Page 2260 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼靖国参拝と日本人の死生観 おじゅる 05/1/9(日) 0:04 ┣Re(1):靖国参拝と日本人の死生観 告天子 05/1/9(日) 0:23 ┃ ┗Re(2):靖国参拝と日本人の死生観 告天子 05/1/9(日) 0:35 ┃ ┗Re(3):靖国参拝と日本人の死生観 おじゅる 05/1/9(日) 0:57 ┣Re(1):靖国参拝と日本人の死生観 相良唯夫 05/1/9(日) 13:13 ┃ ┗Re(2):一般大衆と総理大臣 ナベ講師ね 05/1/9(日) 16:11 ┃ ┗Re(3)神社の成り立ち 相良唯夫 05/1/9(日) 18:05 ┃ ┗Re(1):Re(3)神社の成り立ち MNG 05/1/9(日) 22:32 ┃ ┣Re(2):Re(3)神社の成り立ち 告天子 05/1/9(日) 23:31 ┃ ┃ ┣Re(3):Re(3)神社の成り立ち 告天子 05/1/9(日) 23:35 ┃ ┃ ┗Re(3):Re(3)神社の成り立ち MNG 05/1/10(月) 23:17 ┃ ┃ ┗Re(4):Re(3)神社の成り立ち 告天子 05/1/11(火) 0:01 ┃ ┣Re(2):Re(3)神社の成り立ち 告天子 05/1/9(日) 23:44 ┃ ┗Re(2):Re(3)神社の成り立ち 相良唯夫 05/1/9(日) 23:49 ┃ ┗Re(3):Re(3)神社の成り立ち 相良唯夫 05/1/9(日) 23:59 ┃ ┗Re(4):Re(3)神社の成り立ち 告天子 05/1/10(月) 0:12 ┃ ┗Re(5):Re(3)神社の成り立ち ナベ講師ね 05/1/10(月) 11:55 ┃ ┗Re(6):Re(3)神社の成り立ち 告天子 05/1/10(月) 12:44 ┣横槍を入れるようですが・・・・・ YOTA 05/1/9(日) 18:34 ┃ ┗Re(1):横槍を入れるようですが・・・・・ おじゅる 05/1/9(日) 20:21 ┃ ┗Re(2):横槍を入れるようですが・・・・・ 相良唯夫 05/1/9(日) 22:47 ┃ ┗Re(3):横槍を入れるようですが・・・・・ おじゅる 05/1/10(月) 1:51 ┃ ┣Re(4):横槍を入れるようですが・・・・・ 松 05/1/10(月) 4:11 ┃ ┗Re(4):横槍を入れるようですが・・・・・ 告天子 05/1/10(月) 10:33 ┃ ┗Re(5):横槍を入れるようですが・・・・・ おじゅる 05/1/11(火) 2:46 ┃ ┣Re(6):横槍を入れるようですが・・・・・ 告天子 05/1/11(火) 9:59 ┃ ┃ ┗Re(7):横槍を入れるようですが・・・・・ 告天子 05/1/11(火) 10:08 ┃ ┃ ┗Re(8):横槍を入れるようですが・・・・・ 告天子 05/1/11(火) 10:19 ┃ ┗Re(6):横槍を入れるようですが・・・・・ 相良唯夫 05/1/11(火) 11:50 ┣Re(1):靖国参拝と日本人の死生観 風谷 米造 05/1/9(日) 22:40 ┣Re(1):靖国参拝と日本人の死生観 頑爺 05/1/10(月) 10:14 ┃ ┣Re(2):靖国参拝と日本人の死生観 しげちよ 05/1/10(月) 10:35 ┃ ┗Re(2):靖国参拝と日本人の死生観 告天子 05/1/10(月) 10:49 ┣Re(1):靖国参拝と日本人の死生観 ニック 05/1/11(火) 18:07 ┃ ┣Re(2):靖国参拝と日本人の死生観 しげちよ 05/1/11(火) 19:21 ┃ ┣Re(2):靖国参拝と日本人の死生観 告天子 05/1/11(火) 19:35 ┃ ┃ ┣告天子様へ1 ニック 05/1/11(火) 20:46 ┃ ┃ ┃ ┗告天子様へ2 ニック 05/1/11(火) 20:47 ┃ ┃ ┗Re(3):靖国参拝と日本人の死生観 松 05/1/11(火) 20:49 ┃ ┃ ┗Re(4):靖国参拝と日本人の死生観 告天子 05/1/11(火) 21:10 ┃ ┗Re(2):靖国参拝と日本人の死生観 相良唯夫 05/1/11(火) 21:01 ┃ ┗Re(3):靖国参拝と日本人の死生観 相良唯夫 05/1/11(火) 21:25 ┃ ┗Re(4):靖国参拝と日本人の死生観 天正 05/1/12(水) 22:47 ┃ ┣Re(5):靖国参拝と日本人の死生観 天正 05/1/12(水) 22:57 ┃ ┗警告>天正さん 管理スタッフ 05/1/13(木) 16:00 ┗Re(1):靖国参拝と日本人の死生観 観覧車 05/1/16(日) 4:40 ┗Re(2):靖国参拝と日本人の死生観 こころ 05/1/17(月) 3:22 ┗Re(3):靖国参拝と日本人の死生観 龍馬 05/1/17(月) 11:07 ┗Re(4):靖国参拝と日本人の死生観 トビパパ 05/1/17(月) 11:58 ┗Re(5):靖国参拝と日本人の死生観 龍馬 05/1/17(月) 12:55 ┗ご注意>龍馬さん 管理スタッフ 05/1/17(月) 22:29 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 靖国参拝と日本人の死生観 ■名前 : おじゅる ■日付 : 05/1/9(日) 0:04 -------------------------------------------------------------------------
「靖国参拝は日本人の死生観のあらわれで、他国にとやかく言われる筋合いはない。」ということが、政治家やマスメディアの言動に散見されます。 これを最初に言い出したのはいったい誰なのでしょうか。 この言説に慣らされてしまって、それが当たり前だと勘違いしている人がどれほど多いことか、心配でなりません。 靖国神社は、1869年に明治天皇によって東京招魂社として創建されました。 http://www.yasukuni.or.jp/annai/index.html ここに祀られているのは、同サイトによると、1853年以降の人に限定されることになります。 日本の長い歴史の中で、わずか150年だけをとりあげて、「日本人の死生観」などと言うのは、私にはどうしても納得できません。 「日本人の死生観」を考えるためには、少なくとも古事記・日本書紀の世界にまでさかのぼる必要がありますし、仏教を受容して、独自の宗教世界を作り上げた古代・中世・近世の精神世界を考えなければ、その理解は不可能です。 靖国神社を参拝することが、伊勢神宮を参拝することと同程度に考えられているとしたら、それは大きな間違いです。 日本古来の伝統では、人を神として祀る典型は菅原道真に見られます。これはそもそも、道真の怨念を鎮めるために神社がつくられたわけです。各地の御霊神社も同様です。ここで重要なのは、「怨念を鎮める」という意味合いです。この怨念は個々人の怨みの感情であり、それが現世に害を及ぼすことを恐れて、人々が神社でお祀りをするわけです。 この延長上で「日本人の死生観」を考えれば、戦争で犠牲になった方々はすべて怨みを持っており、それを鎮めるのが靖国神社の役割ということになります。このようなどろどろとした精神世界を抜きに、「世界平和のために参拝した」などとすがすがしい顔で語る人々の気が知れません。 それから、もうひとつ重要な点は、伝統的な日本人の死生観が、靖国神社の創建によって国家に掠め取られてしまったという点です。明治天皇が創建したときは戊辰戦争で斃れた人々の霊を鎮めるという天皇個人の考えが反映されていたわけですが、それが国家システムの中に組み込まれ、国家神道の一翼を担うことになってからは、様相が一変してしまったのです。国家神道の名の下に、どれだけ古来の氏神・産土神信仰が切り捨てられたかは、南方熊楠や柳田國男の言説に詳しいのですが、このような近代システムによる神社統合は、伝統的な死生観からの乖離を明確に示しています。 ところで、私の父は、学徒動員で満州へ赴き、そこで終戦を迎えました。1年ほど中国大陸をさまよい、ぼろぼろになって日本へ戻ってきました。しかし、戦争については一切を語ろうとしません。その父が、残留孤児の番組を見るたびに、大粒の涙を流すのです。そして、靖国神社にはけっして行こうとはしません。このような父の怨みは、靖国神社は解決してくれないのです。一介の市井人として慎ましやかな生活を送っている父の深遠な怨みの感情にこそ、日本人の死生観の本当の姿があるように感じられるのは私ばかりでしょうか。 |
▼おじゅるさん: >「靖国参拝は日本人の死生観のあらわれで、他国にとやかく言われる筋合いはない。」ということが、政治家やマスメディアの言動に散見されます。 >これを最初に言い出したのはいったい誰なのでしょうか。 >この言説に慣らされてしまって、それが当たり前だと勘違いしている人がどれほど多いことか、心配でなりません。 靖国神社に対しては、私も複雑な気持ちがあります。靖国神社が、国家主義のような形で政治に利用されることは、これは憂うべきことだと思っています。 >日本の長い歴史の中で、わずか150年だけをとりあげて、「日本人の死生観」などと言うのは、私にはどうしても納得できません。 一概には言えないことですので、簡単に納得する方がおかしいのではないかと思います。 >「日本人の死生観」を考えるためには、少なくとも古事記・日本書紀の世界にまでさかのぼる必要がありますし、仏教を受容して、独自の宗教世界を作り上げた古代・中世・近世の精神世界を考えなければ、その理解は不可能です。 それらは「別の世界」ですので、そうなると「日本人」というものが、果てしなく拡散していくように思います。全ての時代精神を考えないと、「日本人」について理解したことにはならない、とは言えません。明治時代は、ある意味では、「日本精神」が極度に燃焼した一時代であったでしょう。 >靖国神社を参拝することが、伊勢神宮を参拝することと同程度に考えられているとしたら、それは大きな間違いです。 然りです。 >・・・この延長上で「日本人の死生観」を考えれば、戦争で犠牲になった方々はすべて怨みを持っており、それを鎮めるのが靖国神社の役割ということになります。このようなどろどろとした精神世界を抜きに、「世界平和のために参拝した」などとすがすがしい顔で語る人々の気が知れません。 少なくとも、どうしようもない苦さを乗り越えた上で、「世界平和」というのでなければ、私も納得しません。 >それから、もうひとつ重要な点は、伝統的な日本人の死生観が、靖国神社の創建によって国家に掠め取られてしまったという点です。 ここは非常に考えるべき点だと思います。国家、というものが、「我々のもの」であるならば、「死生観が国家に掠め取られる」ことは重大問題です。 >国家神道の名の下に、どれだけ古来の氏神・産土神信仰が切り捨てられたかは、南方熊楠や柳田國男の言説に詳しいのですが、このような近代システムによる神社統合は、伝統的な死生観からの乖離を明確に示しています。 近代システムと日本固有の宗教との関係は、いまだ未解決の問題でしょう。しかし、「国家神道」というものについて、まじめに考えるべき土壌が戦後にあったかといえば、「忌まわしき過去」として無反省に切り捨てられるだけではなかったか、と思います。 >ところで、私の父は、学徒動員で満州へ赴き、そこで終戦を迎えました。1年ほど中国大陸をさまよい、ぼろぼろになって日本へ戻ってきました。しかし、戦争については一切を語ろうとしません。その父が、残留孤児の番組を見るたびに、大粒の涙を流すのです。そして、靖国神社にはけっして行こうとはしません。このような父の怨みは、靖国神社は解決してくれないのです。一介の市井人として慎ましやかな生活を送っている父の深遠な怨みの感情にこそ、日本人の死生観の本当の姿があるように感じられるのは私ばかりでしょうか。 私もその問題では、苦しんでいます。 |
しかしまた、私は、信仰の強い力こそが、「怨念」を乗り越えるのだと、そのように考えます。 |
告天子さま 早速の丁寧なご返事ありがとうございます。 おっしゃるとおり、信仰はとても大切なのですが、本当に「信じる」ということは大変難しいことだと思います。私自身、キリスト教に対して、洗礼を受ける直前まで行ったのですが、やはり神の存在を予感するところまでは行けても、「信じる」ことができなかったので、洗礼は受けていません。 でも、神社にもお寺にも教会にもよく出かけていきます。やはり、そのような場が好きなのです。靖国神社にもよく行きましたが、五十鈴の杜で感じるような包み込むような安堵感は得られないようです。 |
▼おじゅるさん: >日本古来の伝統では、人を神として祀る典型は菅原道真に見られます。これはそもそも、道真の怨念を鎮めるために神社がつくられたわけです。各地の御霊神社も同様です。ここで重要なのは、「怨念を鎮める」という意味合いです。この怨念は個々人の怨みの感情であり、それが現世に害を及ぼすことを恐れて、人々が神社でお祀りをするわけです。 >この延長上で「日本人の死生観」を考えれば、戦争で犠牲になった方々はすべて怨みを持っており、それを鎮めるのが靖国神社の役割ということになります。このようなどろどろとした精神世界を抜きに、「世界平和のために参拝した」などとすがすがしい顔で語る人々の気が知れません。 天満宮を参拝するのに怨念を鎮めるという意識で参拝される方も居るかも知れませんが、多くは学問の神様として参拝されていると思います。人として生きている限り、怨念を持たない人はいません。そんな怨念を鎮める意味もありましょうが、生前の功績に感謝の意を表すために神として祀られています。 靖国神社にしても英霊の御霊を鎮めるとは、お国のために戦われたことへの感謝と、その犠牲を無駄には致しませんという誓いの場であると考えます。 ご先祖にとっては、子孫である現代に生きる私たちが平和で幸せに生きることを一番お望みであり、お喜びになることです。 亡くなった人の怨念が現世に害を及ぼすとの考えは確かにあります。でもそれを恐れただけの祀りであって、害を逃れられることはありません。 憑依ということがあり、祓いかたにも取り除くという方法もありますが、とりついた霊にも安心して昇天して頂く方法もあります。 同じ参拝するならば「世界平和のために参拝」するのが、祀られている神々もお喜びになると思います。 |
一般大衆が靖国神社にお参りする時には、そのようなあやふやな感覚でよいかと思います。しかし、行政府の代表者が参る時には、いいかげんな理屈ではいけません。国家の意思ということになります。日本の神社の成り立ちがは怨念を安んずることにあるわけですから、行政府の代表者たる総理が参るときは、誤りに行くと言うことになります、戦死された人たちに謝りに行くのはわかりますが、A級戦犯に謝りに行くことはない、と考える国民が多いのではないでしょうか。 |
現在、私たち日本人が慣れ親しんでいる神社の先祖を辿って行くと、遥か縄文の時代までさかのぼることが出来るのです。この永い年月をかけて培われた叡智が集約されて、神道が出来上がったのです。 その中でも、神道の流れの中心となっている部分が古神道なのです。古神道は神道の精神の柱です。有史以来、多くの神道家が古神道をベースに自らの教えを築いていったのです。しかしながら、戦後、日本人の精神性は荒廃し、愛国心や神社への崇敬の念は失われようとしているのが現実です。 日本の総氏神様であらせられます、天照坐皇大神様が御祭神として伊勢神宮に祀られており、皇室の祖先神であらせられます。 古事記、天地初発の巻に「天地初めて発れし時に、高天原に成りし神の名は…」とあります。これは神様は誰かが作ったものではなく、自然と現われた存在ということです。また、伊耶那岐命と伊耶那美命が国を固め成す拠点となったおのころ島も、おのずから成った島、という意味を持っております。その淤能碁呂島に伊耶那岐命と伊耶那美命が降り立ったときには既に天の御柱と八尋殿があったということです。 |
▼相良唯夫さん: >現在、私たち日本人が慣れ親しんでいる神社の先祖を辿って行くと、遥か縄文の時代までさかのぼることが出来るのです。この永い年月をかけて培われた叡智が集約されて、神道が出来上がったのです。 >その中でも、神道の流れの中心となっている部分が古神道なのです。古神道は神道の精神の柱です。有史以来、多くの神道家が古神道をベースに自らの教えを築いていったのです。しかしながら、戦後、日本人の精神性は荒廃し、愛国心や神社への崇敬の念は失われようとしているのが現実です。 >日本の総氏神様であらせられます、天照坐皇大神様が御祭神として伊勢神宮に祀られており、皇室の祖先神であらせられます。 >古事記、天地初発の巻に「天地初めて発れし時に、高天原に成りし神の名は…」とあります。これは神様は誰かが作ったものではなく、自然と現われた存在ということです。また、伊耶那岐命と伊耶那美命が国を固め成す拠点となったおのころ島も、おのずから成った島、という意味を持っております。その淤能碁呂島に伊耶那岐命と伊耶那美命が降り立ったときには既に天の御柱と八尋殿があったということです。 ですから、おじゅるさんもおっしゃっているように、廃仏毀釈によって神仏を分離すると共に、こういう日本古来の神道を切捨て葬り去ったのが、国家神道です。 古来、日本には八百万の神々がいたはずですが、それらを切り捨て、戦没者(の一部)のみを神に祀り上げた一神教にしたのが、靖国神社であり国家神道なのです。 以下のアドレスに、哲学者梅原猛氏と宗教学者山折哲雄氏の対談がありますので、よろしければご覧下さい。 http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-taidan/saiko1.htm http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-taidan/saiko2.htm http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-taidan/saiko3.htm また相良さんは、 「靖国神社にしても英霊の御霊を鎮めるとは、お国のために戦われたことへの感謝と、その犠牲を無駄には致しませんという誓いの場であると考えます。 ご先祖にとっては、子孫である現代に生きる私たちが平和で幸せに生きることを一番お望みであり、お喜びになることです。」 とおっしゃってますが、靖国参拝を主張し実行している政治家達の行動を見れば、 とても「私たちが平和で幸せに生きること」につながるとは思えません。 それどころか「その犠牲を無駄に」して、日本を戦争できる国にしようとしています。 言行不一致は政治家の最も得意とする所ですから、彼らの口先に騙されず、行動をしっかり見極めなければ、再び国民に戦争の惨禍が訪れることになりかねません。 |
▼MNGさん: >ですから、おじゅるさんもおっしゃっているように、廃仏毀釈によって神仏を分離すると共に、こういう日本古来の神道を切捨て葬り去ったのが、国家神道です。 横レスします。廃仏毀釈は、「国家神道」が行ったのではありません。神仏を分離するというのは、江戸期の神道研究の結果導き出された話であり、いわゆる廃仏毀釈は、「国家が」行ったのではなく、自然発生的な大衆運動です。これを「国家神道」と混同するのは誤りです。 また、「国家神道」が日本古来の神道を葬り去ったという理解もイデオロギー的見解です。むしろ「日本古来の」神道を純化するべくして江戸期の古学が浸透していったのであり、「切り捨て葬り去った」というのは事実に当たりません。 >古来、日本には八百万の神々がいたはずですが、それらを切り捨て、戦没者(の一部)のみを神に祀り上げた一神教にしたのが、靖国神社であり国家神道なのです。 これも全く事実と違います。国家神道とは、一神教ではありません。靖国神社にしてもどうしてこれが一神教であるのか、理解に苦しみます。靖国神社は、戦没者が唯一の神である、などと説明してはいないでしょう、またそれと国家神道を併置するなど、全く分かっていないとしか思いません。 >以下のアドレスに、哲学者梅原猛氏と宗教学者山折哲雄氏の対談がありますので、よろしければご覧下さい。 >http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-taidan/saiko1.htm >http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-taidan/saiko2.htm >http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-taidan/saiko3.htm 梅原氏は仏教の人であり、仏教擁護の立場から神道に対しては批判・攻撃的です。仏教は、江戸期には権力と結合して強力な体制を構築しておりましたが、明治になって権力から排除された立場となりましたので、そういう都合というものもあるのです。 >・・・靖国参拝を主張し実行している政治家達の行動を見れば、 >とても「私たちが平和で幸せに生きること」につながるとは思えません。 いや、つながります。と言うより、それそのものです。戦没者を神として参拝することなしに、どうしてその犠牲の上にある今の平和の値打ちが分かりますか。 >それどころか「その犠牲を無駄に」して、日本を戦争できる国にしようとしています。 これは全く理解が逆です。どうして靖国神社に参拝すると「日本が戦争できる国になる」のか、脈絡が不明です。 >言行不一致は政治家の最も得意とする所ですから、彼らの口先に騙されず、行動をしっかり見極めなければ、再び国民に戦争の惨禍が訪れることになりかねません。 むしろ何故靖国神社参拝が「戦争できる国になる」ことにつながるのか、霊を慰め、そのために祈ることが、戦争の惨禍につながるのか、その方が余程不可解な話だと思います。日本国の政治責任者が、今の日本国をあらしめている戦没者の慰霊をするのは至極当然のことです。それを危険視する方が、余程国民精神の荒廃を招く危険なことです。靖国神社参拝と、戦争参加とは、全く別の話です。 |
▼告天子さん: >▼MNGさん: >また、「国家神道」が日本古来の神道を葬り去ったという理解もイデオロギー的見解です。むしろ「日本古来の」神道を純化するべくして江戸期の古学が浸透していったのであり、「切り捨て葬り去った」というのは事実に当たりません。 一応補っておきますが、国家神道が何から何まで素晴らしかったとか、肯定せねばならない、ということではありません。また、神社の国家管理に辺り、多くの不合理や、消失した寺社があったことは事実です。しかし、国家神道により日本古来の古神道が「葬り去られた」というのは、極論でしょう。 |
▼告天子さん: >横レスします。廃仏毀釈は、「国家神道」が行ったのではありません。神仏を分離するというのは、江戸期の神道研究の結果導き出された話であり、いわゆる廃仏毀釈は、「国家が」行ったのではなく、自然発生的な大衆運動です。これを「国家神道」と混同するのは誤りです。 >また、「国家神道」が日本古来の神道を葬り去ったという理解もイデオロギー的見解です。むしろ「日本古来の」神道を純化するべくして江戸期の古学が浸透していったのであり、「切り捨て葬り去った」というのは事実に当たりません。 確かに江戸期にもそういう動きはあったがまだ限定的で、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのは、明治政府によって神仏分離令が出された後、その影響によってです。 「江戸期の古学が浸透して」自然発生したというのには無理があるでしょう。 今も昔も、お上のお先棒をかついで、扇動する輩がいるということでしょうか。 まあ「葬り去った」という表現は、少し感情的に過ぎましたが。 >>古来、日本には八百万の神々がいたはずですが、それらを切り捨て、戦没者(の一部)のみを神に祀り上げた一神教にしたのが、靖国神社であり国家神道なのです。 > >これも全く事実と違います。国家神道とは、一神教ではありません。靖国神社にしてもどうしてこれが一神教であるのか、理解に苦しみます。靖国神社は、戦没者が唯一の神である、などと説明してはいないでしょう、またそれと国家神道を併置するなど、全く分かっていないとしか思いません。 ここはキリがないので、やめておきます。 >梅原氏は仏教の人であり、仏教擁護の立場から神道に対しては批判・攻撃的です。仏教は、江戸期には権力と結合して強力な体制を構築しておりましたが、明治になって権力から排除された立場となりましたので、そういう都合というものもあるのです。 私が読んだ限りでは、それほど攻撃的とも思えませんでしたがね。 >いや、つながります。と言うより、それそのものです。戦没者を神として参拝することなしに、どうしてその犠牲の上にある今の平和の値打ちが分かりますか。 別に神にしなくても、仏様のままでも十分ありがたいですし、今の平和の値打ちも認識してますよ。それどころか、平和が最も大切だと思っています。 >これは全く理解が逆です。どうして靖国神社に参拝すると「日本が戦争できる国になる」のか、脈絡が不明です。 >むしろ何故靖国神社参拝が「戦争できる国になる」ことにつながるのか、霊を慰め、そのために祈ることが、戦争の惨禍につながるのか、その方が余程不可解な話だと思います。日本国の政治責任者が、今の日本国をあらしめている戦没者の慰霊をするのは至極当然のことです。それを危険視する方が、余程国民精神の荒廃を招く危険なことです。靖国神社参拝と、戦争参加とは、全く別の話です。 かなり前にも書きましたが、靖国は徴兵制の精神的支柱であり、戦争遂行に大きな役割を果たしました。単なる慰霊施設ではないのです。 私は【靖国参拝を主張し実行している政治家達の行動を見れば、とても「私たちが平和で幸せに生きること」につながるとは思えません。】と書きました。 つまり参拝が「戦争できる国になる」ことにつながるというよりも、日本を「戦争できる国」にしたい政治家が靖国に参拝し、ふたたび靖国を利用しようとしているように思います。 小泉総理は不戦の誓いとして靖国に参拝すると言いながら、イラクに自衛隊を派遣しました。 これこそ言行不一致でなくて何なのでしょうか。 自衛隊は復興支援だと言われるかも知れませんが、サドル師からはハッキリと「アメリカに味方する自衛隊は、我々の敵とみなす」と宣言されています。 不戦を誓うなら、戦争の可能性のある所には近付くべきではありません。 スレッドのテーマからは少しずれましたが、 結論は、「二枚舌・言行不一致の小泉は早よやめさらせ」です。 以上でこのスレッドへのレスは打ち止めにします。 |
横レスにお返事ありがとうございます。 ▼MNGさん: >>梅原氏は仏教の人であり、仏教擁護の立場から神道に対しては批判・攻撃的です。仏教は、江戸期には権力と結合して強力な体制を構築しておりましたが、明治になって権力から排除された立場となりましたので、そういう都合というものもあるのです。 > >私が読んだ限りでは、それほど攻撃的とも思えませんでしたがね。 リンク先の対談ではなく、別の本数冊を読んでの私の感想です。 >>いや、つながります。と言うより、それそのものです。戦没者を神として参拝することなしに、どうしてその犠牲の上にある今の平和の値打ちが分かりますか。 > >別に神にしなくても、仏様のままでも十分ありがたいですし、今の平和の値打ちも認識してますよ。それどころか、平和が最も大切だと思っています。 おおむね同意です。平和が大切だ、ということに、理論的な背景があるべき、というのが私の考えです。 >かなり前にも書きましたが、靖国は徴兵制の精神的支柱であり、戦争遂行に大きな役割を果たしました。単なる慰霊施設ではないのです。 ここは非常に難しいところですので、一概に決めつけたくはありません。靖国、とは「平和」の意である、とだけ申し上げてとどめることにします。 >私は【靖国参拝を主張し実行している政治家達の行動を見れば、とても「私たちが平和で幸せに生きること」につながるとは思えません。】と書きました。 政治家への批判は大いにすべきです。しかしそれと靖国神社への批判は混同すべきではないと思います。 >つまり参拝が「戦争できる国になる」ことにつながるというよりも、日本を「戦争できる国」にしたい政治家が靖国に参拝し、ふたたび靖国を利用しようとしているように思います。 非常に理解できます。政治利用ではなく、祈るということ、信仰ということにおいて、参拝をすべきであり、その厳粛さということは、心すべきものかと思います。 >小泉総理は不戦の誓いとして靖国に参拝すると言いながら、イラクに自衛隊を派遣しました。 >これこそ言行不一致でなくて何なのでしょうか。 >自衛隊は復興支援だと言われるかも知れませんが、サドル師からはハッキリと「アメリカに味方する自衛隊は、我々の敵とみなす」と宣言されています。 >不戦を誓うなら、戦争の可能性のある所には近付くべきではありません。 この箇所は、靖国神社とはずれる話になるのでコメントは避けますが、総理の判断は非常に高度な、将来を見通した政治判断であり、米国のことは私は支持しませんが、この件の総理の判断は支持しています。ただし、MNGさんのようなご意見があることも、当然のことだと思います。 >スレッドのテーマからは少しずれましたが、 >結論は、「二枚舌・言行不一致の小泉は早よやめさらせ」です。 >以上でこのスレッドへのレスは打ち止めにします。 了解です。 |
▼MNGさん: >・・・廃仏毀釈によって神仏を分離すると共に、こういう日本古来の神道を切捨て葬り去ったのが、国家神道です。 もう一つ追加しますと、国家神道というのは、言うなれば神社の国営化のような制度であって、基本的に「国家神道が廃仏毀釈をした」というのは、何というか、文章として成り立ちません。廃仏毀釈は、神仏分離令でしたか、そういう政令が出たのですが、それに基づいて「官憲が」やったのではなく、熱狂した民衆が、やった話であって、「国家神道がやった」、というようなものではありません。 |
廃仏毀釈によって神仏を分離すると共に、こういう日本古来の神道を切捨て葬り去ったのが、国家神道です。 古来、日本には八百万の神々がいたはずですが、それらを切り捨て、戦没者(の一部)のみを神に祀り上げた一神教にしたのが、靖国神社であり国家神道なのです。 確かにそのような働きがありました。古来からの古神道に対する弊害も認めながらも、私は伊勢神宮を参拝し、靖国神社に祭られている御霊に対し感謝の意を奉げます。そこは日本の文化が継承されていて、日本の誇れる宮であるからです。 日本人の心には、今も八百万の神々がいるという信仰は続いています。切り捨てる働きがあったことは事実ですが、人の心までは切り捨てられなかったのが救いです。国家神道、靖国神社、憲法問題でもそうですが、全部が良い、全部が悪いと決め付けないで、正すべきところは正すという考えでよいと思います。 戦後の教科書が黒く塗りつぶされましたが、そこが全部悪いのではありません。殆どは間違ってなかったから、是々非々で受け継ぎたい。 |
私より、告天子さんの見解が正しいと思います。 |
いえ、私も相良唯夫さんの書き込みを読んで考えたのですが、いわゆる「一神教」という言葉で特に国家神道が特徴的なのは、「天皇」ということが強くキリスト教的なイメージを以て語られた性格から、「一神教」とイメージづけられるのではないか、ということ・・・。 明治になり、日本が「日本」として、近代国家として成立して、その際に、Godの如き絶対者として天皇を位置づけたい色気がなかったかと言えば・・・西洋への対抗上、全くなかったとは言えないと思います。これが「一神教」とか、「古神道からは遠い」と批判される理由になっているのでしょう。 しかし、明治維新は、復古であると共に超革新です。全く新しい<、しかし最も古い日本の姿が現れたのであり、そういうことが、古い神道の枠を破っていること、また、仏教がこういうムーブメントの担い手となることはあり得なかったこと、非常にこの多面的な性格を持っているので、私は実は相良唯夫さんの書き込みを読んで、なるほど、確かにそれもそうだ・・・、と思ったのです。 |
八百万の神の起源を縄文時代にまでさかのぼるのなら、なおさら、神々の起源が恐れ、祟りにあるとの論旨には賛成していただけると考えます。ならば、その後の靖国神社への政府要人の参拝についての考えに何もおっしゃらないので、その部分にも賛成していただけたのだと考えます。 |
▼ナベ講師ねさん: >八百万の神の起源を縄文時代にまでさかのぼるのなら、なおさら、神々の起源が恐れ、祟りにあるとの論旨には賛成していただけると考えます。ならば、その後の靖国神社への政府要人の参拝についての考えに何もおっしゃらないので、その部分にも賛成していただけたのだと考えます。 ?。これは、告天子宛の書き込みですよね。 神の起源は、縄文時代にさかのぼるとか、そういう歴史の話ではないと思います。歴史は時間軸上の話ですが、神は「ある時点において成立した」というようなものではありません。神の起源が恐れ、祟りにある、というのは理性的立場による説明に過ぎず、神が恐れ、祟りを引き起こすことは間違いありませんが、それは神の起源の説明ではないし、神の起源など誰も知らないことです。 靖国神社への政府要人参拝については、すべきである、と意見を述べております。「その部分」とはどの部分なのか分からなかったので、賛成かどうかは保留させてください。 |
靖国神社についての議論、特に今スレで交わされているような内容については、これまでにもこのBBSで巨大なスレが立ち、かなり細かいところまで論じ尽くされていたと思います。 まだ過去ログに残っていると思いますので、皆様まずそちらを拝見されてはどうでしょうか。問う側も答える側も手間が省けますし、参考になると思いますが。 |
YOTA さま ありがとうございます。私の探し方がまずかったのかもしれませんが、確かに日中関係や総理の参拝問題の視点からはさまざまな議論が交わされているとは思います。しかし、私のどうしても気になる点は、「死生観」という部分なのです。 新聞などの公的なメディアに、そして政治家や有識者の談話等に軽々に「死生観」という言葉が用いられていること自体に、危うさを覚えるのです。 総理が伊勢神宮に参拝しても、誰かの葬式に参列しても、全国戦没者追悼式に参列しても、はたまた盧溝橋を訪れ、アーリントン墓地を訪れても、そこには「死生観」という言葉はあらわれてきません。靖国のときだけにこの言葉が使われるのです。 「死生観」という何となく高尚な響きのする言葉を隠れ蓑に、政治家や有識者は説明責任を放棄してしまっているように思えてならないのです。「日本人の死生観」といえば、まず思い浮かぶのが岩波新書の名著です。これは日米の学者が周到な討論を経て完成させた労作ですが、日中間にはこのような討論が行われないまま、「死生観」の政治利用が行われてしまっているのです。これは本当にゆゆしき事実だと思います。 |
▼おじゅるさん: >「死生観」という何となく高尚な響きのする言葉を隠れ蓑に、政治家や有識者は説明責任を放棄してしまっているように思えてならないのです。「日本人の死生観」といえば、まず思い浮かぶのが岩波新書の名著です。これは日米の学者が周到な討論を経て完成させた労作ですが、 おじゅるさんは死生観についてかなり詳しそうですね。どのような死生観をお持ちですか?私は死生観についての勉強をしたことはありませんが、中国と日本の死生観の違いは私なりの理解をしています。(一般に報道されている程度ですが) どこが隠れ蓑とされているのですか?じゃ、どう説明したらよろしいのでしょう? 護国神社等に参拝するのも同じ考えでしょうか? |
相良さま 私自身、特に勉強しているというわけではないのですが、「日本人の死生観」という形で単純化してしまうこと自体に違和感を感じるのです。新書2冊でも数名のケースしか取り上げることができないものなのですから……。 [39817]で風谷さまも指摘しておられるように、私のあげた菅原道真の例も、あくまで死生観の一つでしかないのです。 「日本人の」という形で、すべての日本人があたかも同じような死生観を持っているような錯覚を与えさせる言説に非常な違和感を感じるのです。「日本人の死生観」というくくりで、靖国参拝を語る限り、そこには「国家」の影が滑り込んできてしまいます。「生」はともかく、「死」は純粋に個人的な問題だと思います。たとえ、国のためという大義があるにしても、死ぬ瞬間は一個人の重大事以外の何ものでもないと思います。 森鴎外が遺書に一個人である「森林太郎」として死ぬのだとしたためた気持ちはよくわかりますし、クリスチャンの自衛隊員が靖国に祀られたくないと考える気持ちも私にはよくわかります。 それから、私がどうしても靖国になじめないのは、そこに「奥」が感じられず、いかにも都市計画にしたがって配置されたような非常に人工的な空間に思えるからです。もちろん都市の神社では、杜もなくコンクリートで固められたようなところもあるのですが、それでもその「場」に地霊を感じるところも少なくありません。靖国の場合、数百万人が祀られているにしては、木が少なすぎますし、霊が安らかに戻ってこられるような雰囲気ではないように思えてなりません。それこそ縄文以来の自然との一体感、共生という視点からは、何か重要なものがそぎ落とされてしまっているような印象を受けるのです。靖国神社が、明治天皇と昭憲皇太后の二柱だけをお祀りしている明治神宮に、参拝者数でどうしても勝てないのは、その辺に理由があるのではないでしょうか。 |
▼おじゅるさん、こんばんは、初めまして。 横から失礼します。 ちょっと気になったもので。 >クリスチャンの自衛隊員が靖国に祀られたくないと考える気持ちも私にはよくわかります。 この部分なんですが、これは「自衛官合祀拒否訴訟」の事を指しておられるのでしょうか? |
横レス失礼します、 ▼おじゅるさん: >相良さま >・・・「日本人の死生観」という形で単純化してしまうこと自体に違和感を感じるのです。 単純に言うべきことは単純な表現で問題ないのではありませんか。おじゅるさんの論によるなら、そもそも「日本人の死生観」ということ自体が表現不可能になるでしょう。多くの死生観が日本にはあるでしょうが、靖国神社に見る例などは、長い歴史の中で特に近代国家日本において醇化された一形式です。 >「日本人の」という形で、すべての日本人があたかも同じような死生観を持っているような錯覚を与えさせる言説に非常な違和感を感じるのです。 おじゅるさんは、「日本人の」と言うときに、それこそ縄文人や奈良時代、地域も時代もバラバラの「全ての日本人」についてそれが当てはまる必要がある、というのですから、むしろそういう語の理解法の方に問題があるのです。そういう一般化をするなら、およそどんな語も「違和感」を感じて当たり前です。 >「日本人の死生観」というくくりで、靖国参拝を語る限り、そこには「国家」の影が滑り込んできてしまいます。「生」はともかく、「死」は純粋に個人的な問題だと思います。たとえ、国のためという大義があるにしても、死ぬ瞬間は一個人の重大事以外の何ものでもないと思います。 そのことと、靖国神社の存在や、参拝の問題は矛盾しません。死ぬ瞬間はなるほど個人の重大事ですが、国のための大義があったこともまた間違いないのです。 >森鴎外が遺書に一個人である「森林太郎」として死ぬのだとしたためた気持ちはよくわかりますし、クリスチャンの自衛隊員が靖国に祀られたくないと考える気持ちも私にはよくわかります。 気持ちは分かっても、それは日本という国について深く考えての話ではないと思います。それは国家を私するの論です。公私の混同です。宗教の分裂がどんなに悲惨な結果をもたらすか、「気持ちは分かる」で済む話ではありません。そもそもカミ観念の違うクリスチャンのことは尊重すべきではあっても、いたずらに宗教対立をもたらすような「よく分かる」は無用かと思います。 >それから、私がどうしても靖国になじめないのは、そこに「奥」が感じられず、いかにも都市計画にしたがって配置されたような非常に人工的な空間に思えるからです。もちろん都市の神社では、杜もなくコンクリートで固められたようなところもあるのですが、それでもその「場」に地霊を感じるところも少なくありません。靖国の場合、数百万人が祀られているにしては、木が少なすぎますし、霊が安らかに戻ってこられるような雰囲気ではないように思えてなりません。それこそ縄文以来の自然との一体感、共生という視点からは、何か重要なものがそぎ落とされてしまっているような印象を受けるのです。 これは靖国神社の存在そのものは認めた上で、施設が整備されていない、ということですね。 >靖国神社が、明治天皇と昭憲皇太后の二柱だけをお祀りしている明治神宮に、参拝者数でどうしても勝てないのは、その辺に理由があるのではないでしょうか。 様々なネガティヴ・キャンペーンにもかかわらず、参拝者数は多い、ということも言えます。神社をそういう形で比較するのは、失礼だと思います。 |
告天子さま 「靖国神社に見る例などは、長い歴史の中で特に近代国家日本において醇化された一形式です。」というご発言にはどうしても納得できません。「醇化された」のではなく、近代国家形成のために切り捨てられたものがあまりに多いのではないかというのが私の考えです。切り捨てた結果、わかりやすくなったのかもしれませんが、前近代的といって切り捨てられたものの中にこそ、重要なものがあるのではないか、という予見を持つことは大切だと思います。 告天子さまは信仰はお持ちでしょうか。私は信仰の問題を自分のできる限りのところまで突き詰めてみましたが、まだ解答は得られていません。しかし、信仰は突き詰めれば突き詰めるほど、純粋に個人的な経験になってきます。個人が普遍的なものと完全に向き合ったときに、信仰が生まれるのではないかと思うのです。そこに国家権力が介入してくることにはどうしても耐えられないのです。靖国神社は国家権力抜きには語れません。そこにすべての問題が集約されてくるのです。 ここから、もう一度私の最初の疑問へ戻ることになります。なぜ、靖国参拝のときだけ「日本人の死生観」が取りざたされるのか。全国戦没者追悼式や広島・長崎の原爆慰霊祭は「死生観」の対象にはならないのか、ということです。靖国神社が近代国家日本において醇化された一形式なら、追悼式や慰霊祭は、戦後の平和国家日本建設の、そして現在進行形の日本の醇化された「死生観」の一形式と考えることができないのか、ということです。後者は靖国に見られる宗教性を排除しているという点で、さらに人工的なものに映るのかもしれませんが、靖国も明治以降の国家の装置として作り上げられたものだという点を十分に認識する必要があるのではないでしょうか。 あと、靖国神社が戦争相手国の兵士の霊を祀らないのはどうしてなのでしょうか。私は、A級戦犯を分祀する前に、戦争相手国の兵士の霊を丁重に祀ることから始めるべきだと思うのですが、どうしてそれができないのでしょうか。施設面での整備もさることながら、このくらい思い切った意識改革がない限り、靖国問題は次の段階へ発展できないのではないかと思うのです。 |
▼おじゅるさん: >どうしても納得できません。「醇化された」のではなく、近代国家形成のために切り捨てられたものがあまりに多いのではないかというのが私の考えです。 おじゅるさんの意見は、切り捨てられたものが多い、という否定を述べているだけで、近代国家日本と宗教の関係についてそれ以上のものを見ることが出来ません。 >切り捨てた結果、わかりやすくなったのかもしれませんが、前近代的といって切り捨てられたものの中にこそ、重要なものがあるのではないか、という予見を持つことは大切だと思います。 分かりやすくなったのではありません。分かりにくくなったから、様々なたとえば靖国神社に対する誤解的意識が蔓延しているのです。 そして、切り捨てられたものの中に「こそ」というのは、端的にそれが「近代的な神道のあり方」に対する全否定、につながるならば、それこそ根本的な歴史否定であると考えます。 重要なものがあるの「ではないか」、それは結構です。しかし、そのことがたとえば靖国神社などの存在そのものへの否定、近代日本そのものの否定につながるのであれば、大いなる誤りだと私は考えます。したがって、おじゅるさんの意見にこそ、私は同意しかねます。 >靖国神社は国家権力抜きには語れません。そこにすべての問題が集約されてくるのです。 それは誤りです。たんにおじゅるさんが国家権力と靖国神社とを混同しているに過ぎません。明治の国家なしには、靖国神社はあり得ません。しかし、明治国家を「権力」のみで考えて、自己と対立物として見なす国家観があなたに「靖国神社は国家権力抜きでは語れない」と言わせるのです。 また、国家と信仰というもののつながりについて、全的にその関係を否定する文脈からおじゅるさんの説が出るのです。いわば、国家性悪説、権力性悪説によるもので、私はそういう見方は一部は当たっていても、全てが当たっているとは思いません。ことに、日本建国の意義から考えれば、近代国家日本の成立は信仰なしにはあり得なかったものであり、明治維新史についての無反省から導かれるような説には私は反対します。 >なぜ、靖国参拝のときだけ「日本人の死生観」が取りざたされるのか。全国戦没者追悼式や広島・長崎の原爆慰霊祭は「死生観」の対象にはならないのか、ということです。 それは国家が関係ないからです。反国家、反権力、ということとつながりにくいからそうなるのでしょう。 >靖国神社が近代国家日本において醇化された一形式なら、追悼式や慰霊祭は、戦後の平和国家日本建設の、そして現在進行形の日本の醇化された「死生観」の一形式と考えることができないのか、ということです。 それが日本近代、近代国家としての日本のあり方を「否定する」ような死生観であれば、それで全てを塗りつぶされるべきではありません。一形式ではあっても、全てではない。 >後者は靖国に見られる宗教性を排除しているという点で、さらに人工的なものに映るのかもしれませんが、靖国も明治以降の国家の装置として作り上げられたものだという点を十分に認識する必要があるのではないでしょうか。 やはり反国家、国家性悪説がおじゅるさんの説の根底にはあると思います。国家の装置だから悪いのであれば、議会も裁判所もみな国家の装置です。 >あと、靖国神社が戦争相手国の兵士の霊を祀らないのはどうしてなのでしょうか。 それは以前に別の方が書いていました。靖国神社の意義とは別の話だからです。 >私は、A級戦犯を分祀する前に、戦争相手国の兵士の霊を丁重に祀ることから始めるべきだと思うのですが、どうしてそれができないのでしょうか。 意識改革と言うより、ハッキリ言ってあなたの意見は日本という国のあり方について根本的に否定した考えです。皇軍兵士を祀ることには反対・疑問基調でありながら、どうして旧敵国の兵士を祀るべきだと考えるのか、全く脈絡を見ません。そういう慰霊・追悼は、実は「慰霊する気などない」から言いうる意見なのではありませんか。 単に靖国神社解体の意見でしかありませんね。国家権力に信仰が関わるのが耐えられないなら、靖国神社で外国人を祀ることはどうして耐えられるのですか。 |
要するに、国家神道は日本の古道を切り捨てている、日本の信仰を国家に結びつけてしまうものだから納得できない、こういうのは全的に否定して、国家と結びつかない神道にとどめるべき・・・ というのは、GHQの神道指令の引き写し以上のものとは思いません。 神道指令が何故合ったかと言えば、日本国と神道の精神的な結びつきを完全に排除するため、です。 おじゅるさんの説によるなら、国家機関である「天皇」などは、それこそ否定される筋合いです。 あなたの説は、私は全く認めることが出来ません。 |
おじゅるさんの説からすれば、信仰と結びついた明治維新、明治国家は、否定される筋になります。神道信仰のない明治維新などあり得ず、また、日本という統一国家そのものからして、そうです。 縄文時代だの何だのを持ち出すなら、明治において生まれた新しい、そしてまた分かりにくくもある、近代国家日本、またそこにおける信仰の形というのは、「日本的でない」とも「それが日本の全てではない」とも、何とでも言いうるでしょう。 しかし、「それこそが」日本の近代だった。全く関係ない部外者の立場から、そこにおける信仰史を「権力と結びついている」と否定し、果ては外国人をも祀るのが意識改革、など、とんでもない意見です。無責任極まります。 歴史の無視と、心情主義、そして無責任、そういうのに基づいた政治意見は、全面否定します。 |
>なぜ、靖国参拝のときだけ「日本人の死生観」が取りざたされるのか。 中国や韓国から靖国神社への参拝を反対される筋合いのものではないということから、「死生観が違う」言われたのではありませんか? それ以外に死生観について取り沙汰されているのですか? 私が知らないだけでしたらお許しください。 日本には亡くなった人にまでムチ打つという習慣はないから「祖国日本のために戦った人に感謝の意を奉げる」ということにとどめてはいけないのですか? >「醇化された」のではなく、近代国家形成のために切り捨てられたものがあまりに多いのではないかというのが私の考えです。 例えば何が切り捨てられましたか? >純粋に個人的な経験になってきます。個人が普遍的なものと完全に向き合ったときに信仰が生まれるのではないかと思うのです。そこに国家権力が介入してくることにはどうしても耐えられないのです。 我が家にも先祖代々からの信仰がありますが、それを阻害されているとは思いません。どこにどうしても耐えられない国家権力が介入しているかもわかりません。具体的にお教えくだされば幸いです。ちなみに我が家は先祖代々から浄土真宗の信仰がありますが、伊勢神宮にも靖国神社にも、その他古神道の宮にも参拝し、八百万の神々にも感謝の意を奉げています。 |
▼おじゅる殿: >「日本人の死生観」を考えるためには、少なくとも古事記・日本書紀の世界にまでさかのぼる必要がありますし、仏教を受容して、独自の宗教世界を作り上げた古代・中世・近世の精神世界を考えなければ、その理解は不可能です。 >靖国神社を参拝することが、伊勢神宮を参拝することと同程度に考えられているとしたら、それは大きな間違いです。 > >日本古来の伝統では、人を神として祀る典型は菅原道真に見られます。これはそもそも、道真の怨念を鎮めるために神社がつくられたわけです。各地の御霊神社も同様です。ここで重要なのは、「怨念を鎮める」という意味合いです。この怨念は個々人の怨みの感情であり、それが現世に害を及ぼすことを恐れて、人々が神社でお祀りをするわけです。 菅原道真は当時の天皇の引き立てで右大臣に出世したが、左大臣藤原時平の陰謀で大宰府に左遷された。 そして、彼がその地で亡くなると天災があいついだ。 貴族のあいだでは政争に敗れた者の霊が怨霊となり祟るとする考えが、平安時代初め頃に中国から入った道教的発想からあった。 それ以前にも怨霊を祭る御霊信仰はあったが、道真をきっかけとして天災を鎮めようとする御霊信仰のピークが訪れた。 そして、各地に天満宮や天神社がつくられた。 ↑と言うだけであって、これもまた「日本人の死生観」の全てではない。 日本人の根底には祖先崇拝がある。 稲作の伝来とともに定着農耕を営むようになると、それは自然発生的に生まれた。 田畑や灌漑施設などを祖先が苦労して作り上げ、その子孫達はそれにより豊かにもなっているわけである。 それに感謝するのは当然であろう。 靖国神社もそれと何ら変わりないではないか。 |
新年お目でとう御座います 初めて参加させていただきます。頑爺と申しましす宜しく おじゅるさん 告天子さん そして多くの投稿者の皆さん宗教講義は正月早々から派手ですが、此れの発生の起源は【小泉】の靖国問題でしょう。 頑爺は僅か60年前の歴史を突付き廻してこの様に騒ぐ事が出来るのか不思議です。どんなに騒いでも(たとえば虐殺二百万人が二千万人でも)多くの人を虐殺したのは事実です。 この事実を32年前(1972年田中首相が)「両国の間には一時不幸時期も有りましたが」・・・・・と謝罪しました。 これに対し中国は「一部の右翼国粋主義者の起こした事です、皆さん(日本人全て)も被害者です」と慰められ、平和締結をしたのです。この時日本は感謝したものでしたす。 その後頑爺は旅行はツアーばかりですが、中国には6回程行きました、その時至る所で「いえいえ軍閥が悪いのですよ、皆さんも被害者です」と至る所でガイが言うのです、勿論職業柄でしょうが。そんな雰囲気でした。その後日本代表が靖国に参拝する様になり、最初はジンワリと中国からは「遺憾」の表現をしていましたが、だんだんエスカレートして国務大臣の参拝が増えてきました。その都度中国は「遺憾」の表明をして来ました。と同時に国内では歴史教育を始めました。 大戦の60年前の痛み・苦しみ・残虐の悲しみを受けた人々は8月15日が来れば痛み・苦しみ・悲しみは思い出すものです。しかも毎度毎度「遺憾」の警告を受けながら拝に行く日本人に友好な気持ちになれるでしょうか。謝罪してもこの様に心の底から許される為には相手から「もう良いですよ解かりました」と言はれる迄待べきです。怨讐がとは百年も二百年も経たなければ消えないものです。 此処で初めて「遠好近攻」の言葉を見ました。身近な所から仲良くならなければ成りません、 【小泉】早く辞めよ。 |
▼頑爺さん: 初めまして。新年おめでとうございます。今日は成人の日ですね。 中国と靖国神社の関係ですが, 頑爺さんの見解では次のようになるということですか? 中国では日中戦争の原因を右翼指導者のせいだとしていた。 (中国,周恩来元首相がこういう発言をしたことはわたしも同意) ↓ 日本の指導者が靖国神社参拝を始めた。 ↓ 中国がやんわりと止めたが,止められなかった。 ↓ 中国が反日教育を始めた。 ↓ 中国に反日の雰囲気が広まった。 こういう展開であると理解している,というのが,頑爺さんの見解ですか? |
こんにちは、初めまして。 ▼頑爺さん: >此れの発生の起源は【小泉】の靖国問題でしょう。 靖国問題は別段小泉首相が始めたものではありません。 >どんなに騒いでも(たとえば虐殺二百万人が二千万人でも)多くの人を虐殺したのは事実です。 南京「大虐殺」には近年多くの疑問が投げかけられていますが、殺しというのは大変不幸なことです。互いにとって、不幸な歴史でした。 >この事実を32年前(1972年田中首相が)「両国の間には一時不幸時期も有りましたが」・・・・・と謝罪しました。 謝罪、というのは表現が一方的だと思います。日中友好を害するものです。 >これに対し中国は「一部の右翼国粋主義者の起こした事です、皆さん(日本人全て)も被害者です」と慰められ、平和締結をしたのです。この時日本は感謝したものでしたす。 これは中国側の好意的な姿勢であり、互いの不幸を慰め合うということでは結構なことかと存じますが、「一部の右翼国粋主義者の起こしたこと」は中国側の史観であり、日本側がそれに従う必要はないでしょう。また、中国革命における日中の志士の協力、友情の歴史というものがあってこそ、中国側の行為もあるのでしょう、戦後も大陸に残って、軍事指導をした皇軍兵士もいたという話を聞いたことがあります、日中関係を変な具合に歪めてはなりません。 >・・・、その時至る所で「いえいえ軍閥が悪いのですよ、皆さんも被害者です」と至る所でガイが言うのです、勿論職業柄でしょうが。そんな雰囲気でした。 そう説明しておけば、さわりがないからです。 >その後日本代表が靖国に参拝する様になり、最初はジンワリと中国からは「遺憾」の表現をしていましたが、だんだんエスカレートして国務大臣の参拝が増えてきました。その都度中国は「遺憾」の表明をして来ました。と同時に国内では歴史教育を始めました。 いわゆる反日教育は、日中の友好を傷つけるもので、本当に残念なことだと思います。 >大戦の60年前の痛み・苦しみ・残虐の悲しみを受けた人々は8月15日が来れば痛み・苦しみ・悲しみは思い出すものです。しかも毎度毎度「遺憾」の警告を受けながら拝に行く日本人に友好な気持ちになれるでしょうか。 そこが「互いに不幸な歴史」を持ったことの問題です。日本は中国ではないのです。我々は他人なのです。日本側は余程のことがない限り、中国に遺憾の意の表明などしません。中国のような大国が、日本人の心を傷つけるような警告を発し続けることは、まことに残念です。 >謝罪してもこの様に心の底から許される為には相手から「もう良いですよ解かりました」と言はれる迄待べきです。怨讐がとは百年も二百年も経たなければ消えないものです。 然り、じっと待って、友好関係を築かねばなりません。難しいことでしょうが・・・。 >【小泉】早く辞めよ。 唐突な印象を受けます。 |
私の叔父もシベリアで亡くなっています、しかし一族は靖国に祭られる事うんぬんよりも、戦争が二度と起こらない事の方を願っています。 日本人の気質の形成は遥か古代にまで遡りますし、民族的にもシベリア方面から南下してきた部族や、中国大陸から渡ってきた部族、南方から北上してきた部族と様々に分かれます。 それらがそれぞれの文化を融合させながら形成されたのが大和民族ですが、日本人としての誇り等を持ち出し、靖国に祭られる事がさも日本人の総意であり御霊を尊重するように考えるのは、個人の考えとしてはそれでも良いとは思いますが如何にも思想統一を画策しているように思えて恐ろしく感じられます。 又それ等によって隣国を見下したり、戦時中の日本の行動を正当化したり、それに反対する意見を戦死者に対する侮辱のように言い表すのは如何なものでしょうか。 天皇家ですら一豪族の中の一つであって、日本統治の為に各部族の神話を自己の為に利用したと言う話もありますから、神話等に起因する単一民族的考え方に執着するのは、多様な意見を締め出す元であり、全く根拠が無いものです。 既に考古学的には日本人は複数の民族が融合して形成されたものと言う事は明らかになっているのですから、内に閉じこもって隣国を敵視し攻撃的になるよりも、如何に争いを避けて友好的にやっていくかを真剣に考えるべきでしょう。 そう言った意味で政教分離原則にすら抵触している政治家の靖国参拝賛成論には、世界の世論に与える影響やその違法性を考えずに行うものではないと私は考えています。 |
▼ニックさん: >そう言った意味で政教分離原則にすら抵触している政治家の靖国参拝賛成論には、世界の世論に与える影響やその違法性を考えずに行うものではないと私は考えています。 ニックさんの見解では,伊勢神宮参拝はどうなりましょうか? 靖国が憲法に抵触しているのならば,伊勢神宮も同じでしょうね。 民主党の岡田氏なども,伊勢神宮には参拝していますが,かれも憲法違反なのでしょうか? |
▼ニックさん: ニックさんこんにちは。お久しぶりです。 >・・・日本人としての誇り等を持ち出し、靖国に祭られる事がさも日本人の総意であり御霊を尊重するように考えるのは、個人の考えとしてはそれでも良いとは思いますが如何にも思想統一を画策しているように思えて恐ろしく感じられます。 それは杞憂であると思います。「日本人としての誇り」を持つのはよいことだと思いますし、勿論、短絡的に御霊信仰が暴力に結びつくのならばそれは問題ですが、そういう「思想統一」のような形になるなら、それはそうする者に落ち度があるのです。 >又それ等によって隣国を見下したり、戦時中の日本の行動を正当化したり、それに反対する意見を戦死者に対する侮辱のように言い表すのは如何なものでしょうか。 自国に誇りを持つことで、己を尊しとし、毅然とすることも大事なことです。自己を見失って、他国の言いなりになり、戦時中の日本のすることなら何でも悪かったと卑屈に先人を貶めることが横行してきた反動もあるのでしょう。 >天皇家ですら一豪族の中の一つであって、日本統治の為に各部族の神話を自己の為に利用したと言う話もありますから、・・・ そういう見方も出来ますね。しかし、「自己のため」ばかりであるなら、そのような天皇家を仰ぎ続けた日本人の歴史というのは、やはり分からなくなると思います。 >・・・神話等に起因する単一民族的考え方に執着するのは、多様な意見を締め出す元であり、全く根拠が無いものです。 生物学的な単一民族、というのは確かに根拠がありませんね。 >既に考古学的には日本人は複数の民族が融合して形成されたものと言う事は明らかになっているのですから、・・・ その通りだと思いますが、考古学だけでなく、精神史、思想史という見方も出来るでしょう。 >・・・内に閉じこもって隣国を敵視し攻撃的になるよりも、如何に争いを避けて友好的にやっていくかを真剣に考えるべきでしょう。 それもその通りだと思います。しかし、やはり隣国の実情というのも知ることは大事であり、いたずらに敵視するとなく、事実を見ることが大事でしょう。その上で、敵視する、ということは当然あり得ると思いますが。好んでそうすることもありますまい。 >そう言った意味で政教分離原則にすら抵触している政治家の靖国参拝賛成論には、世界の世論に与える影響やその違法性を考えずに行うものではないと私は考えています。 政教分離原則は、極めて特殊な性格を持つものであり、もともとキリスト教国における教会権力と世俗の国家権力とのせめぎ合いの中から生まれたものです。こういうものが日本国の現実に適合するものかどうか、疑問に思いますね。でも、政治家の靖国参拝は「違法性」の問題と言うより、政治的見地から、する、しないを考えてのことでしょう。 |
▼告天子さん: 告天子様、こんばんは >それは杞憂であると思います。「日本人としての誇り」を持つのはよいことだと思いますし、勿論、短絡的に御霊信仰が暴力に結びつくのならばそれは問題ですが、そういう「思想統一」のような形になるなら、それはそうする者に落ち度があるのです。 後半部分はおっしゃる通りと思いますが、杞憂に思えないのは特にこの手の発言者の中に暴力的な発言が多いことです、その者に落ち度があるというのはそのとおりだと私も思いますが、あなたのように冷静に議論できる方が、特に靖国関連の支持者には少ないことがその根拠の一つになっています。 >自国に誇りを持つことで、己を尊しとし、毅然とすることも大事なことです。自己を見失って、他国の言いなりになり、戦時中の日本のすることなら何でも悪かったと卑屈に先人を貶めることが横行してきた反動もあるのでしょう。 自分の生まれた国ですから好んで自国を悪く言いたい人間は居ないと私は思います、それが何故か政府批判、戦争時の軍隊の行動を批判すると「日本を悪く言いたがる」、「そんなに日本が嫌なら出て行け」と言いたがる人間が存在する事はあなたも理解されている事と思います。 そして第二次大戦で日本軍が言い訳できない蛮行を行なった事も事実です、しかし欧米が批判できる立場ではない事もまた事実です、それは日本が欧米の真似をした結果がそれであるからです。 そう言った意味では日本の過去の行動批判を面白く思わない方も確かにいらっしゃるでしょうが、問題は「過去の行動を反省しこれからは二度と同じ過ちはしない」事であり、その為の議論を「日本を誇る」や「あいつらは日本を嫌っている」と言う事をもちだして過去の行動を正当化し批判するのは問題があると言う事です >そういう見方も出来ますね。しかし、「自己のため」ばかりであるなら、そのような天皇家を仰ぎ続けた日本人の歴史というのは、やはり分からなくなると思います。 天皇家は確かに統治者として長い間日本に君臨してきました、日本人のアイデンティティ形成に深く関与している事は否めませんが、それを持ち出して人間形成に故意に影響を与える必要は無いと思います、自我はあくまで個人が独力で作り上げるものであり、集団が強制して形成するものでは無いのではないでしょうか。 そう言った意味で事ある毎に「日本人の伝統のあらわれ」と評し、如何にもこれを尊重しないのは日本人ではないのような方向へ話を持っていく風潮や発言は問題だと考えます。 |
>その通りだと思いますが、考古学だけでなく、精神史、思想史という見方も出来るでしょう。 もちろん長い歴史の中で形成されてきた民族の文化も有りますし、それを否定するものでは有りませんが、だからと言って単一民族であると言う根拠も皆無であるにもかかわらず、わが国の民族形成に深く関わった特定隣国を排斥し、日本人の誇りを単一民族の誇りであるかのように評し、特定民族を認めないのは問題があると思います。 又、そう言う部分に固執していてはグローバルな考え方が出来なくなる元凶にもなりかねません。 >>・・・内に閉じこもって隣国を敵視し攻撃的になるよりも、如何に争いを避けて友好的にやっていくかを真剣に考えるべきでしょう。 > >それもその通りだと思います。しかし、やはり隣国の実情というのも知ることは大事であり、いたずらに敵視するとなく、事実を見ることが大事でしょう。その上で、敵視する、ということは当然あり得ると思いますが。好んでそうすることもありますまい。 この部分はおっしゃる通りと思います、私も中国や北朝鮮の問題点は認識していますので、このままで良いとは思いませんが、だからと言って感情に任せて敵視するのは非常に危険だと思います(ちなみに北朝鮮への経済制裁に関しては私は反対しておりません) その部分が老人党掲示板で繰り返し中国・北朝鮮敵視発言を繰り返す方々には色濃く見える為に、「相手を敵視しても何の解決にもならない」と私は繰り返し述べさせていただいていますが、それが中国に媚びていると一部の方には見えているのでしょう。 >政教分離原則は、極めて特殊な性格を持つものであり、もともとキリスト教国における教会権力と世俗の国家権力とのせめぎ合いの中から生まれたものです。こういうものが日本国の現実に適合するものかどうか、疑問に思いますね。でも、政治家の靖国参拝は「違法性」の問題と言うより、政治的見地から、する、しないを考えてのことでしょう。 世界の歴史を見ても日本の歴史を見ても、宗教が政治に影響を与えた為に国民が悲惨な境遇に陥ったというのは最早疑うべくも無い事です。 イスラム原理主義は宗教の名の元に破壊活動を止めませんし、日本でも戦国時代には僧侶が反乱を煽り、政情を不安定にさせた例もありますし、弓削道鏡の例も有名です、中国では黄布の乱の例もあります。 特定の権威や宗教の権威を持ち出して統治に口を出す事の危険性がある為に政教分離主義が形成されてきた事は否めません、それは創価学会が日本を統治した時に一体どうなってしまうのかを想像すれば良く分かると思います。 政治的見地と政教分離の見地から見て、靖国参拝時に公用車を使ったり「内閣総理大臣小泉」のように書くのはやはり問題があると私は思います。 思いつくままに書いてみましたが冷静に議論できた事に感謝致します、これからもよろしくお願いいたします。 |
▼告天子さん、こんばんは。はじめまして。 >>日本人の気質の形成は遥か古代にまで遡りますし、民族的にもシベリア方面から南下してきた部族や、中国大陸から渡ってきた部族、南方から北上してきた部族と様々に分かれます。 >>・・・神話等に起因する単一民族的考え方に執着するのは、多様な意見を締め出す元であり、全く根拠が無いものです。 >生物学的な単一民族、というのは確かに根拠がありませんね。 >>既に考古学的には日本人は複数の民族が融合して形成されたものと言う事は明らかになっているのですから、・・・ >その通りだと思いますが、考古学だけでなく、精神史、思想史という見方も出来るでしょう。 これらの点ですが、人種と民族が混同されている様に思えます。 人種とは、種族のルーツの様な、生物学的なもの。 民族とは、独自の文化、言語、宗教、習慣などを共有する集団をいいます。 この意味では、日本人を単一人種とするのは間違いだと思います。 しかし、我々は日本に於いて独自の文化を持ち、言語、宗教、習慣などを共有しています。 そうであるなら、私は日本人は単一民族だと思うのですが。 |
▼松さん: >▼告天子さん、こんばんは。はじめまして。 こちらこそ、はじめまして。よろしくお願いします。 >これらの点ですが、人種と民族が混同されている様に思えます。 > >人種とは、種族のルーツの様な、生物学的なもの。 >民族とは、独自の文化、言語、宗教、習慣などを共有する集団をいいます。 > >この意味では、日本人を単一人種とするのは間違いだと思います。 民族は文化的な概念である、ということですね。納得です。私は人種的な意味合いを混ぜて考えてしまいがちなんですが、「人種」という言葉でハッキリと出されると、違いがよく分かりました。 >しかし、我々は日本に於いて独自の文化を持ち、言語、宗教、習慣などを共有しています。 > >そうであるなら、私は日本人は単一民族だと思うのですが。 そうですね。内に多様性を持った、深みを持った単一民族、だと思います。 憲法調査会でも、「多様性」の方ばかり強調して、「日本民族」みたいなものはないんだ、というような意見もあったように思うのですが、やはり民族の統合性、ということは抜きに出来ない。日本の場合はアメリカなどとは違って特殊な性格はありますが、「日本民族」というと、ぴったりした表現であるように思いますね。 ▼ニックさん お返事ありがとうございます。まとめての書き込みで失礼しますが、大きく見て、おおむね、反対意見はありません。 国粋・愛国的精神がむしろ自分の場合は中途半端なので、戦闘精神が足りないのではないかと自分では思っておるのですが・・・。強い意志で対立を恐れず書き込みをする方のことは、私は尊敬のまなざしで見ておるんですけど・・・。 何はともあれ、また機会があればよろしくお願いします。 |
▼ニックさん: >私の叔父もシベリアで亡くなっています、しかし一族は靖国に祭られる事うんぬんよりも、戦争が二度と起こらない事の方を願っています。 戦争が起こらないことは日本人共通の願いであり、起こさせてはならないと考えるのは当然です。じゃ、どうしたら戦争を防げるかであると思います。 >それらがそれぞれの文化を融合させながら形成されたのが大和民族ですが、日本人としての誇り等を持ち出し、靖国に祭られる事がさも日本人の総意であり御霊を尊重するように考えるのは、個人の考えとしてはそれでも良いとは思いますが如何にも思想統一を画策しているように思えて恐ろしく感じられます。 日本人が日本人の誇りを持ち出すのは当然でしょう。日本に対し誇りを持つから愛国心も生まれてきます。自国を愛せない者は政治を司ることは出来ませんし、まして他国を愛し尊重することなど出来ません。自国を愛するが故に、よりよい日本にするために、日本はどうあるべきかと考えるのでしょう。 冷静にお考えになって、思想統一を画策しているように思われるならば、この掲示版において、主義主張の異なる人の話を聞こうとせず、排除する論理は思想統一と思われますが如何でしょう? >又それ等によって隣国を見下したり、戦時中の日本の行動を正当化したり、それに反対する意見を戦死者に対する侮辱のように言い表すのは如何なものでしょうか。 > >天皇家ですら一豪族の中の一つであって、日本統治の為に各部族の神話を自己の為に利用したと言う話もありますから、神話等に起因する単一民族的考え方に執着するのは、多様な意見を締め出す元であり、全く根拠が無いものです。 > >既に考古学的には日本人は複数の民族が融合して形成されたものと言う事は明らかになっているのですから、内に閉じこもって隣国を敵視し攻撃的になるよりも、如何に争いを避けて友好的にやっていくかを真剣に考えるべきでしょう。 > >そう言った意味で政教分離原則にすら抵触している政治家の靖国参拝賛成論には、世界の世論に与える影響やその違法性を考えずに行うものではないと私は考えています。 |
>>又それ等によって隣国を見下したり、戦時中の日本の行動を正当化したり、それに反対する意見を戦死者に対する侮辱のように言い表すのは如何なものでしょうか。 言うまでもなく隣国を見下ろすべきではありません。戦争に対する過ちは過ちとして見るのは当然です。その人をも戦死者に対する侮辱とは申しません。 靖国神社に祀られている御霊に対し、感謝の意を奉げることを「戦時中の日本の行動を正当化している」と捉えない方がよいと思います。 |
▼相良唯夫さん: >>>又それ等によって隣国を見下したり、戦時中の日本の行動を正当化したり、それに反対する意見を戦死者に対する侮辱のように言い表すのは如何なものでしょうか。 > >言うまでもなく隣国を見下ろすべきではありません。戦争に対する過ちは過ちとして見るのは当然です。その人をも戦死者に対する侮辱とは申しません。 >靖国神社に祀られている御霊に対し、感謝の意を奉げることを「戦時中の日本の行動を正当化している」と捉えない方がよいと思います。 こういう正論が通らないところに老人党の悲劇を感じます。 |
▼天正さん: >▼相良唯夫さん: >>>>又それ等によって隣国を見下したり、戦時中の日本の行動を正当化したり、それに反対する意見を戦死者に対する侮辱のように言い表すのは如何なものでしょうか。 >> >>言うまでもなく隣国を見下ろすべきではありません。戦争に対する過ちは過ちとして見るのは当然です。その人をも戦死者に対する侮辱とは申しません。 >>靖国神社に祀られている御霊に対し、感謝の意を奉げることを「戦時中の日本の行動を正当化している」と捉えない方がよいと思います。 > >こういう正論が通らないところに老人党の悲劇を感じます。 靖国神社は幕末のころ、倒幕のために戦って死んだ人々を祭った各地にあった「招魂神社」の総本山として建てられたことを考えれば、日本の改革を叫ぶ老人党の方達と通じるものがあるんですがね。 靖国神社を知らずに語っている方が多いようです |
▼天正さん(40208): Ray@スタッフです。 この書き込みは、掲示板のルールのうち * 差別的意図があると判断されるもの、もしくは差別用語を含む文章 * 元投稿者の人格を否定する内容、誹謗中傷、脅迫的な文章 * 読み手を不快にすることで掲示板の混乱を招くことを意図する文章、もしくはその恐れのある文章(いわゆる「荒らし」行為) に抵触する可能性が高いものですので警告いたします。 同様の書き込みが繰り返される場合には 掲示板のルールを遵守する意志のないものとして 削除および書き込み禁止措置の対象と見なします。 なお、この件に関するご意見は、私の書き込みへの 返信としてではなく、スタッフ連絡板にお書きください (総合掲示板に書かれたご意見には原則としてレスいたしません)。 よろしくお願いいたします。 |
老人党掲示板は、ここのスレッドみたいに右の人と左の人の冷静で静かなガップリ四つが見たいよ。 右と左の幼稚な罵り合いは勘弁。 |
▼観覧車さん: >老人党掲示板は、ここのスレッドみたいに右の人と左の人の冷静で静かなガップリ四つが見たいよ。 ではな、右でも左でもない者の言葉も聞いてくだされ 靖国なんぞ神社以上でも以下でもない、ただそれだけの存在だ 日本人の死生観だと、笑わせてくれるなよ靖国と日本人の関わりはある一部分の日本人だけのものだ あそこに祀られて居られる人だけを日本人とでも言うような言い方は断じてゆるさん |
▼こころさん: >▼観覧車さん: >>老人党掲示板は、ここのスレッドみたいに右の人と左の人の冷静で静かなガップリ四つが見たいよ。 > >ではな、右でも左でもない者の言葉も聞いてくだされ >靖国なんぞ神社以上でも以下でもない、ただそれだけの存在だん>日本人の死生観だと、笑わせてくれるなよ靖国と日本人の関わりはある一部分の日本人だけのものだ 大東亜戦争で戦死した方の子孫である私たちは好むと好まざるとに関わらず、関わりはあるのですよ。 決して「一部の日本人」のものではありません。現に年間参拝者は700万人もいるのですから。(アメリカのアーリントン墓地は400万人です)「ライブドアの世論調査」でも小泉参拝を70%の人が支持しています。むしろ「靖国神社を毛嫌いしている方」の方が少数派ではないでしょうか? >あそこに祀られて居られる人だけを日本人とでも言うような言い方は断じてゆるさん 私は東京に住んでいますから年に何度も参拝させて頂いておりますが、そのように思ったことは一度もありません。そう言う事を言う方にも会った事がありません。何かの誤解かと思いますよ。 下記はイラクで死亡したジャーナリスト橋田信介さんが生前「靖国神社」について書いていた事です。ご参考になればと添付させていただきます。 http://www.ubenippo.co.jp/skiji/hashida/bababobo2003/2003_3.htm |
龍馬さん、 > ...(略) > 私は東京に住んでいますから年に何度も参拝させて頂いて > おりますが、そのように思ったことは一度もありません。 > そう言う事を言う方にも会った事がありません。何かの > 誤解かと思いますよ。 このように東京人をみな同質とみなすところに、靖国派の 挙国一致体質がよくあらわれていますね。 東京人は、こんなくだらぬことを日常の会話で取り上げは しないでしょう。ぼくは時に皇居周辺まで散歩で出かける こともあったし、靖国のそばを歩くこともあったけれど、 道ゆく人と犬の話題でおしゃべりすることはあっても、 靖国問題で盛り上がったことなど一度もないです。あなたと 散歩の途中でお会いしたかどうかは知りませんが。 |
▼トビパパさん: >龍馬さん、 > >> ...(略) >> 私は東京に住んでいますから年に何度も参拝させて頂いて >> おりますが、そのように思ったことは一度もありません。 >> そう言う事を言う方にも会った事がありません。何かの >> 誤解かと思いますよ。 > >このように東京人をみな同質とみなすところに、靖国派の >挙国一致体質がよくあらわれていますね。 そうとうに偏屈な方なのでしょうか?「東京人をみな同質とみなす」って? あなたは靖国神社を知ろうとせず、毛嫌いするだけの方のようですね。 私はあなたにレスしたのではありませんからね。 残念! > >東京人は、こんなくだらぬことを日常の会話で取り上げは >しないでしょう。ぼくは時に皇居周辺まで散歩で出かける >こともあったし、靖国のそばを歩くこともあったけれど、 >道ゆく人と犬の話題でおしゃべりすることはあっても、 >靖国問題で盛り上がったことなど一度もないです。あなたと >散歩の途中でお会いしたかどうかは知りませんが。 |
▼龍馬さん(40830): Ray@スタッフです。 この書き込みは、掲示板のルール(投稿内容、転載、引用その他/ 字種、文字数の制限)のうち 1. 伏せ字、隠語の使用および掲示板を混乱させる恐れのある投稿は禁止 2. 差別、誹謗中傷、侮蔑、罵倒、脅迫または他者を傷つける恐れのある表現は禁止 に抵触する可能性がありますのでご注意申し上げます。 掲示板にお書きの際は表現にご留意ください。 なお、この件に関するご意見は、私の書き込みへの 返信としてではなく、スタッフ連絡板にお書きください (総合掲示板に書かれたご意見には原則としてレスいたしません)。 よろしくお願いいたします。 |