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 ▼老人党って? (4)  告天子 05/2/9(水) 19:30
   ┣Re(1):老人党って? (4)  告天子 05/2/9(水) 20:41
   ┃  ┣一言だけ。  YOTA 05/2/9(水) 23:07
   ┃  ┃  ┗それに、  YOTA 05/2/9(水) 23:42
   ┃  ┃     ┗イギリス王室は、国家権力を掌握した。  めだま君 05/2/10(木) 0:10
   ┃  ┣Re(2):老人党って? (4)  トビパパ 05/2/11(金) 18:41
   ┃  ┃  ┗Re(3):老人党って? (4)  告天子 05/2/11(金) 20:44
   ┃  ┃     ┣告天子さんは唯物論者?  めだま君 05/2/12(土) 0:11
   ┃  ┃     ┣Re(4):老人党って? (4)  告天子 05/2/12(土) 10:57
   ┃  ┃     ┃  ┗告天子さんは内村の2つのJをご存じ?  めだま君 05/2/12(土) 15:09
   ┃  ┃     ┃     ┗ご注意>めだま君さん  管理スタッフ 05/2/14(月) 19:31
   ┃  ┃     ┗Re(4):老人党って? (4)  トビパパ 05/2/15(火) 18:39
   ┃  ┃        ┣Re(5):老人党って? (4)  告天子 05/2/15(火) 19:01
   ┃  ┃        ┃  ┗興味深いテーマですね  めだま君 05/2/15(火) 22:43
   ┃  ┃        ┣Re(5):老人党って? (4)  告天子 05/2/15(火) 19:23
   ┃  ┃        ┣Re(5):老人党って? (4)  トビパパ 05/2/16(水) 18:27
   ┃  ┃        ┃  ┣Re(6):老人党って? (4)  告天子 05/2/16(水) 19:04
   ┃  ┃        ┃  ┗Re(6):老人党って? (4)  告天子 05/2/16(水) 19:23
   ┃  ┃        ┃     ┗Re(7):老人党って? (4)  告天子 05/2/16(水) 19:35
   ┃  ┃        ┃        ┣Re(8):老人党って? (4)  トビパパ 05/2/18(金) 16:13
   ┃  ┃        ┃        ┃  ┣Re(9):老人党って? (4)  告天子 05/2/18(金) 18:08
   ┃  ┃        ┃        ┃  ┗Re(9):老人党って? (4)  告天子 05/2/18(金) 19:13
   ┃  ┃        ┃        ┣Re(8):老人党って? (4)  トビパパ 05/2/18(金) 17:10
   ┃  ┃        ┃        ┃  ┗Re(9):老人党って? (4)  告天子 05/2/18(金) 19:33
   ┃  ┃        ┃        ┗Re(8):老人党って? (4)  トビパパ 05/2/18(金) 17:43
   ┃  ┃        ┃           ┣Re(9):老人党って? (4)  告天子 05/2/18(金) 19:46
   ┃  ┃        ┃           ┗Re(9):老人党って? (4)  告天子 05/2/18(金) 21:04
   ┃  ┃        ┗Re(5):老人党って? (4)  トビパパ 05/2/16(水) 18:58
   ┃  ┃           ┣Re(6):老人党って? (4)  相良唯夫 05/2/16(水) 22:52
   ┃  ┃           ┗Re(6):老人党って? (4)  しげちよ 05/2/17(木) 17:36
   ┃  ┃              ┗健忘症?  めだま君 05/2/17(木) 23:44
   ┃  ┃                 ┣素直にみましょう。  相良唯夫 05/2/18(金) 1:08
   ┃  ┃                 ┃  ┗問題は、国家と個人の関係です  めだま君 05/2/18(金) 1:51
   ┃  ┃                 ┃     ┗Re(1):問題は、国家と個人の関係です  しげちよ 05/2/18(金) 17:51
   ┃  ┃                 ┗ご注意>めだま君さん  管理スタッフ 05/2/18(金) 18:33
   ┃  ┗Re(2):老人党って? (4)  トビパパ 05/2/11(金) 19:16
   ┃     ┣Re(3):不敬事件からいろいろ  告天子 05/2/11(金) 21:09
   ┃     ┃  ┗論理のすり替えは、止めましょう  めだま君 05/2/11(金) 23:10
   ┃     ┣Re(3):老人党って? (4)  告天子 05/2/11(金) 21:41
   ┃     ┃  ┗告天子さん、複眼的に見ましょうね、  めだま君 05/2/11(金) 23:33
   ┃     ┗Re(3):老人党って? (4)  告天子 05/2/12(土) 20:48
   ┃        ┣告天子さん、議論に深みがありません。  めだま君 05/2/13(日) 1:03
   ┃        ┗Re(4):老人党って? (4)  つるみ 05/2/17(木) 19:10
   ┃           ┗Re(5):老人党って? (4)  告天子 05/2/17(木) 20:43
   ┃              ┗Re(6):老人党って? (4)  つるみ 05/2/19(土) 2:36
   ┃                 ┗Re(7):老人党って? (4)  告天子 05/2/19(土) 3:12
   ┃                    ┗Re(8):老人党って? (4)  告天子 05/2/19(土) 3:13
   ┃                       ┗Re(9):老人党って? (4)  つるみ 05/2/19(土) 6:55
   ┃                          ┗Re(10):老人党って? (4)  告天子 05/2/19(土) 9:32
   ┃                             ┗Re(11):老人党って? (4)  告天子 05/2/19(土) 9:45
   ┗余計な一言。。?  風谷 米造 05/2/10(木) 14:49

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 ■題名 : 老人党って? (4)
 ■名前 : 告天子
 ■日付 : 05/2/9(水) 19:30
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   前スレッドの、トビパパさんの投稿への、返事の続きです。

>自分の信念を貫けば、ほか
>の多くの日本人の目には、天皇への反逆(あるいは、告天子さんのおっ
>しゃるような非常識)と映ることは分かっていたでしょう。

天皇への反逆ではありません。公共のルール、道義道徳への公然たる「横紙破り」だから、人は腹を立てるのです。「天皇陛下に逆らうのか!!」とばかりに腹を立てるような人も、勿論いたでしょう。しかし、「何故教育勅語が、かくも人の尊敬を受けたか」といえば、「天皇が無理矢理に尊敬させたから」ではなく、それが日本人の自然な道徳感情に合致するものがあったからであり、そこに内村は「自分の信仰」を理由に、教育者である立場も弁えず、「強要されるいわれはない」と、社会ルールを公然と破ることをしたから非難されたのです。


>彼もやはり
>怖かったはずです。それでも、彼はおのれの信仰に従うしかなかった。
>それは天皇への反逆という次元のものではなかったのです。

内村の勝手な自己陶酔だと思います。自己の信仰を、ロマン化していると思います。教育勅語を唱えることは、「天皇への絶対忠誠を誓い、それ以外の宗教の自由を決して認めない」ようなことを意味するのではありません。内村がそういう理解で「不敬」に至ったのであれば、それは彼の誤解の罪であり、教育勅語の問題ではないし、まして彼を責めた不敬を難ずるなど、逆ギレ以外の何ものでもありません。


>しかし、当時の日本人は権力の側と同じように、彼の行為を天皇への
>「不敬」とみなして非難した。それと同じことが今も許されるはずは
>ないでしょう。

「許されるはずはない」というのは、根拠なき独断であります。何故、許されないのか、それが問題でしょう。前提となる部分を抜いて、「とにかく許されるはずがない」というのであれば、その決めつけの方が問題なのではないか、また、「何故そういう決めつけをしてしまうのか」の方が、深い問題なのではないかと思うのです。


>こういう問題意識が、「君が代」の問題にもつながる
>のです。実際、すでに指摘したように、「君が代」に敬意を表しない人
>を非国民と断定するような大学教授がこの国には現在もいるのです。

私は正直言って、非国民だなどと言う人も、言われるような人も、どちらも好きになれませんね。

>内村が教育勅語に頭を下げなかったのは、白いご飯にソースをかけ
>ようとする行為とは全く違って、ほかの日本人がみなご飯を食べている
>ときに、彼ひとりはただ天を見上げていただけ。そう表現してもいいで
>しょうか。

それは別に表現のしようですが、ご飯を食べるというのも神聖な行為です。ご飯をなめてはいけません。


> 人はパンのみにて生くるにあらず。

ご飯も大事です。

>
>彼は危険を覚悟で、ただ天を見上げたのです。憲法が天皇を神としたと
>しても、彼にとって、天皇は人間にすぎなかったのです。人間としての
>天皇を認めることはできたとしても、神としての天皇は絶対に拒否する
>しかなかったのです。

「絶対に拒否する」というのは、その別に、「絶対に信じる」自分の神がいて、それ以外は「絶対に許さぬ」ということが前提になっての話でしょう。それは自分が勝手にそう言っているだけのことで、そういう信仰が無条件に時と場所をわきまえずに尊重されるべきではない、というのが私の考えです。「尊重せよ」、と言うのは、単なる一身の安心のために他の全てに対して無理を要求しての話で、はた迷惑だ、と申しているのです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/9(水) 20:41  -------------------------------------------------------------------------
   >キリストより天皇のほうが偉いと思う人がいてもいいでしょう。

いてもいいでしょう、などという話ではありません。ウルトラマンとアントニオ猪木のどちらが強いか比べるような話で、無意味です。

>ぼくは個人主義者ですから、他人の個人主義も認める用意は
>あります。

個人主義と、「いかなる宗教もその価値は平等である」といった思想とは別物です。別の話です。

>しかし、キリストを信じる者に対して、無理矢理に
>天皇を神として押しつけるようなことは、現在の日本では、
>してはいけないことですよね。

明治時代に於いても然りです。そのようなことをしたら、外交問題になりますし、第一そんなことはしていません。参考までに、帝国憲法の規定を引用します。
第二十八条
   日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

無制限な信教の自由を認めれば、「信教」の名の下に何でも許さなければならなくなりますから、どの国でもそれに制約を欠けるのは世俗国家として当然のことです。

>日本人の神は天皇しかいない、

八百万も神がいます日本の国で、どうしてそんな話があるでしょうか?

>キリストは外国の神だ、なんて思想は、一部の日本人の限定
>思想にしておいておくれやす。

キリストは外国の神ですよ?。イエスは日本人だったのでしょうか??

>昔、渋谷駅前でオウム真理教信者から小冊子をもらいました。
>その中で、麻原はこのようなことを書いていました。

>「キリストは弟子に裏切られた。私の弟子は裏切らない。
>よって、私はキリストより偉い」

「キリストより偉い」なんていうのは、そういう話ですよ。およそ問題になりませんし、「キリストより偉かったのか」などと感心する人も普通いません。


>このように自画自賛する教祖さまが天下に存在して、それを
>崇拝する人がこの世にいるという現実は、ぼくの知ったことじゃ
>ないのです。

いや、現実に大問題であるわけで、「信教の(無制限な)自由」に対して冷水をぶっかけた大事件だったでしょう。そういう事件への反省は大事なことです。

>しかし、そんな教祖さまに頭を下げないやつは
>殺すと言われたら、ぼくだって抵抗しますよ。老人党ふうに
>言うなら、トビパパはレジスタンスをしたのだ、とでもなり
>ましょうか。

>はい、わかっていますよ。天皇と麻原をいっしょにしてもらっちゃ
>困るわけですね。

いや、困ると言うより、たとえとして悪いだけかと思います。

>しかし、ですね、ちょっと考えてみてください。
>麻原の裁判はまだ終わっていないから断言はできないですが、
>彼の指示によって多くの人の命が奪われたことはほぼ確かでしょう。

その通りです。

>だから、日本の常識でも英国のコモンセンスでも、常識的な人たちは
>麻原は悪いやつだと思うわけですね。

誰が見ても麻原は悪いでしょう。

>昭和天皇はどうでしたか? 

何故、麻原と昭和天皇がここで結びつくのか、さっぱり分かりません。

>戦後のマスコミが宣伝した平和主義の
>天皇じゃなくて、戦前戦中の天皇は何をしましたか? 

よくは知りません。しかし、教団を作ったり怪しげな宗教活動を展開したりは、少なくともされないと思いますが・・・。と言うより、やはり比較として変すぎますよ??

>直接は人を殺してない。そうでしょう。

その通りです。

>しかし、天皇は日本軍でいちばん偉い地位にありました。

いちばん偉い地位、というのも、何ともなたとえなように思いますが、まあ、比喩としてはそういうことですかね。

>その天皇の軍隊によって、多くの命(女性や
>子供も)が奪われたことは、歴史的事実なのです

戦争で多くの人命が失われるのは、まことに悲しむべきことであります。しかし、それと麻原と、一体何の関係があるのでしょうか?。どうも、唐突すぎて、少し驚いているところです。お話の脈が、よく見えません。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 一言だけ。  ■名前 : YOTA  ■日付 : 05/2/9(水) 23:07  -------------------------------------------------------------------------
   >その天皇の軍隊によって、多くの命(女性や
>子供も)が奪われたことは、歴史的事実なのです

それを言ったら、キリスト教なんて話にならないと思うんですが。
キリスト教の歴史は戦いの歴史。異端審問と異教弾圧、国家・民族紛争の火種ともなって、世界史上に屍山血河を築いてきた最大最強の戦闘宗教じゃないですか、アレは。

話に出ていた『オトナの国』のイギリスにだって、プロテスタントとカソリックの血で血を洗う戦いの経緯がありますし、アメリカやロシアの宗教右翼なんて、その過激さじゃ『家に投石される』なんてもんじゃないですよ。

失礼ながら、どうもトビパパさんの話は、比喩や比較の対象の評価に個人的な価値観が入り過ぎて、本来なら『一個人の奇行』とか『人それぞれ』で済まされてしまう程度の話を、無理にフレームアップしてるような印象を感じます。


恐惶謹言。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : それに、  ■名前 : YOTA  ■日付 : 05/2/9(水) 23:42  -------------------------------------------------------------------------
   太古の人物で、とうに観念上の存在になっているキリストと、代を継ぎながら常に実在の存在として『民とともに在った』天皇というのは、『神としてどっちを信じるか』というような比較対象にはならないでしょう。

皇室というのは、むしろトビパパさんの挙げたイギリスにある王室に近い。
キリスト教を国教とし、その王権を神に授けられた、とされてきた王と、
八百万の神がいる国で、その神々と繋がる存在である、とされてきた天皇。

『自分はキリスト教徒だから』と言って、自分とこの王様に不敬を働いて平気なイギリス人ていますかね?
まあ、いるかも知れませんけど、同じように同胞の非難を受けるでしょうし、表立った非難はしないまでも、眉をひそめる人というのは大勢いると思いますよ。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : イギリス王室は、国家権力を掌握した。  ■名前 : めだま君 <medama_kun@mac.com>  ■日付 : 05/2/10(木) 0:10  -------------------------------------------------------------------------
   ▼YOTAさん:
こんばんは、
>皇室というのは、むしろトビパパさんの挙げたイギリスにある王室に近い。
しかし、イギリス王室は、国家権力を掌握していた期間がなかいから、イギリス近代化の過程で、次第に政治権力を制限されていった。この点は、日本の王室とは、大きく異なりますね。
>キリスト教を国教とし、その王権を神に授けられた、とされてきた王と、
だから宗教革命・市民革命が起きた。
>八百万の神がいる国で、その神々と繋がる存在である、とされてきた天皇。
八百万の神を制圧し、その神々の階層の頂点に君臨した。その結果、戦後、民主化の洗礼を受けた。

>『自分はキリスト教徒だから』と言って、自分とこの王様に不敬を働いて平気なイギリス人ていますかね?
>まあ、いるかも知れませんけど、同じように同胞の非難を受けるでしょうし、表立った非難はしないまでも、眉をひそめる人というのは大勢いると思いますよ。
と、思うのが、日本的なのかもね。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):老人党って? (4)  ■名前 : トビパパ <mrtobysdaddy@yahoo.co.uk>  ■日付 : 05/2/11(金) 18:41  -------------------------------------------------------------------------
   ▼告天子さん:

(その1)

告天子さんの応援団も登場したようですが、そちらの方々への
返事は、結局、告天子さんへの応答だけで済むような気がします。
ま、これまでの話で分かることは、告天子さんとぼくには、何か
運命的とも言えるような思考法の違いがあるようです。

こういう違いは先天的なものよりも後天的なものだ、と思うわけ
ですが、ぼくは最近、この種の違いは、ある程度は遺伝子に関係
するのかもしれないという漠然とした感覚にとらわれています。
ぼくは大学で遺伝学の大家といわれる教授に論文の指導をして
いただいたのに、遺伝学というものからは全く遠ざかった人生を
送りまして、今まではそれを後悔したことはなかったのですが、
このごろ、「思想と遺伝」というテーマで研究したいような気持ち
になっています。

さて、告天子さんは、以前、寛容ということに触れられましたが、
そろそろこの問題をしっかり考える時が来たようです。寛容と
いう問題は、仏文学者の渡辺一夫にとってもだいじな問題だった
ようです。彼は人間の機械化というような話もしている。それが
口ぐせだったかどうかは知りませんが、残された活字を読むと、
よくそういう言葉に出会います。

寛容の問題は、人間の機械化と関係があるように思います。
渡辺一夫はこう書いています。

 現在の世界は、洋の東西を問わず、何らかの形の全体主義・統制
 主義の世界になっています。(「To the unhappy few」より)

これが書かれたのは、1951年となっています。それから半世紀が
すぎた今、日本では、管理社会だとか、社会の学校化だとかささやか
れています。これに危機感を覚える人の感覚は正常だと思います。

人間の機械化とは、人間が考えることをやめたということにもなる
でしょう。考えるのをやめて、社会の形式に流されながら、何の
疑問も感じずに生きるということでしょう。それは意識するしないに
関わらず、全体主義の思想に支配された生き方です。

全体主義は、その流れに反するものを排斥します。全体主義の中では、
社会が、そして、人間が、寛容さを失うのです。人間社会にこういう
傾向があるがゆえに、憲法は基本的人権を謳うのでしょう。個人の
権利は天賦のものであり、国家といえどもこれを侵すことは許されない
のです。

日本国憲法の「公共の福祉に反しない限り」という条件は、日本人は
気をつける必要があるように思います。フランス人権宣言にあるように、
「自由は他人を害しないすべてをなしうることに存する」と解釈する
のは正しいとしても、これを個人の権利や自由が国家権力によって
制限されるというように解釈しては絶対いけないのです。ぼくはここでも
すでに書いたと思いますが、日本人は個人主義が苦手だと思います。
世間だとか国家だとか、そういう集団や全体というものに、日本人は
弱いようです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/11(金) 20:44  -------------------------------------------------------------------------
   ▼トビパパさん:

>告天子さんの応援団も登場したようですが、そちらの方々への
>返事は、結局、告天子さんへの応答だけで済むような気がします。
>ま、これまでの話で分かることは、告天子さんとぼくには、何か
>運命的とも言えるような思考法の違いがあるようです。

他の方々は皆様それぞれ独自の視点からのお考えですし、告天子とひとまとめにしたり、「応援団」などと表現したりするのは、いささか礼を失しているのではないかと思いますが・・・。

告天子だけへの応答で済む話とは思いませんし、答えないなら「答えない」、でよいのではないかと思います。


>人間の機械化とは、人間が考えることをやめたということにもなる
>でしょう。考えるのをやめて、社会の形式に流されながら、何の
>疑問も感じずに生きるということでしょう。それは意識するしないに
>関わらず、全体主義の思想に支配された生き方です。

「考えることを止めた」日本人、「疑問に思おうとしない」日本人、「社会の形式に流される」日本人、それは全体主義に支配されている生き方だからだ、というようなご託宣型の説は、一般に痛切な自己反省を伴うものでは「ない」のではないか、と私は思うのです。


>全体主義は、その流れに反するものを排斥します。全体主義の中では、
>社会が、そして、人間が、寛容さを失うのです。人間社会にこういう
>傾向があるがゆえに、憲法は基本的人権を謳うのでしょう。個人の
>権利は天賦のものであり、国家といえどもこれを侵すことは許されない
>のです。

天賦というのは、無根拠ということです。そしてまた「絶対の」という形で現れるものでもあるでしょうね。無根拠の、絶対のものを拠り所にするところに、空想性があり、極端な形での国家への敵対視が生ずるのではないかと思いますね。

国家を「我と敵対する者」として捉える対立の姿勢は、王権と人民・貴族や教権とが厳しく対立してきた西洋史に於いて強く意識される「基本」でしょう。しかし、宗教・文化・歴史、何もかも違う日本に「天賦だから当然に日本にも当てはまるのだ」とすべきではありません。


>日本国憲法の「公共の福祉に反しない限り」という条件は、日本人は
>気をつける必要があるように思います。

これは別に、日本国憲法の専売特許ではなく、私権は公共の利益の前に制限を受けるというのは19世紀の欧州の憲法で既にいわれていたことでしょう。

>フランス人権宣言にあるように、
>「自由は他人を害しないすべてをなしうることに存する」と解釈する
>のは正しいとしても、これを個人の権利や自由が国家権力によって
>制限されるというように解釈しては絶対いけないのです。

絶対いけない、というのもかなり極端な話ですね。たとえば納税の義務は、個人の財産権の侵害でしょう、刑法などにより「犯罪」とされる行動を行う自由は、制限されるわけですよ。これらは国家権力がそうするのでありますが、「絶対そうしていいけない」という理屈はどう見たって通らないでしょう。

>ぼくはここでも
>すでに書いたと思いますが、日本人は個人主義が苦手だと思います。
>世間だとか国家だとか、そういう集団や全体というものに、日本人は
>弱いようです。

まあ、何となくムード的には理解しますが・・・。ドビパパさんのご意見の引用に私が意見を付けて、みたいな書き方はよした方がよいのかもしれないですね・・・。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 告天子さんは唯物論者?  ■名前 : めだま君 <medama_kun@mac.com>  ■日付 : 05/2/12(土) 0:11  -------------------------------------------------------------------------
   ▼告天子さん:

>天賦というのは、無根拠ということです。
違います。出鱈目ですね。「天賦」という観念も、人間の精神的な営みの結果生まれるのであり、その基礎には、具体的な人間の生活があります。

>無根拠の、絶対のものを拠り所にするところに、空想性があり、
このように表現すれば、告天子さんは、神道も含めた全ての宗教を否定することになります。教条的な唯物論と同じですね。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/12(土) 10:57  -------------------------------------------------------------------------
   ▼告天子さん:

>>全体主義は、その流れに反するものを排斥します。全体主義の中では、
>>社会が、そして、人間が、寛容さを失うのです。人間社会にこういう
>>傾向があるがゆえに、憲法は基本的人権を謳うのでしょう。個人の
>>権利は天賦のものであり、国家といえどもこれを侵すことは許されない
>>のです。
>
>天賦というのは、無根拠ということです。そしてまた「絶対の」という形で現れるものでもあるでしょうね。無根拠の、絶対のものを拠り所にするところに、空想性があり、極端な形での国家への敵対視が生ずるのではないかと思いますね。

この部分、多少補っておきます。(訂正ではありません)。

無根拠だから意味がないとか無価値であるということではありません。その辺りを短絡して、「無根拠 = 空想 = 全ての宗教の否定」とするのは、無思考の産物ではあっても、キチンとものを考えての話ではありません。

無根拠と絶対性、そして無反省が結びつくとき、そしてまたそれが、権力行動として他に表れるとき、「暴力」は生ずるのです。

天賦なる人権というものが、具体的現実に適用されるに当たっては、抽象的な原理原則が具体的現実に適用されるべきかどうか、たとえば国家機関に於いては、司法により抽象的な法の具体的個々の現実への適用が審査されることになります。

抽象的な原理原則が絶対化されるなら、司法は必要なくなります。おうおうにして「天賦であるところの人権」は、絶対的なドグマとされ、(それは宗教も同じですが)、時ところを選ばず、「何人たりとも、国家といえども侵してはならぬ」という命令として現れます。

そういう命令が大好きな人はおそらく、現実の具体的な様相や、文脈を見たりすることなく、「絶対的な原則を振りかざし」、自らをもその原理原則と同一視し、他人に暴力を振るいながら、正義のためにやっているんだとか、目的論的な自己正当化の元に自己を甘やかしているのでしょう。

内村はまだ信仰の支えがあるから、精神的な崩れというのはないにしても、世俗の人間がこうした甘やかし、目的論的倒錯、暴力性に染まってしまえば、およそ秩序であるとか法治ということは無視され、・・・それも「秩序」の名の下に秩序が無視され、「法の名の下に」法が無視され、・・・そういう社会が到来するのではないかと思われます。現実でも、掲示板でも同じですがね。

こうしたことは、目に見えない論理性の域に欠陥があっての話だから、しかも「法を叫んで、法を無視する」話だから、その倒錯性というのはなかなか分かりづらいでしょう。


全体に、トビパパさんのお話を聞いていると、内村の件などでは、キリスト教の(というより内村の)ルールを、絶対に正しいとし、(つまり確固なものであるとし)、それを無制限に日本社会に当てはめ、当てはまらない日本人民の方が『全体主義』だとか、要するに『悪い』と評しているわけでしょう。

宗教の論理というのは無制限に拡張されるべきではありませんね。たとえば教育勅語にしても、絶対的に時ところを選ばずに崇拝されねばならない、というものではないし、アメリカ人にもそれを拝め、とかいう話ではないでしょう。公教育の、その時、その場での話です。

内村は、『余はキリスト者なり』の論理で、その論理を時ところ国情を選ばず、無制限に絶対化しています。その違いかと思います。「信徒としての心意気」を示すのであれば、場所が違うと思いますし、教育勅語への不敬は、日本臣民の敵意を招くものではあっても、友好感情を招くはずがないのは明らかです。

「それが全体主義だ、疑うことを知らないのだ」、というのは、「事実の方が間違っているのだ」という話でしょう。「日本民族はだから根本的にダメだ」とする否定の論でしょう。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 告天子さんは内村の2つのJをご存じ?  ■名前 : めだま君 <medama_kun@mac.com>  ■日付 : 05/2/12(土) 15:09  -------------------------------------------------------------------------
   ▼告天子さん:
少し、内村の文章をお読みになったらいかがですか!?

>無根拠と絶対性、そして無反省が結びつくとき、そしてまたそれが、権力行動として他に表れるとき、「暴力」は生ずるのです。
そういう場合もあるでしょう。しかし「無根拠と絶対性、そして無反省」とは、表現が極端ですね。

>天賦なる人権というものが、具体的現実に適用されるに当たっては、抽象的な原理原則が具体的現実に適用されるべきかどうか、たとえば国家機関に於いては、司法により抽象的な法の具体的個々の現実への適用が審査されることになります。
当然のことです。

>抽象的な原理原則が絶対化されるなら、司法は必要なくなります。
そんな、キリスト教国家がありましたか!
>おうおうにして「天賦であるところの人権」は、絶対的なドグマとされ、(それは宗教も同じですが)、時ところを選ばず、「何人たりとも、国家といえども侵してはならぬ」という命令として現れます。
あなたの空想です。

>そういう命令が大好きな人はおそらく、現実の具体的な様相や、文脈を見たりすることなく、「絶対的な原則を振りかざし」、自らをもその原理原則と同一視し、他人に暴力を振るいながら、正義のためにやっているんだとか、目的論的な自己正当化の元に自己を甘やかしているのでしょう。
空想に基づく空論です。

>内村はまだ信仰の支えがあるから、精神的な崩れというのはないにしても、世俗の人間がこうした甘やかし、目的論的倒錯、暴力性に染まってしまえば、およそ秩序であるとか法治ということは無視され、・・・それも「秩序」の名の下に秩序が無視され、「法の名の下に」法が無視され、・・・そういう社会が到来するのではないかと思われます。現実でも、掲示板でも同じですがね。
空想に基づく空論です。

>宗教の論理というのは無制限に拡張されるべきではありませんね。たとえば教育勅語にしても、絶対的に時ところを選ばずに崇拝されねばならない、というものではない
そうです、教育勅語は、現代日本では過去のものとなりました。

>内村は、『余はキリスト者なり』の論理で、その論理を時ところ国情を選ばず、無制限に絶対化しています。その違いかと思います。「信徒としての心意気」を示すのであれば、場所が違うと思いますし、教育勅語への不敬は、日本臣民の敵意を招くものではあっても、友好感情を招くはずがないのは明らかです。
告天子さんは内村の2つのJをご存じですか? 内村を、一面評価のし過ぎです。

>「日本民族はだから根本的にダメだ」とする否定の論でしょう。
内村の日本評価は高いですよ!

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : ご注意>めだま君さん  ■名前 : 管理スタッフ  ■日付 : 05/2/14(月) 19:31  -------------------------------------------------------------------------
   ▼めだま君さん(43303・43348):

Ray@スタッフです。

これらの書き込みは、
>空想に基づく空論です。
>同じ話の繰り返し。
>新視点がないなー。
等の表現が掲示板のルール(投稿内容、転載、引用その他/
字種、文字数の制限)のうち
  1. 伏せ字、隠語の使用および掲示板を混乱させる恐れのある投稿は禁止
  2. 差別、誹謗中傷、侮蔑、罵倒、脅迫または他者を傷つける恐れのある表現は禁止
に抵触する可能性がありますのでご注意申し上げます。

同様の書き込みが繰り返される場合には
掲示板のルールを遵守する意志がないものとして
削除・書き込み制限措置の対象とみなします。

なお、この件に関するご意見は、私の書き込みへの
返信としてではなく、スタッフ連絡板にお書きください
(総合掲示板に書かれたご意見には原則としてレスいたしません)。
よろしくお願いいたします。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):老人党って? (4)  ■名前 : トビパパ <mrtobysdaddy@yahoo.co.uk>  ■日付 : 05/2/15(火) 18:39  -------------------------------------------------------------------------
   ▼告天子さん:

>他の方々は皆様それぞれ独自の視点からのお考えですし、告天子と
>ひとまとめにしたり、「応援団」などと表現したりするのは、
>いささか礼を失しているのではないかと思いますが・・・。
>
住民への迷惑も顧みず、休日の朝っぱらから中国大使館のそばで
がなり立てる右翼の装甲車に乗ってるようなチンピラだったら、
ぼくは相手にしませんが、告天子さんは紳士的な方だと思うので、
こうしておしゃべりを続けています。

ぼくが天皇の戦争責任に触れたとたん、野外から情念的な反応が
飛んできたことは確かですね。ぼくはそういう人たちへの皮肉を
「応援団」という言葉に込めただけで、特に、告天子さんに対して
何か思うことがあったわけじゃないのです。しかし、一匹オオカミ
の精神を告天子さんもお持ちのようで、それについては敬意を表する
気持ちがぼくにはあります。

それにしても、天皇への批判は絶対に許さないという精神は、戦前
戦後ずっと変わらずに続いている日本の固有文化のようです。まだ
まだ一等国とは呼べない日本の後進国性を示す一つの例にすぎませんが。

大平正芳のことをマスコミはクリスチャン首相と呼んでいたらしいで
すが、彼が靖国神社を参拝したという事実は、日本人の宗教観を考える
上で、かなりヒントになるように思いますし、告天子さんとぼくとの
思考法の違いを考える上でも、参考になるでしょう。

告天子さんのお考えでは、この首相は社会的責任を果たしたということ
になるわけですね。しかし、キリスト教の本質から見えれば、かの
クリスチャン首相は神の法に背いたことになるのです。内村の言う
「不屈なる確信」を持たない人であったことになるのです。

確かに、内村の時代には、キリスト教信仰は公認されていたとはいえ、
それは国家権力の支配化に置かれていました。憲法制定の準備として
欧州に渡った伊藤博文らが、ドイツ人グナイストとスタインから受けた
助言の中には、憲法上は信仰の自由を認めておいて、事実上は神道を
国教とするための工夫まであったのです(このことから、グナイストら
は形式上はクリスチャンであったとしても、その本質は、「不屈なる
確信」を持つキリスト者ではなかったと言えます。おそらく、この
ような形式的・機械的なキリスト教文化の中で、マルクスのような
思想家が出現する必然があったのかもしれません。)

実際、告天子さんも引用されていた明治憲法第28条では、信教の自由は
成文化されていましたが、この憲法の国家観では、日本という国家が
すべてであり、国家がすべての権威と価値の源泉であり、その国家を
統率する絶対的な権威が天皇であったわけですね。

(このつづきは、たぶん明日になるでしょう。)

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/15(火) 19:01  -------------------------------------------------------------------------
   ▼トビパパさん:
>▼告天子さん:
>
>>他の方々は皆様それぞれ独自の視点からのお考えですし、告天子と
>>ひとまとめにしたり、「応援団」などと表現したりするのは、
>>いささか礼を失しているのではないかと思いますが・・・。
>>
>住民への迷惑も顧みず、休日の朝っぱらから中国大使館のそばで
>がなり立てる右翼の装甲車に乗ってるようなチンピラだったら、
>ぼくは相手にしませんが、告天子さんは紳士的な方だと思うので、
>こうしておしゃべりを続けています。

うーん、どちらかと言えば私の方が紳士からは遠いんじゃないかと思っていますが・・・。腹を立てて感情的な投稿をしたりするのは、私の方が多いですよ、実際の話・・・。見解の相違ではありますが、あまり刺激的な表現はされない方がよろしいかと思います。

>それにしても、天皇への批判は絶対に許さないという精神は、戦前
>戦後ずっと変わらずに続いている日本の固有文化のようです。まだ
>まだ一等国とは呼べない日本の後進国性を示す一つの例にすぎませんが。

批判にしても、強くお慕いする気持ちからそうするのと、貶め否定するための批判とは違うでしょう。安易な批判や、無礼は「絶対許さないぞ」とするのは、むしろ健康な話で、そういうのを許して平然としているならば、その方がおかしい。

礼節を重んじ、天皇を崇敬する心情が国民に強いこと、一等国と誇ることではあっても、後進性の表れではないと思いますよ。

>告天子さんのお考えでは、この首相は社会的責任を果たしたということ
>になるわけですね。しかし、キリスト教の本質から見えれば、かの
>クリスチャン首相は神の法に背いたことになるのです。内村の言う
>「不屈なる確信」を持たない人であったことになるのです。

クリスチャンであることを徹底させれば、教育勅語に敬意を表したり、靖国神社に参拝したりすることは「神の法に背くことになる」というのは、ある意味正直な話、と受け止めてよいわけでしょうか。

さすれば、そういうクリスチャン的立場からすれば、天皇を敬う日本国民は「後進国の土人」であり、「不屈の信仰」を持たざる民、ということになるのでしょうね。

ならば、日本国民がキリスト教に宗旨替えするか、あるいはキリスト教の論理に忠実に「天皇への不敬」も立派な信仰の必然として尊敬の目で見る、とでもしなければ、「日本は遅れた国である」としてキリスト教徒に軽侮されねばならない話でしょう。

そういうのは、キリスト教徒の理屈としてはどうか分かりませんが、「日本国民がそれに従わなければならない理由」はありませんよ、日本はキリスト教国ではないんですから。まして明治の日本では、なおさらの話です。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 興味深いテーマですね  ■名前 : めだま君 <medama_kun@mac.com>  ■日付 : 05/2/15(火) 22:43  -------------------------------------------------------------------------
   ▼告天子さん:
こんばんは、

>クリスチャンであることを徹底させれば、教育勅語に敬意を表したり、靖国神社に参拝したりすることは「神の法に背くことになる」というのは、ある意味正直な話、と受け止めてよいわけでしょうか。
>さすれば、そういうクリスチャン的立場からすれば、天皇を敬う日本国民は「後進国の土人」であり、「不屈の信仰」を持たざる民、ということになるのでしょうね。
>ならば、日本国民がキリスト教に宗旨替えするか、あるいはキリスト教の論理に忠実に「天皇への不敬」も立派な信仰の必然として尊敬の目で見る、とでもしなければ、「日本は遅れた国である」としてキリスト教徒に軽侮されねばならない話でしょう。
興味深いテーマですね。キリスト教にも新約と旧訳がありますからね。旧約では「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」(出エジプト記20-12)とありますからね。
したかって、教育勅語と旧約の類似性もありますね。旧約の神ヤーウェはイスラエル民族の運命操縦神、日本の神(天皇)は、日本国民を文明開化へと導く神(5箇条の御誓文)。こんな対比はどうでしょうか?

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/15(火) 19:23  -------------------------------------------------------------------------
   >確かに、内村の時代には、キリスト教信仰は公認されていたとはいえ、
>それは国家権力の支配化に置かれていました。

えっ・・・。これは、どうなんでしょうか、キリスト教会を国家権力が支配下に置いていたとは、これは違うと思いますよ。言い回しの問題化とは思いますが、もちろん宗教団体といえども一切の国家権力とは無関係・独立であることは出来ませんし、しかしそういうのは「国家権力の支配下」とは言わないでしょう。

>憲法制定の準備として
>欧州に渡った伊藤博文らが、ドイツ人グナイストとスタインから受けた
>助言の中には、憲法上は信仰の自由を認めておいて、事実上は神道を
>国教とするための工夫まであったのです

シュタインは伊藤に熱心に神道国教化を薦めるのですが、米国流の政教分離に固執する伊藤は、その提案は頑として聞かなかったということですね。

>(このことから、グナイストら
>は形式上はクリスチャンであったとしても、その本質は、「不屈なる
>確信」を持つキリスト者ではなかったと言えます。

それはどうでしょうか・・・。日本はキリスト教国ではないのですから、国情に応じた政策提言をすることは、学者として適切なことだったと思いますが。山県有朋なども、シュタインには日本の国防体制について助言を求めたりしていますが、その「生存圏」構想は、後の日本の大陸への軍事展開にも随分と影響を与えていると思います、こういうのはクリスチャンとしてどう、という話とは関係がないでしょう。

>おそらく、この
>ような形式的・機械的なキリスト教文化の中で、マルクスのような
>思想家が出現する必然があったのかもしれません。)

キリスト教文化が「形式的・機械的」ではなく、実体的で内実を伴った一枚岩のものであれば、それは「中世の教会支配に逆戻り」みたいになりはしないかと思いますね。

そういう社会へのカウンターとして、世俗王権の強化とか王権神授説による教会への対抗がでて、・・・・・ブルジョワ資本主義の支配とプロレタリアートの貧困の矛盾を解決するのは「教会の支配や、信仰」などではなくて、更なる教会の排除、貧困者のための政治を、ということでマルクスなんかが出てきた流れではないかと。

天皇の排除、貧困者のための政治を、というのであれば、日本流マルクスですかね。

>実際、告天子さんも引用されていた明治憲法第28条では、信教の自由は
>成文化されていましたが、この憲法の国家観では、日本という国家が
>すべてであり、国家がすべての権威と価値の源泉であり、その国家を
>統率する絶対的な権威が天皇であったわけですね。

絶対的、といっても、クリスチャンが言うような意味での「絶対」ではないと思いますよ、実際の話。天皇は、ローマ法王のような宗教権力であったこともないし、ヨーロッパの世俗国王のような絶対君主であったこともないわけですから。

「国家が全ての権威と価値の源泉だった」というのは、戦前の体制の買いかぶりでしょう。戦時の、高度国防国家についてなら当てはまるところもあるかもしれませんが、それは「超国家主義」の話であり、いわゆる天皇制全般の問題ではないと思いますね。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):老人党って? (4)  ■名前 : トビパパ <mrtobysdaddy@yahoo.co.uk>  ■日付 : 05/2/16(水) 18:27  -------------------------------------------------------------------------
   つづき その1

それでは問題の明治憲法第28条を見てみましょう。

 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限二於テ
 信教ノ自由ヲ有ス

ここに書かれた「秩序」だとか「義務」だとかは、この憲法全体の特徴
である曖昧さの典型でしょう。いくらでも権力の都合のいいように
解釈できる言葉です。それに、この憲法はいろいろ臣民の権利を書き
連ねておきながら、最後には第31条で、天皇の大権でもってビシッと
制圧するわけです。

つまり、こういうことですね。臣民よ、諸君には一応、近代国家的な
種々の権利を与えておくが、それも天皇陛下が国家を統率されていてこそ
の恵みなのだから、いつでも自分の権利を捨て、陛下のご命令に従う
覚悟でいなさい。---- こんなのを聞くと、右翼の方々なら、きっと
鳥肌が立つほどにシャキッと来てハッとするのでしょうね。

内村鑑三はこのような野蛮な憲法下にあっても、おのれの信仰に従った
ために非難されました。大平正芳は新憲法のもとに信教の自由が保障
されているにもかかわらず、帝国憲法下にあるような臣民を演じてく
れたわけです。そして、一部の日本人は彼の行為を称賛するのです。
また、多くの日本人は、クリスチャンだってそんな固いことを言わない
ほうがいいんじゃないの、ここは日本なんだから、てな調子で問題の
本質を見ようとはしません。いや、日本人の宗教観では、問題の本質が
見えないのでしょう。余りにも神と人間との境界が曖昧すぎるからです。
この国では、キリスト教会の屋根裏に住むネズミさえ、ジェリーという
名のクリスチャンにされてしまうのかもしれません。

大平の宗教に見られるように、キリスト教(彼のキリスト教が正統的な
ものであったかどうかは措いておき)でさえも、日本国にあっては、
やおよろずの神々の中に同化するという現象は、日本人の曖昧な宗教観
のなせるわざでしょう。こういう日本人の曖昧さは、寛容とは無関係の
性格をもっているようです。

告天子さんは、キリスト教国という言葉を使いますが、キリスト教と
国家とは、ぼくがすでに述べたように、本来は別の次元と言っていい
問題なのです。ところが、天皇崇拝の場合は、いつも国家と一体となる
傾向がある。日本では、国粋主義という言葉を天皇主義と置き換えても
いいくらいですね。この種の国粋主義は、外国の文化に対して排他的に
なります。特に西洋のような先進国の文化に対しては、異常なほどに
拒絶反応を示します。だから、国粋主義は日本主義と同化するのです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(6):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/16(水) 19:04  -------------------------------------------------------------------------
   ▼トビパパさん:
>つづき その1
>
>それでは問題の明治憲法第28条を見てみましょう。
>
> 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限二於テ
> 信教ノ自由ヲ有ス
>
>ここに書かれた「秩序」だとか「義務」だとかは、この憲法全体の特徴
>である曖昧さの典型でしょう。いくらでも権力の都合のいいように
>解釈できる言葉です。それに、この憲法はいろいろ臣民の権利を書き
>連ねておきながら、最後には第31条で、天皇の大権でもってビシッと
>制圧するわけです。

単純な指摘だけさせていただきますが、帝国憲法で「義務」というのは、納税とか兵役とか、そういう明文化されたものです。

都合よく解釈しているのは、むしろトビパパさんの方だと思いますね。天皇大権というのは、いつでも自由に発揮できるようなものではなく、通常は帝国議会に立法権を委任し、司法権は裁判所に委任し、その政府は天皇に委任されて日本国を統治するものである・・・、という「ビシッとした」法的概念であり、また、大権が直接行使されるのは、戦時に於ける場合であると、規定されていますね、その「戦時」にしても、いやしくも憲法に記されたことは「法的概念」であり、鳥肌も何も、全く関係ない話ですよ。


>つまり、こういうことですね。臣民よ、諸君には一応、近代国家的な
>種々の権利を与えておくが、それも天皇陛下が国家を統率されていてこそ
>の恵みなのだから、いつでも自分の権利を捨て、陛下のご命令に従う
>覚悟でいなさい。---- こんなのを聞くと、右翼の方々なら、きっと
>鳥肌が立つほどにシャキッと来てハッとするのでしょうね。

それはトビパパさんの思い込みに過ぎません。

たとえば、安寧秩序は、現代の言葉で言えば、公序良俗に当たるでしょうか。それに「反しない限り」に於いて、信教は自由だ、というのはまことにもっともな話で、「無制限な自由」が許されるとしたら、それはすなわち「無法」であり、宗教の「特権か」を意味するものです。明治時代であろうと、現代であろうと、そんな話は通らないでしょう。

また、信教の名の下に、国民としての義務が自由に放擲されるのであれば、これは事実上、「国家よりも信仰の方が上」である、という宣言に他なりません。つまり、公的機関の決定も、「信教の名の下に」自由に拒絶しうることになります。

そのようなことは、近代国家に於いては認められる筋ではありません。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(6):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/16(水) 19:23  -------------------------------------------------------------------------
   ▼トビパパさん:

>内村鑑三はこのような野蛮な憲法下にあっても、おのれの信仰に従った
>ために非難されました。

これは逆でしょう。近代的な憲法下にあって、野蛮な内村が己の信仰を絶対化するような中世的態度に出たために、非難されたのです。

>大平正芳は新憲法のもとに信教の自由が保障
>されているにもかかわらず、帝国憲法下にあるような臣民を演じてく
>れたわけです。

信教の自由があたかも絶対のものであるかのように、いい加減で曖昧な規定をしている日本国憲法の方に問題があるのです。

そのような「信仰の絶対化」こそが、むしろ近代的な法制の流れに反する暴力であり、しかも、元々「近代化」というのは、教会の一元的な宗教支配に対して起こった動きなのです。

大平元首相の姿勢は常識的で、大変立派なものだとは思いますが、「臣民を演じたものだ」というのは、単に宗教絶対、の立場からそういう話であって、いやしくも日本国の指導者であるなら、大平さんは信仰ではなく日本国首相としての立場に従うべき、当然のことです。大平さんは、一信徒である前に、日本国首相なのです。

>そして、一部の日本人は彼の行為を称賛するのです。

まあ、賞賛にもいろいろな文脈があると思いますが、私は「法治を守った、近代的な法治国家・国民国家を守った」ために賞賛します。法より何より宗教信仰が上だ、というような姿勢には、反対します。

>また、多くの日本人は、クリスチャンだってそんな固いことを言わない
>ほうがいいんじゃないの、ここは日本なんだから、てな調子で問題の
>本質を見ようとはしません。

問題の本質は、法律よりも信仰は優先されるか、ということです。私は、「されない」という意見です。これも詳しく論ずる必要はあると思いますが、大まかにいえばトビパパさんとの対立中心点はそこにあります。

>いや、日本人の宗教観では、問題の本質が
>見えないのでしょう。

むしろ、欧米人の方が「これは 『近代法か、中世的な宗教秩序か』、の問題である」、と、ピンと来るのではないかと思いますが。

>余りにも神と人間との境界が曖昧すぎるからです。

神を絶対化して法律の領分まで入れるべきではないのです。その点、帝国憲法は、日本の伝統的な価値観をよく近代的に表現したものと思います。曖昧なのは、憲法ではなく、「読み」の方です。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(7):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/16(水) 19:35  -------------------------------------------------------------------------
   ▼告天子さん:

>問題の本質は、法律よりも信仰は優先されるか、ということです。私は、「されない」という意見です。これも詳しく論ずる必要はあると思いますが、大まかにいえばトビパパさんとの対立中心点はそこにあります。
>
>>いや、日本人の宗教観では、問題の本質が
>>見えないのでしょう。
>
>むしろ、欧米人の方が「これは 『近代法か、中世的な宗教秩序か』、の問題である」、と、ピンと来るのではないかと思いますが。

「投石」とか、そういうイメージから、「愚昧な日本人民が、中世的な天皇秩序を守ろうとするために、近代的なキリスト教を信仰する内村の自由を奪ったのだ、日本は恐ろしい国だ」、という理解のされ方になりがちかと思いますが、本当は逆です。

遵法精神的なのは、日本人民の方であり、法的秩序を破ってでも己の「絶対の信仰を優先する」とする内村の方が無法的立場に近いのです。

また、トビパパさんにしても、国法よりも信仰を尊しとする姿勢は、著しく中世の「信仰の支配」に近い態度ではないかと思います。

明治国家は、ほぼ初期の数年に於いて、神道家は権力中枢部から追放された「世俗国家」である、ということ、また、強く西洋化・近代化を目指した国家だということが、度外視されていると思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(8):老人党って? (4)  ■名前 : トビパパ <mrtobysdaddy@yahoo.co.uk>  ■日付 : 05/2/18(金) 16:13  -------------------------------------------------------------------------
   ▼告天子さん:

その1

>...(中略...
>また、トビパパさんにしても、国法よりも信仰を尊しとする姿勢は、
>著しく中世の「信仰の支配」に近い態度ではないかと思います。
>
それは違いますね。中世は信仰が国家を支配していたのではなく、教会と
いう人間の権力が国家権力と結びついていたのです。信仰が国家を支配
したのではなく、国家が信仰を支配していたのです。それこそまさに、
戦前までの天皇制と同質の国家体制といってもいいものです。すでに見た
とおり、明治憲法は、西洋のキリスト教を意識して、天皇の神権を規定
しています。その意識の仕方は、まさに中世的と言っていい、時代錯誤な
ものでした。

西洋の歴史は、キリスト教会が国家権力と結託するときの不幸をすでに
反省しています。16世紀の宗教改革は、腐敗したキリスト教権力からの
個人の信仰の解放と表現してもいい事件でした。権力の作り上げた支配
体制に対して、聖書にこそキリスト教の権威があるとするプロテスト
でした。カルヴァンのやり方はかなり過激なところもありましたが、
彼の聖書的な教理は、今も多くのプロテスタント教会の教理として生きて
います。

英国人ティンダルは聖書を英語に翻訳しただけで、教会から迫害されました。
彼はラテン語でしか読めなかった当時の聖書を無学な英国人でも読めるよう
に翻訳したのです。キリスト教の根本は、個人の信仰にあることを知って
いたからです。ティンダルの時代、英国では聖書を英語に翻訳することが
法律で禁じられていたので、彼はドイツで英語訳聖書を出版しました。
彼の行為は英国の法に背いたのであり、そのために異端とされ、火刑に
よって処刑されました。しかし、彼の訳した聖書は、のちに欽定訳聖書に
受け継がれ、この聖書はその後3世紀以上に渡って、英語圏のキリスト信徒
によって愛読され、英語そのものの発達にも貢献したのは周知のとおりです。

内村鑑三の不敬事件も、結局は、中世的な国家権力へのプロテストと見る
ことも可能でしょう。宗教さえも法によって支配しようとする国家に対して、
彼は個人の信仰の自由を訴えたのだと思います。

どうも告天子さんとぼくでは、法に対する考え方が違うようですね。そこ
から国家観も違ってくるのだと思います。日本は法治国家だと言うそうで、
確かにぼくもそうあってほしいと願うのですが、たとえば肝心の日本国
憲法を例にとれば、この憲法は国民が国家に対して与えた法であります。
前文で「日本国民は、...(中略)...この憲法を確定する」と始まるとおり、
憲法を確定する主体は国家ではなく国民なのです。国家がこの憲法を
守る限りにおいて、我々国民は国家の定める法に従うというのが、法治
国家の意味です。つまり、国民がオカミの法に従うというのが始まりでは
なく、国民が定めた憲法をオカミが守ることから始まるのが、法治国家の
正しい在り方なのです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(9):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/18(金) 18:08  -------------------------------------------------------------------------
   ▼トビパパさん:

>>また、トビパパさんにしても、国法よりも信仰を尊しとする姿勢は、
>>著しく中世の「信仰の支配」に近い態度ではないかと思います。
>>
>それは違いますね。中世は信仰が国家を支配していたのではなく、教会と
>いう人間の権力が国家権力と結びついていたのです。信仰が国家を支配
>したのではなく、国家が信仰を支配していたのです。

一文一文に、非常な飛躍があると思いますし、また、トリッキーな論ではないかと思います。

トビパパさんは「信仰」と「教会」を別物であるかのように話されますが、また、教会の支配を「人間の支配であり、信仰とは関係がない」かのように言いますが、ローマの権力の由来するところはイエスへの信仰であります。ここでは、トビパパさんは、「国家からも、教会からも絶対独立した信仰」なるものを設定し、「それが常に全」であるかのように前提した上で話を進められていると思います。

中世に於いても、「信仰者は、教会という人的権力や、国家の被害者である」として、信仰に絶対的正当性を置く、それは主張としてはありでしょうが、「他人がそれに従わなければならない理由はない」のです。

そして、「明治時代が中世と同じだ」というのは、歴史的事実を背景とした話ではなく、たんなる「当てはめ」に過ぎないでしょう。


>それこそまさに、
>戦前までの天皇制と同質の国家体制といってもいいものです。

戦前の体制が、ヨーロッパ中世と同じだなど、驚くべき見解です。


>すでに見た
>とおり、明治憲法は、西洋のキリスト教を意識して、天皇の神権を規定
>しています。その意識の仕方は、まさに中世的と言っていい、時代錯誤な
>ものでした。

明治憲法が西洋のキリスト教を意識して、というよりも、キリスト教徒の方が逆に天皇の神性に「God的観念」を当てはめて、中世的神学論争、それも、キリスト教的な文脈での神学論争を、日本天皇や日本の体制に向けているという話でしょう。

明治時代が「中世」的だなど、これは、単なる形容というか、歴史認識として全く違うと思いますね。

それまでの伝統を覆す、極端なまでの欧化、身分制の解放、近代化の促進・・・。どこを見れば「中世だ」などと言えるのか、それは「見方の方に問題がある」のであって、あまりに偏った見方かと思いますね。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(9):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/18(金) 19:13  -------------------------------------------------------------------------
   ▼トビパパさん:

>西洋の歴史は、キリスト教会が国家権力と結託するときの不幸をすでに
>反省しています。16世紀の宗教改革は、腐敗したキリスト教権力からの
>個人の信仰の解放と表現してもいい事件でした。権力の作り上げた支配
>体制に対して、聖書にこそキリスト教の権威があるとするプロテスト
>でした。カルヴァンのやり方はかなり過激なところもありましたが、
>彼の聖書的な教理は、今も多くのプロテスタント教会の教理として生きて
>います。

西洋人が自らの歴史について反省するのは結構なことです。宗教戦争の血で血を洗う抗争、過激なところ「も」あった、程度の反省では足りないと思いますが。

>英国人ティンダルは聖書を英語に翻訳しただけで、教会から迫害されました。
>彼はラテン語でしか読めなかった当時の聖書を無学な英国人でも読めるよう
>に翻訳したのです。

まあ、そういうキリスト教の迫害史を、明治時代に持ち込んで「日本国はキリスト教徒を迫害している」みたいに言われても、日本からすれば迷惑な話ですけどね。


>内村鑑三の不敬事件も、結局は、中世的な国家権力へのプロテストと見る
>ことも可能でしょう。宗教さえも法によって支配しようとする国家に対して、
>彼は個人の信仰の自由を訴えたのだと思います。

要するに、キリスト教の信仰を邪魔するものには、徹底して抵抗してやるぞ、という話でしょう。信じない者にとっては、迷惑ですし、自由の濫用でしかありませんね。

個人の信仰の自由、などという話ではなくて、「個人の信仰の自由の絶対化」になってしまっているところが問題ではないかと思います。


>前文で「日本国民は、...(中略)...この憲法を確定する」と始まるとおり、
>憲法を確定する主体は国家ではなく国民なのです。

いわゆる「憲法制定権力」の話ですね。

>国家がこの憲法を
>守る限りにおいて、我々国民は国家の定める法に従うというのが、法治
>国家の意味です。

それは違うでしょう。法治国家というのは、国家の権力作用は法に定めたるところに則り行使される、という話で、国民がどうという話ではないです。法治国家というのは、ドイツの行政国家から、そういう理屈が出てきたのです。トビパパさんの「法治国家」の話は、歴史から離れた話だと思います。

>つまり、国民がオカミの法に従うというのが始まりでは
>なく、国民が定めた憲法をオカミが守ることから始まるのが、法治国家の
>正しい在り方なのです。

さっきとは話が違うように思いますが・・・。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(8):老人党って? (4)  ■名前 : トビパパ <mrtobysdaddy@yahoo.co.uk>  ■日付 : 05/2/18(金) 17:10  -------------------------------------------------------------------------
   その2

どうやらもう少し不敬事件を考える必要がありそうです。

内村の時代、一高教師の中には、彼のほかに2名のキリスト信徒が
いましたが、彼らはともに不敬事件のあった当日、欠席していました。
ぼくなら同じように欠席したかもしれません(つまり、ぼくは内村
のように歴史に名を残せる人間じゃないということです)。
内村だってそうしてもよかったのです。第一、校長でさえ風邪で
休んでいたのですから。

しかし、彼は余りにも処世術を知らなすぎた。余りにも純粋なキリスト
信徒でした。彼はその事件をこう書いています。

「私は迷いためらいながら、キリスト教的良心に誤りない道を選んで、
60人の教授(全部非キリスト信徒、私のほかにいた二人のキリスト信徒は
欠席)と千人以上の生徒の威儀をただして見守るなかで、私は自分の
考えを押し通し頭を下げなかったのであります」(ベル宛書簡)

当時の一高校長が内村に送った手紙に書いたように、教育勅語に記された
天皇の署名に対する奉拝は、宗教的な崇拝とは違うという考えも可能で
あったわけで、実際、内村にもこの考えを受け入れる用意はあったようです。
ぼくは先日、日本人の宗教観では「神と人間の境界が曖昧すぎる」と言い
ましたが、それが崇拝と敬意の混同にもつながるのだと思います。
内村にとっては、崇拝する対象はただキリスト教の神だけでした。
こういう信仰者の態度は日本人の目には頑迷に映るのでしょうか。
だとすれば、やはり、神と人間との境界が曖昧だからだと思いますね。
このことは靖国問題にも関係することで、いずれ議論の対象となるで
しょう。

神と人間、そして、崇拝と敬意をハッキリ区別できたからこそ、内村
にも妥協の余地は残っていたのです。しかし、すでに見たように、
この事件はマスコミなどによって全国規模の大事件に発展していまして、
内村は世間の非難を浴びながら一高の教授職を失ったのでした。
以後、彼のキリスト伝道者としての人生がより明確になるわけで、こう
考えると、日本のキリスト教史の中では、不敬事件も益となったかのよう
に見えます。これはどこかティンダルが受けた迫害とその後の西洋史を
想わせるようなところがあります。

内村の不敬事件を思うとき、ぼくはキリシタンを迫害するための手段
として使われた踏絵を連想するのです。踏絵などというものは、キリスト
教の本質から見れば、単なる偶像の板にすぎないのであって、それを
踏んだとて転向の証明にはならないはずのものなのです。しかし、
当時のキリシタンの信仰がカトリック経由で入ってきたことを考えても、
また、日本人の体質に存在したであろうアニミズム的宗教心(これは
天皇の軍隊が、使用していた武器に対して天皇崇拝と同質の崇敬を
兵士たちに強要したことにもつながる体質でしょう)を考えても、
キリシタンにとって踏絵は単なる板ではなかったわけでしょうね。

問題はこうです。キリスト教の本質では踏絵はただの板にすぎないが、
それを権力がキリスト信徒の迫害として用いるならば、信徒である以上は
それを踏むことはできないということです。天皇の署名に対する敬礼も
そうです。天皇が単なる国家元首であって、キリスト信仰に反する神と
いう存在でないならば、キリスト信徒にも敬礼は可能でしょう。
しかし、日本の天皇制は天皇をすべての宗教の上に位置する絶対的な
神と規定していたのです。だから、その署名を奉拝することは、内村の
言う「キリスト教的良心」に反することにもなったのです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(9):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/18(金) 19:33  -------------------------------------------------------------------------
   ▼トビパパさん:
>内村の時代、一高教師の中には、彼のほかに2名のキリスト信徒が
>いましたが、彼らはともに不敬事件のあった当日、欠席していました。
>ぼくなら同じように欠席したかもしれません(つまり、ぼくは内村
>のように歴史に名を残せる人間じゃないということです)。
>内村だってそうしてもよかったのです。第一、校長でさえ風邪で
>休んでいたのですから。

一高教師の中にクリスチャンが多くいた、ということをもって見ても、明治が「中世の暗黒時代」「宗教を弾圧した」とはとても言えないことが分かるでしょう。


>当時の一高校長が内村に送った手紙に書いたように、教育勅語に記された
>天皇の署名に対する奉拝は、宗教的な崇拝とは違うという考えも可能で
>あったわけで、実際、内村にもこの考えを受け入れる用意はあったようです。

そうでしょう。

>ぼくは先日、日本人の宗教観では「神と人間の境界が曖昧すぎる」と言い
>ましたが、それが崇拝と敬意の混同にもつながるのだと思います。

崇拝と敬意を混同しているのは内村です。神と人間の境界とが曖昧だから、「それが間違いの元である、混同する、紛らわしい」というのであれば、それはキリスト教的宗教観からの勝手な言い分であり、言われた側は単純に迷惑なだけです。

>内村にとっては、崇拝する対象はただキリスト教の神だけでした。

それは自由です。

>こういう信仰者の態度は日本人の目には頑迷に映るのでしょうか。

むしろ尊敬を受けるところが多いのではありませんか。

>だとすれば、やはり、神と人間との境界が曖昧だからだと思いますね。

神と人間の境界が曖昧だからと言って、それがキリスト教徒にどうこう言われる筋合いではないですよ。それこそ、キリスト教の側で、「他宗の宗教の、信仰の自由」を侵す独善です。

>このことは靖国問題にも関係することで、いずれ議論の対象となるで
>しょう。

ここでもキリスト教徒の側で、「自分たちは被害者」、という形を取ってはいますが、どんなものでしょうか・・・。

>内村の不敬事件を思うとき、ぼくはキリシタンを迫害するための手段
>として使われた踏絵を連想するのです。

むしろ私は逆に思いましたね。キリスト教徒の側で、「信教の自由を迫害した」、という踏み絵を、他宗に対して課しているわけです。「それはキリスト教の信仰に対する冒涜である!!」、と拳を振り上げる機会を、あらゆる儀式や典礼に持ち込まれたら、他宗派としては堪ったものではありません。


>踏絵などというものは、キリスト
>教の本質から見れば、単なる偶像の板にすぎないのであって、それを
>踏んだとて転向の証明にはならないはずのものなのです。

なので、踏み絵は本質的に信仰を侵すものではない。これは実はキリスト教徒を守るために転びバテレンが発明したものである、という小説を読んだことがありますね。


>問題はこうです。キリスト教の本質では踏絵はただの板にすぎないが、
>それを権力がキリスト信徒の迫害として用いるならば、信徒である以上は
>それを踏むことはできないということです。

まあ、それはそうでしょうね。

>天皇の署名に対する敬礼も
>そうです。天皇が単なる国家元首であって、キリスト信仰に反する神と
>いう存在でないならば、キリスト信徒にも敬礼は可能でしょう。

別段、天皇はキリスト教に対して迫害する存在ではないと思いますが??

>しかし、日本の天皇制は天皇をすべての宗教の上に位置する絶対的な
>神と規定していたのです。だから、その署名を奉拝することは、内村の
>言う「キリスト教的良心」に反することにもなったのです。

天皇が絶対的な神だとしたら大変です。むしろ、「絶対の神」を立てて天皇の神性を冒涜したのは、内村の方なのではないのですか。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(8):老人党って? (4)  ■名前 : トビパパ <mrtobysdaddy@yahoo.co.uk>  ■日付 : 05/2/18(金) 17:43  -------------------------------------------------------------------------
   その3

ぼくは内村の姿にキリスト教の良心を見るのです。処世術を知らない
その不器用な生き方に、人間としての自主独立の精神を見るのです。
イエスの言葉、「幼い子供のように神の国を受け入れない者は、
神の国には入れない」を思い出すのです。不敬事件の内村を非難
する人の態度は、まるで内村を大人げない非常識な人間と決めつける
かのようです。大人げないと言うなら、確かに、戦争なんてものを
やろうと言い出したのは、いつだって大人たちでした。内村は非戦論
を唱えたのだから、大人げなかったのでしょう。しかし、このような
大人げない人の信念や信仰にも敬意を払う(少なくとも非難はしない)
というのが、大人のつくる国家の在り方じゃないのでしょうか。

内村はキリスト信徒として、国家の上に神の国を置きました。そして、
子供のように神の国を見上げていたのです。神の国は地上の国家とは
ちがって、国境というもののない国でした。

さて、ここで告天子さんの発言を見てみましょう。

>キリストは外国の神ですよ?。イエスは日本人だったのでしょうか??

イエスは人としてはユダヤ人でした。告天子さんの論理で言うなら、
キリスト教はユダヤ人の宗教ということになりますね。イエスの使徒
たちは確かにユダヤ人でしたし、ローマなど今で言う海外宣教で大いに
働いたパウロもユダヤ人でした。しかし、キリスト教はユダヤ人に
拒絶されてその宣教が始まったと言ってもいいのであり、ユダヤ人が
キリスト教を受け入れないという伝統は、今も守られているようです。
だから、アメリカのような国でもボブ・ディランのようなユダヤ系の
人がキリスト教の信仰告白をすると、それは大きな事件となるので
しょう。

告天子さんは、キリスト教は「外国の宗教」と規定されているようですが、
その「外国」には余りにも多くの国が入っているのが現実でありまして、
細々とながらも、日本だってその仲間に加えられている次第です。
こう見ると、キリスト教は外国の宗教というよりも、世界宗教と表現し
たほうが、より現実的であるようです。

キリスト教を外国の宗教と決めつける日本人の心理には、明治維新以来
変わらずに日本対西洋の対立関係で文化を規定しようとする思考癖が
あるのでしょう。今でも「洋服」という言葉は生き残っていますが、
それを西洋由来のものと意識している日本人はいるのでしょうか?
和服姿でポーズをとる渡部昇一のような人ならそうかもしれないが、
この種の日本人は一般的ではないでしょう。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(9):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/18(金) 19:46  -------------------------------------------------------------------------
   ▼トビパパさん:

>ぼくは内村の姿にキリスト教の良心を見るのです。処世術を知らない
>その不器用な生き方に、人間としての自主独立の精神を見るのです。

良心を以てすることだからと言って、何でも立派なことだとは限らない、と私は思いますね。キリスト教の教えを、至上・絶対のものとするならば「内村の態度は立派だ」となるのかもしれませんが、それは信徒の立場ではあっても、宗教自由の立場とはとても言えませんし、他を尊重する立場とも言えません。


>イエスの言葉、「幼い子供のように神の国を受け入れない者は、
>神の国には入れない」を思い出すのです。不敬事件の内村を非難
>する人の態度は、まるで内村を大人げない非常識な人間と決めつける
>かのようです。大人げないと言うなら、確かに、戦争なんてものを
>やろうと言い出したのは、いつだって大人たちでした。内村は非戦論
>を唱えたのだから、大人げなかったのでしょう。しかし、このような
>大人げない人の信念や信仰にも敬意を払う(少なくとも非難はしない)
>というのが、大人のつくる国家の在り方じゃないのでしょうか。

子供のように内村に対して腹を立てた日本人も、真っ直ぐな人たちだと思いますが。まあ、出会いとして不幸である、ということですが、全体として悪いのは内村の方だと見ます。

>内村はキリスト信徒として、国家の上に神の国を置きました。そして、
>子供のように神の国を見上げていたのです。神の国は地上の国家とは
>ちがって、国境というもののない国でした。

全ての国はキリストの国だ、みたいにされても、信徒でない者にとっては迷惑ではないかと思います。


>イエスは人としてはユダヤ人でした。告天子さんの論理で言うなら、
>キリスト教はユダヤ人の宗教ということになりますね。

いや、そういうことは言っていませんが・・・。

>告天子さんは、キリスト教は「外国の宗教」と規定されているようですが、
>その「外国」には余りにも多くの国が入っているのが現実でありまして、
>細々とながらも、日本だってその仲間に加えられている次第です。

日本人の伝統的な考え方とは、かなり異質ではないかと思いますね。

>こう見ると、キリスト教は外国の宗教というよりも、世界宗教と表現し
>たほうが、より現実的であるようです。

世界宗教というのは自称の話ですし、世界中に信徒がいるというのは本当ですが、世界中の人が「信じなければならない」という話でもないでしょう。

>キリスト教を外国の宗教と決めつける日本人の心理には、明治維新以来
>変わらずに日本対西洋の対立関係で文化を規定しようとする思考癖が
>あるのでしょう。

キリスト教の論理で自分たちの生活意識・文化意識を侵されたくない、ということではないでしょうか。尊重は相互的なものでなければいけないでしょう。

>今でも「洋服」という言葉は生き残っていますが、
>それを西洋由来のものと意識している日本人はいるのでしょうか?
>和服姿でポーズをとる渡部昇一のような人ならそうかもしれないが、
>この種の日本人は一般的ではないでしょう。

それほどこだわりのない日本人が、敢えて拒否するからには、それなりの理由があるからだ、ということです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(9):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/18(金) 21:04  -------------------------------------------------------------------------
   ▼トビパパさん:

>ぼくは内村の姿にキリスト教の良心を見るのです。処世術を知らない
>その不器用な生き方に、人間としての自主独立の精神を見るのです。
>イエスの言葉、「幼い子供のように神の国を受け入れない者は、
>神の国には入れない」を思い出すのです。不敬事件の内村を非難
>する人の態度は、まるで内村を大人げない非常識な人間と決めつける
>かのようです。大人げないと言うなら、確かに、戦争なんてものを
>やろうと言い出したのは、いつだって大人たちでした。内村は非戦論
>を唱えたのだから、大人げなかったのでしょう。しかし、このような
>大人げない人の信念や信仰にも敬意を払う(少なくとも非難はしない)
>というのが、大人のつくる国家の在り方じゃないのでしょうか。

多少まとめ的になりますが、先に書かれた「他の二名の信徒の教師は休んだ」というのは、「サボタージュ」として休んだわけでしょうか。

わざわざ出てきて叩かれた内村の姿勢は、嫌いではありません。

立場の違いから、いろいろ不愉快に思われる点もあったかと思いますが、基本的に上の引用部分には共感するところがあります。ただ、かならずしも「キリスト教の」良心とも限らないと思いますが。

日本人は神さまにも仏様にも頭を下げるし、キリスト教会で結婚式も挙げる民族です。立派な神殿も拝むけれども、野辺の名もなき神の社にも手を合わせるのです。

これは無節操とか無宗教というのではなく、先祖を敬い、聖なるものを敏感に感じ取ってきた民族の宗教性というもので、天皇という立場はそういう信仰と共にあるものでしょう。「絶対神」みたいなことではなくて。

まあその辺りの見解の相違というのは、どうしようもなくあるだろうなとは思いますが、とりあえずトビパパ様、ここまでおつきあいいただいて、ありがとうございます。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):老人党って? (4)  ■名前 : トビパパ <mrtobysdaddy@yahoo.co.uk>  ■日付 : 05/2/16(水) 18:58  -------------------------------------------------------------------------
   つづき その2

ともかく、靖国に平気で参拝するクリスチャン首相なるものが発生する
という現実を思うに、日本人の精神構造は、基本的に明治憲法の時代と
変わっていないのじゃないか、と疑ってしまうのも無理はないでしょう。
どうしてこうなってしまったのでしょうか?

ぼくは一部の日本人が主張するような意味で、日本人の内にある神道
信仰や天皇崇拝が太古からの伝統だとは思っていません。明治憲法が
いくら天皇の神権を成文化しても、国民がそれに従わない可能性は
充分にあったはずですし、実際、政府はそれを知っていたようです。
だから、国家は教育に熱心でした。そして生まれたのが教育勅語です。

もともとは内容の曖昧な国家神道や天皇の神権を教育の場で具体化した
のが教育勅語でした。こうして明治憲法の国家観は学校教育の中で
国民の常識となったようです。この常識に反するものは非常識であり、
非国民ともされたのです。そして、どういうわけか、この精神は、
今も日本人の中に残ってしまったわけでしょう。

ノーマ・フィールド女史の言うように、戦後日本人の生活が会社と
いう組織によってすべて決まるような構造になってしまった原因は
天皇制にあるのかもしれません。つまり、忠君愛国の精神をもつ
臣民が、会社人間に化けて戦後も残ったということでしょう。

みそぎ研修なんてものをやってる修養団なるものが今も生き残っていて、
日本を代表する大企業がこれを支援しているわけでしょ。こういう
のって、ぼくはほんとに理解できないのですが、なんか皇国民的じゃ
ないですかね。ま、右翼の方々が心配されるほど、日本の固有文化は
失われていないということなのでしょう。

ここでまた戦前の時代に戻りますと、このような強引な国家権力にも
抵抗する人間は必ず存在するわけです。だから、大日本帝国は治安
維持法や特高を必要としたのです。この手の専制国家にあっては、
多くの良心はただあきらめるしかなくなるのでしょう。こういう
日本の近・現代史の中で、日本人の精神構造は、オカミに従順なる
国家主義の性格をもつようになったのだと思います。そのオカミの
頂点には天皇という現人神が存在したのです。

国家主義の法学博士大谷美隆はこう書いています。

 霊俗両界を支配し得べき国家は、信仰のみを支配する宗教の上に
 在るのは当然の事である。各人は無宗教でもあり得る。国家は
 宗教を禁止することも出来る。かくのごとき絶大なる権力を
 有する国家が性質上宗教の上に在るべきことはきわめて当然の
 事である。(「国家とキリスト教」、1939年)

今の日本にも、これを読んで、「そうだそのとおりだ!!」なんて
思う人はけっこういるんでしょうね。アブナイ、アブナイ......

だいたい、こんなことを平気で言える人間てのは、信仰を人生の
アクセサリーか、あるいは、権力の手段くらいにしか思っていない
のでしょう。内村鑑三にとっては、信仰は生活の一部にすぎぬもの
ではなかった。彼がビートルズのメンバーだったなら、きっと、
「信仰こそはすべて」と歌ったにちがいないのです。

こういう個人の信教の自由を国家権力さえも奪うことは許されない
とするのが、近代国家のあり方であって、それは告天子さんの言う
キリスト教国において、その模範を見ることができるのです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(6):老人党って? (4)  ■名前 : 相良唯夫  ■日付 : 05/2/16(水) 22:52  -------------------------------------------------------------------------
   ▼トビパパさん:

>ぼくは一部の日本人が主張するような意味で、日本人の内にある神道
>信仰や天皇崇拝が太古からの伝統だとは思っていません。明治憲法が
>いくら天皇の神権を成文化しても、国民がそれに従わない可能性は
>充分にあったはずですし、実際、政府はそれを知っていたようです。
>だから、国家は教育に熱心でした。そして生まれたのが教育勅語です。

それはトビババさんの見方であり、多くの人はそのように受け止められないと思います。

>もともとは内容の曖昧な国家神道や天皇の神権を教育の場で具体化した
>のが教育勅語でした。こうして明治憲法の国家観は学校教育の中で
>国民の常識となったようです。この常識に反するものは非常識であり、
>非国民ともされたのです。そして、どういうわけか、この精神は、
>今も日本人の中に残ってしまったわけでしょう。

ドビババさんはどれだけ神道について理解をされているのでしょう?
教育勅語は現代に於いても通用する素晴らしい教えです。
十分なる家庭教育(倫理・道徳教育)がなされなくなったから、忌まわしい事件が起きているのではありませんか?

>ノーマ・フィールド女史の言うように、戦後日本人の生活が会社と
>いう組織によってすべて決まるような構造になってしまった原因は
>天皇制にあるのかもしれません。つまり、忠君愛国の精神をもつ
>臣民が、会社人間に化けて戦後も残ったということでしょう。

トビババさんの見方に納得は出来ませんが、愛社心、愛国心を持つのは当然でしょう。いまどき忠君愛国なんて聞いたこともありません。

>みそぎ研修なんてものをやってる修養団なるものが今も生き残っていて、
>日本を代表する大企業がこれを支援しているわけでしょ。こういう
>のって、ぼくはほんとに理解できないのですが、なんか皇国民的じゃ
>ないですかね。ま、右翼の方々が心配されるほど、日本の固有文化は
>失われていないということなのでしょう。

伊勢神宮を参拝する前に白装束で二見ヶ浦で禊をします。
毎朝の清掃のことも「みそぎ」とも言っています。禊をすることによって心身を
清浄にすることが出来るのです。これはとても大切なことです。
環境を浄化し、自らの心を洗うことを「洗心」と言います。
家庭は「家の庭」と書きます。庭は放っておくと荒れてしまい、手入れをしなければなりません。その手入れが行き届かなくなった状態を家庭崩壊といいます。
家庭崩壊の原因は日本の固有文化(家の文化)の崩壊が考えられますがいかがでしょう?

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(6):老人党って? (4)  ■名前 : しげちよ  ■日付 : 05/2/17(木) 17:36  -------------------------------------------------------------------------
   教育勅語の話が出ています。

教育勅語を訳してみると,

 私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに,道義国家の実現をめざして,日本の国を始められたものと信じます。そして,国民は忠孝両全の道をまっとうして,全国民が心を合わせて努力した結果,今日に至るまで見事な成果をあげて参りましたことは,もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが,私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
 国民の皆さんは,子は親に孝行し,兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い,夫婦は仲よくし,友人は胸襟を開いて信じ合い,そして自分の言動を慎み,すべての人々を博愛し,学問を怠らず,仕事に専念し,知識を養い,人格を磨き,さらに進んで社会公共のために貢献し,また、法律や秩序を守ることはもちろんのこと,いざ緊急事態発生の場合は,真心を捧げて,国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、私達の祖先が,今日まで身をもって示し残された伝統的美風を,さらにいっそう明らかにすることでもあります。
 このような国民の歩むべき道は,祖先の教訓として,私達子孫の守らなければならないところであるとともに,この教えは,昔も今も変わらぬ正しい道であり,また日本ばかりでなく外国でおこなっても間違いのない道でありますから,私もまた国民の皆さんとともに、祖父の教えを胸に抱いて,立派な日本人となるように心から念願するものであります。

といったところです。
「いざ緊急事態発生の場合は,真心を捧げて,国の平和と安全に奉仕しなければなりません」という部分がひっかかるのか,
それとも根本的に,天皇から下されたものと見るから,否定されるというのか,ですね。
こうしてみると,至極当然なことが書かれていると思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 健忘症?  ■名前 : めだま君 <medama_kun@mac.com>  ■日付 : 05/2/17(木) 23:44  -------------------------------------------------------------------------
   ▼しげちよさん:
どうでしょうかね。
問題は、国家と国民の関係如何ではありませんか?
>こうしてみると,至極当然なことが書かれていると思います。

「教育勅語等排除に関する決議(1948〔昭和23〕年6月19日衆議院決議)」の意味をどう理解されますか!
「民主平和国家として世界史的建設途上にあるわが国の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となっている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅が、今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であったがためである。
思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。よって憲法第98条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
右決議する。」
60年も経過すると、国民主権意識も弛緩してしまうのですね。アムミージヤの日本人、困ったもんだねー。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 素直にみましょう。  ■名前 : 相良唯夫  ■日付 : 05/2/18(金) 1:08  -------------------------------------------------------------------------
   ▼めだま君さん:
横レス失礼します。

>「教育勅語等排除に関する決議(1948〔昭和23〕年6月19日衆議院決議)」の意味をどう理解されますか!

GHQ占領統治下であり、この決議そのものが間違っていたと解釈することはできませんか?
排除しなければならなかったGHQの狙いも考えなくてはなりません。

良いものは良いのです。全てを悪くしたところに現在の不幸があるのです。
文章の一つ一つに間違っているところがあるのでしょうか?
現在に通用する分かりやすいことばかりではありませんか。

物の見方も色々ありますが、素直に見ることが大切であります。
もし、本当にもしです。
悪いところがあれば直せばいいのではありませんか。
教科書が墨で黒くされましたが、その黒くなったところに真実が隠されていましたから、彼らにとってとても都合が悪く、あれは黒く塗りつぶされたのです。
戦後60年経って、彼らの狙い通りの成果となったような気がします。
本気になって教育を見直さなければ、日本という国に誇りを持つことが出来なくなります。国に誇りが持てない国民は不幸であり、自国に誇りがもてないようではよその国から尊敬されるわけがありません。

めだま君さん。私はあなたのような深い知識がありませんから、難しいことはわかりません。理屈ではなく生活に都合のよいことを取り入れ、分かり易いがいいですね。わざと難しくしないで平易にいきましょう。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 問題は、国家と個人の関係です  ■名前 : めだま君 <medama_kun@mac.com>  ■日付 : 05/2/18(金) 1:51  -------------------------------------------------------------------------
   ▼相良唯夫さん:
レス、ありがとうございます。最近はお相手して下さるのは相良さんだけです。感謝しております。
私も考えていることは単純なんです。
教育勅語を個人の倫理道徳として読むのはいっこうに構わないし、健全な機能を果たしうるだろうと思います。忠孝精神は日本特有のものではなく旧約聖書にも書かれているのですから、古今東西共通のものだろうと思うんです。
問題は、国家と個人の関係です。それを忠孝道徳で説明するのは問題だというのは、GHQ占領下だからというよりも、悲惨な戦争を体験した当時の日本人の、正直な反省の気持ちだったのではないでしょうか。当時の一億総懺悔の結果なのだと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):問題は、国家と個人の関係です  ■名前 : しげちよ  ■日付 : 05/2/18(金) 17:51  -------------------------------------------------------------------------
   ▼めだま君さん

横から失礼しますね。
わたしも単純に考えています。
民主国家というものは,一般には「おかみ」と「民衆」の区別がない体制といえないでしょうか。
「おかみ」は永続的に「おかみ」であり続けることはなく,「民衆」の代表から出る,ということですよね。
国家といい,個人といっても,日本人一人一人が支えている「国家」ということになろうかと思います。

ですから,めだま君さんがおっしゃるように,その内容は重要であるにしても,教育勅語が現代にそのままの形で通じるとは思っていません。

明治時代は民主国家とは言えず,形としては独裁国家だったでしょう。
しかし,憲法上独裁者(実質はそう思いませんが)である天皇が「教育勅語」では,天皇自らが,日本をさらに素晴らしい国にするために,臣民とともに同じ生き方をするといった宣言をしているのではないでしょうか。

民主国家である現代では,誰からも指示されない人間が「自由」を獲得したかのように思われる,裏返しに言うと生き方を指示されるのは自由主義に反すると考える傾向があるのですが,では教育も「人間に指示をしてはいけない」のでしょうか。いや,教育や指針は与える必要がある,というのならば,誰がその権限を持っているのでしょうか。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : ご注意>めだま君さん  ■名前 : 管理スタッフ  ■日付 : 05/2/18(金) 18:33  -------------------------------------------------------------------------
   ▼めだま君さん(43727):

Ray@スタッフです。

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なお、この件に関するご意見は、私の書き込みへの
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 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):老人党って? (4)  ■名前 : トビパパ <mrtobysdaddy@yahoo.co.uk>  ■日付 : 05/2/11(金) 19:16  -------------------------------------------------------------------------
   (その2)

内村鑑三の不敬事件にも、そういう日本人の体質がよくあらわれて
いるというのが、ぼくの問題意識にはあるわけで、これは無宗教の
人にとっても、日本という国家の中で生きるときに、たえず問題に
なることだと思うのです。だから、ぼくはこんなにも不敬事件に
こだわっています。

寛容ということに関して、内村鑑三はこう書いています。

 真の寛大とは、余の解するところによれば、自分自身の信仰には
 不屈な確信をもちながらすべての正直な信仰はこれを許容し
 寛容することである。(「余は如何にして基督信徒となりし乎」)

問題は、こういう寛容をもっておのれの信仰に不屈なる者に対して
人(あるいは権力)は、しばしば不寛容であるということです。
不敬事件で内村を非難した人々は、彼の行為を天皇制という国家秩序
への冒涜とみなしたのでしょう。日本人の国家観には、その言葉に
表されているように「家」という意識があるようです。日本人なら
国家という「家」の仲間として、その和を乱してはならないという
集団的な同胞意識が日本人の精神の基盤にはあるのかもしれません。
しかし、問題は、「和を乱す」という考え方です。実際には和を
乱すような行為ではないのに、集団的な価値観が勝手にそれを規定
してしまうという危険性です。

その集団性が天皇への信仰心で結ばれたとき、それは絶対主義的な
一神教ともなって、他の宗教を排斥することになるでしょう。
ところが、その種の信仰心の本質は、それほど不屈な確信から来る
ものではなく、オカミからの教化(あるいは強制)された権威に
すぎない、というのが、告天子さんの反論にもかかわらず、ぼくの
不屈な確信なのです。天皇崇拝にある信仰心が不屈な確信ではなく、
漠然とした情緒的なものであるがゆえに、不屈なる者を迫害する
のではないか。ぼくにはそう思えるのです。

天皇制下における日本人の宗教観は、宗教の上に国家があるという
考えでしょう。そして、ただ天皇だけが、その国家を聖俗両面で
統率する権威であるというのが、天皇制の宗教観であり、国家観でも
あるようです。

ところが、キリスト者の信仰は、それとは本質的に違っているのです。
国家の権威は、神の権威の下にあるものであり、国家の元首が神に
等しい権威をもつことはありえないのです。もちろん、これに反する
キリスト教の歴史的事実を探そうと思えば、かんたんに見つかるで
しょう。しかし、その歴史の教えるものは、人間の権力の愚かさで
あって、キリスト教の本質とは無縁のものなのです。

キリスト教の文化圏では、法律という制度でさえ、その上に神という
絶対的な権威があるという考えで発展してきたはずです。こういう
キリスト教のあり方が、日本人にはなかなか理解するのがむずかしい
ようですね。自称クリスチャンの方々にもそれはいえるようで、
外面的にはキリスト教であっても、中身は日本教だったなんてことも
ありそうです。

山本七平という人は、日本教という言葉を批判的に用いているようです
が、ぼくから見れば、彼こそ日本教にだいぶ感化されていたのじゃないか、
と思えるくらいです。その生い立ちに内村の無教会があるらしいのに、
なぜ内村とは正反対の思想(というか、正直な話、ぼくは彼の思想が
結局なんだったのかよくわからないのですが)をもつに至ったのか、
すごく興味はあります。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):不敬事件からいろいろ  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/11(金) 21:09  -------------------------------------------------------------------------
   内村鑑三の不敬事件については、これを以て「日本人全体の問題」に拡張するのはおかしいのではないかと思うんですね。これを以て「日本人全体の、全体主義性、不寛容性」の証左であるとするのは、拡張のし過ぎではないかと。

ここでは内村は、己の信仰の論理を貫徹さすために、他の崇敬感情や教育者としての立場は度外視しても構わない、また、教育勅語というのは己の信仰に反するものである、侵害である、それを強要する権利は誰にもない、とするわけでしょう。

しかしそれは、内村の言い分であり、内村の信仰の都合でしかないわけですよ。信教の自由は認められますが、一個の内村の信仰・信念故に教育勅語は認めぬ、これは絶対の権利であり何人たりとも侵害は許さぬ、などという理屈が通るとしたら、

国家の法体系や、公共の規則、ルールは、その「絶対の信仰、信念」を持っているという側の都合に一方的に合わせなければならないわけでしょうか?。内村にそんな権限などないし、そもそも誰もそんな権利など与えていません。そのような架空の権利を強弁する方がむしろ「絶対の不寛容」を実践しているような話です。

一人の内村の都合により、全体のルールや儀典が制約を受けるとしたら、それこそ「暴力」そのものでしょう。一人の内村の「信仰」の都合が絶対の権利、権威を帯びて、「何人たりとも、国家たりともそれを侵すことは許されぬ」など、とんでもない自己の絶対化ではありませんか。


>問題は、こういう寛容をもっておのれの信仰に不屈なる者に対して
>人(あるいは権力)は、しばしば不寛容であるということです。

先にも書きましたが、人が内村を非難するのは「彼の信仰故」ではなく、特定の彼の行為が不適切かつ頑迷きわまる姿勢であったため、でしょう。「信仰に不寛容」という文脈とは違うでしょう。


>不敬事件で内村を非難した人々は、彼の行為を天皇制という国家秩序
>への冒涜とみなしたのでしょう。

それはそうでしょう。一人の内村出でて、その「信仰」故に不敬でも何でも許されるのだとしたら、それは日本の国家の否定、日本人の自尊の否定が「自由になされる」ことになることを意味するからです。それは許し難い暴力として受け取られたのだと思います。だからこその「投石」でしょう。


>日本人の国家観には、その言葉に
>表されているように「家」という意識があるようです。日本人なら
>国家という「家」の仲間として、その和を乱してはならないという
>集団的な同胞意識が日本人の精神の基盤にはあるのかもしれません。

家というのは、先祖も含んでの話であり、日本宗教は先祖供養・祖霊崇拝を無視した「個人救済」の宗教とは異質なものです。文化基盤が、西洋とは異なるでしょう。

>しかし、問題は、「和を乱す」という考え方です。実際には和を
>乱すような行為ではないのに、集団的な価値観が勝手にそれを規定
>してしまうという危険性です。

内村の件に関しては、思い切り「和を乱している」と思いますが。また、トビパパさんの論も、一人の内村の例を挙げて、「日本人全体が、そのような集団主義的・全体主義的傾向があるのだ」という、「民族裁き」をやっているように見えます。

西洋人がそういうことをするならばともかく、日本人がそうする、というところに問題の根があるように私は思うのです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 論理のすり替えは、止めましょう  ■名前 : めだま君 <medama_kun@mac.com>  ■日付 : 05/2/11(金) 23:10  -------------------------------------------------------------------------
   ▼告天子さん:
こんばんは、

>国家の法体系や、公共の規則、ルールは、その「絶対の信仰、信念」を持っているという側の都合に一方的に合わせなければならないわけでしょうか?。内村にそんな権限などないし、そもそも誰もそんな権利など与えていません。そのような架空の権利を強弁する方がむしろ「絶対の不寛容」を実践しているような話です。
告天子さんの論理からは抵抗権は、認められないのですか!
国家の法体系や、公共の規則、ルールは、弁証法的に発展していくものです。それなのに、それかを無理して固定的に捉えようとするから、論理が混乱するのではないかな。

>一人の内村の都合により、全体のルールや儀典が制約を受けるとしたら、それこそ「暴力」そのものでしょう。一人の内村の「信仰」の都合が絶対の権利、権威を帯びて、「何人たりとも、国家たりともそれを侵すことは許されぬ」など、とんでもない自己の絶対化ではありませんか。
論理のすり替えは、止めましょう。

>西洋人がそういうことをするならばともかく、日本人がそうする、というところに問題の根があるように私は思うのです。
「日本人」のイメージも、もっと柔らかく捉えないと!

きょうは、宮総代なので建国祭に行ってきました。お酒を飲みすぎて、少ししんどいです。最近、我が町内でも氏神様で建国祭を継続しているのは、2社だけになったそうです。私たちの神社の主神は神武天皇です。宮司や年寄りたちと、これからも伝統行事を大切にしようと、おおいに盛り上がりました。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/11(金) 21:41  -------------------------------------------------------------------------
   >その集団性が天皇への信仰心で結ばれたとき、それは絶対主義的な
>一神教ともなって、他の宗教を排斥することになるでしょう。

何やら、英米の政治プロパガンダのロジックをなぞっているような印象です。「絶対主義的な一神教」というのは、要するに「形容」なんですね。日本人には日本人の信仰生活があるのだから、それが無法に侵されるなら、危険な宗教を排斥するのは当たり前です。キリスト教への、明治時代の一般民衆の嫌悪感情というのは、「絶対主義的な一神教」などと表現されるべきではないし、そういう感情は歴史的ゆえんあっての話でしょう。他の宗教を排斥するとであれば、おおかた宗教というのはそんなものです。また、内村の不敬事件での姿勢に対する当時の父兄の嫌悪と、「キリスト教そのものの排斥」とを混同すべきではありません。


>ところが、その種の信仰心の本質は、それほど不屈な確信から来る
>ものではなく、オカミからの教化(あるいは強制)された権威に
>すぎない、というのが、告天子さんの反論にもかかわらず、ぼくの
>不屈な確信なのです。天皇崇拝にある信仰心が不屈な確信ではなく、
>漠然とした情緒的なものであるがゆえに、不屈なる者を迫害する
>のではないか。ぼくにはそう思えるのです。

何というか、そういう「迫害史観」みたいな線に沿って考えるのならば、「キリスト教を迫害する日本人」、みたいな話になるのでしょうが、しかもそれで、キリスト教に反する体質を持った日本人の民族的特性まで「悪いもの」として見るわけでしょう。悲しくなってきますね。

>
>天皇制下における日本人の宗教観は、宗教の上に国家があるという
>考えでしょう。

そういうものは、ある日突然人工的に突然明治政府が作ったとかいうものではなく、長い時間を掛けて民族的に醸成されてきたものの精華なのです。

>そして、ただ天皇だけが、その国家を聖俗両面で
>統率する権威であるというのが、天皇制の宗教観であり、国家観でも
>あるようです。

そういうことも、キリスト教徒が「不当だ」とか言える筋合いのことではなく、民族的に長い時間を掛けて「キリスト教徒とは無関係に」培ってきた、日本の歴史伝統なのです。

>
>ところが、キリスト者の信仰は、それとは本質的に違っているのです。

違っているのは結構ですが、日本の方では信教の自由も認め、(それは欧米諸国の外交・政治圧力の背景、強い布教解禁への要求があってのことです)、大いに妥協的なのです。自らの正しさを疑わず、異なる他者にぐいぐいと押し入りルールを押しつけたのはむしろ欧米諸国、キリスト教勢力の方でしょう。

>国家の権威は、神の権威の下にあるものであり、国家の元首が神に
>等しい権威をもつことはありえないのです。もちろん、これに反する
>キリスト教の歴史的事実を探そうと思えば、かんたんに見つかるで
>しょう。しかし、その歴史の教えるものは、人間の権力の愚かさで
>あって、キリスト教の本質とは無縁のものなのです。

権力が愚かなのであり、キリスト教の本質とは関係ない、というのはどんなものでしょうね。、教会権力と国王とのどろどろの権力争いなどこれは人間の愚かさであり「キリスト教の本質とは無縁のものだ」というのも、「キリスト教国以外のどこの国でそんなことがあったのか」を考えると、どうも無縁とばかりも言い切れないように思いますね。

>キリスト教の文化圏では、法律という制度でさえ、その上に神という
>絶対的な権威があるという考えで発展してきたはずです。こういう
>キリスト教のあり方が、日本人にはなかなか理解するのがむずかしい
>ようですね。自称クリスチャンの方々にもそれはいえるようで、
>外面的にはキリスト教であっても、中身は日本教だったなんてことも
>ありそうです。

日本はキリスト教国ではないので、キリスト教国の歴史伝統に縛られる筋合いではないのです。キリスト教的な見方や考え方が、絶対唯一の優れた見方であるかのように強制されるいわれもないのです。理解が難しいのであれば、仏教でも神道でも、難解な理論というのはたくさんあると思いますね。「日本教だ」とかいうのは、非常に大づかみな言い方かと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 告天子さん、複眼的に見ましょうね、  ■名前 : めだま君 <medama_kun@mac.com>  ■日付 : 05/2/11(金) 23:33  -------------------------------------------------------------------------
   ▼告天子さん:
>違っているのは結構ですが、日本の方では信教の自由も認め、(それは欧米諸国の外交・政治圧力の背景、強い布教解禁への要求があってのことです)、大いに妥協的なのです。自らの正しさを疑わず、異なる他者にぐいぐいと押し入りルールを押しつけたのはむしろ欧米諸国、キリスト教勢力の方でしょう。
一面的な見方です。日本は、キリスト教国から大変な恩恵を被ってますね。日本の偏狭で不合理な世界観を改めさせてくれたのも、キリスト教文明でしたね。それから、明治以降の日本は自信がつきすぎて、近隣国家に「自らの正しさを疑わず、異なる他者にぐいぐいと押し入りルールを押しつけ」ましたね。

>日本はキリスト教国ではないので、キリスト教国の歴史伝統に縛られる筋合いではないのです。
そうですね、日本は、多神教の国で、だれが何を信仰しようと自由です。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/12(土) 20:48  -------------------------------------------------------------------------
   ▼トビパパさん:

>天皇制下における日本人の宗教観は、宗教の上に国家があるという
>考えでしょう。そして、ただ天皇だけが、その国家を聖俗両面で
>統率する権威であるというのが、天皇制の宗教観であり、国家観でも
>あるようです。

「国家」という言葉の在り方が、西洋流と日本式とは位置づけが違うんじゃないでしょうか。西洋キリスト教国の場合、教会権力と世俗の王侯の権力が別個に存在し、教会権力の人民に対する影響力というのも、皇室とはかなり異質な、計り知れないほど支配力が強いものだったでしょう。

まあ、要するに歴史的に異なる発展をした、というわけですよ。だったら、西洋流を日本の歴史展開に直接当てはめるのもおかしいし、その逆にしてもまた然りです。


>ところが、キリスト者の信仰は、それとは本質的に違っているのです。

ええ、違うわけですよね。違っているから、その信仰というものを日本の法制や習慣の中でごり押しされたら、大変迷惑な話になりはしないか、ということです。


>国家の権威は、神の権威の下にあるものであり、国家の元首が神に
>等しい権威をもつことはありえないのです。

国家の元首と、教会権力が別個にある、ということでしょう。そして、教会権力と世俗の国家権力とが苛烈な闘争をしているから、「元首が神に等しい権威を持つことは、教会に対する冒涜だ」という話になるんじゃないですか。まあ、「神」観念自体が違うわけですが・・・。

つまり、構成の違うところに、単語だけ抜き出して「天皇が絶対真の如き扱いになっているのは、キリスト者の信仰にもとるものだ、だから絶対認めない」、みたいな話は、単にキリスト者側から見た一方的な論理であって、キリスト者の論理としてはあり得なくても、それを無条件に日本に対して当てはめるのもおかしな話ですよね。日本はキリスト教権力の支配下にあるわけではないんですから。

そういうことは、個人の信教の自由を尊重することとは別の話だと思うんですよ。自分の信じる宗教の信仰に反することになるから、自分の信仰を通す、ということを公的立場でされたら、それは涜職ではないですか。

>もちろん、これに反する
>キリスト教の歴史的事実を探そうと思えば、かんたんに見つかるで
>しょう。しかし、その歴史の教えるものは、人間の権力の愚かさで
>あって、キリスト教の本質とは無縁のものなのです。

キリスト教世界に於いて、「反キリスト教」であることは、致命的な意味を持つんではないでしょうか、それこそ「投石」どころでは済まない・・・。そういう「絶対性」を持って強力に社会・文明・学問を支配したのは、むしろキリスト教教会権力であって、中世などの一元的・全体社会の歴史を経て、それで西洋近代の国家と宗教との関係があるわけでしょう。

その辺りの文脈をすっ飛ばして、「キリスト教ではこうで、それに反する日本はおかしい」、みたいな話は、独善の気があると思うんですよ。

>キリスト教の文化圏では、法律という制度でさえ、その上に神という
>絶対的な権威があるという考えで発展してきたはずです。こういう
>キリスト教のあり方が、日本人にはなかなか理解するのがむずかしい
>ようですね。

いや、西洋の制度はそれはそれで理解しますよ。ただ、それが無条件に、歴史条件、社会条件が異なる日本に当てはまるかといえば、違うだろう、ということなんですよ。

>自称クリスチャンの方々にもそれはいえるようで、
>外面的にはキリスト教であっても、中身は日本教だったなんてことも
>ありそうです。

私はあまり教条には関心はないので、教義教典やらでがちがちに固めているからといってそれでクリスチャンとして立派だとも思えませんね。信仰に生命があるかどうかの方が大事なんじゃないかと思いますね。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 告天子さん、議論に深みがありません。  ■名前 : めだま君 <medama_kun@mac.com>  ■日付 : 05/2/13(日) 1:03  -------------------------------------------------------------------------
   ▼告天子さん:
こんばんは、
>「国家」という言葉の在り方が、西洋流と日本式とは位置づけが違うんじゃないでしょうか。
何が言いたいのかわかりません。
>西洋キリスト教国の場合、教会権力と世俗の王侯の権力が別個に存在し、教会権力の人民に対する影響力というのも、皇室とはかなり異質な、計り知れないほど支配力が強いものだったでしょう。
いつの時代の話ですか?それに西洋はキリスト教だとしても、それに対比する日本の精神的権威が、「皇室」というのも変です。仏教や儒教も視野に入れる必要がありますね。

>まあ、要するに歴史的に異なる発展をした、というわけですよ。だったら、西洋流を日本の歴史展開に直接当てはめるのもおかしいし、その逆にしてもまた然りです。
簡単に結論を出さないでください。西洋と日本の共通性と差違をきちんと分析した後でなければ、結論は出せないでしょうね。

>ええ、違うわけですよね。違っているから、その信仰というものを日本の法制や習慣の中でごり押しされたら、大変迷惑な話になりはしないか、ということです。
同じ事を、なんども言うのですね。

>国家の元首と、教会権力が別個にある、ということでしょう。そして、教会権力と世俗の国家権力とが苛烈な闘争をしているから、「元首が神に等しい権威を持つことは、教会に対する冒涜だ」という話になるんじゃないですか。まあ、「神」観念自体が違うわけですが・・・。
どこの国のお話ですか?

>つまり、構成の違うところに、単語だけ抜き出して「天皇が絶対真の如き扱いになっているのは、キリスト者の信仰にもとるものだ、だから絶対認めない」、みたいな話は、単にキリスト者側から見た一方的な論理であって、キリスト者の論理としてはあり得なくても、それを無条件に日本に対して当てはめるのもおかしな話ですよね。日本はキリスト教権力の支配下にあるわけではないんですから。
コメント、し難いなー。

>そういうことは、個人の信教の自由を尊重することとは別の話だと思うんですよ。自分の信じる宗教の信仰に反することになるから、自分の信仰を通す、ということを公的立場でされたら、それは涜職ではないですか。
同じはなしの繰り返し。

>キリスト教世界に於いて、「反キリスト教」であることは、致命的な意味を持つんではないでしょうか、それこそ「投石」どころでは済まない・・・。
どこの国の話ですか?

>そういう「絶対性」を持って強力に社会・文明・学問を支配したのは、むしろキリスト教教会権力であって、中世などの一元的・全体社会の歴史を経て、それで西洋近代の国家と宗教との関係があるわけでしょう。
判らんなー!

>その辺りの文脈をすっ飛ばして、「キリスト教ではこうで、それに反する日本はおかしい」、みたいな話は、独善の気があると思うんですよ。
判らんなー!

>いや、西洋の制度はそれはそれで理解しますよ。ただ、それが無条件に、歴史条件、社会条件が異なる日本に当てはまるかといえば、違うだろう、ということなんですよ。
同じ話の繰り返し。
新視点がないなー。少し充電するのもいいかも。内村を読んでみたら、いかが!

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):老人党って? (4)  ■名前 : つるみ <spic774@yahoo.co.jp>  ■日付 : 05/2/17(木) 19:10  -------------------------------------------------------------------------
   ▼告天子さん:
>>ところが、キリスト者の信仰は、それとは本質的に違っているのです。
>
>ええ、違うわけですよね。違っているから、その信仰というものを日本の法制や習慣の中でごり押しされたら、大変迷惑な話になりはしないか、ということです。
それを強行したのは薩長藩閥政府じゃないかな。
もともと西欧がそうだからということで木に竹を接ぐように教会的絶対権威を天皇に位置づけたのが間違いではないかと。
そして、その位置づけで天皇を理解しようとするから余計に判らなくなるし、誤解が多くなる。

>そういうことは、個人の信教の自由を尊重することとは別の話だと思うんですよ。自分の信じる宗教の信仰に反することになるから、自分の信仰を通す、ということを公的立場でされたら、それは涜職ではないですか。
ただ、公的立場に立つ人がどういう信仰を持つかは自由で、その価値観に従って行動すること自体はその人の内面の問題ではあります。
>
>いや、西洋の制度はそれはそれで理解しますよ。ただ、それが無条件に、歴史条件、社会条件が異なる日本に当てはまるかといえば、違うだろう、ということなんですよ。
教会の権威から国家を解放しようとしたのがフランス革命でしょう。
そのフランス革命では依拠するところとして国民大衆の理性(ロゴス)が置かれたものと理解していますが、それとて、基督教価値観を前提にしてますからね。
元々はピューリタンとはいいますが、国家の建設としてはアメリカがそうでしょうね。で、それを普遍のものとして広めようとするから、イスラムを攻撃するし、GHQ支配もする。
問題はそれが普遍性を持つと信じている人ですよ。日本人の中にも多いですね。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/17(木) 20:43  -------------------------------------------------------------------------
   ▼つるみさん:
>▼告天子さん:
>>>ところが、キリスト者の信仰は、それとは本質的に違っているのです。
>>
>>ええ、違うわけですよね。違っているから、その信仰というものを日本の法制や習慣の中でごり押しされたら、大変迷惑な話になりはしないか、ということです。
>それを強行したのは薩長藩閥政府じゃないかな。
>もともと西欧がそうだからということで木に竹を接ぐように教会的絶対権威を天皇に位置づけたのが間違いではないかと。

確かに、薩長藩閥政府も欧化のごり押しはやっています。また、天皇が西洋的な絶対君主とか、あるいはGodのような絶対神的神として薩長政府に位置づけられたの「ではないか」と、現代から見てそう見えるのは分かります。

しかし、薩長政府がしたことは、江戸から続いた維新革命の連続として見ないと、分からなくなる。表面的な現象だけ見て、キリスト教徒が望むような欧化と、薩長政府が望んだ欧化が「同じだ」とは言えないと思います。

天皇が「絶対権威」だった、とは言えないと思いますね、明治時代であっても。極めて強力な権威であり、日本伝統の神道的神性は帯びたものであったとしても、西洋的な意味での「絶対」の性格とは違うんではないだろうか。

>そして、その位置づけで天皇を理解しようとするから余計に判らなくなるし、誤解が多くなる。

う〜ん、正直な話、天皇を「絶対権威」として持ち上げる行き方は、僕も抵抗があります。強烈な国家主義と絡めて「天皇!!」、とするのではなくて、・・・軍国とか、「絶対の忠誠」から少し離れた、天皇イメージとか日本のイメージが将来は必要なのではないかな、と思います。

>>そういうことは、個人の信教の自由を尊重することとは別の話だと思うんですよ。自分の信じる宗教の信仰に反することになるから、自分の信仰を通す、ということを公的立場でされたら、それは涜職ではないですか。
>ただ、公的立場に立つ人がどういう信仰を持つかは自由で、その価値観に従って行動すること自体はその人の内面の問題ではあります。

公的立場にある人がどんな信仰を持つかは自由、とばかりも言えないと思います。信仰平等説には僕は服しませんので・・・。たとえば、天皇陛下や、その近いところにある人が、キリスト教徒になるのも自由・・・、というのは理論的な話であって、これは自由ではないのが本当ではないか、と思いますね。自由だからいいとも思いませんし。

あと、内面に信仰を持つのは自由、というより立ち入れませんが、内面を通り越して「行動」に至った場合には、それは「内面の自由」とは言わないと思います。

信教自由、というのは強烈な宗教対立が既にあるとか、政治的な教派弾圧が強行されたとかいうことから「信教の自由」があるわけで、そうではなくて「何を信じても自由なんです」みたいな、白紙の自由というのはどこか文脈が違うんじゃないかな、と思うんですよ。

>教会の権威から国家を解放しようとしたのがフランス革命でしょう。

いや、王権から国家を人民が取り戻した、というか、「奪った」のがフランス革命で、教会は別でしょう。

>そのフランス革命では依拠するところとして国民大衆の理性(ロゴス)が置かれたものと理解していますが、それとて、基督教価値観を前提にしてますからね。

この辺りの話は、非常に興味がありますね、私も。

>元々はピューリタンとはいいますが、国家の建設としてはアメリカがそうでしょうね。で、それを普遍のものとして広めようとするから、イスラムを攻撃するし、GHQ支配もする。

ピューリタンというのも、結局はカソリックの支配に対して「信教の自由」をもとめて、教会の一元支配を破ったわけですが、世俗王権が今度は自らの根拠が直接に神にある、として教会の支配から離脱したり、また、人民が「理性」に根拠を置いて王権の支配を破ったり、その後はプロレタリアートが「階級」を根拠に置いてブルジョワ人民を逆支配しようとしたり、何とも険しい世界ですね。

>問題はそれが普遍性を持つと信じている人ですよ。日本人の中にも多いですね。

あれはヨーロッパ土着の精神ではないかと・・・。どっかの田舎の話ではないかと思っているんです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(6):老人党って? (4)  ■名前 : つるみ <spic774@yahoo.co.jp>  ■日付 : 05/2/19(土) 2:36  -------------------------------------------------------------------------
   ▼告天子さん:
>確かに、薩長藩閥政府も欧化のごり押しはやっています。また、天皇が西洋的な絶対君主とか、あるいはGodのような絶対神的神として薩長政府に位置づけられたの「ではないか」と、現代から見てそう見えるのは分かります。
といいますか、西欧列強がそういう体制でしたから、体裁としてそれを猿真似したのが無理があったのではないかと。
>
>しかし、薩長政府がしたことは、江戸から続いた維新革命の連続として見ないと、分からなくなる。表面的な現象だけ見て、キリスト教徒が望むような欧化と、薩長政府が望んだ欧化が「同じだ」とは言えないと思います。
そうですね。同意します。同じだとはいえませんね。
むしろローマ法王に天皇をもってきて、薩長が王権に就こうとしたのではないかと、そういう風に見ています。
国民に対して政府が絶対性を持つには絶対権威を背景にしないとならないですから。


>天皇が「絶対権威」だった、とは言えないと思いますね、明治時代であっても。極めて強力な権威であり、日本伝統の神道的神性は帯びたものであったとしても、西洋的な意味での「絶対」の性格とは違うんではないだろうか。
それはそうなんですが、それを目指していたとは思いますよ。
これは日本の歴史において非常に特異なケースだったのではないかと。
官幣社で位付けをするあたりから本来の神道から離れていっていますね。

>
>う〜ん、正直な話、天皇を「絶対権威」として持ち上げる行き方は、僕も抵抗があります。強烈な国家主義と絡めて「天皇!!」、とするのではなくて、・・・軍国とか、「絶対の忠誠」から少し離れた、天皇イメージとか日本のイメージが将来は必要なのではないかな、と思います。
そうですね。精神的な支柱なんですよね。これは西欧法体系では位置づけられないものだと思いますよ。
実は
天皇陛下 ご自身を「現人神」としたのに齟齬があるでしょうね。
あくまで祭祀における依代(よりしろ)で、祭祀においてのみ「神性」を持つのです。「人間宣言」なんかしなくても元々、普段の
天皇陛下 は元から人間ですよ。
この「依代」という概念が理解できないと、何故、鏡や木が御神体になるのかが理解できないですから。依代をとおした神(神々)との直接のコンタクトで、偶像崇拝でも人間崇拝でもないのですね。
それを、祭祀に関係の無いところでまで「神」としたのは統治者の手法でしょうね。
ただ、「天皇陛下万歳」の意味は「天皇を戴く日本」という意味だと理解しています。一人の男性としての
天皇陛下 に万歳はできないでしょう? それでは北韓のマンセーと変わらない(笑)

>あと、内面に信仰を持つのは自由、というより立ち入れませんが、内面を通り越して「行動」に至った場合には、それは「内面の自由」とは言わないと思います。
それはそうでしょう。いくら善意でも初期の創価学会=公明のような宗教目的の政治活動や、オウム信者の自衛官などは否定されて然るべきですね
私が言いたいのは、その人の「良心」のバックボーンがどこにあるかの問題で、それを否定は出来ない、ということですね。
ただ、究極的には公人はその奉仕する対象への良心が全逓ですが。
横浜市の公人であればまず「横浜市に奉職する人間としての良心」が必要ですし、そもそも日本人としての良心が日本の公人には求められる。
韓国人ならば韓国人としての良心。イラン人ならイラン人としての良心。
それが無い限り、公人たる資格は無いでしょう。
それはその祖国の歴史、国柄に依拠するものですが。

>「何を信じても自由なんです」みたいな、白紙の自由というのはどこか文脈が違うんじゃないかな、と思うんですよ。
それはそうですが、キリスト教徒の議員もいるわけですが、宗教目的で議員活動を行わないというタテマエがあるから、それは結構なんですよ。
ただ、その当人が基督教の価値観をもって議員活動すること自体は禁止できない。
まさか何か信仰を持っているから公人になるなともいえないですしね。

フランス革命は腐敗した王権に対する革命であったという意味においては意義があるのですが、結局のところフランスという国の国の成り立ちや歴史を否定したことにもつながっていて、この辺は功罪の罪の部分ではあったと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(7):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/19(土) 3:12  -------------------------------------------------------------------------
   ▼つるみさん:
>▼告天子さん:
>>確かに、薩長藩閥政府も欧化のごり押しはやっています。また、天皇が西洋的な絶対君主とか、あるいはGodのような絶対神的神として薩長政府に位置づけられたの「ではないか」と、現代から見てそう見えるのは分かります。
>といいますか、西欧列強がそういう体制でしたから、体裁としてそれを猿真似したのが無理があったのではないかと。

いや、アメリカは全然政体として違いますし、「欧米の真似をするために」明治維新をしたわけではないです。

>>しかし、薩長政府がしたことは、江戸から続いた維新革命の連続として見ないと、分からなくなる。表面的な現象だけ見て、キリスト教徒が望むような欧化と、薩長政府が望んだ欧化が「同じだ」とは言えないと思います。
>そうですね。同意します。同じだとはいえませんね。
>むしろローマ法王に天皇をもってきて、薩長が王権に就こうとしたのではないかと、そういう風に見ています。
>国民に対して政府が絶対性を持つには絶対権威を背景にしないとならないですから。

明治維新の目指す方向は、一つには「富国強兵」であり、二つには民権強化の推進です。薩長が維新革命当初、強力な権力行動に出るのは革命政権として当然のことですが、そのコースは、絶対権威の解消へと向かうものであったのです。


>>天皇が「絶対権威」だった、とは言えないと思いますね、明治時代であっても。極めて強力な権威であり、日本伝統の神道的神性は帯びたものであったとしても、西洋的な意味での「絶対」の性格とは違うんではないだろうか。
>それはそうなんですが、それを目指していたとは思いますよ。
>これは日本の歴史において非常に特異なケースだったのではないかと。
>官幣社で位付けをするあたりから本来の神道から離れていっていますね。

「本来の神道」がどうだったか、また、本来の神道家がどんなコースを望んでいたか、そういうことが現実に政治の遡上に乗せられて体制化されていたとしたら、明治の体制は全く異なるものであったでしょう。

しかし、現実には、仏教勢力や、欧米キリスト教勢力などの強い圧力をにらみながらの改革運動だったのです。

>>う〜ん、正直な話、天皇を「絶対権威」として持ち上げる行き方は、僕も抵抗があります。強烈な国家主義と絡めて「天皇!!」、とするのではなくて、・・・軍国とか、「絶対の忠誠」から少し離れた、天皇イメージとか日本のイメージが将来は必要なのではないかな、と思います。
>そうですね。精神的な支柱なんですよね。これは西欧法体系では位置づけられないものだと思いますよ。
>実は
>天皇陛下 ご自身を「現人神」としたのに齟齬があるでしょうね。

この辺り、神道理論の教育というものが国民に行き渡っていたかと言えば、そうではなかったし、「神道教育」を国家が徹底することは出来なかったでしょう、仏教勢力が強く主張した「政教分離」からすれば。

>あくまで祭祀における依代(よりしろ)で、祭祀においてのみ「神性」を持つのです。「人間宣言」なんかしなくても元々、普段の
>天皇陛下 は元から人間ですよ。
>この「依代」という概念が理解できないと、何故、鏡や木が御神体になるのかが理解できないですから。依代をとおした神(神々)との直接のコンタクトで、偶像崇拝でも人間崇拝でもないのですね。

この辺りの理論には、様々な説があると思いますが、それを云々することが、明治維新の「正当性」を直接に左右することである以上・・・明治政府の正統性、ひいては、外国に対する「日本国政府」の正統性を直接に左右するものである以上、安易な議論は憚られる、とするのが妥当な話かと思いますね。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(8):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/19(土) 3:13  -------------------------------------------------------------------------
   ▼つるみさん:
>それを、祭祀に関係の無いところでまで「神」としたのは統治者の手法でしょうね。
>ただ、「天皇陛下万歳」の意味は「天皇を戴く日本」という意味だと理解しています。一人の男性としての
>天皇陛下 に万歳はできないでしょう? それでは北韓のマンセーと変わらない(笑)

天子が神である、というのは当時の一般的な認識だったと思いますが。勿論その「神」というのは、超自然の「絶対的存在」というような認識とは違うでしょうが、聖天子に「聖性」を日本人が感じていなかったとは、言えないでしょう。

これは、統治者が勝手に「思い込ませて」出来るようなことではないです。


>私が言いたいのは、その人の「良心」のバックボーンがどこにあるかの問題で、それを否定は出来ない、ということですね。

否定は出来ない、ということと、無制限な肯定は違うと思います。

>ただ、究極的には公人はその奉仕する対象への良心が全逓ですが。
>横浜市の公人であればまず「横浜市に奉職する人間としての良心」が必要ですし、そもそも日本人としての良心が日本の公人には求められる。
>韓国人ならば韓国人としての良心。イラン人ならイラン人としての良心。
>それが無い限り、公人たる資格は無いでしょう。
>それはその祖国の歴史、国柄に依拠するものですが。

「日本の公人」としての良心より、自らの信徒としての信条を優先するようでは、公人としての資格はないわけです。「良心」とか「信条」、というのは、それを出すことで無制限の肯定を他に要求できるような代物ではないです。


>>「何を信じても自由なんです」みたいな、白紙の自由というのはどこか文脈が違うんじゃないかな、と思うんですよ。
>それはそうですが、キリスト教徒の議員もいるわけですが、宗教目的で議員活動を行わないというタテマエがあるから、それは結構なんですよ。
>ただ、その当人が基督教の価値観をもって議員活動すること自体は禁止できない。
>まさか何か信仰を持っているから公人になるなともいえないですしね。

「公人になるな」ではなく、「公人としての振る舞いに、信徒としての信条を混ぜるな」、ということです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(9):老人党って? (4)  ■名前 : つるみ <spic774@yahoo.co.jp>  ■日付 : 05/2/19(土) 6:55  -------------------------------------------------------------------------
   ▼告天子さん:

>天子が神である、というのは当時の一般的な認識だったと思いますが。勿論その「神」というのは、超自然の「絶対的存在」というような認識とは違うでしょうが、聖天子に「聖性」を日本人が感じていなかったとは、言えないでしょう。
それもそうです。むしろ、それを取り巻く連中の問題を考えているのですが。所謂「君側の奸」というものです。藩閥はまさにそれであります。

>>私が言いたいのは、その人の「良心」のバックボーンがどこにあるかの問題で、それを否定は出来ない、ということですね。
>否定は出来ない、ということと、無制限な肯定は違うと思います。
書き方がまずかったですか。私も無制限な肯定はしません。ただ、人の内面に踏み込むことは出来ないし、その人の良心がいかなる背景のもとにあるのかは本人しか判らないということを述べただけです。誤解を招く表現で申し訳ありません。

>「日本の公人」としての良心より、自らの信徒としての信条を優先するようでは、公人としての資格はないわけです。「良心」とか「信条」、というのは、それを出すことで無制限の肯定を他に要求できるような代物ではないです。
>「公人になるな」ではなく、「公人としての振る舞いに、信徒としての信条を混ぜるな」、ということです。
その通りですね。私もそう考えています。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(10):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/19(土) 9:32  -------------------------------------------------------------------------
   ▼つるみさん:
>▼告天子さん:
>
>>天子が神である、というのは当時の一般的な認識だったと思いますが。勿論その「神」というのは、超自然の「絶対的存在」というような認識とは違うでしょうが、聖天子に「聖性」を日本人が感じていなかったとは、言えないでしょう。
>それもそうです。むしろ、それを取り巻く連中の問題を考えているのですが。所謂「君側の奸」というものです。藩閥はまさにそれであります。

なるほど、天皇への「取り巻き」とか、「藩閥」が戦前はいけなかった、というのは分かる主張ですが・・・。

しかし、明治政府や軍部から「藩閥」を一切抜き去って、ということは、明治維新の過程を見れば、不可能な観念論に過ぎませんし、藩閥なしには明治維新そのものがあり得なかった。

過去を全肯定するわけでもありませんが、「藩閥悪玉論」で、それ以外のたとえば民権家勢力が「全てよかった、善玉だった」ということにもならないと思う。明治維新を推進し、また、欧化政策、身分制解消にしても、「藩閥を主体としたことで」初めてあり得た話で、その後の帝国議会がでてから「後」の話とは、区別すべきだと思う。

帝国議会が出来てから「後」は、藩閥政治は後退する一方で、ただ、選挙のない軍部にだけはそれが色濃く残った。しかし、では「軍部悪玉論」が言えるかといえば、これも難しい、むしろ軍事のことを理解せず、また、国際的な力関係を無視して「暴走」したのは「民選の、議会」や、国民ではないか。軍人は「無敵皇軍」などというスローガンには酔わない。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(11):老人党って? (4)  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/2/19(土) 9:45  -------------------------------------------------------------------------
   要するに、「天皇の取り巻きが悪い」というよりも、無責任な「民主主義」に基づく政治の方に問題があって、戦後はそれが逆に理解されているんですよ。軍部が悪い、天皇制が悪い、といった具合に。

そうではなくて、むしろ「日本の議会制度の受容」「議会政治の国家運営」の方に、問題があったのであり、また、教育の問題もそうですね。

戦後は、そういう「日本の悪いところ、弱点」が、「解消された」のではなく、むしろ逆に「悪いどころか、良いものとして意識されてしまった」ところに、倒立があるのだと思っています。

で、また、軍部にしても天皇制にしても「良い部分」を見なければならないものを、これは「日本の悪いところ」として逆推進を掛けられるわけだから、まるっきり話がちぐはぐになってしまったわけですよ。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 余計な一言。。?  ■名前 : 風谷 米造  ■日付 : 05/2/10(木) 14:49  ■Web : http://www.king-crimson.com/graphics/entrance2.jpg  -------------------------------------------------------------------------
   ▼告天子さん:
>前スレッドの、トビパパさんの投稿への、返事の続きです。

>>内村が教育勅語に頭を下げなかったのは、白いご飯にソースをかけ
>>ようとする行為とは全く違って、ほかの日本人がみなご飯を食べている
>>ときに、彼ひとりはただ天を見上げていただけ。そう表現してもいいで
>>しょうか。
>
>それは別に表現のしようですが、ご飯を食べるというのも神聖な行為です。ご飯をなめてはいけません。
>
>
>> 人はパンのみにて生くるにあらず。
>
>ご飯も大事です。
>

告天子殿の言う、その通りです。
ご飯は大事であります。

「飯と汁木綿着物は身を助く 其余は我をせめるのみなり」尊徳

足るを知らない今の風潮は困ったものであるが、寒さをしのぎ、飢えをしのぐ衣食は必要不可欠である。

「食うために生きるのではない」ともよく申すが、使い方の意味目的は他にあるとしてもこれは食うことへの侮辱であり、生への冒涜である。
人間の驕りである。
簡単に口に出してもらいたくないものである。


おお!これはこれはちょっと話題が違っていたか。。
失礼いたしました。

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