Page 2288 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼国旗・国家 2 とうろう 05/1/16(日) 19:17 ┗Re(1):国旗・国家 2 遍巳亭 05/1/16(日) 19:53 ┣Re(2):国旗・国家 2 とうろう 05/1/16(日) 21:49 ┃ ┗Re(3):国旗・国家 2 遍巳亭 05/1/16(日) 22:59 ┃ ┗Re(4):国旗・国家 2 とうろう 05/1/16(日) 23:38 ┣Re(2):国旗・国家 2 相良唯夫 05/1/16(日) 21:50 ┃ ┣Re(3):国旗・国家 2 遍巳亭 05/1/16(日) 22:26 ┃ ┃ ┗Re(4):国旗・国家 2 相良唯夫 05/1/16(日) 23:11 ┃ ┗Re(3):国旗・国家 2 イワオ 05/1/18(火) 2:23 ┃ ┗Re(4):国旗・国家 2 相良唯夫 05/1/18(火) 12:06 ┃ ┗Re(5):国旗・国家 2 イワオ 05/1/19(水) 2:17 ┃ ┗Re(6):国旗・国家 2 相良唯夫 05/1/19(水) 11:04 ┃ ┗Re(7):国旗・国家 2 イワオ 05/1/21(金) 2:10 ┃ ┗Re(8):国旗・国家 2 相良唯夫 05/1/21(金) 21:08 ┃ ┗Re(9):国旗・国家 2 めだま君 05/1/21(金) 22:42 ┃ ┗Re(10):国旗・国家 2 相良唯夫 05/1/22(土) 0:38 ┃ ┗Re(11):国旗・国家 2 めだま君 05/1/22(土) 1:02 ┃ ┗Re(12):国旗・国家 2 相良唯夫 05/1/22(土) 8:07 ┃ ┗Re(13):国旗・国家 2 めだま君 05/1/22(土) 10:29 ┗Re(2):国旗・国家 2 相良唯夫 05/1/16(日) 22:09 ┗Re(3):国旗・国家 2 トビパパ 05/1/17(月) 0:40 ┣Re(4):国旗・国家 2 相良唯夫 05/1/17(月) 9:47 ┃ ┣Re(5):国旗・国家 2 トビパパ 05/1/17(月) 11:12 ┃ ┗Re(5):国旗・国家 2 JIMBOUF 05/1/18(火) 2:10 ┗Re(4):国旗・国家 2 龍馬 05/1/17(月) 11:43 ┣Re(5):国旗・国家 2 トビパパ 05/1/17(月) 12:22 ┃ ┗Re(6):国旗・国家 2 龍馬 05/1/17(月) 13:05 ┃ ┗Re(7):国旗・国家 2 トビパパ 05/1/17(月) 23:17 ┗Re(5):国旗・国家 2 めだま君 05/1/17(月) 23:36 ┗説明責任 めだま君 05/1/18(火) 0:50 ┗[管理者削除] ┣Re(2):説明責任 めだま君 05/1/18(火) 10:04 ┃ ┗Re(3):説明責任 相良唯夫 05/1/18(火) 10:59 ┃ ┣Re(4):説明責任 めだま君 05/1/18(火) 13:09 ┃ ┗Re(4):説明責任 めだま君 05/1/18(火) 13:14 ┃ ┣[管理者削除] ┃ ┃ ┣Re(6):説明責任 めだま君 05/1/18(火) 17:40 ┃ ┃ ┃ ┗Re(7):説明責任 相良唯夫 05/1/18(火) 17:47 ┃ ┃ ┃ ┗Re(8):説明責任 めだま君 05/1/18(火) 18:18 ┃ ┃ ┗移動しました 管理スタッフ 05/1/18(火) 21:34 ┃ ┗Re(5):説明責任 相良唯夫 05/1/18(火) 17:40 ┃ ┗Re(6):説明責任 めだま君 05/1/18(火) 18:11 ┣移動しました 管理スタッフ 05/1/18(火) 12:53 ┗Re(2):説明責任 トビパパ 05/1/18(火) 17:52 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 国旗・国家 2 ■名前 : とうろう ■日付 : 05/1/16(日) 19:17 -------------------------------------------------------------------------
▼遍巳亭さん: こんばんは。横レス失礼致します。今私が書き込んでおります「天皇制について」にも関係することですので、この相良唯夫さんのスレッドも読み込んでおります。 先のスレッドが満杯になったようなので、僭越ながら貴レスを下記に引用し、一点だけごく簡単なレスを差し上げます。 【40707】Re(11):国旗、国歌 遍巳亭 - 05/1/16(日) 16:59 - ▼相良唯夫さん: >>そのお考えから、松下電器の中村社長(?)が行われた破壊と創造は理解できます。でもそれを争いの心とは申しません。想像の為の破壊です。そのプロセスで論争はあったでしょうが、それは相手を詰る、打ちのめすことではなく、生まれ変わるための議論であった筈です。 >「争い」を「諍い」と言う意味で使われているのではないでしょうか。自らの考え・方向を通そう、貫こうとするときに、それと異なる考え・方向と衝突します。相撲に似ています。争うのが嫌だから、というのでは投げ飛ばされて、他の考え・方向に席を譲ることになります。 >創造するには破壊があります。破壊される方は抵抗をします。創造しようとするものが自らの意図を実現しようとすればそこに平和的であろうが非平和的であろうが「闘争」が起こります。権力闘争。なにかを実現しようとするときには、それは必然的に抵抗を伴うものであるのなら(つまり、なんらかそれまでを破るものであるのなら)、小さなものか大きなものかは別にして闘争が起こります。闘争の意志無くして自律的な闘争は成り立ちません。「争う心」とはその意志をいいます。 >生きるとは畢竟闘争なのではないでしょうか。良寛さんの生き方にもすさまじい闘争があったと思います。闘争の形態はいろいろとして。 >例えば有機農業に徹底的にこだわる人があったとして、当初はずいぶんな闘争を経験したことと思われます。争い、闘争を専ら否定的な、暴力的な意味で用いているわけではありません。 >以上がイワオさんのお考えについての私の解釈件私の考えです。 >>「批判的に受け継ぐ」とはどういうことでしょう?批判の意見も謙虚に受け止めることは大切です。批判されたから争うのではなく、批判的な意見もしっかり聞き、一旦は受け止め、その上でこちらの意見を述べることが大切であると思います。 >「批判」即「否定」ということではなく、精査、取捨選択、作り替え、というような意味で考えています。 >>松下電器の破壊と創造も、創業者の方針を破壊したことになりますが、争ったのではありません、全てを受け入れ、その上に、壊すべきところをこわし、創造したのです。 >松下電器のことは知らないのですが、「全てを受け入れ、壊すべきところをこわし」ということは、一旦全てを受け入れたとしても、捨てるところは捨て、変えるところは変えた、ということなのでしょう。 >捨てられる、変えられるものが、創造には伴う。利益と不利益が生じます。これまでと結びつくことによる利益とこれからに結ぶつくことによる利益。これまでとこれからの関係が矛盾をはらむものであるのなら、一方の利益は他方の不利益となります。 >人は利益、不利益を巡って闘争をするものなのではないでしょうか。 48 hits 少し私のレスのピントがずれていると思いますが、生物学・進化学の教えるところは、闘争について、「鳩派戦略(争わない;利他主義)」「鷹派戦略(争う);利己主義」の何れも「社会的生物」の中で「個が生き延びる戦略」としては、まずいもののようです。 「互恵的利他主義」(相手が恩を施せば返す、相手が敵意を持ってくれば争う)が最適、最善の戦略のようです。 生半可な知識でこの理解が正しいかどうか自信がありませんが、ご参考までと思いました。 失礼します。 |
▼とうろうさん: 即レスで失礼します。 >>人は利益、不利益を巡って闘争をするものなのではないでしょうか。 48 hits > >少し私のレスのピントがずれていると思いますが、生物学・進化学の教えるところは、闘争について、「鳩派戦略(争わない;利他主義)」「鷹派戦略(争う);利己主義」の何れも「社会的生物」の中で「個が生き延びる戦略」としては、まずいもののようです。 > >「互恵的利他主義」(相手が恩を施せば返す、相手が敵意を持ってくれば争う)が最適、最善の戦略のようです。 > >生半可な知識でこの理解が正しいかどうか自信がありませんが、ご参考までと思いました。 ご見解と私の考えはあまり異ならないように思われます。 「情けは人のためならず」というのは互恵的利他主義の知恵を述べたものなのではないでしょうか。 この点に関する拙意は、本来争うものであるからこそ制御の方法を工夫する、ホッブスの社会契約の思想など「争うものであるからこそ」というのものではないでしょうか。 そもそもイワオさんのご指摘、 >>争いの心忘れてはいけません。争いの心は反面で生きる力でもあります。 について、私の解釈、考えを述べました。「互恵的利他主義」についても種の保存、自己保存からの「争う心」を読みます。上記の繰り返しになりますが、そもそも「争う心」の存在無くして「互恵的利他主義」はあり得るのでしょうか?「個が生き延びる戦略」としてそれがあるとして。 |
▼遍巳亭さん: こんばんは。早速レス有難うございました。 >>>人は利益、不利益を巡って闘争をするものなのではないでしょうか。 48 hits >>少し私のレスのピントがずれていると思いますが、生物学・進化学の教えるところは、闘争について、「鳩派戦略(争わない;利他主義)」「鷹派戦略(争う);利己主義」の何れも「社会的生物」の中で「個が生き延びる戦略」としては、まずいもののようです。 >>「互恵的利他主義」(相手が恩を施せば返す、相手が敵意を持ってくれば争う)が最適、最善の戦略のようです。 >>生半可な知識でこの理解が正しいかどうか自信がありませんが、ご参考までと思いました。 >ご見解と私の考えはあまり異ならないように思われます。 反論として言ったつもりはありません。ただ、「闘争」と言う言葉に感じ、それに関して申し上げたつもりです。 >「情けは人のためならず」というのは互恵的利他主義の知恵を述べたものなのではないでしょうか。 その通りと思います。全く異論はありません。 ただ、少し先のレスに含めたかったことは、生命の単純保持(進化論)の研究の為のゲーム解析理論、自然主義的本能論から言えば「互恵的利他主義」が最善らしいし、人間もその例に洩れないし、それが最善と感ずるものです。 が、「人間」は考える動物で単純生物でもないので、どこかでも書きましたが、「自集団中心主義(ethnocentrism)」で仲間内は「互恵利他主義」で、その余に対しては「鷹派主義;闘争的」一方な行動が見えるもので、それに対するやや皮肉を込めて申し上げた次第です。 なお、生物種の「互恵利他主義」には、当然「闘争」することは含まれていると考えております。 以上、少し付け加えました。失礼致しました。 |
▼とうろうさん: こんばんは。ゆっくりと十分に反芻吟味した上で、その割にはたいしたものにはならないのですが、レスをすべきなのですが、今日はどうも妙に書き虫がうごめきます。 >>ご見解と私の考えはあまり異ならないように思われます。 > >反論として言ったつもりはありません。ただ、「闘争」と言う言葉に感じ、それに関して申し上げたつもりです。 そのように読ませていただきました。 >ただ、少し先のレスに含めたかったことは、生命の単純保持(進化論)の研究の為のゲーム解析理論、自然主義的本能論から言えば「互恵的利他主義」が最善らしいし、人間もその例に洩れないし、それが最善と感ずるものです。 > >が、「人間」は考える動物で単純生物でもないので、どこかでも書きましたが、「自集団中心主義(ethnocentrism)」で仲間内は「互恵利他主義」で、その余に対しては「鷹派主義;闘争的」一方な行動が見えるもので、それに対するやや皮肉を込めて申し上げた次第です。 健全な自然に根ざした生物であれば、みすみす破滅に向かって進むのが分かっていながらしかしなおその道をひた走るということがあるのでしょうか。 人間は自然から逸脱するほど賢くなったことで超計算機である「自然」の加護を受けることができなくなった、その逸脱から本来収束すべきところへ収束する力から見放された、ふとこのようなことを夢想します。 妄言、失礼いたしました。 |
▼遍巳亭さん: 改めて、こんばんはを申し上げます。 >こんばんは。ゆっくりと十分に反芻吟味した上で、その割にはたいしたものにはならないのですが、レスをすべきなのですが、今日はどうも妙に書き虫がうごめきます。 分かったようなことを申し上げて失礼と思いますが、人も感性の存在で情緒が動くときがあるのではないでしょうか。 >>が、「人間」は考える動物で単純生物でもないので、どこかでも書きましたが、「自集団中心主義(ethnocentrism)」で仲間内は「互恵利他主義」で、その余に対しては「鷹派主義;闘争的」一方な行動が見えるもので、それに対するやや皮肉を込めて申し上げた次第です。 > >健全な自然に根ざした生物であれば、みすみす破滅に向かって進むのが分かっていながらしかしなおその道をひた走るということがあるのでしょうか。 >人間は自然から逸脱するほど賢くなったことで超計算機である「自然」の加護を受けることができなくなった、その逸脱から本来収束すべきところへ収束する力から見放された、ふとこのようなことを夢想します。妄言、失礼いたしました。 いえ、そのように私も思います。 人間は「健全な自然に根ざした生物」からは「離れてしまった」生物であると言うのが私の感じです。 進化論(自然の生物としての適応発展)からは外れていると思っています。 何故か。この答えに示唆を与えてくれたのが 「書名 : ミーム・マシーンとしての私 著者名 : スーザン・ブラックモア 出版者 : 草思社 」です。 人間の「脳」はある意味で肥大化し、自然の身体を離れて成長しています。「ミーム」とは、知能的、文化的、情緒的・・・「遺伝子」の謂いです。身体的「DNA」に比肩されるもので精神的「DNA」と理解しております。 この「ミームDNA」が人間を支配していると考え、人間は「健全な自然に根ざした生物」からは「離れてしまった」生物と考えております。 養老孟司氏の「脳化社会」に近い考えです。 若し、まだ、未読であられ、ご興味があれば、スーザン ブラックモア氏(女史)の上の著作をご一覧ください。 (最後の章に、ヨガあるいは禅の悟りに似たような感覚(何が真の自分か)が述べられていたような記憶があります) 失礼致しました。 |
ヒトも他の動物と同じように争うように創られているのかも知れません。 そうかと言って、争いを煽るべきではないと考えます。 人間だから争いを抑えることができるのです。いくら抑えても争うことになるのだから、抑えて丁度いいのです。激しく論争を交わすことを否定しません。むしろ削除されて止められることを残念に思います。テレビ番組の政治討論等で声の大きい人が、他の人を喋らせない光景があり、それが高じて相手の人格を否定するような発言が飛び交います。これも争いであるからと言って、これをも全部否定するものではありません。 このように、「争う心をなくす」と書き込んだだけでもこれだけ争うことになるのですから、争わないと心掛けて丁度いいと思います。そして人間だから争いを止めることが出来るのです。友人の家にこんな額が掛かっていました。「腹を立てず気は長く心は丸く人は大きく己は小さく」実際にこのように書いてあったのではなく腹という文字は寝た状態に、気は縦に長く、心は丸く書いてあり、人という文字は大きく、己という文字は小さく書いてありました。 私流に解釈すれば、「腹は一瞬に立つから、太っ腹になって少々のことに動じないことであり、短気は損気と言われる通り気を長くしよう。出来るだけ心の角はとり、丸くなろう。人様の幸せを願い、人様を大きく立てよう、己は小さくても良い、人様が大きくしてくださる。」となります。 現代社会は競争社会でもありますから、適者生存という言葉を聞かされています。 この言葉を字義通りに解釈すれば、適者だけが生き残れるとなります。争いに負けたものは死んでいくことになり、そこに愛が感じられません。 いやいや争いの中にも愛は感じられると言われる方もいるかもしれません。愛する人のために戦うのだからと。 確かにそれも愛でしょう。でも、オリンピックでも勝者は一人です。銀メタルは負けた一番なんです。あと全ては敗者です。そうです、人間だから争いを避けることが出来るのです。争いを生きる力としなくても生きられるのです。 政治に政争、商売に商戦とありますが、他党と争うだけが政治ではなく、他社と争うだけが商売ではないのです。政治家と国民。商売人とお客様。その信頼関係を勝ち得た者が勝者なのです。(これをも争いと言えば言えますが)本来の政治、あるいは商売は、国民、お客様に向けるべきでしょう。 高く掲げた国旗に誇りが感じられるような政治をすることであると思います。 |
▼相良唯夫さん: 現状について危険だと考えるところです。 寓話的に、従順な羊の平和。その平和が羊にとって幸いかどうか。時に、羊は羊の権利のために戦わなければなりません。羊たちの沈黙は猛獣たちにとってのオアシスです。猛獣たちは羊たちに物語を聴かせます。闘争は悪である。戦ってはいけない。従順たれ。深く眠れ。夢を見よ。物語は牧草地を渡ります。羊の平和。それはしかし羊たちの現実にとっては悪夢でもあります。 事実をみること。性善で性悪。「争いの心」という言葉が誤解を招くとしたら「超えようとする意志=超えようとする力」としても、拙意はそう変わりません。 議論がかみ合いませんが、事実を事実としてみようということ、再掲しますが、生きる、つくることが破壊と創造であるとしたら、個人でも社会でも企業でも、国益を追求する国と国とでも、大きく「私益」、「・・・益」のあるところ、争いは在って、争いの心がないところ、生存競争が常態だとすると生きる力も無いということになりませんか?「争いの心は半面で生きる力でもある」というのは正直に事実を事実として見つめたところで、欺瞞を排したところで見られる思想以前のことと。 その前提から、事実を事実として正直にみつめるところから、むしろ悲惨な「争い」を回避する方途に近づくことができるのではないでしょうか。それが、倫理道徳、法、制度として成る。国際協調、国連中心主義の方向などもその類でしょう。 この前提からして、目指すところは相良唯夫さんが理想として掲げられるところとそう変わりません。 失礼いたしました。 |
▼遍巳亭さん: ご高説ありがとうございます。 大変勉強になりました。 現状を危険と感じているのは同じであると思います。 これからの世代を担う若者達のためにも、素晴らしい日本を! 世界から信頼に足る日本を築かれることを祈っています。 |
▼相良唯夫さん: >ヒトも他の動物と同じように争うように創られているのかも知れ >ません。 諸説は色々ありますが、自分のDNAを未来に残すため生きていく と言う説がポピュラーのような。 日々生き残るために、行動しているのでしょう。 その手段や結果として争うことが多々あるにせよ、争うことは目的 ではありません。 >そうかと言って、争いを煽るべきではないと考えます。 そうです、不要なときあおることは、粋がると言う行為で、生存に は全く不適切な行為です。 しかし全く争うこと自体を放棄することは、究極のマゾヒズムであ って、それはそれで一つの選択ではありますが、一般的ではありま せん。「ピグミン」だって食べられるばかりでなく、毒出すピグミ ンもいます。 >人間だから争いを抑えることができるのです。いくら抑えても争 >うことになるのだから、抑えて丁度いいのです。 動物の中で、人間が唯一大量虐殺をします。 人間だから、争いを押さえることができないのです。 >このように、「争う心をなくす」と書き込んだだけでもこれだけ >争うことになるのですから、争わないと心掛けて丁度いいと思い >ます。そして人間だから争いを止めることが出来るのです。 始めて長期海外旅行に出かけたとき、すべて回りの連中に殺意さえ 感じました。争うことを避けるのが美徳とされる日本から出かけた からです。以心伝心など有るはず有りません。 安宿に泊まることから、交通機関の切符買う、食事さえも最初に言 葉、飲み込むと結果は最悪です。 日頃、争うことに慣れてそれらを訓練していなければ、自分自身を 守ることさえできません。 >そして人間だから争いを止めることが出来るのです。 そうなったらいいなとは思いますが、人間だから最悪の争い事を始 めてしまうしいまも世界各地で進行中です。 だから結論は、人間だから争いが止めどなく拡大していくのです。 >そうです、人間だから争いを避けることが出来るのです。争いを >生きる力としなくても生きられるのです。 生きる希望を捨てれば、争う行為も無くなります。 生きる希望を持ち続ければ、争いの気持ちも持続します。 争いを生きる力とする人もいるでしょうが、特殊な方々だけですよ。 争いは、過程であり結果であって、目的ではありません。 >高く掲げた国旗に誇りが感じられるような政治をすることである >と思います。 津波被害にあった自国民に、パスポートの発行手数料を請求する国 の国旗など誇り感じられません。埃はたまってると思いますが。 誇りが感じられる様な政治いま現在おこなわれていません。 |
▼イワオさん: >始めて長期海外旅行に出かけたとき、すべて回りの連中に殺意さえ >感じました。争うことを避けるのが美徳とされる日本から出かけた >からです。以心伝心など有るはず有りません。 >安宿に泊まることから、交通機関の切符買う、食事さえも最初に言 >葉、飲み込むと結果は最悪です。 それだけ日本という国は素晴らしいのではありませんか? その素晴らしさは受け継いで行きたいものです。 私の住んでいるところは田舎ですが、今も助け合って農作業をしています。 貧乏ですが、意見の違いがあっても争いのないように皆で心掛けています。もちろん、水不足の時は上の田圃の人が先に水を引き、下の田圃に届かず、争いになったこともありました。しかしそれは「争いを止めたとき」解決の道が開けたのです。 日本の治安が良いことは、争いを避ける「和」の心があったからです。 >津波被害にあった自国民に、パスポートの発行手数料を請求する国 の国旗など誇り感じられません。埃はたまってると思いますが。 ↑は政治の問題でしょ、政治の問題は政治で正すべきです。国旗・国歌に責任があるのではありません。国旗・国歌に誇りの持てるような政治を求めましょう。 >動物の中で、人間が唯一大量虐殺をします。 人間だから、争いを押さえることができないのです。 このようなマイナス思考せず、争いを起こさなくするにはと考えたい。争いを肯定するだけの教育であったならば、「和」の精神は教えられません。「和」とは妥協だけではありません。平和の「和」です。お互いが納得し、協力し合えるように努力をすることです。話し合いの放棄が戦争になったのではないでしょうか? 経営者と組合の交渉でも、和解がなければ決裂で、それを突き進めれば会社は潰れますし、組合員も会社が潰れれば生活すらできなくなります。利害得失だけを考えれば妥協ですが、双方にプラスになる一致点を見出し交渉が成り立つのです。 日本は敗戦国であり、無条件降伏したから、戦勝国の言うなりになりましたが、わたしは今でも、アメリカの投下した原爆は間違っており、日本に対し、詫びるべきだと考えています。「過ちは繰り返しません」の前に「アメリカは」と入れたい。 |
▼相良唯夫さん: >▼イワオさん: >>始めて長期海外旅行に出かけたとき、すべて回りの連中に殺意さ >>え感じました。争うことを避けるのが美徳とされる日本から出か >>けたからです。以心伝心など有るはず有りません。 >>安宿に泊まることから、交通機関の切符買う、食事さえも最初に >>言葉、飲み込むと結果は最悪です。 >それだけ日本という国は素晴らしいのではありませんか? >その素晴らしさは受け継いで行きたいものです。 何か誤解なさっていませんか? 当時私は、20過、私の家族だけは、イワオ一族の中で地道に暮ら していましたが、一族のほとんどが(父方ですが)やまっけの固ま りで、新製品開発、新規店舗開店、等を繰り返した結果、倒産夜逃 げ、刃傷沙汰、が日常で親や親戚の茶飲み話でも日々そう言う話題 が多いので、自分ではかなり争うことになれていると思いこんでい ました。 叔父や叔母の連れ合いが資金繰りに狂い回っている、倒産して逃げ た等という話題聞くことに慣れはしても、自分の身の上の話ではあ りません。 親はサラリーマン故、防波堤の中にいたのです。 両親は一族の山っ気に反発感じていたようで、穏便に自分の限界わ きまえてと言う生き方を子どもに強制しました。 確かに、サラリーマンでいる限り、その職場が安泰な限りそれはそ れで生き残りには確率の最も高い考え方です。 ところが、その生き方は、海外貧乏旅行には最悪の考え方ですし、 その後新しい職種の自営始めた私に最悪の足かせになったのです。 穏便に争わずの考え方は、たまたま私の家族が安定した状況にあっ た時に通用しただけで、どの国に有っても、プチブルの安定した階 層の子どもは、同じように考え同じ臭いを発散させています。 日本の文化がそうだからということではありませんよ。 事業失敗を何度も繰り返した叔父一家は、穏便に争い事をしなけれ ば相手もそれに応じてくれるなどの考え方はしなかったです。 すべてのことを「日本文化は」と一般化しては判断誤ります。 >私の住んでいるところは田舎ですが、今も助け合って農作業をし >ています。貧乏ですが、意見の違いがあっても争いのないように >皆で心掛けています。もちろん、水不足の時は上の田圃の人が先 >に水を引き、下の田圃に届かず、争いになったこともありました。 >しかしそれは「争いを止めたとき」解決の道が開けたのです。 私、田舎も都会も両方住んだこと有ります。 都会からちょっとだけの滞在者には、良い顔が見えること多いです が、「争うことが良いことではない」とされる所では、途中安全弁 からの空気が抜けないまま限界点にくるので、限界越えるとすごい ですよ。めったには越えませんが、だからといってゼロではありま せん。 水利権の問題は、渇水の時はすごいことになります。オヤジ技術系 で、それ関連の仕事してましたから、農家の人が家に上がり込んで 徹夜で交渉してたのをおぼえています。 (子供心に怖かったです、少なくとも笑い声が聞こえる会合ではあ りませんから、しかも真夜中) 水必要とする工場、水道局、上中下流の農家、上中下流の市町村、 何重巴です。 解決は、「争い止めたとき」につくような簡単なものではありませ んでした。もっとシンプル。 お互いの力関係。 で、争い終わりました。 >日本の治安が良いことは、争いを避ける「和」の心があったから >です。 違います。 曲がりなりに皆が食えたから。 >>動物の中で、人間が唯一大量虐殺をします。 >>人間だから、争いを押さえることができないのです。 >このようなマイナス思考せず、争いを起こさなくするにはと考え >たい。 現実から目を背けてはいけません。 現実を認識するのが、思考の第一歩です。 何の根拠もなしに、現実も見ないで 「人間だから争いを避けることができる」と結論づけてはいけませ ん。相田ミツオじゃ無いのですから。 |
▼イワオさん: 丁寧に教えて下さってありがとうございました。 イワオさんの書き込みには説得力があり感心しています。 長い人生の中で、「争いが生きる力」であると考えたことはありませんでした。理解の及ばない考え方に対しも否定することなく、再考することにします。 「戦う楽観主義者」って言葉が好きでしたが、私は子どもの頃から喧嘩の中に割って入り、止めるタイプでした。殴られても殴り返して止めましたね。 それが善であるかのように、今日まで突っ走って来てしまいました。 子供の父兄懇談会の日に、私は先生に、「悪いことをした場合はぶん殴って下さい」とお願いしましたが、今では通用しませんでしょうね。考え方に隔たりがあることを痛感しています。 意欲が無くなると、戦うことすら避けたくなります。それを「争いが生きる力」と考えられますか? 支離滅裂なことを書いたようですが、お許しを! |
▼相良唯夫さん: >▼イワオさん: >丁寧に教えて下さってありがとうございました。 >イワオさんの書き込みには説得力があり感心しています。 とんでもありません。私に教える力などありません。 私にあるのは、「反面教師」としてのそれです。 >長い人生の中で、「争いが生きる力」であると考えたことはありませんでした。 >理解の及ばない考え方に対しも否定することなく、再考することにします。 生きる力は、争う心に比例します。 >「戦う楽観主義者」って言葉が好きでしたが、私は子どもの頃から喧嘩の中に >割って入り、止めるタイプでした。殴られても殴り返して止めましたね。 >それが善であるかのように、今日まで突っ走って来てしまいました。 しっかり「争っている」事をなさってきてるではないですか。 >意欲が無くなると、戦うことすら避けたくなります。それを「争いが生きる力」 >と考えられますか? 言い換えれば、生きる力があると、争う意欲もわくと言うことではないでしょうか 争う心があるから、争いが絶えない、と言う考えは、庶民をおとなしくさせる スローガンになりがちです。 庶民、特に日本の人たち、争う方法も経験も不足しています。 自分を他に認めさせるに有効なのは、ファインティングポーズです。 |
▼イワオさん: >自分を他に認めさせるに有効なのは、ファインティングポーズです。 はじめに、飲み込みが悪く、理解するに至っていませんことをお断りします。 <自分を他に認めさせる?> 認めさせようと思わなくても、認められる器であれば、認めてくれるでしょう。 魅力、実力があればポーズをとらなくても認めてくれるでしょう。勝負はポーズではなく、力であると思います。子供の頃、隣村にガキ大将がいました。あるとき私はそのガキ大将と戦わざるを得なくなりました。そのガキ大将は1年先輩であり、後輩の私を生意気であると呼び出し、いきなり殴り掛かってきました。私は身体が小さかったので、まともでは勝ち目がありません。彼の足を掴んで離しませんでした。彼は振り払おうと上から殴りかかりましたから、私は彼の足を噛み付きました。遂に彼は泣き出してしまい、私はその勝負に勝ったのです。それ以来彼は私たち後輩をいじめることをしなくなったばかりか、争いではなく、握手をしたのです。拳を上げるファイティングポーズより、握手を選択したのです。私を認めないものは当然握手を拒みます。それでいいのです。来るものは拒まず、去る者は追わない。私を認めるとか、認めないかは相手の領分ですから、そのことで小競り合いなどしたいと思いません。 「この指とまれ!」と言っても、気に入らなければ誰もとまってくれません。気に入れば、向こうからとまりに来てくれます。 少なくとも、私に与えられた生きる力は、争いではなく、さまざまの恩恵に報いようとする誓いであったように思います。 例えば、母親から産んで良かったと思われるような息子でありたいとか、商売で言えば、売った人もありがとう、買った人もありがとうと言い合えるような、そんな人間味を目指すことが生き甲斐であり、生きる力となりました。 争いの心を捨てるとは、言いたいことを言わず、おとなしくすることではありません。言い方を変えれば、相和する方法を考え、相和する意欲を高めようということです。 |
▼相良唯夫さん: 横レス、ごめんなさい。 子どもの頃の体験て、面白いですね。 >▼イワオさん: >認めさせようと思わなくても、認められる器であれば、認めてくれるでしょう。 >魅力、実力があればポーズをとらなくても認めてくれるでしょう。勝負はポーズではなく、力であると思います。子供の頃、隣村にガキ大将がいました。あるとき私はそのガキ大将と戦わざるを得なくなりました。そのガキ大将は1年先輩であり、後輩の私を生意気であると呼び出し、いきなり殴り掛かってきました。私は身体が小さかったので、まともでは勝ち目がありません。彼の足を掴んで離しませんでした。彼は振り払おうと上から殴りかかりましたから、私は彼の足を噛み付きました。遂に彼は泣き出してしまい、私はその勝負に勝ったのです。それ以来彼は私たち後輩をいじめることをしなくなったばかりか、争いではなく、握手をしたのです。 「握手」に至る過程には、「噛み付く」という暴力的行為があった。「噛み付く」という暴力に出なければ、先輩後輩という悪しき長幼の序(=上下序列)は解消されなかった。相田さんの「握手」=「和」の観念は、「暴力」の上に成立している? >争いの心を捨てるとは、言いたいことを言わず、おとなしくすることではありません。言い方を変えれば、相和する方法を考え、相和する意欲を高めようということです。 相手が恐れ入る(降参して和平交渉を求めてくる)ような実力を見せつける必要がある、だから日本も隣国が恐れ入るようは軍事力を正々堂々と保有し、必要に応じて「噛み付き」、降参しましたと言わせる。つまり、「争いの心を捨てる」とは、武力行使をして、相手に戦意を喪失させるということ? これが、日本伝統の「大和」精神=皇統精神ですか? 「マイト イズ ライト」のパワー・ポリティクスそのものではありませんか? 怖いなー? すこし、いや、率直、かなり、現実政治には適さない思想のように思います。 小泉さんは、ここまでは言わないでしょう。だから制裁には慎重。ブッシュにも自分を客観化(完全ではないでしょうが・・)する「ゴッド」や民主主義論があります。 |
▼めだま君さん: 「争いの心を捨てる」とは、武力行使をして、相手に戦意を喪失させるということ? 私の子供時代の話をそのように受け取られますか?噛み付いたことを奨励したのではなく、弱いものいじめをしてはならぬ。争う心を無くすことを言ったつもりです。 私は争う意識はありませんでした。でも殴られっぱなしではなく、暴力はいけないと(防衛意識の中で)幼心に負けてなかったのです。その結果ガキ大将も、争いを反省したのです。理屈を付ければ争いの火種なんていくらでもあるのです。(態度がでかいとか、目つきがわるいとか、因縁をつければいくらでもつけられるのです。)大人であったならば言葉によって説得できたかもしれませんが、何せ小学校の児童だったからね。でも、その時、親は私を叱りませんでした。 色々な意見があるでしょうが、結果的には争いになったかもしれませんが、それを争いの「心」とは言わないと思います。 めだま君さん、「争いの心をなくす」という主張をなぜ、{日本伝統の「大和」精神=皇統精神ですか?}というように、あなたの主観で、武力行使(争い)につなげて行くのですか? |
▼相良唯夫さん: レス、ありがとうございます。 >めだま君さん、「争いの心をなくす」という主張をなぜ、{日本伝統の「大和」精神=皇統精神ですか?}というように、あなたの主観で、武力行使(争い)につなげて行くのですか? 相良さんの子ども時代の体験を、もしも、いまの相良さんの思想の原体験として読めば、そのような解釈も可能なのではないかという、一種の無意識的な基層についての心理分析の試みに過ぎません。 少し、挑発的だったかもしれません。 |
▼めだま君さん: >相田さんの「握手」=「和」の観念は、「暴力」の上に成立している? という書き込みが、そもそも「争い」の火種に発展するのではないでしょうか? 以前にも同じようなことを申しましたが、例えばね、「気をつけて行ってらっしゃい」と言って見送ったとしましょう。 そのときの受け応えで、「要らんお世話」と返すか、「じゃ、行ってきます」と笑顔で手を振るかです。 そしてね、あなたの論を通そうとするならば、私の噛み付きは「暴力」と決め付けるか、怖さの余り「防衛本能」で噛み付いたのかの分析も必要でしょう。 「争う心」があれば、どこまでも相手の非を見つけ、火種を作ることが出来ます。 |
▼相良唯夫さん: おはようございます。 表現が悪かったかも知れません。私は「暴力」=悪とはみていません。相良唯夫さんの「噛み付き」も「正当防衛」だと思います。ただ、その後、上級生が降参して「握手」を求めてきたのは、相良唯夫さんには、喧嘩で叶わないから、平和協定を結んだ方が得策だと判断したからではないでしょうか? それだけでは、まだ、先輩ー後輩間で、「和」の大切さが身にしみて判ったとは言えないでしょう。少年時代の体験は、その後の様々な体験を通して、芽生えたかけた「和」のこころが、どのように成長していったのか、いかなかったのか。その辺りの検証が必要なように思います。 >「争う心」があれば、どこまでも相手の非を見つけ、火種を作ることが出来ます。 いろいろなテーマで、討論するというのは意義があると思います。しかし、私も普段は、相手の欠点よりも長所に注目し学びたいと心がけているつもりですが、昨夜の表現は、失礼だったかもしれません。お詫びいたします。どうそ、今後ともよろしくお願いいたします。 |
「情けは人のためならず」とは、「情けは人のためにならない」という解釈ではなく、「情けは人のためではなく、自分のためにするのである」という解釈をしますから、ここには争いの心など感じられません。互恵的利他主義の知恵を述べたものでしょうか?互恵的利他主義についてもう少し詳しく教えて下されば幸いです。 |
相良唯夫さん、 >> 権力によって自由が抑圧される傾向を傍観してきたのでは >> ないでしょうか。 > と仰る前に、どんな自由が抑圧されたかをお述べになったら > いかがでしょう。 どんな自由? 本当に説明の必要があるのですか? 国家主義の前には個人の自由は無視されうるということを 前提として議論しているように、ぼくには思えたのですが。 じゃ一つ、せっかくですから、このスレッドにも関係ある話題 として、教科書検定制度を見てみましょうか。 学校でどういう教科書を使うべきか。本来それは教育を受ける 国民の側にそれを決める自由があるべきものです。義務教育 とは、国家が子どもたちに教育を強制することではなく、 子どもたちには教育を受ける権利があるということなのです。 検定の意図するものは、オカミが検閲しなければよからぬ 教科書を使ってまちがった教育をしてしまうから危険だという 親心ですか? そういうオカミの干渉が教育を滅ぼすのです。 学問の自由を奪うのです。 第一、オカミのやることはいつも正しいのですか? たとえば 「つくる会」の「新しい歴史教科書」と「新しい公民教科書」。 およそ学問の公平さに欠けるこんな情念的な教科書がオカミの お墨付きになり、公立学校で採用されるくらいなら、検定制度 などないほうがましでしょう。 この種の*皇民*教科書が好きだというなら、そういう趣味の 教師や生徒たちを勝手に集めて、大日本皇民学院でも創設すりゃ いいと思いますね。ぼくは個人主義ですから、そういう自由を 認めますよ。ただ、ぼくにも愛国心がありますからね、権力と 結託して暴走してもらっちゃあ困りますよ。 それにしても、憲法がアメリカの押しつけだとか言って騒ぐ 人たちが、日の丸・君が代を国民に押しつけることには、 なんの疑問も感じていないらしいのは、実に不思議です。 やはり、自由の意味が理解できていないとしか思えませんが。 |
▼トビパパさん: >学校でどういう教科書を使うべきか。本来それは教育を受ける >国民の側にそれを決める自由があるべきものです。義務教育 >とは、国家が子どもたちに教育を強制することではなく、 >子どもたちには教育を受ける権利があるということなのです。 その通りであると思います。 >検定の意図するものは、オカミが検閲しなければよからぬ >教科書を使ってまちがった教育をしてしまうから危険だという >親心ですか? そういうオカミの干渉が教育を滅ぼすのです。 >学問の自由を奪うのです。 異論は挟みません。 >「つくる会」の「新しい歴史教科書」と「新しい公民教科書」。 >およそ学問の公平さに欠けるこんな情念的な教科書がオカミの >お墨付きになり、公立学校で採用されるくらいなら、検定制度 >などないほうがましでしょう。 オカミのお墨付きにはなっていません。 学問の公平さに欠けるとは思いません。「新しい歴史教科書」と「新しい公民教科書」は歴史の事実を伝えています。捏造した歴史を教えられた子供達の方が不幸であり、日本にとってもマイナスであります。 その欠陥を直したのが「つくる会」の教科書であります。 読み比べて、事実以外の掲載があれば指摘するのは当然であります。 事実でありながら削除された箇所も見受けられます。 >この種の*皇民*教科書が好きだというなら、そういう趣味の >教師や生徒たちを勝手に集めて、大日本皇民学院でも創設すりゃ >いいと思いますね。ぼくは個人主義ですから、そういう自由を >認めますよ。ただ、ぼくにも愛国心がありますからね、権力と >結託して暴走してもらっちゃあ困りますよ。 権力と結託して暴走しているという見方は偏見です。 >日の丸・君が代を国民に押しつけることには、 >なんの疑問も感じていないらしいのは、実に不思議です。 >やはり、自由の意味が理解できていないとしか思えませんが。 日の丸・君が代を国民に押しつけてはいません。 押し付けられていませんから、 祝祭日にも国旗を立てない人が多いのではないですか? 国に国旗・国歌は不要と考えますか? 押し付けと感じるのは、式典等の行事を指していますか? 日常生活で押し付けと感じている人は皆無であると思いますが 如何でしょう? |
相良唯夫さん、 > ...(略) > オカミのお墨付きにはなっていません。 これらの教科書が検定を通過したことが、お墨付きだと 言っているのです。 > 学問の公平さに欠けるとは思いません。「新しい歴史教科書」 > と「新しい公民教科書」は歴史の事実を伝えています。 そう断言するところが、公平さを欠いているということです。 > 捏造した歴史を教えられた子供達の方が不幸であり、 > 日本にとってもマイナスであります。その欠陥を直したのが > 「つくる会」の教科書であります。 そう断言するところに、この種の教科書を支持する人の 「情念的」な性質があらわれています。 > ...(略) > 権力と結託して暴走しているという見方は偏見です。 ぼくは「暴走してもらっちゃ困る」と言ったつもりなのですが、 実際に、暴走している様相も見られることは確かですよ。 東京都教育委員会のなんて言いましたっけ、将棋の上手な人が いるでしょ。そう確か、米長邦雄とかいう人。赤坂御苑の園遊会で、 この人こう言いましたよね。 「日本中の学校で国旗を揚げ国歌を斉唱させるのが私の仕事です」 これを聞いて、ぼくは驚いたなんてもんじゃなかった。 この人の「させる」という言葉は、こういうことが強制できる と信じている証拠ですね。オカミの悪臭がプンプンにおって、 臭いったらありゃしない。こういうのを暴走というのです。 > 日の丸・君が代を国民に押しつけてはいません。 「つくる会」賛同者はみなそう主張するでしょうね。上述の 教育委員にしても、天皇に「強制はよくない」とか言われると、 「もちろんそうです。素晴らしいお言葉ありがとうございます」 などと言いながら、ぺこぺこしている。こういう体質が、 ぼくは見苦しいと言ってるのです。 |
横から済みません 私40704 に載せました 史実とされ敗戦まで教科書には封印されてきた 壬申の乱 近代史ですが関東大震災、今現在の朝鮮半島より来た民族の人々に対する執拗な 蔑視、いやがらせ 心身に対する暴行行為 暦史の恥部と言うべきでしょうが こうゆう事が日本の間違った優越性などに関わっていながら欠落しています アメリカのインディアンに対する 過去の行為などは教科書のみならず 色々なmedia通して公開されています また南部の一部にある 進化論に対する反対なぞも 進化論はtheoryであるというstickerをローカルの教育委員会が教科書の裏表紙に貼り付けただけで 政宗混合であると違憲とされました キリスト教のあれだけ多いアメリカでもです 大嘗祭〔国家神道のテンノー即位のための最大祭儀です〕に国費を出している現在 理論だけでなくこのよう事実をどうお考えでしょうか |
▼トビパパさん: >相良唯夫さん、 横レスさせてください。 >学校でどういう教科書を使うべきか。本来それは教育を受ける >国民の側にそれを決める自由があるべきものです。義務教育 >とは、国家が子どもたちに教育を強制することではなく、 >子どもたちには教育を受ける権利があるということなのです。 どういう教科書を使うかを「教育を受ける国民側」が決める事が出来ますか?同じ学校にいても意見は様々です。何種類もの教科書を同じ学校で使う事は不可能です。教師がそれを決める事は教師に思想を強制することに繋がります。そういう議論の結果が「教育委員による教科書の採択」です。これでいいし、これがベストだと思います。 >検定の意図するものは、オカミが検閲しなければよからぬ >教科書を使ってまちがった教育をしてしまうから危険だという >親心ですか? そういうオカミの干渉が教育を滅ぼすのです。 >学問の自由を奪うのです。 国の教育は次世代の国民を作るためのものです。学問の自由は学会でやる事、教科書ですることではないと思います。 > >第一、オカミのやることはいつも正しいのですか? たとえば >「つくる会」の「新しい歴史教科書」と「新しい公民教科書」。 >およそ学問の公平さに欠けるこんな情念的な教科書がオカミの >お墨付きになり、公立学校で採用されるくらいなら、検定制度 >などないほうがましでしょう。 私は上記教科書を精査しておりますが、具体的に何処がいけないのでしょうか? また、確か8種類ある検定済み教科書のひとつでしかありませんよね。 中国や韓国は国定教科書が一つだけで選択の余地がありませんよね。そういうのを「お上が強制した教科書」と言うのではないでしょうか? >この種の*皇民*教科書が好きだというなら、そういう趣味の >教師や生徒たちを勝手に集めて、大日本皇民学院でも創設すりゃ >いいと思いますね。ぼくは個人主義ですから、そういう自由を >認めますよ。ただ、ぼくにも愛国心がありますからね、権力と >結託して暴走してもらっちゃあ困りますよ。 学校を選ぶ自由が保障されていますから「権力と結託して暴走」にはなりませんよ。 > >それにしても、憲法がアメリカの押しつけだとか言って騒ぐ >人たちが、日の丸・君が代を国民に押しつけることには、 >なんの疑問も感じていないらしいのは、実に不思議です。 >やはり、自由の意味が理解できていないとしか思えませんが。 「日の丸・君が代」は国歌国旗法に基いております。少し前に教師が学校で「日の丸・君が代は法的根拠がない」と騒いでいた時期がありましたが、選挙で選出された議員によって法制化されています。不思議でも何でもありません。 私は今の政府を全く支持しておりませんが、民主主義のルールはそういうものかと思っておあります。 |
龍馬 さん、 > ...(略) > 私は上記教科書を精査しておりますが、具体的に何処が > いけないのでしょうか? > ...(略) 一度は検証しないと批判もできないと思って、仕方なく読み ましたが、今ここで再び検証する気にはとてもなれません。 ただ、「つくる会」が自らの信条に都合の良いように、歴史を 捏造し、子どもたちに偏狭な*愛国心*を植え付け、日本を戦争 のできる国に変えようとしていることだけは確かです。 「何処がいけない?」と質問されるところに、重大な問題が 潜んでいるように思うのですが。 |
▼トビパパさん: >龍馬 さん、 > >> ...(略) >> 私は上記教科書を精査しておりますが、具体的に何処が >> いけないのでしょうか? >> ...(略) > >一度は検証しないと批判もできないと思って、仕方なく読み >ましたが、今ここで再び検証する気にはとてもなれません。 >ただ、「つくる会」が自らの信条に都合の良いように、歴史を >捏造し、子どもたちに偏狭な*愛国心*を植え付け、日本を戦争 >のできる国に変えようとしていることだけは確かです。 「歴史を捏造し」とは穏やかではありませんね。何処がそうかはここでは問いませんから、文科省に是非とも抗議していただきたい。「歴史を捏造した教科書」を検定で認めた文科省に抗議してください >「何処がいけない?」と質問されるところに、重大な問題が >潜んでいるように思うのですが。 |
「つくる会」にもたった一つだけ、参考になることがあります。 それは、その公式サイトで「つくる会」賛同者の氏名を公表 してくれたことです。 彼らの名誉をたたえて、老人党でも公開させていただきま しょうか。さあ、どうぞ。 http://www.tsukurukai.com/02_about_us/06_support.html その氏名を眺めれば、だいたいのところは、やはりそうだった のかと納得できるわけでありますが、中には、ウッソー、 そんなそんな、この人まで!!と、驚くような方も混じって おられるようです。 川上哲治。この人の現役時代をぼくは知りません。でも、 王選手や長嶋選手を育てた監督ですよね。ぼくは今にして思うと 信じられないのですが、子どもの頃は、ジャイアンツの野球帽 などをかぶって喜んでいたアホ餓鬼でありました。少しは社会に 関心を向ける年頃になってからは、ジャイアンツからは足を洗い、 同時に、プロ野球とも絶交し、スポーツは、テニスとラグビーと クリケットがあればよいのだというように、ごくごく平均的な ニッポン男児に成長しておりました。 ああ、これでいいのだ。バカボンのパパは、どこへ行ったのだ。 今、つくづくそう思いますね。今でもジャイアンツファンだったら、 川上哲治氏の名を「つくる会」賛同者の中に見つけたとたん、 急性胃痙攣で聖路加国際病院に入院していたかもしれません。 冬の夜に 私の心が悲しんでゐる 悲しんでゐる、わけもなく…… (中原中也) |
▼龍馬さん: はじめまして、横レスごめんなさい。 >どういう教科書を使うかを「教育を受ける国民側」が決める事が出来ますか? 決められます。 >同じ学校にいても意見は様々です。 そうでしょうね。 >何種類もの教科書を同じ学校で使う事は不可能です。 そんなことを考えるから「強制」になるのでは? >教師がそれを決める事は教師に思想を強制することに繋がります。 隣の教師に押しつけなければ問題はありません。 >そういう議論の結果が「教育委員による教科書の採択」です。 学校で統一するとか、広域で採択するとかいう発想そのものが、抑圧的発想です。 >これでいいし、これがベストだと思います。 そんなことはありません。教科書など、教師が自分で作成したり、採択すればよい。 その自由な教育活動を評価するのは生徒であり保護者であり、国民なんですから。そのほうが、国民一人一人が、問題意識をもち好ましい結果をもたらすのではないでしょうか! |
そのほうが、教師一人一人に説明責任、公教育の意味について自己責任の意識が育つように思います。いま、学校の管理職であろうと、教諭であろうと、「君が代」の意味について説得的な説明かできる人が、はたしてどの位いるのでしょうか。法律が制定された以上、管理職は唱わせるよう指導することはできます。しかし、生徒も保護者も「なぜ?」と尋ねることは正当ですし、説得的説明ができないまま強要すれば、思想信条の自由に反します。このせめぎ合いのなかで、教師も生徒も保護者も鍛えられるのではないかと思います。 |
この書き込みは管理者によって削除されました。(05/1/18(火) 21:55) |
▼龍馬さん: おはようございます。 >日教組の委員長が北朝鮮から表彰されているようでは、教師一人一人に、教育を委ねることなど以ての外です。 あれまー? やや、了見というか視野というか、狭小ではありませんか。 日本国民は、運転免許を交付されれば、おおかたの者は、安全運転を行っております。 教員免許を得たものは、おそらくおおかたのものは、安全教育に努めますよ。 教職員の一部が、国法を無視したり軽んじたりするような事があれば、国民として地域住民として、正々堂々と意見すればよろしい。学校は地域に開かれているのですから。その意味では、わたしは、地域で、学校管理者に対しても組合に対しても、おかしいことはおかしいと、常々申し上げております。 |
▼めだま君さん: どうも難しい話になりますね。 どの教科書を採択するのも自由ではありますが、教える先生に不当で異常な教育を施されても、生徒にはその異常を見極めることは出来ません。だって生徒は真っ白な状態で教育を受ける訳ですから、先生が赤く塗れば赤く染まり、青に塗れば青に染まります。それだから検定教科書が必要となったのでしょう。 その教科書が適正であるかどうかは歴史を鑑み、常に精査しなければなりません。 無いことをあるように書かれても、あったことを無いように書かれても、真っ白で学ぶ生徒に間違った思想を植えつけることになります。 片方の見方から書いて誤解されては困りますが、新しい歴史教科書をつくる会は、中学の検定教科書のすべてに従軍慰安婦が掲載された不当で異常な事態への国民的怒りの声に押されるように創られました。 真実を突き止めようとするとそれを消そうとするはたらきがあることも事実です。 歴史の捏造です。捏造された教科書で教えられた生徒はたまったものではありません。 国旗・国歌でもそうです。先生が国旗・国歌に対し背いた考えで教えれば、先生を信頼している生徒は何の疑問もなく、国旗や国歌に対し敬意を表すことはありません。そんな教育が浸透したから、現在、祝祭日でも国旗を掲げる家庭が少なくなったのではありませんか? 今、生きている殆どの国民は戦後教育を受けて育ちました。黒く塗りつぶされてからの教科書で学んだのです。黒く塗りつぶされた真実をも知る余地はないのです。いや知ろうとすると偏見の目で見られるようなところが無きにしも非ずです。 |
▼相良唯夫さん: レスありがとうございます。 >▼めだま君さん: >どうも難しい話になりますね。 そうですね、真の愛国者は如何にして育成されるかという大問題ですからね。 >どの教科書を採択するのも自由ではありますが、教える先生に不当で異常な教育を施されても、生徒にはその異常を見極めることは出来ません。 そうだと思います。 >だって生徒は真っ白な状態で教育を受ける訳ですから、先生が赤く塗れば赤く染まり、青に塗れば青に染まります。それだから検定教科書が必要となったのでしょう。 文部省に一任するのではなく、保護者が責任をもてばよい。とはいえ、これまでのPTAは、官尊民卑の弊風が強烈でした。その意識は、組合に熱心な教師の場合もあてはまります。ほんらい、学校教育は地域住民が公教育を教師に委託しているのですが、上からの統制が続くうちに、官尊民卑の卑屈な意識が地域住民にも染み込んでしまった。しかし、現代は状況が変化してきています。そのことは、文科省も承知していると思います。生徒と親が、学校を選び教師を選ぶ方向に進んでいます。 >その教科書が適正であるかどうかは歴史を鑑み、常に精査しなければなりません。 仰る通りです。 >無いことをあるように書かれても、あったことを無いように書かれても、真っ白で学ぶ生徒に間違った思想を植えつけることになります。 そうですね。しかし、教師たちも間違いを教えようとしてきたのではないでしょう。教師たちは、それなりに高等教育を受けた専門家です。その資格があるから、免許状を公布されている。「証言」=真実とみす傾向には問題点があった。しかし、そのような「証言」の発掘も、真実に迫るためには、不可欠なことです。 (つづく) |
▼相良唯夫さん: 返信のつづきです。 >片方の見方から書いて誤解されては困りますが、新しい歴史教科書をつくる会は、中学の検定教科書のすべてに従軍慰安婦が掲載された不当で異常な事態への国民的怒りの声に押されるように創られました。 そのような問題提起をされること自体は、立派な態度だと思います。かつで、部落問題が教科書に掲載されない時代があり、あれも被差別部落の方々やこころある一般国民の協力をえて、教科書記述が変わっていきましたね。ただ、部落解放の運動も権力と結びつくことで、一気に腐敗していきました。その教訓を踏まえ、新しい歴史教科書を作られた方々も、その轍を踏まれないよう、くれぐれも既存権力とは一線を画し、研鑽を積まれますよう、期待いたします。 >真実を突き止めようとするとそれを消そうとするはたらきがあることも事実です。 そうですね、そのようなことは、世の中にみちみちていますね。 >歴史の捏造です。捏造された教科書で教えられた生徒はたまったものではありません。 それは、少し言葉が苛烈すぎると思います。歴史研究は日々進歩しますが、いままでの教科書も、日本の最高のレベルの研究者たちが、一生懸命、真実を捉え国民に伝えようとしてきたのですし、見解の相違はあっても、とにかく文部省も検定を通してきたのですから、これまで教科書作りに携わってこられた関係者の方々には、感謝すべきであり、罵声を浴びせるのはよくありません。 >国旗・国歌でもそうです。先生が国旗・国歌に対し背いた考えで教えれば、先生を信頼している生徒は何の疑問もなく、国旗や国歌に対し敬意を表すことはありません。そんな教育が浸透したから、現在、祝祭日でも国旗を掲げる家庭が少なくなったのではありませんか? そうでしょうか?国民は、学校教育だけで思想を形成するのではありません。家族・親戚・地域、そして、現代は情報化社会ですから、実にさまざまな関係性の中で、思想・意識は形成されます。そのまとまりが世論だとすれば、いままでの歴史教科書も、世論が支持してきたのだとも言えます。国旗・国歌についても同じです。 >今、生きている殆どの国民は戦後教育を受けて育ちました。黒く塗りつぶされてからの教科書で学んだのです。黒く塗りつぶされた真実をも知る余地はないのです。いや知ろうとすると偏見の目で見られるようなところが無きにしも非ずです。 真実へ向けて、紆余曲折はあっても、戦後の国民も努力してきたわけですし、これからも、国民が、さまざまな角度から、問題意識をもって、互いに協力していけばよいでしょう。 家永さんの教科書だって、あのかたなりに、新憲法の精神をたいして、歴史研究者として渾身の努力を払われた結果です。もちろん、それでも不備・弱点はあった。「新しい歴史教科書」の評価も、やがて世論の精査を受けて、よりよいものになればいいですね。頑張ってください。 |
この書き込みは管理者によって削除されました。(05/1/18(火) 21:54) |
▼相良唯夫さん: >その「最高レベルの研究者」というところを鵜呑みにする訳にはいきません。 当然です。仰る通りです。それでなくては、国民の歴史認識・自己認識は進歩しません。 >3年に及ぶ北朝鮮拉致問題で、日本人はようやく国家の重要性に気が付きはじめました。 そうかも知れません。しかし、戦後、初めてというのではないと思います。日本国民は、それなりに「国家」を意識していたからこそ、戦後ながらく平和憲法を堅持してきたのだとも、いえるかも知れません。 >中国原潜の侵犯があり、国防の不備や外務省の対応にも批判が集まりました。中国に尻込みをした、言うべきも言わない外交の間違いに、国民も気付きました。 >また中国のサッカー反日暴動がありました。日韓条約の無効を叫ぶ理解に苦しむ韓国の親日派糾弾法などは、それぞれの国内事情に原因があることが分かります。このような意図的に歴史を曲げてきた中国、韓国の反日教育が積み重ねられたことが、あのような暴動等に由来していることも、明らかになってきました。それならば、中国と韓国の教科書がいかにでたらめかの証拠を示す必要があるのです。 これからの日本は、軍事的・経済的な超大国、米中の狭間で小舟の操縦をしなくてはならないのですから、大変難しいですね、小泉さんも大変苦労されていると思います。 >罵声を浴びせるのはよくありません そうです。 >が、間違いは正さなければなりません。 まったく同感です。 >「娼妓 ? |
41034は途中で席を立った時に、送信ボタンを押してしまったのかな? 失礼しました。 |
▼相良唯夫さん: >41034は途中で席を立った時に、送信ボタンを押してしまったのかな? >失礼しました。 気になさらないでください。相良唯夫さんとのお話は、とても気持ちがよいのですが、私は勤労の義務も、家庭においては夫として父親としての責務を果たさなくてはなりません。ですから、ゆっくりお話しいたしましょう。さて、今夜も夕飯の支度をしなければ・・・失礼! |
▼相良唯夫さん(41034・41039): Ray@スタッフです。 これらの書き込みは、 >意図的に歴史を曲げてきた中国、韓国の反日教育が積み重ねられたことが、あのような暴動等に由来している 等の表現が掲示板のルール(投稿内容、転載、引用その他/ 字種、文字数の制限)のうち 1. 伏せ字、隠語の使用および掲示板を混乱させる恐れのある投稿は禁止 2. 差別、誹謗中傷、侮蔑、罵倒、脅迫または他者を傷つける恐れのある表現は禁止 に抵触するものと見なし、削除対象として スタッフ連絡板に移動しました。 以後、この書き込みへのレスを禁止します。 なお、この件に関するご意見は、私の書き込みへの 返信としてではなく、スタッフ連絡板にお書きください (総合掲示板に書かれたご意見には原則としてレスいたしません)。 よろしくお願いいたします。 |
▼めだま君さん: >歴史研究は日々進歩しますが、いままでの教科書も、日本の最高のレベルの研究者たちが、一生懸命、真実を捉え国民に伝えようとしてきたのです その「最高レベルの研究者」というところを鵜呑みにする訳にはいきません。そこに○○の「最高レベルの研究者」と入れることができるからです。その○○が何であるかは申しませんが、右から、左からと見方があるように偏りがあることから、新しい歴史教科書をつくる会が発足したと思います。 早いもので今年で戦後60年になり、再び中学の歴史と公民の教科書の採択が行われる年でもあります。 3年に及ぶ北朝鮮拉致問題で、日本人はようやく国家の重要性に気が付きはじめました。中国原潜の侵犯があり、国防の不備や外務省の対応にも批判が集まりました。中国に尻込みをした、言うべきも言わない外交の間違いに、国民も気付きました。 また中国のサッカー反日暴動がありました。日韓条約の無効を叫ぶ理解に苦しむ韓国の親日派糾弾法などは、それぞれの国内事情に原因があることが分かります。このような意図的に歴史を曲げてきた中国、韓国の反日教育が積み重ねられたことが、あのような暴動等に由来していることも、明らかになってきました。それならば、中国と韓国の教科書がいかにでたらめかの証拠を示す必要があるのです。 罵声を浴びせるのはよくありませんが、間違いは正さなければなりません。 「娼妓」は存在したが、従軍慰安婦は存在しない。国家関与の強制行為、強制連行がなかったことは石原元官房副長官の証言によって立証されたのではなかったでしょうか? >家族・親戚・地域、そして、現代は情報化社会ですから、実にさまざまな関係性の中で、思想・意識は形成されます。 その通りでありますが、世論が支持しているからという見方には誤りがあります。事実を知らされることなく支持しているという見方は危険をも伴います。 国旗・国歌や憲法の問題でも、事実を知らされることによって、中国や韓国を例に出すまでもなく、見方や認識が変わることも認識しましょう。 自慰史観、自虐史観と争われていますが、真実は一つです。事実に基づいた歴史教育をすべきであると思います。 |
▼相良唯夫さん: >「娼妓」は存在したが、従軍慰安婦は存在しない。国家関与の強制行為、強制連行がなかったことは石原元官房副長官の証言によって立証されたのではなかったでしょうか? わたしは、「証言」=真実、とは考えません。最高の学識ある研究者の発言でも、政治家の発言でも 同じです。 >>家族・親戚・地域、そして、現代は情報化社会ですから、実にさまざまな関係性の中で、思想・意識は形成されます。 >その通りでありますが、世論が支持しているからという見方には誤りがあります。 当然です。 >事実を知らされることなく支持しているという見方は危険をも伴います。 そうです、だから研究者には社会的責任があります。 >国旗・国歌や憲法の問題でも、事実を知らされることによって、中国や韓国を例に出すまでもなく、見方や認識が変わることも認識しましょう。 私も同感です。 >自慰史観、自虐史観と争われていますが、 わたしは、そのようは貧相で卑屈な歴史観には興味はありません。真実史観が良いと思います。「自慰」とか「自虐」とか「怨念」とか「スネ夫」史観では、決して真実には至らず、やがて日本歴史の中で精査され、笑い話としてしか痕跡を残さないでしょうね。 >真実は一つです。事実に基づいた歴史教育をすべきであると思います。 仰る通りです。これまでも、歴史研究・歴史教育に携わってこられた方々も、そうお思いでしょう。 真実は一つ。しかし、歴史を科学する方法論も多様ですから、そこに至る道は、幾通りもあるかも知れません。これからが、楽しみですね。 |
▼龍馬さん(40989): Ray@スタッフです。 この書き込みは、掲示板のルール(投稿内容、転載、引用その他/ 字種、文字数の制限)のうち 1. 伏せ字、隠語の使用および掲示板を混乱させる恐れのある投稿は禁止 2. 差別、誹謗中傷、侮蔑、罵倒、脅迫または他者を傷つける恐れのある表現は禁止 に抵触するものと見なし、削除対象として スタッフ連絡板に移動しました。 以後、この書き込みへのレスを禁止します。 なお、この件に関するご意見は、私の書き込みへの 返信としてではなく、スタッフ連絡板にお書きください (総合掲示板に書かれたご意見には原則としてレスいたしません)。 よろしくお願いいたします。 |
▼龍馬さん: > ...(略) > 日教組の委員長が北朝鮮から表彰されているようでは、 > 教師一人一人に、教育を委ねることなど以ての外です。 国家などというものは、国益のためなら何でも利用するだろう という話じゃないのですか? 日教組の委員長が昔、北朝鮮 から表彰されたからといって、日教組の教師が一致団結して 北朝鮮を賛美しているとは限らないでしょう。 ああ、やだな。こうゆう集団化思考とでも言うんですかね、 これはどうやら皇国史観人間の特質のような気がしますよ。 北朝鮮を嫌う日本人が多いのを利用して、日教組を嫌悪 する方向へ世論を誘導しようとしているわけでしょ? ぼくは若い頃、ある男が右翼を使ってぼくを脅してきたもの だから、ひとりその右翼の陣地に乗り込み、親分さんとひざを 突きあわせて懇談しましたが、その時ぼくが敵のウソを淡々と 暴露すると、その爺さんは、じっとぼくの話に耳を傾け、 最後に「分かった」と言って、その話を信じてくれたのでした。 この時、右翼がぼくを表彰してくれたかどうかは疑問ですが、 ぼくを強迫した男がまちがっていることを認めたことは確か なのです。だからと言って、ぼくが右翼のお友だちという話 にはならないでしょう。その時ぼくは、右翼にも話の分かる やつがいるのかとは思った。それ以上でも以下でもない。 左翼にも話の分かるやつがいる。ただそれだけのことです。 第一、あなたが紹介した作文を書いた人間は、産経新聞の記事 を読んで感想を述べているわけでしょ。マスメディアも国家と 同質のところがあり、ジャーナリズムの社会的責任を知らない メディアは、自分らの益のためには何でも利用するものです。 その作文の筆者も同様。あなたも同質の傾向があるのですか? |