Page 191 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼集団と個について 団塊党 04/3/4(木) 0:43 ┗Re:集団と個について 団塊党 04/3/4(木) 0:46 ┣Re(1):集団と個について【体感速度の問題】 流水 04/3/4(木) 9:22 ┃ ┗Re(2):集団と個について【体感速度の問題】 団塊党 04/3/4(木) 22:16 ┃ ┗Re(3):集団と個について 流水 04/3/5(金) 11:06 ┃ ┗Re(4):集団と個について 団塊党 04/3/5(金) 21:43 ┃ ┗Re(5):集団と個について 流水 04/3/5(金) 22:29 ┃ ┗Re(6):集団と個について 団塊党 04/3/6(土) 7:45 ┃ ┗Re(7):集団と個について 流水 04/3/6(土) 10:23 ┃ ┗Re(8):集団と個について 団塊党 04/3/6(土) 14:01 ┃ ┗教師の語り 流水 04/3/6(土) 14:43 ┗Re(1):集団と個について 流水 04/3/6(土) 18:42 ┗Re(2):集団と個について 団塊党 04/3/6(土) 20:55 ┗Re(3):集団と個について 流水 04/3/6(土) 22:49 ┗Re(4):集団と個について 団塊党 04/3/7(日) 7:19 ┣Re(5):集団と個について 団塊党 04/3/7(日) 7:32 ┃ ┗Re(6):集団と個について 海幸彦 04/3/7(日) 8:04 ┃ ┗Re(7):集団と個について 団塊党 04/3/7(日) 12:51 ┗Re(5):集団と個について 流水 04/3/7(日) 8:49 ┗Re(6):集団と個について 団塊党 04/3/7(日) 13:12 ┣もめごと解決の方策 流水 04/3/7(日) 14:35 ┃ ┣Re(1):もめごと解決の方策 団塊党 04/3/7(日) 15:59 ┃ ┗流水教育に学ぶ 団塊党 04/3/9(火) 22:32 ┃ ┗Re(1):流水教育に学ぶ 流水 04/3/9(火) 22:57 ┗Re(7):集団と個について 去私 04/3/7(日) 14:55 ┣Re(8):集団と個について 流水 04/3/7(日) 15:33 ┗Re(8):集団と個について 団塊党 04/3/7(日) 16:09 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 集団と個について ■名前 : 団塊党 ■日付 : 04/3/4(木) 0:43 -------------------------------------------------------------------------
教育問題・教育を創ろう2のスレッドの中で議論してきたテーマですが長くなりましたので、新しいスレッドを立てます。 流水さん独自の優れた教育論が展開されています。 みなさん始めから是非お読み下さい。 流水さん、今後このスレッドに投稿願います。 |
▼流水さん: >まず、頭の中に座標軸を描いてください。 >Y軸の上を【獲得の自由】下を【無為】の自由とします。X軸の左を【抵抗の自由】とし右を【遵法の自由】とします。 >そうしますと、【第一象限】は【獲得の自由】と【遵法の自由】の間に設定されます。【第2象限】は【獲得の自由】と【抵抗の自由】【第3象限】は【抵抗の自由】と【無為の自由】【第4象限】は【無為の自由】と【遵法の自由】の間にあります。 > >子供たちの【自由意識】のレベルを測るということは、どの象限にいちしているかを測ることになります。 第4象限を例に具体的に説明頂いたので、集団が現在どのような状況にあり、近い将来どのようになるかの予測をする上で、この座標軸が大変に有効な尺度になることがよく解りました。 >ところが、集団の雰囲気が、【無為の自由】軸に近くなると、これは黄色信号が点滅しはじめ、赤信号が点る寸前だと考えられます。生物学的に考えても、子供たちは身体の中からエネルギーがほとばしる時期なのですから、【無為の自由】に安住できるわけがないのです。いつかは、この状態から脱出しようと試みます。 >つまり、一気に【象限移動】をするのです。 >X軸の【抵抗の自由】に振れる可能性がきわめて高いのです。【荒れ】の前史には、必ずと言ってよいくらい【無為の自由】に満ち溢れた時期があるのです。 ここが重要なところですね。 案外、こういう点を見落としてしまうというのが私を含めて普通の教師だと思います。 流水さんのように、そこをはっきり自覚的に捉えているだけで荒れの初期段階を察知して早い対応が可能になりますね。 >このように見ると、【荒れ】にも積極的な意味があるのです。つまり、【何もしない自由】からの脱却を試みた子供たちの生きる意欲の現われでもあるのです。 >ところが、この【荒れ】を静かにさせるためにとられた【管理教育】の間違いは、もとの【遵法】と【無為】の象限に子供たちを強制的に押し込めようとする発想にあります。この発想は、【遵法の自由】ではなくて、ただの【遵法】の強制に過ぎません。 荒れを察知したときにどのような対応でそれを解決していくか。 遵法と無為の象限に無理に押し込めても、それは本質的な解決にならないですね。 校内暴力が激しかった頃の方がまだ問題の根が浅かったと言っても過言ではないかもしれません。 今の10代後半の子供達の状況がかなり深刻化している理由はここにあるかもしれません。 >しかし、いくら積極的意味があるとしても、学校・教師。多くの子供たちにも【荒れ】は困ります。 >多くの場合【荒れる子供たちの行為】は【抵抗の自由】として許容される【範囲】を超えているからです。 >つまり、最初に書いた【獲得の自由】【無為の自由】【抵抗の自由】【遵法の自由】の【自由】には、一定の【枠】が必要になるのです。この【枠】の設定に、学校・教師の【理念】が試されます。 枠の設定が必要だと言うことは解りますが、具体的に言うとどのような枠なのでしょうか。それぞれの自由ごとに枠があるのでしょうか。もう少し説明頂けないでしょうか。 >さらにもう一つの問題があります。教師の立つ位置(視点)の問題です。教師はどこに立てば良いのか、これで教師の【自由理解】が問われるのです。例えば、【抵抗の自由】といっても、教師に口答えをする子供に対してどのような【応対】をするかで、その教師の【自由】に対する理解の深浅が問われるのです。 >わたしは、理念的には教師はグラフの原点に位置すべきだと考えていました。【原点】ということには、意味があります。 >一つは、上記の4つの【自由】の【枠】を的確に子供たちに指摘するためです。 >他の一つは、上記の学校内の子供が本来的に持っている4つの【自由】は、時代の趨勢や学校の現状によって、グラフごと少しずつどちらかに移動しているのです。 >例えば、現在の学校を取り巻く環境(政府・文部省の施策、地域の状況など)は、 >第4象限の【遵法の自由】方向にずれつつあると考えられます。 > >その【状況】にあわせてグラフの原点の位置も右下(遵法の自由・無為の自由)方向へずれていくのです。つまり、教師の位置はこの【状況】にあわせて少しずつ変化していかざるを得ないと考えています。そうしなければ、学校という場で生きていけないからです。 原点に立つと言うことに大変大きな意味があるようですね。 無為の自由とか抵抗の自由とかにはかなり距離を置いて立つのが一般の教師だと思いますが、そこが流水さんの場合は違うようですね。 ここにその教師の理念が出てくるのでしょうか。 >長くなりました。本当は、4つの象限をさらに細かく分けて、それぞれにあわせた方策があるのですが、紙幅が足りません。大まかな説明だけで終わりますが、お許しください。 ますます興味深くなってきました。 少しずつで結構ですので、是非、続きをお聞きしたいです。 |
▼団塊党さん: 各象限の詳細な説明の前に、もう一つ重要な視点を説明します。この視点は、各象限のあり方と密接不可分な関係があり、【集団の変容】を促進するために不可欠な要素でもあります。 ◆それは、学校に流れている【体感速度】の問題です。 【自然時間は24時間であるにもかかわらず、「生活時間」が非常に早く感じ、いつもせきたてられている】、という感じは誰でも経験がある。 この感覚は年齢によっても違う。 一般的には、成人前の時間の流れは「ゆるやか」で、30、40、と徐々に時間の流れは速くなる。ふと気が付いたとき、もう5年たったのか、はや10年たったのか、ということは、誰にでもあることです。 では、人間が生理的に最適についていける時間とは?という問いは、案外考えられていない。 ●人間が生理的に快適と感じられる体感速度→20km/hと仮定します。 →天気のよい日にサイクリングする自転車の速度(ほほに当たる風の心地よさ)を想定 ※自動車のように箱の中にいて、空気の流れを感じない空間は想定しない。理由は、子供たちには風・空気のような自然空間を体験させなければ、バランスよく育たないから。 ●20km以上が支配的になった空間→人間の限界域が産業的なものに絡めとられた感覚がして、【抑圧感】が生まれる。仕事が忙しくて、帰りが夜遅くなるという生活が、何日も何日も続いたときの「あー、疲れた」という感覚を想定。 ●20km以下が支配的になった空間→定年退職後の「毎日が日曜日」という感覚。この時間の流れは、人間の体内エネルギーとのバランスがとれず、苦痛に感じる場合が多い。 これは、個人差があり、30kmぐらいが最適と感じる人もいるだろうが、学校という場では、平均的という意味で20km/hを設定しておきます。 わたしの考える【集団つくり】では、この20km/hの空間構成・環境構成・生活時間構成をどのようにするか、がきわめて重要になります。 では速度20km/hの空間はどようなものが想定できるのか。 ◆生活時間 1、何かに夢中になる時間がある。2、自分とは何かを振り返る精神的余裕がある 3、家族と団欒する時間はある 4、友人と「無駄な時間」を過せる 5、何かにせきたてられているような感覚はない ◆速度20km/hの生活時間・環境構成とは 1、生活の匂いのする空間構成が必要 。きれいすぎる空間は駄目で、子供の生活の爪あとが必要 ※極端な完全性へ傾斜した指導はだめ。 2、無駄を大切にした教室空間が大切 ※【整然とした乱雑さが重要】 3、清潔さと乱雑さが共存した空間が大切 これだけでは分かりにくいので、体感速度30km/hの空間を考えてみます。 1、体感速度の速さが最も認識できる速度であり、その感覚が【抑圧感】に変わりやすい 2、抑圧感が【精神的すさみ(荒れ)】を生み出す可能性が高くなる 3、生活時間・生活空間は、どこがどうという特徴はないが、なんとなく【気ぜわしく】【温かみ】が感じられない。 4、これまで大多数の学校が構成していた空間である。 ◆ところが、この体感速度30km/hを超えると、これが一種の奇妙な安定感をもたらす。 1、その空間に住んでいる人間には、奇妙な安定感がある 2、一種の諦めに似た充足感がある 3、人に語るとき、いびつな「エリート意識」にとらわれる 4、管理が行き届いた空間 5、教師・生徒とも自分の頭で考えず、忙しさに忙殺(前に書いた提灯学校の例) 6、競争意識・他者との比較がレーゾンデートルになる 7、生活空間・生活環境は、清潔で遊びのない空間 8、学校は安定しており、批判精神は育たないが、エリート意識は掻き立てられる さて、問題は体感速度20km/h以下の場合です。わたしから言わせると、今回の教育改革の問題点は、この学校に流れる体感速度を20km/h以下に設定しようと言う点に求められます。 では、文部省が意図しているしていないにかかわらず、20km/h以下の空間は、以下のようなことが考えられます。 1、けだるい時間が流れやすい 2、自分を振り返るより、何も考えず、退嬰的気分になりやすい ※自分を振り返るためには、何かに夢中になる経験が不可欠。この経験がないと、真剣に悩まない。何かに夢中になるためには、【鍛錬】が必須条件。今回の改革は、体感速度が遅すぎて、逆に【精神の弛緩】を招く危険性が高い。 3、競争意識が薄れる。過度な競争意識は、鼻持ちならないエリート意識を掻き立てるが、健全な競争意識は、人間を育てる。今回の改革は、子供の成長にとって不可欠な【競争意識】をなくす可能性がある。 ■【競争意識】→「俺は人とは違う」という意識は、自我の確立には必須条件。この【違う】ということを確認するために競争意識が起きる。人間にとって【競争意識】というのは、本能に近い。この本能に近い競争意識をなくすことは、集団を【退嬰的傾向】に導きやすい。大人や教師の仕事は、この【競争意識】をどのように制御するかを考えることです。 このように考えると、体感速度の問題は、きわめて重要な問題であることが理解されると思います。わたしのいう【環境醸成】とは、この体感速度20km/hの空間構成・環境構成・生活時間構成を如何にするかということを意味します。 【集団の変容】には、この視点が不可欠なものであることが理解していただけると思います。 |
▼流水さん: >わたしの考える【集団つくり】では、この20km/hの空間構成・環境構成・生活時間構成をどのようにするか、がきわめて重要になります。 >では速度20km/hの空間はどようなものが想定できるのか。 >◆生活時間 >1、何かに夢中になる時間がある。2、自分とは何かを振り返る精神的余裕がある >3、家族と団欒する時間はある 4、友人と「無駄な時間」を過せる >5、何かにせきたてられているような感覚はない > >◆速度20km/hの生活時間・環境構成とは >1、生活の匂いのする空間構成が必要 。きれいすぎる空間は駄目で、子供の生活の爪あとが必要 ※極端な完全性へ傾斜した指導はだめ。 >2、無駄を大切にした教室空間が大切 ※【整然とした乱雑さが重要】 >3、清潔さと乱雑さが共存した空間が大切 整然とした乱雑さ、面白い表現ですね。 でも分かるような気がします。 流水さんの集団つくりには、生活の匂いがあるのですね。 ここが一般と違う気がします。 集団つくりというと、とかく整然とした統制をイメージしてしまいますが、流水さんの場合には暖かみがあります。 規律や統制と無駄や暖かさとのバランスをどうとっていくのか、非常に難しい感も持ちます。 >これだけでは分かりにくいので、体感速度30km/hの空間を考えてみます。 >1、体感速度の速さが最も認識できる速度であり、その感覚が【抑圧感】に変わりやすい >2、抑圧感が【精神的すさみ(荒れ)】を生み出す可能性が高くなる >3、生活時間・生活空間は、どこがどうという特徴はないが、なんとなく【気ぜわしく】【温かみ】が感じられない。 >4、これまで大多数の学校が構成していた空間である。 気ぜわしく暖かみがないことがすさみ(荒れ)を生み出すということ、なるほどそうですね。 忙しくなるといいことがありません。 事故や問題が起こるのは大体このときです。 >◆ところが、この体感速度30km/hを超えると、これが一種の奇妙な安定感をもたらす。 >1、その空間に住んでいる人間には、奇妙な安定感がある >2、一種の諦めに似た充足感がある >3、人に語るとき、いびつな「エリート意識」にとらわれる >4、管理が行き届いた空間 >5、教師・生徒とも自分の頭で考えず、忙しさに忙殺(前に書いた提灯学校の例) >6、競争意識・他者との比較がレーゾンデートルになる >7、生活空間・生活環境は、清潔で遊びのない空間 >8、学校は安定しており、批判精神は育たないが、エリート意識は掻き立てられる 一種の麻痺状態ですね。多くは無感覚、無感動、一部のエリートだけがぐんぐん突出していく。教師の個性によってはこのようなクラスもあり得ますね。 >さて、問題は体感速度20km/h以下の場合です。わたしから言わせると、今回の教育改革の問題点は、この学校に流れる体感速度を20km/h以下に設定しようと言う点に求められます。 >では、文部省が意図しているしていないにかかわらず、20km/h以下の空間は、以下のようなことが考えられます。 > >1、けだるい時間が流れやすい >2、自分を振り返るより、何も考えず、退嬰的気分になりやすい >※自分を振り返るためには、何かに夢中になる経験が不可欠。この経験がないと、真剣に悩まない。何かに夢中になるためには、【鍛錬】が必須条件。今回の改革は、体感速度が遅すぎて、逆に【精神の弛緩】を招く危険性が高い。 >3、競争意識が薄れる。過度な競争意識は、鼻持ちならないエリート意識を掻き立てるが、健全な競争意識は、人間を育てる。今回の改革は、子供の成長にとって不可欠な【競争意識】をなくす可能性がある。 確かに針がやや振れすぎた感はあります。また、揺り戻しが来るでしょう。 どちらに振れるにしても行き過ぎると良いことはないですね。 >■【競争意識】→「俺は人とは違う」という意識は、自我の確立には必須条件。この【違う】ということを確認するために競争意識が起きる。人間にとって【競争意識】というのは、本能に近い。この本能に近い競争意識をなくすことは、集団を【退嬰的傾向】に導きやすい。大人や教師の仕事は、この【競争意識】をどのように制御するかを考えることです。 過度の競争をあおるか、競争意識を完全に否定するかどちらかではなく、競争意識をどのように個人の成長につなげていくかが大事なようですね。 あまりこれまで言われてこなかった視点ですね。 私もあまり考えたことはありません。 ただ、競争を楽しむのは子供は好きですから、学習の中に組み込むことはよくあります。 競争本能を満足させるのは必要なことだと思います。 しかし、学習の中心は好奇心だと私は思っています。 好奇心から出発して夢中で学習に取り組ませることがメーンだと思います。 そういう場合は競争意識は影に隠れてしまいます。 >このように考えると、体感速度の問題は、きわめて重要な問題であることが理解されると思います。わたしのいう【環境醸成】とは、この体感速度20km/hの空間構成・環境構成・生活時間構成を如何にするかということを意味します。 >【集団の変容】には、この視点が不可欠なものであることが理解していただけると思います。 数字がイメージを助けますね。体感速度、今何キロ?と時々自問してみることにします。 |
▼団塊党さん: 今日は、先日述べた各象限の詳細について、書いてみます。 まず、【枠】の問題について。 この【枠】の設定も、きわめて抽象的なもので、具体的な事例一つ一つにどう当てはめるかは、各教師の考え方で変わると思います。 ここでは、わたしが自分の学年団や子供たちに説明していたことを書いて見ます。 ◆【獲得の自由】⇒これは、例えば100点を取りたいとか、サッカーがうまくなりたいとか、もっとお小遣いが欲しいとか、金持ちになりたいとか、偉くなりたいとか、もっと【自由】になりたいなど人間の「夢・希望・欲望」を実現したいと思う積極的な意欲をさします。これに、何の【枠】が必要か、ということですが、例えば、「100点をとりたい」といっても、それが自己目的化すると、そのためには手段を選ばないという考え方になり、極端な場合、カンニングをしてもかまわない、ということになります。それは、駄目だよ、というのが【枠】です。 そうではなくて、【100点を取りたい】という夢を獲得するためには、何をどのようにすればよいかを考え、実行し、努力する過程を大切にする考え方を提示してやることが、この【枠】を子供たちに【感得】(※この言葉が重要。理解ではなくて、身体で感じ納得できること)させることになります。 ◆【抵抗の自由】⇒自我が目覚めるにつれ、子供たちは理不尽なこと、納得できないこと、自分を束縛するようなことに【抵抗】します。逆に考えれば、【抵抗心】を表すことは、子供たちの成長の証しです。 しかし、【抵抗心】を表すにも方法があります。例えば、授業でじっとしているのが厭だといっても、自由に教室を飛び出たり、立ち歩いたり、大声を出して騒いだりすることは認められません。【周りに迷惑をかける】というのが、常識ですし、教師もそのように叱ります。しかし、わたしのいう【枠】を感得させるには、それでは充分ではありません。 このような行為が、自分を傷つける行為(自傷行為)になる、ということをくどいほど語りこむ必要があります。 わたしは【三方大損理論】で子供に語っていました。 ※まず、自分は勉強が分からなくなる。教師に叱られる。親に叱られ、大損。 ※教師は叱らなければならないので、気分が悪くなり大損。 ※クラスの仲間は、勉強が中断するので大損。教師が非常に怒ったり、ご機嫌が悪くなり、とばっちりが自分たちにくるので大損。 【このような子供たちが「自分を駄目にする行為」は、先生は我慢できない。だから、厳しく叱る】という原則を示すことをしていました。【枠】を常に子供たちに具体的事柄を通じて、感得させなければ、枠の意味をなさないのです。 ◆【無為の自由】⇒【無気力】【無感動】【無反省】【無意志】など生きる意志をなくしたような子供が増えているのが、現在の教室の特徴でしょう。この状態を続ければ、それこそ【無能力】のレッテルを貼られてしまい、社会から脱落してしまうことが目に見えているのに、どうすることもできないという悩みを抱えている教師も多い。 教師一人の努力ではこれを矯正することはかなり困難です。【枠】という意味で言えば、これこそ【自分を駄目にする行為の典型】という意味での指導をしても、効果は少ないのです。 ここで前にいった、【集団の同調圧力】を行使すると意外と効果があります。具体的にいうと、【遊びの組織化】を図るのです。わたしは、自分のクラスの子供とよく【遊び】ました。例えば、日曜日に自転車で石器を拾いにいったり、古墳を見て歩きます。(わたしの県は、古墳がたくさんあります)クラスの指導部に企画・実施・ルール作りなど全てを任します。そうすると、いやいやながらでも、上記の子供も参加します。はじめはいやいやながら参加していても、徐々に子供本来の持っている【体内エネルギー】がよみがえってきます。そのうちに、わたしのいう【自分を駄目にする行為】の意味に自分で気が付いてくるケースがあります。 これは、教師の指導力などより、クラスの友達との【共生感】を培うことのほうがはるかに効果があります。 ※ただし、初期段階では企画、運営を担当するクラスの指導部に教師の意図をしっかりと語りこんでおく必要があります。 ◆【遵法の自由】⇒これに何の枠が必要か、という反論が返ってきそうですが、そうではないのです。 わたしのクラス・学年では、自分たちの生活上のルール・約束事などは、自分たちですべて決めていました。 例えば、給食当番で考えて見ます。服装などは、学校の規則がありますから、これは変更できません。(変更の方法・手順は教えます) では、何を決めるか、というと、まず給食時間はどうしたいか、という子供たちの希望を調査します。わたしのクラスでは、【楽しく食べたい】【昼の休み時間にしっかり遊びたいから、できるだけ給食を早く終わりたい】などという希望がでていました。ところが、4時間目の終了時間は12時40分、給食の終わる時間は、1時15分前までは教室を出てはいけないという学校の規則があります。 この制約の中で、上記の希望をどう満足するか、という課題を考えさせます。そうすると、以下のようなルールが作られました。 1、給食準備を早くする※そのためには、当番は、4校時目は給食衣をもって教室移動をする。(中学校は教室移動がある)着替えを早くする。当番の勉強道具は、当番以外のものが持ってやる。 2、当番以外のものは、12時45分までには、自分の教室に入る 3、当番が給食を持って帰ったら、すぐ配膳をする 4、12時50分までには、給食を食べはじめる 5、給食は班で食べる 6、1時10分過ぎには、後片付けをする。※1時15分がきたら当番はすぐ後片付けができるように準備できている ここで、わたしが意図していたのは、ただ学校の規則だから守れという【遵法精神】の押し付けではなく、この時間設定の中で如何に知恵を働かせて、自分たちの希望を実現していくか、というスキルを育てることです。 ここでは、学校の規則が明確に【枠】として子供たちに意識されています。このような【枠】という意識を持つことが重要なのです。 ちなみに、わたしのクラスの給食の準備はどこよりも早く、どこよりも残菜が少なく、どこよりも後片付けがきちんとできていて、どこよりも早く教室を出て外で遊んでいました。これは、わたしの信念なのですが、給食時間は、必ず教室にいるということを原則にしていました。子供たちの【食】のあり方がきちんと把握できなくては、子供一人一人に即した指導などできるわけがない、というのがわたしの信念でした。 ついでに書きますと、【牛乳】の飲み残しや残菜がたくさん出るクラスや学年は、 問題行動が多い、というのが経験からくるわたしの法則です。 |
▼流水さん: >◆【獲得の自由】⇒これは・・・などの人間の「夢・希望・欲望」を実現したいと思う積極的な意欲をさします。・・・という夢を獲得するためには、何をどのようにすればよいかを考え、実行し、努力する過程を大切にする考え方を提示してやることが、この【枠】を子供たちに【感得】(※この言葉が重要。理解ではなくて、身体で感じ納得できること)させることになります。 私は、「生き生き」や「好奇心」の獲得を例に挙げたいと思います。 昨日もちょっと書きましたが、子供は「生き生き」として「好奇心に満ちた状態」が一番本来の姿ではないかと思います。 この状態を獲得できれば、もう後は何もなくても子供は育っていくのではないかと思うほどです。 そのためには、やはり授業が一番です。 授業で「生き生き」や「好奇心」を獲得させるのが一番効果が大きいでしょう。 一人学習では獲得できないものを、授業では獲得できます。 授業の子供に作用する力は年を経るたびに大きく強く感じるようになりました。 では子供が生き生きと好奇心に満ちた学習を獲得するために何が必要でしょうか。 もちろん、一番のキーポイントは教師自身の生き生きとした好奇心でしょう。 大村はまは同じ教材は二度と使わなかったそうですが、それはここに理由があります。 それから昨日の体感速度もポイントでしょう。 あまりにもテンポが緩かったり速かったりすれば生き生きさはすぐにしぼみます。 その他上げればきりがありません。 でも、これらは「枠」というより教師側の「条件」です。 では「枠」は何か。 子供が「生き生き」「好奇心」を獲得するためには子供自身にどんな枠が必要か。 キーポイントを一つだけあげれば、「受容」する構えでしょうか。 「聞いて学ぶ」「見て学ぶ」「さわって学ぶ」「調べて学ぶ」、周りのあらゆるものから学ぼう、吸収しようとするどん欲さでしょうか。 「生き生き」している子には必ずこの構えがあるように思います。 この構えが育つには、流水さんが仰るように、体感させるしかないでしょう。 学ぶ経験をして、その楽しさを芯から納得させるしかありません。 >◆【抵抗の自由】⇒・・・【抵抗心】を表すにも方法があります。例えば、授業でじっとしているのが厭だといっても、自由に教室を飛び出たり、立ち歩いたり、大声を出して騒いだりすることは認められません。【周りに迷惑をかける】というのが、常識ですし、教師もそのように叱ります。しかし、わたしのいう【枠】を感得させるには、それでは充分ではありません。 > >このような行為が、自分を傷つける行為(自傷行為)になる、ということをくどいほど語りこむ必要があります。 >わたしは【三方大損理論】で子供に語っていました。 理論に名前をつけるところが面白いですね。 子供達も面白く聞いてくれそうですね。 子供が大きくなるほど、この抵抗心が強くなり、中学の先生も大変でしょう。 >◆【無為の自由】】⇒【無気力】【無感動】【無反省】【無意志】など生きる意志をなくしたような子供が増えているのが、現在の教室の特徴でしょう。 >・・・ >ここで前にいった、【集団の同調圧力】を行使すると意外と効果があります。具体的にいうと、【遊びの組織化】を図るのです。 ・・・・・・ >これは、教師の指導力などより、クラスの友達との【共生感】を培うことのほうがはるかに効果があります。 私もクラスがどうも重たいなと感じたときには、やはり遊ばせます。 小学生は遊びで問題の多くは解決します。 特に戸外で体をふれ合うような遊びを多くします。 それから、教室の雰囲気を変えたり、新鮮な話題を持ち込んでみたりします。 (子供は新鮮さや目先の変わったことにはすぐに飛びつきます) >◆【遵法の自由】⇒・・・ここで、わたしが意図していたのは、ただ学校の規則だから守れという【遵法精神】の押し付けではなく、この時間設定の中で如何に知恵を働かせて、自分たちの希望を実現していくか、というスキルを育てることです。 >ここでは、学校の規則が明確に【枠】として子供たちに意識されています。このような【枠】という意識を持つことが重要なのです。 ここに流水さん独自の方法論がありますね。 校則という枠を意識させながら、それを最大限に活用して子供の知恵を引き出しています。 これは学校生活に限らず、世の中を生きぬいていくための知恵です。 人生には必ず枠があります。 その枠を逆用して、自分の生きるバネにさせている。 すばらしい実践だと思います。 |
▼団塊党さん: >私は、「生き生き」や「好奇心」の獲得を例に挙げたいと思います。 >昨日もちょっと書きましたが、子供は「生き生き」として「好奇心に満ちた状態」が一番本来の姿ではないかと思います。 >この状態を獲得できれば、もう後は何もなくても子供は育っていくのではないかと思うほどです。 【生き生き】【好奇心】重要な言葉ですね。この言葉に敏感に反応できる教師は、小学校の方が多いと思います。 中学校は、すでにそれすら奪われた子供が多いのです。小中の差は、このあたりにありそうですね。 > そのためには、やはり授業が一番です。 >授業で「生き生き」や「好奇心」を獲得させるのが一番効果が大きいでしょう。 >一人学習では獲得できないものを、授業では獲得できます。 >授業の子供に作用する力は年を経るたびに大きく強く感じるようになりました。 わたしは、教師生活の中で、自分が満足できた授業は、2回ほどあります。その一つは、道徳の校内研究授業です。わたしの担任していた校内一の問題児Aを授業の主役にしたのです。教材は、太宰治の「駆け込み訴え」を使いました。これは、キリストをローマに売った裏切り者のユダを主人公にした小説です。 授業の前半は、これを題材にして、後半はAの作文を題材にしました。 彼がなぜ荒れたのか、なぜ問題行動を繰り返したのか、彼はとつとつとした言葉で自分の書いた原稿を読んだのです。 彼が読み終えると、子供たちが次々に発言を始めました。Aが勇気を持って自分の気持ちを告白したことに対する感動がそうさせました。授業の終わり5分間は、子供たちの泣き声で埋まりました。参観にきていた校長は、たまらず教壇に飛び出て、Aの勇気をたたえ、クラスの子供たちのAに対する友情をたたえました。 この授業を契機に、Aの荒れはじょじょに治まり、卒業後就職のため都会へ旅立つAをクラスの大半が駅頭に見送り、Aは涙で顔をくしやくしゃにして、皆に「ありがとう」「ありがとう」を繰り返して、感謝していました。 わたしにとっては、この授業は今でも忘れられません。この授業をするために、連日深夜までAの家に家庭訪問をし、親の説得をし、原稿を何度推敲したか。 Aにとっては、この授業はそれこそ清水の舞台から飛び降りるような、自分の人生を変える一時間だったのです。 正直に語りますと、これは研究授業でもなんでもなかったのですが、わたしが校長や学年団の先生方に無理やりお願いして研究授業の形にしてもらったのです。 その時、たった一時間の授業が、子供の人生を変えることもあるのだ、ということをしみじみ感じました。 団塊党さんが授業の大切さを語られるのは、痛いほど理解できます。 > >>では「枠」は何か。 >子供が「生き生き」「好奇心」を獲得するためには子供自身にどんな枠が必要か。 >キーポイントを一つだけあげれば、「受容」する構えでしょうか。 >「聞いて学ぶ」「見て学ぶ」「さわって学ぶ」「調べて学ぶ」、周りのあらゆるものから学ぼう、吸収しようとするどん欲さでしょうか。 >「生き生き」している子には必ずこの構えがあるように思います。 >この構えが育つには、流水さんが仰るように、体感させるしかないでしょう。 >学ぶ経験をして、その楽しさを芯から納得させるしかありません。 これは、わたしの考えている【枠】とは少し異なりますが、言われていることはよく理解できます。 |
▼流水さん: >【生き生き】【好奇心】重要な言葉ですね。この言葉に敏感に反応できる教師は、小学校の方が多いと思います。 >中学校は、すでにそれすら奪われた子供が多いのです。小中の差は、このあたりにありそうですね。 学校に様々な要求が突きつけられています。 中でも、もっと学力を!もっと社会性や道徳心を!の声は一際大きくなっています。 でも、もっと生き生きした子供にしろとはあまり聞きません。 私はこれが不思議です。 「生き生き」や「好奇心」がベースにあれば(流水さんの仰る「獲得の自由」はそれを包含したより広い概念ですね。)子供は何でも吸収していこうとします。 知識や知恵や道徳心もうるさく言わなくとも身につけていきます。 そして自分の個性に応じた育ち方をしていくと思います。 もちろん、これを実践するとなると並大抵ではありません。 私もいつも反省することばかりです。 中学になるとさらに難しくなる事情がいくつもあるでしょうが、基本的にはこの問題を解決するしか現状の打開はないと思います。 教育改革や教育制度ももう一度この原点に立ち返って考えていくべきではないでしょうか。 >わたしは、教師生活の中で、自分が満足できた授業は、2回ほどあります。 ・・・・ >その時、たった一時間の授業が、子供の人生を変えることもあるのだ、ということをしみじみ感じました。 子供を心の底から揺り動かすような授業は、本当に難しいですね。 私にはまだ上に仰ったような感動的な授業は残念ながら1度もありません。 しかし、子供も教師も小さなささやかな喜び、満足感の持てる授業は週に数回程度はできるようになってきました。 この積み重ねが「生き生き」「好奇心」をつくると思っています。 >>「生き生き」している子には必ずこの構えが(受容の構えが)あるように思います。 >>この構えが育つには、流水さんが仰るように、体感させるしかないでしょう。 >>学ぶ経験をして、その楽しさを芯から納得させるしかありません。 > >これは、わたしの考えている【枠】とは少し異なりますが、言われていることはよく理解できます。 この点についてもよろしかったら教えてください。 |
▼団塊党さん: あなたがおっしゃる【生き生き】【好奇心】は、現在の子供に一番欠けているところです。 わたしもずいぶん考えました。自然教室(一年時、国立自然の家。2年時、登山)に連れて行ったとき、わたしは、生徒を外に連れ出して、怪談話をするのが常でした。 漆黒の闇の中で、ろうそくの火一本だけつけて、怪談話をするのです。子供たちはこれが大好きでした。わたしも落語の語り口を勉強し、かなり脚色もして、語ったものです。 ここで、分かったことは、【闇】の持つ神秘的な力です。何もかも吸い込んでしまうような【闇】の中では、子供たちは【素】のままの自分に帰ります。 夜の山道を歩いていると、夜空に木々が墨絵のように見えます。木々を揺らす風の音、一人で歩いていると足音がこだまして、誰かが後ろからついてくるように思え、止まると足音も止まる、夜の山々は様々な音に満ちています。 なんとも形容しがたい心細さ、自分が本当に小さな存在に感じられる瞬間です。 この中で、怪談話をすると、子供たちは本当に怖がります。そのために、怪談をする場所まで、必ず山道を生徒たちに歩かせます。 子供たちはわたしの意図など知ったことではないのですが、本当に素直になります。 現代は【闇】が消えつつある時代です。【光】と【闇】というのは、すべてに通じるものです。社会の光と闇、人間の光と闇。このすべてを【光】で満たそう、というのは、人間の【願い】でもあったのでしょう。今や、【夜】の都会は、人工の光に満ちています。 しかし、これは人間の傲慢さの象徴でもあるのです。光と闇は自然の摂理です。この自然の摂理に挑み続けた人間の営みの【影】の部分が、子供たちに投影され、【生き生き】【好奇心】とかという子供一人一人が本来的に持っているものが失われつつあるのです。 上でのわたしの試みなど、かっては誰も意識しないでも身についたものです。その条件が失われてしまったからこそ、意図的に行わなければならなくなったのでしょう。 落語の格言に【一声、二節、三色】というものがあります。 たった一枚の座布団の上で、聴衆を魅了する為に磨き上げられた【芸】の秘密がこの格言にあります。 【声】とは、文字通り声そのものを意味すします。人間の声は不思議なもので、声そのものに【人間性】そのものが反映するのです。 【節】とは、話芸つまり技術を意味します。これは時代とともに進歩します。一流とされた落語家の持つ【芸】の種類は、時代と共に過去の名人・上手をはるかに凌駕しているはずです。 理由は簡単で、【芸】は蓄積がきくからです。 【色】というのは、艶おいってもよいのですが、魅力、個性とでもいうべきものです。 団塊党さんのいわれる【授業】の中での教師の資質に共通するものがあります。 現代の教師は、【節】は素晴らしい。昔の教師などに比べても、格段の差があると思います。 ところが、【声】は蓄積が効きません。自分で磨く以外にないのです。教師の盲点でもあるのですが、自分の声が子供たちにどう届いているかという【複眼的視点】を持つ必要があるのだと思います。 最後の【色】ですが、授業には【艶】が必要です。一般的な言葉でいえば【魅力】でしょうが、わたしはもう一つ【深い】ものが必要だと思います。 落語の舞台と違って、授業は毎日毎日同じ子供(観客)を相手にしなければなりません。うけを狙ったパフォーマンスは長続きしないのです。 つまり、子供たちが、毎日新しい発見ができるわくわくするような感動と、同じ日常が続けられる(家庭のような)【安心感】がにじみ出ている授業が共存しなければならないのです。 これは、教師の生きる姿勢、感性、これまでの人生そのものが、トータルとして表現されなければならないのです。そうでなければ【艶】のある授業などできっこないのです。 |
▼流水さん: >あなたがおっしゃる【生き生き】【好奇心】は、現在の子供に一番欠けているところです。 繰り返しになりますが、これが今の教育問題の根本にあると思っています。 >わたしもずいぶん考えました。自然教室(一年時、国立自然の家。2年時、登山)に連れて行ったとき、わたしは、生徒を外に連れ出して、怪談話をするのが常でした。 >漆黒の闇の中で、ろうそくの火一本だけつけて、怪談話をするのです。子供たちはこれが大好きでした。わたしも落語の語り口を勉強し、かなり脚色もして、語ったものです。 落語の語り口まで勉強されたと言うところが流水さんらしいですね。 私も落語は好きで、ラジオを子どもに聞かせたこともあります。さすがに失敗しましたが・・・ >現代は【闇】が消えつつある時代です。【光】と【闇】というのは、すべてに通じるものです。社会の光と闇、人間の光と闇。このすべてを【光】で満たそう、というのは、人間の【願い】でもあったのでしょう。今や、【夜】の都会は、人工の光に満ちています。 まったくそうですね。闇の体験は無くなりました。 意図的に作るしかありません。 怪談話もその一つですね。私もよくやります。 夕立の直前、空が暗くなったら絶好のチャンスです。 カーテンを閉めたりして、お得意のやつをやります。 若い頃、夜の満月を天体望遠鏡で見る会をやったことがありますが、これもややそうですね。 学校の屋上ですから本来の闇とは言えませんが。 >落語の格言に【一声、二節、三色】というものがあります。 ・・・ >現代の教師は、【節】は素晴らしい。昔の教師などに比べても、格段の差があると思います。 私はあまりそうは思いません。 研究授業を観ても、昔の教師達の授業が見応えがあったような気がするのですが・・・ >ところが、【声】は蓄積が効きません。自分で磨く以外にないのです。教師の盲点でもあるのですが、自分の声が子供たちにどう届いているかという【複眼的視点】を持つ必要があるのだと思います。 私は自分の声がちゃんと届いていないのではないかと悩んだこともありますが、脱力と間を覚えてからは、楽になりました。 若い頃は力んで大声で話していましたね。 やっと子供に語りかけることが出来るようになりました。 >最後の【色】ですが、授業には【艶】が必要です。一般的な言葉でいえば【魅力】でしょうが、わたしはもう一つ【深い】ものが必要だと思います。 >落語の舞台と違って、授業は毎日毎日同じ子供(観客)を相手にしなければなりません。うけを狙ったパフォーマンスは長続きしないのです。 >つまり、子供たちが、毎日新しい発見ができるわくわくするような感動と、同じ日常が続けられる(家庭のような)【安心感】がにじみ出ている授業が共存しなければならないのです。 >これは、教師の生きる姿勢、感性、これまでの人生そのものが、トータルとして表現されなければならないのです。そうでなければ【艶】のある授業などできっこないのです。 これはもう一朝一夕にはできないことですね。 私の場合は、自分自身が新鮮さと好奇心(教材に対しても子供に対しても)を持って子供と一緒になって学習していくこと、それしか考えていません。 それともう一つ、余裕を持つことです。 つまり、こちらに充分な材料があると言うことです。 ユーモアの一つ二つ出るような状態でないと面白くないですね。 子供達は席に縛り付けられているのですから。 それが「安心感」にもなるかなと思います。 |
▼団塊党さん: >>現代の教師は、【節】は素晴らしい。昔の教師などに比べても、格段の差があると思います。 > >私はあまりそうは思いません。 >研究授業を観ても、昔の教師達の授業が見応えがあったような気がするのですが・・・ これはわたしの経験からそういっているので、一般的ではないですね。わたしの学年に配属された若い女の先生の成長をみていて、そう思ったのです。彼女は、最初は、もう教師を止めようかと悩んでいました。わたしも何度か彼女の悩みを聞きました。それから、彼女は空き時間、わたしの授業を何度も見にきました。学級活動にも何度もきました。一年ほどたって、彼女の授業を見たとき、彼女の成長に目を見張りました。彼女の授業スタイルが、確立されつつあるのが、手にとるように分かりました。 【若い人は素晴らしい】とつくづく感じました。それが、忘れられなかったのです。 >私は自分の声がちゃんと届いていないのではないかと悩んだこともありますが、脱力と間を覚えてからは、楽になりました。 >若い頃は力んで大声で話していましたね。 >やっと子供に語りかけることが出来るようになりました。 舞台でいう【つかみ】ができるようになるまでは、時間がかかりますね。【間】のとり方は、個性がありますが、意識しないで絶妙な【間】がとれる教師は、本当に少ないと思います。 【手に言葉をつける】というのが、教師の語りの基本です。落語家が持つ扇子ではないですが、教師にとって【手】をどう使うかは非常に重要です。 子供の顔を見て、身振りをつけて語りかける、このとき【手】の上、【指の先】に言葉をのせて手渡してやる感覚が必要です。 |
▼団塊党さん: 少し、話がずれたので、本題に戻します。 【集団と個人の関係の原則論】=わたしのイメージする集団と個人の関係 ◆集団と個人は、原則的に【等価関係】にある。 ◆創造性=個性 集団(個人の貢献)⇔個人(集団が保証) ◆原則的に全てを公開の場で決定・決定への参加・情報公開 集団(個人の知恵の吸収)⇔個人(満足感を得る) ◆人権の保証 集団(団結心が増す)⇔個人(共生感を得る) これは、原則論で、理想論だといわれればそうですが、【理想】のないところに方法論も生まれなければ、工夫も知恵も生まれません。その意味で、この理想の追求をしてきたのです。 では、このような集団を生み出すにはどうするか、の基本的考え方を説明します。 わたしは、その中心に【安心できる学校・学年・学級】という理念を掲げていました。 では、子供たちにとって、【安心できる学校・学級空間】とは、何かですが、以下のようなことが考えられます。 1.とにかくクラスが楽しい。長い休みが邪魔、毎日、学校へ行きたい。 2.誰もが安心してものが言える。自分の発言を真剣に聞いてくれる 3.クラスにボスがいない。みんな平等に扱われている 4.勉強が得意でなくても、馬鹿にされない 5.話し合いで物事が決定され、個人のわがままは否定されている 6.授業時間はきちんと勉強できる 7.行事に対してクラスみんなで燃えることができる 8.不正に対して注意したり抗議できる雰囲気がある(弱者が安心できる) 9.自分の悩みが打ち明けられる仲間がいる 10.誰もが仕事(ノルマ意識で無い)を持ち、参加している実感がある これは、わたしの学年・学級の子供たちにとったアンケートをまとめたものですが、そんなには、ずれていないと思います。ただ、小学校と中学校では、比重が違うと思います。 この【安心できる学校・学年・学級空間】を創りだすために何をどう育てればよいかが問題になります。 わたしは、これを図表にしているのですが、ここでは無理ですので、頭の中で図表を描いてください。 【育てるべきもの】 ◆【待つ力】→結果を急ぎすぎるのが、子供の特徴です。じっと我慢して【待つ力】を育てる必要があります。→【スキルの育成】につながる ◆【自律・自立能力】→(私流の定義);「自分の生活を客観的に認識する力」が自立精神の基本。これをどのように培うか。 ◆【自立能力】を培う→【自治能力を育てる】※クラスの目標 ◆【自己表現能力】→・身体的能力・自分を語れる力・体育的技能・芸術的技能 ・自分を表現する感性の練磨 ※これらを表現できる【場】を保証することが重要 ◆【要求する力】の育成→自分の思いをきちんと表現できる力を養うことにより、育成する ※この力の育成は、子供たちを【能動的】にするために不可欠の要素。教師がどれだけ、これを受け入れる度量があるかどうかが、鍵になる ◆【考える力】を育てる→【何故を問う心】を育てる ※これも、教師の答えが育成の鍵になる ◆【想像力】の育成→他者の痛みが分かるためには、自分の痛みをきちんと認識し、それを表現できる力が必要になる。つまり、他者の痛みが分かる想像力を養うことは、自分を知るということと同義である。 ◆【実践力】→自分の思いを口に出し、実行するための【スキル】の育成が重要。 このための具体的で多様なな方策を教師は持っておかなければならない。 ◆【耐える力】の育成→・身体的苦痛・精神的苦痛などを耐える力を養う必要がある→子供が大きく成長するためには、【鍛錬】が必要。教師は、子供たちをどのように具体的に【鍛錬】するかの多様なメニューを持つ必要がある ◆【人権感覚の育成】→日常生活の感覚を研ぎ澄まし、具体的な生活のひとこまひとこまで、人権侵害を許さない感覚を養う必要がある 【集団意識の変容】を図るためには、上記の能力を育てる必要があります。もちろん、子供の資質、能力、学校の雰囲気などで、臨機応変に重点を変える必要はありますが、基本的には上記の能力を育てる必要があります。 これを、どのように【目的意識的】に追及できるかで、クラスはまるで違ってきます。 教師は、毎日毎日の指導で、常に上記の目標の何を育てているのかをきちんと測る必要があります。そうしなければ、具体的な点数で表示できないこれらの価値感を自分で評価できないのです。評価できないからこそ、育てられないのです。 |
▼流水さん: >【集団と個人の関係の原則論】=わたしのイメージする集団と個人の関係 >◆集団と個人は、原則的に【等価関係】にある。 >◆創造性=個性 集団(個人の貢献)⇔個人(集団が保証) >◆原則的に全てを公開の場で決定・決定への参加・情報公開 > 集団(個人の知恵の吸収)⇔個人(満足感を得る) >◆人権の保証 集団(団結心が増す)⇔個人(共生感を得る) > >これは、原則論で、理想論だといわれればそうですが、【理想】のないところに方法論も生まれなければ、工夫も知恵も生まれません。その意味で、この理想の追求をしてきたのです。 集団の中で個人が保障され、個人の意見が大切にされ、共生感が得られる、一方、個人も集団に貢献していかなければそのような集団は持続できない、このような関係は確かに理想的です。 理想があって方法論が生まれると言うこともその通りだと思います。 >では、このような集団を生み出すにはどうするか、の基本的考え方を説明します。 >わたしは、その中心に【安心できる学校・学年・学級】という理念を掲げていました。 >では、子供たちにとって、【安心できる学校・学級空間】とは、何かですが、以下のようなことが考えられます。 >1.とにかくクラスが楽しい。長い休みが邪魔、毎日、学校へ行きたい。 >2.誰もが安心してものが言える。自分の発言を真剣に聞いてくれる >3.クラスにボスがいない。みんな平等に扱われている >4.勉強が得意でなくても、馬鹿にされない >5.話し合いで物事が決定され、個人のわがままは否定されている >6.授業時間はきちんと勉強できる >7.行事に対してクラスみんなで燃えることができる >8.不正に対して注意したり抗議できる雰囲気がある(弱者が安心できる) >9.自分の悩みが打ち明けられる仲間がいる >10.誰もが仕事(ノルマ意識で無い)を持ち、参加している実感がある 小学校でもこのどれもが安心できるために無くてはならないことです。 ほとんどすべてが入っていますね。 これが子供達のアンケートから出てくるなんて素晴らしいですね。 >この【安心できる学校・学年・学級空間】を創りだすために何をどう育てればよいかが問題になります。 >わたしは、これを図表にしているのですが、ここでは無理ですので、頭の中で図表を描いてください。 > >【育てるべきもの】 >◆【待つ力】→結果を急ぎすぎるのが、子供の特徴です。じっと我慢して【待つ力】を育てる必要があります。→【スキルの育成】につながる >◆【自律・自立能力】→(私流の定義);「自分の生活を客観的に認識する力」が自立精神の基本。これをどのように培うか。 >◆【自立能力】を培う→【自治能力を育てる】※クラスの目標 > >◆【自己表現能力】→・身体的能力・自分を語れる力・体育的技能・芸術的技能 >・自分を表現する感性の練磨 ※これらを表現できる【場】を保証することが重要 >◆【要求する力】の育成→自分の思いをきちんと表現できる力を養うことにより、育成する ※この力の育成は、子供たちを【能動的】にするために不可欠の要素。教師がどれだけ、これを受け入れる度量があるかどうかが、鍵になる >◆【考える力】を育てる→【何故を問う心】を育てる ※これも、教師の答えが育成の鍵になる >◆【想像力】の育成→他者の痛みが分かるためには、自分の痛みをきちんと認識し、それを表現できる力が必要になる。つまり、他者の痛みが分かる想像力を養うことは、自分を知るということと同義である。 > >◆【実践力】→自分の思いを口に出し、実行するための【スキル】の育成が重要。 >このための具体的で多様なな方策を教師は持っておかなければならない。 >◆【耐える力】の育成→・身体的苦痛・精神的苦痛などを耐える力を養う必要がある→子供が大きく成長するためには、【鍛錬】が必要。教師は、子供たちをどのように具体的に【鍛錬】するかの多様なメニューを持つ必要がある >◆【人権感覚の育成】→日常生活の感覚を研ぎ澄まし、具体的な生活のひとこまひとこまで、人権侵害を許さない感覚を養う必要がある > >【集団意識の変容】を図るためには、上記の能力を育てる必要があります。もちろん、子供の資質、能力、学校の雰囲気などで、臨機応変に重点を変える必要はありますが、基本的には上記の能力を育てる必要があります。 >これを、どのように【目的意識的】に追及できるかで、クラスはまるで違ってきます。 >教師は、毎日毎日の指導で、常に上記の目標の何を育てているのかをきちんと測る必要があります。そうしなければ、具体的な点数で表示できないこれらの価値感を自分で評価できないのです。評価できないからこそ、育てられないのです。 上記の育てる力はどれも納得のいくものばかりです。 これらを私の場合は目的意識的にではなく、子供の中に出てきた具体的な状況に応じてその場その場で指導しています。 ある意味で行き当たりばったり出たとこ勝負です。 それに対して流水さんの場合は意図的、計画的にされているように見えます。 この辺をもう少し説明していただけないでしょうか。 どのような計画や活動を通して、どのように指導されているのでしょうか。 |
▼団塊党さん: >それに対して流水さんの場合は意図的、計画的にされているように見えます。 >この辺をもう少し説明していただけないでしょうか。 >どのような計画や活動を通して、どのように指導されているのでしょうか。 この問題については、わたしは【生徒育成プログラム】を作っていました。そのための前提として、まず一般的な中学校の「学年論」が必要になります。同時に、その学年・学級の特性、子供たちの特性を加味し、学年団の教師の構成を加味します。 【学年論】 ◆一学年→1.自分の属している社会と異なる社会と直面する時代2.牧歌的共同社会→競争原理が支配する社会への加入3.自分の姿が不透明で見えなくなる時代への入り口→自分とは何かを悩む時代への入り口(前期青春時代への入り口)4.行動半径拡大の時代→部活動・塾・遊び・友人関係全てに行動半径拡大(社会性拡大の入り口)5.教科・部活動全てにわたり、専門的要素が高まる時代 ◆二学年 【希望的側面】1.心身とも大きく成長する学年2.物事を論理的に考えることができ、たいていのことは任せることができる3.3学年の中で物事にもっとも積極的に取り組むことができる学年 【現実的側面】1.中だるみの学年2.非行・いじめ・不登校が起き易い学年3.自分に見切りをつける生徒が出現しやすい学年4.親・教師の関心が薄れやすい学年で、惰性に流されやすい ◆三学年 【希望的側面】 1.全校のリーダー学年2.生徒会・部活動など全てにわたり先頭にたって活動する 3.進路決定の学年→自分自身を真剣に考え、何事にも真剣に取り組む 【現実的側面】 1.分裂の学年→進路・学習による集団の分裂が起き易い2.自分に見切りをつけ、諦める子供が多く出る3.非行・問題行動が出やすい心理状況になる 一般論として、上記のような学年の特性を考慮し、自分の学年・学級の分析を加えて、【生徒育成プログラム】を新学期前に作成します。(※あくまでも、プログラムであって、その後の状況変化、観察などを加えて、柔軟に変更します) 以下のプログラムは、一年生の一つの例です。※本当はかなり詳細に作っていますが、とても書ききれませんので、骨組みだけにとどめます。 4〜5月 【目標】自分を知ってもらい、相手を理解する ・班つくり・委員会活動 6〜7月 【目標】行事を通じて仲間意識を育てる ・話し合い活動の技術の習得 ●【注意点】・異質な仲間の排除・ボスの顕在化・いじめのはじまり ↓ ●話し合い活動の【質的変化】を促す ・学習方法の徹底 ●【人権学習】 9〜10月【目標】自分と仲間の再発見→クラスの団結強化・体育祭への取り組み ●【注意点】退廃的傾向のはじまり(学習・生活)・クラスの分散化傾向 の始まり ↓ ●話し合い活動の緻密化(・問題の所在・解決の具体策・生徒意識の変 容のための方策・どのように実践するか ●人権学習 11月〜12月【目標】みんな勉強が分かりたい・自分を知ろう ●【注意点】あきらめる生徒の出現→勉強ができないことは全てが駄目 だと考える生徒の出現 ↓ ●班活動の質的変化を促進→生活班から学習班へ ●個人指導(学習)の徹底●学習運動の創出 1月〜3月 【目標】自分を成長させて2年生になろう ●話し合い活動の総決算 ●あらゆる活動の総決算をする→2年生への準備 おおまかに書けば、このような骨組みです。この一つ一つの活動について、さらに詳細なプログラムをつくり、実践していました。 |
▼流水さん: >おおまかに書けば、このような骨組みです。この一つ一つの活動について、さらに詳細なプログラムをつくり、実践していました。 大変に綿密なプログラムが流水さんの中にあることが分かりました。 しかも、決して固定的でなく実践の中では柔軟にこれを修正していかれたということ。驚きとしか言いようがありません。 要求ばかりで申し訳ありませんが、どれか一つでもピックアップして詳細なプログラムを教えて頂けないでしょうか。 |
>▼流水さん: 流水さんのエネルギーをこのスレッドばかりに消耗させては申し訳ありません。 どうぞゆっくり無理をなさらずにお願いします。 |
▼団塊党さん: >>▼流水さん: > >流水さんのエネルギーをこのスレッドばかりに消耗させては申し訳ありません。 >どうぞゆっくり無理をなさらずにお願いします。 団塊党さん そうです、読んでいるほうが疲れるくらいだから、書くほうはもっと大変ですよ。団塊党さんももっと他にも出て賑やかにして下さい。 なにか来週にもまた軍事関連法案が国会に提出されるようですし、なんかボンボンボンボン法律が通っていってしまうようです、憲法論議なんかそっちのけで…そもそも自衛隊が違憲だということの議論を社会党あたりがまじめにやってこなかったツケです。村山内閣の果たした役割、あとになれば、戦前の翼賛会になぞられることになるやも知れません。 |
▼海幸彦さん: >団塊党さん >そうです、読んでいるほうが疲れるくらいだから、書くほうはもっと大変ですよ。団塊党さんももっと他にも出て賑やかにして下さい。 と言うことは真剣に読んで頂いていたということ、嬉しいですね。 流水さんから吸収できるだけ吸収しようと欲張りになって、ちょっと話が一般の方には難しくなったかもしれません。 でも、良く読んでもらえば教育問題を考える上で本質的で重要な考え方がいくつもちりばめられおり、私のような教育を仕事に選んでしまったものには切実なことばかりなんです。 こんなこと、マスコミや評論家のどこにも書いていないですよ。 疲れるなんて言わないで、熟読してくださいよ。 政治の方も目が離せなくなってきましたが、正直言って、今、仕事が飽和状態です。 一段落したら、また顔を出します。 しばらく、教育スレッド以外は発言を控えています。 |
▼団塊党さん: 少し、お休みしましょうか。 あまり、専門的なことばかり、二人で論議し続けても、まわりの人にご迷惑でしょう。 教師たちは、何にも考えていないのではなく、さまざまなことを考えているのだ、とということを少しは理解してもらいたくて、少々無理をしました。 |
▼流水さん: >少し、お休みしましょうか。 >あまり、専門的なことばかり、二人で論議し続けても、まわりの人にご迷惑でしょう。 私があんまり細かいことを聞いてしまったのが、一般の方には迂遠に聞こえるようですね。 でも私は本質的な議論をするにはある程度現場の細かい話は避けて通れないと思います。 むしろ、現場のことをもっと知ってもらう上でも良かったと思っています。 >教師たちは、何にも考えていないのではなく、さまざまなことを考えているのだ、とということを少しは理解してもらいたくて、少々無理をしました。 ええ、そういう意味でも意義があったと思います。 有り難うございました。 また、いつか機会を見てお願いいたします。 最後に、今朝私がお聞きした点だけはお願いします。 |
▼団塊党さん: >最後に、今朝私がお聞きした点だけはお願いします。 せっかくのお尋ねなので、これが最後ということで、お答えします。何がよいか考えたのですが、担任教師が一番困る【もめごと解決】のための、わたし流の方策についてお話しましょう。 団塊党さんも経験がおありのように、学級内では必ず【もめごと】が起こります。逆にいえば、【揉め事】がない学級などというのは、本当に素晴らしい学級か、それともよほど強圧的な学級運営がなされているか、いずれにしても、通常の学級では考えられないはずです。 これを解決するために、前提として押さえておかなければならないのは、【子供たちの【意識改革】です。 1.人間の集団には必ずもめごとがある 2.もめごとを解決したとき、人間は成長できる 3.人間が起こしたもめごとを人間が解決できないはずがない 4.もめごと解決に特効薬はない。粘り強い話し合いしかないこと 5.自分自身も当事者の気持ちで考える 別に、特別なことではないのですが、上記のことを語りこみ、◆【もめごとから逃げない、嫌がらない精神】が重要であることを強調する。同時に、このことを具体的に目でわかり、耳で理解させるために、最初はわたしがどのようにもめごとを解決するかを見せます。 では、具体的にどのように実践するかですが、以下の手順で行います。 ◆【問題の所在の理解】 1.当人の申告2.班での話し合い3.教師の観察4.第三者の申告5.班長会・プログラム委員会での話し合い ※発見が早いほど解決は容易。問題発見の【目】が大切(そのために、リーダー層の発見の目を鍛える→教師の語りこみ) ◆【教師の判断】 1.当事者間で解決できるか 2.問題の【根】が、当事者だけにあるのかどうか 3.問題を放置しておくと、拡大の恐れがあるかどうか 4.もめごとの内容に「普遍性」があるかどうか 5.問題が子供の隠しておきたいプライバシーに触れるかどうか 6.子供の現状の能力で解決できるかどうか ※これらの条件を勘案して、教師の個人指導か、当事者間の話し合いで解決するか、班会議で解決するか、学級会レベルで解決するかを判断する。 ※会議にかけるとき→当事者間の承諾をとる。皆の考えてくれた解決法に従うという約束もとる必要。 ◆【班会議の話し合いの手順】 1.班長による問題内容の説明 2.当事者の事情説明(本人が説明しにくい時は、事情に詳しい友人か、やむ負えない場合は教師) ※聞く側の受容的態度が重要(これを育てておかなければならない) 3.班員の質疑応答 4.解決法の話し合い(原則→当事者間での解決の手助けという姿勢を堅持)5.うまい解決法が見つからないとき→もう一度考える約束をする ※自分の問題として考える姿勢が重要。(理由)当事者に与える心理的影響→皆が自分たちの問題を真剣に考えてくれている。自分は一人ではないという心情がわいてくる。解決ができるできないより、この【心情】を培えたら成功。 ◆【学級会での話し合い】 もめごとの内容が、個人の領域を越え、学級全体の問題になっている場合(いじめなど) ※提案者の事情説明・議長の問題の本質理解が正否を決める⇒事前の打ち合わせが重要 1.提案理由の説明 2.当事者の説明(友人または事情をよく知るものの補足説明) 3.議長が問題の本質についての説明ー話し合いの方向を示すー 4.当事者などへの質疑応答 5.具体的解決法の話し合い※多角的角度から検討ー議長の手腕が重要 6.解決法の提示 ※ 実践への道筋を具体的に示す⇒全員が参加できる方向性を示すことが重要 7.総括への視点提示⇒成功しなかったときのことも考慮に入れ、柔軟な視点を出す ※ 問題は、実践経過をどのように確認し、評価し、学級の皆に報告するということを必ず行うことにある。そうしないと、やりっぱなしでは、話し合いや実践が流れてしまう。⇒これが、子供たちが【話し合い活動】を疑い、真剣にならなくなる重要なファクターです。 ◆【教師の指導の重点】 1.教師が先頭に立たない ※あくまで【支援】に徹する ※指導の2重性を作り出す 2.当事者・班長・提案者・議長の指導に全力をあげる ・当事者⇒自分の思いを、みなに分かるように自分の言葉で語れるか ・班長、議長⇒問題の本質を把握、多面的な視野による解決法の模索 ★何よりも求められるのは、解決への意欲・信念⇒リーダーとしての自覚 ・提案者⇒問題点の整理、なぜ、皆へ訴えるか、問題解決への意欲 3.プログラム委員会での討議 ・学級会はすぐにはできない。あらかじめ、プログラム委員会などで、真剣に討議し、方向性、多面的な角度からの検証をしておく。 一番重要なことは、もめごと解決などクラスの問題を、自分たちで解決していくということが、子供たち目に見える形で提示されているということです。これが、【子供が主役】という意識を育て、これが【自立意識】につながり、【自治能力】を高めていきます。 最後に、ここに書いてあることは、教師なら誰でも知っていることですが、これをどのように組み合わせ、どのような精神で行うかが、ポイントになります。 |
▼流水さん: 有り難うございます。 すみずみまで、考え抜かれており驚嘆の一語です。 急ぎの用がありますので、今日はこれで失礼します。 明日または明後日にでも、今回学んだことの整理の意味も含めてお返事します。 |
▼流水さん: 集団と個についての流水さんのお考えを、私の欲張り根性で少しは引っ張り出せたかなといくらかの満足感を味わうと同時に、ご迷惑をかけてしまったという申し訳なさも感じています。 お礼とお詫びの意味を込め、また何よりも私自身のために、今回学んだことをここで整理してしめくくりにさせて頂きたいと思います。 (私流の整理ですから、あるいはゆがめて受け取っているかも知れません。その際は遠慮無くご指摘下さい。) ・きめ細かい目配りと粘り強さ 個々の子供にきめこまかく目を配りねばり強い取り組みをしていくことが要求される教育の本道を歩いてこられたということが表現の端々から伝わってきます。 ・子供のとらえ方に幅や自由度があり、ぎすぎすしていない。 例えば「0を基準にして+−に針が振れる」という状態を自然状態として捉え、幅や自由度を持たせた中で子供を観ておられます。ところが一般には「+に固定化」あるいは「−に固定化」して観てしまいがち。 ・子供と共に成長していこう、支援の役割に徹しようという基本姿勢がある。 子供を全面に立てる。そのために、教師は側面から支援をし様々な力を育て自立させるようにしている。 ・子供に語りかける力が優れている。 「手に言葉をつける」などということまではなかなか考えが及ばないものです。 また、語りかける力がなければ集団つくりなどとうてい実現できないことです。 *以上の特質は優れた教師なら誰でも共通して持っています。 流水さんの独自性は以下の点にあると思います。 ・集団の感情を読みとり、予測する力が抜きんでている。 この点は、まったく流水さん独自である。例えば、おとなしくしているが無気力、自分だけよければ良い、勉強さえしていれば良い、これらの感情が集団の倫理観をゆがめやがて抵抗の自由がそれに加わり、一気に針が反対に振れる。このような見通しが明確にある。 ・集団つくり=環境醸成という考え方。 つまり個々の子供にとって最良の環境をつくるために、集団の意識変革を図っている。 ・子供の自由を尊重している。 個を押さえるのでなく、個に自由を与えながらしかもそれを自分で統御できるように育てている。集団の復元力を信じているから、自由の許容度が高いのであろう。 ・枠の設定を有効に生かしている。 自由に対する枠、制限があることを生かして、むしろそれがあることによって子供の知恵や工夫を引き出している。例えば校則という枠を最大限に生かしている。 ・競争意識と共生の共存 競争意識を「自分だけ」という意識から一段高めている。そして奉仕精神と融合させている。 ・子供達の意識改革をすることから集団つくりを始めている。 例えば、「もめごとを避けない」「もめごとを解決した時に人間は成長できる」「もめごとはねばり強く話し合うことで解決できる」「自分は一人ではない。周りが自分のこととして考えてくれる」などという意識を持たせている。解決の意欲,信念を持たせている。共生感を持たせている。 ・わくわく生き生きできる集団と同時に安心できる集団の両立を目指している。 例えば、「誰もが安心して発言でき、それを真剣に聞いてくれる」「ボスがいない」「馬鹿にされない」「行事に燃える」「不正は抗議される」などの条件が明確にある。 ・その実現のために育てる力がはっきりあり、目的意識的にその実現が図られる。 「待つ力」「要求する力」「実践力」「耐える力」「人権感覚」などをどんな活動によってつけていくのか明確になっている。 ・体感速度という尺度がある。 はやすぎず遅すぎずという感覚。「夢中になれる」「友だちや家族と過ごす余裕」「せきたてられない」「整然とした乱雑さ」「生活感」などという感覚を時速20kmという数値で示して尺度を作っている。 ・個人レベル、班レベル、委員会レベル、学級レベルと問題に応じて解決の場を設定している。 レベルを上げる前に、その前段で話し合いの方向性をよく検討させている。 *以上、つまみぐいのようで申し訳ないですが私なりに整理してみました。 私のこれからの実践に大きな影響を与えそうな予感がします。 改めてお礼を申し上げます。有り難うございました。 |
▼団塊党さん: >*以上、つまみぐいのようで申し訳ないですが私なりに整理してみました。 >私のこれからの実践に大きな影響を与えそうな予感がします。 >改めてお礼を申し上げます。有り難うございました。 わたしの意図を正確に読み取ってもらって、感謝します。 現役の人には、ぜひがんばって欲しいと思います。 それから、わたしの21世紀の集団のイメージは、【21世紀の秩序意識】(2149)に書いています。 一度、読んでいただいて、感想をお聞かせください。 |
>>▼流水さん: >>少し、お休みしましょうか。 >>あまり、専門的なことばかり、二人で論議し続けても、まわりの人にご迷惑でしょう。 >▼団塊党さん: >私があんまり細かいことを聞いてしまったのが、一般の方には迂遠に聞こえるようですね。 いや、「まわりの人」「一般の方」の一人として感想を述べさせていただければ、面白く拝読させていただきました。 いま、お子さんを学校に通わせている方もいるでしょうし、他人事ではないはずです。流水さんのご意見は、非常に汎神論的・東洋的で、どうしたら自然の流れをさえぎらすに生かせるのかを考える性質のもののようですね。 また、競争意識そのものを悪としているかのような新教育カリキュラムの考え方にすぐさま回れ右をしてついていかないところは、現場でしっかり経験をつんできた方らしい意見でもあります。 しかし、せっかくですから、できれば教師が目に触れられるところにおいてあればよいと思うのですが。 今流行の【深み】のない「カリスマ」教師とかは呼ばれたくもないでしょうが、同職者同士の横の連携・ノウハウの共有も必要かも知れません。 中には数十年前から教育カリキュラムが「改悪」と呼ばれてき続けたことの原因をしっかり把握しようとせずに、新しいカリキュラムだからといって足並みをそろえようとする教師もいないとはいえないでしょうから。 公務員として腹をくくっている方はともかく、まじめな方にはお気の毒というものでしょう。 横槍御免です。 |
▼去私さん: > >いや、「まわりの人」「一般の方」の一人として感想を述べさせていただければ、面白く拝読させていただきました。 いま、お子さんを学校に通わせている方もいるでしょうし、他人事ではないはずです。 大変、ありがたい意見です。皆さんのご迷惑になっているのではないかと、ずっと気になっていました。 流水さんのご意見は、非常に汎神論的・東洋的で、どうしたら自然の流れをさえぎらすに生かせるのかを考える性質のもののようですね。 私自身は、汎神論とも東洋的とも意識していないのですが、そうですか。 ただ、【自然の流れをさえぎらずに生かす】と読んでいただけたことに感謝します。 わたしは、【子供は粘土ではない】と主張してきました。あまりにも、子供を粘土細工のように、どうにでも【形】が変えられるという意見が多すぎたのです。右派からの意見も左派から意見も、【子供を粘土細工】のように自由に形を変えようという意見が目立ちすぎなのです。 【形】を決めれるのは、子ども自身で、国や社会や教師などではない、と主張してきました。 わたしは、子供が自分で自分の形を決めれるように援助するのが、教師の役目と考えています。そのための方策を書いたものなので、そのように読んでいただけると大変嬉しいです。 >しかし、せっかくですから、できれば教師が目に触れられるところにおいてあればよいと思うのですが。 今流行の【深み】のない「カリスマ」教師とかは呼ばれたくもないでしょうが、同職者同士の横の連携・ノウハウの共有も必要かも知れません。 中には数十年前から教育カリキュラムが「改悪」と呼ばれてき続けたことの原因をしっかり把握しようとせずに、新しいカリキュラムだからといって足並みをそろえようとする教師もいないとはいえないでしょうから。 公務員として腹をくくっている方はともかく、まじめな方にはお気の毒というものでしょう。 > 実は、わたしは自分のHPを持っています。そこで、微力ですが、指摘されている活動を行っています。 |
▼去私さん: >いや、「まわりの人」「一般の方」の一人として感想を述べさせていただければ、面白く拝読させていただきました。 いま、お子さんを学校に通わせている方もいるでしょうし、他人事ではないはずです。 読んで頂いて私も大変嬉しいです。 学校を外から見ての感想、批判、意見などどしどし寄せてくださればなお嬉しいです。 教師には見えていない盲点もたくさんあるはずですから。 よろしくお願いします。 |