Page 1304 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼教育基本法改正問題・2 Ray 04/8/9(月) 19:53 ┣Re(1):教師の宿命;逆恨み 流水 04/8/10(火) 10:34 ┃ ┣Re(2):教師の宿命;逆恨み 松 04/8/10(火) 15:01 ┃ ┃ ┗Re(3):教師の宿命;逆恨み 流水 04/8/10(火) 16:48 ┃ ┃ ┗Re(4):教師の宿命;逆恨み 月光仮面のおじいさん 04/8/11(水) 7:50 ┃ ┣Re(2):教師の宿命;逆恨み 団塊党 04/8/11(水) 7:44 ┃ ┃ ┗Re(3):教師の宿命;逆恨み 流水 04/8/11(水) 11:05 ┃ ┃ ┣Re(4):教師の宿命;逆恨み 松 04/8/11(水) 15:13 ┃ ┃ ┗Re(4):教師の宿命;逆恨み 団塊党 04/8/11(水) 18:19 ┃ ┗Re(2):教師の宿命;逆恨み 敦煌 04/8/12(木) 1:02 ┃ ┣Re(3):教師の宿命;逆恨み 団塊党 04/8/12(木) 19:52 ┃ ┗Re(3):人権について 王里 04/8/13(金) 10:15 ┃ ┗Re(4):人権について 敦煌 04/8/13(金) 17:44 ┃ ┣Re(5):人権について 王里 04/8/13(金) 20:45 ┃ ┃ ┣Re(6):人権について Gokai Sezutomo 04/8/20(金) 0:54 ┃ ┃ ┃ ┣子どもの人権について 珠 04/8/20(金) 1:58 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣Re(1):子どもの人権について Gokai Sezutomo 04/8/20(金) 23:15 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗子どもの人権と躾について 珠 04/8/21(土) 2:53 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(1):子どもの人権と躾について Gokai Sezutomo 04/8/21(土) 19:51 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(1):子どもの人権について 桃李 04/8/21(土) 6:48 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(2):子どもの人権について 桃李 04/8/21(土) 7:04 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(3):子どもの権利条約の考え方です。 桃李 04/8/21(土) 8:03 ┃ ┃ ┃ ┗Re(7):人権について 王里 04/8/20(金) 9:05 ┃ ┃ ┃ ┗Re(8):人権について Gokai Sezutomo 04/8/20(金) 13:20 ┃ ┃ ┃ ┣Re(9):人権について 王里 04/8/21(土) 10:54 ┃ ┃ ┃ ┣子どもの生来の権利 なお 04/8/23(月) 7:03 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣Re(1):子どもの生来の権利 敦煌の倅 04/8/24(火) 20:11 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(1):子どもの生来の権利 Gokai Sezutomo 04/8/24(火) 22:47 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣Re(2):子どもの生来の権利 桃李 04/8/24(火) 23:21 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(3):子どもの生来の権利 Gokai Sezutomo 04/8/24(火) 23:59 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(4):子どもの生来の権利 桃李 04/8/25(水) 0:12 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣Re(5):子どもの生来の権利 桃李 04/8/25(水) 0:26 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(6):URLの誤りですよ。 Gokai Sezutomo 04/8/25(水) 11:55 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(7):URLの誤りですよ。 桃李 04/8/25(水) 12:08 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(5):資料提示の意図? Gokai Sezutomo 04/8/25(水) 12:24 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re(2):子どもの生来の権利 なお(坂西尚樹) 04/8/25(水) 22:18 ┃ ┃ ┃ ┗レスして下さい なお(坂西尚樹) 04/8/24(火) 12:44 ┃ ┃ ┃ ┗Re(1):レスして下さい Gokai Sezutomo 04/8/24(火) 13:18 ┃ ┃ ┃ ┗Re(2):レスして下さい なお(坂西尚樹) 04/8/24(火) 17:14 ┃ ┃ ┃ ┗Re(3):レスして下さい Gokai Sezutomo 04/8/25(水) 21:32 ┃ ┃ ┣なぜ子供を大切にするのか。 ぎみゆら 04/8/21(土) 18:15 ┃ ┃ ┃ ┣Re(1):子供の心を大切に。 王里 04/8/21(土) 22:24 ┃ ┃ ┃ ┗ぎみゆらさん、Gokai Sezutomoさんへのお答え 珠 04/8/22(日) 18:44 ┃ ┃ ┃ ┣Re(1):子供の権利条約をよんで Gokai Sezutomo 04/8/22(日) 19:46 ┃ ┃ ┃ ┗Re(1):ぎみゆらさん、Gokai Sezutomoさんへのお答え 桃李 04/8/23(月) 1:27 ┃ ┃ ┗「子供の権利」と「子供の王様化」 ぎみゆら 04/8/23(月) 12:33 ┃ ┃ ┗ちょっと言い訳>ぎみゆらさんへ 珠 04/8/24(火) 2:33 ┃ ┃ ┣Re(1):叩くことについて 王里 04/8/24(火) 10:13 ┃ ┃ ┗忙しいお母さん ぎみゆら 04/8/24(火) 17:32 ┃ ┃ ┣>ぎみゆらさんへ 珠 04/8/25(水) 0:57 ┃ ┃ ┃ ┗どうもありがとうございました。 ぎみゆら 04/8/26(木) 10:54 ┃ ┃ ┗Re(1):忙しいお母さん 桃李 04/8/25(水) 1:11 ┃ ┃ ┗好きですって、伝えること。 ぎみゆら 04/8/26(木) 10:57 ┃ ┗「子宝」、また「まだ十年早い!」という言葉 宮崎故郷人 04/8/24(火) 16:13 ┃ ┗Re(1):「子宝」、また「まだ十年早い!」という言葉 敦煌の倅 04/8/24(火) 21:06 ┃ ┗Re(2):「子宝」、また「まだ十年早い!」という言葉 宮崎故郷人 04/8/26(木) 11:28 ┣小学校時代のK先生のこと ぎみゆら 04/8/10(火) 19:57 ┃ ┗Re(1):小学校時代のK先生のこと 流水 04/8/11(水) 10:27 ┃ ┣Re(2):体罰について 王里 04/8/11(水) 12:04 ┃ ┃ ┗Re(3):体罰について 流水 04/8/11(水) 13:20 ┃ ┃ ┗Re(4):ありがとうございます 王里 04/8/11(水) 14:45 ┃ ┃ ┣Re(5):ありがとうございます 団塊党 04/8/11(水) 18:24 ┃ ┃ ┃ ┗Re(6):再度ありがとうございます 王里 04/8/11(水) 21:57 ┃ ┃ ┗Re(5):ありがとうございました ふくちゃん 04/8/11(水) 20:37 ┃ ┃ ┗Re(6):元気で素直に 王里 04/8/11(水) 22:22 ┃ ┃ ┗Re(7):元気で素直に ふくちゃん 04/8/12(木) 15:10 ┃ ┃ ┗Re(8):元気で素直に 石頭の息子 04/8/12(木) 18:56 ┃ ┃ ┗Re(9):元気で素直に 王里 04/8/13(金) 6:58 ┃ ┣Re(2):小学校時代のK先生のこと 敦煌 04/8/13(金) 17:53 ┃ ┃ ┗「誤解」から来る「教育の危機」(1) 団塊党 04/8/17(火) 9:36 ┃ ┃ ┣「誤解」から来る「教育の危機」(2) 団塊党 04/8/17(火) 16:47 ┃ ┃ ┗「誤解」から来る「教育の危機」(3) 団塊党 04/8/17(火) 21:32 ┃ ┗Re(2):小学校時代のK先生のこと ぎみゆら 04/8/17(火) 11:23 ┃ ┗Re(3):小学校時代のK先生のこと 団塊党 04/8/17(火) 15:42 ┣本当の危機は 団塊党 04/8/19(木) 21:19 ┃ ┗Re(1):本当の危機は Gokai Sezutomo 04/8/19(木) 23:32 ┃ ┗Re(2):本当の危機は 団塊党 04/8/21(土) 13:47 ┃ ┗Re(3):本当の危機は 団塊党 04/8/21(土) 15:27 ┃ ┗Re(4):本当の危機は Gokai Sezutomo 04/8/21(土) 18:58 ┃ ┗Re(5):本当の危機は 団塊党 04/8/22(日) 20:43 ┃ ┗Re(6):内申書制度は是か非か? Gokai Sezutomo 04/8/22(日) 22:06 ┃ ┗学習指導要領のおかしさ 団塊党 04/8/24(火) 20:44 ┃ ┗Re(1):学習指導要領のおかしさ Gokai Sezutomo 04/8/24(火) 23:50 ┣教育についてなおの独り言 なお 04/8/24(火) 6:19 ┃ ┗Re(1):個性とは何か 流水 04/8/24(火) 22:49 ┃ ┗Re(2):個性とは何か なお(坂西尚樹) 04/8/25(水) 7:05 ┗新スレッドへ移行願います Ray 04/8/25(水) 21:12 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 教育基本法改正問題・2 ■名前 : Ray ■日付 : 04/8/9(月) 19:53 -------------------------------------------------------------------------
▼みなさま: こんばんは。Ray@スタッフです。 「できない子はそれなりに…教育基本法改正のねらい」スレッドが だいぶ長くなってきましたので新スレッドを立てました。 以後のご議論はこちらをご利用下さい。 どうぞよろしくお願い申し上げます。 (以下は前スレッド最後の書き込みの転載です) ------------------- 【16870】本物のエリート教育 団塊党 - 04/8/8(日) 21:27 - 斎藤秀雄の言葉をもう少し引用します。 ここに本物のエリート教育の考え方が出ているように思います。 「教育家のすることは何かというと、クズを作らないということ、世の中に不要の人間を作らないということが第一番で、偉い奴はその中から偶発的に出てくるんですね。偉い者を作ろうと思っても偉い者は出てこなくて、クズを作るまいと思うと、その中から偶然いいのが出てくる。」 つまり斎藤のいいたいことはピラミッドの底辺を広げるということです。 底辺を広げることによって、優秀な人材も数多く出てくる。 エリートを育てようと思って少数精鋭の教育に力を入れても、なかなか期待するような人材は出てくるものではない。 実際、斎藤は力のある子よりも弱い子に対して、より熱心に教えました。 特に基礎教育に力を入れました。 日本の音楽教育の底辺が斎藤の「子どものための音楽教室」によって広がったのです。 彼はエリートを育てようとは思わず、ひたすら基礎教育の徹底を図ったのです。 その結果、世界に通用する多数の優秀な音楽家達を育てたわけです。 エリート教育を叫ぶ人達に斎藤の考え方を是非学んで欲しいものです。 ------------------- 【16958】本物のエリート教育(2) 団塊党 - 04/8/9(月) 19:39 - 「出来ん者は出来んままで結構」とか「入学時に遺伝子情報を検査」などという人に日本の教育の将来を決められてはたまりません。 個人の力をそんなに小さい年齢から決めつけられてしまったのでは、遅咲きのタイプは切り捨てられてしまいます。 小さい頃にはその子どもが何に向いていて、将来どのような方面で活躍するのか分かるものではありません。 義務教育の段階では少なくとも全人間的な発達を優先すべきと思います。 人間として生きる上で基礎となるような諸々の力をバランスよく身につけさせるのが義務教育時代は何より大切なこと。 産業界が求める力ばかりが優先されるようになれば、子ども達の荒れはますますひどくなることは確実です。 人口肥料だけで育ったひょろひょろの優等生では本物のエリートとは言えません。 教育はまず豊かな土作りから始めるべきです。 学校で勉強することが楽しい。 友達と遊ぶことが楽しい。 こんな当たり前なことをちゃんと保証してあげられるような学校でありたいと思います。 |
今日は、少々重い話題を語ろうと思う。 教師という職業は、人の生活に深くかかわらざるを得ない時がある。 子供が非行に走った場合、学校で問題を起こした場合、突然病気になった場合、不登校になった場合、親が突然亡くなった場合、親が突然蒸発した場合などなど、好むと好まざるとにかかわらず、人の生活に深くかかわらざるを得ない。 その場合、一つ対応を間違えると、家族に深く恨まれる場合がある。これは、教師の宿命とも言える。 言葉一つで、教師側の善意が逆に取られる場合がしばしばある。 特に、問題のある生徒の親との対応は難しい。 どの親も、自分の子供に問題があると指摘されて、喜ぶものはいない。 まして、強く叱られた、暴力をふるわれたなどが原因で、子供が不登校に陥ったり、教師不信に陥ったり、前よりいっそう悪くなった場合の親の対応は厳しい。 さらに、意外と指摘されないのだが、「問題児」と言う目で子供を見る教師の目が、子供や親の恨みの対象になる。つまり、教師の意識そのものが、恨みの対象になるのである。 さらに、一人の教師がそのような恨みの対象になれば、教師全てが恨みの対象になっている場合が多い。 教師を長年続けていれば、自分がこの種の恨みの対象になった経験の一つや二つを持たざるを得ない。 わたしもそのような経験を何度か持っている。 わたしの担任した生徒が家出をした。その子の家出は常習化しており、過去何度かあった。学校でもかなりの問題があり、親も何回か呼び出しを受けていた。 わたしは、家庭訪問を何度か繰り返したり、夜11時ごろまで心当たりを手分けして捜索した。 一週間そのようなことを繰り返して、ようやくその子が見つかった。 これでゆっくり眠れると安心したのもつかの間、3日後にまた家出をした。 今回は、おおよその見当がついていたので、2日くらいで捕まえた。 これから、どうするかを相談するため、家庭訪問した。話し合っている際、母親から「学校の先生がうるさいから家の子が家でする」と食ってかかられた。「そうではないでしょう。誰かに責任をなすりつけても問題は解決しないでしょう」と、強く言い返すと、「誰かに責任を押し付けないと、わたしはどうして良いか分からない。逆恨みと分かっていても、誰かを恨まないと、身が持たない」と泣きながら述懐しました。 この親の気持ちは痛いほど分かる。 どんなに辛くても、問題に正面からとり組まなければ駄目だ、と言うことは、ほとんどの親は分かっている。 しかし、それを他人から指摘されることは、耐えがたいほど辛い。いかにも、日本的な風景と言えばそうであるが、地域社会に生きるとはそのようなものである。 わたしはその時、「もし他人に尋ねられたら、悪いことをして先生に叱られたのが原因だと答えなさい。しかし、家庭では問題に真正面から取り組んでください」と言って切り上げたが、この種の逆恨みは教師の宿命として引き受けざるを得ない、と思う。 教師は、正しいことを正しいと言えば良い、というのは、あまりにも単純な議論である。 人が生きるとは、この種のアンビバレンツな感情を生きることなのだ、と言う認識が必要だ思う。 わたしは現在介護関係の本を読んでいる。 痴呆が始まった老人とどのように向き合うかは、ある意味で子供と向き合うことと同じだ、と言うことを改めて感じた。 ネット上で検索した痴呆老人との接し方のポイントに以下のようなものがあった。 1、間違った言動に対して頭から否定しない。いったんは受け入れる。 2、異常な行動を正常化しようと焦らず、その背後にある情緒不安定を軽減させることに目を向ける。 3、失敗行為や行動をいちいち指摘したり注意しない。 4.乳幼児に対するような態度で接したり、子ども扱いをしない。 5、叱ったりからかったりすべきでない 6、理屈で問い詰めたり、説明や説得を強要しない 7、命令調、説教調、権威的な接し方を避ける 8、自尊心を傷つけない さらに痴呆の出現頻度に関する法則では、【もっとも身近に接した人にひどく現れ、時々会う人などに軽く現れる】 続いて自己有利の法則では、【自分にとって不利なことに関しては、たとえ現実に合わないことでも自分を守る反応(例:偽りの言い訳)をすばやく行なう】と書いている。(http://www5.ocn.ne.jp) このポイントを読んでいると、老人は子供に帰る、と言うことがよく分かる。1〜8までの接し方のポイントは、教師が子供に接するポイントと同じである。 出現頻度に関する法則なども、最初に書いた【逆恨み】される教師と同じである。自己有利の法則などは、痴呆でなくても、人間誰しもそうであろう。 痴呆老人の姿は、あらゆる衣を投げ捨てた人間の原初的な姿であるとも言える。 その意味では、教育はこの原初的な姿に一枚一枚衣を着せてゆく仕事であるかもしれない。 その衣を着せていくことが、人間にとって本当に幸せであるかどうかは、誰にも分からないと思う。 ただ、親や教師が体験的に知っていること、世間が正しいとしていることなどを伝えているだけであるかも知れない。 人間には、世間や常識に縛られて、苦しむことすらしばしばある。 Ignorance is Blis (知らぬが仏)とは、その意味で人間存在の本質をついた深い言葉である。 わたしの愛読書の一つ池波正太郎の「鬼平犯科帖」のすぐれた所は、この人心の機微をあます所なく掴んで離さないところにある。 「人間て奴は、遊びながら仕事をするものさ」と言いながら、兎と渾名されるあまり能力はないが、人々の心を和ませる部下を、貴重な人材として高く評価する。 この種の人間認識は、子供を育てる時、一番重要な部分である。なんとなく、ほっと安心するが、基本的なルール(人間としての約束事 ※学校や組織の約束事ではなく、人間として根幹にかかわる約束事)には厳しい。 クラスでは、子供たちは、のびのびと行動するが、間違いを犯すと素直に謝れる感性を持っている。喧嘩や揉め事はしょっちゅう起きるが、自分たちで解決できるし、その事が後をひかない。 池波正太郎の小説を読むと、なんとなくほっとできるのは【人間に対する確固たる信頼】があるからであろう。 教師も同じである。【子供たちに対する揺るがない信頼】こそが、子供たちを育てるのである。 わたしは、教師研修の必須本に「鬼平犯科帖」を入れることを、心から提案したいと思っている。 |
▼流水さん: こんにちは、初めまして。 実感の篭った体験談、読ませていただきました。 教師というのは本当に大変なお仕事なのだなと、しみじみと読んでしまいました。 もう何年も前になるのですが、とある旅館で、関東の小学校の校長先生と、関西の中学校の教頭先生お二人と相部屋になった事がございます。 私は悪い生徒だったので、何故俺はこの人達と一緒にいる事になったのだろう?などと、緊張の中で自問自答しながら3人仲良く川の字になって寝る数日を過ごしました。 校長先生は飄々とした方で、悩みはあると思うのですが、いつもどこか楽しげに見える方でした。 しかし、教頭先生の方は深い悩みを抱えられているようでした。 やはり生徒の問題であったようです。 教頭先生が校長先生に話していた内容、私個人に話してくれていた内容から察するに、どうしてもままならない男子生徒がいるのだそうです。 授業が終わり、生徒達が皆帰った教室で、その生徒の席で独り考える事が多い、 と仰っていました。 その男の子と同じ高さの視線になれば何かわかるのではないかな、と思っての行動だそうです。 本当に、先生方は生徒達と向き合って戦っているのだなぁ、と感じ入りました。 世間では教育問題に絡んで教師全体への批判も多く耳にしますが、その様な声を聞く度にあの時の教頭先生のお姿が思い浮かばれて少し切ない気持になります。 ここ数日、あなたの実体験を読ませていただいて、本当にあの先生は苦労されたのだな、とそのご苦労の一端がまた少し理解できたような気がします。 私も鬼平犯科帳のファンです。同好の志がいるとわかりつい嬉しくて投稿してしまいました。 どうぞこれからもお身体にお気をつけて、お仕事にまい進されますよう。 それでは失礼します。 |
松さん、こんにちは そうですか、鬼平のファンですか。わたしは、池波正太郎の大ファンでして、彼の小説はすべて読みました。 彼が書いた江戸の切絵図をもって、東京の街を歩いたこともあります。 お話の教頭さんの姿、目に浮かぶようです。「子供の目線に立つ」とはよく言われることですが、実践するとなると本当に難しいものです。 ある先輩教師がいました。本当に人の良い好人物で、でしゃばりもせず、偉らぶることもなく、本当に目立たない先生でした。 ある年、彼は大変な問題児を担任しました。小学校以来、担任教師を散々てこずらせた生徒でした。 わたしたち周りの教師は、大丈夫かいな、と本当に心配したものでした。案の定、一学期は、問題が噴出したのです。2学期も、問題を何度も起こしました。ところが、3学期になると、どうしたのかというくらい、問題行動がなくなりました。 わたしは、その先輩教師の行動をかなり丁寧に観察していたのですが(※わたしはその先輩が好きだったので、何か手助けができたらとおもっていました)、彼は損子が問題行動を起こすたびに怒りの表情一つ見せずに「また、やったか」といいながら、ひたすら関係者に頭を下げ続けていたのです。 この神様のような人柄に、さしもの問題児も参ったのでしょう。三学期には、ほとんど問題行動が影を潜めたのです。 わたしのような若造が偉そうに手助けができたら、などと思い上がっていたことを思い知らされました。わたしなど足元にも及ばない【人格者】でした。 お話の教頭先生もどうやらこの先輩教師に似ておられるのではないかと思いました。 わたしなどの苦労は、多くの先輩教師の苦労に比べれば、比較にならないと思います。大変荒れた学校に生徒指導として赴任した先輩教師は、3年間寝食を忘れて学校の建て直しに奮闘しました。漸く、学校が建て直ったと思えたその年、過労死してしまいました。 皆さん方にこのような良心的な教師がたくさんいることを、ぜひ知っていただきたいと思っています。 |
松さま、流水さま 素晴らしい内容ありがとうございます。涙を溜めながら読ませていただきました。 お二人のご活躍お祈りしています。 |
▼流水さん: >言葉一つで、教師側の善意が逆に取られる場合がしばしばある。 >特に、問題のある生徒の親との対応は難しい。 問題のある子どもの親にどうそれを伝えるかは難しいですね。 私にも苦い失敗があります。 親自身どうしたらよいか悩んでいるところへ、担任がグサリと刺すような言葉を言えば冷静に聞けなくて当たり前と、今になると分かりますが、その時は私自身もどこか冷静さを欠いていますから、ある不用意な一言が出てしまいました。 それ以来親子で登校拒否にあい、私は毎日家まで迎えに行きましたがドアを固く閉ざして一切受け付けてくれません。電話にも出てくれません。 手紙を書いて送ったら一週間後にやっと出てきました。 その一週間の苦しかったこと。こたえました。 親の話をよく聞いてあげ悩みを共有する姿勢がなければ、基本的にうまくいかないということをその時に感じました。 親の意識も最近は変わってきています。 自分の子どもの問題点を見つめると言うことよりも先に、教師の姿勢を問題にするなどは昔はなかったと思うのですが・・・ >さらに、意外と指摘されないのだが、「問題児」と言う目で子供を見る教師の目が、子供や親の恨みの対象になる。つまり、教師の意識そのものが、恨みの対象になるのである。 これも思い当たることがいくつもあります。 問題児という目が問題をさらに難しくすると言うこと。 教師が代わると案外早く解決する場合がありますね。 私は、前の担任としても後の担任としても経験があります。 さらに好き嫌いの感情もやっかいです。 教師も人間。どうしても好悪の感情がどこかに出ます。 普段からコミュニケーションをとり好きになる努力をするしかありません。 低学年ではまったくありませんが、高学年になると最後まですっきりしない感情で終わることがたまにあります。 そういうこと一つ一つが私自身の中に重苦しい感情としてたまっています。 つらいことですが、教師を続ける限り避けられないのかも知れません。 >痴呆が始まった老人とどのように向き合うかは、ある意味で子供と向き合うことと同じだ、と言うことを改めて感じた。 私には痴呆老人の経験はありませんが、仰るように子どもの教育に通じることがあるように思います。 ポイントととして書いてあることはすべて共通していそうです。 >池波正太郎の小説を読むと、なんとなくほっとできるのは【人間に対する確固たる信頼】があるからであろう。 >教師も同じである。【子供たちに対する揺るがない信頼】こそが、子供たちを育てるのである。 >わたしは、教師研修の必須本に「鬼平犯科帖」を入れることを、心から提案したいと思っている。 是非読んでみたいと思います。 |
▼団塊党さん: ●親の意識も最近は変わってきています。 >自分の子どもの問題点を見つめると言うことよりも先に、教師の姿勢を問題にするなどは昔はなかったと思うのですが・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ たしかにその傾向は年々顕著になっています。この理由はマスコミ等で、教育の問題点、教師の資質批判などが、頻繁に取り上げられるようになったのも一因です。 わたしの経験でいいますと、非常に荒れた学校を建て直すとき、4月新学期はじまってすぐ、それこそ部落単位で保護者懇談会を開きました。時間は、夜7時からです。場所は、部落の公民館などで行いました。もちろん、教師も参加します。 そして、学校の現状を正直に説明し、保護者の協力を要請しました。 その時一番力を込めてお願いしたのは、【とにかくこの一年間、教師の悪口を子供の前で言わないで欲しい。どんなにつまらない教師だと思っても、子供の前では悪口は言わないで欲しい】ということでした。 子供の前で教師の悪口を親が言えば、子供は自分の行動を正当化できる理由が見つかるからです。 このときは、PTAが大変協力的で、一年間で見事に学校は立ち直りました。 今、学校ができることは、教師の懸命な姿を保護者に訴え、信頼を勝ち取ることしかないと思います。 関西電力の社長のように、事故が起こって土下座をするより、最初から学校の現状をPの役員などの有力者だけにいうより、本当に全部の保護者に説明し、心から協力を求める姿勢が重要だと思います。 ●さらに好き嫌いの感情もやっかいです。 >教師も人間。どうしても好悪の感情がどこかに出ます。 >普段からコミュニケーションをとり好きになる努力をするしかありません。 >低学年ではまったくありませんが、高学年になると最後まですっきりしない感情で終わることがたまにあります。 >そういうこと一つ一つが私自身の中に重苦しい感情としてたまっています。 >つらいことですが、教師を続ける限り避けられないのかも知れません。 > ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 好き嫌いの感情はやっかいですね。 これは、わたしが尊敬する美術担当の女性教師の話ですが、彼女は子供たちが教室に集まる(美術教室)のが遅いと、おでこにチューをする刑をすると宣言していました。 これが男の子には実によく効くのです。中学生くらいになると、おばさん(この当時相当の年配でした)にチューされるなど、それこそ格好のからかいの対象になります。 美術の時間の前などに授業をすると、終了のチャイムが鳴るや否や、子供たちは脱兎のごとく美術教室に走ります。チューなどされてたまるか、というわけです。 他の女性教師に言わせると、「とってもわたしにはできない」といいます。中学生の男の子の額は、結構にきびが出たり、汚れていたり、とてもじゃあないが、チューなどする気になれない、というのです。特に若い女性教師などは、生理的に我慢できないというのです。 この先輩女性教師は、そんな感情などを吹っ切って、見事な指導力を見せていました。わたしなど、到底及ばない素晴らしい先生でした。 |
▼流水さん: >好き嫌いの感情はやっかいですね。 >これは、わたしが尊敬する美術担当の女性教師の話ですが、彼女は子供たちが教室に集まる(美術教室)のが遅いと、おでこにチューをする刑をすると宣言していました。 >これが男の子には実によく効くのです。中学生くらいになると、おばさん(この当時相当の年配でした)にチューされるなど、それこそ格好のからかいの対象になります。 >美術の時間の前などに授業をすると、終了のチャイムが鳴るや否や、子供たちは脱兎のごとく美術教室に走ります。チューなどされてたまるか、というわけです。 > >他の女性教師に言わせると、「とってもわたしにはできない」といいます。中学生の男の子の額は、結構にきびが出たり、汚れていたり、とてもじゃあないが、チューなどする気になれない、というのです。特に若い女性教師などは、生理的に我慢できないというのです。 > >この先輩女性教師は、そんな感情などを吹っ切って、見事な指導力を見せていました。わたしなど、到底及ばない素晴らしい先生でした。 この部分を読んで思わず声を出して笑ってしまいました(笑) 素晴しい先生ですね! 惜しくも亡くなられた先生のお話はショックでした。 でも、素晴しい先生方のお話をお伝えくださりありがとうございます。 池波正太郎の話ですが、私は真田太平記から読み始めました。 お陰ですっかり真田親子が私の贔屓武将となってしまいました。 しかしまだ池波作品全ては読んではいません。 取敢えずもう一度薄くて読みやすい鬼平犯科帳から全巻読破に挑戦してみます。 また、鬼平犯科帳は薄くて読みやすくて、本が苦手という方にもお勧めです(笑) 今後の先生方のご活躍をお祈りしております。 横から入るような形になり失礼しました。 では失礼します。 |
▼流水さん: >今、学校ができることは、教師の懸命な姿を保護者に訴え、信頼を勝ち取ることしかないと思います。 >関西電力の社長のように、事故が起こって土下座をするより、最初から学校の現状をPの役員などの有力者だけにいうより、本当に全部の保護者に説明し、心から協力を求める姿勢が重要だと思います。 その通りだと思います。 ともすると、あまり無様なところは見せたくないという感情が働きますが、これがかえって信頼を無くすことにつながります。 父母とは肩の力を抜いて開けっぴろげにつき合うのが一番です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >好き嫌いの感情はやっかいですね。 >これは、わたしが尊敬する美術担当の女性教師の話ですが、彼女は子供たちが教室に集まる(美術教室)のが遅いと、おでこにチューをする刑をすると宣言していました。 何でもないようですが、情熱がないととても出来ないことですね。 子どもを真からかわいく思っていたんでしょう。 こういう話を聞くと、細かいことはどうでも良い。 熱意さえあればたいがいのことはうまくいくと思えてきます。 天性のものなのか、努力のたまものか、この先生にその秘密を聞いてみたい気もします。 |
「ガキにも人権が・・・」などと言い出した頃から この国は、おかしくなっています。 生産に寄与しない・・・。自分一人では生きていけないガキに・・・ 人権など、ありません。 だから、先生も「舐められる」んです。 |
▼敦煌さん: >「ガキにも人権が・・・」などと言い出した頃から >この国は、おかしくなっています。 >生産に寄与しない・・・。自分一人では生きていけないガキに・・・ >人権など、ありません。 >だから、先生も「舐められる」んです。 その考えを認めるわけにはいきません。 少なくも私が子どもだったら、絶対にそんな先生に教わりたくないですね。 子どもの人権を認めたら、子どもからなめられるというのは飛躍でしょう。 |
▼敦煌さん:こんにちわ。横から口をだしてすみません >「ガキにも人権が・・・」などと言い出した頃から >この国は、おかしくなっています。 >生産に寄与しない・・・。自分一人では生きていけないガキに・・・ >人権など、ありません。 >だから、先生も「舐められる」んです。 とおっしゃってますが、生産に寄与しない、一人では生きていけない存在という意味では、老人も同じ。あなたの論法では老人にも、人権がないことになりませんか。 |
▼王里さん: >▼敦煌さん:こんにちわ。横から口をだしてすみません > > >>「ガキにも人権が・・・」などと言い出した頃から >>この国は、おかしくなっています。 >>生産に寄与しない・・・。自分一人では生きていけないガキに・・・ >>人権など、ありません。 >>だから、先生も「舐められる」んです。 > >とおっしゃってますが、生産に寄与しない、一人では生きていけない存在という意味では、老人も同じ。あなたの論法では老人にも、人権がないことになりませんか。 遅くなりました。いえいえ、お年寄り。所謂老人の方々は、社会に充分寄与されてこられたわけです。この国はこれらの方々に「報恩」していませんが・・・ ガキは「餓鬼」でありまして、権利といえば「養育される」権利のみです。 親は(一部の人でなしを除いて)この権利を行使させています。 今まで筆舌に尽くせぬご苦労をされた、ご老人とは較べるべくもありませんね。 |
敦煌さん:こんにちわ 私の勝手な想像ですが、あなたは多分強いお方なんでしょうね。そんなあなたを周囲の弱い立場の方達がどう思ってらっしゃるか。気にはなりませんか。 子供にも誇りはあります。生来の人権があります。それを軽んじられ、ないがしろにされて愉快である筈がありません。 どうぞ子供の気持ちになって、よく考えてやってください。 |
▼王里さん:こんにちは、お聞きできれば幸いです。 >敦煌さん:こんにちわ > >私の勝手な想像ですが、あなたは多分強いお方なんでしょうね。そんなあなたを周囲の弱い立場の方達がどう思ってらっしゃるか。気にはなりませんか。 >子供にも誇りはあります。生来の人権があります。それを軽んじられ、ないがしろにされて愉快である筈がありません。 >どうぞ子供の気持ちになって、よく考えてやってください。 一つは子供の生来の人権とは? またもう一つは、敦煌さんが軽んじられ、ないがしろにされたと思われる人権とは、どのようなものを云っておられるのでしょうか? 挑むような質問になりまして真に申し訳ないとは思いますが、過去、貴兄の様な論法を聞くにつけ、疑問に思い、また、正直、反発も感じてきました。 もちろん、正当な、腑に落ちる、或いは目の覚めるご意見には反発の意思はありません。お教えくだされば幸いです。 |
▼Gokai Sezutomoさん: 横レスで失礼します。私も王里さんと同じで、子どもの人権は、とても大事にすべきものだと思っています。そして親や教育者はじめ周囲の大人が、子どもの心を理解しようと努め、子どもの視線でものを見、考えて子どもを育てることは、子どもが愛情深い思慮深い大人に育つために、とても大切なことだと思っています。 以前に「子どもを可愛く思えない」「つい叩いてしまう」といった親の話がマスコミをにぎわしたことがありました。母親がこういう思いや行動をしてしまうことはあると思いますし、その原因は、母親だけに子育ての責任を負わせ、母親を孤独に追い込んでいる社会の問題でもあるし、こうした母親への支援が必要であり、また、こういう気持ちを正直に母親が話せるようになったことを、とてもよかったと思いました。 けれども、この時、あまり語られなかったのは、「可愛くないと思われている子どもの気持ち」「叩かれる子どもの気持ち」でした。親は自分の気持ちを訴えられます。けれども子どもは、どんなに辛い思いをしていても、自分の気持ちをなかなか人に伝えられない。そしてどんなひどい親であっても、子どもは親しか頼りにする人もいないのです。 どんな子どもも、可愛いと抱きしめられ、愛情の隠った言葉をかけられながら育てられる権利があるのではないかと私は思います。けれども、子どもの育つ現実はとても厳しく、今も昔も現実的にも精神的にも育児放棄や虐待の問題は起きています。 ですから、子どもの権利を認めて、子どもの心に寄り添って、時には子どもの権利の主張を代弁をしてやる大人が必要だと、私は思っています。 弱者に優しい社会は、どんな人にとっても住み良い社会です。今は強い大人も、いつかは年を取り、体も弱って来ます。社会的弱者である子どもや老人の「権利」を認め、大切にする社会こそ、老人党の目指す理想の社会であると、私は思っています。 |
▼珠さん:こんにちは >横レスで失礼します。私も王里さんと同じで、子どもの人権は、とても大事にすべきものだと思っています。そして親や教育者はじめ周囲の大人が、子どもの心を理解しようと努め、子どもの視線でものを見、考えて子どもを育てることは、子どもが愛情深い思慮深い大人に育つために、とても大切なことだと思っています。 > 仰られるとおりで、 良い大人や親は子供が今、何を思っているのか洞察する能力を求められます。聞き分けの良い子は親が自分の思っていることをわかってくれていると感じると素直に意思疎通を始め、親の指導に従ってくれます。ところが親が自分に理解を示していなくて且つ、自分の行動を妨げようとしていると思うと絶望を感じるのだと思います。それでは愛情深い思慮深い子供に育つわけがありませんね。 これが珠さんの考えておられる「子供の人権」なのでしょうか。 ということは「甘やかす」ということとはまるで意味が違いますね。 私が初めて「子供の人権」という言葉を聴いたとき、大勢の人々は「優しくする」ということと「甘やかす」ということと混同したように思います。そしてそれは現在でも混同して使用しているのではないかと思う節があります。 ついこの間わが子に大きな愛情を持っていることが傍目からでもわかる若いお母さんが悩んで少々愚痴っていました。保育園の先生に言われたそうです。「家で厳しく、し過ぎではないですか?叩いていませんか。」・・・叩いているそうです。自分では叩くのはその子にとって正しい躾だと思っていても、いざそのような指摘を受けると自信がなくなったと申されていました。 私は保育園の先生が混同しているのだと思いましたが違っていますか。 私はこのような混同を起こす「子供の人権」等という言葉は不要だと感じています。 このような言葉のないときは親がもう少し、自信を持って子供をしつけていたような気がしています。 >以前に「子どもを可愛く思えない」「つい叩いてしまう」といった親の話がマスコミをにぎわしたことがありました。母親がこういう思いや行動をしてしまうことはあると思いますし、その原因は、母親だけに子育ての責任を負わせ、母親を孤独に追い込んでいる社会の問題でもあるし、こうした母親への支援が必要であり、また、こういう気持ちを正直に母親が話せるようになったことを、とてもよかったと思いました。 > >けれども、この時、あまり語られなかったのは、「可愛くないと思われている子どもの気持ち」「叩かれる子どもの気持ち」でした。親は自分の気持ちを訴えられます。けれども子どもは、どんなに辛い思いをしていても、自分の気持ちをなかなか人に伝えられない。そしてどんなひどい親であっても、子どもは親しか頼りにする人もいないのです。 > その通りだと思います。支援も必要だと思います。 また、だからこそ今は親の教育、親になるまでの教育に問題があって、教育問題が注視されているのかもしれません。 ところでこのような虐待の問題は、過去においては、貧困からくる場合を除くという条件では、今より多かったのでしょうか? 何はともあれ「子供の人権」という言葉を連呼する前に、その言葉の持つ意味の共通認識と親の人格の成長という問題もあるように思います。 >どんな子どもも、可愛いと抱きしめられ、愛情の隠った言葉をかけられながら育てられる権利があるのではないかと私は思います。けれども、子どもの育つ現実はとても厳しく、今も昔も現実的にも精神的にも育児放棄や虐待の問題は起きています。 > 権利が最初からあるとは思えませんが、愛情に飢えたままではまともに育ちにくいと思います。 敦煌さんが仰った、「こどもにあるのは養育される権利のみ」とは、「心の成長も含めて、立派な大人になるように養育される権利」と捉えれば、彼は正しいことを言ったのだと私には思えたのでした。 >ですから、子どもの権利を認めて、子どもの心に寄り添って、時には子どもの権利の主張を代弁をしてやる大人が必要だと、私は思っています。 > >弱者に優しい社会は、どんな人にとっても住み良い社会です。今は強い大人も、いつかは年を取り、体も弱って来ます。社会的弱者である子どもや老人の「権利」を認め、大切にする社会こそ、老人党の目指す理想の社会であると、私は思っています。 恵まれない子供や恵まれなかった人々も、みんなが住みよい社会をと、目指すのは大変良いことです。 格差が拡大する社会には私も反対しています。 最後になりましたが大変良い内容の文章を有難うございました。 |
▼Gokai Sezutomoさん: 丁寧な返信をありがとうございました。今少し、私の考えを述べてみます。 >良い大人や親は子供が今、何を思っているのか洞察する能力を求められます。聞き分けの良い子は親が自分の思っていることをわかってくれていると感じると素直に意思疎通を始め、親の指導に従ってくれます。ところが親が自分に理解を示していなくて且つ、自分の行動を妨げようとしていると思うと絶望を感じるのだと思います。 > これが珠さんの考えておられる「子供の人権」なのでしょうか。 聞き分けがよいか悪いかは、子どもの持って生まれたものにも因ると思います。私は聞き分けがよい子は育てやすく、親にとってはラクでありがたい子であることは確かですが、聞き分けが悪い子がなぜそうなのか、そこを考える親でありたいと思っています。泣きわめく子に対し、ただ叱りつけても、叩いても、問題は解決しません。なぜこの子は泣きわめくのか、そこを考えて対処すること、これは甘やかすことではないと私は思います。叩けば普通はもっと泣きます。黙らせて言うことを聞かせる程叩くのは、恐怖に因る押さえ付けであって、私はこういう方法を取りたいとは思いません。 > ということは「甘やかす」ということとはまるで意味が違いますね。 はい、甘やかすことではありません。甘やかすと言うのは、一見こどもを大切にしているように見えますが、実は大人が子どもをおもちゃ扱いして、きちんと向き合わないところから生まれます。例えば泣きわめくとウルサイから、お菓子やおもちゃを与えておこう。これは何ら問題の解決にはなりません。 > ついこの間わが子に大きな愛情を持っていることが傍目からでもわかる若いお母さんが悩んで少々愚痴っていました。保育園の先生に言われたそうです。「家で厳しく、し過ぎではないですか?叩いていませんか。」・・・叩いているそうです。自分では叩くのはその子にとって正しい躾だと思っていても、いざそのような指摘を受けると自信がなくなったと申されていました。 その保育園の先生は、なぜそう言ったのでしょう。私は多分、その子どもの瞳や態度に、怯えの影を見たからではないかと思います。たとえばちょっと手をあげたら、叩かれるのではないかとビクビクするといったような……。そうでなければ、そんな質問は出てこないでしょう。 実は私も子どもが幼かった時、叩いてしまったことがありました。でも私は、躾として叩いたかと問われると、けっしてそうではなかったと思います。どんなに躾のような顔をしても、怒りに任せてしまったのです。そうでなければ、事分けて話し、分からなければ、泣きわめけば、しばらくそのままにして、落ち着いたところで話せば、子どもはかなり理解するからです。 お母さんがつい子どもを叩いてしまうことはあると思います。けれどもそれは決して正当化できないものだと思うのです。私は教師も同じだと思います。叩いてしまうことはあるけれど、それは自分の忍耐や指導力のなさであり、叩いた、つまり暴力を振るったという鋭い心の痛みを伴うものでなければならないのではないでしょうか。子どもを愛しているなら、なおさら、弱い立場ものを叩くことを、躾と言 う名のもとに正当化してはならないと、私は思います。 > 私は保育園の先生が混同しているのだと思いましたが違っていますか。 > 私はこのような混同を起こす「子供の人権」等という言葉は不要だと感じています。 > このような言葉のないときは親がもう少し、自信を持って子供をしつけていたような気がしています。 私はそうは思いません。子どもの人権を認めない社会は、子どもの躾と言う名のもとに平気で暴力を振るったり、子どもの心を傷つける言動をする大人がはびこります。子どもにも人権があるというのは比較的新しい考えでしょうが、間違っていないと思います。低開発国では肉体に及ぶ子どもの労働や人身売買、日本などでは、商業的な広告にさらされたり、親が教育の名のもとで子どもらしい遊びを奪って いるなど、子どもの人権が犯されていることは多々あると思います。 また自信を持って躾けるというのは、子どもをよくよく見ることから始まると、私は考えています。大人の理想を押し付けることではないと思うのです。聞き分けのいい子は、本当にその子どもの願い、心の欲求を、子ども自身がちゃんと出しているかを、大人は気をつけてみてやらなくてはいけないと思います。 矛盾する様ですが、躾に自信を持った親ほど私は怖いものはありません。簡単に答えのでない人間の成長に関わるのが親です。これでいいのだろうか、という迷いを持ち、自分の心に問いかけながら子どもを育てて行くのが普通ではないかと思います。内省のない自信は、私には危険にすら思えます。 > また、だからこそ今は親の教育、親になるまでの教育に問題があって、教育問題が注視されているのかもしれません。 今の教育問題と言うより、子ども時代や青少年時代に、幼い子どもに触れあうことが少なくなった、異年齢のグループで遊ぶことが少なくなった子どもが、大人になった問題が大きいのではないかと思います。 > ところでこのような虐待の問題は、過去においては、貧困からくる場合を除くという条件では、今より多かったのでしょうか? 今は、虐待が今は大っぴらに語れるようになったのではないでしょうか? そして虐待が貧困から来るもので無くなったこと、そして昔なら虐待しそうな親に対して近所の目があったのが、今は目が行き届かなくなった分、発見がおくれるということがあるかもしれません。私はむしろ貧困の中で、娘を売り飛ばすのが当たり前、それが親孝行なんて言われていた時代より、今はよくなったと思っています。 > 敦煌さんが仰った、「こどもにあるのは養育される権利のみ」とは、「心の成長も含めて、立派な大人になるように養育される権利」と捉えれば、彼は正しいことを言ったのだと私には思えたのでした。 そうお取りになられれば正しいかも知れません。でもその前にお書きになった >>生産に寄与しない・・・。自分一人では生きていけないガキに・・・ >>人権など、ありません。 というお書き込みとあわせると、私はなんだか違うなあと感じてしまうのです。誰にも子ども時代はあります。子どもの体が小さいからと言って、子どもの悲しみが、子どもの心が小さいとはません。自分1人では生きていけない弱者だからこそ、親が、そして周りの大人が「子どもの人権」をしっかり考えてやる必要があると思っています。親は子どもに対して毅然たる態度で臨むことも必要な時がありますが、深い内省に裏打ちされているものでなければ……と思うのです。 |
珠さん、こんにちは、少し恥ずかしいのですが、 子供をひっぱたく、こずくということについて少しお話させていただきます。 私は赤子には出来るだけかまってやり、赤子にわかるようにあからさまに愛情を振りまいてやるべきだと思っています。そうすることによって、赤子は生きていくことに喜びを感じ、自我が強められていくのだと思っているからです。 やがて赤子は幼児へと成長します。頼もしいぐらいに自我が強められた幼児を、野外での遊びや、買い物などへ連れて行くことを想定してください。 あらゆることへの興味津々の幼児は親の少々の制止などに見向きもしません。危ないといっても聞きません。他の人の迷惑になるからといっても勝手に騒ぎます。うっかりすると店の陳列物にも手を出します。強い、安心できる自我を持つ子供ほど親の言う事を無視する傾向にあります。 そういうときには、叩いたり、こずいてやったりするのです。何故いけないかの説明は後です。親の権威や迫力をまず、見せ付けてやります。 ひっぱたくこととその後の説明で、社会の規律の一部を実地に教えます。 後の説明で、解からないようであれば、解かるまで、泣こうが喚こうが徹底して教えます。 もちろん、解かれば、思いっきり褒めてあげるのは言うまでもありません。 そうして、褒めてあげたときの子供の嬉しそうな笑顔は今でも忘れません。 |
おはようございます。 ▼珠さん: >横レスで失礼します。私も王里さんと同じで、子どもの人権は、とても大事にすべきものだと思っています。そして親や教育者はじめ周囲の大人が、子どもの心を理解しようと努め、子どもの視線でものを見、考えて子どもを育てることは、子どもが愛情深い思慮深い大人に育つために、とても大切なことだと思っています。 > これはとても大切なことです。私自身幼児教育を学びました。その中で、子どもの目の高さでものを見て、それから大人として、子どもの行動を解析していく訓練をとても厳しくやらされました。 まさに分刻みで、観察していることを知られないようにいつもと同じ雰囲気で子どもの声、目線、体の動き、誰と話し、何を見ているか。困ったことがあるとどのように反応するか、どんなことに集中していて、その時間はどのくらいか。全て、小さな手帳にその時間も記していきます。子どもを知るためです。そして、子どもを健やかな雰囲気で、洞察するためです。 対象は、新生児を1年にわたり、そして、幼児を1日ですが、幼児は何回もやります。子どもの特徴などを知るためです。そして、子どもを、若くて、または、幼くて、小さいけれど、素性は、大人と同じ人間である。ということが分かります。 体が小さくて、脳も大人ほど成長していない、言葉も、まだ人間という生き物として集中して獲得して育児期に来ていない、など、長く生きている人間との違いこそあれ、人間だということです。 子どもも大人と同様に、人間として大切に扱われなければならない。こういう世の中の思考が、大々的にでてきたのが、100年前です。 私は子どもと話すときは、必ず子どもの目線まで腰を下ろします。 こういう風に子どもを良く見れば、大人はどうすればいいのか。見えてくるものがあります。 けれど、普段の生活で、親御さんが、冷静にここまでやれるとは思えませんが。 「子どもの人権」という考え方が出てきた歴史はまだおおよそ100年です。 スウェーデン人のエレン・ケイという思想家が1900年に「子どもの世紀」という本を書きました。 イタリアのマリア・モンテッソーリという医師も、100年ほど前に、子どもの「自分でやりたい」という獲得欲求に着目して、当時の共働きの家の子どもなどを預かり、生活に使うさまざまなものを子どものサイズにして、子どもがやりたいと思うことを、子どもに分かりやすく教えていく教育方法を考え出しました。 >以前に「子どもを可愛く思えない」「つい叩いてしまう」といった親の話がマスコミをにぎわしたことがありました。母親がこういう思いや行動をしてしまうことはあると思いますし、その原因は、母親だけに子育ての責任を負わせ、母親を孤独に追い込んでいる社会の問題でもあるし、こうした母親への支援が必要で 「子どもを人間として、成長を助けるために必要な援助をする。」という子どもの人権を重く見た考えが強くなれば、母親に対する支援も自然と厚くなるはずです。 また、子どもをたたくことに私は反対しますが、子どもが親に叩かれ続けると、場合によって、脳みそが、「痛みを愛情だと理解して、安心する。」というケースも出てきます。脳にそういう刷り込みがされると、子どもは混乱したときなどに、自分を傷つけて、親に叩かれたときの、安心感を得ようとするような行動が、大人になっても続くことがあります。 子どもを叩いて叱るときは、そのようなことにも気をつけないといけないでしょう。 まず、子どもの目線になってみる、そして、洞察してみる。すると、丁寧に手をかけて助けることがわかってくるはずです。 問題は、それぞれの大人がどういう風にその助けをするかだと思います。 |
参考までに 日本子ども学会 http://www.6410.jp/bbs/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=16964;id=sougou 参考図書 「子どもの発見」マリア・モンテッソーリ(国土社) 「学校嫌いにさせないで」石田一宏(岩波ブックレット279号) 岩波ブックレットは探すと細かいテーマ別に、子どもについての 考察を述べたものがまだあります。今、自室に見当たりません。見つけたら お奨めの本として、書き込みします。 ブックレットは、薄い冊子ですし、専門書より読みやすいですね。 また、小さな命を具体的に、大切に見る方法を知るためには、次の本が いいかもしれません。 「小さな自然観察・こどもと楽しむ身近な自然」日本自然保護協会編集(思索社) |
子どもの権利条約について http://www6.ocn.ne.jp/~ncrc/crc_1_1.htm 岩波ブックレットは1992年出版の「希望としての子ども」中野光を探してたら見つかりました。 この方は子どもの人権について本を書いてます。関心のある方は「子どもの人権」と「中野光」で本屋さんや図書館、インターネットで探すと、本がでてきますので ご覧になってみてください。 |
▼Gokai Sezutomoさん:こんにちわ 人間が生まれながらもっている固有の権利です。 |
▼王里さん:こんにちは >人間が生まれながらもっている固有の権利です。 上記のお答えは、「生来の人権」という言葉の言いかえをしたに過ぎず、意味の説明になっていないように思います。それでは貴方の人権という一般的概念に対するお考えが伝わってこないのです。 それから、敦煌さんは子供のすべての人権をないがしろにされたわけではありませんよね。もしそうなら、実際に今でも彼の子供に現在も恨まれているかもしれませんね。 つまり私が聞きたいことは、敦煌さん個人がないがしろにしたと思われる人権とは何なのかを聞きたいのです。この部分の質問は人権の定義についてではありません。あくまで彼が軽んじたという、個別の人権についてです。 |
▼Gokai Sezutomoさん: >挑むような質問になりまして真に申し訳ないとは思いますが、過去、貴兄の様な論法を聞くにつけ、疑問に思い、また、正直、反発も感じてきました。 > 上記の書込に悪意を感じましたので、下記のようなご返事になりました。あなたの意図されるところが分かるように思いますので、私からはこれ以上の返事はさしひかえさせていただきます。 >▼王里さん:こんにちは > > >>人間が生まれながらもっている固有の権利です。 > > > 上記のお答えは、「生来の人権」という言葉の言いかえをしたに過ぎず、意味の説明になっていないように思います。それでは貴方の人権という一般的概念に対するお考えが伝わってこないのです。 > > それから、敦煌さんは子供のすべての人権をないがしろにされたわけではありませんよね。もしそうなら、実際に今でも彼の子供に現在も恨まれているかもしれませんね。 > > つまり私が聞きたいことは、敦煌さん個人がないがしろにしたと思われる人権とは何なのかを聞きたいのです。この部分の質問は人権の定義についてではありません。あくまで彼が軽んじたという、個別の人権についてです。 |
議論はお終いとのことですが、児童虐待、少年犯罪、リストカット、母子カプセルなど、現代日本は子どもたちにとって良い社会となっているか疑問に思っているので、「子どもの生来の権利」について私が思っていることを書きます。 安全に成長できる権利。 親からその他の大人たちから成長に必要な愛情を受ける権利。 愛情を受けてもその見返りを返す必要のない権利。 愛情を受けても自身(子ども)の自発性を大人から干渉されない権利。 未熟であってもよい権利。 興味のあることに接するのを保障される権利。 |
▼なおさん: >議論はお終いとのことですが、児童虐待、少年犯罪、リストカット、母子カプセルなど、現代日本は子どもたちにとって良い社会となっているか疑問に思っているので、「子どもの生来の権利」について私が思っていることを書きます。 > >安全に成長できる権利。 >親からその他の大人たちから成長に必要な愛情を受ける権利。 >愛情を受けてもその見返りを返す必要のない権利。 >愛情を受けても自身(子ども)の自発性を大人から干渉されない権利。 >未熟であってもよい権利。 >興味のあることに接するのを保障される権利。 どうも。議論の元になった、人権が無かった!?倅です。 はっきり言います。 「子供の人権なんか、大人の物指しで計った。フロイトやユングの心理学みたいなもんです。そんなのクソ喰らえ!」っす。 うちの親父は、自分で言ってますが、「ガキがガキ作っちゃった(^^ゞから」 そりゃもう夜の目も寝ずに仕事をしていたと母と祖母から聞きました。 「飢え死にさせたなんて・・冗談じゃねえ」とがむしゃらに働いたみたいです。 親の背中は見ています。好むと好まざるに関わらず・・。 その中で愛を感じたり。疑問を感じたり。話したり、触れ合って親子になって行くんでしょう。人権ありきなんて詭弁です。 |
▼なおさん:こんにちは >議論はお終いとのことですが、児童虐待、少年犯罪、リストカット、母子カプセルなど、現代日本は子どもたちにとって良い社会となっているか疑問に思っているので、「子どもの生来の権利」について私が思っていることを書きます。 > 私も教育には興味がありますし、間違った認識は猜疑心から冤罪という人権に反するような結果を生んでしまうこともあると考えていますので、このイタに私が出没する第一の目的ではないのですが、日ごろ思っていた子供の人権感覚への違和感を述べさせていただきました。ほぼ当初の目的を達したかと思いましたのでひとまず、終わろうと思っておったところです。 >安全に成長できる権利。 >親からその他の大人たちから成長に必要な愛情を受ける権利。 >愛情を受けてもその見返りを返す必要のない権利。 >愛情を受けても自身(子ども)の自発性を大人から干渉されない権利。 >未熟であってもよい権利。 >興味のあることに接するのを保障される権利。 桃李さんの示してくださった、子供の権利条項の中には、上記のような、貴方のお考えになっている「生来の権利」というものが記載されていないようですが、これについてどのように理解していいものか困っています。 そもそも、私が違和感を持った「子供の生来の権利」とは、原初から存在するものでなく、あくまで締約国が固有に存すると認めることによって存在しているものであったということです。従って「子供の権利」が何かということについては民主主義が認められ、議論できるということであって、マスコミ等で言われている「子供の権利」についても反論できるものであると解釈したのですが、まちがっておりましょうか? |
こんばんは、 書き込みを拝読して、しばらく考えましたが これについては、スレッドを変えて「人権」という概念の 歴史をたどると分かってくるかもしれません。 世界人権宣言についてはこちらを http://www.amnesty.or.jp/udhr.html |
▼桃李さん:こんばんは >こんばんは、 >書き込みを拝読して、しばらく考えましたが >これについては、スレッドを変えて「人権」という概念の >歴史をたどると分かってくるかもしれません。 > >世界人権宣言についてはこちらを >http://www.amnesty.or.jp/udhr.html かもしれないというぐらいで、桃李さんの意図がわかりません。 真に申し訳ありませんが、「ずけずけ」と云って頂けたら幸いです。 |
Gokai Sezutomo さま 私の意図は、問題にもよりますが「こういう風に考えなければいけない。」と言う形で相手の前に意見を提示しないこと。と 自分でもここに書き込むことで学んでいますので、私が見た参考資料は提示しますが、みなさん自分でも関心があれば、私の書き込みをきっかけに調べてみませんか。と言う提案です。 |
誤解の無いように付け加えますね。正直に、私の分からないことも一杯 あります。ですから自分の確認した内容を提示しています。 「生来の権利」については別のスレッドを立ててみました。 私の思いでは、話し合いから、色々調べたりして学べたら望ましい スレッドになると思いました。 |
▼桃李さん:こんにちは >誤解の無いように付け加えますね。正直に、私の分からないことも一杯 >あります。ですから自分の確認した内容を提示しています。 > >「生来の権利」については別のスレッドを立ててみました。 >私の思いでは、話し合いから、色々調べたりして学べたら望ましい >スレッドになると思いました。 『生来の権利』<18416>の中のURLが間違えているようですので確認お願いします。 |
Gokai Sezutomoさま こんにちは、ご指摘ありましたとおり間違えていました。 良く確認しなくてごめんなさい。 正しくは「守ろう基本的人権の歴史」http://asahisakura.hp.infoseek.co.jp/kihontekijinken.htm でした。ご迷惑おかけしてお詫びします。 |
▼桃李さん:こんにちは >私の意図は、問題にもよりますが「こういう風に考えなければいけない。」と言う形で相手の前に意見を提示しないこと。と > >自分でもここに書き込むことで学んでいますので、私が見た参考資料は提示しますが、みなさん自分でも関心があれば、私の書き込みをきっかけに調べてみませんか。と言う提案です。 スタンスについて、了解しました。 また、資料ですが大変参考になります。有難うございます。 |
▼Gokai Sezutomoさん: > そもそも、私が違和感を持った「子供の生来の権利」とは、原初から存在するものでなく、あくまで締約国が固有に存すると認めることによって存在しているものであったということです。従って「子供の権利」が何かということについては民主主義が認められ、議論できるということであって、マスコミ等で言われている「子供の権利」についても反論できるものであると解釈したのですが、まちがっておりましょうか? 私は法律や法学はよく分らないのですが、「子どもの生来の権利」は原初から存在するものとしか思えません。 「子どもの生来の権利」を学問的に云々する教養は私にはありません。真偽の程は私には判断しかねます。 P.S. 【18491】はお手数かけました。 |
Gokai Sezutomoさん、貴方が再三質問していた「子ども生来の人権」について答えたつもりです。レスしていただけないでしょうか? P.S. 私の本名は坂西尚樹といいます。岐阜県に住んでいます。以後の投稿は上記のハンドルネームでします。 |
▼なお(坂西尚樹)さん:こんにちは、ごめんなさい。必ずレスしますので、もう少し時間を下さい。 >Gokai Sezutomoさん、貴方が再三質問していた「子ども生来の人権」について答えたつもりです。レスしていただけないでしょうか? > >P.S. >私の本名は坂西尚樹といいます。岐阜県に住んでいます。以後の投稿は上記のハンドルネームでします。 |
▼Gokai Sezutomoさん: >必ずレスしますので、もう少し時間を下さい。 そんなに急がなくてもいいです。Gokai Sezutomoさんは経済に詳しくてらしゃいますが、教育にはそれ程詳しくないような印象を持ちます。私は逆で経済に疎くて教育は自分なりに勉強してきました。気長に待ってますのでマイペースでどうぞ。 |
▼なお(坂西尚樹)さん:こんにちは >そんなに急がなくてもいいです。Gokai Sezutomoさんは経済に詳しくてらしゃいますが、教育にはそれ程詳しくないような印象を持ちます。私は逆で経済に疎くて教育は自分なりに勉強してきました。気長に待ってますのでマイペースでどうぞ。 <18411>にレスしました。お気づきでしょうか? |
王里さん、Gokai Sezutomo さん、敦煌さん、 珠さん、桃李さん、こんにちは。 みなさんのお話、興味深く読んでいました。 珠さん、桃李さんの言う「子供の権利」は、大切なお話だと 私も思います。にもかかわらず、それにどこかで違和感を抱き、 Gokai Sezutomo さんの懸念に共感している自分がいます。 Gokai Sezutomo さんが紹介してくださった保育園の先生の助言は、 もちろんその子のためを思ってのことでしょう。「子供に怯えの影を 見たからでは」とフォローした珠さんも、同じお気持ちだと思います。 でも、事情がわかりませんし、この事例に深入りはしませんが、 少なくとも、この経緯によって、母親は悩んでいます。母親を 惑わせて、何のための子育て支援だろうという気持ちが残ります。 私には子供がいませんが、妻の郷里に姪や甥がいて、年に何度かの 帰省の折には、数日間一つ屋根の下で過ごします。そんななかで、 この子たちはどんな大人になるんだろう、などと思いが巡ります。 「子供は未来からの使者である」と言った人がいます。だからこそ、 大人は子供を、自分の子でも、近所の子でも、行きずりの子でも、 大切にすべきなのだろうなと、理屈ではなく、実感として思います。 何と言うか、「子供の権利」というような理念が前面に出過ぎると、 子供だけにスポットが当たりがちという一面があるのではないかと 感じるのです。もちろん、支えられるべきなのは本来、「子供」だけ ではなく、「親子」、実際にはとくに、「母と子」であるはずなのに。 上の事例のように、一生懸命な母親が「悪者」にされてしまうという ような「本末転倒」も、その辺が係わっていはしないでしょうか。 「子供の権利」の大切さに異論はない。ただ、それを発想の起点に 据えることには、いささか疑問が残る。子供が大切なのは、子供が 未来を生きているから。そんなふうに考えたほうが、子供にとっても、 大人にとっても、より創造的な方向性につながりやすいのではないか。 みなさんのお話を読みながら、そんなことを考えました。 |
きみゆらさん:こんばんわ とりとめのない話になると思いますが、ご辛抱お願いします。 私は年齢、性別にかかわらず全ての人間が人間らしく扱われる権利を人権と考えております。子供だからと言って、それが否定されるようなこと、理不尽にとり扱われるようなことがあってはいけないと思います。 私の子供時代でも、成績の良し悪しで子供の扱いを変える教師がいました。子供心に違和感や理不尽さを感じたものです。親や教師の指示に黙って従わなければいけないとは思っても、強い反発を感じたものです。 自分が子供を育ててみて教育は強制ではないと思いました。もちろん、社会生活を営めるようにマナーを身につけさせることは大事ですが、鋳型にはめたような人間づくりは良くないです。個性の違う子供たちを教え導き、自立できる人間に育てることが教育の目的だと考えます。 そのための処方箋は本当に千差万別だと思いますが、なによりも大事なのは子供の心を理解することではないでしょうか。もし、理解できなくても、自分がその子供だったらどう感じるか位の想像力は働かせるべきだと思います。 子供は心ある一人の人間です。幼いから保護が必要だし、そのために権利の一部が制限されることはありますが、人間としての権利を否定される存在ではない筈です。 |
▼ぎみゆらさん: >Gokai Sezutomo さんが紹介してくださった保育園の先生の助言は、もちろんその子のためを思ってのことでしょう。「子供に怯えの影を見たからでは」とフォローした珠さんも、同じお気持ちだと思います。 >でも、事情がわかりませんし、この事例に深入りはしませんが、少なくとも、この経緯によって、母親は悩んでいます。母親を惑わせて、何のための子育て支援だろうという気持ちが残ります。 私も詳しい事情は分かりませんが、子どもを叩いていたお母さんが「それではいけないのだろうか」と悩むのはいいことだと思います。私も悩みながら子育てをしました。正しい子育てなんかない。その時々に、その子の心がわかるだろうかと自分に問いながらです。この前も書きましたが、悩まない内省しない子育ては怖い子育てだと、私は思います。 私はあるお母さんが、最初は「この子は泣き喚くからイヤ」と言っていたけれど、育児の記録をつけるうちに「なんでこの子は泣くのだろう」と考えるようになり、「そうか、こういう理由があるのかも知れない」と考え、それを対処したら、たまたまそれがあたっていたらしく、泣かなくなったという話を聞いたことがあります。泣いた時に叩いて黙らせるのは最低の育児だと思います。 ▼Gokai Sezutomoさん:がおっしゃるような > あらゆることへの興味津々の幼児は親の少々の制止などに見向きもしません。危ないといっても聞きません。他の人の迷惑になるからといっても勝手に騒ぎます。こうしたときに、うっかりすると店の陳列物にも手を出します。強い、安心できる自我を持つ子供ほど親の言う事を無視する傾向にあります。 というときは、おっしゃるように少々痛い目にあわせるといった躾もあると思います。ただその時も、力の強い大人が刃向かえない子どもに対してしていることを、心の片隅に置いておいた方がよいと思います。 > もちろん、解かれば、思いっきり褒めてあげるのは言うまでもありません。そうして、褒めてあげたときの子供の嬉しそうな笑顔は今でも忘れません。 というGokai Sezutomoさんの方法は、その大人の行為が、愛情から出たものだと納得させるために、本当に必要な行為だと思います。 けれども、叩くのは躾のためと平然と心の痛みもなく、ののしったり叩きっぱなしの大人が多いことも事実です。 ▼ぎみゆらさん:へ再び >「子供は未来からの使者である」と言った人がいます。だからこそ、大人は子供を、自分の子でも、近所の子でも、行きずりの子でも、大切にすべきなのだろうなと、理屈ではなく、実感として思います。 いい言葉ですね。その通りだと思います。ただ、親は良く「お前の将来のためなんだ」といって、さまざまなことを子どもに強制します。「勉強しろ、お前の将来のためなんだ」「ピアノのレッスンは?あなたの将来のためなのよ」その他もろもろ。そしてそれに耐え得た子どもは、たしかに成果を上げます。でも、その陰にたくさんの脱落した子供達がいます。 将来は確かに大切です。でも子どもは今を良く生きることがもっと大切だと思います。勉強も納得してできればいい。ただ言われてするのでは辛すぎます。納得するには、大人の生き方を子どもは見るのです。私達は子どもの目にさらされて、よりよい生き方をしなくてはならないなあと思います。 >何と言うか、「子供の権利」というような理念が前面に出過ぎると、子供だけにスポットが当たりがちという一面があるのではないかと感じるのです。もちろん、支えられるべきなのは本来、「子供」だけではなく、「親子」、実際にはとくに、「母と子」であるはずなのに。上の事例のように、一生懸命な母親が「悪者」にされてしまうというような「本末転倒」も、その辺が係わっていはしないでしょうか。 推測ですが、保育士さんはお母さんを「悪者」にしたわけではないと思います。その子が園でもなんら問題のない態度なら、そんな言葉は出て来ないはずです。その子どもに何らかの問題が見えたからこそ、お母さんにそうした質問をしたのではないかと思います。その子の状態がこのままではよくないのではないか、そうした懸念が言わせたのだとしたら、やっぱりお母さんは、ちゃんと悩んで自分の育児を振り返ってみて欲しいと思います。そしてその悩みを率直に保育士さんや、他の人に相談したり、育児の本などを読んでみればいいと思います。自分の育児でいいと思うのは、それからでも遅くないと思います。 > >「子供の権利」の大切さに異論はない。ただ、それを発想の起点に据えることには、いささか疑問が残る。子供が大切なのは、子供が未来を生きているから。そんなふうに考えたほうが、子供にとっても、大人にとっても、より創造的な方向性につながりやすいのではないか。 私は王里さんがお書きになった通りに「人間としての権利」は、子どもでも誰にでも与えられるものと考えます。 |
珠さん、ご丁寧なレス有難うございました。 桃李さんが示してくださった、子供の権利条約を読みました。 これには何の違和感も感じませんでした。 ところが、日本で『子供の人権』という言葉が聞かれだした当初から、この言葉には違和感を感じておりました。何故なのでしょう。もちろん今でもマスコミ、人々の認識のそれには違和感を感じています。 このような認識の「子供の人権」という感覚では人々を不幸にするのではないかという、不安、恐れに似た違和感です。 さて、この話題はひとまず終いにしたいと思います。 初期の目的、敦煌さんは「子供の人権」無視の冷酷人間でないという主張、 「子供の人権無視」というレッテルは冤罪だという主張、同意してくださったかどうかは別として、私なりにある程度、論理的に説明を済ませられたように思います。 また、珠さんや桃李さん、ぎみゆらさんの暖かいご意見を聞けたこと、意見の違いが少しぐらいはあるようでしたが、大変有意義でした。有難うございました。 王里さんには誤解があったようで、残念でした。お詫びします。 |
横から失礼します。 「子どもは未来からの使者」とついにしたい言葉で 「人間は時代の産物」というのがあります。 「未来からの使者」が「時代の産物」になっていくということでしょうか。 それなら、私たちの生きている時代の産物として、いいものを育てていきたいと思いました。 |
みなさん、こんにちは。 「子供の権利」という考え方がどうやって生まれてきたのかに ついては、桃李さんが、エレン・ケイやモンテッソーリを紹介 しながら、上手に教えてくださいました。【18094】 日本でマスコミや評論家たちが「子供の権利」という言葉をもて はやし始めたのは、私の記憶で言うと、十数年前、児童虐待や 育児放棄の報道が重なった時期だったのではないかと思います。 私はそのころ、すでに医療関係の取材を仕事にしていたのですが、 小児科の医師や看護師が、病院に受診に来た子供について、虐待を 受けているサインをどうキャッチするか、早期に気づいて対処する ためにはどうしたらいいかと、議論や情報交換を始めていました。 Gokai Sezutomo さんが危惧するような、日本のマスコミにおける 「子供の権利」理解の「狭さ」と言いますか、「子供を家族や社会 から切り離して自己主張させる」ようなイメージとでも言いますか、 そういうものも、案外その辺から来ているのかもしれません。 珠さんは、ご自分に厳しいお母さんなんですね。それはお子さまに とって、とても素敵なことだと思います。でも、その分ちょっぴり、 よそのお母さんにも手厳しいところがあるのかな、とも感じました。 私は、援助職(医療や福祉など、人の困難を援助する仕事)関係の 取材歴が長いので、彼らの喜びも苦労もある程度わかる分、彼らに 対して、少々厳しく見てしまうところがあるのだろうと思います。 珠さんのおっしゃるとおり、お母さんが悩むのは、ある意味で、よい ことかもしれません。でもそれと、援助職者(今回のお話では保育士 さん)がお母さんを悩ませたり惑わせたりするのとは、またちょっと 別の話だと、私などは、ついそちらのことを考えてしまうのです。 たとえば、少々重い病気で入院が長引いているお年寄りがいて、この頃 家族がちっとも面会に来なくて寂しがっている。そんなときに、若くて 熱心で、患者さんへの愛情に溢れている看護師は、「こんなにつらそう なのに、面会にも来ないで、なんてひどい家族だ」と思ったりします。 でもそれは、援助のプロとして、適切な態度とは言えないのです。そう 思ってしまうのは仕方がないとしても、それを家族に言ったり、態度に にじませてはいけない。面会に来なくても、家族も苦しんでいるのかも しれない。事情だって、さまざまにあるはずなんです。 そんな家族に、プレッシャーをかけずに、何とか患者さんの力になる ようにし向けたり、状況によっては、患者さんだけではなく、家族も 含めて丸ごとケアしようとする。そこまで考えて、口には出さずに、 当たり前のように毎日の仕事をしている看護師も、たくさんいます。 子供でも、お年寄りでも、病人やケガ人でも、いたずらに「弱い者」 「劣っている者」扱いするのは、もちろん、明らかな間違いです。 「その人なりの」人格や尊厳、自由が十分に尊重されるべきなのは、 当たり前のことであり、とても大事なことでもあります。 でも、そこにこだわったり、気持ちを込めたりしすぎると、その人を 「王様」にして、周りのみんなに、その人への奉仕を要求してしまう ような、それはそれで、一種おかしなことが起きてきたりもします。 ここまで書いてようやく、私がちょっとこだわったのは、「子供の 人格や尊厳、自由を尊重する」のは、もちろん大事だけど、それと 同じくらい、「子供をいたずらに王様にしてはいけない」ことも 大事なんじゃないか、という気持ちだったんだとわかりました。 「子供の権利」という言葉から、私はそんな方向に連想を伸ばして、 ちょっと口出しをしました。みなさんからお気持ちのこもったレスを いただき、なるほどと気づいたり、自分で自分の気がかりがある程度 整理できたり、そんなことが、いくつもありました。 みなさま、ありがとうございました。 |
多分、私は自分に厳しくはないです。自分の育児に対していっぱい反省があるだけです。忙しくてちゃんと家に居られなかったから、あまり面倒を見てやれませんでした。自分でできる限り努めたけれど、「居てほしかった時に居なかった」と言われた時には、ホントに悲しかった。でもそれだって自分が選んでしたことですから、自分で負うしかないんです。これからはきっと働くお母さんが増えるでしょう。できるだけそうしたお母さんが辛い思いをしなくて済むように、よい社会体制、勤務形態や、お父さんの自覚を促して行きたいと思っています。これからの働くお母さんに援助できることがあれば惜しまないつもりです。 ただ、「叩く」ということを「躾け」という言葉で、正当化するのは間違っている、許せないと思います。叩かれるのはだれだってイヤなもの、そして子どもにとっては親に叩かれるのは恐怖です。叩く親は、叩かれる子どもの気持ちを考えてみてほしいと思います。子どもは大人に対等に向かうことはできないのですから。例にあったお母さんは、保育士さんに注意されて惑ったことを、他の人に訴えることが出来ました。でも叩かれていた子どもは、その恐怖を誰にも訴えることは出来ません。そのことを大人は考えてほしいと思うのです。 「叩く」ことを平然と肯定する大人に対しては、私は手厳しいかも知れません。ごく一部、多大な迷惑を止める、危険なことをすることに対しての躾は認めますが、それでも私は叩いて躾けたことに対する心の痛みは持ってほしいなと思います。人の痛みを自分の痛みとして想像する気持ちを持つことは、飛躍する様ですが戦争や飢餓に対する痛みを感じる心と同じものだと思います。「叩いて育てる」ことを肯定される方は、そうした問題に対しても痛みを感じられることが少ないように、私には思われます。(では痛みを感じたお前は何をしているのだ?と問われると、たいしたことをしているわけではないのですが) もちろん子どもを叩いてしまうお母さんに援助が必要なことは分かります。でも私は最初の一歩は「叩く」ということが、子どもにどういう影響をおよぼすかを知ることだと思うのです。子どもが変わるよりも先に、大人の方が変わってほしい。そのお母さんにも考える知恵も力も、また子どもを思う深い心のあることを信じたいと思います。叩くことを止めて、代わりに抱いてやる、ゆっくり落ち着くまで側についている。優しい声で歌う、はじめはおびえていた子がだんだん変わってきます。最後に、子どもを「王様化」するのもされるのも、子どもがしているのではなくて、大人がしていることですよね。 |
珠さん:こんにちは 叩くことについて少し私の考えを述べさせてください。 子供が2人います。娘と息子です。娘に対しては、稀にですが叩きました。その結果、今でもそうですが、彼女は私の怒りに敏感に反応します。目におびえが出ることがあります。 一方、息子に対しては一度も叩いたことがありません。彼は年上の人とつきあうのが上手です。 娘は私の父の特訓で、上手に箸が使えます。一方、父に教わらなっかった息子の箸使いは、まるで駄目です。父は元教師で生徒を叩いたことはあったようですが、孫は一度も叩かなかった。母の話では、短気な父が本当に根気良く箸の使い方を教えていたようです。 もちろん、人それぞれですので、いちがいには申せませんが私の子供に関しては、父のやり方のほうが良かったのではないかと思っています。 |
珠さん、こんにちは。 なんか、子育て論になっちゃいましたね。でもこのスレッドはもともと 教育の話題だし、そんなに大きくズレているわけでもないと思うので、 もう少し書いてみますね。 子育て経験のない身で生意気至極ですが、もし私がお母さん方に何か 助言をする立場で、ある子供について、どこかオドオドしたような ところが気がかりだ、もしかしてお母さんが厳しすぎるんじゃないか と感じたときに、どんなふうに話すだろうかと、考えてみました。 ある程度ゆっくり話せる場が作れたら、まず、自分の印象を率直に言う だろうと思います。お子さん、伸び伸びとしたところがちょっと少ない ように感じます、と。それから、ふだん子供とどんなふうに接している のか、なるべくお母さんの口から話してもらうように、仕向けたいです。 お話のなかで、子供を漫然と叩いているようなことが出てきたら、同じ しつけを、もっと違う方法ではできないだろうかというお話にするかも しれません。間違いなく覚えておいてほしいという気持ちで、意図的に 子供を叩くこともあるというようなニュアンスならば、ときにはそんな こともあるかもしれないけれど、それはそれとして、何でもそんなに 急がなくてもいいんじゃないか、少々時間がかかっても、親からしつけ られるだけじゃなく、子供が自分で気がつくというのも、大事なこと なんじゃないか。そんなお話に、持っていこうとするかもしれません。 厳しすぎるんじゃないかとか、叩いてはいけないとか、そういうことは、 なるべくこちらから言いたくない。そのお母さんがこれまでやってきた しつけについても、できるだけ、悪かった、間違っていたとは、思って ほしくない。叩く母親も、手抜きの母親も、どこかで勘違いをしている ような母親であっても、悪い母親なんていない。お母さんであるという だけで、十分に立派なこと。優等生的に聞こえるかもしれませんけれど、 できる限り、そんな前提でお話をしたいと、考えるだろうと思います。 こんなふうに書いてみると、どうも私は、子供のことよりも、どちらか というと、お母さんたちのほうに、目が向いているようです。けっこう、 マザコンなのかもしれません。(笑) うちの母も、いつも忙しい母親でした。仕事をしていた時期もありますし、 いろんな地域活動のようなものにしょっちゅう首を突っ込んでいて、昼間に 家にいることのほうが少なく、私は当時の言葉でいうカギっ子で、学校から 帰ってきて母が家にいると、「あれ、今日はいるの?」という感じでした。 歳の離れた弟が二人いて、私が毎日、小さい頃は乳母車で、歩けるように なってからは手を引いて、お散歩に連れて歩いていました。団地住まい だったのですが、団地って、十年サイクルくらいで住人が大きく入れ替わる ことがあって、その頃ちょうど、私の弟と同じ年頃の子供を連れたお母さん たちが、公園によくいました。そのお母さんたちと、お互いに子供の手を 引いて、おしゃべりしたりしていました。男子小学生の公園デビューです。 最近になって母から聞いた話ですが、ある日、母が夜遅くに帰宅をしたら、 私と弟二人が、居間で川の字になって寝ていたんだそうです。私が真ん中で、 両側の弟たちは、たぶん私がそこいらから引っ張り出してきたバスタオルを お腹にかけている。川の字というよりも、どちらかというと、小の字ですね。 それで、母が私に、「お母さん、帰ってきたよ。お前ももう、自分の布団に 行って寝なさい」と声をかけたところ、私は寝ぼけ半分で、上の弟のほうを 手探りして様子を確かめ、反対側の下の弟のほうも同じように手探りをして から、「うん」と返事をして、目をこすりながら、自分の布団に行った。 その様子を見ていて母は、「ああ。自分はなんて、子供たちに気の毒な ことをしているんだろう。申し訳ない」と、しみじみ思ったというのです。 だけど私は、そんなこと、あったかなっていう感じで、よく覚えていない んですよ。話からすると、下の弟も、もう乳飲み子の歳は過ぎていたよう だから、だとすると、そのときの私は、中学校の一年生か、二年生か、 たぶんそんな頃のはずなんですけれど。 そのことは覚えていないけれど、でも、弟の手を引いて歩き回ったのも、 若いお母さんたちと、生意気に、ミルクが喉に詰まったときには、縦に ダッコして背中を軽く叩くといいんですよなんておしゃべりしていたのも、 家で一人で、あるいは弟たちと、いろんなことを勝手にやっていたのも、 私は楽しかったんです。放っておかれたという意識は、とくにないんです。 お母さんはお母さんの大事なことをやっていて、だからいまは、家には いないんだ。たぶん子供なりに漠然とながら、そんなふうに思っていた んでしょうね。だから私は、「いてほしいときに、いなかった」という 記憶は、あまり思いつかないんです。 でも、いまここにいない人のことを、「そばにいてほしい」と思うのも、 それはそれで、なかなか素敵なことなんじゃないかな、とも思います。 しばらく会えない時間があるくらいのほうが、また会えたときのうれしさ だって、それだけ大きくなるわけだし。 いま目の前にいない大好きな人のことを想う気持ち、「また会いたいな」 「今度はいつ会えるかな」「会うことができたら、どんな話をしようか」 そんなふうに、あれこれと思いを巡らすのって、とってもきれいな気持ち だと思うし、子供の頃に、そういうきれいな気持ちを自分のなかに感じる のって、幸せなことなんじゃないかと、私は思いますよ。 子供はみんな、一生懸命なお母さんから、いまそばにいても、いなく ても、毎日たくさんのことを教わって、育っていくのだと思います。 長くなりました。この辺で。 |
ぎみゆらさんの書き方って、いつもどこか温かいですね。ちょっぴり涙ぐませられ、反省もさせられました。温かいのはきっとお人柄なんですね。そういう方が医療関係ジャーナリストだというのは、患者にとっても、厳しい環境に置かれる医療関係者にとっても幸せなことだろうな、と思います。 私は子ども関係のことを細々ですがしてきましたので、どうしても子どもの側に立っちゃいます。お母さんやお父さんが幸せでなくては、子どもも幸せにはなれませんものね。 |
珠さん そんなふうに読んでいただいて、とてもうれしいです。 > お母さんやお父さんが幸せでなくては、 > 子どもも幸せにはなれませんものね。 これってたぶん、私が今回言いたかったことの、ほぼ全部です。 珠さん、すごい。 どうもありがとうございました。 |
横から失礼いたしますね。 ぎみゆらさま 書き込み拝読しました。 肩を怒らせて過ごしていた私にも、柔らかい肌触りの肌掛けのように ほっとする時間を持たせてくれる書き込みでした。 >いま目の前にいない大好きな人のことを想う気持ち、「また会いたいな」 >「今度はいつ会えるかな」「会うことができたら、どんな話をしようか」 >そんなふうに、あれこれと思いを巡らすのって、とってもきれいな気持ち >だと思うし、子供の頃に、そういうきれいな気持ちを自分のなかに感じる >のって、幸せなことなんじゃないかと、私は思いますよ。 これを読んで亡くなった父と離れて暮らす母のことを、真っ先に思い浮かべました。私が大人になってみて、親も迷いながら子育てしていたのだと、だんだん理解できるようになったら、両親が本当に大切に思えてくるのです。 涙ぐみました。 素敵な書き込みをありがとうございました。 |
桃李さん とてもありがたいレスでした。感謝いたします。 好きな人に、好きですって伝える。言葉で。態度で。手を握って。 何と言われても押し通しちゃうこともある。誰も邪魔してないのに、 なんだかうまく伝えられないこともある。人って、不思議ですよね。 どうか、お元気で。 |
▼敦煌さん: >▼王里さん: >>▼敦煌さん:こんにちわ。横から口をだしてすみません >> >> >>>「ガキにも人権が・・・」などと言い出した頃から >>>この国は、おかしくなっています。 >>>生産に寄与しない・・・。自分一人では生きていけないガキに・・・ >>>人権など、ありません。 >>>だから、先生も「舐められる」んです。 >> >>とおっしゃってますが、生産に寄与しない、一人では生きていけない存在という意味では、老人も同じ。あなたの論法では老人にも、人権がないことになりませんか。 > >遅くなりました。いえいえ、お年寄り。所謂老人の方々は、社会に充分寄与されてこられたわけです。この国はこれらの方々に「報恩」していませんが・・・ >ガキは「餓鬼」でありまして、権利といえば「養育される」権利のみです。 >親は(一部の人でなしを除いて)この権利を行使させています。 >今まで筆舌に尽くせぬご苦労をされた、ご老人とは較べるべくもありませんね。 敦煌さんの発言を皮切に「子どもの人権」「子どもの権利」について議論が展開されていますが、私は敦煌さんと同じ意見です。 10年ほど前ですが、保育園で、ある父親が「ゼロ歳の赤ん坊にも人権がある」というものですから、大変な違和感を覚え、次のように話したことを思い出しました。 「権利というものは責任を果たすことと裏表の関係だが、ゼロ歳の赤ん坊に責任を果たすことは不可能。権利云々ではなくて、ゼロ歳の赤ん坊はもとより子どもは大事に養育され保護されるべきだということなのだ。昔から日本にある「子宝」という言葉で十分ではないか。それを人権などと呼ぶから、親離れのはなはだしい中学生や高校生になっておかしなことを言いはじめたときに、親がしっかり子どもに対峙できなくなる」 私は、くだんの条約については「児童の権利に関する条約」などと訳するからおかしくなると思っています。「児童(子ども)の保護・養育に関する条約」であるべきだと思っております。 確かに「Rights」と書かれているでしょうから、権利をどうしても入れたいのならば、条約の主旨に照らして「子どもの保護・養育される権利に関する条約」とでもしたほうがよっぽど違和感がなく、世間一般にも受け入れられるのにと思います。 条文を読んでも「権利を主張できる存在」というより「保護される存在」ということに重点があります。 昔から私どもも言われてきて、大人になってからは子どもたちにも言ってきた言葉に 「まだ十年早い!」というものがありますが、この言い方の方がはるかに子どもをしっかりと育てることができると思います。 |
宮崎故郷人さん。 私が親父(敦煌)から、常日頃言われているのは 「自分の尻も拭けない(不始末の処理も出来ない)ガキが10年早い」 ですね。あと 「誰のお蔭でメシ喰えんだ?学校行けるんだ?舐めんなよ」です。 仰るとおり。御尤も・・です。 |
▼敦煌の倅さん: >宮崎故郷人さん。 > >私が親父(敦煌)から、常日頃言われているのは > >「自分の尻も拭けない(不始末の処理も出来ない)ガキが10年早い」 >ですね。あと > >「誰のお蔭でメシ喰えんだ?学校行けるんだ?舐めんなよ」です。 > >仰るとおり。御尤も・・です。 ご子息からのレス、また格別ですね。ありがとうございます。 「権利」は「主張」と裏表の関係にありますが、子どもを育てるときに「どんなことでも主張する人間になれ」ということを先に教えると、その子はろくでなしにしかならないと私は思っております。 子育てで一番大事なのは、人に「感謝」して生きる人間になることをまず教えるべきだと思うのです。また自然に感謝して、神仏に感謝してという心だと思います。 くだんの条約に「意見表明権」(第12条)というのがあって、 「ほら見ろ!子どもの意見をちゃんと聞くべきだと書いてある。だから意見を堂々と言える子どもに育てるのが大事だ」という御仁がいますが、その条文にはきちんと留保条件がついていて、「子どもの年齢・成熟度に応じて」考慮するとなっているのですね。 人間にとって大事なのは「主張すること」ではありません。自分のことを後回しにしてでも人様の危急を救うことです。それは「感謝」する心からしか生まれません。 「感謝」があって然る後に「自分の主張」がやってくるというのが事の順序だと私は思っております。 「誰のお蔭で飯が食えるんだ?学校に行けるんだ?」という言葉にあるように、 敦煌さんはあなたに対してまず「感謝」の気持ちも育てることを大事になさったわけですよね。 「敦煌の倅」さん、これからもお父上を助けて社会のために頑張ってください。 |
みなさん、こんにちは。 前スレッドで、団塊党さんや流水さんの、体罰に関するお話を 読みながら、私の小学校五、六年生時の担任だった、K先生の ことを思い出しました。 背が高く、なかなかダンディで、面白いけれど、厳しいときは 厳しいという評判でした。自分がK先生の担任のクラスに決まった ときには、楽しみ半分、怖さ半分という気持ちでした。おそらく、 旧制師範の最後の世代の教師だったのではないかと思います。 * 実際に教わってみると、怖さは感じさせず、教え方も冗談も、 子供たちの気持ちをつかむのも、とても上手な先生でした。 国語の時間、新しい漢字が出てくると、教壇で子供たちのほうを向き、 宙に書き順を書いて見せます。鏡文字なわけです。まだ毛筆や算盤の 時間が若干あり、習字では筆に水をつけて黒板にお手本を書きます。 算盤を自分で入れながら教室内を歩き、子供たちの間違いを正します。 K先生が担任になった、五年生の最初に、いくつか約束事を言われ ました。もう中味は忘れましたが、みんなに迷惑をかけないとか、 約束を破らないとか、そんなことだったように思います。 それで、K先生は、昔は子供を叩いたこともあるけれど、いまはもう 体罰はやらない。ただ、約束を破ったときの罰則を決めておくという ことで、自分の席で立ちっ放し、教室の後ろにその時間内立つ、廊下に 出て大声で反省の言葉を唱える、等々、いくつか言い渡されました。 とくに最後の、廊下に出て反省の言葉を唱えるというのが、実際に やらされてみると、なかなか強烈でした。たとえば、こんな具合です。 「五年三組のぎみゆらは、給食当番をさぼってみんなに迷惑をかけ ました。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。……」 ふつうは末尾の「ごめんなさい」が十回なのですが、反省の内容に よっては、二十回、三十回のこともありました。同じ階には同学年の ほかのクラスが入っていて、地域の公立小学校ですから、知っている 子もたくさんいるので、恥ずかしいったらありません。声が小さいと、 やり直しをさせられることもありました。 * そのクラスに、O君という「問題児」がいました。私と同じ団地に 住んでいた子で、母子家庭、男三人兄弟の長男。三人とも、いわゆる 荒んだ感じの子たちで、ケンカや万引き、隣近所とのトラブル等々が よくあり、団地でも学校でも、名うての「O三兄弟」でした。 K先生は、五年生の最初に子供たちと約束事をして、体罰はやらないと 言った同じそのときに、「O!」と呼びかけて、「先生は、お前のこと だけは、殴る」と、みんなの前で言いました。 「ケンカは絶対するな」と、たしかあと二つほど、O君とだけの約束を して、「この約束を破ったら、先生はお前を殴る」と宣言したのです。 O君も、「わかりました」と、ふてくされる感じではなく、割と堂々と した態度で了解しました。 K先生が実際にO君を殴るところを、一度だけ見たことがあります。 昇降口の脇に、教室や校庭からはちょっと死角になっている小びろい スペースがあり、K先生はそこにO君を連れて行きました。ほかの子 には見せないようにしたのだろうと思いますが、気配を察した、私を 含む何人かの子供たちが、柱のカゲから覗いていました。 いわゆる軍隊式で、脚を少し開かせ、目をつぶって歯を食いしばる ように言いつけ、「昔はゲンコで殴ったけど、今日は平手にする」と 言ったように思います。一発だったか、往復だったか、とにかく、 O君は吹っ飛びました。覗いていたボクらも、思わず頬を押さえて しまったくらい、火の出るような強烈なビンタでした。 そのときの、殴られる直前、目をつぶったO君の、何とも言えない 切ないような表情が、いまも忘れられません。何と言いますか、 納得したといか、観念したというか、K先生のビンタに身を委ねる ような、そんな顔つきでした。 * たぶん、K先生がO君を殴ったのは、そのとき一度だけだったのでは ないかと思います。五、六年生の二年間、O君は、情緒がやや不安定で、 乱暴なところもあり、かなり変わった子でしたが、それでも、クラスの なかの、気の荒いタイプの男の子たちとだいたい行動を共にするように なり、それなりに、クラスの一員になっていました。 いまから思えば、K先生は、「ケンカは絶対ダメ」「そのときは殴る」 という限定したシバリをO君にかけることによって、それ以外のこと については、ほかの子と分け隔てはしない、同じに扱うと腹を決めて、 O君自身に、それを飲み込ませようとしたのだろうと思います。 地域の公立の小学校で、いろんな子がいました。K先生の五、六年生の クラスでも、たとえば六年生なのに九九の二の段の最初からつかえる ような子が、男女一人ずついました。小児マヒの子、虚弱児とも一緒に なりましたし、片親も珍しくありませんでした。転校してきて、また 半年で転校していくような子もいました。 そんな子供たちを、微妙に区別する先生がいます。たとえば勉強が 極端に「できない」子を、問題によってさり気なく飛ばす、当てない。 でも、周りの子供たちも敏感ですから、二度三度と続けば、その先生が、 逆の意味で「ひいき」していると見なします。その子たち自身も当然、 「特別扱い」を自覚したはずです。 K先生は、O君に、俺はお前をそういうふうには扱わない、ほかの みんなと同じに扱う。ただしケンカをしたら殴る。違うのはそれだけで、 それ以外は、お前はみんなと同じだ、そう伝えようとした。その後の O君の振る舞いを見ると、たぶんそれは実際に、O君に伝わったの ではないかと、私は思います。 * 体罰を称揚したくて、この文章を書いているわけではありません。 その点、お察しいただきたく存じます。流水さん、団塊党さんの、 大事なのは、気持ちが伝わるかどうか、というお話に感じるところが あり、こんなことを思い出して、書いてみる気になりました。 長文、失礼いたしました。 ※なお、個人的な事情により、もしレスをいただいても、一週間ほど お返事ができない可能性が高いことを、あらかじめお断り申し上げます。 |
▼ぎみゆらさん:こんにちは たいへん貴重なお話、ありがとうございます。現役の教師にぜひ聞かせてやりたいと思います。 > >●とくに最後の、廊下に出て反省の言葉を唱えるというのが、実際に >やらされてみると、なかなか強烈でした。たとえば、こんな具合です。 >「五年三組のぎみゆらは、給食当番をさぼってみんなに迷惑をかけ >ました。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。……」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 実は、この方法、部活動の練習の中ではよくやられます。運動場に出て、指揮台の上に立たせ、大声で反省を言わすとか目標を言わすとかさせるのです。部活動の活動時間などで、運動場は生徒で一杯です。この中で、大声で叫ぶのは、結構恥ずかしいし、度胸がいるのです。 試合になると力を発揮できないチームとか子供を鍛えるのに、よく使われた手法です。 > >「ケンカは絶対するな」と、たしかあと二つほど、O君とだけの約束を >して、「この約束を破ったら、先生はお前を殴る」と宣言したのです。 >O君も、「わかりました」と、ふてくされる感じではなく、割と堂々と >した態度で了解しました。 > ●K先生が実際にO君を殴るところを、一度だけ見たことがあります。 >昇降口の脇に、教室や校庭からはちょっと死角になっている小びろい >スペースがあり、K先生はそこにO君を連れて行きました。ほかの子 >には見せないようにしたのだろうと思いますが、気配を察した、私を >含む何人かの子供たちが、柱のカゲから覗いていました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ この配慮は絶対必要なのです。突っ張っている子供には、それなりのプライドが あります。他の子供の前で「恥をかかせない」ということを守ってやることが、其の子と信頼関係をつなぐ必要条件です。 ●そのときの、殴られる直前、目をつぶったO君の、何とも言えない >切ないような表情が、いまも忘れられません。何と言いますか、 >納得したといか、観念したというか、K先生のビンタに身を委ねる >ような、そんな顔つきでした。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 0君の気持ちが手に取るように分かりますね。彼は、K先生が好きだったのです。 そして、先生にビンタを張られることにより、大好きな先生との距離が確認できたのです。「先生は本気で怒ってくれた」ということの喜びが表情に表れたのでしょう。 人によりますが、問題児の中にはそういうやり方でしか、自分の気持ちを表現できない子供がいるのです。 > ●いまから思えば、K先生は、「ケンカは絶対ダメ」「そのときは殴る」 >という限定したシバリをO君にかけることによって、それ以外のこと >については、ほかの子と分け隔てはしない、同じに扱うと腹を決めて、 >O君自身に、それを飲み込ませようとしたのだろうと思います。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ポイントは、【分け隔て】をしない、というとこりにあります。口でいうのは簡単ですが、これを実践するのは実に難しいことなのです。 0君は、K先生に本気で叱られたことにより、先生の【分け隔て】をしない心を 肌で感じ取ったのだと思います。 わたしが、上のスレッドで【教師のまなざし】と書いたのはその意味です。 問題児と呼ばれる子ほど、【まなざし】に敏感です。 例えば、皆さんが街中で見るからに暴力団風の人間に出会ったとします。肩で風を切ってあたりを威圧している人にあったとします。その時、たいていの人は目におびえが出、目を合わさないようにそらすか、伏せるようにしてやり過ごします。 問題児にとって、この目が、【耐えられないのです】。誰も何も言わないが、自分が完全に【疎外】されていると感じるのです。この【疎外】感が大きければ大きいほど、彼の問題行動も大きくなります。この【疎外】感を感じなくなったときには、本者の【悪】になっているのです。 0君の【疎外感】を薄めてくれたのが、K先生なのだと思います。K先生は、もし問題になっても自分で責任を取るという覚悟で、体罰を振るうことにより、0君の 【疎外感】を埋めたのです。わたしのいう0君の【心を打つ】たのだと思います。 > ●そんな子供たちを、微妙に区別する先生がいます。たとえば勉強が >極端に「できない」子を、問題によってさり気なく飛ばす、当てない。 >でも、周りの子供たちも敏感ですから、二度三度と続けば、その先生が、 >逆の意味で「ひいき」していると見なします。その子たち自身も当然、 >「特別扱い」を自覚したはずです。 > >K先生は、O君に、俺はお前をそういうふうには扱わない、ほかの >みんなと同じに扱う。ただしケンカをしたら殴る。違うのはそれだけで、 >それ以外は、お前はみんなと同じだ、そう伝えようとした。その後の >O君の振る舞いを見ると、たぶんそれは実際に、O君に伝わったの >ではないかと、私は思います。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 教師が一番心しなければならないところだと思います。子供が大好きな先生と大嫌いな先生との違いは、この本当に目に見えない微妙な【差別する心】のない先生か、ある先生かの違いです。 わたしの言葉でいえば、【まなざし】の問題です。 > |
流水さん:こんにちわ 10数年前に他界した父が教師だったので、このスレッドを興味深く拝見してます。 父が生前、話したことですが、若い先生から体罰について「先生(父のこと)の方が自分より厳しいのに、親から何も言われないのは何故」と聞かれたそうです。父がどう答えたかはっきりとは覚えていませんが「教師の気持ちが子供にはわかる」というような答えだったようです。 体罰を礼賛するものでも、自分の親を自慢するものでもありませんが、みなさんのご意見を拝見して、その当時を思い出して書込させていただきました。 |
▼王里さん: そうでしたか。お父上が教師をなさっていたのですか。 ●父が生前、話したことですが、若い先生から体罰について「先生(父のこと)の方が自分より厳しいのに、親から何も言われないのは何故」と聞かれたそうです。父がどう答えたかはっきりとは覚えていませんが「教師の気持ちが子供にはわかる」というような答えだったようです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ そうなんです。 お父上の在職当時でしたら、体罰も辞さず、という教師も多かったと思います。 ただ、不思議なことに、子供から恐れられるくらい厳しい教師なのに、保護者から文句一つ出ないし、子供も暴力教師などと決して言わない教師がいるのです。 わたしも何人かそのような先輩教師を知っていますが、いくつかの共通点があります。 1、拳骨を入れるのでも、子供を差別しない。出来が良かろうが、出来が悪かろうが、悪いことをした子には【平等】に拳骨を入れる。 2、たとえ、ビンタを張って子供を厳しく叱っても、その場限りである。 ⇒しつこく、ぐじぐじ叱らない。 3、子供に対してはからっと明るく接している。 4、子供を決して差別しない。 5、あの先生に叱られたのなら仕方が無い。子供が悪いことをしたのだ、という 【暗黙の了解】が、保護者にある。⇒教師に対する信頼感 多分、お父上は、上記のような先生だったのでしょう。おそらく、圧倒的な存在感が学校であったのだと思います。 尊敬するに足りる立派な教師だったのだと拝察します。 先輩として、お父上のご冥福をお祈りいたします。 |
流水さん:ご返事有り難うございました。そして このスレッドにお集まりの皆さん。教育は本当に大事な問題です。どうか、貴重なご意見をさらに聞かせてください。よろしくお願いします。 |
▼王里さん: >このスレッドにお集まりの皆さん。教育は本当に大事な問題です。どうか、貴重なご意見をさらに聞かせてください。よろしくお願いします。 お父様はさぞ素晴らしい先生では無かったかと想像します。 どうぞ、このスレッドにもどしどしご意見を下さい。 |
団塊党さん:こんにちわ とんでもありません。ただの田舎教師でした。でも、明治生まれらしく家族より職場が大事な馬鹿正直人間でした。不肖の息子である私には、教育について語れる知識も資格もありませんが、なにかありましたらまた参加させていただきます。 |
▼王里さん: 久しぶりです。 ぎみゆらさんの5年生のK先生の話、 流水さんの体罰の話を聞いて心打たれました。 最近こんなに感動したのは久しぶりです。 私は子供が1人なので、それも女の子なもので 体罰はしたことがないですが、 学校に通っている時は流水さんと同じで 先生に任せているつもりでした。 幸い何事もなく今は無事成人を迎え、 後は結婚するだけです。 これも貰ってくれる人がいればですが! しかし、自分で言うのも変ですが、 私の身体ことを気遣ってくれる、 「やさしい女の子に育ってくれて良かったな」と思っています。 私は育て方も間違ってなかったとつくづく思っています。 私は事細かく言うのがイヤで大雑把な人間で、 親としては失格なのかもしれませんが、 ある歳になれば、物事の分別くらいは それぞれに解っていると思います。 あまやかすからダメになる。 ”親は頼りないもの、自分がしっかりしなくちゃ”という 考えを持たすのも、一つの教育かなって私は考えています。 |
ふくちゃんさん:こんにちわ 他のスレッドで拝見しておりましたが、お元気そうでなによりです。やさしい娘さんをお持ちですね。子供は親の背をみて育つと聞いたことがあります。ご家族がやさしいからやさしく育たれたと思います。 私は自分の子供について、他でも書いたことがあるんですが、鳶が鷹を生むようなことはめったにない。子供は子供、元気で素直に育ってくれれば充分だと考えています。 私の娘もちょうど適齢期です。しばらく、心配がつづきます。心配も親の仕事と思って見守っていきます。 |
▼王里さん: こんにちわ王里さん >私は自分の子供について、他でも書いたことがあるんですが、鳶が鷹を生むようなことはめったにない。子供は子供、元気で素直に育ってくれれば充分だと考えています。 もうお盆ですね! 高松踊りは今日からですね! 阿波踊りも始まりました。 きっとお父様もお喜びだになっていると思いますヨ! 王里さんのこと「こいつ儂にだんだんにてきたなあ〜!」って。 私もこれから「心配は親の仕事!」と考え、 子供を見守っていきたいと思います。 お互い親はつらいですね!苦笑 |
▼ふくちゃんさん: >▼王里さん: >こんにちわ王里さん > >>私は自分の子供について、他でも書いたことがあるんですが、鳶が鷹を生むようなことはめったにない。子供は子供、元気で素直に育ってくれれば充分だと考えています。 > >もうお盆ですね! >高松踊りは今日からですね! >阿波踊りも始まりました。 >きっとお父様もお喜びだになっていると思いますヨ! >王里さんのこと「こいつ儂にだんだんにてきたなあ〜!」って。 >私もこれから「心配は親の仕事!」と考え、 >子供を見守っていきたいと思います。 >お互い親はつらいですね!苦笑 ふくちゃんさん、王里さん、 高松踊り、(♪ハー 一合蒔いたモミの種、その末高は♪)の文字をみて、思わず懐かしくなり横から失礼します。 15の歳まで高松の真ん中でそだちました、今でも時折、小学校の先生と同級生に会いに徳島経由のバスで高松に行っています、屋島の先まで住宅が詰まっていて驚きました、子供の頃は琴電から屋島までは田圃でしたから。 小学生の時、遠足で五色山に徒歩でいきました、先生は此処に本州から橋が掛かると教えて頂いたが、昭和20年代では夢のような話でしたが、この目で見ることができました。 修学旅行は二日の違いで紫雲丸に乗るところでした、あの海難事故のあと街中に「マドンナの宝石」が流されていたのを覚えています、これは悲しい思い出です。 でも、育った頃の讃岐は日本の原風景として私の脳裏に収まっています。懐かしい。 どうも横から失礼しました。 |
ふくちゃんさん: 石頭の息子さん: こんにちわ 昨日から阿波踊りですね。テレビで見ましたが、あの躍動感素晴らしいですね。踊り手の皆が溌剌としてて、健康で輝いて見えました。この時期、四国は踊り一色です。 教育問題のスレッドにふさわしくない話題かもしれませんが、無理矢理こじつけて踊りの教育効果なんていかがでしょうか。年寄りから子供まで、本当に楽しくなれることは間違いないですから。 石頭の息子さん、いま讃岐はうどんブームで大変です。先日も娘が、うどん屋めぐりをして、行列に1時間ほど並んだらしいです。多分、このブームも一過性のものだと思いますが、落ち着いた頃に一度、お試しなさってはいかがでしょう。冷やしぶっかけ、ざるうどんなど結構いけますよ。 |
▼流水さん: >▼ぎみゆらさん:こんにちは > >たいへん貴重なお話、ありがとうございます。現役の教師にぜひ聞かせてやりたいと思います。 >> >>●とくに最後の、廊下に出て反省の言葉を唱えるというのが、実際に >>やらされてみると、なかなか強烈でした。たとえば、こんな具合です。 >>「五年三組のぎみゆらは、給食当番をさぼってみんなに迷惑をかけ >>ました。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。……」 >・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >実は、この方法、部活動の練習の中ではよくやられます。運動場に出て、指揮台の上に立たせ、大声で反省を言わすとか目標を言わすとかさせるのです。部活動の活動時間などで、運動場は生徒で一杯です。この中で、大声で叫ぶのは、結構恥ずかしいし、度胸がいるのです。 >試合になると力を発揮できないチームとか子供を鍛えるのに、よく使われた手法です。 > >> >>「ケンカは絶対するな」と、たしかあと二つほど、O君とだけの約束を >>して、「この約束を破ったら、先生はお前を殴る」と宣言したのです。 >>O君も、「わかりました」と、ふてくされる感じではなく、割と堂々と >>した態度で了解しました。 >> >●K先生が実際にO君を殴るところを、一度だけ見たことがあります。 >>昇降口の脇に、教室や校庭からはちょっと死角になっている小びろい >>スペースがあり、K先生はそこにO君を連れて行きました。ほかの子 >>には見せないようにしたのだろうと思いますが、気配を察した、私を >>含む何人かの子供たちが、柱のカゲから覗いていました。 >・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >この配慮は絶対必要なのです。突っ張っている子供には、それなりのプライドが >あります。他の子供の前で「恥をかかせない」ということを守ってやることが、其の子と信頼関係をつなぐ必要条件です。 > >●そのときの、殴られる直前、目をつぶったO君の、何とも言えない >>切ないような表情が、いまも忘れられません。何と言いますか、 >>納得したといか、観念したというか、K先生のビンタに身を委ねる >>ような、そんな顔つきでした。 >・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >0君の気持ちが手に取るように分かりますね。彼は、K先生が好きだったのです。 >そして、先生にビンタを張られることにより、大好きな先生との距離が確認できたのです。「先生は本気で怒ってくれた」ということの喜びが表情に表れたのでしょう。 >人によりますが、問題児の中にはそういうやり方でしか、自分の気持ちを表現できない子供がいるのです。 >> >●いまから思えば、K先生は、「ケンカは絶対ダメ」「そのときは殴る」 >>という限定したシバリをO君にかけることによって、それ以外のこと >>については、ほかの子と分け隔てはしない、同じに扱うと腹を決めて、 >>O君自身に、それを飲み込ませようとしたのだろうと思います。 >・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >ポイントは、【分け隔て】をしない、というとこりにあります。口でいうのは簡単ですが、これを実践するのは実に難しいことなのです。 >0君は、K先生に本気で叱られたことにより、先生の【分け隔て】をしない心を >肌で感じ取ったのだと思います。 >わたしが、上のスレッドで【教師のまなざし】と書いたのはその意味です。 >問題児と呼ばれる子ほど、【まなざし】に敏感です。 > >例えば、皆さんが街中で見るからに暴力団風の人間に出会ったとします。肩で風を切ってあたりを威圧している人にあったとします。その時、たいていの人は目におびえが出、目を合わさないようにそらすか、伏せるようにしてやり過ごします。 > >問題児にとって、この目が、【耐えられないのです】。誰も何も言わないが、自分が完全に【疎外】されていると感じるのです。この【疎外】感が大きければ大きいほど、彼の問題行動も大きくなります。この【疎外】感を感じなくなったときには、本者の【悪】になっているのです。 > >0君の【疎外感】を薄めてくれたのが、K先生なのだと思います。K先生は、もし問題になっても自分で責任を取るという覚悟で、体罰を振るうことにより、0君の >【疎外感】を埋めたのです。わたしのいう0君の【心を打つ】たのだと思います。 > >> >●そんな子供たちを、微妙に区別する先生がいます。たとえば勉強が >>極端に「できない」子を、問題によってさり気なく飛ばす、当てない。 >>でも、周りの子供たちも敏感ですから、二度三度と続けば、その先生が、 >>逆の意味で「ひいき」していると見なします。その子たち自身も当然、 >>「特別扱い」を自覚したはずです。 >> >>K先生は、O君に、俺はお前をそういうふうには扱わない、ほかの >>みんなと同じに扱う。ただしケンカをしたら殴る。違うのはそれだけで、 >>それ以外は、お前はみんなと同じだ、そう伝えようとした。その後の >>O君の振る舞いを見ると、たぶんそれは実際に、O君に伝わったの >>ではないかと、私は思います。 >・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >教師が一番心しなければならないところだと思います。子供が大好きな先生と大嫌いな先生との違いは、この本当に目に見えない微妙な【差別する心】のない先生か、ある先生かの違いです。 >わたしの言葉でいえば、【まなざし】の問題です。 泣きながら生徒を殴った先生も居ました。 寂しそうな表情で「殴る価値もない」と教室から出て行った先生もいらしゃいました。 そんな、先生方の真剣な態度に、心を動かされ。生活態度が変わっていった者もたくさん居ました。 倅達の先生を見ていると、そんな情熱・・・。 流水さん仰るところの「まなざし」が感じられません。 |
>倅達の先生を見ていると、そんな情熱・・・。 >流水さん仰るところの「まなざし」が感じられません。 自分のお子さんの担任教師や学校を見て、それを日本の教師達や学校のイメージとして捉えるのは無理があります。 マスコミなどで騒がれている教育の荒廃とか危機も多分に誤解されている面があります。 そのほとんどは一部を見てそれがあたかも全体の傾向だとする誤解から来ています。 例えば総務省の調査(1998年)では、小学生の93%、中学生の92%が「学校は楽しい」と答えています。 また、不登校の数は増加したと言っても学齢児童児童全体の1%であり、これは世界的に見ても希なくらい少ないのです。 日本では年間30日以上休むと不登校にカウントされますが、アメリカでは30日休んでも皆勤賞がもらえます。 不登校が増加していること自体は深刻ですが、それでも日本の学校の不登校の割合が世界でも一番少ない方であることは事実です。 以下続きますが、ひとまずここまでにします。 |
「学級崩壊」についても、教師である私自身が読んで驚いた事があります。 岩波ブックレットNO524「学びから逃走する子どもたち」に次のような事が載っていたからです。 以下、それを一部、要約してみます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「学級崩壊」をテーマにした本が本屋の棚に並んだ時期がありました。 東大の佐藤学氏(教育現場を自分の目で確かめている数少ない学者です。)は、その頃ある雑誌の編集部からそれらの本で代表的なもの10冊を選んで書評を執筆するように依頼されたそうです。 そこで10冊全部読んで確かめたところ、著者の誰一人として実際に「学級崩壊」の教室を見た人はいなかったそうです。 どの著者もマスコミの流す「うわさ」をもとに本を執筆していたのです。 これはテレビ局も同様でした。 多くの局が学級崩壊を特集に組んで報道しましたが、どの番組も「学級崩壊」の教室を取材したものではありませんでした。 すべてが現実の教室の取材を行わないまま「うわさ」をもとに報道されました。 「教育の荒廃」や「教育の危機」は商売になるのです。 これをテーマにすると本がよく売れ、番組の視聴率が上がるのです。 もちろん学級崩壊という現象自体は事実です。 しかし「学級崩壊」は全国のすべての地域で起こっているのではなく、大都市の郊外と地方都市の新興住宅地です。 また学級崩壊の起こる学校、教室にも特徴があり、一人ひとりの教師がばらばらで教師個人に責任が押し被さっている学校、古いスタイルの学級経営に固執している年配の教師の教室で起こっています。 学級崩壊は特定の地域、学校、教室で派生しており、学校の一般的現象とは言えません。 また学級崩壊は公立学校の危機とされ、私立受験に拍車がかかっていますが、ここにも誤った認識があります。 学級崩壊は実際には公立よりも私立の方が深刻です。 私立学校は少子化の中で経営的に厳しい状況の中に置かれていて、ひとたび評判を落とすと廃校にさえなりかねません。 したがって私立学校では半数近くの教室が学級崩壊になってもその実態は隠されます。 佐藤学氏はこの数年間、学級崩壊に苦しむ多くの学校から訪問の依頼を受けましたが、その多くは私立学校であり、その実態は公立学校とは比較にならないほど深刻でした。 ー続くー |
「学びから逃走する子ども達」より引用を続けます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 少年犯罪についても正確な認識が必要です。 少年犯罪の凶悪化が社会問題となり、厳罰主義による少年法の改正が行われました。 しかし日本は先進諸国の中で少年犯罪を減らしている例外的な国の一つです。 凶悪で病理的で猟奇的な殺人事件が人々の心を痛めていることも事実ですが、その件数は少数に限られています。 少年による殺人はピーク時の4分の1以下(少年犯罪全体の0.1%以下)に減少しているのが実態です。 少年犯罪の全体を見ると窃盗と横領が85%を占め、しかも横領の大半は自転車の無断借用による検挙です。 公共モラルの衰退は嘆かわしい現実ですが、少年犯罪全体が凶悪化していないことは事実として認識しておく必要があります。 つまり、変化したのは子どもではなく、子どもを見る大人の「まなざし」の方なのです。 神戸の連続児童殺傷事件の頃から、大人社会全体が子どもに対して不寛容になり、日本社会全体が子どもの言動に対して「集団ヒステリー」を起こしています。 「あいつらをなんとかしろ」と言うわけです。 この大人社会の不寛容と集団ヒステリーによって少年法が改正され、奉仕活動の義務化が叫ばれ、義務教育段階から教師に反抗した子どもに「出席停止」の処分をすることが検討されています。 大人社会の方が幼児性をむき出しにしていると言ってもいいでしょう。 しかし子どもを敵視する社会に未来はありません。 厳しい時代であればこそ子どもの言葉にならない声に耳を傾け、子ども一人ひとりを支え励ます大人の識見が求められています。 |
流水さん、こんにちは。 意を汲んで、そのうえわかりやすい解説を付していただき、深く 感謝いたします。一週間ほどネット接続ができない環境にいました ので、お返事が遅くなりました。 O君は、私たちが同級になった五年生の頃には、いっぱしの 「恐怖による人間関係操縦術」を身につけていました。凄んで、 脅して、ちょっと下手に出て、また暴力をちらつかせ、しかし 簡単に実力行使はしない。これを繰り返します。 私も実際に、何度かやられました。それが手なんだとわかって いても、こいつはキレると何をするかわからないという過去の 事実を見聞していますから、やはり怖いものです。 私は子供の頃から、腕っ節はないけれど妙に理屈や筋にこだわって 一言多いところがあり、O君にとっては、少々煙たい存在だったの かもしれません。O君の差し金で、一緒に遊んでいたグループから 仲間外れにされたり、何度か煮え湯も飲まされました。 それでも、それ以上歪んだ関係にはならず、O君を含むグループと、 また遊んだりもしていました。卒業式の後に、中学校への進学を 機に引っ越しをするO君が私に寄ってきて、「いろいろあったけど、 まあ元気でやれ」というような言葉を投げていきました。 K先生の「ケンカをしたら殴る」というシバリは、そういったO君の 「威嚇による世渡り」に対する抑止策、O君の更生策ということだけ ではなく、返す刀で、子供たちみんなに対する、「誰とでも、平場で つきあえ」というメッセージでもあったんだなと、今にして思います。 誰とでも平場でつきあうのは、楽なことではありません。恐怖、卑屈、 策略、逃げ、人間の持っているいろんな醜い感情と背中合わせです。 その難しさと大切さを、子供時代に切実に体験できたのですから、 そういった意味でも、あらためて、K先生に感謝したいと思います。 |
▼ぎみゆらさん: >K先生の「ケンカをしたら殴る」というシバリは、そういったO君の >「威嚇による世渡り」に対する抑止策、O君の更生策ということだけ >ではなく、返す刀で、子供たちみんなに対する、「誰とでも、平場で >つきあえ」というメッセージでもあったんだなと、今にして思います。 > >誰とでも平場でつきあうのは、楽なことではありません。恐怖、卑屈、 >策略、逃げ、人間の持っているいろんな醜い感情と背中合わせです。 >その難しさと大切さを、子供時代に切実に体験できたのですから、 >そういった意味でも、あらためて、K先生に感謝したいと思います。 K先生のなさった教育が時を超えて現在にも力を及ぼしている。 教師の影響力の大きさを思わずにはいられません。 ぎみゆらさんの体験された教育の一端を教えて頂き有り難うございました。 |
学級崩壊や少年非行が学齢児童の1%程度の危機であり、子どもの危機の中心ではないとすれば、危機の中心はどこにあるのでしょうか。 佐藤学氏は「学びからの逃走」だと言っています。 それが、7割から8割の子ども達を襲っている深刻な危機だとしています。 学びからの逃走とは文字通り、学びから逃げること、学ぶ意欲の減退と言うことです。 これが日本の子ども達の多くを襲っているというのです。 その根拠を総務省の調査やIEA(国際教育到達度評価学会)その他の調査結果から論じています。 詳しくは岩波ブックレットNO524に述べてありますが、ここでは簡単に紹介します。 (佐藤学氏は各地の学校に入って自分の目で確かめている学者ですので、私はかなり信頼を置いています。) 氏は校外での学習時間(塾を含む)を各国の中学2年生を対象に比較しています。 その結果、日本の中2生は平均2・3時間で、39カ国の中で30番目に位置しているということです。(実際はもっと低いらしいのですがその点は省略) そして一般的な傾向として、3割の勉強熱心派と7割の勉強嫌い派に分岐しているそうです。 そして重要なことはこの傾向が年を追うごとに加速している点です。 1992年には27%の生徒が自宅学習の時間が0と答えていますが、6年後の1998年には0時間と答えた生徒が43%に増えています。 逆に自宅で3時間以上学習している生徒は6年間で14%から5%に激減しています。(大都市ほどその進行が過激であり、この傾向は5年も経たないうちに全国各地方に伝搬していくとしている。実際2004年の現在、予想通りの状況になっている。) この急激な異変の結果、比較可能な38カ国の中で、日本の中学生は校外の学習時間(塾を含む)が最低になることは必至と言われています。 日本の子どもは今や、世界で最も学ばない子ども達なのです。 なぜこうなってしまったかは、長くなりますので次回に。 |
▼団塊党さん:こんにちは >学級崩壊や少年非行が学齢児童の1%程度の危機であり、子どもの危機の中心ではないとすれば、危機の中心はどこにあるのでしょうか。 > >佐藤学氏は「学びからの逃走」だと言っています。 >それが、7割から8割の子ども達を襲っている深刻な危機だとしています。 > >学びからの逃走とは文字通り、学びから逃げること、学ぶ意欲の減退と言うことです。 >これが日本の子ども達の多くを襲っているというのです。 > >その根拠を総務省の調査やIEA(国際教育到達度評価学会)その他の調査結果から論じています。 >詳しくは岩波ブックレットNO524に述べてありますが、ここでは簡単に紹介します。 >(佐藤学氏は各地の学校に入って自分の目で確かめている学者ですので、私はかなり信頼を置いています。) > >氏は校外での学習時間(塾を含む)を各国の中学2年生を対象に比較しています。 >その結果、日本の中2生は平均2・3時間で、39カ国の中で30番目に位置しているということです。(実際はもっと低いらしいのですがその点は省略) >そして一般的な傾向として、3割の勉強熱心派と7割の勉強嫌い派に分岐しているそうです。 >そして重要なことはこの傾向が年を追うごとに加速している点です。 > >1992年には27%の生徒が自宅学習の時間が0と答えていますが、6年後の1998年には0時間と答えた生徒が43%に増えています。 >逆に自宅で3時間以上学習している生徒は6年間で14%から5%に激減しています。(大都市ほどその進行が過激であり、この傾向は5年も経たないうちに全国各地方に伝搬していくとしている。実際2004年の現在、予想通りの状況になっている。) > >この急激な異変の結果、比較可能な38カ国の中で、日本の中学生は校外の学習時間(塾を含む)が最低になることは必至と言われています。 >日本の子どもは今や、世界で最も学ばない子ども達なのです。 > >なぜこうなってしまったかは、長くなりますので次回に。 私は現代の子供たちの本当の危機は「考える力の未発達、考える力の減少、考える気力の萎縮」のような「思考、思惟」についてのものかと、思っていました。 「学びからの逃走」という危機ですか。 団塊党さんがこれについて、どのようなご意見を持っていらっしゃるのか、続きに大変興味があります。 |
▼Gokai Sezutomoさん: > 私は現代の子供たちの本当の危機は「考える力の未発達、考える力の減少、考える気力の萎縮」のような「思考、思惟」についてのものかと、思っていました。 確かに仰るようなことは調査結果を見ても言えるようです。 「国際数学・理科教育調査の結果」を見ると、日本の子どもの学力はまだ世界の上位(4位〜5位)にあります。(前回の調査では3位なのでやや落ちていますが) しかし、その内容を見ると計算や暗記は得意ですが、創造的な思考や科学の本質を問う問題では世界平均を下回っているそうです。 「教育課程実施状況調査」においても計算や事実の暗記や公式の応用に関しては高得点を収めていますが、やはり創造的な思考や問題解決的な思考や表現力を問う問題では正答率が激減しています。 「学びからの逃走」と関わっている問題だと思います。 |
もっと深刻な調査結果があります。(以下、「学びからの逃走・・・」から抜粋) 教科が好きか嫌いかを尋ねた項目の回答を見ると、41カ国の中で、数学はチェコに次いで「嫌い」と「大嫌い」が多く、理科は他のどの国よりも「嫌い」と「大嫌い」が多いという事実です。 また「生活の中で大切か」の項目や「将来、科学を使う仕事がしたいか」の項目において、いずれも日本の中学生は世界で最低レベルの意識しか持っていません。 これらの結果は文部省を始め、教育改革を推進してきた人達にとっては衝撃的な結果です。 すでに文部省(文科省)は10年近く「関心・意欲・態度」を軸とする「新しい学力観」を提唱し、「教師の意識改革」を促進して旧来の詰め込み型の授業と学びの改革を推進してきたからです。 創造的な思考や個性的な表現力を追及してきたはずの改革は、それ以上の速度で変貌する子どもの実態を前にして無力であったことを、これらの調査結果は示しています。 |
▼団塊党さん:こんにちは 私は数学、理科、現代国語が「考える」ための基本の科目だと思っていました。 これらは詰め込みで、ものになる科目ではありません。 ところで内申書制度はどうなっているんでしょうか?私の知る限りでは、高校入試時の判定点数のうち、二分の一が内申書の点数で占め、さらに、そのうちの二分の一が美術、音楽、保健体育、技術家庭の4副教科の合計点数だったように思います。もちろん、実際の入試科目は英、数、理、社、国の主要5教科で、判定点数の二分の一ですね。 もしこの制度をいじっていないのだとすれば、中学生の現実として、数理に費やす時間が不足して、数学理科が嫌いな日本人中学生の出現というのも頷けます? >もっと深刻な調査結果があります。(以下、「学びからの逃走・・・」から抜粋) > >教科が好きか嫌いかを尋ねた項目の回答を見ると、41カ国の中で、数学はチェコに次いで「嫌い」と「大嫌い」が多く、理科は他のどの国よりも「嫌い」と「大嫌い」が多いという事実です。 > >また「生活の中で大切か」の項目や「将来、科学を使う仕事がしたいか」の項目において、いずれも日本の中学生は世界で最低レベルの意識しか持っていません。 > >これらの結果は文部省を始め、教育改革を推進してきた人達にとっては衝撃的な結果です。 >すでに文部省(文科省)は10年近く「関心・意欲・態度」を軸とする「新しい学力観」を提唱し、「教師の意識改革」を促進して旧来の詰め込み型の授業と学びの改革を推進してきたからです。 > >創造的な思考や個性的な表現力を追及してきたはずの改革は、それ以上の速度で変貌する子どもの実態を前にして無力であったことを、これらの調査結果は示しています。 |
▼Gokai Sezutomoさん: > ところで内申書制度はどうなっているんでしょうか?私の知る限りでは、高校入試時の判定点数のうち、二分の一が内申書の点数で占め、さらに、そのうちの二分の一が美術、音楽、保健体育、技術家庭の4副教科の合計点数だったように思います。もちろん、実際の入試科目は英、数、理、社、国の主要5教科で、判定点数の二分の一ですね。 > もしこの制度をいじっていないのだとすれば、中学生の現実として、数理に費やす時間が不足して、数学理科が嫌いな日本人中学生の出現というのも頷けます? 内申書制度は仰るとおりです。 時間数が足りなくなる理由は、総合的学習の時間が新たに設置されたために、教科にかける時間が削られたためです。 総合的な学習に週3時間も取るのは、学力低下を招いてしまいます。 文科省の「新しい学力観」という試みはすでに失敗しつつあります。 いずれ見直しをせざるをえないでしょう。 |
▼団塊党さん:こんにちは >内申書制度は仰るとおりです。 > >時間数が足りなくなる理由は、総合的学習の時間が新たに設置されたために、教科にかける時間が削られたためです。 > >総合的な学習に週3時間も取るのは、学力低下を招いてしまいます。 >文科省の「新しい学力観」という試みはすでに失敗しつつあります。 >いずれ見直しをせざるをえないでしょう。 総合学習について、本当に見直しがあるのでしょうか? 決め付けはいけないのかもしれませんが、公共工事に観るように、一度決めたことについては、なかなかに、覆さないのが、官僚体質のようにも見えます。 たまたまの一致かもしれませんが、内申書制度が生まれたころから、勉学に対する学生の記憶力依存体質が強まったような気がしています。 内申書制度というのは一見、合理的制度のような印象もありますが、 高校から大学受験のとき、4副教科が関係するわけでなく、あくまでメインは主要5教科であることを考えると、また、現実に高校自体の勉学の格差は主要5教科で、付けられていることから、 将来、勉学の能力を生かして、衣食住を食むことを考えている者にとっては非常に絶望的な制度のようにも見えます。 この制度の破棄をしないで、その他関係ないものをいじる。縺れた糸が益々縺れるのを見るようです。 なにはともあれ、真実を追究する術に、他人が考え出した知識を、なぞるだけの方法しか知らない学生があまりにも多いようでは、哲学的思考や発明発見などに興味を持つことを期待するなど出来ないだろうし、 学生同士の深い意思疎通に支障をきたす現今に納得もいきます。 これでは若い人々はスポーツや音楽に興味を持てても、政治には興味を持てないでしょう。持てても精々、政治の裏の部分、スキャンダル政治についてでしょうか。 教育基本法にもある、真実を追究する心は、「考える力」がなくては育めないものだと思います。よってなんとかならんかと、長年、思っているのです。 |
▼Gokai Sezutomoさん: > 総合学習について、本当に見直しがあるのでしょうか? > > 決め付けはいけないのかもしれませんが、公共工事に観るように、一度決めたことについては、なかなかに、覆さないのが、官僚体質のようにも見えます。 簡単に間違いを認めることはないでしょう。 学習指導要領の問題点は、総合的学習だけではありません。 学習内容を3割削減したのに対して、学習時間もほぼ同じ割合で削減してしまったために、ゆとりの無さは少しも変わりません。 立ち止まって大事なところをしっかり時間を取って教えたり、議論したり、体験的な学習をしたりする時間のゆとりはありません。 相変わらずどんどん詰め込んでいくしかないのです。 しかも削減の仕方も間違っています。 どの国のカリキュラムも教科の基本的で本質的な内容が学年を追って繰り返し登場するように(スパイラル型)内容が編成されています。 ところが、今の学習指導要領はすべての内容を一度だけ学んだらそれでおしまいです。 例えば小学校4年の図形の面積は三角形と平行四辺形までで、台形と多角形の面積は教えられなくなります。 しかし、授業において子ども達が最も興味深く学ぶのは台形の面積です。 多様な解き方を工夫できるし、多様な考え方を交流させることができるからです。 しかも重要なことですが、多くの子どもは台形の面積の学習を通して、三角形の面積が、「底辺×高さ÷2」であることを納得します。 さらに多角形の面積を学ぶことにより、複雑な面積は三角形に分割して面積を求めることができることを学びますし、あらゆる図形は三角形で敷きつめることが出来ることを学びます。 重要で本質的な内容を削減することで、個々の知識の関連や構造が見えなくなり、より理解が困難になるのです。 その反面、あまり本質的でなく削減したが良い瑣末な内容が残っていたりします。 支離滅裂と言いたくなります。 「学びからの逃走」と「学力低下」はこのような学習指導要領によってより加速されていくことは間違いないでしょう。 > たまたまの一致かもしれませんが、内申書制度が生まれたころから、勉学に対する学生の記憶力依存体質が強まったような気がしています。 内申書制度もおかしな制度です。 建て前は受験競争の緩和ですが、実質的には生徒を縛り付けるための道具にしかなっていません。 上から降ろされてくる制度は、すべてこのように現場の生徒や教師を混乱させるものばかりと言っても過言ではありません。 何もよけいなことはしてくれるなと言いたくなります。 > 教育基本法にもある、真実を追究する心は、「考える力」がなくては育めないものだと思います。よってなんとかならんかと、長年、思っているのです。 その教育基本法も変えられようとしています。 本当になんとかならんものかと思います。 |
団塊党さん、こんにちは、ご丁寧なレス有難うございます。 三角形と台形のお話、成るほどと思いました。 立ち止まって教える時間的余裕がないのですね。貴兄は立場上、何もいえない部分があるのかもしれませんが、 私には、中学の4副教科の教科書の厚さが気になって仕方がありません。 また、上のほうから下ろされてくる制度ですが、お話からやその他のことから、本当に「愚民化政策」を実行しているのかと、疑いたくなります。 私が今、接することができる若い人たち、マスメディアで観る若者たち、私が学生のころの仲間に比べて、様々なことに迷いが多いように感じます。思い過ごしであればよいのですが。 最後に教育基本法についてですが、私は現在のものを非常に気に入っています。ついでに言うと、日本国憲法の前文も大好きです。 でも、国民の大部分は、若者も含めて、それらを一度も読んだことがない人々だと云うのが現状かも知れないと思っています。 つまらない感想で申し訳ありません。有難うございました。 |
今(私の子どもの頃昭和50年代も)、日本の教育は子どもたちの選別機関になっている。 何のために勉強するのか、いい大学、いい会社に入るために勉強している。しかし、そのいい会社に入ってから何をするのか、明確ではない。立身出世で人生の満足は得られるのか。競争に勝てば人生は豊かなのか。 何のために勉強するのか、大人たちは何のために子どもたちを教育するのか。 大きな組織に入れるような、人材を作るためではないと思う。地元地域社会のことは教えず大都会へ送る教育であってはならないと思う。 地元地域社会のはっきりとした認識を持ち、そして、今の日本社会を理解してその問題点を改善できる力を持った有権者(そして被選挙権を行使できる)”ひと”を育てなければならないと思います。 以下、10年ほど前に某全国紙に投書して載った文章です。旧掲示板に載せたものですがもう一度書き込みます。新聞に載った文章は換骨奪胎されて原型を留めていません。著作権問題は無いと思います。 --------------------------------------------------------------- 貴社の教育問題に関する特集記事を読みました。私も学校教育には関心があり私見を述べさせていただきます。 教育の目的を「人格の完成」から「市民自治を担う力」の育成に転換すべきではないでしょうか。個人の能力を発達・向上を目指すものに加え、自分たちの暮らす地域社会についてどういった仕組みになっているのか、どんな問題があるのか等自分たちの住む地域の”まちづくり”への参加する力を身につけることにすればいいのではないでしょうか。個人の集まりである地域社会について学習し認識をふかめるということが目標にかかげられるべきだと思います。 このことが個人の能力を競う受験競争を緩和し、いじめ、登校拒否などの問題を解決する手段の一つになると思います。 個性について 本来、個性とは自ら育つものであって、他人によって育てられるものではなく、教育における個性の尊重とは生徒が個性を自分自身の力で育てようとするのを、学校、教師がそれを邪魔したり妨げたりするものから守ることが教育における「個性の尊重」だと思います。 ------------------------------------------------------------------ |
> 個性について >本来、個性とは自ら育つものであって、他人によって育てられるものではなく、教育における個性の尊重とは生徒が個性を自分自身の力で育てようとするのを、学校、教師がそれを邪魔したり妨げたりするものから守ることが教育における「個性の尊重」だと思います。 >------------------------------------------------------------------ 個性とは何か、の問題については、非常に誤解があります。 人間は生まれたときから充分【個性的】です。他人の皮膚の移植はできないということは、人間は生まれたときから個性的であることを証明しています。 わたしは授業中よく奇数列の人間は後ろを向けといいました。そして、偶数列の人間と同じ顔だったらどう思うか、とたずねます。たいていの子供は「気持ち悪い」と答えます。 子供たちは、自分が個性的であることをよく知っているのです。 そして、個性的というのは、身体的なものであることも感覚的に分かっています。 背が高い・低い、声が高い・低い、足が速い・遅い、太っている・やせている、よく食べる・食が細い、器用・不器用、鼻が高い・低いなどなど。 つまり、子供たちは、他人の個性を身体的特徴で判断していることが多いのです。 【個性を育てる】とよく言われるのですが、結局身体的特性以外の何を育てるのか、誰もはっきりとは言わないのです。 わたしの経験からいえば、教育とは本来個性を育てるものではないのです。教育とは、人間が社会生活を営んでいくために必要な基本的な【知識・技能=共通了解部分】を伝授していくものです。 これは次の事例を考えてもらえればすぐ分かります。 授業をするためには、「机に座る、人の話を聞く」などは基本的条件になります。 ところが、立ち歩く、先生が話しているときしゃべるなどは、考え方によっては充分個性的です。【個性を育てる】という発想からすれば、これは伸ばさなければならないということになります。 ところが、決してそうはなりません。「座りなさい」、とか「話をよく聞きなさい」ということになります。 つまり、人の話をきちんと聞くという【共通了解】を教えることが、教育だと考えられているのです。 この【共通了解部分】の領域が広がりすぎているのが、現代という時代で(例えばパソコンを教える・英語を教える)、そのため、社会生活を営むための共通了解(相手の痛みが分かるとか、揉め事を解決できるとか、自分の思いをきちんと説明できるとか、他人に迷惑をかけないためにはなど)を教えるのが希薄になっているのが現代だと思います。 学校教育で天才は育たないのです。天才は勝手に育つのです。同じように、教育で【個性】など育てる必要はないのです。個性など生まれたときからみな持っているのです。 今、一番求められているのは、教育で教えなければならない【共通了解】部分をどのように考えるか、という視点です。これが明確になっていないため、あれもこれもになり、結局何もかも中途半端になっているのが現状だと思います。 |
▼流水さん: 私の独り言にレスしていただきありがとうございます。 私の言いたいことは国家政策としての「個性の尊重」政策批判です。 私は子どもたちの自発性を最大限尊重してもらいたいと思っている者です。 【18226】「愛情を受けても自身(子ども)の自発性を大人から干渉されない権利」(手前味噌ですいません)は制度的に保障されていてもらいたいと思っています。 教師と子どもたちの関係も、子どもたちの自発性が先生に認められていると思える関係になっていなければならないと思います。その上で、 >教育とは、人間が社会生活を営んでいくために必要な基本的な【知識・技能=共通了解部分】を伝授していくものです。 が、子どもたちに伝わるのではないでしょうか。 >学校教育で天才は育たないのです。天才は勝手に育つのです。同じように、教育で【個性】など育てる必要はないのです。個性など生まれたときからみな持っているのです。 全く同感です。学校教育特に義務教育で天才をつくるような教育はすべきではないと思います。 少し誤解があると思うのですが、私は教育で個性を育てなければならないとは言っていません。子どもたちが自発的に自分らしく成長しようとするのを学校・教師は尊重し守らなければならない、個性とは教えるものではなく勝手に育つもの、というのが私の主張です。 |
▼みなさま: こんばんは。Ray@スタッフです。 このスレッドの書き込み数が80を超え、だいぶ重くなってきました。 桃李さんが新しいスレッドを二つ立ててくださっていますので、 以後のご議論には書き込みの内容に適したスレッドをご利用下さいますよう よろしくお願い申し上げます。 (教育基本法の改正そのものについてのご議論は 「教育基本法改正問題・3」スレッドを新たに立ててお続け下さい) 【18416】人権を考える・生来の権利の話題から または 【18172】勉強をするということ・教育の話題より です。 |