Page 2472 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼「創憲」を考えましょう。 つるみ 05/2/26(土) 5:18 ┣政教分離についての疑義 続き その1 退役軍人 05/2/26(土) 10:49 ┃ ┗政教分離についての疑義 続き その2 退役軍人 05/2/26(土) 11:02 ┃ ┗Re(1):政教分離についての疑義 続き その2 つるみ 05/3/2(水) 22:48 ┃ ┗ありがとうございました。 退役軍人 05/3/3(木) 2:18 ┣Re(1):「創憲」を考えましょう。 進化する未老人 05/2/26(土) 20:07 ┃ ┗Re(2):「創憲」を考えましょう。 つるみ 05/2/27(日) 11:13 ┃ ┗Re(3):「創憲」を考えましょう。 進化する未老人 05/2/27(日) 17:06 ┃ ┗Re(4):「創憲」を考えましょう。 つるみ 05/3/2(水) 22:37 ┃ ┗Re(5):「創憲」を考えましょう。 進化する未老人 05/3/3(木) 21:04 ┗Re(1):「創憲」/「政教分離」の意味? とうろう 05/3/3(木) 23:14 ┣Re(2):「創憲」/「政教分離」の意味? 実はブラックデビル 05/3/4(金) 0:22 ┣Re(2):「創憲」/「政教分離」の意味? しげちよ 05/3/4(金) 1:41 ┗「政教分離」の意味?回答です。 退役軍人 05/3/4(金) 16:18 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 「創憲」を考えましょう。 ■名前 : つるみ <spic774@yahoo.co.jp> ■日付 : 05/2/26(土) 5:18 -------------------------------------------------------------------------
前スレ「護憲でも改憲でもなく」が50に達してしまったので新スレッドを立ち上げました。 我が国の憲法のありようについて話し合っていきましょう。 |
つるみさん、おはようございます。 続けます。 >いや、前例といいますか今までにあった事実からの反省としての例示としてあげたのであって、印象操作のための論理補強ではありません。 承知いたしました。 しかし、極端な例示をなさる場合はそれなりの配慮が必要かと考えます。 >いや、そこに制限を設けるのは今までの政治史からの智恵だと思いますよ。 >現役軍人の政治参加に制限が加えられているのと同じことだと考えています。 これははっきり指摘させていただきますが、誤りです。 政治史からの智恵であることには同意いたしますが、全く異なる理由からそうされているのです。 宣誓を成し「命令に絶対服従」を誓うということは、個人の「生存権」を国家に委ねるという意志表示です。 国家に生存権を委ねた軍人が、現役である間の「政治参加」を通じて「生存権」を左右できる立場に立ってはならないということです。 シビリアンコントロールの原則に厳密な解釈を以て従っているということです。 つまり、国民の意志を集約し代弁する政府の意志でコントロールされるべきで、本来国民の盾であり槍である軍部は「政治的意思」を持ってはならないということです。あくまでも国民と国家の安全を護る「道具」でなければならないからです。 実力を持つ「道具」に意志が存在してはならないということです。 こういった制限は軍隊が、誰も対抗することが出来ない「暴力装置」としての実力を持つからであり、宗教的価値観に基づく政治勢力の結成に加える制限とは、全く異なる次元の話です。 例示が適切ではないと考えます。 続きます。 |
続きです。 >>憲法で定義される思想信教の自由は多様性を尊重し、どのような価値観を持とうとも「個の選択」として尊重されるべきであるとうたっているのではありませんか。 >その限界に関しても定める必要があると思いますよ。 >私は二つの理由から宗教と政治に関して制限を加えるべきだと考えています。 >一つは宗教目的での政治参加は国の益ではなくその宗教の益のためになってしまうことを防ぐ。 これも明らかな誤りです。 その宗教の益と国民の益が、同義である可能性を完全に否定できないと考えます。 宗教の益が、国民の益と矛盾すると断定できますか。 百歩譲って、これを断定できる場合があったとしても、憲法ではなく「破防法」等のような下位法で規定すべきです。 最高法規である憲法に規定するのは、我が国が民主主義国家ではないと標榜するに等しい。 >二つは神仏の権威に依拠した王権神授説への退行を防ぐ。 これも明らかな誤りです。 王権神授説への退行はありえないと申し上げておきます。 ヒトは学習する種であるという視点が欠けています。 >この二点ですね。宗教国家になるのが国民大衆の意思であるとするならばそれはそれで良いとする立場もありえますが、民主国家であると規定した国家においてはこれはありえません。 これも明らかな誤りです。 イスラム教を国教として規定する国家もありますが、そういった国家では国民の大多数がイスラム教徒であり国家を構成する国民の基本的な「民族としての存在理由」の根底を成すものでもあります。 これを政権の選択において「自由で公正な選挙」を以て行うという「民主主義国家の基本」を理由に否定する合理的根拠など見いだせない。 むしろ政権奪取の過程に於いて、宗教的価値観を共通の価値観として存在する政治勢力の存在を否定するのは「非民主主義国家」であると標榜するに等しいと考えます。 >ヒトラーもきわめて民主主義的なプロセスを経て政権を奪取したことを記憶するべきでしょう。 この例示も極めて不適切です。 極めて極端な例示で論理補強を行う「印象操作」であると断じておきます。 それにヒトラーによる政権奪取の過程が民主的であったかどうかは異論もあると考えますし、論点を拡大拡散させてしまう例示であると指摘させて頂きます。 >>「留保」は、最低限の留保であるべきで、宗教的価値観による政治勢力という集団の否定を「公序良俗」あるいは政権奪取後に想像される結果を理由に否定するのは、思想信教の自由という「侵してはならない原理原則」に明らかに反します。 >侵さないと思いますよ。いかなる信仰を持っていても、その人が政治参加することに規制しているわけではないのですし、宗教団体の設立に制限をしているわけでもない。宗教団体が組織として支持母体になることも否定していない。しかし、宗教団体が政党と一体になることを禁じるべきだというだけの話ですから。また、同じ信仰を持つ人同士で政党を設立しても結構。しかし宗教団体の手によるものであってはならない、ということですね。これは思想信教の自由の限界として問題がないと思いますよ。 大変失礼ではありますが、詭弁に過ぎないと指摘させていただきます。 個人の思想信教の自由に限界を設けるという考え方こそ、全体主義に通じる考え方であり危険な考え方であるとも指摘させていただきます。 民主主義を標榜する国家に於いて政権奪取の過程で問われるべきは「個の選択」の集合であるかの一点だけであるべきです。 過程において存在する共通の価値観による「個の選択」を否定するものであってはならない。 宗教団体が主導的立場にあるのか、それともそうではなかったのかなど、どちらが主導的に立場にあったか等は「枝葉の議論」に過ぎないとも。 我々が語っているのは、国家としての「原理原則」である憲法であったはずです。 つるみさんの論旨を「その動機と理由を「宗教的価値観」に求める政治勢力の結集を、憲法で規制するという趣旨」と理解していますが、この理解が誤りなのでしょうか。 失礼いたしました。 |
▼退役軍人さん: >その宗教の益と国民の益が、同義である可能性を完全に否定できないと考えます。 それを言うなら、軍の益が国民の益であることと同義である可能性の方がもっと高い。 > >宗教の益が、国民の益と矛盾すると断定できますか。 政治史上、矛盾することが多く、それに制限を加えるべきとするのが私の考え方です。 > >>二つは神仏の権威に依拠した王権神授説への退行を防ぐ。 > >これも明らかな誤りです。 >王権神授説への退行はありえないと申し上げておきます。 >ヒトは学習する種であるという視点が欠けています。 ありえない事はないですよ。 他国は他国なので、それはそれで介入すべきではないと考えますが、宗教によって政体が依拠されている例は多くあります。 >これも明らかな誤りです。 >イスラム教を国教として規定する国家もありますが、そういった国家では国民の大多数がイスラム教徒であり国家を構成する国民の基本的な「民族としての存在理由」の根底を成すものでもあります。 では、我が国に特定宗教が民族としての存在理由になる風土だと? まぁ、宗教という側面から考えれば、民族としての存在理由は皇室祭祀に行き着くでしょうが、それを政治権力に結び付けることは国民の多くが否定的ですよ。 右翼でさえ政治利用するなと主張していますから(大日本愛国党)。 >大変失礼ではありますが、詭弁に過ぎないと指摘させていただきます。 >個人の思想信教の自由に限界を設けるという考え方こそ、全体主義に通じる考え方であり危険な考え方であるとも指摘させていただきます。 思想信教の自由に制限を加えるのではなく、その実行においてですよ。 別段、思想新疆の自由の範囲においては「乙女のいけにえが必要」とかも自由なんですが、実行したら犯罪なのと同じ。 >宗教団体が主導的立場にあるのか、それともそうではなかったのかなど、どちらが主導的に立場にあったか等は「枝葉の議論」に過ぎないとも。 私は宗教団体が設立してはならないといっているだけで、信仰を持つ人らが政党を設立することを否定しているわけではありません。 >つるみさんの論旨を「その動機と理由を「宗教的価値観」に求める政治勢力の結集を、憲法で規制するという趣旨」と理解していますが、この理解が誤りなのでしょうか。 「宗教目的を政治権力によって行使することを防ぐ」事を第一義に考えています。 腹を割って話をすれば、創価学会のようなものを二度と出さない、という決意なんですよ。 |
つるみさん、こんばんは。 >それを言うなら、軍の益が国民の益であることと同義である可能性の方がもっと高い。 これは明らかな論理のすり替えです。語っているのは政教分離という定義を、憲法のなかでどう捉え成文化するかという視点のはずです。 >政治史上、矛盾することが多く、それに制限を加えるべきとするのが私の考え方です。 これは、決して交わることのない平行線のようですね。 >ありえない事はないですよ。 >他国は他国なので、それはそれで介入すべきではないと考えますが、宗教によって政体が依拠されている例は多くあります。 端的に指摘すればイスラムの価値観に国体の存在意義を依拠する国家を指していると考えますが、語っているのは我が国の憲法についてです。 それに、イスラム法に依拠していて王政を政体とする国家では、王を凌駕する権威がイスラム法に与えられています。したがって中世において王に絶対権力者の権威と権力を与えた王権神授説に依拠するものとは明らかに異質な政体です。 サウド家のアラビアと標榜するサウジアラビアでさえ、メッカやメジーナなどの聖地の守護者としての権威をサウド家に与えているに過ぎません。 そういった国々でも、一部分ではあるが選挙を通じた選良の選出を始めていて、統治の実権は徐々に選良による会議に移されている現実がありますよ。数十年単位の時間は必要でしょうけれど。 >では、我が国に特定宗教が民族としての存在理由になる風土だと? 論点を拡大させないで下さい。 ここで論じているのは、政治勢力結成の過程において、宗教的価値観に基づく「個の選択」の集合を憲法の規定で禁じるかどうかという論点であったはずです。 >まぁ、宗教という側面から考えれば、民族としての存在理由は皇室祭祀に行き着くでしょうが、それを政治権力に結び付けることは国民の多くが否定的ですよ。 >右翼でさえ政治利用するなと主張していますから(大日本愛国党)。 従って、この例示も不適切です。 >思想信教の自由に制限を加えるのではなく、その実行においてですよ。 同義ですよ、認めるならばいかなる次元であったとしても「公序良俗」に反しない限り制限してはならないという原理原則が存在しませんか。 >別段、思想新疆の自由の範囲においては「乙女のいけにえが必要」とかも自由なんですが、実行したら犯罪なのと同じ。 この例示も極端な例示で本来の論点からはずれていますよ。 極端な例示による印象操作であると指摘させていただきます。 >私は宗教団体が設立してはならないといっているだけで、信仰を持つ人らが政党を設立することを否定しているわけではありません。 つるみさんは明確に否定していますよ、要は「鶏が先か、卵が先か」の不毛の論理です。 憲法に定義するのであれば、個々の事情などを斟酌すべき規定てあってはならないはずです。 信仰を持つ人々が「個の選択」の集合体として宗教団体を設立し、宗教的価値観に基づいた「個の選択の集合」により政治的勢力の結成をし統治に影響力を行使しようとした。 これを禁ずるというのであれば、「ある特定の価値観を持つ個の選択」を否定しているのと同義です。 >「宗教目的を政治権力によって行使することを防ぐ」事を第一義に考えています。 >腹を割って話をすれば、創価学会のようなものを二度と出さない、という決意なんですよ。 私は創価学会と公明党のあり方を無制限に肯定するつもりはないと表明していますよね。 但し、特定の団体の存在を否定するために憲法に定義するというのは「後先が逆」ですよ。 原理原則を定義するのが、最高法規である憲法です。 ある特定の宗教団体が「公序良俗」の範囲を逸脱したというのなら、下位にある破防法などのような法律で規制すべきであると主張しているのです。 閑話休題 保守系投稿者同士の憲法についての議論が、この掲示板で行われるという珍しい事になりましたねぇ。 お互いの観点や、主張の違いも明確になったと考えますので、そろそろ潮時なんでしょうね。 「論理を憎んで、論敵を憎まず」という一貫した姿勢で対応された「つるみさん」に敬意を表します。 ありがとうございました。 |
▼つるみさん: どうしていいのかわからないので、前のスレッドでのご投稿をコピーして貼り付けました。申し訳ありません。 (昭和22年憲法によって統治されていたのは事実ですから、その「事実」の枠内で自らこれは無効だと決議して、その上で国会で昭和22年から無効決議を勝ち取るまでの間、これが機能していたことを追認する(国民大衆の意思として)ことで解決すると思います。) 無効な憲法によって統治されてきた、これは「事実」である、というご趣旨であるならば、国会そのものも無効であるが、昭和22年以降国会の諸活動は事実として認める、ということになります。そして国会決議も事実として認めるが、無効である、という論理にならざるを得ません。 突然、無効な国会が有効な決議ができるようになるとは思えません。 |
▼進化する未老人さん: >無効な憲法によって統治されてきた、これは「事実」である、というご趣旨であるならば、国会そのものも無効であるが、昭和22年以降国会の諸活動は事実として認める、ということになります。そして国会決議も事実として認めるが、無効である、という論理にならざるを得ません。 > >突然、無効な国会が有効な決議ができるようになるとは思えません。 いや、追認することと無効であることの間には大きな差があります。現状論として変わらなくても。 「この間、法的に無効ではあるものの22年憲法で国家が統治されていたことは事実なので、これを追認し、これをもって追認期間を終了する。新憲法制定までは暫定憲法として一部を除く(改憲に関する条項)22年憲法を流用する」という手続きで結構なのではないかと。 今日は遅番ゆえ、これから出勤です。深夜に戻ります(日曜は道がすいていてラクだナァ)。 |
▼つるみさん: >▼進化する未老人さん: >>無効な憲法によって統治されてきた、これは「事実」である、というご趣旨であるならば、国会そのものも無効であるが、昭和22年以降国会の諸活動は事実として認める、ということになります。そして国会決議も事実として認めるが、無効である、という論理にならざるを得ません。 >> >>突然、無効な国会が有効な決議ができるようになるとは思えません。 >いや、追認することと無効であることの間には大きな差があります。現状論として変わらなくても。 >「この間、法的に無効ではあるものの22年憲法で国家が統治されていたことは事実なので、これを追認し、これをもって追認期間を終了する。新憲法制定までは暫定憲法として一部を除く(改憲に関する条項)22年憲法を流用する」という手続きで結構なのではないかと。 > >今日は遅番ゆえ、これから出勤です。深夜に戻ります(日曜は道がすいていてラクだナァ)。 くどいようで、申し訳ありませんが、つるみさんのお説は説得力を欠きます。 「無効行為の追認」という法理はありえます。この場合、効果としては、追認時から有効または追認によって遡及的に有効となるだろうと思います。 つるみさんのお考えに従えば、追認によって現行憲法は1947年から有効となります。 ただ、無効な国会の決議は、すべて無効であるはずですから、残念ながら追認によって遡及的に有効となることもありません。 さらに問題は、法的に無効か否かを最終的に決定する権限は司法にのみあり、立法府にはない、というのが自由主義的な考え方です。 そして司法を担うわが国の裁判官は「この憲法に拘束され」ています。(76条3項) 結局、現行憲法の法的無効を法的枠組みの中で確認することはできません。 つるみさんの「22年憲法・法的無効」論は、単なる政治的主張にすぎません。 現行憲法が法的に有効であることは全く疑いの余地のないものです。 |
▼進化する未老人さん: >くどいようで、申し訳ありませんが、つるみさんのお説は説得力を欠きます。 > >「無効行為の追認」という法理はありえます。この場合、効果としては、追認時から有効または追認によって遡及的に有効となるだろうと思います。 いや、法を追認するのではなく行為の追認です。その違いが貴兄と私の立ち位置の違いでしょう。 >ただ、無効な国会の決議は、すべて無効であるはずですから、残念ながら追認によって遡及的に有効となることもありません。 > >さらに問題は、法的に無効か否かを最終的に決定する権限は司法にのみあり、立法府にはない、というのが自由主義的な考え方です。 >そして司法を担うわが国の裁判官は「この憲法に拘束され」ています。(76条3項) それは、詭弁ですよ。22年憲法が有効と考えるから76条が問題になるのです。 >現行憲法が法的に有効であることは全く疑いの余地のないものです。 何に依拠していますか? 日本国民に依拠できないことは既にお話しましたが。 それとも帝国憲法の改定による欽定憲法と捉えますか。 そうすると文面に矛盾が出ますね。 |
▼つるみさん: >▼進化する未老人さん: >>くどいようで、申し訳ありませんが、つるみさんのお説は説得力を欠きます。 >> >>「無効行為の追認」という法理はありえます。この場合、効果としては、追認時から有効または追認によって遡及的に有効となるだろうと思います。 >いや、法を追認するのではなく行為の追認です。その違いが貴兄と私の立ち位置の違いでしょ 何度申し上げたらお分かりいただけるのでしょうか。 法的に無効な憲法によって組織された国会は存在それ自体が無効です。 したがってその「国会」のあらゆる行為は無効です。 憲法の追認であろうと、行為の追認であろうと同じです。 >>ただ、無効な国会の決議は、すべて無効であるはずですから、残念ながら追認によって遡及的に有効となることもありません。 > >> >>さらに問題は、法的に無効か否かを最終的に決定する権限は司法にのみあり、立法府にはない、というのが自由主義的な考え方です。 >>そして司法を担うわが国の裁判官は「この憲法に拘束され」ています。(76条3項) >それは、詭弁ですよ。22年憲法が有効と考えるから76条が問題になるのです。 > 司法も当然つるみさんの論理では無効です。しかし、それでは法的無効を決定する機関はどこにあるのでしょう。 結局、つるみさんとお仲間が法的無効を宣言するということになりませんか。 もちろん、司法が法的無効を決定する最終的権限があるという論理を否定するのであれば、その論理を教えてください。 もちろん、ソビエト革命の初期、すべての行為を「革命的適法性」の論理で合法化した例はあります。つるみさんがその立場にたつのであれば、もう議論しても意味はありません。 >>現行憲法が法的に有効であることは全く疑いの余地のないものです。 >何に依拠していますか? >日本国民に依拠できないことは既にお話しましたが。 少なくとも、この掲示板に来ているほとんどすべての人が日本国憲法を支持していることはあなたもご存知の通りです。 つまり日本国民である我々がこの憲法を支えています。 >それとも帝国憲法の改定による欽定憲法と捉えますか。 >そうすると文面に矛盾が出ますね。 私の申し上げたことがよくご理解いただけないようで残念です。 日本国憲法は、形式的には明治憲法の改正手続きをとっているが、実質的には新憲法の制定である、と言うことです。 根拠については前に申し上げました。 |
皆さん:こんばんは。 横レスごめんなさい。 「政治」:「この世」の人々の倖せのために「利害の調整」を行うもの 「宗教」:「あの世」でこの世の「不幸などは決済?できる」と人に説くもの ではありませんか。 「この世(此岸)」と「あの世(彼岸)」は、断絶、隔絶しています(何方か、往来した方居られます?)。 従って、「政(治)」と「(宗)教」分離などは、当然のことと思うのですが。 どこか間違っているのでしょうか。 失礼致しました。 |
横レス失礼します。 ▼とうろうさん: >従って、「政(治)」と「(宗)教」分離などは、当然のことと思うのですが。 > >どこか間違っているのでしょうか。 政教分離とは、そもそも西洋の概念でして、 一般的に英訳では「Separation of Church and State」です。 すなわち、「政府と宗教団体の分離」なのです。 これは、仏訳、独訳でも同一です。 ちなみに、政教分離の原則を憲法に規定している国というのは それ程多くないというのが実情のようです。 |
▼とうろうさん: こんばんは。 >「政治」:「この世」の人々の倖せのために「利害の調整」を行うもの >「宗教」:「あの世」でこの世の「不幸などは決済?できる」と人に説くもの > >ではありませんか。 政治の定義はそのとおりです。 しかし、宗教は現世をあきらめたものではありません。 その証拠に、自殺を奨励する宗教はありません。 教えにはいろいろな種類があります。この定義のような教えの(浄土宗系統はこのような教えですね) しかし、どのような教えであろうと、それは現世を幸せ(あるいは無難)に過ごすためのものなのではないでしょうか。 また、仏道修行の目的の一つに、慈悲の心をもつというものがあります。 慈悲という概念は説明しにくいのですが、人の苦を自分の苦のように感じる、ということらしいのですが、そういう慈悲の心をもった人間が政治を行えば、よい政治をする、ということを信じて、政党をつくるのもあながち否定されることではないでしょう。 失礼しました。 |
とうろうさん、こんにちは。 >「政治」:「この世」の人々の倖せのために「利害の調整」を行うもの >「宗教」:「あの世」でこの世の「不幸などは決済?できる」と人に説くものではありませんか。 >従って、「政(治)」と「(宗)教」分離などは、当然のことと思うのですが。 >どこか間違っているのでしょうか。 間違っているというより、見方の違いでしょうね。 私は私の信仰を以下のように考えていますし、難しいながらも躓きながら実践を試みる日々を送っています。 信仰を持つ者に至るには自身が持つ「欲望」と正面から向かい合う葛藤と戦う過程が必須だと思います。無論、これは肉体の滅びである「死」を迎える時まで続きます。 その上で自身の弱さ(欲望に対して)を認識しているから、「今日を生きる指針」である聖書や仏典を読みそこに書き表されている「真理」に触発されて、弱さを克服し心安らかに正しく生きるという試みが信仰と伴に生きるということなのでしょう。 そういう意味で、仏像やキリストあるいは聖母マリアの彫像は崇拝の対象ではないと考えています。 そこに形として表された「畏怖すべき真理」への窓なのでしょうね。 イスラム教のようにその窓でさえコーランにより心の中に形作れと問う厳しい宗教も存在するけれど、その存在理由の根底に違いはないと考えています。 信仰の原点は、肉体の滅びである「死」後に、精神(魂)の永続を信じるかどうか。 この一点につきると考えています。 ちょっと横道にそれますが、世の中には唾棄すべき存在の生臭坊主や、性的におかしくなってしまった牧師も存在しますよね。 もともと聖人君子なんて存在しない。 全ての生ける人々は、「己の欲望」というものに振り回される小人であるし俗人であるということ。 この前提が信仰の始点だと思います。 だから、俗世の智慧、所謂「世間智慧」に長け、わかりやすく面白おかしく仏典の「真理」を語り正しく人々を導く「あまつさえ大酒飲みで妾持ちの生臭坊主」がいたりします。 それに、銃を手に戦う牧師やイスラム教の宗教指導者もいるということ。 これらの存在と信仰に矛盾が存在しない理由でもあるのかもしれません。 これを「宗教的寛容の始点」とでも呼べばいいのかな。 「人は愚かしく弱いものだ。」 この前提は無条件に正しいと考えます。 私は、この前提を受け入れて「今日どう生きるべきか」の指針を宗教に求めています。 誤解されてはいけないので、他の宗教に対する考え方を述べておきます。 どのような宗教であれ、その基本に感謝があれば否定しません。 「現世の御利益」をうたう宗教には否定的ですけれど。 何故かというと、違う窓(宗教や宗派の違い)から見ているに過ぎず【見つめている真理】に違いがあるとは思えないからです。 仏教でのお葬式、さらには七五三や初詣等の「儀式」で十字を切るような馬鹿な真似はしませんし、その場所での作法に従うのは、「作法や振る舞い」あるいは「目に見える信仰の対象」が違っていても畏怖すべき対象は同じものであるという認識があるからです。 私がつるみさんに「政教分離」という一点で異議を唱えたのも同じ理由によります。 憲法という国家の原理原則で否定してはならず、尊重されるべき「多様な価値観」の否定と同義であると捉えたからでもあります。 特定のイデオロギーを否定して、例えば「共産主義を憲法により否定する論旨」であったとしても、同じ根拠を持って異議を唱えていたと思いますよ。 私個人は、完璧に「共産主義」を否定していますし、むしろ「社会に対する害毒」であるとすら考えていますけれど、それとこれとは別の次元の話です。 考え方の近い「つるみさん」であったとしても、誤りは誤りだと考えますから。 【是々非々】ということです。 失礼いたしました。 |