Page 1633 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼「私って何かしら」:この永遠の煩悶(1) 流水 06/3/17(金) 10:42 ┣Re(1):「私って何かしら」:この永遠の煩悶(2) 流水 06/3/17(金) 10:48 ┗Re(1):「私って何かしら」:この永遠の煩悶(3) 流水 06/3/17(金) 10:50 ┣Re(2):「私って何かしら」:この永遠の煩悶(3) ぎみゆら 06/3/18(土) 18:54 ┃ ┗Re(3):「私って何かしら」:この永遠の煩悶(3) 流水 06/3/19(日) 10:28 ┗Re(2):「私って何かしら」:この永遠の煩悶(3) 団塊党 06/3/20(月) 20:34 ┗Re(3):「私って何かしら」:この永遠の煩悶(3) ぎみゆら 06/3/21(火) 10:06 ┣Re(4):「私って何かしら」:この永遠の煩悶(3) k.satou 06/3/21(火) 10:10 ┃ ┗Re(5):「私って何かしら」:この永遠の煩悶(3) ぎみゆら 06/3/22(水) 11:35 ┗Re(4):「私って何かしら」:この永遠の煩悶(3) 団塊党 06/3/21(火) 16:38 ┗Re(5):「私って何かしら」:この永遠の煩悶(3) 流水 06/3/21(火) 18:06 ┗Re(6):「私って何かしら」:この永遠の煩悶(3) 団塊党 06/3/21(火) 21:23 ┗Re(7):「私って何かしら」:この永遠の煩悶(3) ぎみゆら 06/3/22(水) 11:04 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 「私って何かしら」:この永遠の煩悶(1) ■名前 : 流水 ■日付 : 06/3/17(金) 10:42 -------------------------------------------------------------------------
(1)私って何なのかしら/と問う鳥に/貴方は貴方と言い放つ空 (2)未来というワケの分からぬ存在を/私の形に切り抜いていく (3)喜・哀・楽仮面の上に描くたび/己の顔を失う道化師(ピエロ) 朝日新聞天声人語で引用された「現代学生百人一首」(東洋大が募集)の句である。 (1)が中学三年生(2)が高校3年生(3)が中学3年生の句。 どの句にも、「わたし」とは何かという切実な悩みが表現されている。 若者にとって青春時代はどの時代も同じなのだという安心感と、(3)のように仮面をかぶらなければ生きていけない学校の現状が透けて見えて切なくなる。 しかし、どの句にも共通するのは純粋な存在論的疑問であり、きわめて抽象性の高い精神的煩悶であるという点である。 華厳の滝で自殺した藤村操も【二十歳のエチュード】というすぐれた作品を残して自殺した原口統三も同じような煩悶に苦しんでいた。 ところが現代の人間の煩悶は、もっともっと具体的な形をとって現れる。この具体性のありように時代が見える。 【家が欲しい】【車が欲しい】【パソコンが欲しい】【女が欲しい】etc..・・・・。それをひっくるめて【お金が欲しい】。 【何、お金が欲しい?】それでは寛一・お宮の時代から何も変っていないではないか。 実はそうなのだが、そのお金に対する欲望を生み出す契機(動機)が決定的に変化してきたのである。 【食べる】【寝る】【愛する】【排泄する】など人間(動物)が生きるための生理(本能)に基ずく欲望なら、誰にでもすんなりと理解できる。 小林秀雄が【一つの脳髄】の中で、砂浜を歩いていてふと後ろを振り返った時、自分の足跡がくっきりと砂浜に残っているのを見て非常に驚いた、という話を書いている。 この話は、「人間の生理(本能)」と「頭の中で構築されるもの=自分だと思いこんでいる世界」、とが乖離する、という人間存在のありようを象徴的に示している。 若者の煩悶(青春時代の煩悶)は、この【頭の中の世界】と【人間の生理】との乖離に基ずく場合が圧倒的に多い。 武者小路実篤の【友情】などの煩悶は、この【頭の中の世界】と【人間の生理】の乖離の典型だろう。 ここまでは、われわれ老人たちにも覚えがあるし、若い時には誰でもそうだろうと納得できる話である。 実は、現在の若者たちの煩悶の本質も何も変っていない。しかし、現代という時代は、欲望を実現するための方法(手段)が決定的に違ってきているのである。 例えば、女性諸氏の反発を覚悟で書いてみると、男性なら誰にでも経験があるだろうが、若い時代の悩みの多くが【性】に関係していたはずである。 そのためにどれだけ多くの若者が悩んできたことか。 昔から、【好き】という感情と、【性】を伴う愛情表現との間の裂け目にどれだけの青年が悩んできたか。私小説作家と呼ばれた小説家の煩悶の大半はここにあるといって過言ではない。 若者(特に男性)の【性処理】の問題は、人間にとって文字通り【普遍的な問題】なのである。 そのため、人間は古来から様々な知恵を絞ってきた。 人類創生の時代は、肉体の強さが女性獲得の条件だった。ある意味で、この条件は、現代にも残っているかもしれない。 農耕が始まってからの時代、産業革命以降の時代などなど、女性獲得のための社会制度変革は、この問題解決のために人類が如何に悩んできたか、という証左でもある。 例えば、近年まで田舎に残っていた「夜這いの風習」とか「若衆宿」の存在もその工夫の一つである。 宗教における【戒律】【タブー】も、如何に【性】の問題が人類の普遍的な問題であり、それをどこかで規制しなければ社会の秩序が崩壊する危険性があるというほどの重要性を持っているかということを如実に示している。 |
一例を挙げよう。 安藤広重の「東海道五十三次」の浮世絵は誰でも知っていると思う。その中で描かれた人物をよく見て欲しい。如何に僧侶が多く描かれていることか。 これは当時妻帯を禁じている宗派が多かったため、僧侶というのは「人口調節」の意味を担っていたということを示している。 軍隊組織における兵士の性処理の問題は、指揮官にとってきわめて重要な課題であり、これを一つ間違えると組織の崩壊を招きかねない重要な課題だった。木曽義仲の凋落の原因の一つは兵士の強姦などの非違行動にあったし、信長が京の庶民の心を掴んだのは、その軍規の厳正さにあったことはよく知られている。 現在でもイラクのアブグレイブ刑務所などで行われたおぞましい拷問のありようを見ると、閉ざされた空間の中での人間の「性行動」の異常さが浮き彫りになっている。 現代という時代は「頭の中での感情」と「性行動」を伴った愛情表現の距離が狭くなってきた。 マスコミをにぎわす女高生たちの性行動に象徴されるように【性】の持つ重さが軽くなってきたともいえる。 ところが、大半の少女たちや若者たちは、そうではない。実は、彼らは過去の青年たちと同様な悩みを背負っている。 情報化社会で発信される【性の持つ軽さ】と現実の自分との乖離に悩んでいるのが実態に近い。 そして、その【軽さ】こそが時代の流れに即したものだと思い始めたとき、【自分】を見失い始める。 つまり、【外見】とか【見栄】とかを気にし始めたたとき、【自分】だと信じている彼の頭の中の【自分】は、外部の何かに仮託された【自分】に転化し始めるのである。 そして、慧眼な女の子の一喝【あなたって何よ。何もないじゃない】という言葉で、初めて頭の中の自分と現実に表現されている自分との落差に気ずくのである。 そして、彼らは外部の何かに仮託された自分にきずいた時、呆然とする。 ところが、外部の何かに仮託された行う行為が、昔と現代では決定的に違っている。行動を縛る心の中の倫理観(タブー)が変容しているのである。 一例を挙げよう。 万引きへの誘惑は多くの人が経験しているはず。しかし、昔は、万引きしたいという気持ちと万引きをするという行為との間には、とてつもない距離があった。つまり「心の中に考えること」と【現実の行為】との間の距離がとてつもなく遠かった。この【心の葛藤】が多くの人に共有できた。 これがいわゆる【世間の常識】だった。 こういうことは、何も犯罪行為だけに限らず、かっては高校生の男女が一緒に歩いただけでも、厳しい世間の目にさらされた。 つまり、かっての日本人の倫理観・道徳観の多くは、【世間の目】という目に見えないものによって形作られていた。 昔の若者の自我形成は、家に代表される【世間】との格闘の中で形成されたため、彼らの行為は多くの人々の共感を集めることができた。 「若い時は多少羽目を外すぐらいでよいのだ」 つまり、多くの大人たちが、若者たちの自我形成期の悩みを共感できる土壌があったのである。 これが、道を踏み外した若者たちの社会復帰を何とか可能にした背景でもあった。 少し、哲学的に書くと、【自我】と【共同意識】との相克と共存が危ういところで保たれていたということになる。 ところが、現代は、この【共同意識】それ自体がはっきりしなくなり、自我との相克という環境自体が希薄になったのである。つまり、若者の自我形成期自体が消失し始めているのである。 さらにいえば、これに教育の大衆化、科学技術の進歩、論証技術(統計的手法)の進歩は、知識・技術と人格との乖離を促進した。つまり、能力と人間性が乖離した人間を大量に輩出したのである。 彼らが信仰している数値とか根拠のように客観性なるもの自体が、自分の主観の反映であることにきずかない。つまり、客観性とは【客観的であると自分が主観的に考えた意識】に過ぎない、ということにきずかない。 だから、能力があるとみなされた自称エリートたちの不祥事に対する言い訳を見れば、彼らが如何に自己形成の努力を怠ってきたかが一目瞭然に分かる。彼らの言葉が、如何にただの道具に過ぎず、自分の内心とはかけ離れたものだ、ということを示している。 つまり、彼らにとっては、言葉は数字なのである。数字は数字で自分の心を表現するものではないということなのである。 |
だから政策の間違いなどは、ただの数字の計算の違いだと認識しており、それが自分という人間の価値を傷つけるものとは考えていない。 彼らは自分が傷つくことを異様に恐れる。自分が無謬であること自体が自分自身の価値を決定すると信じている。現役教師時代、わたしはこのような【心性】の子供を【ステンレス型】と名付けていたが、いよいよ彼らが社会の前面に躍り出たなというのが昨今の印象である。 つまり、【私とは何か】という心の葛藤を経ない人間が社会の主流になり始めたのである。 他に抜きん出る能力を持ったわたしは他の人間より価値があり、その価値を貶める人間は貶める人間が悪い、という論理になる。 学校では、20年以上前から、少子化の進行とともに、このタイプの子供が増加し続けている。 実は、教育自由化論は、このタイプの子供を加速させる議論なのである。 何度も指摘しているが、戦後義務教育の最大の長所は、【異なる階層の子供が同一の基準(ルール)で学び生活する唯一の機会】であった、という点にある。高校以降は、普通科、工業科、商業科などなど、それぞれ分化していく。大学になればさらに分化し、就職すればなおさらである。 その中で「異なる階層の子供が同じ基準で学ぶ機会」をなくすことは、【私とは何か】という人間にとって永遠の問いを失うことにつながりかねない。 生まれも育った環境も異なる子供たちが、ぶつかり合い、切磋琢磨し、その中で【自我形成】していく。この経験は、将来日本の指導層を担うエリートたちにとってきわめて貴重なものになる。 少なくとも、現在のエリート層のように地を這うように生きている大衆の苦しみを理解できない人間とは違う政策立案ができる可能性がある。 【私とは何か】を問うことは、過去も現在も人間にとって本質的な問題である。21世紀が宗教の時代といわれるのは、【私】が見えなくなり、社会との手触りがなくなり、生きる意味すら定かでなくなった時代の証明であろう。 神戸の少年Aの「透明なわたし」は、ある意味で時代の象徴なのである。 誰もが、「人生の意味」を考え、「生きる意味」を考え、「自分とは何か」を真剣に問うことを恐れている、真剣に問えば問うほど、「自分が自分であると信じている自分」が壊れていくことを本能的に察知している。 「時代は回る」という歌があったが、今一度「自分とは何か」を本質的に問う時代が巡ってくるのかもしれない。 |
流水さん、こんにちは。 > だから政策の間違いなどは、ただの数字の計算の違いだと認識して > おり、それが自分という人間の価値を傷つけるものとは考えて > いない。 > 彼らは自分が傷つくことを異様に恐れる。自分が無謬であること > 自体が自分自身の価値を決定すると信じている。現役教師時代、 > わたしはこのような【心性】の子供を【ステンレス型】と名付けて > いたが、いよいよ彼らが社会の前面に躍り出たなというのが昨今の > 印象である。 日経新聞平日朝刊の株式欄に「大機小機」というコラム欄があるの ですが、日銀がいわゆる「量的緩和解除」を発表した翌日の3/10、 「カトー」というコラム子が「教訓を学ぼうとしない日銀」という 一文を寄せています。その一部を引いてみます。 『日銀は量的緩和解除を決定した。そのためのいわゆる「地なら し」の一環としてか、2月27日に調査統計局のメンバーによって 「バブル崩壊後の日本の金融政策」と題するワーキングペーパーが 発表 された。 ……(中略)…… 日銀論文は現在の日銀の政策スタンスと体質を知る上できわめて 興味深いものである。その際立った特徴は過去の失政の徹底的な弁 護にある。金融政策には各種の不確実性が伴う。日銀論文では特に 「政策乗数効果の不確実性」を重視して、日銀は最善の政策を行っ ていたという』(日本経済新聞2006年3月10日朝刊より) 日銀諸氏によればどうやら、バブル経済とその崩壊を呼んだ日銀の 差配でさえ、「最善の政策」だったということになるみたいです。 この国のエライさんたちは、いつの頃からか、自分たちは「無謬」で あるという思い込みを共有し始めたようです。明治末期、日清日露の あたりから以降なんじゃないかなぁと、私は思っていますが。 その「無謬エリート」たちが、かつて日本を、沖縄戦、東京空襲、 広島、長崎に至る地獄に追いやり、いまだにその責任を自ら明らかに することさえしない。そこに、いまどきの新たな「無謬エリート」 たちが合流しようとしている。つまりそういうことなのでしょうか。 だとしたらやるせないことこの上ありませんが、でもわかるような 気もします。「無謬のオコチャマたち」というのが、かつても今も、 この日本という国の状況を見るうえでの、一つのキーワードなのかも しれません。どうもありがとうございます。 |
▼ぎみゆらさん: こんにちは ●日銀論文は現在の日銀の政策スタンスと体質を知る上できわめて >興味深いものである。その際立った特徴は過去の失政の徹底的な弁 >護にある。金融政策には各種の不確実性が伴う。日銀論文では特に >「政策乗数効果の不確実性」を重視して、日銀は最善の政策を行っ >ていたという』(日本経済新聞2006年3月10日朝刊より) > >日銀諸氏によればどうやら、バブル経済とその崩壊を呼んだ日銀の >差配でさえ、「最善の政策」だったということになるみたいです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 【政策乗数効果の不確実性】なる意味不明の概念を駆使するところが、 如何にも経済エリートですね。 現在、国民が最も眉に唾つけて聞かなくてはならない人種は、経済を専門にしている連中でしょう。 彼らのわけの分からない理屈で、どれだけの国民が泣かされてきたか。 > ●この国のエライさんたちは、いつの頃からか、自分たちは「無謬」で >あるという思い込みを共有し始めたようです。明治末期、日清日露の >あたりから以降なんじゃないかなぁと、私は思っていますが。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ どうなんでしょうね。わたしはまだ読んでいないのですが、立花隆の「天皇制と東大」でどのように書いているかが興味があります。 > ●その「無謬エリート」たちが、かつて日本を、沖縄戦、東京空襲、 >広島、長崎に至る地獄に追いやり、いまだにその責任を自ら明らかに >することさえしない。そこに、いまどきの新たな「無謬エリート」 >たちが合流しようとしている。つまりそういうことなのでしょうか。 > >だとしたらやるせないことこの上ありませんが、でもわかるような >気もします。「無謬のオコチャマたち」というのが、かつても今も、 >この日本という国の状況を見るうえでの、一つのキーワードなのかも >しれません。どうもありがとうございます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ わたしはかっての無謬エリートたちと現在の無謬エリートを分かつ大きな 分岐点は、【天皇制】の存在ではないかと考えているのです。 かっての無謬エリートたちの責任が収斂する場所は、真善美の象徴である天皇でした。つまり、彼らは国民ではなく、天皇に責任を取るという形で決着をつけていました。これに日本的【恥】の感覚が重なっていたのだと思います。 ところが、現在の無謬エリートたちの責任の収斂する場所は、建前上【国民】ということになるのですが、国民というのは如何にも漠然とした概念です。天皇というように姿形がクリアーに見える概念ではないのです。 そのため、結局、姿形の明確に見える【省】【庁】などの自らの属する組織に責任を収斂させていったのではないかと考えているのです。 実は、戦後民主主義制度の要諦は、【国民に収斂する責任】をどのように制度的に具体化するかというところにあったはずですが、これが担保できなかったというより、よく眼に見えなかったところに最大の欠点があったのではないかと考えています。(わたしの仮説です) |
▼流水さん: >生まれも育った環境も異なる子供たちが、ぶつかり合い、切磋琢磨し、その中で【自我形成】していく。この経験は、将来日本の指導層を担うエリートたちにとってきわめて貴重なものになる。 >少なくとも、現在のエリート層のように地を這うように生きている大衆の苦しみを理解できない人間とは違う政策立案ができる可能性がある。 公立の小学校、中学校だけがこの条件を唯一満たしている場ですね。 そう考えると、できる子もできない子も裕福な子も貧乏な子も、この中で影響しあい、切磋琢磨できるような場を我々教師は保証してあげなければと益々思います。 教師はともするとできばえの優秀さはほめますが、たどたどしかったり稚拙であったりする事柄はほめません。 (例えば朗読の上手な子を教師は誰でもほめますが、稚拙な朗読の中に良さを見いだしそれをほめることはしません。) 私もこういう過ちをよくやります。 しかし、うっかりすると見逃してしまうような些細な出来事の中に価値を見つけだすこと、教育の可能性はここにこそあるのではないかと思います。 そういう目で教師が子どもの事実を見ていくときに初めて、できる子もできない子もお互いの存在を見直し、できる子ができない子の中に尊さを発見していくのではないかと思います。 流水さんの発言につなげながら、自戒を込めて書かせていただきました。 |
団塊党さん、お久しぶりです。 しばらく前に、たしか心理職(カウンセラー)の方から聞いたん だったと思いますが、一種の自己分析のようなもので、こんなことを 教わりました。 まず自分の欠点や嫌なところを、思いつくだけ紙に書き出してみる。 次に、そのそれぞれについて、「だけど……」と続けて、それには それでいいところもあると、無理やりでもいいから混ぜっ返してみる。 たとえばこんなふうに。 ●私は臆病で引っ込み思案だ。 「だけど」それは慎重で思慮深いということでもある。 非常に単純化した方法なんですが、こういうことって案外、自分に ついても、人に対しても、できないものですよね。団塊党さんの 書き込みを読んで、そんなことを思い出しました。 |
▼ぎみゆらさん: そりゃ 逆じゃないのかい? いいとこを書付て見るほうが早い。 KJ法みたいなもんだけどね。 数の大小にもよるけど >団塊党さん、お久しぶりです。 > > >しばらく前に、たしか心理職(カウンセラー)の方から聞いたん >だったと思いますが、一種の自己分析のようなもので、こんなことを >教わりました。 > >まず自分の欠点や嫌なところを、思いつくだけ紙に書き出してみる。 >次に、そのそれぞれについて、「だけど……」と続けて、それには >それでいいところもあると、無理やりでもいいから混ぜっ返してみる。 >たとえばこんなふうに。 > > ●私は臆病で引っ込み思案だ。 > 「だけど」それは慎重で思慮深いということでもある。 > >非常に単純化した方法なんですが、こういうことって案外、自分に >ついても、人に対しても、できないものですよね。団塊党さんの >書き込みを読んで、そんなことを思い出しました。 |
k.satou さん、お久しぶりです。 > そりゃ 逆じゃないのかい? > いいとこを書付て見るほうが早い。 > KJ法みたいなもんだけどね。 > 数の大小にもよるけど いやー、これは人によりけり、さまざまみたいです。 人によっては、「あなたのいいところを書き出してください」と 言われると、パタッと手が止まって何も書けず、「自分の欠点や 嫌いなところを挙げてください」と言うと、どんどん書き始める人も いるんです。というか、けっこう多いみたいです。 そういう人には、つまり自分に自信がない人には、「自分の嫌な ところ」を挙げてもらって、それを取っ掛かりにするという方法論が 成り立つ。そういうことのようです。 |
▼ぎみゆらさん レス有り難うございます >しばらく前に、たしか心理職(カウンセラー)の方から聞いたん >だったと思いますが、一種の自己分析のようなもので、こんなことを >教わりました。 > >まず自分の欠点や嫌なところを、思いつくだけ紙に書き出してみる。 >次に、そのそれぞれについて、「だけど……」と続けて、それには >それでいいところもあると、無理やりでもいいから混ぜっ返してみる。 >たとえばこんなふうに。 > > ●私は臆病で引っ込み思案だ。 > 「だけど」それは慎重で思慮深いということでもある。 > >非常に単純化した方法なんですが、こういうことって案外、自分に >ついても、人に対しても、できないものですよね。団塊党さんの >書き込みを読んで、そんなことを思い出しました。 効率とか出来映えだけをを重視した目で見ると、見えるものが見えなくなるのではないかと思います。 普段何気ない中にふっとある人間の良さが出る、それを見て「あっいいなあ」と心が和むということがありますが、自分の心のありようによってはそういうものが見えなくなりますよね。 八木重吉の詩に、正確ではないですが、確か、 「子どもがきたならしく歩く しかし時々ふっときれいになる瞬間がある」 という意味の詩があります。 巧みさとか結果の成功だけにとらわれていると、そういう素朴な子どもの良さが見えなくなるんじゃないかと思うのです。 そういうことが自分の中にもあるし、最近の教育改革の中にもあるんじゃないか。 効率とかスピードとか成果とかそういうものばかりを追い求めていくうちに本当の価値とか値打ちを忘れようとしている。 そういう状況が今の社会とか教育とかにあるんじゃないか、そういう問題意識を書いてみたのです。 流水さんが競争と共生の両立の大切さを言われていますが、そういうことともどこかでつながる話かと思い書いたわけです。 上位3割のエリートだけを育てれば日本の将来は安泰だなんて単純な発想で改革されるとたまらないですよ。 |
団塊党さん、 以前、組織論で、池波正太郎【鬼平犯科帖】の話をした記憶があります。 この中で、【うさぎ】とあだ名される同心がいます。 お調子者で遊び好き、自称グルメでうまいものの情報に詳しい。しかし、本業の仕事はあまりできるとはいえない。剣の方も強いとはいえない。手下(情報屋)の信頼も厚いとはいえない。 ところが、火付け盗賊改め方長官長谷川平蔵は、彼を高く評価する。仕事ができるわけでない、剣も強くない。怠け者で遊び好き、女でもしくじる。どう見てもあまりとる所がない男を評価するのである。 理由は、彼の明るさ、ひょうきんさ。彼がいるだけで周囲がほっとする。空気がなごむ。それを高く評価するのである。 長谷川平蔵にいわせれば、仕事もばりばりでき、剣も強く、何をさしても見事にこなす鬼同心よりも、【うさぎ】の存在が貴重だということになります。 この池波正太郎の人間理解、組織理解は素晴らしい。人間という不可解な生き物を見事につかんでいます。 学級も会社も同じだと思いますが、【効率性】一点張りで人間ががんばれるのは、限界があります。 組織の柔軟性、組織の永続性は、この種の【遊び】を許容できる懐の深さが必要なのだと思います。 簡単に言えば組織というものは、人間が生きるための必要悪なのです。組織というものは、人間を疎外する本質を持っている、と考えなければなりません。 こういう本質を持っている組織が、効率性一点張りの硬直したメカニズムで動いたなら、その中で生きる人間はたまったものではないのです。 だからこそ、【ウサギ】のような明るくて、良い加減で、適当に助平で、適当に真面目で、仕事はバリバリできないがそこそこにはできる、という人間が大切なのです。 子供たちも同じです。馬鹿なことを許容できる懐の深いクラスを作る必要があると思います。 |
▼流水さん: >簡単に言えば組織というものは、人間が生きるための必要悪なのです。組織というものは、人間を疎外する本質を持っている、と考えなければなりません。 >こういう本質を持っている組織が、効率性一点張りの硬直したメカニズムで動いたなら、その中で生きる人間はたまったものではないのです。 >だからこそ、【ウサギ】のような明るくて、良い加減で、適当に助平で、適当に真面目で、仕事はバリバリできないがそこそこにはできる、という人間が大切なのです。 >子供たちも同じです。馬鹿なことを許容できる懐の深いクラスを作る必要があると思います。 教師の宿命として、クラスの子どもはすべて好きにならなければいけないです。 しかし中にはどうしても好きになれない子もいて、これはなかなか厄介な問題ですね。 この問題を解決できるかどうかは、その子どもの中に良さを発見できるかどうかにかかっています。 教師の人間理解、懐の深さがこのときに試されますね。 私のクラスに憎たらしいことをすぐ口に出す子がいます。 この子が体育の時間に上着を脱がないでやっていたので、脱ぐように言ったら、「じゃあ、体育やらない」と言うのです。 わがままを言ってるのかと私はカチンときましたが、ちょっと間をおいて「どうして脱ぎたくないのか」訳を聞きました。 「寒いから」という答えを予想していましたが、「地面に上着を置いたら汚れてお母さんに叱られるから」という答えが返ってきました。 買ったばかりの上着を汚したくなかったのでしょう。 それで私は内心「かわいいな」と思うことができました。 教師の人間理解、子ども理解の深さはこういうことで鍛えられていくようですね。 |
団塊党さん、こんにちは。 お話を読んで、たぶん「ちょっと間をおいて」というところが、 一つのポイントなんだろうなと、あらためて思いました。 カチンと来たけど、ちょっと間をおいて、どうしてと尋ねてみる。 野球の監督が、ここはちょっと待てよと考え直して、代打をおくって みるような感じでしょうか。 自分がちょっと変わり、それにひかれて相手もちょっと変わり、 そうやって、相手と自分がちょっと響き会う。いろんなところに 通じるコツのようなことかとも思います。 素敵な体験談を聞かせていただき、ありがとうございます。 |