Page 1210 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼今の教育のあり方を改善すれば、大抵の事は良くなるのでは? 風鈴カザン 04/8/3(火) 19:16 ┣子供の躾&道徳教育は必要不可欠である! PCOG(NGO) 04/8/3(火) 20:23 ┃ ┗Re(1):子供の躾&道徳教育は必要不可欠である! 風鈴カザン 04/8/4(水) 20:08 ┃ ┣Re(2):子供の躾&道徳教育は必要不可欠である! Gokai Sezutomo 04/8/4(水) 21:31 ┃ ┃ ┣Re(3):子供の躾&道徳教育は必要不可欠である! 松 04/8/4(水) 22:29 ┃ ┃ ┃ ┣Re(4):子供の躾&道徳教育は必要不可欠である! 団塊党 04/8/5(木) 0:08 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(5):子供の躾&道徳教育は必要不可欠である! 松 04/8/5(木) 0:19 ┃ ┃ ┃ ┗Re(4):子供の躾&道徳教育は必要不可欠である! Gokai Sezutomo 04/8/5(木) 0:08 ┃ ┃ ┃ ┗Re(5):子供の躾&道徳教育は必要不可欠である! 松 04/8/5(木) 0:33 ┃ ┃ ┗Re(3):子供の躾&道徳教育は必要不可欠である! 風鈴カザン 04/8/5(木) 13:29 ┃ ┃ ┗Re(4):子供の躾&道徳教育は必要不可欠である! Gokai Sezutomo 04/8/5(木) 21:29 ┃ ┃ ┗Re(5):子供の躾&道徳教育は必要不可欠である! 風鈴カザン 04/8/5(木) 22:42 ┃ ┃ ┗Re(6):子供の躾&道徳教育は必要不可欠である! Gokai Sezutomo 04/8/5(木) 23:43 ┃ ┣Re(2):子供の躾&道徳教育は必要不可欠である! MNG 04/8/7(土) 16:32 ┃ ┃ ┣Re(3):子供の躾&道徳教育は必要不可欠である! 風鈴カザン 04/8/7(土) 17:28 ┃ ┃ ┃ ┗Re(4):子供の躾&道徳教育は必要不可欠である! MNG 04/8/8(日) 8:50 ┃ ┃ ┣Re(3):子供の躾&道徳教育は必要不可欠である! なお 04/8/7(土) 19:10 ┃ ┃ ┃ ┗Re(4):子供の躾&道徳教育は必要不可欠である! MNG 04/8/8(日) 9:08 ┃ ┃ ┗道徳教育する人の教育も不可欠である! ふくちゃん 04/8/8(日) 11:12 ┃ ┃ ┗Re(1):道徳教育する人の教育も不可欠である! MNG 04/8/8(日) 21:15 ┃ ┗Re(2):子供の躾&道徳教育は必要不可欠である! にら 04/8/7(土) 17:24 ┣親が、ガキに気を遣ってどうする!? 敦煌 04/8/5(木) 23:47 ┃ ┣Re(1):親が、ガキに気を遣ってどうする!? Gokai Sezutomo 04/8/6(金) 0:32 ┃ ┣Re(1):親が、ガキに気を遣ってどうする!? 団塊党 04/8/6(金) 1:03 ┃ ┃ ┣Re(2):親が、ガキに気を遣ってどうする!? 石頭の息子 04/8/6(金) 1:39 ┃ ┃ ┃ ┗Re(3):親が、ガキに気を遣ってどうする!? 団塊党 04/8/6(金) 18:32 ┃ ┃ ┃ ┗Re(4):親が、ガキに気を遣ってどうする!? 敦煌 04/8/6(金) 21:45 ┃ ┃ ┗Re(2):体罰と愛の鞭の境界 流水 04/8/6(金) 23:01 ┃ ┃ ┣Re(3):体罰と愛の鞭の境界 団塊党 04/8/7(土) 1:18 ┃ ┃ ┃ ┗Re(4):体罰と愛の鞭の境界 石頭の息子 04/8/7(土) 1:54 ┃ ┃ ┃ ┗Re(5):体罰と愛の鞭の境界 団塊党 04/8/7(土) 7:04 ┃ ┃ ┗Re(3):体罰と愛の鞭の境界 団塊党 04/8/7(土) 6:35 ┃ ┃ ┗Re(4):体罰と愛の鞭の境界 流水 04/8/7(土) 8:17 ┃ ┃ ┗Re(5):体罰と愛の鞭の境界 団塊党 04/8/7(土) 10:20 ┃ ┃ ┗Re(6):体罰と愛の鞭の境界 流水 04/8/7(土) 11:32 ┃ ┃ ┗Re(7):体罰と愛の鞭の境界 団塊党 04/8/7(土) 14:26 ┃ ┗Re(1):親が、ガキに気を遣ってどうする!? ギアえもん 04/8/7(土) 0:30 ┃ ┣Re(2):親が、ガキに気を遣ってどうする!? つるみ 04/8/7(土) 11:46 ┃ ┃ ┗Re(3):親が、ガキに気を遣ってどうする!? ギアえもん 04/8/7(土) 12:29 ┃ ┗Re(2):親が、ガキに気を遣ってどうする!? 敦煌 04/8/8(日) 1:04 ┃ ┗Re(3):親が、ガキに気を遣ってどうする!? ギアえもん 04/8/8(日) 20:18 ┃ ┗Re(4):親が、ガキに気を遣ってどうする!? 団塊党 04/8/8(日) 22:04 ┃ ┗Re(5):親が、ガキに気を遣ってどうする!? ギアえもん 04/8/9(月) 21:26 ┃ ┗Re(6):親が、ガキに気を遣ってどうする!? 団塊党 04/8/10(火) 5:52 ┃ ┗嫁はんとガキに気を遣ってどうする!? ごまめの翁 04/8/10(火) 9:07 ┃ ┗Re(1):嫁はんとガキに気を遣ってどうする!? 団塊党 04/8/10(火) 13:58 ┣Re(1):今の教育のあり方を改善すれば、大抵の事は良くなるのでは? 月光仮面のおじいさん 04/8/6(金) 7:49 ┣愛のムチさえ理解できない冷血頭でっかち教師のもたらす怖さ 風鈴カザン 04/8/7(土) 15:23 ┃ ┗「愛のムチ」などという欺瞞 なお 04/8/7(土) 18:54 ┃ ┗Re(1):「愛のムチ」などという欺瞞 敦煌 04/8/7(土) 21:07 ┃ ┗Re(2):「愛のムチ」などという欺瞞 なお 04/8/7(土) 21:32 ┃ ┗Re(3):「愛のムチ」などという欺瞞 敦煌 04/8/7(土) 23:16 ┣教育は生まれて直ぐに始まる ごまめの翁 04/8/8(日) 11:06 ┗ムリ偏にゲンコツは時代錯誤だろうか 僭称二代目人生行路 04/8/8(日) 11:44 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 今の教育のあり方を改善すれば、大抵の事は良くなるのでは? ■名前 : 風鈴カザン ■日付 : 04/8/3(火) 19:16 -------------------------------------------------------------------------
人口全体からすれば、嫌日日本人の割合が正常な日本人を上回ると言う事はまず、ない。 しかし、この掲示板を見ても分るように、「何が何でも」な嫌日日本人は、一定の偏った 思想の持ち主に少なからずいるということも、見逃せない事実である。 こうした異常な嫌日日本人を生んだ要素として、最も大きなものは何か? それは教育の荒廃に他ならないと私は思う。 家庭内は勿論、今の出鱈目な学校教育のあり方、つまり異常な「ゆとり」を子供に 与える事にのみ腐心して、校内暴力を野放しにし、あまつさえ子供による殺人事件さえ それほど珍しくなくなってしまった「欧米化」教育。 ただただ与える事のみ考えて、子供に何の義務も苦労も負わせようとしない歪んだ接し方が 化け物と化した冷血人間を大量に世に送り出している。 拉致問題も、治安の悪化も、経済の停滞も、もとを辿れば諸悪の根源は今の教育であると言う事に 我々は気づくべきではないだろうか? そう思えてならない。 |
21世紀を担う子供に対する、躾教育・道徳教育が必要不可欠であると言うこと。 今日の学校教育の荒廃は目に余るものがある。その原因及び対策について、検討してみる事にする。先ず根本は終戦後の教育にある。GHQ(連合国軍総司令部)所属のCIE(民間情報教育局)は、教育勅語を日本の教育界から抹殺した。それと共に、謙譲・節約・勤勉・正直・中庸・純潔などの、それまでに培われてきた日本古来の美徳も、日本の教育から姿を消すに至った。それと入れ替わって、誤った自由・平等の思想が教育界を支配する事になった。 本来自由とは、国家権力からの自由を意味するものである。当然の事乍ら、社会共同生活を維持する為に必要不可欠なルール内での自由で有る事を忘れてはいけない。吾人はこのような意味における、自由で寛容な社会を創っていかなくてはならない。平等とは、スタート位置の平等・機会の平等を意味する。学問やスポーツの成績にランクをつける事を否定したわけではない。スタート位置の平等・機会の平等は当然保障されなくてはならないが、また努力・精進する人を正当に評価する社会を創っていく事も必要である。 ところで、今日の子供の両親および同年代の教師は、「教育は自由放任に限る」「親と子は平等である」「友達みたいな親子が理想的」と思い込んでいるのであるから、子供を叱るという発想がどうしても出てこない。若者に迎合して、若者を躾る事が出来ない。親の人格、教師の人格、子供の人格、は何れも人格そのものは平等である事は言う迄もない。如かしながら、子供が一人立ち出来る迄は人生の先達としての立場で、子供が社会に順応し得るように育成指導するべきである。勿論、ここに述べている「躾」は、あくまで、迸る愛情に基づく躾であって、所謂「児童虐待」とは無縁のものである。 因みに、教育には忍耐や道徳(モラル)などを身につけるための、厳しさを伴う父性的な教育と、人を受け入れ愛することを学ぶ、優しい母性的な教育が必要である。如かしながら、今日の教育は、母性的な教育が強すぎて、父性的な教育が不足している嫌いがある。幼児期には、人の優しさや温かさを教える母性的な教育を主体とするべきであるが、子供はいずれ厳しい社会に出て行くことになる。社会の厳しさに太刀打ちできるような父性的な教育を受けていない子供は、年頃になっても社会に適応出来ず、自信をもてなくなり、徐々に劣等感が増幅されることになる。そして、そのような教育を与えた親や学校に対する反感が高まり、そのエネルギーが家庭内暴力や学校内暴力へと変化する。更に劣等感が爆発したとき凶悪犯罪に走ることになる。よって、子供が小学校入学以降は、父親・教師がもっと表面に出て、父性的な教育をすることが、子供の将来を考えた場合必要不可欠である。「優しいだけの親・教師は真に子供を愛する親・教師ではない」という真理を親・教師は片時も忘れてはならない。 |
>親の人格、教師の人格、子供の人格、は何れも人格そのものは平等である事は言う迄も >ない。如かしながら、子供が一人立ち出来る迄は人生の先達としての立場で、子供が社 >会に順応し得るように育成指導するべきである。勿論、ここに述べている「躾」は、あ >くまで、迸る愛情に基づく躾であって、所謂「児童虐待」とは無縁のものである。 その通りですね。躾の何たるかさえ理解できない教師が余りにも多すぎます。 もっと言えば、教師そのものに、子供に対する「愛情」がかなり希薄になってきている からこそ、現場が荒廃しているのだと思います。 そして家でも学校でも愛情を掛けられなかった可哀想な子が、自らが親になった時 我が子に虐待をするという、悪循環が続いているのでしょう。 職業に卑賤はないといいますが、昨今、「教師」と聞くと、なんだか嫌ぁな気がします。 勿論まともな人もいるんでしょうが、多くの教師がこの国を目茶目茶に導いていると思えば、 心底腹が立ちます。 |
▼風鈴カザンさん:こんにちは >勿論まともな人もいるんでしょうが、多くの教師がこの国を目茶目茶に導いていると思えば、 >心底腹が立ちます。 本当に教師が悪いのでしょうか? 私は多くの教師は優秀な方たちだと思っています。 私の知人で元教師だった方がこぼしていました。自分の思った道徳教育をしようと思っても、邪魔が入って出来なかったのだと。 |
▼Gokai Sezutomoさん: > 本当に教師が悪いのでしょうか? > 私は多くの教師は優秀な方たちだと思っています。 > > 私の知人で元教師だった方がこぼしていました。自分の思った道徳教育をしようと思っても、邪魔が入って出来なかったのだと。 子供の親に、子供を通わせる公立小中学校と教師を選ぶ権利を与えて欲しいですね。 そうすれば教師だって指導しやすくなるんじゃないでしょうか。 |
▼松さん: > >子供の親に、子供を通わせる公立小中学校と教師を選ぶ権利を与えて欲しいですね。 >そうすれば教師だって指導しやすくなるんじゃないでしょうか。 もうすでに東京都では多くの自治体がそうなっています。 近隣の学校から選べるようになっています。 選択の範囲が広がるのは良いことですが、一方で地域のまとまりが壊れていくのが心配です。 近所の子ども同士がそれぞれ別の学校に行くということになると、一緒に遊ぶことが今よりもさらに少なくなります。 子どもがますます家に閉じこもるようにならないかと心配です。 |
▼団塊党さん:こんばんは。 >もうすでに東京都では多くの自治体がそうなっています。 >近隣の学校から選べるようになっています。 そうらしいですね。 新聞の記事か何かの記事で読んだ事があります。 うらやましく思いました。 私の田舎もそうなって欲しいと思います。 > >選択の範囲が広がるのは良いことですが、一方で地域のまとまりが壊れていくのが心配です。 >近所の子ども同士がそれぞれ別の学校に行くということになると、一緒に遊ぶことが今よりもさらに少なくなります。 >子どもがますます家に閉じこもるようにならないかと心配です。 考えてみれば、それはあるかも知れませんね。 私の姪が通っていた幼稚園がちょうどそのような感じでした。 その幼稚園では非常に広い範囲から児童が通っていて、近所には同じ幼稚園のお友達はいなかったようです。 それはそれで、習い事などに通いながら友達を作っていましたし、近所の公園でできた友達と遊んではいましたが、やはり姪は寂しそうでした。 帯に短しタスキに長し。 難しいものですね。 |
▼松さん:こんにちは >子供の親に、子供を通わせる公立小中学校と教師を選ぶ権利を与えて欲しいですね。 >そうすれば教師だって指導しやすくなるんじゃないでしょうか。 何だか制度的に難しそうな気がしますが、 どういう理由で、教師が指導しやすくなるのでしょうか? 差し支えなければ、お考えをご披露ください。 |
▼Gokai Sezutomoさん:こんばんは。初めまして。 > 何だか制度的に難しそうな気がしますが、 > どういう理由で、教師が指導しやすくなるのでしょうか? > > 差し支えなければ、お考えをご披露ください。 制度的には難しいのですか。 >私の知人で元教師だった方がこぼしていました。自分の思った道徳教育をしようと思っても、邪魔が入って出来なかったのだと。 貴方の書かれたこの部分を読みまして、知っている先生が生徒の親御さんの事でひどく悩んでいたのを思い出したのです。 その親御さんは、その先生の事を気に入らないらしくて、事あるごとにその先生のお考えに反発していました。 先生はもともと闊達な方で、私と話をする時も非常に大らかに接していてくれたのですが、日を追うごとに表情も暗く寡黙になって言葉を選ぶようになってしまいました。 最初はてっきり私に何か原因があるのかと思ったのですが、そうではなくてその親御さんの事でひどく悩んで慎重になっていったそうです。 ですから、個人的な経験ですみませんが、この事から、親が先生を選べるようになれば少なくとも先生が生徒の親に悩まされる事はなくなって楽になるのではないかなと考えました。 素人考えですみません。 |
>本当に教師が悪いのでしょうか? >私は多くの教師は優秀な方たちだと思っています。 私の考えでは教師になるくらいですので、勉強ができる出来ない、ということについては 普通より優秀な人たちの集団であると思っていますけれど、やはりこれだけ荒廃した 教育現場を様々に見聞きいたしますと、そこを司る彼らに一定の責任はあってしかるべきと 思っております。 >自分の思った道徳教育をしようと思っても、邪魔が入って出来なかったのだと。 確かに組合、学閥等により、自らの思ったように理想の教育をしにくいと言う事はありましょう。 しかし、例えば一般の会社であっても、人間関係、会社の状態そのものの良し悪し、 取引先との関係性など、いろいろな制約がある中で皆さん働いて見えますし、 そういった中で結果が残せなければ、普通であれば単純に「結果が残せなかった」 唯それだけのことと思います。 「上司がうんと言ってくれなかった」「残業残業で、思うように当該プロジェクトに 没頭できなかった」 理由は様々でしょうけれども、良いか悪いかはともかく、社会で仕事をする、ということは そういった障害を克服する事も含めて、結果を出す事を求められるのが通常です。 上司を説得したり、会社の体質改善を働きかけることも、私は仕事のうちと思っています。 たとえば仮に、日教組という団体の存在が正しい教育のあり方を阻害しているのだとしたら、 私はやはり、現場の何万という教師が結束して、それを改革していくとか、そういうことも 含めて教師らの職責だと思っているんですね。いくら職人さんは腕が命、と言っても 文字通り技術しか持っていなくて、挨拶も出来ず、その他一般的な常識に著しく欠けているような 人であれば、大抵は折角の腕も、持ち腐れでしょう。教師といえど「教えるだけ」では、 今のニーズに合っているかというと疑問ですね。 教師という職業が「教える事だけ」やっていればいい仕事とは思えませんし、むしろ一定以上の 知性と教養を持った集団なのですから、上に丸投げではなく、率先して環境の改革も行って 頂きたいものです。 私はそう考えます。 |
▼風鈴カザンさん:こんにちは、レス有難うございます。 貴兄の論理展開や常識、正義感に異を唱えるものではありません。ただ論理の前提を確認したいと思います。 そこで、お考えをお聞きできたら幸いです。 人権教育は一連の道徳教育の中で子供たちに教えていくべきものでしょうか? 或いは、人権教育が最も重要であり、まずこれを徹底して教えるべきでしょうか? 貴方なら、どういう理由でどちらを選択されますか? ぶしつけな質問で申し訳ありません。回答を拒否されても仕方ないと考えています。 >>自分の思った道徳教育をしようと思っても、邪魔が入って出来なかったのだと。 > >確かに組合、学閥等により、自らの思ったように理想の教育をしにくいと言う事はありましょう。 >しかし、例えば一般の会社であっても、人間関係、会社の状態そのものの良し悪し、 >取引先との関係性など、いろいろな制約がある中で皆さん働いて見えますし、 >そういった中で結果が残せなければ、普通であれば単純に「結果が残せなかった」 >唯それだけのことと思います。 >「上司がうんと言ってくれなかった」「残業残業で、思うように当該プロジェクトに >没頭できなかった」 >理由は様々でしょうけれども、良いか悪いかはともかく、社会で仕事をする、ということは >そういった障害を克服する事も含めて、結果を出す事を求められるのが通常です。 >上司を説得したり、会社の体質改善を働きかけることも、私は仕事のうちと思っています。 > >たとえば仮に、日教組という団体の存在が正しい教育のあり方を阻害しているのだとしたら、 >私はやはり、現場の何万という教師が結束して、それを改革していくとか、そういうことも >含めて教師らの職責だと思っているんですね。いくら職人さんは腕が命、と言っても >文字通り技術しか持っていなくて、挨拶も出来ず、その他一般的な常識に著しく欠けているような >人であれば、大抵は折角の腕も、持ち腐れでしょう。教師といえど「教えるだけ」では、 >今のニーズに合っているかというと疑問ですね。 > >教師という職業が「教える事だけ」やっていればいい仕事とは思えませんし、むしろ一定以上の >知性と教養を持った集団なのですから、上に丸投げではなく、率先して環境の改革も行って >頂きたいものです。 > >私はそう考えます。 |
>人権教育は一連の道徳教育の中で子供たちに教えていくべきものでしょうか? >或いは、人権教育が最も重要であり、まずこれを徹底して教えるべきでしょうか? 人権教育?同和の事なんかですか? これについては、話すと長いですので簡単に述べますと私は基本的に伝統を尊重し、 良き物は守り悪しき物は改善すべし、というポリシーがありますが、部落差別のような 不当な差別があってよいとは全く思いませんし、難しいとは思いますけれど根絶されれば それが一番でしょう。ただこれは「破壊」なんかにもありますけれど寝た子を起こすな、 的な考えにも一理はあると思いますし、だからといって丑松のように何の罪もないのに、 善良な人間が出自を理由に悶々と過ごさざるをえない様は、とても傷ましい事です。 率先して教えていくべきかどうかということについては、例えば実態のほとんどない 東北と、関西や九州などでは、その重要性や意義について、地域によってだけ見ても 大きな開きがあると思いますので、一概に「こうすべき」とは私には判断が難しいです。 (一応付け加えますと「破壊」というのは、小説としては下の下だと私は思います) また反対に、弱者の恫喝と言いますか、不当な利権が利権を呼んで、様々に軋轢を 生んでいる事も、一部報道にあるように、事実かと思いますし、見る角度によって この問題ほど同一時事象が良く見えたり悪く見える問題も少なく、私の態度としては、 被差別側の差別根絶への願いも理解できますし、また、「弱者」であることを悪用した 多くの実態、事件などにも改善する余地があると思っています。 うーん、ただこの問題について教育が干渉したり、あるいは改善する余地は大いにあるかとは 思いますけれども、カレーの中のニンジンみたいに、教育全体からしたら、ひとつの要件であって、 おしなべて教育について、関わっているというような類の物でもない気がしますが。 これは「論理の前提」なんでしょうか? 私にはよく分かりません。 |
▼風鈴カザンさん:こんにちは フランスの人権思想とは異なるようです。いま、教育現場における道徳といえば人権教育が中心になっているのではないかと思います。良いも悪いもこれの理念が子供たちの道徳教育に大きな影響を及ぼしているのだと考えています。 言葉狩りが行きすぎだと反発される方もいます。手をつないでゴールインは競争を否定し、健康優良児表彰の取りやめなどは何でそこまでしなければならないと疑問をひそかにもたれる方もおられます。 多くの成果を残してきた日本の人権の理念の醸成の問題点は完全に民主的かといえば、多くの人々の議論の集大成でないという点で不完全だということだと思っています。そういう意味で、私は教師に責任を求めようとは思っていません。教育現場と離れている一般人にも同等の責任があると思っています。 >>人権教育は一連の道徳教育の中で子供たちに教えていくべきものでしょうか? >>或いは、人権教育が最も重要であり、まずこれを徹底して教えるべきでしょうか? > >人権教育?同和の事なんかですか? > >これについては、話すと長いですので簡単に述べますと私は基本的に伝統を尊重し、 >良き物は守り悪しき物は改善すべし、というポリシーがありますが、部落差別のような >不当な差別があってよいとは全く思いませんし、難しいとは思いますけれど根絶されれば >それが一番でしょう。ただこれは「破壊」なんかにもありますけれど寝た子を起こすな、 >的な考えにも一理はあると思いますし、だからといって丑松のように何の罪もないのに、 >善良な人間が出自を理由に悶々と過ごさざるをえない様は、とても傷ましい事です。 >率先して教えていくべきかどうかということについては、例えば実態のほとんどない >東北と、関西や九州などでは、その重要性や意義について、地域によってだけ見ても >大きな開きがあると思いますので、一概に「こうすべき」とは私には判断が難しいです。 >(一応付け加えますと「破壊」というのは、小説としては下の下だと私は思います) > >また反対に、弱者の恫喝と言いますか、不当な利権が利権を呼んで、様々に軋轢を >生んでいる事も、一部報道にあるように、事実かと思いますし、見る角度によって >この問題ほど同一時事象が良く見えたり悪く見える問題も少なく、私の態度としては、 >被差別側の差別根絶への願いも理解できますし、また、「弱者」であることを悪用した >多くの実態、事件などにも改善する余地があると思っています。 > >うーん、ただこの問題について教育が干渉したり、あるいは改善する余地は大いにあるかとは >思いますけれども、カレーの中のニンジンみたいに、教育全体からしたら、ひとつの要件であって、 >おしなべて教育について、関わっているというような類の物でもない気がしますが。 > >これは「論理の前提」なんでしょうか? >私にはよく分かりません。 |
▼風鈴カザンさん: >>親の人格、教師の人格、子供の人格、は何れも人格そのものは平等である事は言う迄も >>ない。如かしながら、子供が一人立ち出来る迄は人生の先達としての立場で、子供が社 >>会に順応し得るように育成指導するべきである。勿論、ここに述べている「躾」は、あ >>くまで、迸る愛情に基づく躾であって、所謂「児童虐待」とは無縁のものである。 > >その通りですね。躾の何たるかさえ理解できない教師が余りにも多すぎます。 >もっと言えば、教師そのものに、子供に対する「愛情」がかなり希薄になってきている >からこそ、現場が荒廃しているのだと思います。 躾は基本的に家庭が行なうべきもので、教師にそこまで要求するのは酷なのではないでしょうか。 学校は本来、勉強する場所ですから。 そして少年時代、本当に子供を育てるのは、放課後の子供同士の遊びなのではないでしょうか。 大人の目の届かない所で野山を駆け回り、危ない事やいたずらをしながら、子供の集団の中で人間関係や事の善悪を覚えていく、そういう子供社会が昔はあったと思います。 そういう子供が遊ぶべきフィールドを、高度経済成長以来、急速に大人が奪ってしまったことが、現在の子供の問題を生む大きな原因になっていると思います。 すべてを教師の責任にしてしまうのは、一方的過ぎるのではないでしょうか。 |
>躾は基本的に家庭が行なうべきもので、 勿論、私もそう思いますよ。第一義的には子供の教育については親が責任を持つことは 言うまでもありません。 ただ、子供が学校で生活をする時間と言うのは、特に両親が忙しい過程などでは下手をすると 家庭で家族と過ごす時間を凌駕すると存じますし、私は学校(教師)にも子供を躾る義務、 機能は持ってしかるべきと考えます。 もし仮に学校が学問「のみ」を学ぶ場であるのならば、そんなものは廃止して、私塾を そこら中に作って、子供にはそこで勉強させればいいと思いますが、そう言うわけにはいかないでしょう、 というのが私の立場です。 |
▼風鈴カザンさん: >>躾は基本的に家庭が行なうべきもので、 > >勿論、私もそう思いますよ。第一義的には子供の教育については親が責任を持つことは >言うまでもありません。 >ただ、子供が学校で生活をする時間と言うのは、特に両親が忙しい過程などでは下手をすると >家庭で家族と過ごす時間を凌駕すると存じますし、私は学校(教師)にも子供を躾る義務、 >機能は持ってしかるべきと考えます。 先生も子供を静かにさせなければ授業ができませんから、躾もやっておられるでしょう。 しかし家庭で親子1対1または2対1でやればいいことを、先生は1対40でしなければならないわけです。 1対1でさえ思うに任せないことを、1対40でやることの難しさは想像にかたくありません。 それでもきちんとやっておられる先生も多いでしょう。 最低、人の話を静かに聞くということくらいは、家庭で徹底させておくべきではないでしょうか。 そして、親が安易な先生の品定めや学校批判をすると、子供もマネをします。子供にとって不幸なことです。 |
▼MNGさん: >躾は基本的に家庭が行なうべきもので、教師にそこまで要求するのは酷なのではないでしょうか。 >学校は本来、勉強する場所ですから。 全く同感です。 >そして少年時代、本当に子供を育てるのは、放課後の子供同士の遊びなのではないでしょうか。 >大人の目の届かない所で野山を駆け回り、危ない事やいたずらをしながら、子供の集団の中で人間関係や事の善悪を覚えていく、そういう子供社会が昔はあったと思います。 >そういう子供が遊ぶべきフィールドを、高度経済成長以来、急速に大人が奪ってしまったことが、現在の子供の問題を生む大きな原因になっていると思います。 全く同感です。子どもたちの「荒れ」や「少年犯罪」が問題になっていますが、私は根本は大人たちの過干渉だと思っています。 「大人の目の届かない所で野山を駆け回り、危ない事やいたずらをしながら、子供の集団の中で人間関係や事の善悪を覚えていく、そういう子供社会」「そういう子供が遊ぶべきフィールド」を子どもたちに返すべきです。 大人たちは今を生きる大人として、今の社会問題を解決するよう努力すべきです。 今の時代の大人として、できるだけ社会問題を次の世代につけ回さないよう、大人の責任としてことに当たるべきだと思います。 勉強不足で解決案が出せません。しかし、模索はしていこうと思っています。 |
▼なおさん: >子どもたちの「荒れ」や「少年犯罪」が問題になっていますが、私は根本は大人たちの過干渉だと思っています。 同感です。 「危ないからダメ、汚いからダメ、勉強勉強」と言われたら、遊びなんてできません。 体と頭をすべて使って友達と思いっきり遊ぶことが、子供の社会性を育てる礎になると思います。 大人はそれを見守り、必要な時に少しの助言を与える程度でいいのではないでしょうか。 >「大人の目の届かない所で野山を駆け回り、危ない事やいたずらをしながら、子供の集団の中で人間関係や事の善悪を覚えていく、そういう子供社会」「そういう子供が遊ぶべきフィールド」を子どもたちに返すべきです。 > >大人たちは今を生きる大人として、今の社会問題を解決するよう努力すべきです。 > >今の時代の大人として、できるだけ社会問題を次の世代につけ回さないよう、大人の責任としてことに当たるべきだと思います。 > >勉強不足で解決案が出せません。しかし、模索はしていこうと思っています。 子供の遊び場の減少と同時に、テレビが家庭に入ってきて大きな位置を占めるようになりました。 テレビが子供に与えた影響も多大なものがあります。 今、ノーテレビ運動というものが行なわれ、かなり成果を上げているようです。 一つの突破口になるかもしれません。 http://www5d.biglobe.ne.jp/~k-media/ |
▼MNGさん: ▼風鈴カザンさん: >すべてを教師の責任にしてしまうのは、一方的過ぎるのではないでしょうか。 よくバスや汽車に乗っていると見受けられる光景に、 小さな子供が椅子の上で、 靴を履いたまま外を見ていることがあります。 男親はあまり言わないのですが、 そのお母さんはよく「そんな事していたら、周りの人に怒られるでしょ!」と。 私はそれがおかしいと何時も思うのですが、 皆さんはこの言い方についてどう思われますか? この子供は誰もいなかったら、 こんな事はしてもいいのだと解釈するし、 また、叱るのは周りの人でなく自身母でもある。 母に叱られなかったら何をしてもかまわない。 何かが間違っている。 躾をする人間の躾が必要な時代になっているのか? |
▼ふくちゃんさん: >▼MNGさん: >▼風鈴カザンさん: > >>すべてを教師の責任にしてしまうのは、一方的過ぎるのではないでしょうか。 > >よくバスや汽車に乗っていると見受けられる光景に、 >小さな子供が椅子の上で、 >靴を履いたまま外を見ていることがあります。 >男親はあまり言わないのですが、 >そのお母さんはよく「そんな事していたら、周りの人に怒られるでしょ!」と。 >私はそれがおかしいと何時も思うのですが、 >皆さんはこの言い方についてどう思われますか? >この子供は誰もいなかったら、 >こんな事はしてもいいのだと解釈するし、 >また、叱るのは周りの人でなく自身母でもある。 >母に叱られなかったら何をしてもかまわない。 >何かが間違っている。 >躾をする人間の躾が必要な時代になっているのか? これ非常に思います。 私の所は自営業なのですが、子供を連れたお母さんやおばあさんが、店でいたずらする子に「おじさんに怒られるからやめなさい」と言われます。 こちらが悪者にされることもありますが、何かその場を取繕っているだけのように感じられて不愉快です。 子供でもなぜ悪いかを説明すればわかると思うし、納得すれば次からしなくなるでしょう。 また子供の行動に全然無関心で、やりたい放題にさせておく親も多くなったように思います。 こういう親は、先生を批判する資格なしだと思いますが。 |
私も自国の国旗や国家に敬意を払わないような教師に、自分の子供を 任せたくないと思っています。 |
子供を躾ける。というのは、猿に教えるのと同じだと思うんです。 またまた私事で恐縮ですが、長男が中学生の時、家内に小遣いをせびって いたのを偶然目の当たりにしまして・・・。もう、家内に「くれよー」みたいな言い方していましたんで、「舐めんなよ!このガキ!」って、頭3回くらい殴って 「二度と、親を舐めるな!今現在。お前は一人で生きていくことなんか出来ねーんだ!」って散々やりました。倅も、「あの時は殺されるかと、思った」と言います。大体。親がヒエラルキーの序列を、教えなきゃいけない筈なんです。 ですから、倅の先生には、どんなに下らない輩でも、きちんと頭を下げてきました。あんなにスゴイ親父が先生にペコペコしてるって、子供は先生を尊敬するんです。今の親なんか、子供に舐められてるのに、先生に「なんだ、貴方の教育は!?」って文句を言う。そんな親の子供が、先生を尊敬するわけがありません。 何か学校であれば、学校の責任を追及し、万引きして補導されても「お金払えばいいんでしょ」などという親が、子供に尊敬される筈がないんですよ。 それと、私が子供の時は、父親が給料日に現金で持ち帰り、(何で社長なのに給料?と思いましたが)家族の前で母親に渡しました。「お父さんが、お仕事をしてくれているから、学校にも行けるし、ご飯も食べられる」そうやってお金の有り難味を教え込まれたのに、最近の母親は「お父さんみたいになっちゃダメ」おいおい・・・。 また、何かしたり顔の学者などが「家庭で対話を・・・」とか「ご飯を一緒に・・・」なんて。冗談じゃない!親は仕事して喰わしてるんです。 親が居なくても立派な人はたくさん居ます。子供に暴力振るわれて、親が逃げ出してどうするんですか?親が子を殺し、子が親を殺す。などというのは「世も末」ですよ。年金が・・・なんて言ってる場合じゃない。少子化で子供を大事にするあまり、大事な躾を忘れては本末転倒です。 昔、私が親父の財布から50円持ち出した時の親父の台詞です。(止めに入った祖母に・・・)「お袋黙っててくれ、このガキは俺のガキだ!煮て喰おうが、焼いて喰おうが俺の勝手だ。このままこのガキ大人にしたんじゃ、世間様に申し訳ない」 今は寝たきりの親父ですが、それこそ死ぬほど殴られましたが、今では感謝しています。 |
▼敦煌さん:こんにちは 仰る通りです。 大変楽しいお話でした。 >子供を躾ける。というのは、猿に教えるのと同じだと思うんです。 >またまた私事で恐縮ですが、長男が中学生の時、家内に小遣いをせびって >いたのを偶然目の当たりにしまして・・・。もう、家内に「くれよー」みたいな言い方していましたんで、「舐めんなよ!このガキ!」って、頭3回くらい殴って >「二度と、親を舐めるな!今現在。お前は一人で生きていくことなんか出来ねーんだ!」って散々やりました。倅も、「あの時は殺されるかと、思った」と言います。大体。親がヒエラルキーの序列を、教えなきゃいけない筈なんです。 >ですから、倅の先生には、どんなに下らない輩でも、きちんと頭を下げてきました。あんなにスゴイ親父が先生にペコペコしてるって、子供は先生を尊敬するんです。今の親なんか、子供に舐められてるのに、先生に「なんだ、貴方の教育は!?」って文句を言う。そんな親の子供が、先生を尊敬するわけがありません。 >何か学校であれば、学校の責任を追及し、万引きして補導されても「お金払えばいいんでしょ」などという親が、子供に尊敬される筈がないんですよ。 >それと、私が子供の時は、父親が給料日に現金で持ち帰り、(何で社長なのに給料?と思いましたが)家族の前で母親に渡しました。「お父さんが、お仕事をしてくれているから、学校にも行けるし、ご飯も食べられる」そうやってお金の有り難味を教え込まれたのに、最近の母親は「お父さんみたいになっちゃダメ」おいおい・・・。 >また、何かしたり顔の学者などが「家庭で対話を・・・」とか「ご飯を一緒に・・・」なんて。冗談じゃない!親は仕事して喰わしてるんです。 >親が居なくても立派な人はたくさん居ます。子供に暴力振るわれて、親が逃げ出してどうするんですか?親が子を殺し、子が親を殺す。などというのは「世も末」ですよ。年金が・・・なんて言ってる場合じゃない。少子化で子供を大事にするあまり、大事な躾を忘れては本末転倒です。 >昔、私が親父の財布から50円持ち出した時の親父の台詞です。(止めに入った祖母に・・・)「お袋黙っててくれ、このガキは俺のガキだ!煮て喰おうが、焼いて喰おうが俺の勝手だ。このままこのガキ大人にしたんじゃ、世間様に申し訳ない」 >今は寝たきりの親父ですが、それこそ死ぬほど殴られましたが、今では感謝しています。 |
▼敦煌さん: あなたのお気持ちには共感します。 ただ、ちょっと言わせて頂きます。 体罰を受けたからあなたや息子さんはまともに育ったと思っていませんか? それは違います。 親の必死の気持ちが息子に伝わったのです。 幸い、あなたのご家庭の場合は伝わったのです。 ところが伝わらないこともあるのです。 親の愛情が足りなかったり、息子の受け入れる力が足りなかったりしたら、 体罰がむしろ問題を大きくします。 一般的には体罰は使わない方が良いと思います。 まして教師の場合は絶対にやってはだめだと思います。 教師は体罰によらなくても相手に自分の思いを伝える力が無くてはプロとして失格です。 |
▼団塊党さん: >▼敦煌さん: > >あなたのお気持ちには共感します。 >ただ、ちょっと言わせて頂きます。 > >体罰を受けたからあなたや息子さんはまともに育ったと思っていませんか? >それは違います。 > >親の必死の気持ちが息子に伝わったのです。 >幸い、あなたのご家庭の場合は伝わったのです。 > >ところが伝わらないこともあるのです。 >親の愛情が足りなかったり、息子の受け入れる力が足りなかったりしたら、 >体罰がむしろ問題を大きくします。 > >一般的には体罰は使わない方が良いと思います。 >まして教師の場合は絶対にやってはだめだと思います。 >教師は体罰によらなくても相手に自分の思いを伝える力が無くてはプロとして失格です。 団塊党さん、 勝手に解釈しているのですが、私は敦煌さんのご意見は、学校教育の前に親の教育(躾と言われていますが)が大切なのだというご意見ではないかと思います。 敦煌さんの躾(体罰)は、敦煌さんに愛情があったからだと思います、でも基本的には体罰は子供の教育ではまずいやりかたです、長くなるので事例は申しません。 私にも敦煌さんと同じような経験があるのでそう思うのです、私の場合は「死ぬかと思った」のではなくて、親父が「殺してしまうところだった」と激昂したあと落ち着いた時に漏らした一言です。 田舎では警察もヤクザも手におえない、その親父が学校の先生の前では借りてきた猫のようでした、地主や大家の取り持ちは聞かないが、先生にだけは弱かった、親父は無学でしたから、先生は聖職者と思っていたようです、子供心に先生は偉い人と思ったものです。 中学でも夜学の時でも竹刀を振り回す先生が居ましたが、徹底的に反抗しました、長くなるのではし折りますが、最後には校長が辞表を書きました、先生の暴力は文字どうりの反面教師でした、私の場合は。 流水さんと団塊党さんの真摯なご意見は、私の小、中、高の恩師、特に夜学時代の恩師の悩み、喜び、希望を思い起こしました。 昨今の教育の歪の一つは家庭での教育の迷い、過ちが原因の一つと思っています、反省も込めて、さらに社会の拝金主義が加わっているとも思えます。 少し偏った、私の経験と意見です。 |
▼石頭の息子さん: >勝手に解釈しているのですが、私は敦煌さんのご意見は、学校教育の前に親の教育(躾と言われていますが)が大切なのだというご意見ではないかと思います。 その点については異論ありません。 私たち教員にとっても有り難いご意見です。 ただ躾の方法が問題だと思います。 要は子どもに親の願いが伝わるかどうかじゃないでしょうか。 敦煌さんの場合はうまくいったのかも知れませんが、そういう場合はむしろ少ないと思います。 敦煌さんの場合も実は体罰によって親の気持ちが伝わったのではないのじゃないかと思っています。 そのことを一言、言いたかったものですから書かせてもらいました。 >田舎では警察もヤクザも手におえない、その親父が学校の先生の前では借りてきた猫のようでした、地主や大家の取り持ちは聞かないが、先生にだけは弱かった、親父は無学でしたから、先生は聖職者と思っていたようです、子供心に先生は偉い人と思ったものです。 私の母親も先生にはぺこぺこしていました。 今は親の学力も高くなりましたし、学校以外にも文化的な体験がいくらでできます。 ですから教師に対する気持ちも当然のことに大きく変わりました。 >中学でも夜学の時でも竹刀を振り回す先生が居ましたが、徹底的に反抗しました、長くなるのではし折りますが、最後には校長が辞表を書きました、先生の暴力は文字どうりの反面教師でした、私の場合は。 強面の教師が昔はいましたね。 私も中学時代にびんたを食らったことがあります。 でも良い思い出としては残っていません。 今でもその先生は嫌いですね。 >流水さんと団塊党さんの真摯なご意見は、私の小、中、高の恩師、特に夜学時代の恩師の悩み、喜び、希望を思い起こしました。 有り難うございます。 私の場合は喜びより悩みの方が多そうです。 >昨今の教育の歪の一つは家庭での教育の迷い、過ちが原因の一つと思っています、反省も込めて、さらに社会の拝金主義が加わっているとも思えます。 > >少し偏った、私の経験と意見です。 今は家庭も学校も教育に自信が持てなくなっています。 何に価値を置いて教育したらよいのか目標がはっきりしなくなっています。 唐突な国からのトップダウンの改革ではこの問題は解決しません。 やはり国民みんなでこの時代の教育の目標を語り合い議論していく必要がありそうです。 |
石頭の息子さん。御理解いただき、ありがとうございます。 団塊党さん。貴方は先生なんですね?御高説賜りました。 確かに、所謂体罰は両刃の剣です。乱発はいけません。私も始終殴っている訳ではありませんよ(w 何故、叱られるのか?何故いけないことなのか・・・しっかり諭すようにしなければ、還って来るのは「反抗」だけです。 末の倅が幼稚園の頃。仕留めた蝦夷鹿の角でキーホルダーを造って、鞄に付けてやったんです。「お父ちゃん。これ何の角?」と聞くので冗談で「夜の街中には、人間の顔した鬼が居てな・・・。父ちゃんが退治して来たんだ」と言ったら本気にして幼稚園の先生に言ったらしく。先生に「お父さん。あまり飛躍したことを子供に言うのは・・・」と言われ参ったことがあります。 それでもいいと思うんですよ。そんなのだって立派なコミニュケーションでしょうし・・・。長男は、高校に進学してから、私の狩猟について来るようになりました。そこで、他人の大人から様々なことを聞き、時には叱られて、ナイフの使い方。銃口や刃物を人に向けてはいけない。無駄な殺生はしてはいけない。などと 身体で覚えていきます。幸か不幸か、我が家は校外学習機能が充実していますので 自然に上下関係とか、物事の善悪を学習できます。 子供は大人の・・・親の背中を見て育つ。というのは強ち間違いでは有りません。 |
団塊党さん、 教師にとって体罰は、「悪魔の囁き」にも似たものです。 どう指導しても言うことを聞かない子供を力で押さえつけたい。 【荒れる学校】の真っ只中で教師生活を送った人間には、体罰への誘惑に駆られない教師はいなかったと断言できます。 事実、悪名高い【管理教育】全盛時代は、むき出しの力による支配が貫徹していました。この時代、体罰はかなりの学校(中学校が多かったはずです)で行われたていたはずです。 ところが、体罰肯定論者が忘れがちなのは、力による支配は、力を行使する人間の心を確実に【荒廃】させるという単純な原理です。 最初に、子供のほっぺたを張り飛ばしたとき、教師の心に残るものは何でしょうか。自分の手に残るほっぺたの柔らかい感触でしょうか、それとも殴られた子供の目に浮かんだ恐怖の表情でしょうか。それとも、子供の目に浮かんだ怒りの表情でしょうか。 最初に子供に手を挙げたときに心に残る複雑な思いは、教師が決して忘れてはならない【心の宝】だと思います。 ところが、慣れというものは恐ろしいもので、力による支配を経験した人間は、【支配の快感】に徐々に溺れていくのです。 わたしは、【荒れた学校】でこの過程に溺れていく教師を数多くみてきました。 徐々に【教育】ではなく指導という名前の【支配】に慣れていくのです。 人間というものは難しいもので、【正面の理】【側面の利】【背面の恐怖】という3つの要素がうまくかみ合わないと、なかなかきちんと動かないものです。 その中で一番てっとり早いのは、【恐怖による支配】です。つまり、【力による恐怖支配】が、管理教育という名前で呼ばれた教育の実態だった、と言えるのです。 たしかに、荒れに荒れた時代は、それこそいじめ、対教師暴力、授業崩壊、何でもありでした。この状況を沈静化させるのに、非暴力的なやり方は、ほとんど効果がありませんでした。理由は、非暴力的な方法が効果をあげるには、きわめて時間がかかります。(最低でも2年はかかります) ところが、この2年という時間は、中学生にとって貴重な時間です。この貴重な2年間という時間をじっと待て、といわれても、それはできない、というのが大方の中学教師の意見でした。 これが、最も簡単に秩序を取り戻せる【力による支配】に多くの学校を傾斜させた理由です。 ところが、これも多くの中学校が辿った道ですが、【力による支配】で沈静化した学校の多くが、数年後にはまた【荒れる学校】に逆戻りしたのです。 しかもこの【荒れ】は、より潜在化し、より陰険になり、より巧妙になるのです。 これが、【いじめの増加】【不登校の増加】につながり、学校外における【非行】の増加として現れたのです。 この背景に、【力による支配】に慣れた教師の心の荒廃と【管理教育批判】という世論がありました。力による支配に慣れた教師たちに、力による支配をやめたときにそれに代わる【方法論】がなかったのです。これに、模擬テスト中止・総合学習などが加わると、【管理教育】を支えてきたもう一つの柱【受験教育】までもが、崩れたのです。 これが、昨今の中学校の難しさでしょう。【力による支配】もできず、【受験教育】による脅しも効かない。 この中で保護者の期待に応えるためにどうするかが問われているのです。 文部省も教師たちも間違えているのです。 【力による支配】は、それこそ荒れに荒れてこれでは他の子供の人権が守れないというときにやむ負えず行う【緊急避難】(※法律的な意味)的行為という認識が必要なのです。 そして、この【力の行使】が真にやむ負えない、という認識が、子供たちにあるということが、成功の条件なのです。 さらに、【力による支配】を終える時期と方法を【力による支配】を始める前に持っており、子供たちにこのようなやり方は本当に特殊なやり方であり【緊急避難】的方法だということをきちんと説明する必要があるのです。 そして、【力による支配】で沈静化したときにすぐ、本当に子供を育てる方法を提示し、実践しておく必要があるのです。こうすれば、子供たちは先生は本当はわたしたちをこのように育てたいのだということを実感し、今のやり方(力による支配)は先生たちの本意でないのだと実感するのです。 つまり、荒れに荒れたときには決してできなかった【学ぶことの楽しさ】【仲間と生活することの楽しさ】【安心して生活できることのうれしさ】を実感させるのです。 わたしは、原則的に体罰には反対ですが、万やむ負えず使わざるを得ない場合(上記のような場合)人を打つのでなく、【心を打つ】ということが必要だと考えます。 生徒の心を打たない体罰は、ただの暴力です。 先に述べた【正面の理】【側面の利】【背面の恐怖】の中で、【背面の恐怖】とは何かの問題なのです。 【恐怖】とは、暴力による恐怖を感じさせるのではなく、如何にして【自分が崩壊する恐怖⇒このまま行けば、本当に自分が駄目になるという実存的恐怖】を感じさせるかが問題なのです。心を打てとは、そのことを意味します。 |
▼流水さん: >文部省も教師たちも間違えているのです。 >【力による支配】は、それこそ荒れに荒れてこれでは他の子供の人権が守れないというときにやむ負えず行う【緊急避難】(※法律的な意味)的行為という認識が必要なのです。 >そして、この【力の行使】が真にやむ負えない、という認識が、子供たちにあるということが、成功の条件なのです。 >さらに、【力による支配】を終える時期と方法を【力による支配】を始める前に持っており、子供たちにこのようなやり方は本当に特殊なやり方であり【緊急避難】的方法だということをきちんと説明する必要があるのです。 > >そして、【力による支配】で沈静化したときにすぐ、本当に子供を育てる方法を提示し、実践しておく必要があるのです。こうすれば、子供たちは先生は本当はわたしたちをこのように育てたいのだということを実感し、今のやり方(力による支配)は先生たちの本意でないのだと実感するのです。 >つまり、荒れに荒れたときには決してできなかった【学ぶことの楽しさ】【仲間と生活することの楽しさ】【安心して生活できることのうれしさ】を実感させるのです。 荒れに荒れた中学校の現実の中で体罰の他に解決の道がなかったというのは理解できます。 小学校でもその誘惑に駆られることがありますもの。 しかし、それを実行したら教師としての敗北だという自覚は持つ必要があると思います。 例えそれがうまくいった場合でも、やはり敗北だと思います。 その惨めさをかみしめながらの体罰ならば、あるいは許されるのかも知れません。 ガムを盗んだ我が子を泣きながら叩いて叱る母親のことを詩にした子ども作品がありますが、そういう体罰ならば私は認めます。 >わたしは、原則的に体罰には反対ですが、万やむ負えず使わざるを得ない場合(上記のような場合)人を打つのでなく、【心を打つ】ということが必要だと考えます。 >生徒の心を打たない体罰は、ただの暴力です。 >先に述べた【正面の理】【側面の利】【背面の恐怖】の中で、【背面の恐怖】とは何かの問題なのです。 >【恐怖】とは、暴力による恐怖を感じさせるのではなく、如何にして【自分が崩壊する恐怖⇒このまま行けば、本当に自分が駄目になるという実存的恐怖】を感じさせるかが問題なのです。心を打てとは、そのことを意味します。 心を打つとは良い言葉ですね。 心を打つという域まで行けば体罰も教育作用を及ぼすでしょうね。 |
団塊党さん、流水さん、 >心を打つとは良い言葉ですね。 >心を打つという域まで行けば体罰も教育作用を及ぼすでしょうね。 私には【心を打つ】体罰で教育する自身はない、しかし体罰を受けた時にその相手(親、先生)に愛情を感じたことはありました。 私は乱暴な教師には、クラスを扇動してハンガーストをやりました、校長は辞表をだしましたが、私は決まりかけていた就職(日・旅行社)がパーになり、自力就職で給仕の仕事を得たのは8月でした、その間就職活動で20〜25社程やりました、苦しい半年でした、なので信念、信条には代償が伴うと知りました、退職するまで同じ事が度々ありましたが、懲りない性格です。 また、神戸ではその昔は、中学生が学校に日本刀を持ち込んでうろついていたような荒廃していたとき、身体を張って阻止する先生もいたが、多くの教師は無力感で逃避していたようだ。 私の子供が小学生の頃に家庭訪問があった、家人の聞いた話では、父兄が先生に「何処の学校をお出になられましたか? 専攻はなにでしたか?」などと教師の値踏みをしたとか、私の住んでいる地域は教育の高い父兄が多くて、そのような不遜な事があったそうです、お若い先生は戸惑っていたそうです、これは本末転倒です、戦後教育の乱れは父兄にも責任の一旦があるように思えます。 教育とは難しい、もし私に学があっても教師になる自信はありません。 |
▼石頭の息子さん: >また、神戸ではその昔は、中学生が学校に日本刀を持ち込んでうろついていたような荒廃していたとき、身体を張って阻止する先生もいたが、多くの教師は無力感で逃避していたようだ。 これはもう教師だけの力では無理じゃないでしょうか。 外部からの何らかの応援を頼むしかないと思います。 >私の子供が小学生の頃に家庭訪問があった、家人の聞いた話では、父兄が先生に「何処の学校をお出になられましたか? 専攻はなにでしたか?」などと教師の値踏みをしたとか、私の住んでいる地域は教育の高い父兄が多くて、そのような不遜な事があったそうです、お若い先生は戸惑っていたそうです、これは本末転倒です、戦後教育の乱れは父兄にも責任の一旦があるように思えます。 親の教師に対する気持ちは子どもに大きな影響を与えます。 学歴が高くても本当に賢い親なら、教師批判、学校批判を子どもの前でするようなことはしないはずです。 私は最初の保護者会で 「今日家に帰ったら、お子さんに次のように言ってください。」 「ウソでも良いので、今度の先生すてきとか、良い先生だとか言ってください」 「間違っても嫌いとか、変な先生などとは言わないでください。」 と頼むことにしています。 >教育とは難しい、もし私に学があっても教師になる自信はありません。 突き詰めて考えれば本当に教師などやってはいられません。 しかし、今はこう思っています。 教師は完ぺきでは無くても良い。人間的にも欠陥があっても良い。 子どもにその欠陥が見えても、それがむしろ親しみやすさとか好ましいものとかに見えることもある。 教師になる条件はただ一点。 「情熱を持続できるかどうか」ということだと思っています。 難しいのはこれの持続です。 若い教師は皆情熱にあふれていますが、持続するのは難しいです。 絶えず、情熱を燃やし続けるには、自動車と一緒でガソリン補給が必要です。 そのガソリンは自分を絶えず新しくできる何物かを得るということです。 自分の実践から学び続け、本や子どもや尊敬する人から学び続けていくということだと思います。 |
▼流水さん: >文部省も教師たちも間違えているのです。 >【力による支配】は、それこそ荒れに荒れてこれでは他の子供の人権が守れないというときにやむ負えず行う【緊急避難】(※法律的な意味)的行為という認識が必要なのです。 >そして、この【力の行使】が真にやむ負えない、という認識が、子供たちにあるということが、成功の条件なのです。 >さらに、【力による支配】を終える時期と方法を【力による支配】を始める前に持っており、子供たちにこのようなやり方は本当に特殊なやり方であり【緊急避難】的方法だということをきちんと説明する必要があるのです。 > >そして、【力による支配】で沈静化したときにすぐ、本当に子供を育てる方法を提示し、実践しておく必要があるのです。こうすれば、子供たちは先生は本当はわたしたちをこのように育てたいのだということを実感し、今のやり方(力による支配)は先生たちの本意でないのだと実感するのです。 >つまり、荒れに荒れたときには決してできなかった【学ぶことの楽しさ】【仲間と生活することの楽しさ】【安心して生活できることのうれしさ】を実感させるのです。 > >わたしは、原則的に体罰には反対ですが、万やむ負えず使わざるを得ない場合(上記のような場合)人を打つのでなく、【心を打つ】ということが必要だと考えます。 二点だけ質問させてください。 ・一つの考え方としては分かりますが、現実にそのようなことが出来た学校があったのでしょうか。 そのようなことが出来た学校ならば、始めから荒れなかったのではないでしょうか。 ・荒れに荒れた学校になったら、もう体罰が効くような状況を超えているのではないでしょうか。 むしろ父母を交えての全校的な話し合いを根気強くやったり、授業中に父母に来てもらい、協力してもらう方がより現実的な気がします。 |
▼流水さん: >・一つの考え方としては分かりますが、現実にそのようなことが出来た学校があったのでしょうか。 ★学校としてできたかどうかは、わかりませんが、学年としては自分が実践したことがあります。ただ、他学年は、なかなかできなかったことは確かです。 そのようなことが出来た学校ならば、始めから荒れなかったのではないでしょうか。 ★これは難しい質問です。YES and NO でしょう。学校を【荒らす】というのは、数人の生徒で可能なのです。 学校でもどの組織でも同じなのですが、静かな学校が荒れるには1ヶ月あれば充分なのです。2〜3人の覚悟して突き抜けた人間があらわれたら、あっという間に荒れてしまいます。 荒れた学校を力で沈静化したら、こんどは力による支配をエスカレートしなければ、生徒を押さえれなくなるという悪循環に直面します。「力による支配」というものの持つ宿命です。だから、その中心になっていた教師が転勤したら、たちまち崩れてしまうのです。 ★荒れに荒れた学校になったら、もう体罰が効くような状況を超えているのではないでしょうか。 むしろ父母を交えての全校的な話し合いを根気強くやったり、授業中に父母に来てもらい、協力してもらう方がより現実的な気がします。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ あなたの書いている方法論は、すべてわたしも経験があります。 ただ、中学生くらいになると、保護者の協力などはあまりあてにはなりません。 環境造り程度の意味はありますがね。 具体的にいうと、体罰が効くような状況に持っていくのです。荒れている人間を孤立化させ、人数を少なくさせ、排除するのです。これがも多くの学校で取られた方法です。 団塊党さんには、かなり違和感があると思いますが、イラクの現状を見ていれば、この方法論も納得できると思います。 イラクという国を建て直す現実的方法論をどうするか、という議論と、荒れた学校をどう建て直すか、という議論と同じなのです。 過去の経緯を一切問わずに、現状をどうするか、という視点で考えてみてください。 誰が考えても、まず【秩序の回復】ということになります。 この秩序の回復をどう行うか、という具体的な議論の中で、【体罰】という誘惑が出てくるのです。 この議論はあきるほどやりましたが、非暴力を唱える人の中で、これが信念という強さを持っている人は、わたしの経験では、わずか2人しかいませんでした。 荒れた学校で、非暴力を唱えるということは、自らを暴力にさらす覚悟がいります。 180cmを超える男の子が暴れたとき、その前に自分を投げ出して、人間的迫力で相手を威圧して、従わせるという覚悟がいるのです。 その時、少しでも躊躇するようなら、その人の非暴力主義など所詮口だけのものということになります。 非暴力主義は、最後は死ぬ覚悟がいるのです。ガンジーしかり、キング牧師しかりです。 「荒れた学校」のような状況下では、教師も人間としての生き方を日々具体的に問われるのです。わたしも、教師がやくざのように腹にさらしを巻いて毎日学校に行かねばならない、というところを経験したことがあります。いつ、刺されるか分からない状況だったのです。 こういうところで非暴力を唱えるとは、文字通り自分自身の命をかけた【信念】が問われるのです。 子供たちは、この教師の姿をじっと見ています。力による支配を唱える人間が、さらに凄い突き抜けた暴力を振るう人間には、まことにもろいということも、口先だけの非暴力を唱える人間が、ただの臆病だということも、よく知っているのです。 どのような理念でも良いのです。自分の信念のためには、たとえ暴力を振るわれようと、極端に言えば殺されようと、【お前が間違っている】と言い切り、一歩も引かない覚悟のある人間だけが子供に通用したのです。 これがわたしのいう【心を打つ】という意味です。わたしの経験した学校などはきわめて特殊例外的なところですが、子供たちの【人間の真贋】を見抜く目だけはどんな学校の子供より鋭かったと思います。 |
▼流水さん: 私には流水さんの仰るような荒れた学校は経験有りませんので、あくまでも私の推論にしか過ぎません。 その点を前提にお読み下さい。 >・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >あなたの書いている方法論は、すべてわたしも経験があります。 >ただ、中学生くらいになると、保護者の協力などはあまりあてにはなりません。 >環境造り程度の意味はありますがね。 >具体的にいうと、体罰が効くような状況に持っていくのです。荒れている人間を孤立化させ、人数を少なくさせ、排除するのです。これがも多くの学校で取られた方法です。 保護者の協力が、荒れている人間の孤立化には役だったということでしょうか。 もしそうであるなら、かなり意味があったと思います。 問題は残り数人をどうするかということです。 >過去の経緯を一切問わずに、現状をどうするか、という視点で考えてみてください。 >誰が考えても、まず【秩序の回復】ということになります。 >この秩序の回復をどう行うか、という具体的な議論の中で、【体罰】という誘惑が出てくるのです。 >この議論はあきるほどやりましたが、非暴力を唱える人の中で、これが信念という強さを持っている人は、わたしの経験では、わずか2人しかいませんでした。 > >荒れた学校で、非暴力を唱えるということは、自らを暴力にさらす覚悟がいります。 自らを暴力にさらす覚悟まで教師に求めるのは無理だと思います。 私にも自信がありません。 だから教師としては失格だとも思いません。 >180cmを超える男の子が暴れたとき、その前に自分を投げ出して、人間的迫力で相手を威圧して、従わせるという覚悟がいるのです。 >その時、少しでも躊躇するようなら、その人の非暴力主義など所詮口だけのものということになります。 >非暴力主義は、最後は死ぬ覚悟がいるのです。ガンジーしかり、キング牧師しかりです。 死ぬ覚悟が出来る出来ないという以前に、非暴力で解決できるあらゆる方策をまず考えることではないでしょうか。 万策つきれば、もうそれは学校では解決できないということで、警察に頼むしか私には考えられません。 私も含めて、死をもってしても立ち向かえる教師がそんなにいるとは考えられません。 又、それでよいと思います。教師としての敗北だとは思いません。 >どのような理念でも良いのです。自分の信念のためには、たとえ暴力を振るわれようと、極端に言えば殺されようと、【お前が間違っている】と言い切り、一歩も引かない覚悟のある人間だけが子供に通用したのです。 > >これがわたしのいう【心を打つ】という意味です。わたしの経験した学校などはきわめて特殊例外的なところですが、子供たちの【人間の真贋】を見抜く目だけはどんな学校の子供より鋭かったと思います。 私はこう言うときには生徒に正直に自分の気持ちを告白します。 そして、それが人間としてひきようだとか臆病だとかいうことでは無いと訴えます。 また、生徒達の命を守る上でもこうするしかなかった(警察に頼む)と話します。 先生達も一生懸命に何とかしようと取り組んでくれたということが生徒達に伝われば、その後は何とかなると思います。 現実を知らない楽観論かも知れませんが。 |
>▼流水さん: > >保護者の協力が、荒れている人間の孤立化には役だったということでしょうか。 >もしそうであるなら、かなり意味があったと思います。 >問題は残り数人をどうするかということです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ これは、経験した人間でなければ、なかなか理解してもらえないところですね。そんなに簡単に孤立させれないのです。物凄い努力がいります。 > ●自らを暴力にさらす覚悟まで教師に求めるのは無理だと思います。 >私にも自信がありません。 >だから教師としては失格だとも思いません。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ これは抽象的な問題ではないのです。きわめて、具体的なことなのです。まず、朝学活で教室に行こうとすると、多くの子供が教室に入っていません。教師が入りなさいと注意すると、たちまち「うるせー」という言葉が返ってきます。【早く入りなさい】とさらに注意すると、「やるんか」と身構える子供が出てきます。 ここで引いたら、その教師は、まず勤務期間中その学校では通用しないでしょうね。 失格とかそういう問題ではないのです。その時の態度を他の子供がじっと見ているのです。体罰とか非暴力とかの理念の問題でもないのです。「やるんか」と身構えた子供に対して、さらっと【朝から元気が良いのー。よし、その元気で、教室に入れ】程度の余裕を見せなければ、精神的優位にはたてません。 これは、授業でも他の活動でもすべての場面で現れます。給食のとき、休み時間の時、あらゆる場面で出てくるのです。荒れるとはそういうことです。 授業中、計算をしなさいというと、【あほらしい。そんなことができるか】と隣の子供たちの邪魔をする子供に注意したら、「やるんか」と向かってくる子が、各クラスに3〜4人いるのです。このとき、ひるんでいたら、授業にはなりません。 きわめて、具体的な問題なのです。 団塊党さんの言い分が違っているのでなく、そこが、中学校と小学校の違いなのです。 ここまで人間が駄目になるのか、ということを厭というほど見せ付けられるのです。まして、薬物・シンナー常習者は、もはや人間ではないと思わざるを得ないのです。 教師が教師であり続ける覚悟とは、そういう中で【人間=子供を信じ続ける覚悟】なのです。その覚悟のある教師の場合(何人か見ました)、体罰とか非暴力とかの次元をはるかに超えているのです。その先生が体罰をしても子供は何もいいません。むしろ、感謝をします。そして、そのような先生は、体罰をしなくても、ほとんどの子供は、指導に従います。 ●>死ぬ覚悟が出来る出来ないという以前に、非暴力で解決できるあらゆる方策をまず考えることではないでしょうか。 >万策つきれば、もうそれは学校では解決できないということで、警察に頼むしか私には考えられません。 >私も含めて、死をもってしても立ち向かえる教師がそんなにいるとは考えられません。 >又、それでよいと思います。教師としての敗北だとは思いません。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ これも抽象的な議論でして、もっと具体的で切実な問題なのです。わたしの例でいいましょうか。新任のとき、担任したクラスの始めての学活です。黒板をむいて自分の名前を書いていたとき、黒板にナイフがグサッと刺さりました。 これが生徒のわたしに対する「ためし」なのです。この対応如何で、その学校で勤まるか勤まらないかが、決まるのです。 わたしはそのことを先輩教師から聞かされていたので、「誰なら、こんな危ないものはしまっておけ」と投げた子供にポンと返しました。 わたしに死ぬ覚悟があったわけではありません。しかし、暴力には決してひるまない・おびえない態度だけは、示したつもりです。 警察に頼む、という話は、何度となくでました。団塊党さんの言葉を借りれば、【教育】の敗北だと、わたしは考えていました。 どんな手段を使ってでも、【教育の力】でその子供を立ち直らせる、というのが、わたしの信念でした。その子供を立ち直らせるために、力を行使することがもっとも有効であると判断した場合、【体罰】も辞さず、と考えていました。 同時に、その子供を孤立させるのは、その周りの集団の建て直しのためであり、集団の力が強まってきたとき、その子供を集団に戻す準備をするためでした。 わたしが【体罰】を完全に否定しないのは、体罰を行っても相手の心を打つだけの関係と努力を積み重ねている教師を何人か知っているからです。彼らの行う体罰は、形は体罰であっても、体罰ではありません。彼らは泣きながら体罰をしているのです。そして、もし体罰で問題になっても、甘んじて処罰を受ける覚悟で行っているのです。 このようなぎりぎりの関係まで、学校をしないのが、理想です。わたしのいう【集団つくり】は、教師をこのようなところまで追いやらないための方策です。 団塊党さんの信念は分からないでもないし、そうあるべきだとは思いますが、その信念をぎりぎりのところまで突き詰めなければならない厳しい現実が、つい先ごろまであったということを知っていて欲しいと思います。 |
▼流水さん: >失格とかそういう問題ではないのです。その時の態度を他の子供がじっと見ているのです。体罰とか非暴力とかの理念の問題でもないのです。「やるんか」と身構えた子供に対して、さらっと【朝から元気が良いのー。よし、その元気で、教室に入れ】程度の余裕を見せなければ、精神的優位にはたてません。 >・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >ここまで人間が駄目になるのか、ということを厭というほど見せ付けられるのです。まして、薬物・シンナー常習者は、もはや人間ではないと思わざるを得ないのです。 >教師が教師であり続ける覚悟とは、そういう中で【人間=子供を信じ続ける覚悟】なのです。その覚悟のある教師の場合(何人か見ました)、体罰とか非暴力とかの次元をはるかに超えているのです。その先生が体罰をしても子供は何もいいません。むしろ、感謝をします。そして、そのような先生は、体罰をしなくても、ほとんどの子供は、指導に従います。 どんな生徒にも心底つき合っていけば、どこかにかわいいとこもあるんじゃないかと思います。 反抗心の強い子ほど案外かわいいとこがあるんじゃないでしょうか。 私はそれがあればたいがいの生徒とはつながれるんじゃないかと思います。 もちろん教師としての包容力とか力量が問われますが。 そういう意味も含めて腹が据わるとか覚悟するとかいうのを捉えるのであれば、私にもよく分かります。 子どもとの対決姿勢だけで捉えていくとどこか違うなと思っていたのですが、教室での風景を具体的に書いて頂いたので流水さんの仰りたいことがかなり分かりました。 >・・・・もっと具体的で切実な問題なのです。わたしの例でいいましょうか。新任のとき、担任したクラスの始めての学活です。黒板をむいて自分の名前を書いていたとき、黒板にナイフがグサッと刺さりました。 >これが生徒のわたしに対する「ためし」なのです。この対応如何で、その学校で勤まるか勤まらないかが、決まるのです。 >わたしはそのことを先輩教師から聞かされていたので、「誰なら、こんな危ないものはしまっておけ」と投げた子供にポンと返しました。 >わたしに死ぬ覚悟があったわけではありません。しかし、暴力には決してひるまない・おびえない態度だけは、示したつもりです。 相当な修羅場をくぐってこられてきたのですね。 覚悟の問題ではなくて、現実の要請なんですね。 これなら腹を据えるしか教師を続けられません。 よく分かりました。 >警察に頼む、という話は、何度となくでました。団塊党さんの言葉を借りれば、【教育】の敗北だと、わたしは考えていました。 >どんな手段を使ってでも、【教育の力】でその子供を立ち直らせる、というのが、わたしの信念でした。その子供を立ち直らせるために、力を行使することがもっとも有効であると判断した場合、【体罰】も辞さず、と考えていました。 現実に警察の力を借りるところまで行くのはよほどのことだとは思います。 その時は確かに教育の敗北になるでしょう。 当然の事ながらそうならないように最善の方策を尽くしていくしかないと思います。 >わたしが【体罰】を完全に否定しないのは、体罰を行っても相手の心を打つだけの関係と努力を積み重ねている教師を何人か知っているからです。彼らの行う体罰は、形は体罰であっても、体罰ではありません。彼らは泣きながら体罰をしているのです。そして、もし体罰で問題になっても、甘んじて処罰を受ける覚悟で行っているのです。 この次元まで来れば体罰をするしないは大きな問題ではないですね。 結局はその教師の中にある情熱とか信念の問題のような気がします。 普通はなかなかそこまでの境地には行けないと思いますが、せっぱ詰まった状況の中でそのような強靱な精神が作られていくのでしょうか。 >このようなぎりぎりの関係まで、学校をしないのが、理想です。わたしのいう【集団つくり】は、教師をこのようなところまで追いやらないための方策です。 >団塊党さんの信念は分からないでもないし、そうあるべきだとは思いますが、その信念をぎりぎりのところまで突き詰めなければならない厳しい現実が、つい先ごろまであったということを知っていて欲しいと思います。 流水さんの仰りたいことがかなり分かりました。 時々、ガキの頭の一発や二発くらいなどという乱暴な意見がありますが、それはやはりみなさんに誤解を与える発言ですし、教育をもう少し踏み込んで考えるきっかけにでもなればと思って、私は体罰を否定する発言してきたわけです。 流水さんのようにぎりぎりの気持ちから出たお考えについてあえて反対する気持ちはありません。 |
>黙っててくれ、このガキは俺のガキだ!煮て喰おうが、焼いて喰おうが俺の勝手だ。 ホントに喰ったら日本犯罪史上初?の食人鬼(カニバリズマー?)として日本中を 震え上がらせることになるけど・・・・(;・w・) すいません、余計なこと言いました。<(_ _)> こんなこと親に言われたら俺はショック受けます。たぶんキレて全面戦争を仕掛けると思います。 |
▼ギアえもんさん: >>黙っててくれ、このガキは俺のガキだ!煮て喰おうが、焼いて喰おうが俺の勝手だ。 > >ホントに喰ったら日本犯罪史上初?の食人鬼(カニバリズマー?)として日本中を >震え上がらせることになるけど・・・・(;・w・) >すいません、余計なこと言いました。<(_ _)> >こんなこと親に言われたら俺はショック受けます。たぶんキレて全面戦争を仕掛けると思います。 貴兄は割りと若いのでしょうか。 私も親と「全面戦争」をした経験があります。 母はカトリック信者でしたが、私はカトリック教徒であることを辞めたので。 それは信条上の問題で、今も信仰・信条の部分では相容れない部分はあります。しかし、母に対する敬意は忘れていません。母は運転が出来ない。たまに実家に顔出すと、母を乗せて買い物や用事のアシになる。その程度の事はしています。 母の部屋には十字架。私の自動車には神社のお守りがあります。 そういう意味での「全面戦争」はしたことがあるけれど、しかられたこと等を理由に全面戦争しようとは思っていないし、何もウランではいませんよ。 過日、お祭りの夜店で売っているソフトビニールの風船で出来た刀のおもちゃで、子供が寄ってたかって父親とらしき男性のアタマを叩いているのを見ました。 父親と思われる男性は、笑っているだけで、何も叱ろうとはしません。 確かにソフトビニールのおもちゃで叩かれても痛くもないしナンともないでしょうが、何故、彼はそれを笑っていられるのか? と疑問に思いました。 私は、8歳の頃でしたか、家族と口論になったとき「くそじじい」と口走ったことがあります。ボコボコにされましたよ。 しかし、それでよかったと思っています。 おもちゃと言えども、ぶったたかれてえへらえへらしている親父を見て育ったのでは、ロクな大人にならないだろうなぁ。私はロクな人間かどうか自信はないけど、そういう親じゃなくて良かったと感謝しています。 |
はい、俺は21です。俺は親とは基本的には仲が悪いわけではないっす。 でも、ひとたび何かのきっかけでケンカになると感情が爆発するのです。 今のとこ、この親でよかったなあと思えるようにはなってません。 |
▼ギアえもんさん: >>黙っててくれ、このガキは俺のガキだ!煮て喰おうが、焼いて喰おうが俺の勝手だ。 > >ホントに喰ったら日本犯罪史上初?の食人鬼(カニバリズマー?)として日本中を >震え上がらせることになるけど・・・・(;・w・) >すいません、余計なこと言いました。<(_ _)> >こんなこと親に言われたら俺はショック受けます。たぶんキレて全面戦争を仕掛けると思います。 ハハハ・・・。ギアえもんさん。その前に。 私は、親父の財布から無断で、50円持ち出しています。 これは、いかに親子でも許されないこと。だと思うんですよ。 百歩譲って、親の財布だから・・・となりますが。 黙認したら、やがて他人様の財布にも手を出すんです。 ここは一番!ぐうの音出ないほど、やっつけておく必要があります。 他人はタダでお金はくれません。黙って盗れば「泥棒」です。 |
俺も過去に一度だけ経験ありますなあ。小学生のときだったかな? 年玉を前借りしたかったのだけど、許してくんないからネコババした。 用途はスーファミのソフトだった。 後に親にあれこれ言われたりはしなかった。前借りという形だったのでまだマシだったんでしょう。 それからは、より計画的に金を使うようになったのでネコババはしてない。 それにはPSのソフトは当時のスーファミソフトよりも断然安いのも一因だと思う。 一つ12800円だったからね。今と比べると6,7000円は高い。 俺もあと10年くらいしたら親父になるのかあ・・・・・・・・・?と思ったりはします。 そのときどうやって育てたるのがイイのか考えると気が重いですが。 ただ、人は誰でも本気で怒れば相手をビビらせることができると思うんで 手を上げなくても効果的な躾はできると思いますが。まあ、まだ分かりませんけどね。 ちなみに名前も考えちゃってますよ。俺の苗字は珍しいんで名前には思い入れというか こだわりというか、そういうのがあるんで考えてしまうんですな。気が早いですが。 |
▼ギアえもんさん: >俺もあと10年くらいしたら親父になるのかあ・・・・・・・・・?と思ったりはします。 >そのときどうやって育てたるのがイイのか考えると気が重いですが。 >ただ、人は誰でも本気で怒れば相手をビビらせることができると思うんで >手を上げなくても効果的な躾はできると思いますが。まあ、まだ分かりませんけどね。 強く叱ろうが静かに諭そうが、肝心なことは子どもに親の気持ちが伝わることじゃないでしょうか。 これだけは親として子どもに教えたいというものがはっきりしていれば、形はどうあれ自然に熱のこもった親の願いが子どもに伝わると思います。 それでも伝わらなければ、子どもの方にそれを受け止めるだけの力がないのですから、もっとかみ砕いて分かりやすく話して聞かせることです。 体罰は麻薬みたいなものですから、一度使うと習慣になる恐れがあります。 それに体罰がどのように子どもの精神に影響を与えるか、予測できません。 かなり危険な冒険です。 やるならそれを覚悟でやることです。 私は自分の子どもに体罰はしたことありません。 しかし、やや甘かったと反省しています。 でも体罰をしたらよかったとは思いません。 子どもが親の気持ちを受け止めるまで、しっかり子どもと向き合うことを怠った点を後悔しているだけです。 |
わかりやすい説明ありがとうございます。補足しておきたいんですが、 俺は「殴ったりしてもいい」と思ってるわけじゃないですよ。 まだ分からん というのは、どうやって育てればいいのかの明確な方針が分からんという意味です。 できれば殴らずに育てたいです。 俺は殴ることに抵抗が無い人間 と受け取られたんなら、誤解される書き方をしてすいません。 |
▼ギアえもんさん: >わかりやすい説明ありがとうございます。補足しておきたいんですが、 >俺は「殴ったりしてもいい」と思ってるわけじゃないですよ。 > >まだ分からん というのは、どうやって育てればいいのかの明確な方針が分からんという意味です。 >できれば殴らずに育てたいです。 >俺は殴ることに抵抗が無い人間 と受け取られたんなら、誤解される書き方をしてすいません。 私の方こそ誤解される書き方をしてしまいました。 ギアえもんさんが体罰肯定の考えを持っていらっしゃるとは全然思いません。 体罰についての議論がこのところ続いていたので、ついそちらの方に話が行ってしまいました。 すみません。 |
団塊党さん 横スレですみません。 少しガキの話しと反れるかも知れませんが、最近の男どもは毅然とした態度をする者がなくなりました。 政治家でも昔の吉田首相、佐藤首相の様にマスコミに対して喧嘩を売るぐらいの人物でなくては、小泉さんの様に「イロイロ」なんて軽い発言をすると言う事は、対外的にも軽い発言すると云うことです。民主党の岡田さんも会期中にアメリカまで行って軽い発言、国会議員さんよ皆さん辞票を出して、失礼軽い発言でした。 家庭を粗末にせよと言っているのではありませんが、最近の若いものは嫁はん(関西弁ですみまへん)とガキ共に気を使い過ぎ、見ていると可哀想というより情けなくなります。父親より嫁はんや子供の小遣いが多いと云う事は何たるこっちゃ。情けな笑い? こんなこと書いて女性からの反論が恐いです?!! |
▼ごまめの翁さん: > 少しガキの話しと反れるかも知れませんが、最近の男どもは毅然とした態度をする者がなくなりました。 > 家庭を粗末にせよと言っているのではありませんが、最近の若いものは嫁はん(関西弁ですみまへん)とガキ共に気を使い過ぎ、見ていると可哀想というより情けなくなります。父親より嫁はんや子供の小遣いが多いと云う事は何たるこっちゃ。情けな笑い? > 男達は仕事に夢中になっていたり、疲れ果てていたりで、家庭のことは母親任せ。 気がついたときには家庭の中に思わぬ問題が発生している。 こういう家庭が多いのではないかと思います。 単に男達が弱くなったというだけでもない気がします。 世の中全体が余裕を無くしていますし、誘惑も多いですし。 今の時代の子育ては、昔の10倍ほど難しくなっています。 |
教育の問題はさんざん議論されていますが、戦後一貫して平和教育を受けた我々が、それには関係なく素晴らしい日本の発展を作り上げたわけですから、そんな心配は要らないと思います。昨年の夏のNHKの報道番組で日本の大学生が中国の工場見学に行った際、そこで働いている中国奥地からほとんどの女工さんから”どうして親に仕送りをしないの”と口々に言われて大学生を困らせていました。その場所は女工さんたちが蚕だなのように寝起きしている二段ベッドだったように思いました。 我々も子供のころには何とかお父さんやお母さんを楽にしてあげたいと思ったものです。いまや、だれしも豊かになり、幸いなことにそんな必要性も薄れました。 この春鳥インフルエンザの事故で隠していた工場が摘発され、その父母がその責任を取って自殺されたことがありました。過剰なくらい昔の人は世の中に責任を持っていました。その後を引き継ぐ我々がどうあるべきなのでしょうか。 たった一つ心配が有るのは、何か問題が発生するとその原因は政府だとか役人がおかしいとか言うマスコミの報道に有ると思います。でもこれも一種のガス抜きと思えば良いのでしょう。 各々が自分の周りで出来るだけ自らの力で生活を守る。子供を暖かく育てる。この原則を守りさえすれば良いのではないでしょうか。だから老人のパワーが必要なのです。 誰かを変えるのではなくて、誰かを守るに徹するのが一番と思います。 |
こういうのがいるから、子供は子供らしくなくなり、 人間から人情の機微が失せ、 屁理屈を並べ、何でも責任を他に転嫁し一切の義務を放棄した、能動的姿勢のかけらもない、 幼稚な受動的ロボットが学校と言う名の劣悪工場と化した建物で作り続けられるんだろうなあ。 工業製品ならまだしも、冷血人間が人間を冷血に育てる社会的損失は、他の何にも代え難い 最も重大な損失だ。 愛のムチの必要性さえ分らないのが、黒板に「X=Yは。。。」なんてやっているのは 全く滑稽な光景である。 XとかY以前に冷血教師は学ぶ事がたくさんあるに違いないし、学問「しか」知らない 人間が教師になる事の恐ろしさ、つまり冷血人間製造工場と化している実態を、 文部省のお偉方は、もちっと考えて頂きたい。 |
▼風鈴カザンさん: >愛のムチの必要性さえ分らないのが、黒板に「X=Yは。。。」なんてやっているのは >全く滑稽な光景である。 体罰は叩く方の心も痛い、などということが言われますが、痛いのは叩かれる方の体や心だ。もしかしたら叩く方の心も痛いのかも知れないが、そんなのはじき忘れる。もしかしたら叩かれた方の心の痛さは一生消えないかもしれない。 「愛のムチ」などというものは全くの欺瞞だ。愛は愛であり、ムチはムチだ。両者は相反するものであり、全く別のものだ。ムチは肉体を激しく傷つける。激痛が走るはずだ。そんなものに”愛”など無い。 これが事実だ、現実だ。このような事実に基づき考え、立論し、社会の仕組みをみんなで作っていかなければならない。平成の、21世紀の今においても「愛のムチ」などというものがまかり通っているよう社会は教育に対して、子どもたちに対して責任を取っていない。 大人たちの「自己責任」で、全ての子どもたちのための本当の教育の在り方を作っていかなければならない。 |
▼なおさん: >▼風鈴カザンさん: >>愛のムチの必要性さえ分らないのが、黒板に「X=Yは。。。」なんてやっているのは >>全く滑稽な光景である。 > >体罰は叩く方の心も痛い、などということが言われますが、痛いのは叩かれる方の体や心だ。もしかしたら叩く方の心も痛いのかも知れないが、そんなのはじき忘れる。もしかしたら叩かれた方の心の痛さは一生消えないかもしれない。 > >「愛のムチ」などというものは全くの欺瞞だ。愛は愛であり、ムチはムチだ。両者は相反するものであり、全く別のものだ。ムチは肉体を激しく傷つける。激痛が走るはずだ。そんなものに”愛”など無い。 > >これが事実だ、現実だ。このような事実に基づき考え、立論し、社会の仕組みをみんなで作っていかなければならない。平成の、21世紀の今においても「愛のムチ」などというものがまかり通っているよう社会は教育に対して、子どもたちに対して責任を取っていない。 > >大人たちの「自己責任」で、全ての子どもたちのための本当の教育の在り方を作っていかなければならない。 判ってないなぁ・・・。「愛の・・・」などと、ご大層なことは言いませんが 成人するまでは「親の責任」があります。それを早々と放棄している 所謂、バカ親もたくさん居ますが・・・反発!?大いに結構。 じゃなきゃ、親離れも子離れも出来ず、何時までも「脛」を齧られ 今流行の「パラサイト」ってんですか?困りますし。 そんなガキ!さっさか追い出します。 ギアえもんさんも、なおさんもこの言葉を覚えておいて下さい。 常識的な親は・・・「親を想わぬ子はあれど、子を想わぬ親はなし」ですよ。 |
▼敦煌さん: >ギアえもんさんも、なおさんもこの言葉を覚えておいて下さい。 >常識的な親は・・・「親を想わぬ子はあれど、子を想わぬ親はなし」ですよ。 「児童虐待」が問題になっています。若い親が自分の子どもを虐待しています。原因が何なのかよく分りませんが、これは個人や家庭の枠を超えています。私は社会の問題とすべきだと思います。 この言葉を覚えておいて下さい。 「子どもは、私たち社会の子どもでもある」 |
▼なおさん: >▼敦煌さん: > >>ギアえもんさんも、なおさんもこの言葉を覚えておいて下さい。 >>常識的な親は・・・「親を想わぬ子はあれど、子を想わぬ親はなし」ですよ。 > >「児童虐待」が問題になっています。若い親が自分の子どもを虐待しています。原因が何なのかよく分りませんが、これは個人や家庭の枠を超えています。私は社会の問題とすべきだと思います。 > >この言葉を覚えておいて下さい。 > >「子どもは、私たち社会の子どもでもある」 鬼畜はこの際。無視しましょう。社会が責任を持って育ててくれる訳ではありません。育ててから言いましょうや・・・ |
風鈴カザンさま 卓越な御意見拝見しました 教育と云えば勉学だけと勘違いしている人々が多い様です。私の持論は人類と云えども動物ですから他の哺乳動物と同様、此の世に生を受けた時から教育は始まっていると思います。 教育には家庭が分担するものと社会が分担するものと分かれていると思うのです。其の中で社会の分担で分かりやすいのが先日の中国のサッカーではないでしょうか。中国と台湾政府同じ民族で、同じ様に日本と戦争をしながら日本に対しての国民の対応や反応を見ても二つの中国の社会教育の違いが良く分ると思います。 >人口全体からすれば、嫌日日本人の割合が正常な日本人を上回ると言う事はまず、ない。 >しかし、この掲示板を見ても分るように、「何が何でも」な嫌日日本人は、一定の偏った >思想の持ち主に少なからずいるということも、見逃せない事実である。 仰る通り日本は少数の片寄ったものが然も正論の様に一人歩きしている様な気がします。 家庭でする教育、此の様な言を書いたら女性にブーイング受けるかも知れませんが今の子供は生まれた時からの第一歩から、目に見えないほど少しずつ狂って来た様に感じます。ですから気が付く人が少ないか、あたり前だと思うように成ってしまったとのではないでしょうか。 小子化が問題化されています。社会に女性進出が叫ばれています。 しかし1人の子供を育てるのにどれだけの労力が必要か、子育ては24時間勤務で残業手当も有りません。女性が子供を産むのを拒否するのは分ります。 私事ですが、私に三人の子持ちの娘がいます。子供は自分で育てるのだと言って懸命に育てています。此れを見ていると、ハイテク商品がなかった昔のお母さんは本当に大変だったろうと,今になって母に感謝です。 孫の場合は自分の子供と違い冷静に観察できます。小1・3才5ヵ月・1才3ヶ月の男ばかりで、小一でも母親の胸に抱かれている表情には一種の安堵感が視られます。自分の子供の頃を思い出して、此の歳に成っても母親の胸の温もりは忘れられません。現在の欧米化された社会。生まれて直ぐに保育所に預けられる社会が定着す驍ニ、私の様に寿を取って母の温もりを感じる人間が少ない社会になっていまう、これが今後の社会にどう影響するでしょうか。 教育は生まれた時から始まっています。スレの中に大勢書かれていますが、私も子供の頃、原因は思い出せませんがこっぴどく叱られました。母親に泣きながら「お前と一緒にお母さんも死ぬ」と怒られたのが、爺さんに成った今でも頭の中に残っています。昔の親は何か一本芯が通っていました。 後は、全く貴兄の仰る通りです。 私は以前から日本が現状の様な社会に成ったのは、子育てから始まった複合汚染だと言っています。汚染された子供が大きくなり、政治家や指導者に成るのですから、脱線するのはあたり前で転覆しない事を祈るのみです。 |
複雑な問題を簡単に切って捨てるのは危険。さりとて限られた文字数の中で意を尽くすことも困難。結果、「電脳掲示板」は、互いに誤解したままの水掛け論になるのがオチ。しかし、黙ってしまっていては議論も解決方法も見いだせない。そこまで考えた上で、あえて申し上げたい。 小生の「管見」では、ニッポン人のモラルの「消滅」の最大要因は、教育制度でもなければ、教育現場でもなく、家族制度・徒弟制度の消滅にあると思っています。 よく引き合いに出される「戦前」は、知識・学問を中心とした学校教育こそ現代のそれに遙かに及びませんでしたが、それに代わるものとして、人と人とのつきあい方・仕事の心意気・モラルが、大家族・徒弟修行の中で仕込まれてきたのではないかと思っています。(ただし、ここですぐ、「戦前は良かった。男は軍隊で一人前になって帰ってきた」を持ち出すのはよしましょうね。) 骨肉間の殺し合いはもとより、現代、頻繁におきている「現場」での、うっかり事故――数日前にも、クレーンを折りたたみ忘れ、電柱をなぎ倒してしまった「中年!」の運転手がいました。少し前には、JRの線路脇に作業後に大型器具をしまい忘れて放置した事件もありました。マンホール内での酸欠死もこのところ立て続けにありました。かつては、現場で働く者にとって、その危険性は「常識」だったはず。 なぜなのか。現場の長が、理屈より「げんこつ」で、配下の作業員に徹底して仕事の危険性・重要性をたたき込まなくなったからではないでしょうか。もっとも、そんなことをすれば、「暴行を受けた」と告訴されますがね、現代は。コンビニの店員ならその場で辞めてしまうでしょう。アメリカ型訴訟社会への漸進的移行もニッポン人のモラル低下の大きな要因かもしれませんが。(なお、これは権利の主張とは別に論ずべき問題です――こんなふうにいちいち断りをしなければならないところにも、現代ニッポンのこまった傾向が現れていますが) このように「昔なら」、考えられない「うっかりミス」が、恐ろしいくらい頻繁におきています。高校進学率が数十年前に90パーセントをこえ、選り好みしなければ希望者全員が大学に入れる現代にですよ。学校教育に最大要因があるのではなく、学校教育の外でおこなわれるべき教育がなくなってしまった事の方により大きな原因が隠れていませんか。 ひとつ贅言を加えれば、みなさん勘違いなさつている。我々も含めて中高年が苦々しく思っている例としてあげますが、現代の高校生のレベルが下がったのではなく、レベルの低い若者が高校生になれるようになったからですよ。さらに贅言。ここで言うレベルは学校成績偏差値などではなく、げんこつによる教育レベルの意味です。 もう30年近くまえ、イラストレーターの故真鍋博氏が新聞のコラムに書いていたことを思い出します。仕事柄深夜、書斎で描いていると、家の向かい側のビル工事現場で一晩中話し声がする。いい年をした現場の男達が、とぎれることなく「しゃべっている」。氏は続けて「昔の、現場の男達は寡黙だった」と書いています。今日の大事故続発の遠因は、はやくそのころに胚胎していたと、小生も思います。 若者の深夜徘徊・朝帰りは、「珍しく」もなくなりました。注意も補導もできません。われわれ中高年に、若者からの畏敬の念も、腕力も胆力もなくなってしまったからです。 自分の身と自分の家族を忘れて「袋だたきに合う」のを覚悟で、彼らを「教育する」御仁はきわめて少数の例外を除いていらっしゃいますまい。 現代の教育の荒廃・ニッポン人の「劣化」を、悲憤慷慨するまえに、「無理偏にげんこつ」を、合法的に現代に生かす方法はかんがえられないものでしょうか。 |