Page 2332 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼「粛清?」その1/印象操作 とうろう 05/1/30(日) 12:33 ┣Re(1):「粛清?」その2/掲示板管理&マナー とうろう 05/1/30(日) 12:38 ┣Re(1):「粛清?」その3−1/執拗について・議論の在り方 とうろう 05/1/30(日) 12:49 ┣Re(1):「粛清?」その3−2/執拗について・議論の在り方 とうろう 05/1/30(日) 12:56 ┗Re(1):「粛清?」その4/私的と個人的と公的と とうろう 05/1/30(日) 13:00 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 「粛清?」その1/印象操作 ■名前 : とうろう ■日付 : 05/1/30(日) 12:33 -------------------------------------------------------------------------
▼風鈴カザンさん&みなさん:こんにちは。 以下 風鈴カザンさんのレスのコメントに即し、少し幅を広げて、新スレッドで私の「問題意識」を述べます。 1.「粛清」という言葉、「印象操作?」「感性?」 >一言で言えば、感性の違いということと思います。とうろうさんが、そのように取られたのなら、そういった受け取り方もあるかもしれないですが、 私が考える「粛清」と言う言葉の意味、印象をウィキペディア辞書の説明を引いて下記します。 ・出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 粛清(しゅくせい)とは、権力の場に於いて自分に対する反対勢力を厳しく取り締まることでこれを押さえ込もうとすること。処刑や追放、斬り込みによる死亡、収容所送致も含む。多くの場合、流血の惨事を引き起す。時として、革命やクーデター、弾圧の一場面としても行なわれる事も多い。 ・主な粛清 焚書坑儒 - 中国(秦)(紀元前213年 - 紀元前212年) ワラキア公ヴラド・ツェペシュ(串刺し公)による粛清 - ルーマニア(15世紀中頃) ユダヤ人追放令 - スペイン(1492年) ストックホルム血浴 - デンマーク(1520年) メアリー1世によるプロテスタント粛清 - イギリス(1553年 - 1558年) サン・バルテルミの虐殺 - フランス(1572年) バテレン追放令 - 日本(1587年)リンチョピン血浴(カトリック派粛清) - スウェーデン(1600年) 恐怖政治 - フランス(1793年 - 1794年) 蛮社の獄 - 日本(1839年) 安政の大獄 - 日本(1859年) 大逆事件 - 日本(1910年) ソヴィエト連邦(ロシア)による粛清(1917年 - 1991年) レーニンによる粛清 (1917年 - 1924年) スターリンによる血の大粛清(1934年 - 1938年) ホロコースト - ドイツ(ナチス・ドイツ) 文化大革命 - 中国(1966年 - 1977年) 一般辞書においても「厳しく取り締まって、不正な者を除くこと。特に独裁政党などにおいて、反対派を追放すること 」と定義され、「粛清」とは、「権力の場」で行なわれる反対派の追放、弾圧であり、通常は「政治的圧殺、処刑」まで含まれ「独裁政権」あるいは「独裁性の強い政権」に特有のことだといわれています。 このような意味に基づいて解釈すると、老人党があたかも「独裁政党」で、その「権力」をもって「反対意見を封じ」且つ「弾圧する」かのごとき印象を持つのが普通ではありませんか。 現に、カザンさんご自身が「幸いにして私はわが国において「粛清」と読(呼?)んで差し支えない行為を感じ取ったことは今までありません」と仰っているではありませんか。このことは余程「不合理、不当なこと」の意味で「粛清」という言葉を、即ち、上のウィキペディアの言うような「意味」で使われたのではありませんか。 私が大仰、印象操作と感ずる所以です。そうでないのであれば、貴レスの移動ぐらいのことは「邪魔除け」「排除」「排斥」など、幾らでも別の言葉で正しく表現することが出来るものと考えます。 公開され、書き込み自由であるとは言え、従って、私は「*一定の*公平性と透明性が必要」と言っておりますが、言えば、私人が主宰する私的掲示板で自らの意見の扱いが意に沿わないものであるからと言って「言論弾圧」「粛清」云々などと言うことは、私には「印象操作」としか感じられないのです。 また、敢えて言えば、たかが私的掲示板の意見の「移動」「削除」更には「アク禁」など何ほどのことがありましょうか。大げさという所以です。 >私怨とか、印象操作云々という意図は、自分では持っておりません。 カザンさんがそのような意図をお持ちでなかったとしても、第三者の一人の私には上の理由からそう感じました。他に「適正な言葉」もあるのにと。「感性の違い」以前の「印象操作」に見えると、客観的に見て、私は考えるものです。 (以下 「粛清?」その2/掲示板管理&マナー に続く) |
(承前 「粛清?」その2/掲示板管理&マナー) 2.私の管理人さんへの意見、提言について(五十歩百歩か?) >ただ、一言だけ言わせて頂きますと、あなたがどう感じられようと結構ですが執拗に管理人さんにいろいろと言われているあなたに、こういう内容のことを言われるのは率直に言って私にも違和感があります。どちらがいいにしろ、悪いにしろ五十歩百歩じゃないですか? 失礼ながら、私はあくまで、第一義は「掲示板の管理については管理人さんの自由裁量」であることを前提に、「掲示板の「アレ」を無くす為に」という、僭越ですが、いわば「公益的立場に立って」種々意見を申し上げて来たつもりです。 先にも言いましたように、私は、私のスレッドの削除については「驚いた」とは書き込みましたが、直接管理人さんには何も申しておりません。「私益あるいは私怨」からと取られたくない為です。「李下に冠」「瓜田に履」と言います。少しでも人にその真意を疑われるような行為は、人は普通しないもの、としたものです。 また、私は先に「管理人さんが仮に私の投稿を不愉快に思い、「アク禁」にされても異存はありません。但し、その理由を明示されるのが「衡平の原則」でしょう」とも言っております。レスの移動、削除など当然のことと思っております。これがカザンさんの管理人さんに対する姿勢と同じ姿勢でしょうか。 「無礼、傲慢、排除の意識は「アレ」の素」という私の投稿に於いて排除の意識も批判しております。しかし、これは一般投稿者が排除の意識を先に立てて投稿する姿勢が掲示板のアレにつながると言う意味で言ったものです。管理人さんの「自由裁量権」を否定したものではありません。 本掲示板が気持の良い、アレの無い、意見交換、意見表明の場であって欲しい、そのための管理姿勢について私は提言しているのであって、「絶対公平性、ルール遵守」を盾にして、自己の利益のために管理姿勢を、ただ批判するようなことはしていないつもりです。管理人さんがどのように私の真意を受け止められたかは分かりませんが。 その時々の私の最後のレスに対しては一切コメント無く、お分かりいただいたのか、不同意なのかが分かっておりませんゆえ。私の立場からは、特に、反論が無いと言うことはそのまま私の意見をお認めになったと言う風に理解しております。 譬えが妥当ではないかも知れませんが、対論(ダイアローグ)においては、一般に、法的にいえば、相手の意見に対して正当な「答弁が無い」と言うことは「自白」と認識されます。この「自白」の意味は相手の意見をまるまる認めたとの謂いです。 なお、私は、カザンさんは「老人党の目的」の一つ「政権交代」を理解されているのか、疑問に思います。現、小泉政権に変わって例えば石原政権が出来て何が変わるのか、石原氏の「官僚主義否定」は大いに評価できますが、もはやご高齢の、右派保守的政治姿勢(国旗、国歌問題に見る天皇尊重姿勢)が老人党の目的に合致するとは思えません。 このような意味から、野党だと言明したある方が常々仰っているように「作法、立居振舞」を考えなければならないのではありませんか。「石原氏を讃えるような」スレッドを立てることは、そして、その掲示板の目的、主義に反するかのようなスレッドを堂々と立てるなどは、私に言わせれば、まぁ「マナー」に反することと思います。 若し、カザンさんも野党の立場であれば、せいぜい、書き込まれた意見に対し、レスで「マナーと理」に沿った「反論」をされるくらいで良いのではありませんか。どうも私には、仰るように「愛ある立場」のようには映りません。「先ず繪?(かい)より始めよ」ではありませんか。 以上のような諸々の理由から、「五十歩百歩」などといわれるのは誠に心外です。また、よく弊言と貴言動を比較して頂きたいものと、私的(わたしてき)には思うものです。 (以下 「粛清?」その3/「執拗について・議論の在り方」に続く) |
(承前 「粛清?」その3/執拗について・議論の在り方) 3.「執拗に」について これは特に本レスとは特に関係ありませんが、カザンさんが「執拗に」と私の議論(意見交換)の姿勢を評し、また多くの方からも今まで私が言われ続けてきましたので、この機会に私の立場をご説明し、私の立場からそのように言われた状況における相手の方の状況も含めてご説明いたしたいと思います。 同時に、私は常に「真意は何か」「質問を返されて困る、だから、執拗だ」あるいは「外形的に、現象的に私の意見が長々と続くので「執拗だ」」との言葉を頂くのだと思い、また、議論の中身を見ない「表面的、即物的」なご感想と思っていますので、以下説明します。 「真意は何か」については先に「無礼、傲慢、排除の意識は「アレ」の素」と題するレス【40270〜47273】で説明申し上げたと思います。また、質問、質問で困ります、と言うコメントに対しては、管理人さん宛ての、管理スタッフ掲示板のレス【1732】で申しております。ご一覧ください。 そこで「執拗な」という貴コメントについてですが、私が意見交換に際して「執拗な」と考えるのは以下のようなケースです。 相手の方が「マナーと理」に沿った意見をいい、「論破」を目指しておられ、その意見が理に沿い(根拠を示した上で論理構築し)論旨に誤りが無く、既に「論破」されているのに、それを認めず、あるいは認められず、 (1)相手の論旨に逐一反論せず、即ち、相手のコメントを全部取り上げず、都合の良い(と浅慮で自分が思う)コメントだけ、文脈を無視して取り上げ、前に言った己の言と矛盾し、また、自己撞着にも気がつかず、屁理屈ともいえぬ言をこね回し、相手の言を捻じ曲げ、あるいは「自己解釈」を付加して、ただただ「反論めいた言辞」を弄し、 (2)あるいは、前後の文脈を無視して「片言隻句」だけを取り上げ、自分に都合の良いコメントを述べ、 (3)あるいは、根拠の提示もなく、論の構築も無く、只ひたすら、否定の言葉「・・ではない」「・・は誤っている」「・・は間違っている」「・・はおかしい」という実体の無い空虚な言葉の羅列しか言わず、 (4)あるいは、相手の方の「論旨」を素直に読み込まず、勝手に曲解し、曲げた上に自論を展開し、 (5)相手の「論」を責める「論破」でなく「人破」(論の主体たる人を責める)に言葉を傾注し、根拠の説明も無く、主観的、感情的、情緒的言辞「誠実でない」「侮辱である」「人格を貶めるものである」云々の言葉を弄し、 (6)それが「自論」の正当化の道であると錯覚したかのように、「論破」を忘れ、ひたすら「人破」に撤し、長々と「反論らしく見える」即レス(大して考慮も、熟慮も払わず)を続け、根拠を示すことなく、ひたすら己の「主観的」あるいは「身勝手な、感情的・情緒的」な「人破」を長々と述べる、 ようなことが「執拗な」と理解しております。 (以下 その3−2に続く) |
(承前 その3−2) 更に言えば、自己の論は「体系的、論理的に示せず」ただただ相手の論を追って、それに追従するだけで上に述べたようなよう名方法で、それに反対めいたことを言うだけでの反対論なども、まぁ「執拗な」と思い、レスをつける価値も無いものと私は考えております。 私は、以上のような論に接することが多く、この方は本当にそのように感じ、論を展開しておられるのか、あるいは、只、己の面子を守るために、あるいは只敵とみなした相手の「人破」のために論を言われているのか、時に理解に苦しむことが多いのです。 若し、純粋に「己が正しいと信じ、その偏りを認識せず、論を進めておられる」のであれば、少しその思考回路が理解できませんし、「己の面子を守るために、意識してやっておられる」のであれば、まぁ「小さいお方」だな、と思うものです(勿論この印象は、私の主観ですから、当否は第三者のご判断に拠ります)。 私は「科学的合理性・論理性」を重んずるものです。しかし、科学妄信者ではありません。世には「科学的衣装」をまとった「似非科学」も溢れています。気をつけたいものです。 なお、一例として、上に上げた弊レス【1732】が最後になった弊スレッド【1659】(管理スタッフ掲示板)を全てご一覧の上、あるいは、天皇制に関する弊意見の提示のスレッド【39204】【40482】【41325】【41707】に於いて、私が、上のいわば「「執拗な」基準」に反しているかどうかチェックください。 (以下 「粛清?」その4/私的と個人的と公的と に続く) |
(承前 「粛清?」その4/私的と個人的と公的と) >個人的には、これについてもっと書いても一向に構いませんが、既に関連投稿の多くが削除され始めましたので、何故かまた対象にならないとも限りません。ですので、今回はこれに留めます。 私的掲示板に私的に発言する以上、全ての発言がいわば「私的」ではありませんか。何か、ここでのカザンさんのご発言に「私的」でない「個人的あるいは公的」と言われるような発言があるのでしょうか。 尤も、カザンさんの仰りたいことは、「自分の気持ち(私的)」としては、もっともっと反論したい、意見を言いたいが、それはまた削除、移動基準を超えそうだ、という意味であることは分かっておりますが。 「ご自分の気持ち」を、「私的」でなく「個人的」と表現されるのを少し異に感じました。 「私的」に関しては、ある方が仰っていたように、私個人に対する不愉快なコメントに接すると、私も「生身の私人」ですから、ムカッともし、腹も立ちます。その感じをストレートに感情を込めて言いたいとも思いますが、ここは、全くの「私的」な場でもありません。不特定多数の方に開かれている公開の掲示板で、ある意味「公的」な場です。 出来るだけ「私的なこと」「私的感情の趣くままのコメント」を控え、いわば「公(おおやけ)」に対する「個人的」立場、「公の中における私即ち個人的」立場で発言するように心がけている所以(ゆえん)です。 「私」とは、まぁ家の中にいる私、「個」とは公の場での私個人、「公」とは公的な私(私は全くの私人ですから「公」はありませんが)と考えてみました。 従って「個人的」という表現は、ある種の「公的」(この場合は少し広い意味の公で社会、集団を意味します)と対応していると感じるものです。 これで思い出しましたが、私は、時々TVでコメンテーター(仮面テーター?)が、これは「個人的あるいは私的」な意見ですが・・・などと断ってコメントされるのを、耳にするにつけ「オイオイ、お前さんは、個人的、私的以外に、何か「公的な立場を代表する」資格、権限があってコメントされているの?」と、心の中でチャチャを入れながら、滑稽に思って見ております。 なぜなら、逆に考えれば、これは「TV局の意見」を言っているわけでない「私、個人の真の意見」を言っていると言いたいのでしょうが、このことは、謀(はか)らずも、普通はTV局の意志(シナリオどおりの発言)を、ご本人がなぞっていると、視聴者には受け取られかねないことに思いが至らないのではと感じている次第です。 ついでに言えば、どうも日本人はこの「私的(private capacityプライベートな存在)」、「個人(an individual公に対する個の存在)」、「公人(a public officialパブリックな存在)」という意識の分け方が判然としていないように感じます。全て、ごっちゃ、渾然一体と感じます。 以下は、あくまで、譬えの例であって、私は、「山拓さん」には何の利害関係もありませんが、 山拓さんが「私的」に「女に弱い」ということは「山拓さん」の公的政治家としての「資質」には余り関係の無いことと思います。山拓さんの政治家としての資質は、その「政治的能力、業績」で判断すべきであり、女関係は関係ないことと思います。勿論その個人としての倫理観、人格には関係あることですが。 山拓さんが女を囲おうが、女に訴えられようが、それが国民一人一人に関することでしょうか。政治に関係することでしょうか。女のことは関係ないと私は思います。「私人」と「公人」とを区別しての判断が必要な所以と思うのですが。 勿論、「個人的」人格批判としての意味はありますが、政治家を見るときは「政治家としての資質、能力」を見て判断するべきと思っております。山本夏彦氏がこんなことは「茶の間の正義」といった所以かとおもいます。 フランスのシラク大統領が「愛人との間の隠し子」を新聞記者に問われて「それが何か?」と問い返したと言う挿話を思い起し、人権、人間及び「私」と「個」と「公」の概念の分別とその認識の未成熟を感じるものです。 以上(完) カザンさんのレスに即して感ずるところを、弊思索結果を述べました。 長々と失礼致しました。 |