Page 160 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼understandとupperstandと 流水 04/2/25(水) 14:19 ┣Re(1):understandとupperstandと 太郎 04/2/27(金) 11:40 ┃ ┗Re(2):understandとupperstandと 流水 04/2/27(金) 12:13 ┃ ┗Re(3):understandとupperstandと 太郎 04/2/27(金) 12:30 ┗Re(1):understandとupperstandと 団塊党 04/2/28(土) 9:23 ┗Re(2):understandとupperstandと 流水 04/2/28(土) 12:43 ─────────────────────────────────────── ■題名 : understandとupperstandと ■名前 : 流水 ■日付 : 04/2/25(水) 14:19 -------------------------------------------------------------------------
大晦日、【行く年くる年】を見終わった後、NHKで犬養道子女史と養老孟司氏との対談を見た。 犬養道子女史の祖父が、5・15事件で凶弾に倒れた犬飼毅首相である。 彼女は、文筆家として活躍していたが、その後各地の難民キャンプでボランテイアとして活動していた。高齢のため、現在は老人ホームに入居し、年に一・二回難民キャンプを訪問している。 年末から年始にかけて、多くの対談が放映されていたが、わたしには彼女の言葉が一番心に残った。 特に、ボランテイアをしている時、最も心がけていることとして、以下のような言葉を語っていたが、彼女の行為が付け焼刃でないことを物語る珠玉の言葉であった。 「人はどうしても upperstandになりがちである。これを under standに変えることが重要である」 upper stand ;文字通り訳すと、【上に立つ】。上から見る under stand ;文字通り訳すと、【下に立つ】。下から見る 彼女の言わんとするところは、難民救済などの活動をするとき、救済する人々の【下に立つ】覚悟が必要と語る。これがunderstand(理解する)という言葉の本来の意味である、と語る。 ところが、人間は往々にしてupperstand(上に立つ;上から見下ろす)ことをunderstand(理解する)と誤解しがちである。これは、思想信条の問題ではなく、【人間一人一人の生きる姿勢】の問題だ、と語った。 この指摘はきわめて重要である。 わたしは教師時代、「子供と共に学ぶ姿勢」を大切にした松蔭の態度を範にしていた。「子供とともに学ぶ」姿勢を忘れたら、教師などただの小権力者に過ぎないと考えていた。 それぞれの子供がそれぞれの個性を持ち、それぞれの事情を抱えている。この「それぞれ」の事情を理解し、臨機応変に対応する柔軟さこそ教師に一番求められる【資質】である。この資質を支えるのが、【想像力】である。想像力のない人間には、教師は務まらない。 同時に、自分の内部にある好き嫌いの感情、得手不得手も克服しなければ、それぞれの子供に応じた対応などできるはずがない。 家庭の事情で洗濯してもらえず、薄汚れた衣服をまとった子供が抱きついてきたとき、それを黙って受け止めてやる覚悟が必要なのである。 犬養女史の凄さは、彼女のunder stand理解を「普遍的な価値観」に高めているところにある。彼女の豊富なボランテイア経験から生み出されたものであろう。 彼女は、観念的平和主義者は、現場では役に立たないと断ずる。ボランテイア活動は、実践的なもので、電気のないところでどのようにして生活するか、ミシンのないところでどのように衣服をつくろうか、ほんのわずかしかない食料で、どのように飢えをしのぐかなどなどあらゆる場面で実践的スキルが要求される。 つまり、日常的実践から生み出された地に足の付いた平和論でなければ、現場ではほとんど役にたたないという。 この指摘も納得できる。 世の中には、教育問題をわがことのように語る人は多い。しかし、わがことのように、子供たちを育てる人は少ない。子供たちは、さまざまな家庭の事情を抱え、さまざまな環境で育っている。この子供たちをたった一つの方法論だけで育てること自体に無理がある。 それぞれの子供に合った方法論を模索する柔軟性と想像力がなかったら、現場の仕事など勤まるわけがない。 また、そのための実践的スキルがなければ、役にたたない。観念的な教育論など、現場では役にたたない。実践の積み重ねの中で作り上げられた教育論だけが、役にたつ。 この視点から、彼女は現在の世界・日本を切る。 日本もいつのまにか、upper stand の国になった。これを真の意味で、under standの国に変える必要がある、というのである。 under standの国になるということは、【多様性】を認めることである。 わたしは、日本人はこの現状に合わせて、現場で実践的な仕事をする、ということは、世界のどの国にも負けないと考えている。 アフガンでの井戸掘り、毀誉褒貶はあろうが中村医師が行っている水を引く工事など、実践例はいくつもある。イラクが親日的であるのも、かっての日本の具体的な実践の積み重ねがあったからである。これが、最終的には日本という国の価値を高め、尊敬を勝ち得ていたのである。 わたしは、これこそ日本が世界に発信しうる21世紀の【価値観】ではないかと思います。 |
▼流水さん: 要約すると多様性を認めて、臨機応変に物事に対応し、相手の立場で物事を考え、行動することが大切だということですか? 実際の現場で積み上げられた経験、技術等以外は現場では役に立たない。 言い換えればここで交わされている多々の議論も机上ならぬネット上の議論で実際の 現場で積み上げられたものだけではないので実際には役に立たないってことですか? 少々飛躍しすぎているかもしれませんが、私はこう読み取りました。 |
▼太郎さん: >▼流水さん: > >要約すると多様性を認めて、臨機応変に物事に対応し、相手の立場で物事を考え、行動することが大切だということですか? 大意はその通りです。 >実際の現場で積み上げられた経験、技術等以外は現場では役に立たない。 現場で役に立つのは、実践的な経験やスキルです。【役にたたない】とうところに力点を置いて読むのでなく、自分の頭の中で作り上げられた理念や理論を現場で検証し、現場の経験やスキルからもう一度構築しなおさなければ、本物にならないという意味に読んでください。 >言い換えればここで交わされている多々の議論も机上ならぬネット上の議論で実際の >現場で積み上げられたものだけではないので実際には役に立たないってことですか? >少々飛躍しすぎているかもしれませんが、私はこう読み取りました。 これは飛躍しすぎていますね。 そうではなくて、例えば法とか道徳を議論するとき、現実に子供たちに教えるときどのような方法が一番適切か、という視点で考えてください、という意味です。 現場では、ほんのささいなことが大問題になります。例えば、給食のとき【楽しくおしゃべりをしながら食べよう】か【静かにきちんとマナーを守って食べよう】かが大議論になります。 つまり、その程度には具体的な事例にあわせて、自分の考え方を論理的に語らなければ、現場ではあまり参考にはならないということです。 |
>>▼流水さん: >そうではなくて、例えば法とか道徳を議論するとき、現実に子供たちに教えるときどのような方法が一番適切か、という視点で考えてください、という意味です。 >現場では、ほんのささいなことが大問題になります。例えば、給食のとき【楽しくおしゃべりをしながら食べよう】か【静かにきちんとマナーを守って食べよう】かが大議論になります。 >つまり、その程度には具体的な事例にあわせて、自分の考え方を論理的に語らなければ、現場ではあまり参考にはならないということです。 なるほど、よくわかりました。なかなか長文を正確に読み取るのは難しいです。 雑談ですが、給食の時、大喧嘩になったテーマにみんな好きなものをおかわりする際「全部食べた人の順番」か「全部食べ終わった人でジャンケンして決めるか」がありましたよ・・・。 |
▼流水さん: >わたしは教師時代、「子供と共に学ぶ姿勢」を大切にした松蔭の態度を範にしていた。「子供とともに学ぶ」姿勢を忘れたら、教師などただの小権力者に過ぎないと考えていた。 >それぞれの子供がそれぞれの個性を持ち、それぞれの事情を抱えている。この「それぞれ」の事情を理解し、臨機応変に対応する柔軟さこそ教師に一番求められる【資質】である。この資質を支えるのが、【想像力】である。想像力のない人間には、教師は務まらない。 >同時に、自分の内部にある好き嫌いの感情、得手不得手も克服しなければ、それぞれの子供に応じた対応などできるはずがない。 >家庭の事情で洗濯してもらえず、薄汚れた衣服をまとった子供が抱きついてきたとき、それを黙って受け止めてやる覚悟が必要なのである。 ここで仰っていることがどんなに大切なことか、様々なな事情の子供を担任として受け持つたびに身にしみて分かります。 私のクラスには先天的な事情で授業中ふらふら立ち歩く子供がいます。 この子に私の言葉が受け入れてもらえるのは、私がこの子の内面を思い計れた時に限ります。 この子と心身が一体になって何かを感じ取れるような感覚が自分の中にできた時、 この子は良さを出してきます。 こちらの都合で席に着かせようとだけしていても、そこに学びは成立しません。 まさに、under standの立場ですね。 特に、見えない部分を見抜く想像力がないとできるものではないですね。 その想像力の根底には、under standの理念がどっしりと座っていなければ、厚みのある実践にはならないと思います。 >世の中には、教育をわがことのように語る人は多い。しかし、わがことのように、子供たちを育てる人は少ない。子供たちは、さまざまな家庭の事情を抱え、さまざまな環境で育っている。この子供たちをたった一つの方法論だけで育てること自体に無理がある。 >それぞれの子供に合った方法論を模索する柔軟性と想像力がなかったら、現場の仕事など勤まるわけがない。 >また、そのための実践的スキルがなければ、役にたたない。観念的な教育論など、現場では役にたたない。実践の積み重ねの中で作り上げられた教育論だけが、役にたつ。 まったくそうですね。 親や教師がマニュアルを信じすぎることを危惧します。 マニュアル自体が悪いのではなく、それを有効に活用できる柔軟性や想像力の欠如が問題です。 マニュアルは未完成なもので、絶えず実践で作り変えて行かれるべき性格のものだという自覚がないことが問題です。 出発点はすべて子供です。現実です。 子供を前にしたら、マニュアルなどすべて捨て去るべきです。 教育評論家や教育学者ももっと現場に入り、現場の視点と自らの理論や仮説や思想とを突き合わせることをしていくべきです。 実際に教室に入り、授業を観たり自分でも授業をやったり一緒に生活してみたりして自らの教育論を壊しては造り替えていくということをもっとやって欲しいです。 東大の佐藤学氏はそういうことを実践している数少ない一人だと思います。 時間があるようでしたら「教師たちの挑戦」(小学館)をお読み下さい。 >わたしは、これこそ日本が世界に発信しうる21世紀の【価値観】ではないかと思います。 under sutandですね。 心に刻み込んでみます。 |
▼団塊党さん: 丁寧なレス感謝します。 >私のクラスには先天的な事情で授業中ふらふら立ち歩く子供がいます。 >この子に私の言葉が受け入れてもらえるのは、私がこの子の内面を思い計れた時に限ります。 >この子と心身が一体になって何かを感じ取れるような感覚が自分の中にできた時、 >この子は良さを出してきます。 >こちらの都合で席に着かせようとだけしていても、そこに学びは成立しません。 > 大変よく分かります。この種の苦労は、それこそ現場にいる人間でなければ分からないところです。 言葉では簡単でも実践するとなると、「日暮れて道遠し」です。この言うに言えないあり方に、教師のレーゾンデートルがあると思います。 >親や教師がマニュアルを信じすぎることを危惧します。 >マニュアル自体が悪いのではなく、それを有効に活用できる柔軟性や想像力の欠如が問題です。 逆にいえば、教育理念がないからそうなるのです。子供たちから何をどのように学ぶかは、その人の「人間性」にかかわります。常に、学ぶ姿勢を持ち続けている人には、ほんの些細なことでも、新たな発見につながります。 重症心身障害児施設に勤務している人が、「今日、指がほんの少し動いたことに喜びを感じる」と語っていましたが、このほんの些細なことが大切なのだと思います。【神は細部に宿り給う】哲学者久野収の言葉です。 > >マニュアルは未完成なもので、絶えず実践で作り変えて行かれるべき性格のものだという自覚がないことが問題です。 >出発点はすべて子供です。現実です。 >子供を前にしたら、マニュアルなどすべて捨て去るべきです。 その通りです。あらゆることを学んで、子供の前にたったら【一度全て捨てる】ことが、次の飛躍につながるのです。 > >>東大の佐藤学氏はそういうことを実践している数少ない一人だと思います。 >時間があるようでしたら「教師たちの挑戦」(小学館)をお読み下さい。 ぜひ、読んでみましょう。 > |