として必死に追い求め(欣求浄土)たのであろう。

しかし、よく考えればすぐ分かることだが、道端に転がった死体は腐り、凄まじい死臭を発する。
蛆は湧き、ハエはたかり、犬などに死体は食い散らかされる。
勿論、死者の持ち物は使えるものはすべて持ち去られている。「明日はわが身」の光景が日常の景色として展開されているのである。
こういう日常の中では、死者に対する畏敬の念よりも、死者の穢れを厭う気持ちのほうが先にたつ。
【浄めの思想】とはこのような現実を忘れ去り、打ち消すための方便であったという側面を忘れてはならない。
【濁りのなさ】を追い求める思想は、その背後に必ず上記のような「現実回避ないし現実逃避」の視点が付着している。逆に言えば、濁りがなければないほど、その背後にある欺瞞の度合いは大きいと思う。
わたしたちは、その意味で、【濁りのない思想】はつねに眉に唾つけてみる必要がある。

わたしは、新しい政治は、人間が作り出す現実の「濁り」を掬い取らなければ駄目だと考えている。つまり、【男歌】と【女歌】の両方を兼ね備えた【両性具有】の視点からしか生まれないと思う。
それも森進一的濁りではなくて、沢田研二(ジュリー)的感性から生まれるような予感がする。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/2(木) 15:39  -------------------------------------------------------------------------
   石頭の息子さん、

わたしは、政治を政治として論じることはあまり好きでないのです。そのため、
分かりづらくなっているかもしれません。
【歌は世につれ、世は歌につれ】といいますが、【世は歌につれ】は完全に嘘だと思います。【歌は世につれ】以外にないと思います。
だから、逆にある程度時間が経つと、【歌】を分析することがその時代を分析する
ために非常に大きな武器になることがあります。
「阿久悠」という作詞家は、その武器になりうる存在だと考えています。

「アカシアの雨に打たれて」はわたしも大好きな歌です。とりわけ西田佐知子の声、歌い方が好きでした。特に美声ではないのですが、艶があり潤いのある声、少し鼻にかかった歌い方。そして、首が長く楚々とした容姿。彼女の存在自体が、この曲のイメージを決めた要素が大きいと思います。
また、カラオケで歌いたくなりました。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 石頭の息子  ■日付 : 06/2/2(木) 16:42  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん、

大衆向け日本映画や歌謡曲は軽、薄、と偏った見方をしていました、最近になって昔を思い出す映画や歌謡曲を観るにつけ聴くにつけ、オヤ!と思う事があります。

以前「豚と軍艦」で流水さんの批評を伺って以来大衆映画も世相を反映してると思うようになりました。

先日、阿久悠さんが最近の歌謡曲は言葉が分からない、歌詞が聞き取れない、歌は言葉なのに、のような事を言っていました、その時はそのとうりだと思ったのですが、後の世に今の歌曲に今の世相をみることが出来るでしょうか。

余談ですが、西田佐知子は関口宏さん(同世代)と結婚して引退したのは残念でならない、以後彼女の声は一つのCMソングでしか流れていないのです。ファンでしたから彼女が家庭を大切にしているからだと勝手に納得させてます。

それにしても、流水さんの投稿の後を辿るとき、流水さんの思考の過程や感性を思考するのに時間が掛かります。ほんと粋人さんです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/2(木) 18:09  -------------------------------------------------------------------------
   石頭の息子さん、

歌謡曲とか娯楽映画を見直してもらうのは大歓迎です。
話は変りますが、ウミさんが、アナーキズムについて難しい論争を
していましたね。

わたしは、日本的アナーキズムの原点は、【温泉】とか【銭湯】にあると
考えているのです。
【温泉】はもともと【湯治】の場所です。傷ついた動物や人間たちが、傷を
癒すために入ったのが始まりでした。
平安時代以降の、多くの差別された【病者】(つまり穢れた人とされ差別された人々)がいました。その中には現在のハンセン氏病患者(当時の言葉でいえば、ライ病患者)や瘡病患者が多数いました。
彼らは、そこで病気の治癒を願って湯治したのです。
彼らは自分たちが差別されていることから何とか解放されたい。自分たちの思いを何とかして人々に分かってもらいたいと願っていたはずです。

そのような思いを物語にしたのが、【山椒大夫】とか【しんとく丸】とか【小栗判官】とかいうものなのです。当然、湯治の場所には、多くの「遊芸の民」が集まっていました。彼らは遊芸によって生活の糧を得ているわけですから、物語をさらに面白く洗練させていったわけです。

このようなことが成立するのは、当時の日本人の間に【この世の不幸を代行して引き受ける存在】をつくるという方法があったと考えられるのです。東北の方では乞食を大切に扱っていたという伝統があります。
乞食人というのは【ほかいびと】とよみ、祝歌(ほぎうた)を歌う人というのが原義なのです。つまり、祝人(ほいと)というわけです。
祝人というのは、常世の果てからやってくる精神的な宝物を提示してくれる人という意があったのです。
これはイスラム教にも共通する考え方なのですが、施しをするものが幸いを受ける。逆に、施しをするチャンスを与えている人間が、乞食だという考え方なのです。

これをよく考えると、肉体的ハンデキャップを背負っている人(瞽女・琵琶法師・いたこなど)は生業に就けないので、それに喜捨することにより生活ができるようにしてあげる、という社会保障制度の代行のようなものだと考えられます。
これは大変人にやさしい考え方なのです。こういうアナーキーなものが昔の山里などにはあったのです。

つまり【温泉】とか【銭湯】という場所は、現世の意匠を捨て去り裸の人間が集うのです。その中でお互いの苦しみを共感し、それを物語にし、日本中に広める。それを受け入れ、ハンデイキャップを背負いながら生きている人を、自分の代わりに業苦を背負っている人と考え、彼らを精神的な宝物を与えてくれる人として受け入れるのです。
勝ち組、負け組み、などという無粋な言葉で行動している連中などより、何と豊かな精神の持ち主なのだろうか。

わたしは、歌謡曲、流行り歌、大衆映画などには、この豊かな日本民衆の精神性が溢れていると考えているのです。 

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 石頭の息子  ■日付 : 06/2/2(木) 21:28  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん、

話がどんどん横に広がっていくようですが、流水さんのアナーキストの原点が温泉、銭湯にあるのならば、庶民(民衆)はアナーキストであると言えるのでしょうか、それとも民を縛る為政者が必要でない社会が理想とも言えるのかもしれません。

その民草からの観点については、いつぞやお話したかと思いますが、文明、文化を教科書などで習うのは王侯貴族や権力者あるいは分限者(讃岐ではゲンシャと言いますが)などです、十二単は貴族の着物です、民は木の皮を縒ったものや麻などの簡衣であったはずです、武家社会の前期は屯田兵で質素であったろうし、後期は高禄武家や富裕商家、庄屋の文芸は爛熟していたろうが、それを支える農民はいか程の生活であったか、事実戦前までの東北地方の小作人は押入れのような囲いの中に藁をいれ、その中で寝ていたと文献で知りました。

文明、文化の記録はその粋が残るが、それを支えた民の記録は多くありません、然しながら何時の時代にもその民が絶対多数であったのです。

何時の時代においても民草からの視点が大切であり、忘れてはならないと思うしだいです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 山本春彦 <halyama@sepia.ocn.ne.jp>  ■日付 : 06/2/2(木) 23:05  ■Web : http://www.halenter.co,jp  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん

すごいですね。多くの関連投稿がよせられて。
たしかにわれわれ老人年代の青春期(いや初老期)の懐かしいうたばかり。

でも私は別れのブルース派。あれは横浜の港での歌だときいたが、私には私が関係した港のさまが浮かんでくる。高尾、シンガポール、上海、広東。土地土地の女性とのかかわりがもてる年でもなく、そんな時代でもなかったが。

明日もわからぬ青年にとって、持つことの出来ない夢でありながら、その夢の中に青春をわずかながらもいだきつずけた悲しい時代。そんなのは軟弱といわれた時代にこっそり軟弱な自分をいとおしく思った時代。

もう2度とそんな時代にはさせたくない思い。今の若い人は素直に心を打ち明けられる世が続くことを祈るが、すぐバツイチだ、ドタキャンだはいかがなものか。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(6):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/3(金) 15:13  -------------------------------------------------------------------------
   ▼山本春彦さん:
●でも私は別れのブルース派。あれは横浜の港での歌だときいたが、私には私が関係した港のさまが浮かんでくる。高尾、シンガポール、上海、広東。土地土地の女性とのかかわりがもてる年でもなく、そんな時代でもなかったが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
淡谷のりこですか。
「腕に錨の刺青彫って・・」
わたしもよく歌いました。
わたしが彼女を高く評価しているのは、戦争中隣組の指導者が彼女のところに来て、彼女の化粧・服装についてもっと地味にしろ(ありていにいえば、化粧せず、もんぺをはけ)といったそうです。そのとき彼女は毅然として、「わたしは歌手です。歌手は人に夢をうる商売。そんなことはできません」と答えたそうです。
わたしはこの彼女の気骨を高く評価します。戦争中なだれをうって戦争賛美をした連中に比べれば、彼女の凛とした姿勢がまぶしく感じられます。

●明日もわからぬ青年にとって、持つことの出来ない夢でありながら、その夢の中に青春をわずかながらもいだきつずけた悲しい時代。そんなのは軟弱といわれた時代にこっそり軟弱な自分をいとおしく思った時代。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
軟弱ですか。そういう時代だったのですね。人間は多種多様です。ある詩人はこう歌っています。「みんな違って みんないい」
人を一色に染めることを強制する時代にだけは、なりたくないですね。
>

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 安本単三  ■日付 : 06/2/3(金) 12:58  -------------------------------------------------------------------------
   ▼石頭の息子さん:
>流水さん、
>
>話がどんどん横に広がっていくようですが、流水さんのアナーキストの原点が温泉、銭湯にあるのならば、庶民(民衆)はアナーキストであると言えるのでしょうか、それとも民を縛る為政者が必要でない社会が理想とも言えるのかもしれません。
>
>文明、文化の記録はその粋が残るが、それを支えた民の記録は多くありません、然しながら何時の時代にもその民が絶対多数であったのです。
>
>何時の時代においても民草からの視点が大切であり、忘れてはならないと思うしだいです。

私は以前、戦国物が結構好きでした。
英雄達の戦いぶりも好きでした。しかし、民草からの視点に立てば、
斬り殺された足軽の家族はどうなんだろうとか、
京の都に火が放たれた・・おいおいそう簡単に言ってくれるな、今で言えば、民衆に対する無差別攻撃じゃないかとか、
鎧甲の人の背後の民衆に目がいくようになったのです。
それでNHKの大河ドラマも暇つぶしに見ています。

無政府生活者にロマ人(ジプシー)がいます。
彼らの小節の利いたフラメンコの唄が好きなのです。
その中に、母さんまでも捨てたのに(捨てて女のもとに走ったがそれも振られた)=愛の無一文になった)・・・・という有名な曲があります。
Mi mare abandoneで検索かけたら、今でも人気があるようです。
30代のとき聞いて、心がえぐられました。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(6):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/3(金) 14:58  -------------------------------------------------------------------------
   安本さん、
仰せの通りジプシー的自由は、一種のアナーキズムだと思います。
彼らには、【国境】という概念が存在しません。
あるジプシー出身の芸術家が、【敵に攻められたらどうする】とたずねられた時、即座に【逃げる】と答えたそうですが、よく考えるとこの答えは凄いと思います。
また彼はこうも答えたそうです。「ジプシーは芸術家を誇る。軍人と思想家を一人も出さないことを誇る。」「軍人は人を殺し、思想家は分裂を持ち込む」

【逃げる】ということは、【全てを捨てる】ということです。【全てを捨てる】ということは、所有にこだわらない、ということです。この時代に、所有にこだわらない民族がいること自体奇跡的です。
流浪の民としての歴史的蓄積が、このようなことを可能にするのかもしれません。

実はわたしも数年前、 【ジプシー的自由ー国家の彼方に屹立する人々】という
小論を書いています。
その中でチターの話を書きました。アントン・カラスの【第三の男】で奏でられた【ハリーライムのテーマ】を記憶されていると思いますが、このカラスはジプシーだったそうです。
軍司貞則著「滅びのチター師」によれば、戦後のウイーン的なるものを伝える代表として、カラスの「ハリー・ライムのテーマ」を挙げると、ウイーン市民はあまり良い顔をしないそうです。実は、カラスの職業は、音楽家でなく、「メタル・ワーカー」とされています。メタル・ワーカーとは、蹄鉄・錠前・鎖・馬具などをつくる鍛冶屋のことです。ジプシーに多い職業は、音楽家・舞踊家・鍛冶屋・熊使い・古物商といわれています。しかも、「カラス」という姓も、カラ・カロ・カラスコとともに【黒い】という意味のジプシーの賎称だそうです。カラスだけではなく、サラサーテの「ツゴイネルワイゼン」などもそうです。ツイゴイネルとは、ドイツ語でジプシーという意味です。

そして、あまり語られてはいませんが、ナチスドイツに殺されたのは何もユダヤ人だけではなく、多くのジプシーが殺されています。ジプシー虐殺は諸説ありますが、定説では約50万人前後とされているようです。

つまり、「絶対的自由」を追い求めるということは、国家権力にとっては最も危険な存在だということなのでしょう。ジプシー的自由の代償はこのように高くついたのです。
「アナーキズム」が国家権力から危険視されるのは、ジプシー的自由が秩序の根幹を揺るがしかねないということを本能的に察知しているからなのだと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(6):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 石頭の息子  ■日付 : 06/2/5(日) 0:46  -------------------------------------------------------------------------
   安本単三さん、

土に働く者はアナーキストではないだろうか、戦国時代の前も、後にも戦は武士が中心であった、食い扶持のない農民は戦には雑兵として戦ったが、一度形勢不利となるとすたこら郷に逃げか帰った、戦はあくまで武士や為政者のものであり、農民には為政者が変わるだけのことであったろう。

土に働く者は土から離れない、「一生懸命」は農民のことだそうです、土と共に生きて働いてそれで平和であったはずだと思えます。開墾、土地改良、治山治水は武士がやったような資料がありますが、それは為政者が生産性向上でやったことで、農民自身でもやっています。

土に働く者は平穏を好みます、田畑の荒れる所業は農民には命取りになります、土を耕し、作物の世話をして、豊作であれば祭りも祝いもあります、それで幸せなのです、山の向こうに何があるのか知らないで一生を土に生きるのです。

土に働く者には為政者は必要ないのであれは、立派なアナーキストです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : あぶさん  ■日付 : 06/2/2(木) 15:43  -------------------------------------------------------------------------
   はじめまして。
わたしも阿久悠の作詞能力(といっていいかどうか,物事のとらえ方・見方と言葉の使い方かな)には,前から尊敬していました。(作曲は筒美京平が好きですが)
「懺悔の値打ちもない」の詞は衝撃的で,同様の意見をもっています。
また,彼の詞が時代を色濃く反映しているというのも賛成です。
詞そのものをのせてはいけないというルールなので,
詞を見ながら読めなくなったのは残念ですが,面白い考察であると感じました。
それにしても,歌謡曲にくわしいですね。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/2(木) 16:55  -------------------------------------------------------------------------
   あぶさん
はじめまして。こちらこそよろしくお願いいたします。

●詞そのものをのせてはいけないというルールなので,
>詞を見ながら読めなくなったのは残念ですが,面白い考察であると感じました。
>それにしても,歌謡曲にくわしいですね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わたしも残念です。彼の詩は、物語性があり、展開力に富んでいます。
一番から全部読んでもらえれば、彼の凄さがさらによく理解してもらえると
思って引用したのですが、著作権法に触れるということなので、割愛せざるを
得ませんでした。

歌謡曲に詳しくはないのですが、わたしは歴史の表面に現れない民草の思想に
興味があるのです。
ひたすら明日の飯の心配をし、自分の思いを【語る】という行為でしか表現しない
普通の人々の思想にどこまで【想像の錘】を下ろすことができるのか、ということに関心があるのです。
その重要な媒体として、【歌謡曲】とか【流行り歌】があると考えています。
かって乞食節(差別用語であることは承知していますが、歴史用語として使用しているのでご容赦)として蔑まれた演歌の世界などにこそ、重要な思想の養分が
あると考えているのです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : あぶさん  ■日付 : 06/2/2(木) 17:09  -------------------------------------------------------------------------
   確かに演歌などは,そのときに庶民が感じたことを表しているからこそ,
ヒットするのでしょうし,民草の思いが凝縮したものなのでしょうね。
「昭和枯れススキ」が流行りましたが,あれも昭和元禄を終えて,
ドルショック,オイルショックで不況に陥ったときだったように思います。

歌を通した民俗学のようで,興味が湧きました。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 懺悔の値打ちもないの4番  ■名前 : あぶさん  ■日付 : 06/2/2(木) 17:13  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:

>わたしも残念です。彼の詩は、物語性があり、展開力に富んでいます。

まったくそうですね。
4番の「みんなが祈りをするころに 自分は懺悔の値打ちもないが 話したかった」

たぶん,男を刺して何年か臭い飯を食った女の,
過去を痛烈に描き出していますよね。

それは,昔意味もなく男にチヤホヤされて,愛されたいとだけ思うようになった,
哀しい末路のように聞こえます。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : ウミサチヒコ <movement@me.scn-net.ne.jp>  ■日付 : 06/2/2(木) 17:59  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:
>著作権法にかからないように配慮して再投稿します。

流水さん、ご無沙汰です。流水さん、なんで削除に応じたりするんですか!?
個人情報保護法もそうですが、著作権法にしても、みんなしてこうやって「自主規制」して、自分の首をしめっこしていることに気付かないんでしょうかね。嘆かわしいというか、バカというか、低能というか、それ以上の言葉が見当たりません、いやはやイヤハヤです。
歌詞を引用するどこが問題なのでしょう。たぶん、(法があるから)、(恐れがあるから)、くらいの答えしか来ないでしょう。情けない話です。歌詞を引用して、だれが損害を受けるのでしょう。(おおいい歌だ、聴きなおして見ようかな、、、それでまた売上も上がろうというもの、名声も上がろうというもの、何か逆行しているとしか思えないのですが。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/2(木) 18:20  -------------------------------------------------------------------------
   ウミさん、
仰せの通りです。
ただ、どこが著作権法にひっかかるのかという不毛な論争をするのが
面倒なだけです。
それがよくないといわれればその通りですが、現在そういう不毛な論争を
する精神的余裕がないので、削除に応じて投稿しなおしたのです。

それはそれとして、石頭の息子さんへのレスの中で、日本的アナーキズムの
考え方について書いておきました。
一読してもらって、感想を聞かせてください。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/2(木) 22:45  -------------------------------------------------------------------------
   以下の投稿は著作権法違反のため、部分削除の上、再投稿しました。著作権は、作詞者の権利を守るためのものです。(管理スタッフ)
================
【72691】Re(1):懺悔の値打ちもないの4番 流水 - 06/2/2(木) 19:21 -

あぶさんへ
【懺悔の値打ちもない】の4番は以下の通りです。
-----------------
部分削除
-----------------
わたしがこの中で一番好きなフレーズは、【街にゆらゆら灯り点き】というところです。
「ゆらゆら」という言葉から、彼女の精神状態が想像できます。
過去の思い出を引きずりながら一人町を彷徨い歩いているとき(おそらく水商売で生きているのでしょう)道路の水溜りに灯り(これは決して明かりではいけません)が映るのです。
水の揺れに呼応して、町の灯りも揺れている。まるで、彼女の今の精神状態を象徴しているかのようです。
普通の人生を歩んでいれば、今頃は子供の食事を用意して、夫の帰りを待っているはず。家族団欒の幸せを持っていたはず。
この思いが、最後の【わたしは話して見たかった】につながるのでしょう。

きわめて通俗的ですが、この通俗性こそが、阿久悠の凄さなのだと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : あぶさん  ■日付 : 06/2/2(木) 23:38  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:

>わたしがこの中で一番好きなフレーズは、【街にゆらゆら灯り点き】というところです。
> 「ゆらゆら」という言葉から、彼女の精神状態が想像できます。
>過去の思い出を引きずりながら一人町を彷徨い歩いているとき(おそらく水商売で生きているのでしょう)道路の水溜りに灯り(これは決して明かりではいけません)が映るのです。
>水の揺れに呼応して、町の灯りも揺れている。まるで、彼女の今の精神状態を象徴しているかのようです。
>普通の人生を歩んでいれば、今頃は子供の食事を用意して、夫の帰りを待っているはず。家族団欒の幸せを持っていたはず。
>この思いが、最後の【わたしは話して見たかった】につながるのでしょう。

そのとおりですね。「ゆらゆら」とはすごい表現です。
ふつう,明かりがともるときの言葉ではないですものね。
そこに作詞者の意図があるのは明らかですね。
その明かりの中に入れない自分というものを,すごく浮きだせていますね。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 石頭の息子  ■日付 : 06/2/5(日) 0:15  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん、

小学校の大大先輩に「菊池寛」がいます、先輩と言っても時代違いますし、何の関係もありませんが、その菊池寛は学生時代は学業をサボっての芝居狂いだったそうです。

今で言えば「映画狂い」でしょうか、この芝居、映画、を沢山観ると感性が豊かになると聞いたことがあります、勿論、小説や歌曲も同じなんだと思いますが。

タレントに小堺一機さんて居ますね、彼は映画狂いであったそうです、そのせいか彼はなかなかのものしりさんで、機知に富んでいます、一機じゃなくて多機です。

永井荷風はストリップ小屋のお姉さん達と懇意であったようです、良く新聞でみました、お姉さん方にかこまれて悦にいっているロイド眼鏡でした、荷風の作風は好きなんです。

俗に浅草「ロック」のストリップの前座をやっていたコメディアンは後に大成した人が多い、名前を上げるまでもないでしょうが、今では彼らも年を取っていますが円熟の芸を見せてくれます、比較するのも失礼にあたりますが、今時のポット出のにわかタレントとは雲泥の差があります。

中には例外もあるようで、子供に本を読めと口を酸っぱくして本好きにしましたが、確かに乱読していたようですが、その成果もなく凡庸な人生を歩んでいるようです。

確かに映画狂い、芝居狂い、は感性が豊かになるようですが、やはり素養のない者には単なる酔狂なのかもしれません。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/5(日) 14:37  -------------------------------------------------------------------------
   石頭の息子さん、
菊池寛とは懐かしいですね。
わたしは「道徳の」の授業で、「恩讐の彼方に」を題材にしたことが
あります。有名な「青の洞門」を題材にした短編です。
九州耶馬渓山国川のほとりにある「青の洞門」掘削にまつわる土地の実話を
もとに創作された話です。

主人公は市九郎(後に僧了海)。
彼は奉公していた主人の愛妾と恋に落ちます。その恋をとがめられ、浅草田原町の旗本を殺して逃げます。
ところが人殺しをしてまで一緒になった女が酷かった。とにかく欲の皮が突っ張っており、とても一緒に生活することができなくなります。市九郎は女の強欲さに耐えられなくなるのですが 同時に自分の犯した罪の報いだとも考えるのです。
そのため、贖罪の旅にでるのです。

そして山国川にさしかかり、多くの人が命を落とした難所羅漢寺詣での断崖の道をみました。
そして、自らの罪の贖罪と思い、絶壁をくりぬくことを思い付くのです。
約三十年間毎日毎日のみを振るい、ひたすら掘り進め、ついにトンネルを完成させたのです。完成したトンネルのその場に「父の敵」と了海をねらう旗本の長男も一緒に鑿を振るっていました。

わたしはこの話を題材に「人間の罪と罰」「贖罪と許し」というテーマで、授業をしました。優秀な子供たちは、この話から親鸞上人の有名な「悪人正機説」までを考えていました。わたしにとっては思いで深い授業です。

同種のテーマを題材にした授業では、太宰治の「走れメロス」と「駆け込み訴え」を取り上げたこともあります。「友情と信頼」と「裏切り」(※駆け込み訴えは、ユダが主人公です)をテーマにしたのですが、子供たちは本当に真剣に考えていました。
とにかく、どちらの授業でも「子供たちの日常」を掘り下げて、そこから作家のテーマに迫らせる手法をとったのです。ともすれば、奇麗事の徳目羅列に終わりがちな授業を、子供たちの意識変容に役立てようという意図で、そういう手法をとりました。
どちらの授業もある程度成功したのですが、成功の要因の大半は「原作の力」だと思います。
圧倒的な原作の力があるからこそ、わたしの意図も成功したので、原作の力が弱かったら、失敗に終わったと思います。
その意味で、「菊池寛」はわたしにとっては、感謝に耐えない作家の一人です。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : ウミサチヒコ <movement@me.scn-net.ne.jp>  ■日付 : 06/2/5(日) 19:02  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:
>石頭の息子さん、
>菊池寛とは懐かしいですね。
>わたしは「道徳の」の授業で、「恩讐の彼方に」を題材にしたことが
>あります。有名な「青の洞門」を題材にした短編です。
>九州耶馬渓山国川のほとりにある「青の洞門」掘削にまつわる土地の実話を
>もとに創作された話です。
>
>主人公は市九郎(後に僧了海)。
>彼は奉公していた主人の愛妾と恋に落ちます。その恋をとがめられ、浅草田原町の旗本を殺して逃げます。
>ところが人殺しをしてまで一緒になった女が酷かった。とにかく欲の皮が突っ張っており、とても一緒に生活することができなくなります。市九郎は女の強欲さに耐えられなくなるのですが 同時に自分の犯した罪の報いだとも考えるのです。
>そのため、贖罪の旅にでるのです。
>
>そして山国川にさしかかり、多くの人が命を落とした難所羅漢寺詣での断崖の道をみました。
>そして、自らの罪の贖罪と思い、絶壁をくりぬくことを思い付くのです。
>約三十年間毎日毎日のみを振るい、ひたすら掘り進め、ついにトンネルを完成させたのです。完成したトンネルのその場に「父の敵」と了海をねらう旗本の長男も一緒に鑿を振るっていました。

私の感動した数少ない小説の一つです。岩窟王のパクリ、という説もあるように聞きますが、この小説の価値を少しも落とすものではないところが、またすごいではありませんか。著作権、などというものを吹っ飛ばしている、すばらしい作品です。
考えて見れば、私たちの人生も「贖罪の旅」であるかもしれません。特に(彼女)との…。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/6(月) 12:09  -------------------------------------------------------------------------
   ウミサチヒコさん、
菊池寛には、面白い逸話が残っています。

彼は古今東西の名作(いわゆる文学全集に載っているような作品)を
分析して、そのストーリー展開の類型を見つけたそうです。
そのストリー展開の類型にあわせて書くといとも簡単に一編の小説を
書くことができるというわけです。

ところがこれをやり始めたら、小説が全く面白くなくなって、小説としての
力を失ったそうです。晩年の彼は、文芸春秋を舞台に多くの有望な小説家を
発掘したプロデュサー的役割を果たしましたが、それには上記の事情が影響
しているかも知れません。

この話、現在にも通用する話でしょう。細かな議論を得意とする人の話が全く
説得力がなくて、多少の間違いがありながら、真摯な想いが感じられる人の
文章に親近感を覚えたり、説得力が感じられる、というのはよくあります。
つまり、人間は間違ったり、迷ったり、よく分からないがとにかく自分の感では公思う、などという不完全な生き物だということでしょう。
この間違いとか悩みとか迷いこそが、人が人たる由縁なので、これを全て捨象して
論理だけで分かったような顔をする人間は、如何に傲慢であるか、ということなのです。
現代という時代は、「間違い」「悩み」「迷い」など人が人である要因を否定する時代です。小説が読まれなくなり、歌謡曲が消えつつあるのは、そういう時代の現れです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : ウミサチヒコ <movement@me.scn-net.ne.jp>  ■日付 : 06/2/6(月) 13:26  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:

菊池寛は小説もさることながら、その人間(人間の軌跡みたいなもの)が面白いという意味がありますね。

>この話、現在にも通用する話でしょう。細かな議論を得意とする人の話が全く
>説得力がなくて、多少の間違いがありながら、真摯な想いが感じられる人の
>文章に親近感を覚えたり、説得力が感じられる、というのはよくあります。

同感です。同感ですが、私は細かな話をしても説得力あるのが最高であると思います。古田武彦なんかはそれに近い。
この掲示板は、親近感・説得力を感ずる記事が多いですが、それを狙って右翼によく「何も分かりませんが」とか「ずっとROMしてましたが」などとあえて「枕ことば」を使う輩もいますから、「騙されて」もいけませんね。

>この間違いとか悩みとか迷いこそが、人が人たる由縁なので、これを全て捨象して
>論理だけで分かったような顔をする人間は、如何に傲慢であるか、ということなのです。

私にもその気はありますので、少々耳が痛いところです。ですが、これに輪をかけたヤツが「退役軍人」です。キャツめは、何かというと「根拠」「ソース」「事実」「論拠」「断言」「立ち位置」など、気持ち悪い語彙を乱発します。散々人を冷笑したあと「ご自愛下さい」「失礼しました」などを付け加える姿は許せるものではありません。
確かにテクニカルなことは驚くほど博識で、ふ〜む、ふ〜むと関心されられることが多く、とても太刀打ちできませんが、全体的にキャツめの弱点は、皮肉なことに、合理・進歩・平和を認めるところです。彼は最近「異界」の衣を捨てたようです。その衣を着るときは別の掲示板に行ったりしているようですが、老人党から退散するのも近いでしょう。とにかくこんな傲慢で陰湿なヤツがいるのを知ったのは初めてです。

>現代という時代は、「間違い」「悩み」「迷い」など人が人である要因を否定する時代です。小説が読まれなくなり、歌謡曲が消えつつあるのは、そういう時代の現れです。

そう言えば、青白きインテリ、なんてのははやらなくなりました。とにかく前に進まないと――という強迫観念にとらわれていることは確かです。私も半年一年、仕事と趣味以外には何もしないで、ゆっくりしたいなーと思うこの頃です。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(6):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : ウミサチヒコ <movement@me.scn-net.ne.jp>  ■日付 : 06/2/6(月) 13:50  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:
すいません、自分の感情的のことだけぶつけていました。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(6):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/6(月) 16:39  -------------------------------------------------------------------------
   ウミサチヒコさん、

言われていることは、よく理解できます。
わたしは現在、細部の事実を丁寧に調べる時間的余裕も精神的余裕もないのですが、細部の事実をきちんと詰めて、きちんとした理論展開をすることが理想でしょう。哲学者久野収も「神は細部に宿る」といっています。
しかし、大多数の人は、そんなことをする時間的余裕も精神的余裕もない、というのが現実でしょう。そういう人は発言する権利がないかというと、そうではないでしょう。

ではどうしたらよいか、という問題になります。
わたしは、【常識】を手がかりにしています。
【人殺しはいけない】とか【他人のものを盗むな】というのは、人間社会の普遍的な倫理だと思います。人殺しを奨励したり、他人のものを盗むことを称揚する社会は世界中どの国を探してもないでしょう。

つまり、結果として【人殺し】を肯定したり、【泥棒】を肯定することになる思想は、どんなに精緻な理論を構築しても、普通の人間の【常識】に反しているのです。
軍事論が意味あるのは、世界中の国が軍事放棄をする【人類の永遠の理想】実現のための過渡期の理論としてだけでしょう。
結果として、他国の資源を奪ったなら、それは強盗の論理です。それを正当化する論理は、【盗人にも三分の理】以上のものではありません。

こういう掲示板で論争していると、論理の迷宮に迷い込み、簡単な常識を忘れてしまいます。過去の偉大な思想家は、偉大な常識人です。
大多数の人の常識に反する議論は、短期的には力を持っても長期的には力を持つことはできません。
新自由主義理論も同じです。何が【新】ですか。結局、資本主義の原初形態に戻そうという退行理論に過ぎません。
資本主義の暴力的側面を統御しようとした過去の人類の知恵を無視した【反歴史理論】だということが、明確になってきました。
わたしから言わせれば、新たな【奴隷制構築】理論です。
こういう理論は、決して長続きしません。いずれ、力を失うに決まっています。

この掲示板にもこの理論の信奉者がいるようですが、彼らの議論の特徴は【常識】を否定するため、どうしても理屈が先行します。米国発の理論を借用して、反常識理論を展開しているのです。
【人殺し】を肯定し、【泥棒】を肯定するためには、それ相応の理屈が必要です。他者を蹴落とし、自分だけが富を得ることを正当化するためにも、相当な理屈が必要です。まして、他人の富を略奪する(泥棒)ことを正当化するには体系的な理論が必要です。
これがネオコン理論でしょうし、新自由主義理論だと思います。
わたしはそういう目で彼らの理論を見ています。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(7):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : ウミサチヒコ <movement@me.scn-net.ne.jp>  ■日付 : 06/2/6(月) 17:27  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:

なるほど、平易な言葉も核心をつけば心に響くものなんですね。よく分かりました。新・自由主義がむしろ初期のむき出しの資本主義であり、現代においてそれを合理化するには、大変な理論の構築が必要である、それは事の本質をついた見方かもしれません。往々にして右左を問わずやたら難しい論述に出くわしますが、私も平易な文章を心がけます。

ちょっと横にそれますが、芥川、久米政雄、菊池寛、堀辰雄なんかも、みんな平易で香り高い文章でした。翻訳モノは勝てませんでしたね、みんなハタチ前の読書です。この方面から入ったものですから、結局、太宰や壇一雄?らには至りませんでした。
埴谷雄高、吉本隆明などは難しくて(退屈で)何ページも読めませんでした。資本論からは、多分何も得ていないと思います。なんと言っても私の座右の書?と言えば、『フランスの内乱』です。レーニンの『国家と革命』の底流をなしたもの、と思っています。

すみません、アクユーから大分離れました。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 常識とは何か−その1  ■名前 : ステディ ベア  ■日付 : 06/2/7(火) 1:36  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん:久しぶりにレスします。
歌謡曲の話だけだったら、黙殺していましたが、流水さん自ら、話題をあらぬ方向にお飛ばしになったので、反論させていただきます。

>わたしは、【常識】を手がかりにしています。
>【人殺しはいけない】とか【他人のものを盗むな】というのは、人間社会の普遍的な倫理だと思います。人殺しを奨励したり、他人のものを盗むことを称揚する社会は世界中どの国を探してもないでしょう。つまり、結果として【人殺し】を肯定したり、【泥棒】を肯定することになる思想は、どんなに精緻な理論を構築しても、普通の人間の【常識】に反しているのです。

仰るとおり、「殺人の公認を原則にする」ことなど出来るわけはありません。
人間の本性が言語的動物であるならば(多分そうだと思いますが)、原則論としてコミュニケーションが他者の存在を必要とするのですから、他者を自分の意思で抹殺してはならぬ、と言う根本原則が成立します。

そこから、「自分が他人から為されては困ることを、他人に為してはならぬ」という、道徳の古典的な常識が生まれたものと思います。
ここまでは、完全に同意します。しかし、その後がいけません。

例外のない原則はありません。殺人もまたコミュニケーションの一形態なのであれば、極限的な場面である戦争や死刑にあっては、そこにさまざまな規則を付加した上で、殺人を合法的とみなしています。

さらにまた、自分の愛する人が凌辱されたとき、その相手の復讐することは今では法律的には罰せられますが、道徳的には許されたり、時には賞賛されたりする場合もあります。

>軍事論が意味あるのは、世界中の国が軍事放棄をする【人類の永遠の理想】実現のための過渡期の理論としてだけでしょう。
>結果として、他国の資源を奪ったなら、それは強盗の論理です。それを正当化する論理は、【盗人にも三分の理】以上のものではありません。

「世界中の国が軍事放棄をする【人類の永遠の理想】実現」などと言うのは、空想です。
断言します、人間はリアリティの世界で生きています。
貴方の言い分はあくまでも道徳的な側面で見た常識の場合だけです。

戦争を「道 徳」で捉えて、「個人の良心のレベル」で答えようとしてはならないのです。
戦争には戦争の論理があり、法則があります。これを知らねば、予防も、対応も、ましてや勝利を得ることも出来ません。

(続きます)

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 常識とは何か−その2  ■名前 : ステディ ベア  ■日付 : 06/2/7(火) 2:09  -------------------------------------------------------------------------
   (続きです)

これを、資源の取り合いの例で示しましょう。
資源問題は、人類がこの世に出現すると同時に始まった問題です。
かつての人類は、その行動半径が狭かったのですが、狭ければ狭いなりに「限定された場所」において資源問題に苦しめられていました。この問題が端的に出るのが、砂漠のオアシス争奪戦です。

オアシスと言う「生存の資源」を取られれば、取られた者は、家畜と共に全滅します。また、取り損ねれば取り損なった者もまた、同じ運命になります。もちろん降伏はありません。降伏しても、水の量は限られていますから、生存は不可能で、降伏もまた全滅を意味します。

「十戒」で知られるモーセの一行が、シナイ半島中央部のオアシスに着いて、ここを根拠地にしようとした時、先住民に対し相手が全滅するまで戦ったことが聖書に書かれているそうです。

あまりにもすごすぎて、見たくない気がしますが、これが「彼らの視座」、「目をそむけることが出来ない現実」、そこにあるのは「生存か死か」であっても「勧善懲悪」ではない、と言うことです。

私たちは、見たくないことから目をそむけ、触れられたくないことに触れず、考えたくないことを考えずにいたほうが幸福である、といった傾向にあることは否定しません。いわば、触らぬ神にタタリなしと言う一種の宗教的観念です。

私たちはモーセのような世界には住んでいませんでした。自らの伝統に基づき、国内的には勝ち抜き勝負や、優勝劣敗の淘汰の世界を否定し、相互扶助的、家族主義的な長幼序列の世界を望んでいます。
よしあしは別として、これが今までの日本の常識であり、国内だけの現実でありました。

しかし、もはや国内的にこのような態度をとることが、国際的にも現実的である保証が無くなってきているという、これまた現実(リアリティ)を知る必要がある、と言うことです。

恐らく大半の日本人はこの意識を持っていないでしょうが、私たちには「エネルギーのオアシス」はすでに奪われており、その配分を受けられるのは余剰があるうちだけである、と言う明確な事実があります。
繰り返しますが、宗教で、国家の安全保障は維持できません。

>こういう掲示板で論争していると、論理の迷宮に迷い込み、簡単な常識を忘れてしまいます。過去の偉大な思想家は、偉大な常識人です。
>大多数の人の常識に反する議論は、短期的には力を持っても長期的には力を持つことはできません。
>資本主義の暴力的側面を統御しようとした過去の人類の知恵を無視した【反歴史理論】だということが、明確になってきました。
>わたしから言わせれば、新たな【奴隷制構築】理論です。
>こういう理論は、決して長続きしません。いずれ、力を失うに決まっています。

流水さんが、日本をどのような形にしたいのか、もし、例の、非武装平和主義であるなら、失礼ながらもうその理論は瓦解している、とはっきり申し上げておきます。

失礼しました。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):常識とは何か−その1  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/7(火) 11:49  -------------------------------------------------------------------------
   ステデイ・ベアさん、
ご指摘の件などすべて考慮に入れています。
簡単に言えば、あなたの指摘されている点は、個人と国家の次元の違い
を語っているのです。
わたしは過去何度もそのことについては書いています。

ウミさんはわたしの過去ログを読んでおられるから、話をはしょっている
だけです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : ぎみゆら  ■日付 : 06/2/6(月) 20:12  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん、こんにちは。


菊池寛という名前が出たので、私もイッチョカミ。(笑)

ずーっと「名前だけ知ってる人」でした。私のなかではモノカキ
というより、文壇、出版界の「仕掛け人」「フィクサー」といった
印象で、作品を読もうということ自体あまり考えなかった。

それが十年くらい前だったか、たまたま新潮文庫の『藤十郎の恋・
恩讐の彼方に』を読んで、それこそ背筋が震えるというか、心底
おどろきました。

たかだか文庫本30〜40ページばかりの一篇を読んで、それまでと
世界の風景がガラリと変わるという経験を実感しました。何なんだ、
これは。という感じでしたね。

短編の衝撃、という意味では、やはり新潮文庫ですが、岡本かの子の
作品集『老妓抄』を読んだときに、「いつの間にかフワッと知らない
世界に持って行かれた」という、一種似た感覚を覚えました。

表題作の「老妓抄」が、当時も今もたいへんに評価の高い作品なん
ですが、私は「鮨」とか「家霊」とかいったミョウテケリンな作が
大好きなんですが、それはさておき。

大正から昭和初年あたりまでの日本には、おそろしい人がたくさん
いたのだと思っています。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/7(火) 11:30  -------------------------------------------------------------------------
   きみゆらさん、
お久しぶりです。
短編の衝撃というのはありますね。
芥川の小説などもそうですが、言葉の吟味が凄いですね。

わたしの好きな短編に三島由紀夫の【花火】というのがあります。
一瞬にして消える【花火】の美しさをテーマにした作品ですが、三島
美学の秘密が分かる作品です。
この作品は多くの人に影響を与えているらしく、五社秀雄監督・宮尾登美子原作夏目雅子・仲代達也主演の映画『鬼龍院花子の生涯』で、仲代達也ふんする鬼龍院政五郎が花火を見ながら、大要「わしは花火がまっこと好きだ。ぱっと咲いてぱっと散る。まっこと男の生き方のようだ」という台詞を吐いています。
恐らく、原作者・監督などは三島の【花火】を読んだのではないかと想像できます。
そして、「ぱっと咲いてぱっと散る」という美しさを描くことがこの映画の一つのテーマだったのだ思います。

わたしは、三島の長編小説、例えば【豊饒の海】などはあまり好きになれませんが、彼の短編は素晴らしいと思います。
他には、梶井基次郎の短編なども好きです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 宮天狗  ■日付 : 06/2/7(火) 10:50  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん

菊池寛は将棋の熱狂的愛好者としても有名です。将棋を指せない編集者は出入り禁止、そして棋士は小遣い稼ぎのために競って氏の門をたたいたといわれます。傑作なのは氏が5段だか6段のとき低段の棋士に駒を落として指したことです。

囲碁をたしなむ流水さんはよくお分りと思いますが、アマがプロにハンデをつけるなんて正気の沙汰ではありません。これが「藤十郎の恋」を書いた人なのですからその落差の激しさは目もくらむようです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/7(火) 11:39  -------------------------------------------------------------------------
   ▼宮天狗さん:
●囲碁をたしなむ流水さんはよくお分りと思いますが、アマがプロにハンデをつけるなんて正気の沙汰ではありません。これが「藤十郎の恋」を書いた人なのですからその落差の激しさは目もくらむようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
如何にも菊池寛らしい話ですね。
わたしは小説家としての菊池寛しか知らないので確かなことはいえませんが、この押しの強さが菊池寛のひとつの側面だったという話を多くの人が証言しているようなので、多分事実だったのでしょう。

よく評価するならば、菊池寛という人は、非常に多面的な複雑な人だったのではないでしょうか。この多面性(多様性)が一方ではプロデューサーとして彼を成功に導き、他方では大小説家としての彼の成功を疎外したものではないでしょうか。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 菊池寛の『フランダースの犬』  ■名前 : BadBloke <v_badbloke@yahoo.co.uk>  ■日付 : 06/2/8(水) 7:15  -------------------------------------------------------------------------
   菊池寛という人、正直に言って、ぼくにはあまり印象の良い人じゃありません。小林秀雄、川端康成、横光利一などと親しかったそうで、この3人も、どうにも肌が合わない人たちです。

ただ、菊池寛は『フランダースの犬』を翻訳しているんですね。今から80年くらいも昔の翻訳らしいですが、これがなかなか名訳なんです。彼は愛犬家だったのでしょうか。もしそうなら、ぼくの好きな日本人作家の101番目くらいには入るかもしれません。

参考:菊池寛訳『フランダースの犬』
http://www.aozora.gr.jp/cards/001044/files/4880_13769.html

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):菊池寛の『フランダースの犬』  ■名前 : k.satou <cbl13464@nifty.com>  ■日付 : 06/2/8(水) 7:56  -------------------------------------------------------------------------
   ▼BadBlokeさん:
菊池寛という人は
 自分の判断でものごとを見る人。譲歩のない自我の人。
 こんなのもありなんだと感心したものですが
  有名な帯の解けてるのを親切に知らせてやったら 怒られた話とか
  虫歯が痛んで困っていると話したら
  医者に行き すぐ抜いてもらえ!抜いたらもう痛まないから!と。
 まことに ごもっとも。
 彼は若くしてそう入れ歯だった。自説を実行していた。 
なんにでも とくに金銭的なもの・権威的なものにすぐ ひれ伏したくなる
私の もっとも尊敬する人のひとりです。


>菊池寛という人、正直に言って、ぼくにはあまり印象の良い人じゃありません。小林秀雄、川端康成、横光利一などと親しかったそうで、この3人も、どうにも肌が合わない人たちです。
>
>ただ、菊池寛は『フランダースの犬』を翻訳しているんですね。今から80年くらいも昔の翻訳らしいですが、これがなかなか名訳なんです。彼は愛犬家だったのでしょうか。もしそうなら、ぼくの好きな日本人作家の101番目くらいには入るかもしれません。
>
>参考:菊池寛訳『フランダースの犬』
>http://www.aozora.gr.jp/cards/001044/files/4880_13769.html

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : キタキツネ  ■日付 : 06/2/5(日) 17:06  -------------------------------------------------------------------------
    明後日は2月7日は阿久悠氏の誕生日(1937年)ですね。69歳になります。
 私もなかにし礼と並んで好きな作詞家です。(どちらかというとなかにし礼の方が好きですが)

 子ども達が良く歌っていたので、なじみ深いのはやはり作曲家、都倉俊一と組んだピンク・レディーの一連のヒット曲でしょうか。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 団塊党  ■日付 : 06/2/5(日) 20:33  -------------------------------------------------------------------------
   流水さんお久しぶりです。
お元気の様子で何よりです。

私も退職まであと5年。
なんとか頑張らねばと思っています。
またいろいろとご教示ください。
今後ともよろしくお願いします。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 流水  ■日付 : 06/2/6(月) 11:48  -------------------------------------------------------------------------
   団塊党さん、
そうですか。後、5年ですか。早いものですね。
教育の受難期に教師をするというのは、辛いものがありますが、
一人でも多くの良心的教師が現場で踏ん張ってくれることを
願います。

「荒れる学校」の時代もそうでしたが、こういう転形期こそ
人間の真贋が見えるものです。
「荒れる学校」時代、「一人一人の子供を大切にする」という理念が
如何に建前だったか、ということがよく見えました。
逆に、子供を力で抑える、ということを自慢していた教師の偽者性も
露になりました。自分の力で抑えられない子供が出たら、見てみぬふりを
した人間が如何に多かったか。
また、とにかく全てのことに目を瞑り、目立たぬように賢く立ち回った人間
も多数いました。

結局、最後は、自分が傷ついても自分の信念(理念)を貫くという覚悟が必要
だというきわめて当たり前のことが改めて再認識できたのです。
自分が傷つくことを恐れる、自分が損することは避ける、というのは、人間の
本能に近いものです。一種の自己防衛本能でしょう。
この本能を押さえつけ、恐怖心を乗り越えるには、自分の信念(理念)を磨く
以外にありません。
人を教えるという行為の恐ろしさは、このように自分の信念(理念)の真贋が
常に子供たちや保護者や同僚教師たちの目によって問い続けられているという
ところにあります。
高橋和己いうところの、「学・才・気」の統合した人格が問われているのです。

現在の教育現場は、「学」に特化したありように変容しつつあるのでしょう。
このような発想は必ずほころびます。ようやく社会もそのほころびに気がつき始めたようです。
数年前、わたしは「教育の階層化」という小論を書きましたが、ようやくマスメデイアもそういうことを書き始めました。

とにかく、こういう時代でも自分の理念を曲げないで(表現の仕方は工夫して)
がんばってください。必ず、ゆり戻しがきます。その時代がくるまで、しぶとく
粘り強く、耐えることだと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):懺悔の値打ちもない時代(阿久悠論)(1)  ■名前 : 団塊党  ■日付 : 06/2/7(火) 22:11  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:

>「荒れる学校」の時代もそうでしたが、こういう転形期こそ
>人間の真贋が見えるものです。

今は同僚が互いにライバル。
相対評価によって給料に差を付けられる時代になりました。
学校が一つにまとまるなんて余程のことがない限りあり得ない時代になりました。
そういう中で人間の嫌な面を否応なく見ざるを得ないこともあります。
自分の中にも嫌な部分がひょっと顔をのぞかせます。
競争原理主義はどうしようもなく広がってきています。
(われわれ、退職が近い教師はいいのです。どちらにしても大した差は今はありません。これからの教師はもろにこの影響を受けるでしょう。)

>この本能を押さえつけ、恐怖心を乗り越えるには、自分の信念(理念)を磨く
>以外にありません。
>人を教えるという行為の恐ろしさは、このように自分の信念(理念)の真贋が
>常に子供たちや保護者や同僚教師たちの目によって問い続けられているという
>ところにあります。
>高橋和己いうところの、「学・才・気」の統合した人格が問われているのです。

本当に恐ろしい職業です。
自分の内面と絶えず戦っています。
これは若い頃からずっとそうです。
時代に関係なく教師の職業にはこれがついて回るようです。

>現在の教育現場は、「学」に特化したありように変容しつつあるのでしょう。
>このような発想は必ずほころびます。ようやく社会もそのほころびに気がつき始めたようです。
>数年前、わたしは「教育の階層化」という小論を書きましたが、ようやくマスメデイアもそういうことを書き始めました。

基礎学力の向上に走るのは分かりやすく、方法も単純です。
今の現実の中ではそれを否定もしません。
しかし、そこで落としてしまう部分を意識して、そこをきちんと育てていく事が大切だと思います。
限られた時間の中では難しいのですが、その中で自分の力量を磨いていくしかありません。

>とにかく、こういう時代でも自分の理念を曲げないで(表現の仕方は工夫して)
>がんばってください。必ず、ゆり戻しがきます。その時代がくるまで、しぶとく
>粘り強く、耐えることだと思います。

こつこつと実践をしていくのみです。
子供はいいものです。
2年生はかわいいですね。
しかしこれも一種の逃げかもしれません。

子供の幸福を本当に願っているのかと自分に問うとたちまちあやふやになってしまいます。
あと5年が途方もなく長く感じられ呆然とすることたびたびです。

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