Page 1094 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼個人主義 ? 風鈴カザン 04/7/17(土) 18:48 ┣Re(1):個人主義 ? 敦煌 04/7/18(日) 8:50 ┃ ┗Re(2):個人主義 ? 風鈴カザン 04/7/18(日) 11:23 ┃ ┣ストーカー被害ーー畜生にも劣る恐るべき加害者 風鈴カザン 04/7/18(日) 15:04 ┃ ┃ ┗Re(1):ストーカー被害ーー畜生にも劣る恐るべき加害者 敦煌 04/7/19(月) 2:04 ┃ ┗Re(3):個人主義 ? 団塊党 04/7/19(月) 17:08 ┃ ┗Re(4):個人主義 ? 風鈴カザン 04/7/19(月) 18:59 ┃ ┗Re(5):個人主義 ? 団塊党 04/7/19(月) 19:58 ┃ ┗Re(6):個人主義 ? 風鈴カザン 04/7/20(火) 11:44 ┃ ┗Re(7):個人主義 ? 団塊党 04/7/21(水) 0:57 ┃ ┣Re(8):個人主義 ? ニック 04/7/21(水) 10:09 ┃ ┃ ┗Re(9):個人主義 ? 団塊党 04/7/23(金) 18:58 ┃ ┗Re(8):個人主義 ? 風鈴カザン 04/7/23(金) 19:02 ┃ ┣Re(9):個人主義 ? 団塊党 04/7/23(金) 19:48 ┃ ┃ ┣Re(10):個人主義 ? ニック 04/7/23(金) 20:18 ┃ ┃ ┗Re(10):個人主義 ? 風鈴カザン 04/7/23(金) 21:35 ┃ ┃ ┗Re(11):個人主義 ? 団塊党 04/7/24(土) 7:13 ┃ ┃ ┗Re(12):個人主義 ? 風鈴カザン 04/7/24(土) 10:45 ┃ ┃ ┗Re(13):個人主義 ? 団塊党 04/7/24(土) 11:20 ┃ ┗Re(9):個人主義 ? ごまめの翁 04/7/23(金) 20:10 ┣Re(1):個人主義 ? ごまめの翁 04/7/19(月) 11:11 ┃ ┣Re(2):個人主義 ? ニック 04/7/19(月) 11:30 ┃ ┗Re(2):個人主義 ? 風鈴カザン 04/7/19(月) 15:17 ┃ ┗Re(3):個人主義と利己主義 ごまめの翁 04/7/19(月) 17:24 ┃ ┣Re(4):個人主義と利己主義 ニック 04/7/19(月) 17:37 ┃ ┗「自愛」と「利己」の違いでは。 ぎみゆら 04/7/19(月) 20:08 ┃ ┣Re(1):「自愛」のぎみゆらさま ごまめの翁 04/7/19(月) 22:44 ┃ ┃ ┗無四球試合達成(笑) ぎみゆら 04/7/20(火) 13:49 ┃ ┗Re(1):「自愛」と「利己」の違いでは。 桃李 04/7/20(火) 0:42 ┃ ┗Re(2):「自愛」と「利己」の違いでは。 ぎみゆら 04/7/22(木) 11:39 ┃ ┣Re(3):「自愛」と「利己」女と男 ごまめの翁 04/7/22(木) 17:09 ┃ ┣Re(3):「自愛」と「利己」の違いでは。 桃李 04/7/22(木) 19:45 ┃ ┗自分一人で抱え込まない。 ぎみゆら 04/7/23(金) 11:12 ┣Re(1):個人主義 ? 頑固生きがい 04/7/19(月) 22:20 ┣若者から一言。 ハマー 04/7/23(金) 3:08 ┣Re(1):個人主義 ? 珍 源齋 04/7/23(金) 8:20 ┃ ┗Re(2):個人主義 ? ごまめの翁 04/7/23(金) 10:19 ┗夏目漱石『私の個人主義』を読んで Ray 04/7/24(土) 11:38 ┗Re(1):夏目漱石『私の個人主義』を読んで 風鈴カザン 04/7/24(土) 17:04 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 個人主義 ? ■名前 : 風鈴カザン ■日付 : 04/7/17(土) 18:48 -------------------------------------------------------------------------
何でもかんでも「個人」ばかりを優先すれば言いと言う考えは、いかがなものか。 世の中は自分を中心に周っているのではなく、自分の属す会社や組織、またそれの属する 地域社会、それを束ねる国家、そして国家同士の関係性、こういったもののバランスの上に 成り立っているのであり、一部の風潮のように全てを個人の意志や趣向を優先させようとして、 逆にその周りの者や社会が、一人の我侭により迷惑をこうむる事も辞さないような本末転倒、美辞麗句の オブラートでくるまれた単なる自己中心主義は、私は無責任と思うし、時として滅私の 精神を持ち、微力ながら社会に貢献していこうという気概の甚だしく希薄な社会風潮は、 エロ雑誌やポルノビデオなんかよりも、よほど有害な海外からの輸入物ではないかと、 平生より思われてならない。 勿論、大昔と違い、一定の人権や個人の権利を認めるというのは、制度面からもあってしかるべきと 思うが、例えば一人の地権者が理不尽にごねることによって、社会に必要不可欠な施設の建設が 全く滞るとか、自分の信条だから卒業式では起立もせず国家も歌わないが、好きなサッカー の応援の時には、顔に日の丸を描いて一所懸命に応援すると言った、矛盾に満ちた手前勝手 な行動は、大局的に見ると、むしろ社会の大きな不安定要因になり、百害あって一利もないという気がしてならない。 個人個人と唱えるだけでなく、電車では若者・健常者は老人弱者に席を譲るといった些細な日常も含めて、 もう少し、我慢したり社会に貢献しようという風潮になれば、今よりも随分と住み良い日本になると思う。 年配者や障害者もいるような満員電車で、幅を取り大声で喋り散らかす若者を見るに付け、 正にこういう輩こそ、義務も果たさず「個人個人」とのたまうかと思えば、何と軽薄な 「個人主義」と嘆く事、しばしばである。 時として自分を犠牲にすることも出来て、初めて「個人」というのが客観的相対的に見ても 相応の価値を持ちうると、私は思う。 |
▼風鈴カザンさん: >何でもかんでも「個人」ばかりを優先すれば言いと言う考えは、いかがなものか。 >世の中は自分を中心に周っているのではなく、自分の属す会社や組織、またそれの属する >地域社会、それを束ねる国家、そして国家同士の関係性、こういったもののバランスの上に >成り立っているのであり、一部の風潮のように全てを個人の意志や趣向を優先させようとして、 >逆にその周りの者や社会が、一人の我侭により迷惑をこうむる事も辞さないような本末転倒、美辞麗句の >オブラートでくるまれた単なる自己中心主義は、私は無責任と思うし、時として滅私の >精神を持ち、微力ながら社会に貢献していこうという気概の甚だしく希薄な社会風潮は、 >エロ雑誌やポルノビデオなんかよりも、よほど有害な海外からの輸入物ではないかと、 >平生より思われてならない。 > >勿論、大昔と違い、一定の人権や個人の権利を認めるというのは、制度面からもあってしかるべきと >思うが、例えば一人の地権者が理不尽にごねることによって、社会に必要不可欠な施設の建設が >全く滞るとか、自分の信条だから卒業式では起立もせず国家も歌わないが、好きなサッカー >の応援の時には、顔に日の丸を描いて一所懸命に応援すると言った、矛盾に満ちた手前勝手 >な行動は、大局的に見ると、むしろ社会の大きな不安定要因になり、百害あって一利もないという気がしてならない。 > >個人個人と唱えるだけでなく、電車では若者・健常者は老人弱者に席を譲るといった些細な日常も含めて、 >もう少し、我慢したり社会に貢献しようという風潮になれば、今よりも随分と住み良い日本になると思う。 >年配者や障害者もいるような満員電車で、幅を取り大声で喋り散らかす若者を見るに付け、 >正にこういう輩こそ、義務も果たさず「個人個人」とのたまうかと思えば、何と軽薄な >「個人主義」と嘆く事、しばしばである。 > >時として自分を犠牲にすることも出来て、初めて「個人」というのが客観的相対的に見ても >相応の価値を持ちうると、私は思う。 本当に・・・年端もいかない子供のうちから電車やバスの中で座席に座る。などという不届きを許す親。授業中、私語や携帯電話の使用を漫然と黙認する教師。 公共心を育てる環境にない。例えば、食事の時、器を手に持って・・・とか、箸と箸で物を取り合わない。とか、極端な話。箸の持ち方すら教えない親が、公共の場での立ち振る舞いなどという高等な礼儀、作法など教えるべくもありません。 故に、現在の状況は「個人主義」などという立派で高尚なものでなく、 単なる「身勝手」「我儘」の類でありまして、殊更にプライバシーが・・・ などというのもおかしな話で・・・皆さんそんなに、知られたら困る情報をお持ちなんでしょうか? 私など隠し財産もありませんし、交通違反程度で「犯歴」もありませんし、 知られて困る情報などこれといってありませんが・・・。 話を戻します。公共心を育てようとせず、思想教育(洗脳か!?)のような 教育を施す日教組や全教に傾倒した狂師。いつぞやありましたね、イラク戦争の是非を問題にして、日本の行動を間違いと答案した生徒には「点」をやり、日本支持の答案には「点」をやらない。などと・・・自分達がそうしてしまったのに、「荒れる学校。キレる生徒」などといっても聞く耳持てませんな・・・。 精神の教育を蔑ろにしてきた。戦後民主主義などという、幻想教育の「ツケ」を支払うべき時に来ているようですね。 社会に貢献などとは甚だ考えていないでしょう。と、申しましょうか、 日本国の国民である。というような気概すら感じられません。 「恥を知る」などという言葉は死語になりつつあり・・・ 義理、人情などは、完全に死んでしまいました。(刃傷はたくさんありますが・・・)行過ぎた個人主義は、「護憲」思想と一緒で、著しく国益を損じますし、 社会の荒廃を意味します。 |
>単なる「身勝手」「我儘」の類でありまして そうですね。ほとんど義務を無視して権利しか主張しない「個人主義」というのは、 正に、身勝手、我がままという単語を誤魔化しやすく言い換えただけかと存じます。 いかにも物分りの良い顔をした老人は、「今時の若者は」といって無論その全てではなくとも 昨今の若者の頽廃した風俗を嘆くと、「何時の時代も年寄りは、若者をそう嘆いたもんだ」 と、やれ、何時の時代のなんとかはこう言った、あいつはこうも言った、と引き合いを使っては、 「そんなことは、ないんだよ」なんてしたり顔になりますが、私は決してそうは思いません。 確かに、今の若者には今の老人の若かった時代よりも自由闊達に物を考え、行動する性向 があるなど、何も負の面ばかりではないことは言うまでもないですが、社会の中で生きている 一個人としての、あるべき行動様式、思考傾向を観察すれば、勿論皆が皆ではないにしても 全体として、権利ばかり主張する我がまま坊主の割合が著しく増加している事は、 これは紛れもない事実であると思う。公共の場で如何に行動すべきか、という視点が ごッそり抜け落ちて、欲望のままにしか動けない畜生のような人間が少なからずいる事は 非常に大きな問題と考えます。 一例をあげれば、学級崩壊というのが問題になっていますが、これなんかは年端も行かない ガキどもに、「個」の尊重だの、権利だのを「過剰」に与えすぎた結果、調子に乗って、 小学生の時分から、授業中騒いで勝手にトイレに行ったりするという荒んだ現象に歯止めが かからなくなっているだけで、我慢したり、人を思いやったり、いたわったり、またそうして 人を支え支えられて社会と言うのは、連綿と続いてきたと言う事を身をもって教えていないことが、 本質的な原因であると考えます。 騒いで言う事をきかないガキに対しては、最も簡単かつ有効な対処方法は、びんたでもして 叱ってやる事です。 バケツに水でも入れて、廊下に立たせておけばいいんです。すると昨今はすぐに色んなところから 文句が来て、体罰だ何だと喧しいからこういう事が出来ないけども、半人前の子供というのは 理性よりも感情的欲求が先走りますから、時としていわば「愛のムチ」をふるうことは 教育上至極当然、必要不可欠なものです。たかが、ビンタすらされた経験のない痛みの分らぬ 人間は、安易に他者を傷つけてしまうものです。 ただ、こう言う話しをすると、すぐに暴力礼賛とか軍国主義がどうのこうのと馬鹿な事を 言い出す人がいるから困ったものですが。 簡単にまとめますと、個人が光るのはただただわがままを通して目立つからでは決してなく、 むしろ時としてさり気なく社会に貢献したり、家族や周りの人々の為に汗を流し流されているような 関係性の延長線上にこそ、輝きが生まれるのだと私は考えます。 |
新聞紙上などでは、もてないブ男などが横恋慕したり、相手がどれほど嫌がって嫌われても 女性に付き纏い、精神的肉体的に相当な被害をもたらす事件が後を絶ちません。 しつこいのになると、裁判で相応の判決が出ても嫌がる相手に相変わらずつきまとい、 その相手の人生を目茶目茶にしてしまうこともあるそうです。 もっと酷いのになると、相手を殺してしまう例さえあります。 こんな短絡的で利己的な欲求の餌食になる被害者ほど、気の毒な方もみえません。 こう言う事件の犯人は、正に「自分さえよければいい」「相手のことなんてどうでも良い」 としか考えられない人間の典型的末路と言えます。 喩え某かの約束(つまり、もう合わないとか接触しないとか、お互いの目に付くところで関わらない等) を相手と交わそうとも、一切その意味を考えず、自らのくだらない欲望を満たす事のみに 腐心することを唯一の生き甲斐にしている、ごく一部の末期ストーカーというのは、全く性質が悪いと言ったらありません。 喧嘩の時などに使う言葉で「畜生!」という単語がありますが、畜生というのは本来こんな 馬鹿げた行為はしませんから、こういうストーカー病患者は、文字通り「畜生にも劣る」 どうしようもない人といえましょう。 先にも述べた通り、現代社会において「個人」が全く蔑ろにされて良いかといえば、そんなことは ある筈がなく、当然一定の配慮がなされてしかるべきで、例えば度を越さない言論の自由なども そのうちに入るかと存じます。 しかし、「個人主義」が先鋭化すると、稀に上記のような自分さえ良ければ、あとはどうでもいい、 という人間としてこれ以上、下のないと思われる、下劣な思想にまみれ、思いやりのかけらもない化け物が 誕生する事となるのです。 勿論、ここまで酷い例は、そうそうあるものではないですし、「個人主義」=ストーカーでは 決してありません。ただ、そう言うものを生み出す下地になり得る、「極端な個人主義」 については、社会が相応の警戒心を払う必要があるかと存じますし、また、こういった極悪事件 を未然に防ぐ為にも、もう少しひとりひとりが自分のことだけでなく、他者を思いやる心を 育んでいけるような社会であたならば、自然と今よりも住みやすい快適な世の中になるかと思います。 |
▼風鈴カザンさん: >新聞紙上などでは、もてないブ男などが横恋慕したり、相手がどれほど嫌がって嫌われても >女性に付き纏い、精神的肉体的に相当な被害をもたらす事件が後を絶ちません。 >しつこいのになると、裁判で相応の判決が出ても嫌がる相手に相変わらずつきまとい、 >その相手の人生を目茶目茶にしてしまうこともあるそうです。 >もっと酷いのになると、相手を殺してしまう例さえあります。 >こんな短絡的で利己的な欲求の餌食になる被害者ほど、気の毒な方もみえません。 >こう言う事件の犯人は、正に「自分さえよければいい」「相手のことなんてどうでも良い」 >としか考えられない人間の典型的末路と言えます。 >喩え某かの約束(つまり、もう合わないとか接触しないとか、お互いの目に付くところで関わらない等) >を相手と交わそうとも、一切その意味を考えず、自らのくだらない欲望を満たす事のみに >腐心することを唯一の生き甲斐にしている、ごく一部の末期ストーカーというのは、全く性質が悪いと言ったらありません。 >喧嘩の時などに使う言葉で「畜生!」という単語がありますが、畜生というのは本来こんな >馬鹿げた行為はしませんから、こういうストーカー病患者は、文字通り「畜生にも劣る」 >どうしようもない人といえましょう。 > >先にも述べた通り、現代社会において「個人」が全く蔑ろにされて良いかといえば、そんなことは >ある筈がなく、当然一定の配慮がなされてしかるべきで、例えば度を越さない言論の自由なども >そのうちに入るかと存じます。 >しかし、「個人主義」が先鋭化すると、稀に上記のような自分さえ良ければ、あとはどうでもいい、 >という人間としてこれ以上、下のないと思われる、下劣な思想にまみれ、思いやりのかけらもない化け物が >誕生する事となるのです。 > >勿論、ここまで酷い例は、そうそうあるものではないですし、「個人主義」=ストーカーでは >決してありません。ただ、そう言うものを生み出す下地になり得る、「極端な個人主義」 >については、社会が相応の警戒心を払う必要があるかと存じますし、また、こういった極悪事件 >を未然に防ぐ為にも、もう少しひとりひとりが自分のことだけでなく、他者を思いやる心を >育んでいけるような社会であたならば、自然と今よりも住みやすい快適な世の中になるかと思います。 何年か前に、部下の女性から相談を受けました。 彼女が持ってきたのは夥しい数の写真でした。それに写っていたのは 通勤途上の彼女を望遠を使い、克明に撮影したものでした。(日付と時刻入り) それこそ、家を出てクルマに乗り込むところから、退出し、家に帰るまでを35ミリ36枚撮りで毎日撮影したものでした。電話もかなりの回数繋ってきていて 言い知れぬ恐怖感で、ノイローゼの一歩手前でした。 警察にも相談しましたが、担当した警察官に興味本位のようなことを聞かれた挙句 「実際に、何か暴力などをした訳ではないので、検挙できない」(対策法施行前) と言われ、もって行き様がなかったわけですが、ひょんなことからやっている人間(畜生以下)が以外に近い人間だと判って、私のところに来たようです。 早速、総務などの関係部門の長と協議しましたところ、放置できない重大な問題ということで、社内調査になりました。 なぜ判明したかと申しますと、この畜生以下。社員旅行の詳細な日程が分かっていたようで・・・。ご丁寧に、旅行中の彼女も撮っていました。 プロの探偵社にお願いしたところ、あっという間に他所の部署の社員が一人が浮かび上がって参りました。私はこの畜生以下を呼び、真偽を問い正したところあっさり認めました。 が、二の句が「恋愛は自由でしょう?会社に干渉される理由がありません」と宣い ました。何処にそんな恋愛があるのでしょう!? 相手に意思表示をしたわけでもなく、ましてや実際の交際事実もないのに・・・ 当の本人は、恋愛だと思い込んでいる。 誠に、恐れ入谷の鬼子母神という感じで、開いた口が塞がらなかったのですが とりあえず、していることは「社会人の常識から外れた行動であって、会社としては容認できない」こんなことを、一端の大人に言わなければならないのか!?と 正直情けない思いでした。 自分が、相手をこんなに想い。恋焦がれているのだから、相手もきっとそうだろう!?などと「身勝手」で「我儘」な「思い込み」をし、「迷惑」など考えない 「自己中心的」な発想です。なぜ、面と向かって自分の意思を相手に伝えられないのか?本当に理解に苦しみます。恋愛など、殆どそれのみ、ではありませんか? 傷つくのが怖いから・・・などと仰る方もいらっしゃいますが、人生のうちには そんなことは多々あることです。避けては通れないことを自身で解決できないようでは、「生きていく資格」すらない。と言えましょう。 結局。警告を無視した彼は、懲戒解雇になり、その後は存じませんが・・・。 警告を受けた後も、彼女に執拗に付き纏っていたわけですから、「救いようのない」変態です。解雇された後に、親が会社に来て人事に食って掛った。 と及び聞くにいたっては・・・この子にして、この親ですね。 幼年期から、何でも両親や周囲が解決してしまい「純粋培養」の賜物が この体たらくです。本当に「自分さえ良ければいい」と公言し憚らない親も 居りますから世も末の感がございます。 こんな経験もありました。次男が運動会の徒競走の練習で、ある同級生に勝って1位になりました。すると、その同級生が「抜いてはダメ」だと次男に言ってきたというのです。聞けば転校生の彼は、以前の学校ではクラスで一番だったらしく、転校してきたら自分が一番ではなくなってしまった。何度やっても勝てないウチの次男が気に入らなかった様ですが、ここまでなら単なる子供の世界の話ですが、 あろう事か、この彼の親が、運動会当日に、出走グループを換えてくれ!と 担任に直訴したというんです。担任が断ると校長に言っていったというんですから・・・。これはもう論外な「親バカ」です。 こんな「我儘」な横車を、親が押してどうするのか?決して本人の為にはならない。と思いますが・・・。 大体。ストーカーなどという横文字で格好良くしているのも如何でしょうか? 単なる「変態」ですし。フリーターなどというのも「プータロー」です。 ウェイターだって「給仕」ですし、もっと汚い言葉で言えば「テーブル乞食」です。やはり、最終的には「教育の問題」になってしまうのでしょうか? |
▼風鈴カザンさん: >騒いで言う事をきかないガキに対しては、最も簡単かつ有効な対処方法は、びんたでもして >叱ってやる事です。 >バケツに水でも入れて、廊下に立たせておけばいいんです。 今の子ども達に我慢が足りないとか、人への思いやりが欠けているとかいう面は確かにあります。 しかし、上記で仰るような方法で問題が解決するのなら、学級崩壊などは起こっていないと思います。 私の教師体験から言えば逆なんですね。 一人一人に愛情をかけ、大事にしてあげれば子どもはどんどんよくなります。 それさえあれば叱ろうが褒めようが学級崩壊などは起こりようがないと思います。 学級崩壊の起こるクラスに限って、教師の腕力で押さえつけ、子どもを十把一絡げにして冷たく対応しているんです。 その時は表面上は収まっていても、後から受け持つ優しい女の先生になると途端にそれまでのつけが回って暴れ出すんです。 牛を飼う農家の人は愛情をかけて世話をすればするほど、乳の出が良いと言います。 また、先日テレビで鷹匠の話を聞きましたが、その人の話では先代の父親の家訓として「鷹を殴るな。」というのがあるそうです。 一回でも殴ると鷹は言うことを聞かなくなるそうです。 子どもも同じです。 愛情をかける先生ほど、子どもは言うことを聞きます。 また、そういう先生が厳しく叱ると子どもはそれを内面的に深く受け止めることができます。 私は最近このことをますます感じるようになりました。 それだけでなく暴力や戦争を否定する立場からも、安易な体罰は否定したいと思います。 体罰をしながら、暴力や戦争の間違いを子どもに教えることは出来ませんから。 |
なんとなく、どなたからか、同様な反応があると予想しておりました。 あくまでこれは、行き過ぎた個人主義の悪弊の一側面に過ぎませんから、議論がここのみに 集約されない事を密かに願いますが。 さて、私は何も、何でもかんでも、びんたしろという意味で言った訳ではありません。 話して通じる場合は言葉で言えばいいです。 ただ、「話せば分る」というのは微妙な言い回しで、話せば分る「場合もあればそうでない場合もある」 というのが実情です。 >私の教師体験から言えば逆なんですね。 >一人一人に愛情をかけ、大事にしてあげれば子どもはどんどんよくなります。 >それさえあれば叱ろうが褒めようが学級崩壊などは起こりようがないと思います。 まったく否定する気はありません。愛情をもって接する事が大切なのは当然です。 しかし、現実は昔と比べてどんどん学級崩壊その他の学校崩壊現象が増加していますね。 私の考えでは、まず子供が大人(学校で言えば先生)に対して、対等意識を持ちすぎていることが、いけません。 学校でも家庭でも、大人と子供が平等であっていいはずがないのです。 子供はあくまで大人の庇護がなければ生きていけないんですから。また、そういう当たり前の事を 実感として小さいころから教えてやる事はとても大切と思います。 >学級崩壊の起こるクラスに限って、教師の腕力で押さえつけ、子どもを十把一絡げにし >て冷たく対応しているんです 私はそうは思いません。仮にそういうクラスがあるとしたなら、それは単におっしゃる教師が 「殴るだけ」でそこに愛情がなく、また、技量がないからでしょう。 時として、子供にびんたでものの是非を教えることは、決して「腕力で押さえつけ」ることでもなければ、「冷たく対応している」訳でもありません。 愛情を持ってびんたするということは、される子供よりもする方が、よほど心が痛むと言う事を あなたは恐らく理解しておられないです。 >後から受け持つ優しい女の先生になると途端にそれまでのつけが回って暴れ出すんです。 これなんかは、場合にもよりますが、私はその教師が「優しい」からなのではなく、 むしろ教師としての技量が不足して、本質的に「冷たい」から敏感な子供に察知された結果である 可能性のほうが高いと思います(あくまで一般論です)。 時として(いつもではないですよ、しつこいようですが)、身をもって相手に分らせる ということと愛情がないということは全く結びつきません。むしろ逆に、どうして言い聞かせても やんちゃを止めない子供に対してまで、びんたひとつできない教師は、単に一時的に嫌われる事を 恐れて、心から子供の為を思っておらず、また真の愛情に欠けているからに他ならないと言う気がします。 私には、場合によっては必要な、びんたまで、短絡的に「暴力」と言う言葉と結びつけて 子供に過保護になる事は、正に「行き過ぎた個人主義」の発露と考えます。 |
▼風鈴カザンさん: >時として(いつもではないですよ、しつこいようですが)、身をもって相手に分らせる >ということと愛情がないということは全く結びつきません。むしろ逆に、どうして言い聞かせても >やんちゃを止めない子供に対してまで、びんたひとつできない教師は、単に一時的に嫌われる事を >恐れて、心から子供の為を思っておらず、また真の愛情に欠けているからに他ならないと言う気がします。 > >私には、場合によっては必要な、びんたまで、短絡的に「暴力」と言う言葉と結びつけて >子供に過保護になる事は、正に「行き過ぎた個人主義」の発露と考えます。 全面的に体罰を肯定されているのではないようですね。 厳しく叱るにしてもそこに愛情が必要だということで一致できたのは良かったと思います。 しかし、私の場合はどんな場合も全面的に体罰は否定します。 体罰に頼るのは教師の敗北を認めるということです。 それだけの技量しかないということです。 私も行きすぎた個人主義(利己主義)は反対ですが、体罰を肯定する気にはなれません。 そこがあなたとの違う点ですね。 愛情の余り思わず手が出たというのまで否定する気はありませんが・・・ 思わず手が出るのと、体罰を肯定するのとでは大きな違いがあります。 あなたのはどちらでしょうか。 後者ならかなり問題だと思います。 子どもの虐待が社会問題になるような時代です。 大人も子どもも切れやすい、暴力に走りやすい時代です。 このような時代には根の深い問題が横たわっています。 そこをしっかり見据えていかないと、体罰が逆に問題を大きくすることはいくらだってあるのです。(親からクレームが出るという意味ではなく) |
>思わず手が出るのと、体罰を肯定するのとでは大きな違いがあります。 この辺は言葉の定義とか受け取り方の問題でもある気がしますが微妙ですね。 「思わず」手が出る、というのは見方によれば感情に走りすぎて自分をコントロールできていない 状況を指すとも取れますから、そういった観点から見れば冷静さを欠いた状態で手が出る事を 全面的に肯定すべきか否かと言えば、私の判定は灰色、つまりどちらでもありません。 また、「体罰」という言葉の辞書的な意味は >こらしめのために、身体的な苦痛を与えること(大辞林 第二版) らしいですが、先にも述べたようにどう話しても聞き分けのない、やんちゃ坊主に、 時として「こらしめのために、身体的な苦痛を与える」意味も含めたびんたくらいは、 問題ないかと思います。(というか、むしろ「時として」必要) こう言った行為を十把一絡げに「暴力」とか「愛情がない」と断定する事は良くありません。 >体罰が逆に問題を大きくすることはいくらだってあるのです これは、いわゆる虐待や「愛情のない」或いは教師であるならば「技量に欠ける」体罰であるならば、 そういう結果を生じさせる事はあるでしょう。 それこそ、加減を知らず大きな怪我を負わせたり、余計に根性の捻じ曲がった子供にしてしまったのなら、 それは、単に教師が悪いか、若しくは子供に原因がある可能性があります。いくら子供と言っても、 親や教師がこれ以上なく愛情を降り注いでやったとして、100%「いい子」になるかと言えば、 中には残念ながら、どうやっても根性がひねくれてしまった可哀想な子もいるでしょう。 子供の教育は親が一番責務を負うのは当たり前ですが、学校教育に付いては当然、 現場教師が責任者たるべきですし、今の学校の荒廃を見聞きするに付け、教師は今の教育方法について 反省し、変えるべき点は変えないといけない気がします。 ちなみに「時と場合によっては必要な」びんたくらいは、昔のように行われるようになる事も 変更すべき重要な課題と私は思います。 |
▼風鈴カザンさん: 思わず手が出ることを私は肯定しているわけではありません。 ただ、止むにやまれぬ愛情から出た行為として気持ちは理解できるということです。 いずれにしても手を出すことがそんなに有効な方法だとは思いません。 ましてや愛情があるからと言って手を出すことを始めから肯定するのは間違っています。 手を出すことが厳しさを教えることになると短絡するのは非常に危険です。 そういう間違いを犯している事例がいかにに多いことか。 新聞沙汰になるような事件の中に暴力が絡んでいることは大変多いのではないですか? 愛情があるからと言ってそれが相手に伝わる保証はないでしょう。 むしろ憎しみを増すだけの方が多いと思います。 それは技量が足りないからだ等といった理屈は言わないでください。 厳しさを教える方法は他にたくさんあります。 あなたは体罰をしたりされたりした経験がありますか? 私はびんたはありませんが、こづいたりお尻をたたいたりしたことはあります。 又、中学の時、担任の先生からびんたをされたことはあります。 いずれも、そのことで何か有効な教育がなされたという実感はありません。 嫌な気持ちが残るだけです。 万に一つ体罰が有効な教育になりうることもあるかも知れませんが、それが体罰を肯定する理由にはならないでしょう。 それはたまたま効果があっただけのことです。 有効な教育方法として認知されるには、高い確率で効果があるということを多くの人から認められなければなりません。 あなたが今の教育状況に厳しさが足りないと感じておられるのなら、それは私も同感です。 しかし、それがすぐに体罰の肯定には結びつかないのではないですか? 前にも言いましたが、体罰で解決するのは、教師としての技量が無いことを証明することになるので私はやりたくありませんね。 厳しさを教える方法は体罰を使わなくてもいくらでもあるんだと考えるのが教育のプロとしての姿勢だと思います。 |
私の居た高校にも素晴らしい先生が居ました、寡黙な方でしたが、怒ると言う事もあまりしない先生でしたが、威厳があり山男のような髭を生やしてらっしゃったので、生徒の信頼が抜群でした。 学際の時に他のクラスが「飛翔」など、それっぽい言葉の垂れ幕を作っていたときに、私のクラスは「〇〇先生ありがとう」と言う垂れ幕を掲げました。 暴力に訴えなくても、人徳があれば生徒は懐くものだと思います、そう言った意味で団塊党様のおっしゃるような方針が私は正しいと思います。 何でも殴りつければ相手は言う事を聞くと言うような考え方は、イコール暴力で他国に言う事を聞かせられると言う考え方に至ります。 私の過去の経験でも、安易に暴力を振るう教師は、その時は生徒は恐れるので言う事を聞くが、影では皆悪口を言っていたものです。 犬でも暴力で躾れば、卑屈になるか攻撃的になるかのどちらかでしょう、真っ直ぐに育つ例は稀だと思います。 暴力を肯定する方々に好戦的軍国主義者が多いのは何とも皮肉な話ですが、考え方が暴力で相手に言う事をきかせようと言う所にその様な傾向があらわれるのでしょうか。 |
ニックさん同感です。 紛争を武力で解決しないと言う憲法9条の理念を尊重する教師なら、絶対に体罰はしないということを決意すべきだと思います。 |
簡単に言えば「愛のムチ」は、ありなのか、それも駄目なのか、という話しで、 あなたはそれも駄目、私はそれは必要な時には良し、とこう言っているんですね。 私としては「愛のムチ」と暴力というものは、全くイコールで結びつけるものではないが、 あなたは、とにかく肉体的に相応の負荷の掛かる衝撃を人間が対人間に行った場合、 基本的に全部「体罰」「暴力」という捉え方と思うけども、私はそう思わない、と言う事です。 私の知る限り、現在のいろんな職業をざっと見渡して、最も堕落して、かつ改善すべき余地の大きい職は教師です。 勿論何十万人か或いはもっとかいる中で、全部いい、悪いという事ではないが、 国の根幹を成す教育(つまり結果として育った子供)を、ここまで時間をかけだめなものにしたのは、 親の次には教師であると思えてなりません。 あなたはしきりに愛、愛という。実際、仮にあなたは「愛」をもって子供に接しているとします。 しかし、多くの教師に「愛」「道徳」「教育者としての技量」が欠如しているからこそ、 「欧米化」しつつある荒廃した教育現場が雪達磨式に増えていっていると思います。 本来「聖職者」とされる教職につく者が、果たしてそう呼ばれるに値するかといえば、 甚だ疑わしいと思わざるを得ないですね。また、「結果責任」を求められるのは何も政治家ばかりでなく、 教師とて例外である訳がありません。そうであるなら今のやり方に問題があるからであって、 「愛のムチ」というのはその改善する点の一環として、誤ったことだとは私は思えません。 |
▼風鈴カザンさん: 肝心なことは教師の教えたいことが子どもに伝わるかどうかです。 教師の熱意とともにそれが伝わるかどうかです。 何としてでもこれを分からせたいという熱意がこちら側にあれば子どもは分かってくれます。 昨日、富山の女子高生2人が祭りの見物をしていた人を背中から包丁で刺すという事件がありました。 全く見ず知らずの人を刺したということです。 「むかついていた。21日から相手を探していた。誰でも良かったし、死んでも構わないと思っていた」と供述しているそうです。 こういう事件をどう思いますか。 どんなサインを大人に出しているのでしょうか。 今の子ども達は相当根の深い問題をうちに抱え込んでいます。 そこに焦点を当てた議論をしていくことが必要じゃないでしょうか。 単純に体罰肯定に話を持っていくのは非常に危険な気がします。 |
「軍隊に入れて教育すればましになる」、「今の若いやつはマナーがなってないから」と言う発言と、「愛の鞭」と言う発言はリンクするのでしょうか? 愛の鞭は殴る方も心が痛む、お互いに苦しむと言う側面がありますが、軍隊に入れての教育に果たしてそれがあるのか非常に疑問です。 私の小学校の頃の教師に、気に入った子は贔屓するが、気に入らない子は邪険に扱う教師がおりました、しかも彼はHRではしきりに、如何に自分が卒業生の親から感謝されているかを長々と話し、問題児と思われる子供は「ボロ班」と言う班を作り、そこへ押しこみました。 叉、その班の子が盗みをしたりすると、教室中の子供に定規を持たせ、それを縦にして手加減し無いように子供達に言い含め、彼の手を定規で思いっきり叩かせました(クラス全員にやらせたのです) 私は子供ながらに、何故この人はこんな事をさせるのかと大いに疑問に思っていました、その叩かれた子の家庭環境は複雑で、両親が離婚し、父親が暴力的傾向の方だったと言います。 そんな家庭環境も考慮せず、ただ暴力に訴えるあの教師の顔が今も脳裏から離れません、こちらで、最初は「軍隊へ入れろ」言っておきながら、愛の鞭と言い方を変える傾向には正直、あの教師と同じものを感じてしまいます。 件の教師は、参観日など父兄が来る時になると、ボロ班を解散し、たの班へメンバーを紛れこませ、如何にも普段は自分のクラスに問題が無い風に装っていました、最初話した事と話し方を少しずつ変える人間には注意が必要だと良く考えたものです。 団塊党様の様に、生徒を理解しようと努める先生のクラスで問題が起こったのを私は見た事がありません(生徒を甘やかす教師は別ですが・・・) 愛の鞭は殴る方も苦しいもので、軍隊教育に果たしてそれがあるのかどうかは非常に疑問です、特に戦前の軍隊生活の経験談を読むと、殴る上官は非常に我侭で、中には部下を殺してしまう者も居たと言います、こう言うのを果たして愛の鞭と言うのでしょうか? 私にはどうも暴力的傾向のある方が詭弁を弄して、自己の考え方を正当性のある言葉のオブラートで包もうとしているとしか考えられません、やはり一番重要なのは、筋道を立ててとくとくと言って聞かせる事だと思います、初めに暴力ありきの考えでは力で相手を抑えつける傾向の子供が増えるだけですね。 |
>単純に体罰肯定に話を持っていくのは非常に危険な気がします。 これは流石に心外ですね。 ま、貴方がそう思うのなら自由ですけど、私が「単純」に「体罰肯定に話を持ってい」って いないことは書いた通りですので繰り返しません。 恐らく平行線でこれ以上何言っても、接点は見出せないような気がします。 止めましょう。 |
▼風鈴カザンさん: >ま、貴方がそう思うのなら自由ですけど、私が「単純」に「体罰肯定に話を持ってい」って >いないことは書いた通りですので繰り返しません。 > >恐らく平行線でこれ以上何言っても、接点は見出せないような気がします。 >止めましょう。 「単純に」という表現が適当でないようですので、 「今の子ども達の抱え込んでいる問題の難しさを考えないで体罰肯定に話を持っていくのは危険です。」に訂正します。 文脈をよく読んでもらえば、そういう意味で言ったことは理解してもらえると思います。 しかしやや言葉足らずだったことは認めます。 政治の話ではなく純粋に子どもの幸せと成長を願った教育の話ですから、中途半端な議論で終わるのは残念です。 それともやはりあなたの教育論の背景には政治的なものがあるのでしょうか。 今の子ども達の抱えている問題の難しさについてあなたはどう考えているのか、それと体罰肯定はどうつながるのか、その点だけでも応えてください。 |
>それともやはりあなたの教育論の背景には政治的なものがあるのでしょうか。 はっきり言って、こういうことを安易に相手に投げかけられるあなたの態度に、私は不快感を覚えます。 今までの話しの流れで、どこに「やはり」私の「教育論の背景には政治的なものがある」 という言葉が出てくるのでしょうか? 例えばですね、あるクラスに創価学会員の親を持つ生徒がいるとしますね。 で、学会の嫌いな教師がその生徒とのやり取りで、ちょっとした口論になったとします。 そこで「やはり君のお父さんが学会員ということと、そう言い張る事と無関係でない気がするよ、先生は。」 何て言うのと本質は全く変わりませんね。いちいち断るのも馬鹿らしいですが、私は創価学会は 好きではありません。あくまで一例として使っただけですけど、ただ相手が何者であろうと、 あなたみたく、出自やその他当人のバックボーンetcを元に、色眼鏡でしか見られない、 また自分の嫌いな相手の言い分は何でも否定的に決め付け、好きな相手の言い分は肯定的に 見がちな偏った態度は、教育者にとって最もあるまじき姿勢と思います。 少なくとも、客観的でなく公平でも公正でもない態度と思えてなりません。 もしも私がいきなり「やはりあなたには日教組の匂いがして、どうのこうの」 なんて言い出したら、あなた、どう思いますか?不快を通り越して、こいつ馬鹿なんじゃないの? って思いません? 「政治の話ではなく純粋に」体罰とは何で、またその是非を話していたに過ぎないのに、 こんな馬鹿げたレッテル貼りをされるのは、不快です。 さようなら。 |
▼風鈴カザンさん: >>それともやはりあなたの教育論の背景には政治的なものがあるのでしょうか。 > >はっきり言って、こういうことを安易に相手に投げかけられるあなたの態度に、私は不快感を覚えます。 >今までの話しの流れで、どこに「やはり」私の「教育論の背景には政治的なものがある」 >という言葉が出てくるのでしょうか? > よく読んで下さい。決めつけてはいません。 疑問文になっているでしょう。 あなたの日頃の発言と体罰肯定論はどこかで関係があるのかな?と思ったものですから、そう尋ねたまでです。 もし関係があるのでしたら議論の仕方も違ってきますからね。 それで気をワルするのはあなたの早とちりです。 私の問いかけに応えてもらえないで終わるのは残念です。 |
風鈴カザン様 >国の根幹を成す教育(つまり結果として育った子供)を、ここまで時間をかけだ>めなものにしたのは、 >親の次には教師であると思えてなりません。 まつたく其の通り、しかし真面目な教師も大勢いらっしゃったと思います。此の方々を身動き出来ない様にしたのはPTA(親)と駄目教師に文部省と日教組を入れて下さい。 私も昔は教師を志していましたが終戦で挫折。しかし師範学校に入学した時の訓辞の中の幾つかの中今でも覚えている事は、 己を大切にすること。それは人びとを大切にする事に通ずる。 君たちは何れ教職に付く。しかし「こんな問題が解けないのか」と云う様な教師にはなるな、なぜ此の問題が解けないのか、其れを分ってやる教師になってほしい。 当時は何となしに聞いていましたが、後年、其の意味がよく分りました。 |
横スレで恐れ入ります。 御書きに成っている事ごくあたり前な事で全部ご尤もな事ばかりです。 難しい事は書けませんが、政治家はもとよりマスコミすら個人主義を感じているのは私だけではないと思います。 現在の少子化や子殺しが問題に成っています。此れ等も個人主義と云おうか利己主義の結果だと思います。 国家は女性が子供を生み育てやすい環境をと言っていますが、此れだけ間違った個人主義がまん延した社会になった日本を変えるには、政治家から教育のしなおしが必要ではないでしょうか。 兎に角近世はゴネ得が大手をふって歩いているのが気に成ります。 |
ちょっと異論があるのですが、政治家のは個人主義と言うよりは団体主義ではないでしょうか? 特に派閥単位の行動と、それぞれに異論があっても結局は長いものに巻かれる自民党の行動を見て居るとそう思います。 |
>政治家はもとよりマスコミすら個人主義を感じているのは私だけではないと思います そうですね。政治家もマスコミも決して全ては有りませんが、口先では「国民の為」 「視聴者の為」と耳障りのいい事を言いながら、その実政治家であれば手を変え品を変え、 賄賂を受け取ったり秘書給与を誤魔化したりして、不当に金品をせしめることに精を出したり、 多くのマスコミも結局は視聴者の為ではなく、「視聴率の為」「発行部数を伸ばし、より利潤を得る為」 に事件の捏造、マッチポンプ、偏向報道、こういったことに腐心している大マスコミが、 後を絶ちませんね。 >現在の少子化や子殺しが問題に成っています。此れ等も個人主義と云おうか利己主義の結果だと思います。 そうですね。勿論少子化や子殺しの原因が、行き過ぎた個人主義のみに帰結させられる訳はないですが、 今の「自分さえ良ければよい」「人がいくら嫌がっても、自分がしたい、言いたいことは 何をやっても言っても構わない」と考える一部の奇形個人主義的考え方が、大きな原因と なっていることは疑いありません。 >此れだけ間違った個人主義がまん延した社会になった日本を変えるには、政治家から教育のしなおしが必要ではないでしょうか これは、一理あるかと存じます。国民の代表者たる政治家に一定以上の道徳観念が必要な事は、衆目の一致するところでしょう。 ただ、ケネディではありませんが、国民自体も、今よりもっと自発的・能動的に社会を向上させようとする動きがあっていいかと存じます。 例えば、選挙の投票率の低さなど身近な例ですが、特別な事でなくとも、そういった ひとつひとつの当たり前の義務を、もう少し皆がちゃんと果たせるようになって行けば、 自ずと「個」は確立され、尊重されていくことでしょう。 何でも、おんぶにだっこで、国、役所、会社、そういったところ「のみ」に責任を押し付けてしまうようでは 世間ではそんな「個人」など誰も相手にしませんし、そういう口だけの我侭な「個人」が 寄り集まっても、碌な社会にならないことは自明です。 誰にとっても自分自身、つまり「個人」が大切である事は言うまでもありません。 ただ、その個人という概念は、あくまで単独で成り立つ物ではなく、地域や組織、ご近所、 友人、家族、そういったものとの調和の取れた支えあう関係性のなかで、はじめて意味のあるもの として成り立つのだと思います。 |
ニックさま 風鈴カザンさま 卓越なるご意見有難うございます。先程少し触れましたが、個人主義も2つの考え方が有り、利己主義との区別が必要かと思います。本当の個人主義の場合自己の責任が生じる様に感じ利己主義の場合、何事も己中心に物事を考える様に感じますが如何なものでしょう。 戦後の日本の場合はこの利己主義か蔓延して現在の様な社会になった様に思います。 |
全くおっしゃる通りと思います、利己主義的考え方を無くす事が最も重要な事でしょう。 ごまめの翁様には上手に纏めて頂きました、有難う御座いました。 |
ごまめの翁さん、みなさん、こんにちは。 ごまめの翁さんが、短く上手にまとめてくださいました。 ほぼ同趣旨のことかとも思いますが、私は最近、この種のことについて、 「自愛」と「利己」の、表面上の類似と本質的な違いと理解しています。 しばらく前から、「自愛」という言葉が、とても好きになりました。 手紙の結びなどでよく使われる、「どうぞご自愛ください」という、 あの自愛です。要するに、自分を大事にする、ということです。 自分を大事にするということのなかには、まず健康であること、自分を いたずらに傷つけないということがあり、加えて、自分自身の考えを しっかりと持つということがあります。いつも自分の肌身と頭で考える。 自分をできるだけよい状態に保ち、自分自身の考えを持ち、自分の 持てる力を、たとえそれが小さなものであっても、自分の中から十分に 発揮できるように自分を保ち、高めていく。それが、自愛だと思います。 自分の力を発揮するのは、当然に、自分のためだけではなく、誰かの ためです。自分が大事に思う人、自分を大事に思ってくれる人、 個人だけではなく、集団、地域、国、すべての大事なもののためです。 これに対して、利己とは、自分さえよければ、自分の利益になりさえ すればいいという姿勢です。周りの誰かも、自分の所属している集団や 地域も、世の中がどうなろうが、ホンネとしては、どうでもかまわない。 なぜ自愛が大切なのかを、突き詰めていくと、誰かの役に立つこと、 「利他」に通じていくのです。ですから、「自愛」と「利己」は、 似ているように見えて、実は正反対の態度なのだと、私は考えています。 |
ぎみゆらさま 分りやすく纏めていただき有難うございます。私、お書きに成った文章の中に全く(ホンネは日本語を強調したものですから別問題)英語やカナ言葉が無いのに感激しています。 少し穿った考え方かも分りませんが、利己主義とか云われる様に成ってからやたらにカナ言葉が増えた事です。行政でも政治家の討論、企業の営業でもカナ言葉の多い時は誤魔化しが有る様に感じます。 最近のドラまでもクラィアントと云う言葉を良く使います。日本語に直すと「依頼者」だそうです。依頼者が聴くに絶えない日本語でしょうか。日本語に訳せない物でしたら致し方有りませんが、貴方が仰ってる「自愛」と「利己」をカナ言葉の好きな方が書いたらどの様な感じの文章に成るのかなと思いました。 日本文字ばかりの書込みに、つい嬉しく成ってキーボード(カナ言葉ですみません)叩きました。 失礼しました。 |
ごまめの翁さん、こんにちは。 ほんとだ。外来語が皆無ですね! たしかにこのごろ、 あまり使いすぎないように心がけてはいたのですが。 まさか、自分でも気づかぬうちに無四球試合達成とは。(笑) うれしいご指摘でした。ありがとうございました。 |
こんばんは、私はきみゆらさんに賛成です。久しぶりに覗いて、気になったので 気が付いたことを、少し書きますね。 ▼ぎみゆらさん: >自分を大事にするということのなかには、まず健康であること、自分を >いたずらに傷つけないということがあり、加えて、自分自身の考えを >しっかりと持つということがあります。いつも自分の肌身と頭で考える。 > >自分をできるだけよい状態に保ち、自分自身の考えを持ち、自分の >持てる力を、たとえそれが小さなものであっても、自分の中から十分に >発揮できるように自分を保ち、高めていく。それが、自愛だと思います。 このぎみゆらさんのご意見は、今後も家庭や社会で育んでいかなければならない重要な考え方だと思います。 また、このような状態に自分を保つことは、自分の管理を人任せにせず、自分で自分の行動、考えをチェックしながら、行うので、自分に責任が出てきます。 簡単なことではないですし、そのための知恵も経験も必要です。 「自分で自分の手入れをする」その上で「自分で選び、選択したものについて自分で決着をつけていく」そういう意識があってこそ、質の高い社会が構成されると思います。 |
桃李さん、こんにちは。 > このぎみゆらさんのご意見は、今後も家庭や社会で育んでいかなければ > ならない重要な考え方だと思います。 > > また、このような状態に自分を保つことは、自分の管理を人任せにせず、 > 自分で自分の行動、考えをチェックしながら、行うので、自分に責任が > 出てきます。簡単なことではないですし、そのための知恵も経験も必要です。 おっしゃるとおりと思います。経験、知恵、加えるならば、習慣と技術 でしょうか。といっても、そんなに大げさなことではなく、たとえば私の 場合、朝は決まった時間に起きる、起きたらなるべく体を動かす、朝食を しっかり食べる、とか、その程度のことなんですが。 難しいのは、「自分を大事にする」のは、自分で心底そう思わないと意味が なく、ただ教えたり、しつけたりだけでは済まないというところでしょう。 そういう自分だって、長いこと、不摂生、暴飲暴食の繰り返しでしたし、 いまだって、さほど健康的な生活とは言えません。そうやって、これからも ずっと、煩悩と志の間で生きていくんだろうと思います。(笑) いま仕事で、中高年向けの病気の本を作っているのですが、やっぱり、とくに 男性は、年齢を問わず、自分を大事にして、自分のケアをすることが、苦手な 人が多いですよね。大人の健康問題としても、大切なテーマだと思います。 |
ぎみゆらさん。横スレごめんなさい。 健康の本を作っておられるそうでご苦労様です。 >いま仕事で、中高年向けの病気の本を作っているのですが、やっぱり、とくに >男性は、年齢を問わず、自分を大事にして、自分のケアをすることが、苦手な >人が多いですよね。大人の健康問題としても、大切なテーマだと思います。 関西流のお笑いで書きます。男が早死にと云う事はお書きに成った事で良く分ります。確かに何か異常が起こらなければ分らないし、少しぐらいの体の変化は此れくらいどうもないと云う連中は確かに男に多いです。 しかし男は可哀相です。私の住まっている所は下町で旧い家ばかりですから年配の家庭が多く、良く観察していると男性は情けないです。嫁さんの言うなりで、振りまわされて可愛そう。私もかも…大笑い! でも私の場合は油断したら血糖値が上がるので、毎日の食事の簡易カロリー計算ソフトを製作中で健康管理にはものすごく注意しています。 もう少し生きてみたいから。 |
ぎみゆらさん、お返事ありがとうございました。 ▼ぎみゆらさん: >おっしゃるとおりと思います。経験、知恵、加えるならば、習慣と技術 >でしょうか。といっても、そんなに大げさなことではなく、たとえば私の >場合、朝は決まった時間に起きる、起きたらなるべく体を動かす、朝食を >しっかり食べる、とか、その程度のことなんですが。 私の周りを見渡すと、そういうことの積み重ねが大切だと気が付く時には、健康診断に引っかかっていたりする方が多いようです。そうすると、成人病が生活習慣病とよばれる理由も良く分かってきました。 私の夫も、昨年、今年と勤め先の健康診断に引っかかりました。まず、知り合いのお医者さんの意見を聞いてから、ホームドクターのところへ、検査に行きました。 勤め先では検査結果を配るだけで、後の説明などの補足がありません。それで、検査の結果、たとえば血液の検査の中の、項目の意味、この値が正常範囲を超えるとどういうことが考えられるか、今後何に気をつけてどう過ごせばよいかなど、分からないことを分かるまで、夫婦で聞いてきました。 ある意味で「自分を大切にする」方法を知るためです。 >煩悩と志の間で生きていくんだろうと思います。(笑) 人間らしくていい言葉ですね(^-^) > >いま仕事で、中高年向けの病気の本を作っているのですが、やっぱり、とくに >男性は、年齢を問わず、自分を大事にして、自分のケアをすることが、苦手な >人が多いですよね。大人の健康問題としても、大切なテーマだと思います。 本当です。それほどに気をつけても、人に助けられたり、迷惑を掛けてしまったりと、社会の中では一人で生きてはいけませんものね。 利己主義と個人主義の違いは、ここにも見つけられると思います。 |
ごまめの翁さん、桃李さん、こんにちは。 近ごろは、奥さんやパートナーと一緒に病院に来る人が、以前より ずいぶん増えていると聞きます。いいことだと思うんですよね。 振り回されるのも、付き添ってもらうのも。何か困ったことを、 自分一人で抱え込まない。身近な誰かにも、一人で抱え込ませない。 ごまめの翁さん、血糖値ソフト、いいですね。あとはやっぱり、 たとえ少しずつでも、毎日体を動かすことでしょうか。 やっぱり、体の話、病気の話は、妙にしみじみしちゃいますね。(笑) |
そもそも個人主義とはなどと大上段に振りかぶるほどのことでは無いのですが、私の拙い考察の一部をご披露します。この個人主義とは多分アメリカがルーツではないでしょうか?。今でもそうなんですがあの国は自分の命は自分で守る!その証拠にあれだけ銃による悲劇が繰り返されていながら確固とした規制がなされません。勿論銃器業界が隠然たる力を持ち、莫大な政治献金で抑えているのは分りますが、そういうものとは関係なくアメリカ人そのものが自分のテリトリーを守るために銃を捨てないのです。個人主義とはこういう所から発生したのではないでしょうか?。つまり我々日本人がいう個人主義とはとてもいけないことだと教えられましたが、私の拙い知識が的を射てれば観点を変える必要があると思います。個人と団体、と簡単にひとくくりには論じられないと感じましたのであえて異論を唱えてみました。 |
風鈴カザンさん、はじめまして。 まだ20代である私から一言申し上げたくて、書かせていただきます。 風鈴カザンさんが御嘆きのこと、もっともだと思います。 しかし、私はそれは個人主義とか、若者だとかという問題ではなくて、その人個人の問題に過ぎないと思っています。それを若者一般のせいにされても、「じゃあ今の老人はそんなに偉いのか」と言いたくなります。 どれだけ会社のために尽くしてきても、容赦なく切り捨てる会社。 自分達の利益のためだけに税金を食いつぶす政治家や各業界団体。 そんな大きなことじゃなくても、日常的には優先席が空いているにも関わらず普通の座席に座って若者が座るスペースをとる老人や、携帯電話を電車内で平気で鳴らす中年女性(今や若者よりも多いと思う)、タバコのポイ捨てをする人など、別に若者だけがワガママだとはとても思えません(風鈴カザンさんがどうかは私は知りませんが)。 ストーカーだなんだとおっしゃいますが、あんなのはごく一部です。多くの若者はちゃんと自制を保っていますし、むしろ「自分なんかは人の役には立たないんだから、せめて迷惑はかけたくない」と自虐し、何かしたくても何もできない人たちもたくさんいます。それを「個人主義だから自分の勝手だ」とのたまう輩は若者から見ても愚かだと思うし、相手にもしません。若者もそんなにバカではありません。 だから、「若者の方が正しくて、老人が悪い」という気は毛頭なく、ただ、個人主義やら若者のせいにやらしても仕方ないですよ、ということが言いたいだけです。「自分の怒りをぶつけているだけだ」とおっしゃるのなら理解はできますが、それなら「ぶつけられた若者の方はどう対処していいかわかりませんよ」ということは申し上げたいです。まぁ、ひとつの原因に問題を集約させてしまえば、わかりやすいし、怒りもぶつけやすいのは理解できますが。 別に私だって授業中に自侭に遊んでいるガキはひっぱたけばいいと思うし、ストーカー行為をしてて迷惑をかけているやつはどんどん逮捕すればいいと思います。だから、主義とか年代の問題ではなく、個人の問題だと私は考えます。だからといって何もしなくてもいいということはもちろんありませんが。 ただ、多少気になった点をいくつか。 「もてないブ男などが横恋慕したり」とかおっしゃると、「じゃあカッコいい男は許されるのか」とか言いたくなります。問題なのはその相手が肉体的精神的苦痛を味わうことでしょう。そこにブ男とかは関係ないはずです。それに横恋慕というのも恋愛面では仕方のないことだと思うし、ストーカーと熱心に相手のことを想うということは紙一重だし。昔から「恋は盲目」と言われるように、相手が嫌がっていることに気づいていないだけかもしれないし。それを「個人主義の末路」とするのはいささか短絡的すぎかと。 あと、「自分の信条だから卒業式では起立もせず国家も歌わないが、好きなサッカーの応援の時には、顔に日の丸を描いて一所懸命に応援すると言った、矛盾に満ちた手前勝手な行動」というのはよくわかりません。 私は別に国歌とか国旗はその人が「国を想う」ときに歌ったり掲げたりすればいいと思うので、特に批判するようなことではないと思いますが。それを「歌え」とか強制することこそ「我侭」だとは思いませんか? あと、経験から言わせてもらえば、卒業式とかに歌わないのは、「信条」とかいう問題よりも単に「習慣がない」というだけのような気もしますが。普段みんなで声を出して歌うようなことがないから、いざというときに歌えない人が大半だと思っています。歌う習慣があった小学校の頃は、校歌なんかは節目節目の行事によく歌っていたような記憶があるので。 |
風鈴カザンさま 皆様!こんにちわ! このスレッドでのそれぞれのご意見はどれも肯定できるものがありますが・・。 今後の日本社会を「住みやすくするか・否か」の問題にあると思われます・・。 私の受けてる印象から独断と偏見から敢えて云わせて頂ければ・・。 昨今の問題に絡む根っ子には「心理的な意味で「余裕」が無くなってしまってる ように思えます・余裕とは?他人への配慮が成されぬままに・思考〜理性領域をとばして 感情・行動領域に入ってしまうことで・理性領域では忍耐や他者への配慮・想像力に 欠ければ・・それは機能しません・・。 電車などで降りる人が居るにも関わらず我先に乗り込んで来る人達や 自動車で道を譲っても「知らぬふり」で通り過ぎる人等々・・ 他者への配慮に欠ける気の毒な人達が多く目につくようになってます・。 このような現象は「自己中的」とも捉えられますが・生きてゆくのに必要な余裕が 無くなってるのではないかと・・思います・。 マナーやエチケットと云われる礼儀に関わることは「一に余裕」にあると思います・。 アメリカでは人混みで「ぶつかり」そうになったときやドアーに同時に入る ような場合でも・瞬間お互いに進路を譲りあうことお互いに笑顔や目配せで 謝意を表すことなどが・・日常茶飯にて見受けられる光景です・・。 加えて子供達や若い人達との場合では必ずと云って良いほど「お先にどうぞ」と 云った意味の「アフター・ユー・サー」を発し一歩退いて進路を譲ってくれた 若者達との瞬間的な出会いで幾たびとなく心温まる経験をしました・・。 個人主義の先進国?でも他者への配慮・気配りが徹底されており、 それが云うところの「マナー・エチケット」であるように思われました・ 心を亡くすと書く忙しさ感覚から少しでも「ゆとりと余裕」を持ちたいものだと 思う次第です・・・。 |
珍 源齋様 皆様お暑うございます。 >私の受けてる印象から独断と偏見から敢えて云わせて頂ければ・・。 >昨今の問題に絡む根っ子には「心理的な意味で「余裕」が無くなってしまってる > >ように思えます・余裕とは?他人への配慮が成されぬままに・思考〜理性領域をとばして感情・行動領域に入ってしまうことで・理性領域では忍耐や他者への配慮・想像力に欠ければ・・それは機能しません・・。 > >電車などで降りる人が居るにも関わらず我先に乗り込んで来る人達や >自動車で道を譲っても「知らぬふり」で通り過ぎる人等々・・ > >他者への配慮に欠ける気の毒な人達が多く目につくようになってます・。 >このような現象は「自己中的」とも捉えられますが・生きてゆくのに必要な余裕が > >無くなってるのではないかと・・思います・。 > >マナーやエチケットと云われる礼儀に関わることは「一に余裕」にあると思います・。 > >アメリカでは人混みで「ぶつかり」そうになったときやドアーに同時に入る >ような場合でも・瞬間お互いに進路を譲りあうことお互いに笑顔や目配せで > >謝意を表すことなどが・・日常茶飯にて見受けられる光景です・・。 >加えて子供達や若い人達との場合では必ずと云って良いほど「お先にどうぞ」と > >云った意味の「アフター・ユー・サー」を発し一歩退いて進路を譲ってくれた >若者達との瞬間的な出会いで幾たびとなく心温まる経験をしました・。 貴兄の仰る通り、何時から精神的余裕の無い社会に成ってしまったのでしょう。 30年程前には二輪でツーリングしていてもピースサインしたりお互い道を譲ったりは有りました。 其れが、たった30年経っただけなのに歩いていて当たって突き飛ばして、自分が悪くても睨み付けて行く何故でしょう。 たまに「ごめなんさ」とか「失礼しました」とか云われるとホッとします。 ここらに個人と利己の違いの原点が見えた様な気が致します。 物資が豊富に成り、便利な社会に成る程、人の心が貧しく成る。政治に此の事は顕著に表れているようです。 |
▼みなさま: こんにちは、Rayです。 亀レスで恐縮ですが、個人主義について、 『私の個人主義』(夏目漱石、岩波文庫『漱石文明論集』所収)を 読み返してみた感想を書きます。 まず、漱石は 「他人がどう言うかで判断するのではなく、 自己本意で自分がいいと思ったものをいいと考えるのが『個人主義』だ」 と言っています。 その上で、個人主義と利己主義が別のものであること、 自分の「自己本意」を主張する以上、自分以外の相手にも その人の「自己本意」を認めなければならない、と続けています。 また、このような個人主義は 「学校や寄宿舎などで軍隊的に生活する場合には邪魔になる」 という趣旨のことも述べていますし、 社会的な道徳(?)を守ることとと個人主義は関係ないことだとも言っています。 さらに、権力や金力がある人はその力をもって 他人に自分の考えを押しつけることができてしまうけれど、 その権力(権利)を持つに足る義務も権力に附随してくる (教師や親は子どもに言うことを聞かせられるが、 子どもに言うことを聞かせるためには、子どもが言うことをきくに足るだけの 保護や教育をする義務を負う)し、 自己本意を主張するならば、その行為に対する責任は 当然その人自身にかかってくるものだとも言っています。 「全体のために個人を犠牲にするべきかどうか」という点については、 「国が生きるか滅びるかというときにはそれなりの犠牲が必要だが、 平和な社会においては全体のために個を犠牲にする必要はないので、 平和な時代に個人主義の風潮が高まるのは当然だ」と書いています。 私はこの漱石の考え方に全面的に賛成ですので、 ここに大体の趣旨を引用しました(正確な引用でなくてすみません)。 なお、「言うことを聞かせる」ということについては なだいなださんの『権威と権力』(岩波新書)も参考になると思います。 * ▼風鈴カザンさんへ >自分の信条だから卒業式では起立もせず国家も歌わないが、好きなサッカーの応援の時には、顔に日の丸を描いて一所懸命に応援すると言った、矛盾に満ちた手前勝手な行動(14545・風鈴カザンさん) とお書きですが、これが同じ人物の行動であるかどうかはわからないと思いますので あまり決めつけた書き方をなさらない方がいいのではないかと思うということを 蛇足ではありますが付け加えておきます (もしかしたら同じ人がそういう矛盾した行動を取る場合もあるかも知れませんが、 君が代斉唱に反対するすべての人がそうとは限りませんし、 儀式での君が代斉唱に反対している人の中には君が代そのものに反対なのではなくて、 歌うことを歌いたくない人にも強要していることに反対だという人もいますから、 卒業式で歌わない人がスポーツの応援のときに歌うからといって即矛盾だとは言えないと思います)。 |
>これが同じ人物の行動であるかどうかはわからないと思いますので >あまり決めつけた書き方をなさらない方がいいのではないかと思うということを >蛇足ではありますが付け加えておきます 何処が決め付けでしょうか?貴方に限りませんが、抽象的にのみ書くと分りづらいかと思って 某か例示すると、無闇にそこに食って掛かる人がいますが、あくまで「例示」です。 昨今の猛暑を表現するのに、道行く人の足取りも心なしかふらついています、と言ったって 「必ずしもふらついている人ばかりでもないので、あまり決め付けない方がいいかと思います」 何て言いますか?言わないでしょう。それとも卒業式で起立しない人で、サッカー好きな人は、 応援時、必ずしも日の丸を顔に描くとは限りません、なんて注釈がいるんでしょうかね? 別に普遍的なことの例示をしたわけじゃなく、「こういうケースに於いて」という例示の 何処にそんな問題があるんでしょうか? 全く、くだらないですよ。おっしゃるように、蛇足以外の何物でもありません。 貴方が言った、歌いたくないからなんだとか、なんだとかそんな事言い出したら、 何だって可能性としてあり得るに決まっているじゃないですか。 私が変だと思うのは、仮に私が「貴方寄り」の思考傾向を持っているとして、何かを例示しても まず、同様なちゃちゃを入れないだろうと言う事なんですね。 誰も全ての人がそうするなんて、言っても思ってもいないし、恐らくあなた自身、 それくらいは読み取っているんだと思いますけど、それでいて、 >もしかしたら同じ人がそういう矛盾した行動を取る場合もあるかも知れませんが なんて逃げ道を用意しておくくらいなら、正しくそういう行動もとるかもしれないし、 取らないかも知れない、というだけであって、そもそも可能性として全ての選択肢を 毎度明記しなければいけないのならば、「例示」は一切しては駄目、ということです。 例示というのは、あくまで選択肢の一つに過ぎないんですから。 また、ことの是非はともかく、儀式で君が代の斉唱を反対しているのは、ごく「普通に」 考えたら、あなたのいう「歌うことを歌いたくない」なんていうのは明らかに一般的ではありませんね。 あなたが君が代に反対だって言うのなら、それはそれで、一つの主張としてあるんでしょうけれど、 一々「歌うことを歌いたくない」といった事まで言い出したら、何も話しは出来ませんよ。馬鹿馬鹿しい。 |