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 ▼8月15日と念仏寺  流水 04/8/16(月) 22:41
   ┣Re(1):8月15日と念仏寺  ニック 04/8/16(月) 22:59
   ┃  ┗Re(2):8月15日と念仏寺  流水 04/8/16(月) 23:43
   ┃     ┣Re(3):8月15日と念仏寺  ウミサチヒコ 04/8/16(月) 23:57
   ┃     ┃  ┗Re(4):西部戦線異常なし  流水 04/8/17(火) 9:58
   ┃     ┗Re(3):8月15日と念仏寺  ニック 04/8/17(火) 22:16
   ┣Re(1):8月15日と念仏寺  こんぺいとう 04/8/17(火) 9:47
   ┃  ┗Re(2):殺された神々と仏たち  流水 04/8/17(火) 10:53
   ┃     ┣Re(3):殺された神々と仏たち  ナベ講師ね 04/8/17(火) 11:10
   ┃     ┃  ┗Re(4):殺された神々と仏たち  流水 04/8/17(火) 13:47
   ┃     ┗Re(3):殺された神々と仏たち  こんぺいとう 04/8/17(火) 17:11
   ┗Re(1):8月15日と念仏寺  王里 04/8/17(火) 11:07
      ┗Re(2):8月15日と念仏寺  流水 04/8/17(火) 13:37

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 ■題名 : 8月15日と念仏寺
 ■名前 : 流水
 ■日付 : 04/8/16(月) 22:41
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   京都の奥嵯峨に念仏寺というお寺がある。たくさんのお地蔵さんが並んでおり、
その光景は写真の格好の題材になっている。
昔このあたりは、風葬の地であり、念仏寺のお地蔵さんの多くは無縁仏である。

わたしは、8月15日というと、この念仏寺の光景を思い出す。同時に、お盆の送り火の輝きを思い出す。
わたしにとって8月15日は、人間の生と死を静かに振り返る日である。

ところが、どうやら靖国神社大好き人間にとっては、死者というと戦死者以外は眼中にないらしく、8月15日というと靖国神社問題とか戦犯の問題しか語らない。

ところが、8月15日は、日本中の多くの人々にとっては、それぞれの祖先・家族・親族縁者の生と死を考える【哲学の日】である。
そこでは、戦死者も空襲で死んだ人間も、病気で死んだ人間も交通事故で死んだ人間も何の差別も無く、同じ人間の死として墓参りの対象になっている。
【死んだ人はみな仏】の精神でお盆にはみな墓参りするのである。

靖国の歴史とか戦犯がどうのとか、わたしには全く興味がない。ただ、はっきりしているのは、どうやら靖国大好き人間たちは、人の死に軽重をつけているらしい、ということである。

だから、念仏寺の無縁仏に涙する庶民の感性などは、理解の外にあるらしい。
戦死者であろうが、何であろうが、死は死である。どんな権力者であろうが、名も無い庶民であろうが、誰にも平等におとづれる。
だからこそ、人々はお盆に誰にも必ず訪れる【生と死】を考え、自分の人生を考えるのである。
お盆とは、死んだ人のためにあるのではない。生きている人間が自分の人生を考えるためにこそある。

自分の人生を考えるのに、靖国神社にいかなければ考えられない、というのは、わたしには理解できない。
特別な場所でなければ、自分の人生が考えられない、というのは、自分が特別な人間であると考えているからである。

わたしには祖父母や父の墓、先祖の墓さえあれば、充分である。
だから、念仏寺の無数のお地蔵さんを見ても、葬られている人々の人生を想像して自然と手を合わせる。
わたしは、戦争と平和の問題を語るのに、この身近な人の人生から語らない人間は信じない。
天下国家の問題を論じているから偉いのではない。自分の【生と死】の問題を真剣に考え、他人の生死の問題を自分のことと同じように考えられるところから、天下国家を論じることのできる人間が偉いのである。

わたしは、念仏寺の無縁仏の人生を考えることのほうが、はるかに8月15日にふさわしいと考えている。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):8月15日と念仏寺  ■名前 : ニック  ■日付 : 04/8/16(月) 22:59  -------------------------------------------------------------------------
   流水様、こんばんは

京都の化野念仏寺の事ですね。

確か弘法大師が開いたお寺だったと記憶しています、おっしゃるとおり、このような無縁仏などに思いを馳せ、供養する心がまず第一だと思います。

その様な所から弱者に対する思いやりが生まれますし、それがあれば戦争戦争とは安易に言えなくなるはずですね。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):8月15日と念仏寺  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/8/16(月) 23:43  -------------------------------------------------------------------------
   化野とは、言いえて妙ですね。
風葬とか鳥葬といえば、格好よいですが、要するに死体をそのまま投げ出していたわけですよね。
死体を野犬がつつき、鳥がつつき、腐敗して土に返っていくわけでしょう。

今でも、アフガンでもそうでしたし、イラクでも多くの死体がまるで物体のように転がっているわけです。
わたしは、あの映像や写真を見て、戦争というものの本質を感じ取れない人は、感性のどこかがおかしいのだと思います。
戦争というのは、人が死ぬから悪いのではないのです。【死が日常化】するから、悪いのです。

わたしの父親は、中国戦線に行っていましたが、隣にいる人間が死んでも何も感じなくなるといっていました。死の日常化です。その意味で、戦場にいる人間の精神は、どこか狂っているのです。
【狂った人間が正常で、正常な人間が異常】となる逆転した世界が、戦場というものです。

地獄の黙示録・プラトーン・ランボーの第一作など、この逆転した世界で生きざるを得なかった人間が正常な感覚との狭間で苦しむありようを描いた作品ですが、戦争というものが人間に与えるありようを深く考えさせてくれます。

戦争と平和を語るということは、【死の日常化と人間】を語るということです。
この視点を欠いた戦争論議など、何の役にもたないことを肝に銘じるべきです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):8月15日と念仏寺  ■名前 : ウミサチヒコ <hrdjapan@me.scn-net.ne.jp>  ■日付 : 04/8/16(月) 23:57  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:

>この視点を欠いた戦争論議など、何の役にもたないことを肝に銘じるべきです。

本当です。私なんかもがさつですから、ついつい我を忘れて相手を言い負かすことに熱中しますが、それもこれも「何のための死か」を問いたいからです。犬死はごめんです。犬死を強いてなんの国家・民族だろうか、です。
日本が戦後連合国を受入れたのは、日本人そのものです。つい昨日まで「鬼畜米英」と言わされていた日本の民衆が、平和の為には、その鬼すら受入れたのです。「天皇のために最後まで戦い死のう」などというのは、まったくの嘘っぱち、強制で言わされていただけです。8月15日は、それを思い出す日です。嘘っぱち民族主義を鼓舞する日ではありません。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):西部戦線異常なし  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/8/17(火) 9:58  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ウミサチヒコさん:
それもこれも「何のための死か」を問いたいからです。犬死はごめんです。犬死を強いてなんの国家・民族だろうか、です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
映画化された「西部戦線異常なし」に、今でも忘れられない場面があります。
塹壕の中にいた主人公の若い兵士が、塹壕の前に咲いていた花に蝶が止まるのを見ます。
塹壕の向こうでは敵の狙撃兵が狙っているのも忘れ、蝶々の美しさについ身を乗り出して手を差し伸べようとするのです。
その時、銃声が響き、若い兵士は倒れます。口元に、やさしい微笑を浮かべたまま
若い兵士は帰らぬ人になるのです。

この場面に戦争の本質が凝縮されています。
人間的になることは、死を意味するのです。死を免れるためには、【人間性】を捨てなければなりません。
この絶対的な矛盾の中に放り込まれるのが【戦争】というわけです。

この絶対的な矛盾に苦しまない人間のいう戦争論など、信じられるものではありません。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):8月15日と念仏寺  ■名前 : ニック  ■日付 : 04/8/17(火) 22:16  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん
>化野とは、言いえて妙ですね。
>風葬とか鳥葬といえば、格好よいですが、要するに死体をそのまま投げ出していたわけですよね。
>死体を野犬がつつき、鳥がつつき、腐敗して土に返っていくわけでしょう。
>
>今でも、アフガンでもそうでしたし、イラクでも多くの死体がまるで物体のように転がっているわけです。
>わたしは、あの映像や写真を見て、戦争というものの本質を感じ取れない人は、感性のどこかがおかしいのだと思います。
>戦争というのは、人が死ぬから悪いのではないのです。【死が日常化】するから、悪いのです。
>
>わたしの父親は、中国戦線に行っていましたが、隣にいる人間が死んでも何も感じなくなるといっていました。死の日常化です。その意味で、戦場にいる人間の精神は、どこか狂っているのです。
>【狂った人間が正常で、正常な人間が異常】となる逆転した世界が、戦場というものです。
>
>地獄の黙示録・プラトーン・ランボーの第一作など、この逆転した世界で生きざるを得なかった人間が正常な感覚との狭間で苦しむありようを描いた作品ですが、戦争というものが人間に与えるありようを深く考えさせてくれます。
>
>戦争と平和を語るということは、【死の日常化と人間】を語るということです。
>この視点を欠いた戦争論議など、何の役にもたないことを肝に銘じるべきです。


流水様、こんばんは

戦争の恐ろしい所は、通常の感覚が麻痺してしまう事にありますね。

数々の戦争体験記を読んでも、最初は中国人を殺す事を嫌がっていた新兵も、強要されるうちにだんだん殺す事に何の抵抗も感じなくなって行ったと言います、これはその環境に順応しようとする人間の能力に立脚するものですから、これをもって新兵を戦争犯罪者と呼ぶ事は出来ません。

問題は、現地の状況も碌に知らない、自分の部下が何を行なっているのかも認識していない馬鹿な将校が下す命令にあります。

戦時中、少ない資源でせっかく米兵を介抱したと言うのに、米兵側では酷い目にあわされたと思い込み、B・C級戦犯にされてしまったと言う話も耳に致しますが、少なくとも戦争を決定した・部下の外国人虐殺を黙認していた・戦争を終わらせる事に反対した・正しい報告をしようとした部下を酷い目に会わせた将校は、同じ日本人の目から見ても「戦犯」でしょうね。

流水様のお話を読ませて頂いて、かつては行き倒れの人々にも弔いの心を持った日本人が、最近ではなんと少なくなってしまった事かと思います、最も死を忌み嫌い、死体と言うもの自体見た事が無い世代が殆どですから、それも仕方が無い事なのかもしれません。

長野県の温泉業者の騙しは許しても、このような死者に思いを馳せ、戦争に反対する気も無いような変な慈悲心は捨てて、もっと戦争と言うものの残虐性について、戦争戦争と騒ぎ立てる方々は想像を巡らす必要がありますね。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):8月15日と念仏寺  ■名前 : こんぺいとう <shima-mama@jcom.home.ne.jp>  ■日付 : 04/8/17(火) 9:47  -------------------------------------------------------------------------
   8月15日前後、テレビ放映されていた60年前夫を亡くした戦争未亡人
の話、原爆でお子さんを亡くした母親の話、為政者達は聞いていましたかね。
特定の神社へ参る事が亡き人を弔うことではないと思います。
本当に大切な人を失った悲しみは、母親であり、妻であった女が一番身に
しみています。何十年たっても癒されないと思います。
誰も、軍神になどにしたくて子を生み育てていませんでしょう。

皆さん、お盆はそれぞれのお墓で亡き人を向かえて対話していると思います。
60年たっても、まだまだそれぞれの戦地で風雨にさらされている遺骨を
思うと、ただただ念仏を唱えてその方々が安らかに遺族のもとへ帰られる
日を祈りましょう。

ちなみに、神社は祝詞で、念仏ではありません・・・

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):殺された神々と仏たち  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/8/17(火) 10:53  -------------------------------------------------------------------------
   ▼こんぺいとうさん:

●ちなみに、神社は祝詞で、念仏ではありません・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そこに気がついてくださいましたか。
わざわざ念仏寺の話を持ち出した甲斐があったというものです。
わたしは、廃仏毀釈・靖国神社・明治憲法・教育勅語などの政策は、国家の手による【神殺し・仏殺し】の政策だったと考えています。
明治以降、多くの神々と仏が殺されたのです。そして、唯一絶対の神、天皇に集約されていったのです。
つまり、戦前の日本は、【天皇一神教】の時代だったと考えているのです。

先日、世界遺産に登録された熊野古道などの森は、南方熊楠の超人的活躍によって辛うじて守られた自然のおかげです。ここには、日本古来の神々が息づいています。まさに多神教の世界が日本の伝統であることを、熊野の山々は教えてくれているのです。

日本古来の仏教の伝統は、お盆には死者の魂が自分の家に帰ることを教えています。だからこそ、死者が迷わずに家に帰るために迎え火をたき、迷わずに彼岸の世界に返るために送り火をたくのです。
ここには、死者に対する敬意と、彼らがあったからこそ今の自分があるという【生かされている】という謙虚な気持ちが込められています。
この気持ちに権威は要りません。

靖国問題の本質は、【一神教】の世界に戻るのか、日本古来の多神教の世界を大切にするのかとというところにあると思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):殺された神々と仏たち  ■名前 : ナベ講師ね  ■日付 : 04/8/17(火) 11:10  -------------------------------------------------------------------------
   このごろ伝統を重んじよう、と主張する人がいます。しかし、その多くは、靖国大好き人間のようです。伝統復活を言うなら、失われた神々、仏たちの復活を主張して欲しいものです。すると、当然、宮中にも、仏式が復活しなくてはいけません。江戸時代までの、天皇陛下は、お寺に祭ってあるそうです。内親王が、門跡になっていました。宮様の子供たちも、お寺に入った人も多かったでしょう。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):殺された神々と仏たち  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/8/17(火) 13:47  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ナベ講師ねさん:
●すると、当然、宮中にも、仏式が復活しなくてはいけません。江戸時代までの、天皇陛下は、お寺に祭ってあるそうです。内親王が、門跡になっていました。宮様の子供たちも、お寺に入った人も多かったでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
京都などには、多くの門跡寺院が残されています。塀に白い線が入っている寺院は、門跡寺院と思えば間違いありません。
天皇家も御多分にもれず、権力争いがすさまじかったので、敗れた人などの多くがお寺に入ったのでしょう。この伝統は、武家にも引き継がれています。

武士道だの、日本人の伝統など叫ぶ連中の大半は、まがい物だと考えて間違いないと考えています。
日本人は、もっと謙虚で思慮深いものです。大声で叫んで他人を巻き込むようなことをしないのが、日本人の日本人たる所以だと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):殺された神々と仏たち  ■名前 : こんぺいとう <shima-mama@jcom.home.ne.jp>  ■日付 : 04/8/17(火) 17:11  -------------------------------------------------------------------------
   流水さま

17584 の私の書き込みを見ていただくと、私が一神教が好き
ではないのが分かっていただけるでしょうか。

難しいことは分かりませんが、私は自分の感覚、感性で自然や人生を
語って、生きたいと思っています。
私はかつて学校の職員をしていて様々な教員を裏側から見せて
いただいていました。
申し訳ないが、????マークの教員がたくさんいました。
こんな先生に自分の子どもは預けたくないと思った教師もいました。
が、その???教師にも息子には決して悪口は言いませんでした。
9年間の義務教育のなかでこれはと思う担任に3人ほど会いました。
あなたのような方が教師でいることで、救われた気がしています。
首都圏の子どもが増加したバブルの時代に教師になった人の中には
こんな風にまじめなお話が出来ない先生がいっぱいいました。

何せ、教師ではない私達職員に、結構差別的扱いをした教員や校長が
いましたから。そこで学びました、品性や教養とは学歴職業ではない
ことを。

すみません、スレッドの題と離れてしまったようで。
色即是空  空即是色 ・・・・

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):8月15日と念仏寺  ■名前 : 王里  ■日付 : 04/8/17(火) 11:07  -------------------------------------------------------------------------
   流水さん:こんにちわ

念仏寺へは10年ほど前に一度行ったことがあります。記憶はうすれかけておりますが、どのお墓も小さくて、それが集まって、ただそこにあるという印象が残っています。
靖国神社へは行ったことがありません。死ぬことを強制され、死んでからも誰かに利用され何かを期待される気の毒な人たち、英霊と呼ばれる神様に会いたいとは思いません。
死ねば皆仏になります。神様になるのは特別な人たちです。特別な人だけに、死んでからも何かを期待されるのでしょう。
ひっそりと静かに死んでいきたい、それが私の理想です。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):8月15日と念仏寺  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/8/17(火) 13:37  -------------------------------------------------------------------------
   ▼王里さん:

●ひっそりと静かに死んでいきたい、それが私の理想です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宮沢賢治ではないですが、人に迷惑をかけずにそっと生き、そっと死にたいものです。
キリスト教では「一粒の塩」であり、仏教では「一隅を照らす(最澄の言葉)」ですか。
わたしは教師でしたので、そのような人生を送りたいと、切に願っています。

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