Page 1770 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼『新しい教科書』問題を考える・7 管理スタッフ・珠 04/10/17(日) 13:42 ┣*前スレッド URL ぎみゆら 04/10/17(日) 15:49 ┃ ┗Re(1):*前スレッド URL 管理スタッフ・珠 04/10/17(日) 16:21 ┣Re(1):『新しい教科書』問題を考える・7 しろは 04/10/21(木) 4:21 ┗昔のスレッドですが、fakeさんへ リアル 04/11/3(水) 21:52 ┗Re(1):昔のスレッド/リアルさんへ とうろう(蟷螂の斧/FAKE) 04/11/3(水) 22:51 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 『新しい教科書』問題を考える・7 ■名前 : 管理スタッフ・珠 ■日付 : 04/10/17(日) 13:42 -------------------------------------------------------------------------
新しいスレッドに移行しましたので、最後の書込みを転載します。 ------------------------------------------------------------------ 【25815】Re(3):国家という概念 FAKE - 04/10/17(日) 2:07 - ------------------------------------------------------------------- ▼リアルさん: こんばんは。レス遅くなりました。 以下、感ずるところをコメント(カキコの謂いです)します。 >古代や中世においてはネーションステーツという概念はなかったでしょう。 >クニという概念の変遷の研究があればご教授ください。 >アナール学派の系統で、フランスではそういう研究があるようですが。 >アラン・コルバンもおもいしろいものを書いているようです お教えできることは知りません。「クニ」は、言葉で言えば、その昔「村」であり、「集落」・・・であったらしいです。漢字の「国がまえ」の四角は「集落を守る濠・城壁」を象形したもののようです。 ただ、「国」などと言うことは、近代「法」で定められた「人工物」だと私は思っております。たとえば(あくまで、例えばの一例です)、アフリカ、中近東の国々を見ますと、いずれも、その昔、欧州列強が支配地を勝手に分割した植民地が、そのまま「国」となっています。「民族」「文化」・・・を無視した上でです(国境が直線になっている国が沢山見られます)。 この結果が多くの民族紛争の原因だと思っています。 >「白人種」の侵略を防いだとみるか、白い帝国主義と黄色い帝国主義の戦いであったと見るかは、見解が分かれるところですが。どちらにしても、日露戦争で日本が帝国主義列強の仲間入りをしたというのは事実だと思います。 そうですね。列強になったと思い、かつ、そのときの日本国民の大多数はそれを喜んで受け入れたと思います。これは事実ではないでしょうか。 >それから、私が、「日本の美」といったのは「新しい歴史教科書」の冒頭の「日本の美の形」として挙げられている芸術の評価に関してです。 そうですか。それは知りませんでした。本を読んでいないもので失礼しました。 >「国家」の内実が問われています。 「国家」は、対外的に「国家」であって、内実は国家内のことではないでしょうか。 >国家とは一枚岩ではなく、多様な民族、多様な思想、多様な性向、多様な顔(メタファーです)を持つ人々の集まりです。 当然です。 >そうしたことを無視し、「国家」なる概念で、人々を統べる思想、言い換えれば、 >「国家」という言語による暴力にたいし、もっと私たちは自覚しなければならないと思います。 国家概念は上に答えました。 若し、国家の中の国民を認められるのなら、主権在民の下では国家を変えるのは国民の過半数の意志です。今、その国民の意志で存在する、今の日本の国家について、「「国家」なる概念で、人々を統べる思想、言い換えれば、「国家」という言語による暴力にたいし」というのは自己撞着では有りませんか。 >おまけ >「そんなに、日本がいやなら、北朝鮮に行け。李アル中!」という横レスがつかなければ幸いです。(^o^) これについては答える言葉はありません。 ただ、もう少し「冷静・クール」にというだけです。 お互い、「個人」あるいは「その群れ」だけが「国家」を代表しているわけでもなく、また、その個人その党派が「国家」ではないのですから。 |
*↓前スレッド 『新しい歴史』教科書を考える・6 http://www.6410.jp/bbs/c-board.cgi?cmd=one;no=23262;id=sougou ※珠さんへ 少し前に Ray さんが、「今後、新スレッドに移行する 際には前スレッド URL を記します」と表明し、その後そのように実施 されていますので、子レスの形で貼っておきます。「米国と日本の関係」 スレッドにも同様にします。お節介は性分ですので、ご寛恕のほどを。 |
ありがとうございました。迂闊をしました。 |
珠 様 皆様 よろしくお願いします 以前にもお話したことががるのですが、 この問題では歴史と教科書を分けて考えてみてはどうかと思うのです どちらも大変に難しいことだと考えるからです。 二つ目は第二次大戦についてより多くを語ることも大切だと考えますが、 第一次、第二次大戦ともに一つの戦争として考えるやり方は 有名だと思います どこの国の視点からでも納得できる歴史が書き上げられることを願います。 しろは |
>【25815】Re(3):国家という概念 FAKE - 04/10/17(日) 2:07 - >------------------------------------------------------------------- 多忙でしたので長期間レスできませんでしたが、答えておきたかったので昔?のスレッドを、引っ張り出しました。 >▼リアルさん: > >「国家」は、対外的に「国家」であって、内実は国家内のことではないでしょうか。 国家は、対内的にも国家権力として「国民」に作用していると思います。 >若し、国家の中の国民を認められるのなら、主権在民の下では国家を変えるのは国民の過半数の意志です。今、その国民の意志で存在する、今の日本の国家について、「「国家」なる概念で、人々を統べる思想、言い換えれば、「国家」という言語による暴力にたいし」というのは自己撞着では有りませんか。 貴兄は、主権在民という言葉を使われていますが、主権在民の理念が日本で現実化しているかどうかは、疑わしいと思います。国民の意思イコール国家であるからには、民主主義が機能しているかどうかが問われます。 日本における国家形成は、市民社会の形成(ブルジョワ革命)を経ていないだけに、「国民の意思」なるものが不明確で、逆に国家(権力)による国民の統治というベクトルが突出していると思います。 > >>おまけ >>「そんなに、日本がいやなら、北朝鮮に行け。李アル中!」という横レスがつかなければ幸いです。(^o^) > >これについては答える言葉はありません。 >ただ、もう少し「冷静・クール」にというだけです。 私の「おまけ発言」は、私の考えについて、脊髄反射のように「非国民」と反応する人々へのものです。 貴兄へのメッセージではありません。(^_^;) |
▼リアルさん: こんばんは。お久し振りです。レス有難うございます。 >国家は、対内的にも国家権力として「国民」に作用していると思います。 そうですね。ただ、「国家」と言うのは、抽象的概念で、「国家」と言う抽象的な概念・存在が、国民に権力を及ぼすのではなく、国民に負託された、政治家(立法)、内閣・官僚(行政)及び裁判官(司法)など、生身の人間が権力を行使するのではありませんか。 これらを集合的に「国家」と言う概念で括ると、なにやら焦点がボケるような気がするのです。 >貴兄は、主権在民という言葉を使われていますが、主権在民の理念が日本で現実化しているかどうかは、疑わしいと思います。国民の意思イコール国家であるからには、民主主義が機能しているかどうかが問われます。 民主主義が機能しているかどうかは国民の成熟度、政治家の質の問題と思います。国家の問題ではないでしょう。 また、システム上は「主権在民の理念が日本で現実化」しているのではありませんか。若し、「主権在民の理念が日本で現実化」していないのであれば、その責任は国民一人一人にあり、国家を持ち出す話ではないと考えます。 >日本における国家形成は、市民社会の形成(ブルジョワ革命)を経ていないだけに、「国民の意思」なるものが不明確で、逆に国家(権力)による国民の統治というベクトルが突出していると思います。 「国家」については上に書きました。また、「市民社会の形成」がなされていないと言う観察には同意します。国民一人一人が自立した判断を下せるようになれば良いと思います。 「国民の意思」は各選挙結果に現われていると見なさないとどうにもなりません。 何をもって「国民の意思が不明確」であると言えるのでしょうか。 |