Page 2240 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼誹謗中傷と批判、この似て非なるもの 曳馬野 太郎 05/1/9(日) 8:35 ┣Re(1):誹謗中傷と批判、この似て非なるもの トビパパ 05/1/9(日) 10:19 ┃ ┗トビパパさんへ 曳馬野 太郎 05/1/10(月) 9:22 ┃ ┗Re(1):トビパパさんへ トビパパ 05/1/12(水) 8:57 ┣私の掲示板論 その1 退役軍人 05/1/9(日) 14:01 ┃ ┗私の掲示板論 その2 退役軍人 05/1/9(日) 14:14 ┃ ┗退役軍人さんへ 曳馬野 太郎 05/1/10(月) 12:53 ┃ ┗ありがとうございます。 退役軍人 05/1/10(月) 13:51 ┗誹謗中傷と批判について 管理スタッフ 05/1/9(日) 15:00 ┗事実とは何か 曳馬野 太郎 05/1/13(木) 8:43 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 誹謗中傷と批判、この似て非なるもの ■名前 : 曳馬野 太郎 ■日付 : 05/1/9(日) 8:35 -------------------------------------------------------------------------
誹謗中傷と批判、この似て非なるもの この板における「誹謗中傷」と「批判」の定義について、一部の投稿者に誤解があると私は思う。 これに対する私の見解は以下の通りである。 「誹謗中傷」とは、「批判を許されない事柄」に対する批判的発言は「誹謗中傷」とみなす。 「批判」とは「批判を奨励される事柄」に対する誹謗中傷的発言おも含めこれを「批判」とみなす。 「批判を許されない事柄」及び「批判を奨励される事柄」とは管理人が定める専権事項であるが、これをあらかじめ定める事は、管理人の自由な裁量権を侵すので、行わない。 上記の判断は、賢明なる諸氏においては、個々具体的事例より学習されることを望む。 この暗黙のルールに不満がある人々は、あえて投稿する必要はない。立ち去るも自由である。 このことをもって、排外主義と批判してはならない。組織を守るには厳格な統制を求められるのは必然であり、これは決して保守反動ではない。 以上のように考えれば、私には釈然とするが、いかがであろうか。 |
批判と誹謗中傷。ぼくもよく考えさせられます。ぼくが今まで 経験した英語圏でのネット上の議論では、誹謗中傷だなんだと 騒いでいるのをあまり見たことがないように思うので、この問題は 日本語圏において特別に目立つ現象なのかもしれません。 それじゃ、英語圏には誹謗中傷にあたるような発言がないのか というと、そうでもなさそうです。いや、時には、こういうことには かなりの免疫があるはずのぼくでも、それを言っちゃあおしめえよ と嘆息せざるを得ない場面に遭遇したことも少なくはありません。 不思議なのは、そういう場合でも、誹謗中傷はひでえじゃないかと、 議論が誹謗中傷論に発展するということはまずなくて、当事者同士、 お互い気のすむところまでののしり合うのが普通のようです。 ののしり合うと言っても、端から冷静に観察すると、当事者の心中 には、論争の論点にしがみつくような気迫があるようなのですね。 で、そういう気迫がむんむん飛び交う中で、それと並行して、 その他の善良なる人々は、何事もないかのように、それぞれの 議論を静かにつづけているなんてことが、どうも普通のようです。 ぼくは今、「不思議なのは」と言いましたが、実は、そういう 論争(闘争?)を見物していたときには、それほど不思議には 思わなかったのです。むしろ、久しぶりに日本語圏のネット世界に 復帰してから、そう言えば英語圏ではなぜ「誹謗中傷」問題が 起こらなかったのだろうと、今さらながらに、考えさせられる ようになったのです。 英語圏と言いましたが、ぼくが経験したのは、ほとんどイギリス圏 の話です。犬もぼくはイギリス犬が好きなんですね(雑種も好き ですが)。で、もしかすると、そこには彼らイギリス人の特性が あるのかもしれません。ぼくには、マスメディアはその国の 国民性が反映するという考えがあるのですが、BBCとNHKの報道 姿勢の違いは、まさに、英国人と日本人の国民性の違いを見る思い なのです。 |
トビパパさんへ 「英国人と日本人の国民性の違い」についての話、興味深く拝読しました。 それで思い出しました。経済学者森嶋通夫の著書「イギリスと日本」の中にあったような話ですが(20年以上も前の記憶で定かでありません) イギリスと日本は同じ島国でありながら、イギリス人は他人との距離感(間合いと言い換えても良いでしょうが)の取り方が絶妙であるが、(近すぎず、離れすぎず)日本人はこれが下手である。 これは私が思うに、狩猟民族と農耕民族(分けても水稲文化の影響)の違いからきているのではないでしょうか。 水稲に命を託している村落にあっては、上流から下流へと流れていく水の管理は非常に大切な事で、個の勝手気ままは決して許されず、村落の秩序ある平穏さ(和)が何よりも尊ばれました。 これが「うち」と「そと」という日本人の観念を育んできたと思います。「うち」は仲間であるから大切に扱い、少々の無法もあまり事を荒立てず「まあまあ、なあなあ」のうちに納め、ちょっとおかしいかなと思っても大勢に従うをよしとする、その反動か「そと」に対しての必要以上の感情的敵愾心を持つことで精神のバランスを保っているよう見受けられます。 面白いことに、このような日本人の資質は、西欧哲学をも知悉していそうないわゆる「左翼」の人々も「右翼」の人々と共有しているのではないかと私は思います。 もちろん、ここに述べたことは、一般論として雑駁に私が感じていることで、特定の誰がそうであると決めつけるものではありません。(例外はいくらでもあるでしょうから) |
曳馬野 太郎さん、 返事が遅くなって申し訳ありません。「英国人と日本人の国民性 の違い」というテーマになると、ぼくの頭の中には、いちどきに 多くの断片的な事柄が押し寄せてきて、それを語り始めると、 老人党掲示板をすべて占領してしまいそうに思うんですね。 モーツァルトは頭の中で交響曲を1曲完成してしまい、それを すらすらと紙に書き写すだけだったと聞いてます。ぼくの場合は、 もちろんそんな天才は持ちあわせていないので、頭の中にある 断片をとにかく書いていくうちに、きっとなんとかなるさ、 なんとかならなけりゃ、それはそれでその時に考えよう。 というように、かなりいい加減だから、ほんとなら公共の広場で しゃべっちゃいけないのかもしれません。 実は、ここだけの話、ぼくはそういう未完成な投稿を楽しんでる ようなところがあるようです。なんとかなってるのかどうか 分からない状態で、ともかく送信ボタンを押す時のスリリングな 感覚。ハイド・パークのスピーカーズ・コーナーで、粗末な木箱に のっかって演説してる気分と言いましょうか。 あ、すでに前置きだけで、普通の人の本論分のスペースを費やした ようですね。失礼しました。それでは、本題に入らせていただきます。 > 面白いことに、このような日本人の資質は、西欧哲学をも知悉 > していそうないわゆる「左翼」の人々も「右翼」の人々と共有 > しているのではないかと私は思います。 ぼくも日本的な*和*の持ち方は、左翼・右翼に関係なく、共有 されているように感じています。ちょっと口の悪い言い方をすれば、 日本人には共通して仲良しグループに安住する性向があるとでも 申しましょうか。これはぼくの主観では、西欧的な個人主義が、 いまだに日本人には身についていないということが大きな原因 のように思います。 何も西欧のすべてを肯定する必要はないのですが、この個人主義 というものは、民主主義の基礎に必ずあるべきものじゃないかと、 ぼくは思うわけです。そして、個人主義というものは、最近の 国家主義的な人々が非難するような、現代日本人の*個性*とは 全く別物だと思うのです。 夏目漱石は「私の個人主義」という有名な講演をしましたね。 さすがに、漱石は現代日本人に必要なものをちゃんと見抜いていた のだと思います。しかし、この講演を聴いた当時の学習院の 坊っちゃんたちが、どこまで理解できたかは疑問ですね。 きっと、あの長たらしい前置きだけが印象に残ったなんて生徒も 多かったのではないでしょうか。 漱石はこの個人主義を誤解してはいけないと言ってますね。 個人主義が非常に誤解されやすいのは、今も変わりないようです。 彼は個人主義で生きる人間の責任というようなことも言ってた ように記憶します。聴衆は学習院の坊っちゃんたちです。 漱石は、きっと、ノブレス・オブリージュを伝えたかったのじゃ ないでしょうか。個人主義とともに、このノブレス・オブリージュ も、日本にはいまだに定着していないようです。 ということで、今回のぼくの投稿は、未完成のままにご免を蒙ります。 |
曳馬野太郎さん、初めましてこんにちは。 やや違う考え方を持っていますのでレスさせていただきます。 ▼曳馬野 太郎さん: >誹謗中傷と批判、この似て非なるもの 似てもいないと考えています。 まったく異なるものであると思います。 =======失礼中略======== >「誹謗中傷」とは、「批判を許されない事柄」に対する批判的発言は「誹謗中傷」とみなす。 批判を許されない事柄なんて、存在しないと考えます。 批判者としての「作法」を重んじ、言葉を選びきちんとした「根拠」に基づくのであれば「批判を許されない事柄」なんぞ存在しないと考えます。 言葉を選ぶということは、批判者である以前の「人としての立ち居振る舞い」を正すということでもあろうかと。 「作法」というのは、批判者にはその批判の根拠となる「事実」あるいは「事象」を示し、批判者としての「観点」を示して論理的に語る姿勢であるとも考えています。 これを外せば、たとえどんな高尚で緻密な展開で自論を主張したとしても「罵詈雑言」に過ぎず、「誹謗中傷」の誹りをまぬがれないかと。 つまり、根拠であるはずの「事実」や「事象」の提示に客観性を欠けば、論旨の正当性や妥当性を喪失してしまい「主張」としての価値すら失ってしまうということかと。 ========失礼中略======== >「批判を許されない事柄」及び「批判を奨励される事柄」とは管理人が定める専権事項であるが、これをあらかじめ定める事は、管理人の自由な裁量権を侵すので、行わない。 これを定めてしまえば、価値の無い単なる「仲良しクラブ掲示板」に成り下がってしまいます。 公開されているとは言えこの掲示板が「なだいなだ氏」の私的空間であることに疑いの余地はありません。 そういった前提の存在があって、予め批判出来る事柄と、そうではない事柄を定めてしまうということは批判できない「聖域」を設けてしまうことになります。 これは結果として「なだいなだ氏」の言論に対する姿勢を貶めてしまうことになるでしょう。 端的に言えば「なだいなだ氏の翼賛掲示板」となってしまう事を意味します。 管理者は「立ち居振る舞い」についてのみ斟酌し判断するべきです。発言の内容、いわば論旨の部分について「一方的な判断」で削除や書き込み禁止などの処置をなさると「異論の排除」と受け取られてしまう危険もあるということですよ。 私のような「野党投稿者」には特に厳しいようですが、ホームタウンデシジョンということもあり、現状では客観的にみて容認できる範囲なんじゃあないのかな。 時々、反応が過敏で「ツボを突いた指摘」だったのかなぁ、って思ってしまう「削除」もありますけどね。 「問わず語り」ということかなぁ、なんて思いながら見ていますけれど、抗議しようなんて考えたことはありません。 冷静にROMしていらっしゃるであろう多くの「聴衆」いや「観衆」の皆さんが判断されることですからね。 「観衆」の皆さんの視線は、私のような投稿者に対するよりも、管理スタッフの皆さんに対して数段厳しい視線が注がれているということでしょうね。 大変だろうなぁ、って思ってます。 複数の管理スタッフにより管理されていますから、意見の相違もあるみたいですしね、「対応の差」に管理スタッフの皆さんの苦悩が見て取れることもありますよ。 続きます。 |
続きです。 ========失礼中略======== >この暗黙のルールに不満がある人々は、あえて投稿する必要はない。立ち去るも自由である。 >このことをもって、排外主義と批判してはならない。組織を守るには厳格な統制を求められるのは必然であり、これは決して保守反動ではない。 一つの考え方を中心にどの程度のトーレランスを容認するかが、「組織論」の第一歩ですよね。 その許容の幅というのは、なだいなだ氏の主張に明確に読み取ることが出来ます。 問題は、その「許容の幅」の認識に相違があるということですよ。 許容の幅をせばめれば、組織としての運営に問題は少なくなるが、多様性を排除する画一性に向かってしまう。 これは、「なだいなだ氏の翼賛掲示板」どころか、一部の過激な投稿者とそのクローニーによる「仲良しクラブ掲示板」に成り下がってしまうことを意味します。 左の端と右の端(私も??)の投稿者の間で「敵意」が芽生えているのも事実ですよね。 この敵意は、異論を持つ投稿者に対する「予断(レッテル貼り)や偏見(決めつけ)」、「独善(イデオロギーや大義)」それに「差別(社会階級・勝ち組&負け組発言など)」に原因を求めることができると考えます。 これは「間合い」という「心理的距離感」から生じていると思います。 これらを無くせば間合いは近くなるけれど、多様性を排除するということを同時に意味してしまうということ。 過去に私が、何度か「仲良しクラブ掲示板」ですかと聞いたのは、ここが私的空間であるが故に、「主催者」の基本的な考え方と容認の幅を問うたのと同義なのです。 違いとか多様性を認めるということは「心理的距離」の存在を認めるということにほかなりませんから。 失礼いたしました。 |
退役軍人さんへ ご挨拶、ご返事が遅れました。今後とも宜しくお願いします。 いつもながらの、落ち着いた文章で敬服して読ませて戴きました。 さて私の掲示板(ここに限りませんが)に対する姿勢は基本的に、管理方針に干渉しないこと、管理人さんへ苦言を呈しないこと、如何なる掲示板であろうと誰からも存在を否定されるべきでないこと、等でその思いを自分に律している事でしょうか。 従って先の私の反語的投稿は、この基本姿勢を迂回せんが為のものです。(まあ多くの人に見透かされているでしょうが) あなたの投稿内容に、とりたてて私は異論を見いだせません。同意致します。 |
こんにちは、曳馬野太郎さん。 レスありがとうございます。 こちらこそ、よろしくお願いいたします。 今年も明日から始動です。 病気や怪我をせずに働けたらいいなぁ、って思っています。 この掲示板は知的刺激満載ですよ。 日本での「左端」と「真ん中あたり」、さらには「右端」の主張を同時に読める掲示板なんてそんなに沢山ありませんから。 ▼曳馬野 太郎さん: >退役軍人さんへ > >ご挨拶、ご返事が遅れました。今後とも宜しくお願いします。 > >いつもながらの、落ち着いた文章で敬服して読ませて戴きました。 痛み入ります。 >さて私の掲示板(ここに限りませんが)に対する姿勢は基本的に、管理方針に干渉しないこと、管理人さんへ苦言を呈しないこと、如何なる掲示板であろうと誰からも存在を否定されるべきでないこと、等でその思いを自分に律している事でしょうか。 私もまったく同じ思いを持っています。 >従って先の私の反語的投稿は、この基本姿勢を迂回せんが為のものです。(まあ多くの人に見透かされているでしょうが) うーむ、やっぱりそうだったんだ。 そこを知りたいというのが私の投稿に至る動機でした。 まぁ、私の掲示板に対する基本的な考え方をまとめておきたいというのもありましたけれど。 >あなたの投稿内容に、とりたてて私は異論を見いだせません。同意致します。 ありがとうございます。 失礼いたしました。 |
▼曳馬野 太郎さん(39759): Ray@スタッフです。 私は、誹謗中傷と批判はその対象となる事柄の差ではなく、 ・誹謗中傷=主に対象者を貶めるために 事実と異なることまたは事実を曲解したことがらに基づいて、 もしくは論拠を明記せずに行なうもの ・批判=事実を元に、論拠を明示して行なうもの であると考えており、それに基づいてルールの適用を行なっています。 したがって、曳馬野 太郎さんがお書きの >「誹謗中傷」とは、「批判を許されない事柄」に対する批判的発言は「誹謗中傷」とみなす。 >「批判」とは「批判を奨励される事柄」に対する誹謗中傷的発言おも含めこれを「批判」とみなす。 >「批判を許されない事柄」及び「批判を奨励される事柄」とは管理人が定める専権事項であるが、これをあらかじめ定める事は、管理人の自由な裁量権を侵すので、行わない。 >(中略) >このことをもって、排外主義と批判してはならない。組織を守るには厳格な統制を求められるのは必然であり、これは決して保守反動ではない。 は、この掲示板におけるルールの適用に関しては 事実と異なるものですので、その旨ご了解くださいますよう どうぞよろしくお願い申し上げます。 |
事実とは何か Ray@スタッフさんへ(多忙にまぎれ返事が遅れました) Ray@スタッフさんの見解を承りました。それについての感想を以下に述べます。 >Ray@スタッフです。私は、誹謗中傷と批判はその対象となる事柄の差ではなく、 ・誹謗中傷=主に対象者を貶めるために 事実と異なることまたは事実を曲解したことがらに基づいて、 もしくは論拠を明記せずに行なうもの ・批判=事実を元に、論拠を明示して行なうもの であると考えており、それに基づいてルールの適用を行なっています。 かつて、加藤周一なども「事実と真実は異なるものである」などと言ったと記憶していますが、自然科学の世界は脇に置いて、社会学の範疇に属する事象の中ではこの認識は重要であろうと思います。 物事の事象は極めて重層的多面的で、その関連事象とのつながりは多岐にわたり、多角的視点から捉えれば真実は無数の事実から成り立っていると言えましょう。 大辞林によれば、「じじつ 1 【事実】 :〔哲〕 時間空間内に現に存在するものとして我々に経験される出来事や存在。現実的・実在的なものとして想像・幻覚・可能性などに対し、また経験的に与えられている現象として理想・当為・価値に対する。」などと難しく記されています。 事実とは人間の五感で認識されたものうち、幻覚や幻聴を除いて合理的経験的にその存在の蓋然性が極めて高いものとでも言えましょうか。 しかし現代においては、人は自らの経験だけを事実として認識しているわけではなく、その多くは伝聞、報道、映像、書籍、さらにネット等を通じて、それらを信用した場合のみ事実と信じている、と私は考えます。 従って、ここには陥穽が存在します。 無数の事実から、無意識のうちにも恣意的選択が生じ、人は「信じたい事柄を事実として信じ、信じたくないものは捏造かも知れないと疑います。(自分の体験によらない事実の選択においては、このことは極めて安易に行われるでしょう)」 この実例を1つ挙げれば「南京事件」における左右両翼の論争に典型的に現れます。 私は比較的、懐疑的な思考を是とする人間ですから、自分の五感を通じた直接的体験ではない「事実」と称されるものについては、別の角度から見た「事実」はあるのかどうか、一応疑うことをしますが、仮にその「事実」を否定する別の「事実」がその時点でなければ、「己の常識に照らして」有りえる事か否かの判断をします。 結局、自分の五感による直接経験でないものを「事実」として一応認知する事は、それを信じるか信じないかに全面的に依存しており、真に「事実」であるかないかの客観的判定は極めて難しいものです。(単純な事象は別にして) 例えば、9/11同時多発テロなども米国内のある勢力による謀略事件との説も存在しますが、これを信じる人もいれば、一笑に付す人もいます。 この場合これを肯定的あるいは否定的に直ちに「事実」、あるいは「虚偽」と断定するには相当の独断をもってしなければ行い得ません。 いささか長く晦渋な文章になってきましたが上記をまとめると 1 事実と真実は異なる。 2 事象は多数の事実で構成される。 3 多くの場合、事実とはそれを人が信じるか否かに依拠する。 4 ある事柄を、事実か否かを定めるのはなかなか難しい。 これらの事を勘案して判断するに、懐疑的見方を維持しつつも「事実と異なることまたは事実を曲解したことがら」と断定しそれを明示する事は慎重であるべきと私は思っています。 |