Page 2184 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼猫の幸せとは とうろう 05/1/3(月) 22:05 ┣Re(1):猫の幸せとは 団塊党 05/1/3(月) 22:39 ┃ ┗Re(2):猫の幸せとは とうろう 05/1/3(月) 22:54 ┣Re(1):猫の幸せとは 石頭の息子 05/1/3(月) 23:07 ┃ ┣Re(2):猫の幸せとは石頭の息子さん k・satou 05/1/4(火) 8:13 ┃ ┗Re(2):猫の幸せとは/人の倖せ とうろう 05/1/4(火) 9:24 ┃ ┗Re(3):猫の幸せとは/人の倖せ 石頭の息子 05/1/4(火) 11:22 ┣Re(1):猫の幸せとは よりみち 05/1/4(火) 0:25 ┃ ┣Re(2):犬の幸せとは よりみち 05/1/4(火) 0:29 ┃ ┃ ┗Re(3):ヒトの幸せとは よりみち 05/1/4(火) 0:35 ┃ ┃ ┗Re(4):老人の幸せとは よりみち 05/1/4(火) 0:39 ┃ ┗Re(2):猫の幸せとは こころ 05/1/4(火) 2:25 ┗Re(1):猫の幸せとは 白黒猫 05/1/4(火) 9:51 ┗Re(2):猫の幸せとは/親の教育 とうろう 05/1/4(火) 14:52 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 猫の幸せとは ■名前 : とうろう ■日付 : 05/1/3(月) 22:05 -------------------------------------------------------------------------
皆さん;おめでとうございます。 新年のご挨拶方々今日感じた、首記に関して私の感懐を下に書きました。また、少し私事に亘(わた)る点はご容赦の上、ご笑覧ください。 今、愚息が飼っている家猫を一時的に預かっています。愚息が独身で別居しており、猫一匹、人一人の生活です。この猫は当年10歳で、生まれたときから、愚息が屋内で飼っており、人間の住居以外の生活を知りません。いつもサッシ越しに庭を眺め、匂いをかいでいます。自然を知らず、不妊手術を施され、野外での猫本来の生活を経験も出来ず、人間の支配下?での生活に甘んじ、私は誠に不憫、哀れに感じます。 小生が、外出から帰ってきたときなどはいつも扉を開ければ玄関口で待っています。日頃の寂しさが窺われます。愚息が勤務中の日中は一人?一匹で孤独に過しているのですから、「猫」にしても「人恋しい」のかと同じ動物として共感?を感ずるものです。 その点、犬は社会的動物で序列に敏感であり、序列に従うことに苦痛は無く、ボスである人間に従うことは当然と感じているように思います。 小生が、愚息に、上のように飼われている猫が可哀相だと言いますと、愚息は「ちゃんと餌を与えられ何不自由なく生きられ、猫にとって幸せではないか」と言いました。 確かに、ペットとして飼われる今の家猫は、室内で飼われ、雨露の心配も、食糧・餌の確保の心配もなく、幸せかもしれません。逆に、自然に生きる種の仲間の「山猫類」は世界中で絶滅の危機に瀕(ひん)しているようです。 しかし、私は、たとえ絶滅の危機に瀕しようとも、たとえ死の恐れがあろうとも、また、その生が苦しく、苦難に満ちたものであろうとも「自然の中で本能に従い、自由に生きる」山猫(あるいは、家猫のバガボンド・ボヘミヤン;野良猫)の幸せを、倖せと思うものです。 住いを人間に求めず、餌を人間に頼らず、自らの生の不幸?を人の所為(せい)、社会の所為(せい)にせず、自らの才覚で餌を求め、自らの才覚でねぐらを確保し、自らの意志・本能に従って生きる「野良猫」の幸せを「真の倖せ」と私は思います。 皆さんは如何思われますか。 |
▼とうろうさん: >住いを人間に求めず、餌を人間に頼らず、自らの生の不幸?を人の所為(せい)、社会の所為(せい)にせず、自らの才覚で餌を求め、自らの才覚でねぐらを確保し、自らの意志・本能に従って生きる「野良猫」の幸せを「真の倖せ」と私は思います。 > >皆さんは如何思われますか。 本年もよろしくお願いいたします。 昨年末の私へのご質問に答えぬままになっていますが、お許し下さい。 私にはそれに答えるにはあまり気の進まぬ質問であり、ついついそのままにしています。 答えたがよろしければ答えますので、お知らせ下さい。 なお、上記のとうろうさんのご意見には基本的に賛成ですが、社会の矛盾や不条理に対しては大いに意見を表出していくべきだと思います。 あまり物わかりが良すぎるのもどうかと思いますが。 物言えぬ社会が迫り来るのが怖いです。 |
▼団塊党さん: こんばんは。レス早速有難うございました。 団塊党さんへのメッセージは既に用意しております。少し、厳しい意見かも知れませんが、正月開けを待っており、明日朝にでも掲示いたします。それをご覧になってから、コメント頂けるとありがたいです。 私の明日のメッセージは少し幅を広げて申し上げているので、ある意味、団塊党さんには不本意かも知れませんが、真意をご理解の上コメント頂ければ誠に幸いに思います。 本スレッドにレス頂き、有難うございました。仰ることは重々理解しているつもりです。国家権力が「家猫」ばかりを作る恐れがあることを。 失礼しました。 >▼とうろうさん: > >>住いを人間に求めず、餌を人間に頼らず、自らの生の不幸?を人の所為(せい)、社会の所為(せい)にせず、自らの才覚で餌を求め、自らの才覚でねぐらを確保し、自らの意志・本能に従って生きる「野良猫」の幸せを「真の倖せ」と私は思います。 >> >>皆さんは如何思われますか。 > >本年もよろしくお願いいたします。 >昨年末の私へのご質問に答えぬままになっていますが、お許し下さい。 >私にはそれに答えるにはあまり気の進まぬ質問であり、ついついそのままにしています。 >答えたがよろしければ答えますので、お知らせ下さい。 > >なお、上記のとうろうさんのご意見には基本的に賛成ですが、社会の矛盾や不条理に対しては大いに意見を表出していくべきだと思います。 >あまり物わかりが良すぎるのもどうかと思いますが。 >物言えぬ社会が迫り来るのが怖いです。 |
とうろうさん、 私のレスがお嫌かもしれませんが、最近の貴方のスレッド立てに興味を持っていました、余りレスがないようなのは、とうろうさんのスレッドが格調高いのかな?と思っています。そこで私めの表題で日頃思っていることおば。 少しとうろうさんの話とずれるかもしれません。 野良猫のような人生であった(と自分だけが思っているのかも)顧みて、子供の頃の学友で裕福な家庭の子弟がいました、長じて大会社に就職、今は定年のない重役になっているはずの竹馬の友がいます、私はといえば定年前のリストラで僅かの年金をあてにして老母、愚息、家人をやしなっています。 いつも彼を羨望していたとおもうのです、彼のように(野良猫と比較して)順風万帆の人生(彼なりの苦労もあったとは思う)と文字どうり身を削って逆風の人生とどちらがよかったのか。 わからないのです。 話は変わって、以前にも書きましたが、昔のモンゴルで放牧の民は限られた草原で文明のない単調な生活だが、日々の少しの楽しみと苦役で一生を終える生活を想像していました、又、戦前の日本の小作人も同じように田圃で一生を懸命にはたらいていました、毎日同じ朝日を拝み、毎日同じ夕日を眺める、それだけで一生をおえました。 中国の奥地の話でもおなじような生活だったそうです、村に本もなく、文字も読めず、ラジヲもない、電気も水道もない、村から出たこともない、そんなところで一生を終える時、自分は不幸であったとおもうのでしょうか? その村に文革で都会の青年が送り込まれてきました、青年は村の娘に文字を教え、バルザックを読みきかせ、バイオリンを奏で、彼女は文字をしり、文化を知り、都会に憧れて村をでたそうです、人間は知の動物です、それが自然でしょう。 でも残された祖父はそこで一生を終えましたが、それが不幸とか幸福とかは考えなかったのではないだろうか、彼にはそれが人生そのものであった。 だが、知と文化を追って孫娘は都会に出ました、彼女はそれらを得たいとおもったにちがいない、どちらが幸せなのだろうか? 私は人生を逆算する歳になりました、自分の人生を振りえる歳です、いまだ幸せとはなんだろうと思うのです。 |
▼石頭の息子さん:よこから失礼いたします。 あけましておめでとうございます。 諸説ごもっともとつねづね拝読させていただいております。 私も人生逆算のころとなり 季節が秋から冬へと向かう時 渡り鳥が 南のほうへ飛んでいくのをみると 鬱の気分になって俳人となります。 翌日には 忘れ鳥となり飲み屋のとまり木にいたりしますが・・・ 自然の季節のうつろいには美をかんずるものですが 人間の”老い”にはたいしては 醜いものとされますね。 私は容姿は 今更どうしようもないのですが ”人間として美しい老人になりたい!!”と切望するものです。 人間として 美しい老人とは 諸事に諦めている人なのではないか?と 夏のようなあふれるエネルギーがあたえられていたころ ”諦めろ!” なんて言われたら ”意気地なし””卑怯者”の所作だと いわれたことでしょうが 今となって感じる諦めとは 積極的諦めでなくてはいけない とおもうのです。 老いたからと 消極的になるとウラミがましく 愚痴っぽく 老いの醜さそのもの いやなものです。 イヌ・ネコとちがい もの思う人間てのは 命あるかぎり いつだって夢をもち 理想を描き 積極的に前に進んでいく性質 を与えられているんですよね。 捨てろ!とはいいながら 持つべきは いや持ちつづけるものは けっして老いに引きづられる人生ではなく 老いを脱却するために 未来を信じ 人との友情あふれた出会いをロマンチックに切望し ”ものを考える力”をもちつづけるべきではないか?と思うのですが。 捨てろ!すてろ!といいながら 手垢のついたものはなかなか捨てられません! これは自戒の弁であります。 スクワットと腕立てふせにもはげんでます。 世相を見るとき やはり 小泉とかいうのは 捨て時です! 論旨を曲解しているかもしれません。どうせ そんな奴なんです。 ゆるしてくれますよね? > >私は人生を逆算する歳になりました、自分の人生を振りえる歳です、いまだ幸せとはなんだろうと思うのです。 |
▼石頭の息子さん: おはようございます。レス有難うございました。昨夜レスと思いましたが、少し入っておりましたので、過情緒的になる恐れもあり、朝まで待ちました。 以下、勝手ながら、貴意に沿って思うところを述べます。 >私のレスがお嫌かもしれませんが、最近の貴方のスレッド立てに興味を持っていました、余りレスがないようなのは、とうろうさんのスレッドが格調高いのかな?と思っています。そこで私めの表題で日頃思っていることおば。 格調が高いなどとは思っておりませんが、皆さんのお考えとずれているのか、価値観、倫理、マナーなどと古臭い、時代的なことを言うので小うるさいこととは思っています。ただ、先にも言っておりますが、「言葉は電光のように伝わるところには伝わる」と思い、甲斐なく思いながら、思うことを言っています。 >野良猫のような人生であった(と自分だけが思っているのかも)顧みて、子供の頃の学友で裕福な家庭の子弟がいました、長じて大会社に就職、今は定年のない重役になっているはずの竹馬の友がいます、私はといえば定年前のリストラで僅かの年金をあてにして老母、愚息、家人をやしなっています。 > >いつも彼を羨望していたとおもうのです、彼のように(野良猫と比較して)順風万帆の人生(彼なりの苦労もあったとは思う)と文字どうり身を削って逆風の人生とどちらがよかったのか。 わからないのです。 そうですね。そのような方は羨望の的でしょうね。しかし、中には、「金銭的裕福」が「心の裕福」に、必ずしも、直結しない、と考える方もおられるのではないでしょうか。 >話は変わって、以前にも書きましたが、昔のモンゴルで放牧の民は限られた草原で文明のない単調な生活だが、日々の少しの楽しみと苦役で一生を終える生活を想像していました、又、戦前の日本の小作人も同じように田圃で一生を懸命にはたらいていました、毎日同じ朝日を拝み、毎日同じ夕日を眺める、それだけで一生をおえました。 > >中国の奥地の話でもおなじような生活だったそうです、村に本もなく、文字も読めず、ラジヲもない、電気も水道もない、村から出たこともない、そんなところで一生を終える時、自分は不幸であったとおもうのでしょうか? > >その村に文革で都会の青年が送り込まれてきました、青年は村の娘に文字を教え、バルザックを読みきかせ、バイオリンを奏で、彼女は文字をしり、文化を知り、都会に憧れて村をでたそうです、人間は知の動物です、それが自然でしょう。 > >でも残された祖父はそこで一生を終えましたが、それが不幸とか幸福とかは考えなかったのではないだろうか、彼にはそれが人生そのものであった。 だが、知と文化を追って孫娘は都会に出ました、彼女はそれらを得たいとおもったにちがいない、どちらが幸せなのだろうか? まぁ、倖せ感は、人それぞれの心の中にあるのであって、外からは窺い知れませんね。私は、貴殿がよく仰る「知足」で、倖せを感ずることが出来るのではないかと思うものです。また、倖せだ、不仕合わせだなどと、想わないところに倖せがあるのかもしれません。 私が新聞の投歌欄で読み、心に留めている歌があります。作者名を引用できませんので、無断引用(また記憶違いがあるかもしれません)かと思いますが、下に書きます。なかなかこのようには生きられませんが。 「過去を悔い 未来を歎く ことよりも 今日一日を 季節と歩む」 >私は人生を逆算する歳になりました、自分の人生を振りえる歳です、いまだ幸せとはなんだろうと思うのです。 弊駄作を一つ(上の歌のメモでもあるかとPCのファイルを調べている際、たまたま以前作っていたものを見つけました) 「若き日の 失恋(こひ)も衒(てら)いも 絶望も 遼(はるか)になりし 白き髭剃る(風呂鏡01.06.19)」 失礼しました。 |
とうろうさん, 拙文が余りにもつたないのか、言葉としての表現が適切でなかったのか、貴方のご批評を拝見して、すこしばかり心が萎えるおもいです。 貴原稿を拝読して、人の生きている意味と、いかに生きるかとの深い薀蓄があるやに受け取りました、拙文ですこしその先をお聞かせ頂けると期待したのです。 はなはだ手前勝手な感想で失礼はお許し下さい、尚ご返事はご無用でございます。 |
食べ物があって、寝床があると幸せです。 あと、家が心地よければ。他はどうでもいい。 |
食べ物があって、寝床があると幸せです。 あと、家が心地悪くても、愛する家族がいれば最高。 |
食べ物があって、寝床があると幸せです。 あと、家があって、こころ穏やかで、なすべきことがあれば最高。 そうそう「他国に誇れる『じゅんちゃん総理』」も絶対必要(*^-^*)v。 |
家族がいて、健康であれば幸せです。 あと、家があって、文句を言える若者がいて『誇り』があれば最高。 それに、『愚痴』を聞いてくれる仲間もネ。 |
▼よりみちさん: >食べ物があって、寝床があると幸せです。 >あと、家が心地よければ。他はどうでもいい。 「俺様の気持ちなんぞ人間にわかってたまるか」 と猫が謂うたとか謂わなんだとか・・・・・・・ 「飼い猫」も「飼い人」もその主が良き人で有ればこれに勝るもの無し 天が我に与え給うた「命」ならば猫には猫の、人は人の分をわきまえて生活すればそれが幸せというものだわ |
捨て猫を本当に小さいころから、多分生後2−3週間ぐらいから飼っています。来たころは体重が270グラム、あれから4年、体重も6キロ、うちの主みたいに住み着いています。ブラックアンドホワイトの器量の良い雄猫でうちの女房が自分のニニャン〈二男のつもり)と言って可愛がっています。基本的には家飼いしたいのですが、小さいころからお外大好き猫で、ほっておけば一日中家の内外をうろついています。ただ、去勢しているせいか行動半径は狭く、ほんの数十メーター範囲を自分の縄張りとしているようです。 ご近所への迷惑を考えると。本来部屋飼いすべきかと思うのですが、猫の幸せを思うと、これしかないと思うのです。身勝手とは思うのですが……。 この猫が11月29日に忽然と行方不明になりました。うちの女房の嘆きはひどく、これガペットロスというものかと身につまされました。もうあきらめかけた12月30日に近くの住宅地で偶然に発見しました。新聞の集金のおばちゃんの通報です。うちのやつが呼びかけると大きくニャーと答えてきました。30日ぶりの奇跡の再会です。体重が3キロ強に痩せ、足がひどく痛んでいました。どこに行っていたか。予測ですがご近所の工事のトラックに飛び乗り、そこそこ遠方まで連れ去られたようです。そこから猫の本能で飲まず食わずで歩いてきたように思えます。凄い生命力と感心します。しかし,家猫は家猫ノラにはなれないようです。家猫の幸せは家のご近所をうろうろして一生を終えることかと思います。 |
▼白黒猫さん: はじめまして。レスどうも有り難うございました。今後とも宜しくお願いいたします。 かなり前に私は「犬派ですか、猫派ですか」と言うスレッドを立てました。私は、犬も猫も好きですが、性格的には「猫」の方を好ましいと思うものです。たまたま今猫が家にいるものですから、猫に擬して「人の倖せ」観を暗示しました。 >捨て猫を本当に小さいころから、多分生後2−3週間ぐらいから飼っています。来たころは体重が270グラム、あれから4年、体重も6キロ、うちの主みたいに住み着いています。ブラックアンドホワイトの器量の良い雄猫でうちの女房が自分のニニャン〈二男のつもり)と言って可愛がっています。基本的には家飼いしたいのですが、小さいころからお外大好き猫で、ほっておけば一日中家の内外をうろついています。ただ、去勢しているせいか行動半径は狭く、ほんの数十メーター範囲を自分の縄張りとしているようです。 猫の縄張りもあるようで、いつか、庭で、多分雄の猫二匹が長い間、吠えあい、睨みあいをしていました。じっと眺めている私も暇だと自嘲しながら見ていました。しかし、大体、動物は威嚇し合い、優劣を相手方が認めれば殺し合いには至らないようです。人間より、遥かに動物が賢いと観ずる所以です。 >ご近所への迷惑を考えると。本来部屋飼いすべきかと思うのですが、猫の幸せを思うと、これしかないと思うのです。身勝手とは思うのですが……。 > この猫が11月29日に忽然と行方不明になりました。うちの女房の嘆きはひどく、これガペットロスというものかと身につまされました。もうあきらめかけた12月30日に近くの住宅地で偶然に発見しました。新聞の集金のおばちゃんの通報です。うちのやつが呼びかけると大きくニャーと答えてきました。30日ぶりの奇跡の再会です。体重が3キロ強に痩せ、足がひどく痛んでいました。どこに行っていたか。予測ですがご近所の工事のトラックに飛び乗り、そこそこ遠方まで連れ去られたようです。そこから猫の本能で飲まず食わずで歩いてきたように思えます。凄い生命力と感心します。しかし,家猫は家猫ノラにはなれないようです。家猫の幸せは家のご近所をうろうろして一生を終えることかと思います。 そうですね。猫の倖せは「猫」にしか分かりません。人間である私が「猫の倖せとは」などと言うことは僭越だと自認しています。猫に擬して「己の価値観」を話しました。 また、動物(勿論人も含めて)は、皆親の教育が必要で、親が子を教育し、子が親を真似て(学び)社会に自立できるものと思います。仮に、猫に不妊手術をしなくて、親猫から何も学んでいない猫が「子を産んでも」よく育てられないでしょうね。「ノラ」になっても生きてゆけないかもしれません。 「家猫の幸せは家のご近所をうろうろして一生を終えることかと思います」 その通りと思います。「分を知る」と言うことでしょうか。 貴メッセージに従い、少し、思うことを述べさせて頂きました。失礼しました。 |