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 ▼備えあれども・・・  チャトラ 04/9/14(火) 22:46
   ┗Re(1):備えあれども・・・  宮崎故郷人 04/9/15(水) 13:24

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 ■題名 : 備えあれども・・・
 ■名前 : チャトラ
 ■日付 : 04/9/14(火) 22:46
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   いかに用心ぶかく鉄と青銅に見を固めても死は鎧の下から
汝の頭を引き抜く。  (プロペルティウス 3の18の25より)

 Montaigneは、このプロペルティウスの言葉からヒントを得て 「どんなに鍛えた鉄の鎧も君を守ってくれない」(「Essais」より)と言っている。
備えあれども、悩み益々深し。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):備えあれども・・・  ■名前 : 宮崎故郷人  ■日付 : 04/9/15(水) 13:24  -------------------------------------------------------------------------
   ▼チャトラさん:
>いかに用心ぶかく鉄と青銅に見を固めても死は鎧の下から
>汝の頭を引き抜く。  (プロペルティウス 3の18の25より)
>
> Montaigneは、このプロペルティウスの言葉からヒントを得て 「どんなに鍛えた鉄の鎧も君を守ってくれない」(「Essais」より)と言っている。
>備えあれども、悩み益々深し。


大変長くなって申し訳ないが、コピペします。
これを読むとご紹介のごとき言辞をはく御仁だったことが、よく理解できます。
(ただし誤解なきよう、私はプロペルティウスのような生き方を全否定はしません。
そういう人は必要な軍事論に口をはさまないで欲しいと願うだけです。)

http://www1.seaple.icc.ne.jp/nogami/epih15.htm
上記よりコピペです。

セクトゥス・プロペルティウスは、紀元前一世紀ローマの恋愛詩人である。プロペルティウスはキュンティア(シンシア)との愛を四巻の詩集に歌った。この詩集は、中山恒夫によって翻訳されている。その解説によると、当時のローマでは恋愛は人妻や遊女との恋を意味し、キュンティアも遊女であった。「恋の喜び、幸福、不安、悩み、嫉妬、悲しみなど、情熱的な激しい感情に満ちた」(1)第一巻の詩集によって、プロペルティウスは、文人のパトロンであり政界の大物でもあったマエケーナース(メッシーナス)の庇護を受けるようになった。マエケーナースはウェルギリウス、ホラティウスらの庇護者でもあった。

 マエケーナースは、プロペルティウスに、恋愛詩を減らし、政治、軍事を主題にした詩を書くように勧めたが、プロペルティウスは恋愛詩を書き続けた。キュンティアとの馴れ初めから死による別れまで、四巻の詩は一貫してキュンティアとの恋愛を軸にしており、恋愛小説のようでもある。

 パウンドの『セクストゥス・プロペルティウスヘの敬意』は、プロペルティウスが自分の詩の永遠性を歌った第三巻の冒頭の詩から始まり、叙事詩よりも哀歌を歌うという姿勢を表明した詩、そしてキュンティアとの恋愛を歌った詩へと展開していく。パウンドは部分の抽出、再構成によってプロペルティウスの詩のエッセンスを、短く歌い上げようとした。

 軍事よりも恋愛を歌うというプロペルティウスの姿勢は、大戦後、国家への不信が高まる中できわめて現代的であった。ティム・レッドマンは、パウンドがこの詩で訴えようとしたのは、「芸術家の使命と仕事は、国家の危急を凌ぐ」という考え方、「国家の要求を知っていてもそれを拒否する」という芸術至上主義の思想であったとしている(2)。

 プロペルティウスの詩は、性愛も大胆に歌っているが、そうした部分はキリスト教的なメンタリティーによって正確に訳されていないと見たパウンドは、自分の翻訳では大胆な語句を用いた。検閲を刺激することを恐れた『ポエトリ』のハリエット・モンローは、一二篇のうちの四篇しか掲載しなかった。その年の一月の『リトル・レビュー』に掲載されたジョイスの『ユリシーズ』は、郵政当局により没収されて焼却され、五月の掲載分も同様の処分を受けていた。映画の検閲は一九〇八年頃から社会を騒がせていたが、性表現の自由の問題は文学にも波及し、作家と国家との対立は緊張を高めていた。

http://www1.neweb.ne.jp/wb/kaname/ahomo/syoroma.htm
以下は、上記よりコピペです。

キュンティアは紀元前一世紀頃にローマで上流階級の男達を相手にした娼婦です。彼女は奴隷でも、解放奴隷でもない自由身分の女性だったようです。彼女は特定のパトロンを持つタイプではなく数多くのパトロンを抱えるタイプの娼婦です。彼女を見初めた客の一人に後の時代へキュンティアを伝えることになる詩人のプロペルティウスもいました。プロペルティウスは当時のローマの上層階層の人としては珍しく、純情で一途な性格だったらしく、初恋の人がキュンティアで思いを告げる事ができず一年近く悩み続けました。彼はキュンティアが娼婦をしていることはおろか、厚化粧をしていることすら許せないと感じるようなマジメくんでしたが、思いを遂げるべくキュンティアを買春し、彼女を独占したいと強く望んだのです。ほんとに、マジメくんの恋は盲目的で相手構わずなところがあって困りものです。だけど、キュンティアにとってはこの手のお客は扱いやすく、手頃な金ずるに見えたみたいです。時に邪険にし、時に甘えたりしてと巧みにプロペルティウスの心を掴み続けます。例えば、プロペルティウスが東方に出かけようとした時、泣きわめいて彼を止め、彼を殴りつけることもありました。逆に、プロペルティウスに思いっきり甘えてみたり、誕生日には彼と始めて合った時に来ていた服を着て彼を歓待したりもしました。
 キュンティアはお客の要求に従って盛んに旅行に出かけていました。プロペルティウスはキュンティアを引き留めようと彼女に懇願したりしましたが、キュンティアは彼の頼みを無視して各地を飛び歩いていたのです。旅に出ている間も彼の心をつなぎ止めておく手は打っていました。まれに旅行先から手紙を出して滞在先に来るように誘ったりしたのです。彼女は多くのお客をつかまえていたせいでとても忙しく、ローマにいる時ですらプロペルティウスが彼女を抱けたのは十日に一度だけでした。他の日は他のお客の相手をしていたのです。
 五年目のある日、さすがのプロペルティウスも彼女の心意を悟ります。彼女にとって彼はただのお客の一人に過ぎないのです。プロペルティウスは彼女の元を去りました。それから、暫くしてキュンティアは亡くなったようです。キュンティアはローマ近郊の街道沿いに埋葬されました。当時の平均的なローマ市民は街道沿いに埋葬されるのが常だったそうですから娼婦としてはかなりよい結末だったといえるでしょう。

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