Page 2347 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼人間の弱さと強さ! 流水 05/1/29(土) 16:13 ┣Re(1):人間の弱さと強さ! しげちよ 05/1/29(土) 16:27 ┣Re(1):人間の弱さと強さ!そして悲しい「サガ」 珍 源斎 05/1/29(土) 17:19 ┣Re(1):人間の弱さと強さ! 流水 05/1/29(土) 18:56 ┃ ┗Re(2):人間の弱さと強さ! 木下 05/1/29(土) 19:47 ┗Re(1):自立(自律)意識涵養の必要性! 流水 05/1/29(土) 21:48 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 人間の弱さと強さ! ■名前 : 流水 ■日付 : 05/1/29(土) 16:13 -------------------------------------------------------------------------
先日、アウシュビッツ60周年が行われた。 多くの西側首脳、ロシアのプーチン大統領などが出席して、盛大に挙行された。 アウシュビッツの悲劇については、多くの人が言及している。 しかし、アウシュビッツの悲劇には、過酷な支配を受けた人々に共通な点が見られることに言及する人はほとんどいない。 フランクルの「夜と霧」の中にもカポーという裏切り者の話が出てくる。カポーというのは、ドイツ軍に協力して同胞であるユダヤ人を支配する人間の総称である。 この種の話は、「戦場のピアニスト」の中にも出てくる。 同じ話は、シベリア抑留された人々の間でも語り継がれている。わたしは、シベリア抑留された人の体験談を直接聞いたが、やはりシベリアでもソ連軍に協力した日本人がいたそうである。 カポーもそうだが、こういう人々のやり口は、支配する人間よりひどい場合が往々にしてあったといわれている。 憶測でしかないが、この人たちの心理は、自分の裏切り行為に深い罪意識を感じているため、逆に自分をそういう目で眺める人々に対して必要以上の残虐な行為を働いてしまうのであろう。 憶測でしかないが、日本の政治家たちが権力の頂点に近づくにつれて、じょじょにじょじょに【親米的】ないし【対米追従的】になるのは、このカポー的心理が働いているとわたしは考えている。 時折、米国追従を脱却しようとする政治家が現れると、たいていの場合、スキャンダルなどで潰される。(※ロッキード事件が代表) わたしには、日本の支配層(政治家・官僚・経済界・文化人など)の多くは、アウシュビッツのカポーと同じに見える。そして、国民たちはゲットーの住人のように見えて仕方がない。 ただ違うのは、ゲットーの住人を救う力は他にあったが、われわれ日本国民を救う力は、日本人の自力によるしかないというところであろう。 |
▼流水さん 確かに米国は,日本をコントロール下に置いているし,それに追随する政治家ばかりですね。 米国からの脱却を,具体的にはどのように考えておられますか? 米国流になった日本の経済体制や生活習慣について。 国土の防衛について。 エネルギーの確保について。 食糧の確保について。 これくらいの視点から考えなければならないでしょうね。 日米を分断するのではなく,真に対等な関係になるにはどうすればいいのでしょう。 |
▼流水さん:こんにちわ! 当を得たカレントなスレッドですのでレスさせて頂きます。 権力が放つ光彩の中には必ずと云ってよいほど アウシュビッツのカポーではないが「虎の威を借りる〜〜」に例えられる ようなものが存在する。 アフリカの奴隷狩りにも種族間の確執を利用したり権力に「おもねる」 不心得な現地人が大いに利用されて悲劇が拡大されたたと聞く・。 企業などの組織の中のにもそのような手合いの存在は権力の「ありよう」に よっては自然派生的に表面化することは随所に見受けられるようです。 アメリカ軍の日本占領時代にもアメリカ軍に「おもねて」同じ日本人雇用者へ つらく当たった連中が現に存在したこと。 流石な流水さんの取り上げ方↓憶測と云われますが的を得てると思います。 >憶測でしかないが、日本の政治家たちが権力の頂点に近づくにつれて、じょじょにじょじょに【親米的】ないし【対米追従的】になるのは、このカポー的心理が働いているとわたしは考えている。 >時折、米国追従を脱却しようとする政治家が現れると、たいていの場合、スキャンダルなどで潰される。(※ロッキード事件が代表) > >わたしには、日本の支配層(政治家・官僚・経済界・文化人など)の多くは、アウシュビッツのカポーと同じに見える。そして、国民たちはゲットーの住人のように見えて仕方がない。 >ただ違うのは、ゲットーの住人を救う力は他にあったが、われわれ日本国民を救う力は、日本人の自力によるしかないというところであろう。 ・・そこで我々日本国民が救われる道は何処にあるのか自力を発揮すべき処は 何処かを考えると、まず政権の交代と権力の分散、政治経済にしても・・ 現在の中央集権から道州制のように分散と地域の独立性を高めること・・が 手始めに必要ではないかと思います。 諸々の問題解決の切り口はありますが、権力の肥大・強大化を抑制することが 第一歩であるように思います・・が? 問題は異なりますが、NHKも肥大化により今日的な「体たらく」に陥り 陰に陽に権力に阿る「おもねる」形が見え隠れするようになったのでは ないかと思う処です。 失礼しました。 |
戦後60年、現在の日本の最大の問題点は、自らの行為をカポーと認識しない支配層 や国民が増えた、ということでしょう。 そこには、日本社会全てにわたる考え方(※思想と言ってもよいし、心の持ち方といっても良い)の変化があるということだと思います。 難しい思想の言葉でなく、平易な生活の言葉で語ると、以下のことが考えられます。 1、腹八分目がよい⇒腹一杯でなければ満足できない 2、人間ちょぼ、ちょぼ⇒人間にはどうしても駄目な奴がいる 3、お前一人で生まれたのではない(ご先祖さんのことを考えろ)⇒俺の思い通り にさせない親が悪い、社会が悪い、国が悪い 4、親孝行するのが子の役目⇒親が子の面倒を見るのが当然。親のために生きているのではない。⇒自分の子供は自分の人生の邪魔にならないようにするのが当然 5、人様に後ろ指を差されるようなことはしない(恥)⇒人様がどう言おうと、自分がよければよい。 6、物を粗末にしたら罰が当たる⇒いらないものは捨ててしまえ 7、少々血が出たくらい、つばをつけたら直る⇒ばい菌が入るから消毒して、薬を塗ってカットバンで手当てをしなくては。 8、ならぬ堪忍、するが堪忍。石の上にも3年。人間、我慢と辛抱。⇒言いたいことはいう。すぐ成果を見たい。 その他、いくらでもありますが、簡単に言えば、戦後日本は「人間の矜持」を捨て去ることにより、経済的豊かさを手に入れたといってよいのです。 つまり、視点を変えれば、アウシュビッツのカポーを決して笑えない生き方を選択したともいえるのです。 その国民をリードする支配層がこの意識を利用しないはずがないのです。現在の日本を変える難しさは、この国民意識をどのように変えるか、という難しさなのです。 |
老人党らしい(年輪を感じさせる)ご意見ですね。 > 現在の日本を変える難しさは、この国民意識をどのように変えるか、という難しさなのです。 私は、国民意識を「意識的に変える」のは困難だと思っています。意識的に変えられると考えての活動は、細心の注意が必要です。釈迦に説法かな…。 |
文字数制限があるので、何回かに分けて書くことをご容赦ください。 前回、国民意識変容の必要性を書きましたが、その中で一番重要なことは、 如何にして国民の中に自立(自律)意識を涵養するかという点です。 わたしは、自立(自律)意識とは、【毎日の生活を如何にして意識下におくか】 という点に求められると考えています。 具体例で語りましょう。大リーグマリナーズのイチロウ選手を思い浮かべてく ださい。 彼が好んで使う言葉に、【しっかり準備する】というのがあります。この準備 には、オフシーズンにしっかり身体をつくる、という意味もあれば、毎日の試合 にベストコンデイションで臨める準備という意味も、自分のバッテングの準備も あれば、相手投手の球種・球筋・自分に対する攻め方を読むという頭の準備もあ ります。 彼が【しっかり準備する】という言葉で言いたいのは、自分の日常全てを自分の 意識下において、コントロールするということなのだと思います。 このことを端的に示しているのが、彼のバッテイング理論です。彼とて超人では ないので、一年のうち何度かスランプに陥ります。 その時のことを、昨年彼はこう語っていました。【自分は少しも心配しなかった。 打てない原因がよく分かっていた。頭ではこのボールは打ってはいけない、ということが分かっていても、身体が打てると反応する。この身体の反応と頭の反応を 一致させれば、必ず打てるようになる】 つまり、彼は自分の身体の反応さえ、冷静に観察しているもう一人のイチローを 持っているのです。 わたしの自立(自律)のイメージは、イチローまでとは言わないまでも、自分の 日常の行為を冷静に見ているもう一人の自分をつくることだと考えています。 これができれば、犯罪行為に走ろうとする自分を引き止めるもう一人の自分が 存在することになり、衝動的・短絡的犯罪の数は激減するはずです。 また、このような自立(自律)した個人こそが、本当の意味での民主主義の担い手 になるはずです。 国や社会の役割は、このような自立(自律)した個人を育てるような環境作りに 徹するべきなのです。 |