Page 1439 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼佐世保・小六女児殺害事件処分決定 流水 04/9/16(木) 12:17 ┣流氷さんの分析、同感です 武者圭司 04/9/16(木) 13:15 ┃ ┗Re(1):流氷さんの分析、同感です 流水 04/9/16(木) 17:57 ┃ ┗Re(2):流氷さんの分析、同感です ウミサチヒコ 04/9/16(木) 23:00 ┃ ┗Re(3):流氷さんの分析、同感です 流水 04/9/17(金) 5:40 ┗Re(1):小六女児殺害事件処分決定を読んで 王里 04/9/17(金) 10:32 ┣Re(2):小六女児殺害事件処分決定を読んで 流水 04/9/17(金) 11:11 ┃ ┣Re(3):小六女児殺害事件処分決定を読んで 月光仮面のおじいさん 04/9/17(金) 11:23 ┃ ┗Re(3):死を見せる 王里 04/9/17(金) 19:02 ┗Re(2):小六女児殺害事件処分決定を読んで 宮崎故郷人 04/9/17(金) 13:12 ┗Re(3):小六女児殺害事件処分決定を読んで 団塊党 04/9/17(金) 20:06 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 佐世保・小六女児殺害事件処分決定 ■名前 : 流水 ■日付 : 04/9/16(木) 12:17 -------------------------------------------------------------------------
今年6月1日、長崎県佐世保市の大久保小学校で6年生御手洗怜美さん(12)が、カッターナイフで首を切られて死亡した事件で、長崎家裁佐世保支部は加害女児(11)を児童自立支援施設に送致、行動の自由を制限する強制的措置を2年間取れる保護処分を決定した。 この家裁決定の要旨を詳細に見てみる。★印以降は、わたしの意見です。 (加害女児の人格特性) (1)加害女児の認知・情報処理の特性 〇対人的なことに注意が向きずらい特性 〇物事を断片的に捉える傾向 ○抽象的なものを言語化することの不器用さ ○聴覚的な情報よりも視覚的な情報のほうが処理しやすい ↓ 自分の中にあるあいまいなものを分析し、統合し、言語化するという一連の作業が苦手である。 ★上記の4つの特性は、加害女児だけの特性ではないと思う。教師の大多数は、こんな子なら自分のクラスにいくらでもいる、と答えると思う。ただ、「対人的なことに注意が向きずらい特性」の子供の指導は、非常に難しいことは事実である。このあたりの掘り下げが、もう少し欲しかった。 (2)加害女児の情緒的特性 女児は対人的なことに注意が向きずらい特性→幼少期より泣くことが少なく、おんぶやだっこをせがんで甘えることが少ない→一人でおもちゃで遊ぶ・TVを見て過ごすという一人遊び→対人行動は受動的であった。 ↓ 女児の家族は、この行動を【育てやすさ】【一人で過ごすことを好む】ととらえ、積極的にかかわることをしてこなかった。 ↓ 女児は、自分の欲求や感情を受け止めてくれる他者がいるという基本的な安心感が希薄で、他者に対する愛着を形成しがたかった。→そのため、女児は対人関係や社会性、共感性の発達も未熟である。 ★この部分は、教師にとっては常識でも、一般の人には新鮮であると思う。特に、【育て安さ】を肯定的に捉える親は、非常に多いと思う。この問題をきちんと指摘しているところは、評価できる。 わたしは、小学校中学年くらいまでは、親(特に母親)は子供を抱きしめることが重要だと考えている。 小学校低学年でパニックボーイと呼ばれる存在が問題になっているが、この種の子供を静める場合、ただじっと抱きしめてやるのが効果的であるとの報告が数多くある。 家庭で親に抱きしめられる経験が多いほど、人間に対する信頼感を抱きやすいと思う。 (3)加害女児の対人関係・コミュニケーションに「おける特性 ・言葉や文章の一部にとらわれやすく、文章の文脈やある作品が持つメッセージ性などを読み取ることができない。 ・他者の視点にたって、その感情や考えを想像し、共感する力や、他者との間に親密な関係をつくる力が育っていない。 ・聴覚的な情報が中心となる会話によるコミュニケーションでは、文脈理解などの不器用さが際立ち、発話者の意図を理解して返答したり、自分の気持ちをうまく表現したりすることができなかった。 ★他者とのコミュニケーションの特性とされている部分だが、このような子供はいくらでもいる、といって過言ではない。われわれ大人社会の周囲にも、いくらでもいると思う。逆に言えば、この程度の欠陥があるから、人間は面白いともいえる。なぜなら、あの人はこうだ、という批評をする対象になりうるからである。 教師の立場から言えば、上記の反対のことが(文章の文脈や作品が持つメッセージ性が理解でき、他者の立場に立つことができ、共感できるなど)できている子供のほうが心配になる。そんなに良い子だったら、疲れるだろうと思う。 そう考えれば、この分析は、判断を下すために無理に作り上げた分析のように見える。 (4)怒りの自覚とその対処方法の二極化 ・女児は成長に伴い認知機能が発達した4年生の終わりごろから、不快の感情のうち、怒りの感情を認知できるようになった。 ↓ ・女児は怒りを認知しても、怒りを抑圧・回避するか、相手を攻撃して怒りを発散させるか、という両極端な対処方法しか持ち得なかった。 ↓ ・女児は怒りを回避するときに空想に逃避する傾向や強い怒りを急激に感じたときの行動を問われても記憶を想起できない傾向→処理できない強い怒りの反応として生じる【解離状態】となって攻撃衝動の抑制も困難となると推測される ★この分析は、参考になる。ただ、【4年生の終わりごろから、不快の感情のうち、怒りの感情を認知できるようになった。】と指摘されている部分は、本当かいな、というのが正直な気持ちである。わたしの経験則からいえば、もっと早いはず、思うが、これが加害女児の特性といわれれば反論する材料がないので黙るしかないが、少々疑問が残る部分ではある。 ただ、怒りの感情をどのように処理するかについて、加害女児は「両極端の方法しか持っていない」と指摘していることについては、非常に納得できる。 わたしも、ひそかに「鉄仮面」と名づけていた全く喜怒哀楽の表情を見せない子供を担任したことがある。ほとんど友達とも会話もせず、わたしが話しかけても、「ああ」とか「うん」程度しか返事をしなかった。この子供がある日突然変身したのである。給食時間のとき、隣の子供とおかずの奪い合いで、言い争いになった。少しのいい争い(数十秒)の後、突如給食のトレイを放り出し、隣の子供に殴りかかった。 即座に二人を引き離し、後仲直りのための話し合いをさせたが、これが実に時間がかかった。彼は、物凄く興奮しており、気持ちを静めるために2時間近くかかった。静かになった後は、全くの放心状態で、何を話しかけても反応がなかった。ようやく、話ができたのは、放課後のことだった。 仲直りをさせようと思っても、本人が一体何が原因なのか、よく覚えていなかった。 わたしには、この子供と加害女児の感性が、ダブッて見えたので、【女児は怒りを回避するときに空想に逃避する傾向や強い怒りを急激に感じたときの行動を問われても記憶を想起できない傾向→処理できない強い怒りの反応として生じる【解離状態】となって攻撃衝動の抑制も困難となると推測される】という指摘は、納得できる。 【処遇の決定】 (1)会話でのコミュニケーションが不器用な女児にとって、交換ノートやインターネットが唯一安心して自己を表現し、存在感を確認できる「居場所」になっていた。 ↓ 交換ノートの反論や、HPに記載された加害女児への否定的な書き込み ↓ 【居場所】への侵入ととらえ怒りを募らせて、攻撃性を高め被害者に対して確定的殺意を抱くにいたり、計画的に殺害行為に及んだ。 ★ここは非常に文学的解釈だが、【殺したい】と思うことと、実際に【殺害する】という間の懸隔をどのように「飛び越えたか」という問いには答えていない。 怜美さんの父親が、「どうしても納得できない」とコメントしているのも当然であろう。 ただ、家裁の審判官は、以下でそのことに説明したつもりかもしれない。 (3)加害女児は、現在も、被害者の命を奪ったことの重大性や、その家族の悲しみを実感することができない。 ↓ その背景には、女児が愛着や共感性に乏しいことから、悲しみの経験や共感性を基盤とした【死のイメージ】が希薄で、人の死が【いなくなる】という現象以上に情動を伴うものになっていないことがあげられる。 ↓ また、女児が贖罪意識を持ちがたい背景には、殺害行為に着手した直後に【解離状態】に陥ったことで、自分の行為に現実感がなく、実行行為の大半の記憶が欠損していること、処理しかねる強い情動には目を向けないようにして抑圧する対処が習慣化していることなども指摘されよう。 ★家裁の審判官は「悲しみの経験や共感性を基盤とした【死のイメージ】が希薄で、人の死が【いなくなる】という現象以上に情動を伴うものになっていないことがあげられる」という言葉で説明しているが、これはある程度説得力がある言葉である。 人間の「死」の意味は、年齢とともに重さを増してくるものだ、というのがわれわれの経験則である。逆にいえば、年齢とともに「生きる」ことの意味が増してくる、ということでもある。 子供にとって「人の死」が大人と同じような意味を持たないのは、「生きる」ことが、朝太陽が東の空から昇ってくるのと同じくらい、当たり前の現実であるという心の位相のためである。 だから、【いなくなる】という現象以上の意味を持たないのである。 「子供は子供なりの奇怪な精神状態」の中に住んでいるため、大人がいくらおかしいと思っても、子供にとってはそれが「真実」なのである。 おそらく、この部分は、「教育」という他律的なもので解決できるものでなく、経験をつむことにより自分で変えるより方法がないところだと思う。 「若いからそんなことをいう。そのうち、分かるようになる」という昔から言われている言葉は、真実だと思う。 今回の家裁決定要旨は、過去のものに比べて、きわめて分かりやすく書かれている。その意味で、高く評価されるべきであると思う。 しかし、分析評価が、やはり大人の分析評価であるという食い足りなさは否めない。 誰かが、なぜ殺人を犯したのか、がどうしても理解できない、といっていたが、そのとおりだと思う。 しかし、この要旨の最大の意味は、上でも書いたように、加害女児が普通の子供とそんなにかけ離れた存在ではない、ということを明らかにした点にある。 普通の子供が、どこにでも転がっている普通の理由で、殺人という特別な行為を犯したいう点を明らかにしたことに意味がある。 「よい子」であることに安心する子育ての欠陥を指摘した点も高く評価できる。 今回の犯行が、どの家庭にも、どの子供にでも起こりうる、というメカニズムを明らかにしている点で、今回の家裁の決定要旨は、すべての親が熟読する価値があると思う。 |
佐世保女児殺害事件の家裁決定要旨は、かなり苦労しながら読みました。 (最近、短い文章に慣れきっているもので。) そう、この女児のようなことは、どんな子どもにもありうるように思います。 他人の死の重さがわからなくたって、 感情がうまく制御できなくたって、 それは子どもならほとんど当たり前で、 大人だって、きちんとできてるか、怪しい。 だからこそ、結果の悲惨さに、呆然としてしまうのですね。 |
▼武者圭司さん: ●そう、この女児のようなことは、どんな子どもにもありうるように思います。 >他人の死の重さがわからなくたって、 >感情がうまく制御できなくたって、 >それは子どもならほとんど当たり前で、 >大人だって、きちんとできてるか、怪しい。 >だからこそ、結果の悲惨さに、呆然としてしまうのですね。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 過去の殺人事件など(例えば宮崎事件)では、犯人の特異性を強調すれば、ある程度結論が得られるような感じがしました。つまり、「俺は違う、とか、俺の家は違う」と、安心することができたのですが、どうやら最近は、「一つ間違うと俺の子供も」という不安感を掻き立てる事件が増えてきています。 わたしは現役時代保護者に下のようにを言い続けていました。 1、家でよい子・学校でよい子→いつかどこかで爆発しますよ。 2、家でよい子・学校で悪い子→これは困ります。保護者がわが子の本当の姿を見 ようとしません。だから、なかなか直りません。 3、家で悪い子・学校でよい子→心のバランスをとっているので、安心できます。 自分の子が家で悪いことをするくらい、我慢してください。 4、家で悪い子・学校で悪い子→一番困りますよ。卒業したら、社会で悪い子にな る危険性があります。早めに歯止めをかけましょう。 「お宅は、どれを選びますか。」と問い続けました。家庭と学校との連携は、このあたりを正直に語り合える関係を構築するところから始まる、というのが、わたしの考え方でした。 そして、その話し合いの中で、結局無理をしない「普通」が一番という結論になることが多かったのを記憶しています。 今回のケースも、「普通」の子が、普通でなくなろうとするから、どこかで無理がきているのだと思えて仕方がありません。 |
▼流水さん: >わたしは現役時代保護者に下のようにを言い続けていました。 >1、家でよい子・学校でよい子→いつかどこかで爆発しますよ。 >2、家でよい子・学校で悪い子→これは困ります。保護者がわが子の本当の姿を見 ようとしません。だから、なかなか直りません。 >3、家で悪い子・学校でよい子→心のバランスをとっているので、安心できます。 > 自分の子が家で悪いことをするくらい、我慢してください。 >4、家で悪い子・学校で悪い子→一番困りますよ。卒業したら、社会で悪い子にな る危険性があります。早めに歯止めをかけましょう。 流水さん、こんばんは。 流水さんはどんな子だったのでしょう。多分…(1)だったんじゃありませんかー? 私の場合。家で良い子、少し悪い子。学校で少し悪い子、でも良い子。これ、理想? |
▼ウミサチヒコさん: >>わたしは現役時代保護者に下のようにを言い続けていました。 >>1、家でよい子・学校でよい子→いつかどこかで爆発しますよ。 >>2、家でよい子・学校で悪い子→これは困ります。保護者がわが子の本当の姿を見 ようとしません。だから、なかなか直りません。 >>3、家で悪い子・学校でよい子→心のバランスをとっているので、安心できます。 >> 自分の子が家で悪いことをするくらい、我慢してください。 >>4、家で悪い子・学校で悪い子→一番困りますよ。卒業したら、社会で悪い子にな る危険性があります。早めに歯止めをかけましょう。 > >流水さん、こんばんは。 >流水さんはどんな子だったのでしょう。多分…(1)だったんじゃありませんかー? わたし場合 小学校5年まで→4番に近い。先生にとっては、大問題児。 小学校6年から→3番 最高の先生に担任されて、ころっと変身。優等生? ではないが、多少おとなしくなる。 |
流水さん:こんにちは。拝見させていただいて、下記の部分が気になりました。 >子供にとって「人の死」が大人と同じような意味を持たないのは、「生きる」ことが、朝太陽が東の空から昇ってくるのと同じくらい、当たり前の現実であるという心の位相のためである。 だから、【いなくなる】という現象以上の意味を持たないのである。 「子供は子供なりの奇怪な精神状態」の中に住んでいるため、大人がいくらおかしいと思っても、子供にとってはそれが「真実」なのである。 おそらく、この部分は、「教育」という他律的なもので解決できるものでなく、経験をつむことにより自分で変えるより方法がないところだと思う。 「若いからそんなことをいう。そのうち、分かるようになる」という昔から言われている言葉は、真実だと思う。 > 最近、親戚のおじいさんが亡くなりました。通夜から葬儀まで、ひい孫たちで涙をみせた子供を一人も見なかったのです。涙どころか大勢の人を見て、はしゃいでいるようにさえ見えました。ひい孫は内と外を含めて男女5人ほどいたでしょうか。年齢は幼稚園から小学校低学年くらいの間です。葬儀の間、ずっと気になっていましたが、流水さんの書込を見てなにか腑に落ちたような気がしました。 死が現実になった時、死を悲しむという感覚は経験により生まれてくる。老人の最後の役割は死を見せることにあるのでしょうか。 |
▼王里さん: >>最近、親戚のおじいさんが亡くなりました。通夜から葬儀まで、ひい孫たちで涙をみせた子供を一人も見なかったのです。涙どころか大勢の人を見て、はしゃいでいるようにさえ見えました。ひい孫は内と外を含めて男女5人ほどいたでしょうか。年齢は幼稚園から小学校低学年くらいの間です。葬儀の間、ずっと気になっていましたが、流水さんの書込を見てなにか腑に落ちたような気がしました。 >死が現実になった時、死を悲しむという感覚は経験により生まれてくる。老人の最後の役割は死を見せることにあるのでしょうか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 人が生まれ、成長し、結婚し、子供をつくり、老い、死んでいく。 この人間の営みは、どんなに時代が進歩しようと、変わらないものです。 わたしは、この人間の営みを知ることは、人間の本質を知ることだと考えています。 現役時代何度か親から次のような相談を受けました。 「先生、おじいちゃん(おばあちゃん)が危ないのですが、学校を休ませてもよいでしょうか」 わたしは「必ずおじいちゃんの死に目にあわせてください。人は必ず死ぬ、永遠のものなどなない、ということを子供の目で確かめさせてください。勉強など後で取り返しがつきます。しかし、おじいちゃんの死に目にあうことは取り返しがつきません。そんなことなど心配しないで、すぐつれて行ってください」と答えました。 自分の死を見せることは(※死んだ後ではなくて、死んでいく姿)、家族(特に子供たち)への最後のはなむけだと、わたしは考えています。 わたしは、人の死に対する敬虔さを欠いた人たちが増えている原因の一つに、三世代同居家族が減り、核家族が増えていることがあると考えています。 小さいときからかわいがってくれたおじいちゃん、おばあちゃんが、命を引き取るさまを見ていない子供が増えてきたのが、大きな要因ではないかと思います。 わたしたち老人の一番最後の仕事は、自分の命の果ていく様子を家族に見せることだと思います。 そのことは、自分の死が、家族に大きな意味をもてるような、人間でありたいという逆の意味での課題もあるのではないでしょうか。 |
流水さま 真摯な文面、感動して読まさせていただきました。教育のこと、少子化のこと、我々の出来る対応は貴方のお考えの通りだと感じます。 これからのご活躍お祈りしています。 |
▼流水さん:お返事いただきありがとうございます。 >人が生まれ、成長し、結婚し、子供をつくり、老い、死んでいく。 >この人間の営みは、どんなに時代が進歩しようと、変わらないものです。 >わたしは、この人間の営みを知ることは、人間の本質を知ることだと考えています。 > 釈迦は生老病死の苦しみを知り、悟りを開かれたと聞いています。凡人には遠くて手が届かない悟りの境地に一歩でも近づけたらと思います。 >現役時代何度か親から次のような相談を受けました。 >「先生、おじいちゃん(おばあちゃん)が危ないのですが、学校を休ませてもよいでしょうか」 >わたしは「必ずおじいちゃんの死に目にあわせてください。人は必ず死ぬ、永遠のものなどなない、ということを子供の目で確かめさせてください。勉強など後で取り返しがつきます。しかし、おじいちゃんの死に目にあうことは取り返しがつきません。そんなことなど心配しないで、すぐつれて行ってください」と答えました。 > >自分の死を見せることは(※死んだ後ではなくて、死んでいく姿)、家族(特に子供たち)への最後のはなむけだと、わたしは考えています。 > 死は忌むべきこと、のろわしいことに違いありませんが、その現実を見せることが人間としてできる最後の大仕事ではないでしょうか。病院ではなく、家族に囲まれて自宅で死にたいと願っています。 >わたしは、人の死に対する敬虔さを欠いた人たちが増えている原因の一つに、三世代同居家族が減り、核家族が増えていることがあると考えています。 >小さいときからかわいがってくれたおじいちゃん、おばあちゃんが、命を引き取るさまを見ていない子供が増えてきたのが、大きな要因ではないかと思います。 > 荒れる子供達が増えている原因にもなっているように思います。 >わたしたち老人の一番最後の仕事は、自分の命の果ていく様子を家族に見せることだと思います。 >そのことは、自分の死が、家族に大きな意味をもてるような、人間でありたいという逆の意味での課題もあるのではないでしょうか。 > おっしゃられたこと、いちいちごもっともです。そして、そのように考えられる人がさらに増えていくことを願います。 |
▼王里さん: >流水さん:こんにちは。拝見させていただいて、下記の部分が気になりました。 > > >>子供にとって「人の死」が大人と同じような意味を持たないのは、「生きる」ことが、朝太陽が東の空から昇ってくるのと同じくらい、当たり前の現実であるという心の位相のためである。 >だから、【いなくなる】という現象以上の意味を持たないのである。 >「子供は子供なりの奇怪な精神状態」の中に住んでいるため、大人がいくらおかしいと思っても、子供にとってはそれが「真実」なのである。 >おそらく、この部分は、「教育」という他律的なもので解決できるものでなく、経験をつむことにより自分で変えるより方法がないところだと思う。 >「若いからそんなことをいう。そのうち、分かるようになる」という昔から言われている言葉は、真実だと思う。 >> >最近、親戚のおじいさんが亡くなりました。通夜から葬儀まで、ひい孫たちで涙をみせた子供を一人も見なかったのです。涙どころか大勢の人を見て、はしゃいでいるようにさえ見えました。ひい孫は内と外を含めて男女5人ほどいたでしょうか。年齢は幼稚園から小学校低学年くらいの間です。葬儀の間、ずっと気になっていましたが、流水さんの書込を見てなにか腑に落ちたような気がしました。 >死が現実になった時、死を悲しむという感覚は経験により生まれてくる。老人の最後の役割は死を見せることにあるのでしょうか。 王里さん、流水さん、 共感するところが多いといいますか、とても勉強になりありがたく存じます。 一つだけ書き込みをお許しください。 王里さんのご経験になったお弔いの場でのひ孫らの振る舞いは、やっぱり注意しなければならないと思います。 現代は他人がいさめるのは難しい時代ですので、私もその場では注意できないかもしれませんが、親なり親戚なりだったら迷わず注意するか、はしゃぐ子らを別の場所につれていくと思います。 「死」の意味をつかむには年齢と経験が必要だということについての流水さんのご指摘は本当にそのとおりだと思います。 ただ「死」を弔う場では静謐にしなければならないということは、たとえ死の意味を知らない頑是無い幼子であっても躾けなければならないことだと思います。意味がわからなくても静かにさせる。それが躾だと思います。 |
▼宮崎故郷人さん: > ただ「死」を弔う場では静謐にしなければならないということは、たとえ死の意味を知らない頑是無い幼子であっても躾けなければならないことだと思います。意味がわからなくても静かにさせる。それが躾だと思います。 そういう頑としたものが現代は失われていますね。 こういう場合は理由は何か分からなくても、場の空気は身体で感じさせる必要があると思います。 現代は理屈だけで教えようとする傾向が強いですが、身体で感じさせるという面も教育には必要だと思います。 |