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 ▼戦争体験を語って下さい2  珠 05/2/24(木) 0:32
   ┣佐藤圭さんの戦争体験  珠 05/2/24(木) 0:35
   ┣北の老兵さんの戦争体験 軍馬の思い出  珠 05/2/24(木) 0:38
   ┣珍 源斎さんの戦争体験  珠 05/2/24(木) 0:41
   ┣ビーンズきしさんの父の戦争体験  珠 05/2/24(木) 0:45
   ┣佐藤圭さんの戦争体験2  珠 05/2/24(木) 0:49
   ┃  ┗Re(1):加藤周一60年前東京の夜  佐藤 圭 05/3/24(木) 21:26
   ┃     ┗Re(2):加藤周一60年前東京の夜  ぎみゆら 05/3/25(金) 10:07
   ┣こころさんの戦争体験  珠 05/2/24(木) 0:52
   ┣珠の両親の戦争体験  珠 05/2/24(木) 0:58
   ┣大河 一滴さんの戦争体験  珠 05/2/24(木) 1:04
   ┣ほいさんの義父(被爆二世)の戦争体験  珠 05/2/24(木) 1:07
   ┃  ┗健太郎の母の戦争体験  健太郎 05/3/2(水) 22:40
   ┣「無言館 遺された絵画展」を見て  ぎみゆら 05/3/4(金) 12:30
   ┃  ┣Re(1):「無言館 遺された絵画展」を見て  パンドラ 05/3/9(水) 19:13
   ┃  ┃  ┗Re(2):「無言館 遺された絵画展」を見て  ぎみゆら 05/3/9(水) 21:42
   ┃  ┗Re(1):「無言館 遺された絵画展」を見て  悠々 05/3/16(水) 19:24
   ┃     ┗Re(2):「無言館 遺された絵画展」を見て  ぎみゆら 05/3/22(火) 20:13
   ┣お久しぶりです  ごまめの翁 05/3/9(水) 20:30
   ┃  ┣Re(1):お久しぶりですごまめさん  k・satou 05/3/9(水) 21:15
   ┃  ┗Re(1):お久しぶりです  佐藤 圭 05/3/9(水) 21:45
   ┃     ┗本当にお久しぶりです  ごまめの翁 05/3/10(木) 18:25
   ┃        ┗Re(1):本当にお久しぶりです  佐藤 圭 05/3/10(木) 18:48
   ┣井上俊夫さんのHPです  ごまめの翁 05/3/12(土) 8:27
   ┃  ┗Re(1):井上俊夫さんのHPと本  珠 05/3/12(土) 23:33
   ┃     ┗井上俊夫さんのHPです  ごまめの翁 05/3/13(日) 11:05
   ┃        ┗Re(1):井上俊夫さんのHPです  宮天狗 05/3/13(日) 13:22
   ┣Re(1):伝え聞く戦争の無惨!  珍 源斎 05/3/13(日) 20:17
   ┣「君死にたもふことなかれ」  ごまめの翁 05/3/15(火) 8:14
   ┃  ┣Re(1):「君死にたもふことなかれ」  佐藤 圭 05/3/15(火) 12:47
   ┃  ┗Re(1):「君死にたもふことなかれ」  ぎみゆら 05/3/15(火) 19:57
   ┣Re(1):戦争体験を語って下さい2  ごまめの翁 05/3/17(木) 20:23
   ┣[管理者削除]   
   ┃  ┗削除します  管理スタッフ 05/3/19(土) 2:31
   ┣Re(1):戦争体験を語って下さい2  役立たず隅の隠居 05/3/19(土) 20:12
   ┣Re(1):戦争体験2 現在進行形としての戦争体験  MNG 05/3/20(日) 14:55
   ┣Re(1):戦争体験を語って下さい2  ごまめの翁 05/3/21(月) 7:52
   ┣Re(1):戦争体験を語って下さい2  ごまめの翁 05/3/21(月) 8:23
   ┃  ┗Re(2):戦争体験を語って下さい2  佐藤 圭 05/3/21(月) 20:11
   ┃     ┣Re(3):戦争体験を語って下さい2  数理梵哲 05/3/21(月) 20:51
   ┃     ┣Re(3):戦争体験を語って下さい2  王里 05/3/21(月) 21:41
   ┃     ┣Re(3):レスありがとう戦争体験を語って下さい2  佐藤 圭 05/3/21(月) 22:25
   ┃     ┗『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』  ぎみゆら 05/3/23(水) 17:15
   ┣Re(1):日米戦争を止めようとした努力があった。  珍 源斎 05/3/21(月) 10:27
   ┣Re(1):戦争体験を語って下さい2  役立たず隅の隠居 05/3/21(月) 11:12
   ┣Re(1):戦争体験を語って下さい2  とうろう 05/3/21(月) 22:08
   ┃  ┗Re(2):戦争体験を語って下さい2/語句訂正  とうろう 05/3/21(月) 22:16
   ┣Re(1):戦争体験を語って下さい2  ごまめの翁 05/3/23(水) 8:35
   ┃  ┗Re(2):戦争体験を語って下さい2  ごまめの翁 05/3/24(木) 19:20
   ┃     ┗Re(3):戦争体験を語って下さい2  MNG 05/3/25(金) 18:58
   ┗Re(1):戦争体験を語って下さい2  必見です  ごまめの翁 05/3/25(金) 15:17

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 ■題名 : 戦争体験を語って下さい2
 ■名前 : 珠
 ■日付 : 05/2/24(木) 0:32
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   1のスレッドが、憲法論等混じってしまいましたので、戦争体験を語って下さった方のものだけ、採録します。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 佐藤圭さんの戦争体験  ■名前 : 珠  ■日付 : 05/2/24(木) 0:35  -------------------------------------------------------------------------
   私は昭和一桁生まれで兄、叔父、従兄弟 各々 満州引き揚げ、同じ職場の同僚は帰国できずシベリア抑留、私自身は空襲爆撃、焼夷弾にあい、兄は特攻隊 など等の語りたいこと、(自分の戦争体験と同僚、特に2〜3年先輩の死と体験談)が山ほどあります。
体験者がガンや老齢で毎年亡くなっていきます。私も 生きている間に、ボケないうちに 戦時中のこ戦後の飢えの苦しみとを 子供とまた孫に伝えていきたい。
また同僚、先輩(特にシベリヤ抑留、満州など中国東北からの引揚者、関東軍の生き残り、東京空襲、広島、長崎原爆 体験者)にも薦めています。
今の仕事をリタイヤしたら書き残そうと考えています。
今 強く感動(同感、そうだ、そうだと)したので とりあえずレスします。
今後 老人党の掲示板で体験的に護憲9条を叫んでいきたいと考えます。
早々、昭和ひとけた生まれの 佐藤 圭です。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 北の老兵さんの戦争体験 軍馬の思い出  ■名前 : 珠  ■日付 : 05/2/24(木) 0:38  -------------------------------------------------------------------------
   戦争を知る世代はどんどん少なくなり、体験談を聞く機会もなくなりました。私がまだ青二才の頃、一時農業共済組合にいた事があります。そこにいた獣医から(確か50歳は超えていたと思う)聞いた話は今でも忘れません。折りしも北海道新聞で「軍馬の涙」という、私が聞いた話とほぼ同様の特集記事が載っていました。

軍馬の悲惨さはあまり語られる事はありませんが、人間ばかりじゃなく馬も悲しい運命があったのです。当時「兵隊は消耗品、馬は貴重品」とよく言われたそうです。軍隊では兵隊は1銭5厘のはがき一枚で召集されましたが、馬は数百円もし、馬の方が価値があるとされたのです。

馬産地、北海道には当時、「軍馬補充部」ありました。軍馬補充部とは馬を育て軍馬として調教する施設の事です。馬はご存知のように非常に利口な動物です。また貴重な動物ですから、精一杯の愛情を受けて育てられたと言います。

いざ戦地に送られる時、馬は感ずるのか悲しい目をして、軍服をかじり離さないのだそうです。(※私も経験あります。伝貧という伝染病にかかったとき、注射によって「法令殺」にされますが「馬捨て場」に連れて行こうとするとき、悲しい目をして涙を流し抵抗するんです。今でも忘れません)

食べ物も水も少なく、おまけに酷い暑さの中を、いう事を聞いて二トンもの砲を引く姿に、満州を行軍した兵士にとって戦友そのものだったといいます。

人間ですら「生きて帰って来い」と言ってはいけない時代。まして軍馬は、戦地に赴け二度とふるさとの草をはむことがないのです。

「馬だって好きで戦争に来ている訳じゃない。ふるさとで家族と一緒に畑仕事をしているほうが、どれだけ幸せか。満期除隊み、復員もなく、骨も帰れない馬がふびんだった」として、戦友の遺骨と共に軍馬の骨を見つけて帰った人がいます。

私に話をしてくれた獣医さんも、その話をするときは遠くを見つめ、悲しそうな顔をして話をしてくれました。

戦争でいい思いをするのは、本のごく一部の「政商」といわれる人間、戦争は常に、なんの関係ない弱いものたちが大勢死ぬのです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 珍 源斎さんの戦争体験  ■名前 : 珠  ■日付 : 05/2/24(木) 0:41  -------------------------------------------------------------------------
   戦争の悲惨さと実態を知らぬ人、自分が直接弾丸に当たったり吹き飛ばされて命を失う事を想像できない人、かけがえの無い家族を戦争で失うことをイメージ出来ない人も多くなり、あまつさえ戦争の勇ましさや軍事オタクと云われる若者はじめ懲りない面々が増えてることは「ある種危機感さえ覚えます」

かく言う私もかつての「軍国少年」で七・五・三の祝いの写真に海軍士官の格好で写した写真があるくらいです。

その「軍国少年」が空襲で周りが火の海の中を逃げまどった記憶と今でもサイレンの音を聞くと空襲の記憶が甦り身震いを覚えるほどです。

戦争で悲惨な目に遭うのは弱い者子供たちです。上野駅に続く地下道に戦災孤児が悲しそうな目をして大勢いたのもハッキリと覚えてます。

社会に出てからゼロ戦の操縦士であった方の薫陶を得る機会がありましたが、神風特別攻撃隊の護衛機に操縦士としての体験をお聞きしましたが、若くして死と直面せねばならなかった人たちの実態には美談として祭り上げるのに余りにも悲しい「哀しい」ことであったそうです。その苦悩を消すために「ヒロポン」なる覚醒剤がその当時使用されてたことは良く知られてます。

少し話は逸れますが・その方の話で戦後昭和29年になり日本人も空を飛ぶことが許されることになり、日本人のパイロットを再び育成の為に中古の練習機をアメリカ人より買い受けるための下調べでその機体のエンジン部分をみて「ぞ〜と」したそうです。相当古い機体にも関わらずエンジン部分にはオイル漏れもなく黒光りしてたとのこと・・思えば当時、新鋭の零戦でも操縦席にも時として漏れたオイルが伝わってきたほどでエンジン部のオイルもれは酷かったそうです。

この事はアメリカの工業力の基本を示すもので、こんな国を相手によく戦争をしたものだ・・と云うことに話は繋がる訳です。

話は戻りますが、現代の戦争は核や大量破壊兵器の出現により勝者も敗者も無い戦争が目に見えてます。戦争の形もイラク現状のように終点が見えにくい形になり、一旦戦争になれば取り返しのつかない悲惨な結果を招きますので戦争は絶対避けると云う強い意志の力が・・今ほど大切な時期はないのではないかと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : ビーンズきしさんの父の戦争体験  ■名前 : 珠  ■日付 : 05/2/24(木) 0:45  -------------------------------------------------------------------------
   前略 老人党員の皆様、ぜひ戦争体験をお聞かせ下さい。私の父親は昭和4年生まれ、終戦が一年遅ければ体験者・・・いや、この世にいなかったかも知れません。ついでに、わたしも。

その父親から生の声で聞けるのは、尋常小学校で軍人の先生が日本刀で鉛筆を削っていた話と、焼夷弾の雨に降られた話のみです。

ぜひ、皆様のお話を読ませて下さい。このスレッドが賑わえば、「自分は戦争はキライだけど、戦争は否定しない」みたいな方々は言葉を失うはずです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 佐藤圭さんの戦争体験2  ■名前 : 珠  ■日付 : 05/2/24(木) 0:49  -------------------------------------------------------------------------
   昭和20年3月の東京空襲は 米軍B29による波状焼夷弾落下で1回2時間で約20万人の死傷者を出す悲惨極まりない惨劇であった。火災で逃げる多くの人を目がけ低空から数十機で爆弾を落とすので荷物、着物まで焼いた。本所、深川、浅草、日本橋など隅田川周辺の木造住宅を焼き尽くした。下から見るとB29の腹から爆弾がでてくるのがよく見えた。

この状況は後にこの辺に住んでいた早乙女勝元さんによって克明に報告されている。「東京が燃えるー戦争と中学生」岩波ジュニア新書でみることができる。 直後の写真、体験のみでなく、後で彼が調査した実態がリアルに描かれている。

人の骨まで焼き残らず灰だけになった電話交換室、消防署などの死人数を確認するのに残った鉄兜、がま口の金物(当時1人1個もっていた)で死人数を確認したことが報告されている。

またこの実態は焼け跡作家の野坂昭如作品の「火垂る(ほたる)の墓」が感動的に描かれている。アニメ独特の映画がある。ぜひ見て欲しい。

戦争の被害、非人間的体験、文字、言葉では表現できない惨事が多い。戦争被害体験で戦地でのことは話題になるが私は東京など内地(特に都市部)の苦しみ、毎日、毎晩のような空襲警報、(電灯の周囲を黒の布で包み外に光が見えないようにする)食べるものが無くいつも腹へってひもじい、勤労動員で中学(旧制)など学校は生徒がいないなど等が以外と伝わっていないのではないか。

沖縄、広島、長崎は生き残り者によってまた多くの著書、作品で知られ、南方戦線も戦後よく語られているが内地の普通の生活者の戦争被害が語られていないと思う。また次回語りますが疎開先の田舎での生活も悲惨なものでした。

消防隊、隣組は守ってくれたが軍隊は住民を守ってくれなかったのが事実。満州、沖縄では軍隊は先に引き揚げている実態など。

もう戦争はごめんです。そのために「護憲9条」は自衛など理屈に妥協はしません。
戦争前後の体験を語ることは平和と護憲9条に直結します。どうぞ 老人党の皆さん1940〜1950年(戦争前後)をもう一度想いだして、語りましょう。嫌でしょうが。自分で見た文献、作品の紹介も是非 出し合いましょう。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):加藤周一60年前東京の夜  ■名前 : 佐藤 圭  ■日付 : 05/3/24(木) 21:26  -------------------------------------------------------------------------
   今日の朝日夕刊「夕陽妄語」・加藤周一の「60年前東京の夜」を今読んだ。
私の体験、書き込みと重なる。最後の文章を引用して同感を伝いたい。
「もし私が3月10日に焼夷弾の降る東京の真中の病院にいなかったら(彼は医者です)、あれほど強い被害者との連帯感は生じなかったろう。
もしその連帯感がなければ、なぜあれほど悲惨な被害者を生み出した爆撃、爆撃を必然的にした戦争、戦争の人間的・社会的・歴史的意味についての執拗な関心はおこらなかったろう。、、、しかし戦争についての知識がなければ、、反大量殺人、反戦争は、「この誤ちを2度とくり返さない」ための保障にはならぬだろう、、」
(以上引用)
これが戦争体験者 加藤周一を九条の会へ引っ張り出すのだろうと思う。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):加藤周一60年前東京の夜  ■名前 : ぎみゆら <gimiyura@fox.dti2.ne.jp>  ■日付 : 05/3/25(金) 10:07  -------------------------------------------------------------------------
   佐藤圭さん、こんにちは。


> 今日の朝日夕刊「夕陽妄語」・加藤周一の「60年前東京の夜」を
> 今読んだ。私の体験、書き込みと重なる。最後の文章を引用して
> 同感を伝いたい。
> 「もし私が3月10日に焼夷弾の降る東京の真中の病院にいな
> かったら(彼は医者です)、あれほど強い被害者との連帯感は
> 生じなかったろう。
> もしその連帯感がなければ、なぜあれほど悲惨な被害者を生み
> 出した爆撃、爆撃を必然的にした戦争、戦争の人間的・社会的・
> 歴史的意味についての執拗な関心はおこらなかったろう。、、、
> しかし戦争についての知識がなければ、、反大量殺人、反戦争は、
> 「この誤ちを2度とくり返さない」ための保障にはならぬだろう
> 、、」
> (以上引用)
> これが戦争体験者 加藤周一を九条の会へ引っ張り出すのだろうと
> 思う。

私もこの「夕陽妄語」、読みました。

実体験と当事者感情、並はずれた深い見識と知性、その両者が結び
ついた、加藤周一氏の真骨頂と言いたくなる切れ味。佐藤圭さんは、
戦争世代としての同感をおっしゃっていますが、私のような戦後
生まれの者にも、お腹の底に響くような、重みのある文章でした。

昨日、2005年3月24日付け朝日新聞夕刊です。お読みになれる
方は、いまからでも、ぜひ読んでいただきたいと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : こころさんの戦争体験  ■名前 : 珠  ■日付 : 05/2/24(木) 0:52  -------------------------------------------------------------------------
   昭和19年、大阪は危険だと言うことで、わたくしは9歳で縁のあまり濃くない親類のところへ疎開いたしました。

疎開先で大阪空襲を知らされ、その後ずいぶんたってから空襲で母が死んだことを知りました。疎開先は農家であったせいか大阪にいた頃よりもひもじい思いをせずに済みましたが、やはりいつも腹を空かせていた思い出ばかり浮かんできます。

父は出征先で病死いたしましたので、大阪にいた頃も貧乏ではありましたがそのころはまだそれほど切迫した思いはなく、平凡な日々を暮らして居ったのですが、疎開する頃くらいから町中の雰囲気も学校の雰囲気も変わってまいりまして、戦争なんだなあと子供心に感じておりました。

戦争が終わりしばらくたって大阪へ帰されたのですが、それから先の事柄は他人様はおろか、わが子にも話す気にはなりません。惨めでもありますし、わたくしの下手な物言いではとうてい理解してもらえないでしょうと思います。

戦争の体験とは言えぬ程度の話で恐縮ですが「あの戦争がなかったらなあ」それだけをいまだに強くおもいます。戦争について語ることは簡単ですが思いを伝えることは難しいものです。
小難しい、小賢しい、知ったかぶりの戯れ言にはあきれてものも言えませんし、そういう者達に言うて聞かせてやる気持ちもありません。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 珠の両親の戦争体験  ■名前 : 珠  ■日付 : 05/2/24(木) 0:58  -------------------------------------------------------------------------
   母からは、空襲の火の中を濡らした布団を被って逃げた話をよく聞きました。

父は飛行機が低空飛行して来て機銃掃射を受け、溝に飛び込んでかろうじて助かったこと。特攻隊を志願して部隊を抜けたら、その部隊が南方に行って、ほとんど全滅してしまい、特効で死ぬはずの自分が生き残ってしまったことをよく聞きました。

町の亡くなった人を記念した石塔のある小さな公園を、戦争に出征した町の人たちと毎月掃除していましたが、皆年老いて、今では父1人で掃除を続けています。父の学友の3分の1は戦争で死んだそうです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 大河 一滴さんの戦争体験  ■名前 : 珠  ■日付 : 05/2/24(木) 1:04  -------------------------------------------------------------------------
   はじめて投稿させていただきます。
私はこの目で広島の原子爆弾を見ました。20日ぐらい後、宇品から広島駅まで焼け野原を歩きました。まだ被災者もおられ、悲惨なものでした。あのピカという閃光と原子雲が今も網膜に焼き付いたままです。

大阪の市内にいて3月の大空襲も受けました。空一面から火が落ちてくる下にいましたので、今でも花火大会を近くで見ると当時の光景が蘇って来ます。死んだ友人もいました。

原爆や空襲の悲惨さ、非人間性などのついては多くのことが語られていますが、外国では、その悲惨さは理解してくれても、戦争には反対だが、日本が起こした侵略戦争があの原爆のおかげで早く終わったのだから仕方がないという意見も出ます。日本では加害者意識がますます薄くなっていっています。

都市の無差別爆撃は、「渡洋爆撃」「重慶爆撃」などと子供の時に、皇軍のかっかくたる戦果として聞かされましたが、日本が先にやっているのです。有名な「南京事件」の南京陥落の時も、私たちは旗行列をして喜んだものですが、当時の大人たちの中には、チャンコロ何人切りだの、自分で穴を掘らせてその前で銃殺しただの、銃剣でついて殺しただの、自慢話として話している人がいました。

当時は中国人といわず、支那人というのが普通でしたが、喋るときはチャンコロ、鮮人、チョウセンなどと言われることが多く、皇軍に刃向う匪族、馬賊、便衣隊は敵だから、殺して当たり前だったのです。そう言われていました。
 
中学校の授業には教練があり、立てかけた藁人形を銃剣で突き刺す訓練をさせられ、そんなやり方では敵は殺せんぞと怒られたものです。

そんなことから考えると、「南京事件」は殺された人数が何人であったにしろ、普通の市民を巻き込んだ虐殺があったことは間違いなかろうと私は思っています。イラク戦争を見ていても、都市の占領時には市民の抵抗があるのが当然だし、市民と敵兵の区別がつくわけではなく、怪しい者はこちらの安全性を見越して虐殺しなければ、こちらがやられることになりかねません。戦争はそういうものですし、日本が中国に侵略して、大勢の市民が住んでいる南京を占領したことは紛れもない事実なのです。

沖縄の戦闘が如何に過酷なものであったかを思い出すたびに、戦場になった中国の人たちの苦しみもどんなであったかを想像することができます。

原爆や空襲の被害を語り継ぐ時に、日本が中国や朝鮮半島の人たちに加えた罪悪にも思いを馳せてこそ、世界の人の共感が得られ。ともに戦争に反対しようという共通意識が育つのではないかと思います。それでこそ、原爆の碑にある「あやまちは二度と繰り返しません」という誓いも人類全体の共通な願いとなるでしょう。

私たちが原爆や空襲を語り継ぐ時、朝日新聞の天声人語の受け売りですが、ドイツのノーベル賞受賞作家ギュンター・グラス氏の言うように「私たちドイツ人が始めた。まず、英国の都市を爆撃した。しかし、ドレスデンへの爆撃もまた罪だ」という立場に立つことが大切だと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : ほいさんの義父(被爆二世)の戦争体験  ■名前 : 珠  ■日付 : 05/2/24(木) 1:07  -------------------------------------------------------------------------
   この話は私がユナイテットデフェンスというホームページの掲示板にて90式改というハンドルネームで書き込んだ文章です。
----------------------------------引用開始
今月2日に実家(市内で3キロしか離れていないけど)へ帰って母の再婚相手(ちなみに被爆二世)の話を聞いてきました。
母の再婚相手の両親は広島に原爆が投下された後の10日に広島に行き、被爆しました。その際、橋に裸で縛られて殺害されたアメリカ軍捕虜を見たそうです。
捕虜は8人いて4人は原爆で即死、2人は橋に縛られて被爆者が投石して殺害、2人が本国に戻ったそうです。私はその話を聞いて胸が痛みました。
正月早々こんな書き込みをして申し訳ありません。
-----------------------------------引用終了
そしたら、http://www.chugoku-np.co.jp/abom/97abom/sarugaku/970728.htmlに詳しく載っていました。どうも米軍捕虜は約23人が被曝死、6人が橋に縛られて殺されたみたいです。戦後生まれの私ですが、戦争の狂気を感じました。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 健太郎の母の戦争体験  ■名前 : 健太郎 <ponken@m8.dion.ne.jp>  ■日付 : 05/3/2(水) 22:40  -------------------------------------------------------------------------
   大正一桁生まれの母は、兄夫婦と、同居しています。
電話で話しましたが、解る範囲です。
挺身隊として、室蘭の近くに行かされたそうです。
列車から、スコップで石のようなモノを降ろし、かなり離れた工場に、一輪車で運ぶ作業だそうせす。雪の中での作業だったということです。
「石のようなモノて、石炭?」「違う。何か解らない。」
「それは、いつ?」「日本が戦争に負けた年の冬だ。」

察するところ、鉄鉱石を、運ばされていたのだろう。
嫁入り前の農家の娘達がほとんどだったという。


本日の北海道新聞「戦禍の記憶」シリーズです。
「こげていく戦友のの片腕じっと見つめていた」
「空腹、失いかけていた自制」
復員後に告白
「一緒に火の番をしていたおまえが横にいなかったら、死んだ者に手を合わせてちょうだいしていたかもしれない」
告白を受けたその戦友も「実は同じことを思っていた」とうちあけたという。

母もこの記事を既に、見ていました。
「今、テレビや、新聞を見ていると、母さんの若い頃と同じで、こんな風にならないかと心配している」
身体中、痛いところだらけの、母が、日本の先行きを心配しています。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 「無言館 遺された絵画展」を見て  ■名前 : ぎみゆら <gimiyura@fox.dti2.ne.jp>  ■日付 : 05/3/4(金) 12:30  -------------------------------------------------------------------------
   みなさん、こんにちは。


長野・上田に「無言館」のことを、ご存じの方もいらっしゃるかと
思います。戦没した画学生たちの絵画作品を集めて、1997年に開館
した美術館です。今年その展示作品の全国巡回展が始まり、いまは
東京駅そばの東京ステーションギャラリーで展示会を開催中です。
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/index.asp

私は昨日の午後見てきたのですが、たいへん印象深い展示でした。

無言館に展示されている絵を描いたのは、後に戦地に散る、東京美術
学校(現在の東京芸大)の学生たちです。絵を描くのが大好きで、
才能もあり、プロの絵描きを目指した若者たちが、兵役を前にして、
自らの死を、はっきりと、切実に、意識しながら描いた作品です。

今回の展示の最初には、「祖母の像」と題した老女の肖像画が飾られ
ています。自分が絵描きとして育ったのをことのほか喜んでくれた
バアチャンのことを、皺一本見逃すまいと丹念に描き込んだ絵です。
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/works.asp の上から5点め)

風景画や静物画等と並んで、婦人像、女性の絵が何枚もありました。
妹や姉。少女像。裸婦像。今も昔も、ヌード画は画学生の基本の一つ
ですが、自分の死を目前に意識した若者が描く裸婦像には、それだけ
では説明できない、もっと生々しい何かがあります。

立ち姿や、浅く腰掛けてすっと背筋を伸ばした女性の、若々しく、
張りのある乳房や、柔らかくて潔い、腰から脚にかけてのラインが、
いくつも描かれていました。

セックスとか、女性に対する欲望とか、そういうものとも違います。
もっと、若い男としての、女性という存在、その裸への、原初的で、
それだけに切々とした憧れとでも言いたくなるようなものが、私の
なかの「男」の根っ子のところに、伝わってくるように感じました。

ヌード画だけではありません。私はとくに美術に詳しいわけではあり
ませんが、さまざまな画題の絵から、絵としての美しさとか、技量
とか、それだけでは説明できない何かが、見ているこちらに、静かに
向かってくる。そういう、不思議な気持ちになった展示会でした。

そういえば、私はまだ長野の無言館を訪れたことはないんですが、
父や母、知り合いの何人か、見に行った人たちも、言葉はそれぞれ
ですが、どこかしら似たような感想を言っていたような気がします。
なにか、何とも言えない、とても不思議な気持ちになったと。

東京駅丸の内口を出てすぐという便利な場所で、3/21までやって
いますので、あの辺りで一時間程度の時間が作れそうなときが
あれば、ぜひおすすめしたいと思います。

いろいろ考えた末、無言館東京展を見てきた感想を、このスレッドに
書き込むことにしました。意を汲んでいただければ幸いです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):「無言館 遺された絵画展」を見て  ■名前 : パンドラ  ■日付 : 05/3/9(水) 19:13  -------------------------------------------------------------------------
   ぎみゆらさん
こんばんは

何時もお気遣い頂きありがとうございます
3月21日迄に東京へ出る機会がありますので私も「無言館 遺された絵画展」
に立ち寄ってみるつもりです。

人間の生と死を、此処何週間かの内に考えることが私の周囲でもありました。
たくさんの若い人達が、何も語らず、死地へ赴いて行かざるおえなかった時代と
戦争という、大きな暴力によって、適わなかった意思と遺された思いを
見つめてみたいと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):「無言館 遺された絵画展」を見て  ■名前 : ぎみゆら <gimiyura@fox.dti2.ne.jp>  ■日付 : 05/3/9(水) 21:42  -------------------------------------------------------------------------
   パンドラさん、みなさん、こんにちは。


「集会・イベント情報」スレッドのほうに、無言館の全国巡回展に
ついての情報を書き込んでおきました。
http://www.6410.jp/bbs/c-board.cgi?cmd=one;no=45206;id=sougou

もしよろしければ、各地のお友達等に、お知らせいただければと
思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):「無言館 遺された絵画展」を見て  ■名前 : 悠々  ■日付 : 05/3/16(水) 19:24  -------------------------------------------------------------------------
   さきほど東京ステーションギャラリィで「無言館 遺された絵画展」を
観てまいりました。団塊の世代のちょっと上ぐらいの年齢層が多く訪れていて、
みな感慨深げに見入っていました。

−「空も海もこんなに美しい。それなのに人間はどうして戦争なんかするの
だろう」と出征前にひとりつぶやいたという。田舎に住み、自然に接しながら
農業をし、絵を描いていく生活を夢見ていた−、画学生の春のいけばなの絵
(水仙/赤いスイトピー/ゆき柳など)が印象的でした。その鮮やかな色彩に
命への情熱が込められているような気がして。

ただただ無言で向き合うことしかできませんでしたけれど、
若くして散らざるを得なかった画学生の遺作の数々は、
時を越えて語り続けていくのですね。戦争の悲惨さを。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):「無言館 遺された絵画展」を見て  ■名前 : ぎみゆら <gimiyura@fox.dti2.ne.jp>  ■日付 : 05/3/22(火) 20:13  -------------------------------------------------------------------------
   悠々さん、ありがとうございました。


> ただただ無言で向き合うことしかできませんでしたけれど、
> 若くして散らざるを得なかった画学生の遺作の数々は、
> 時を越えて語り続けていくのですね。戦争の悲惨さを。

不思議な展示会でした。

せっかちな自分にしては、わりとゆっくりと、一通りの絵を見て。
もう一度、最初から見て。さらにもう一度、また最初から見ました。

通常の美術展などでも、「あの作品」だけもう一度見たいと戻って
見に行くことはありますが、都合三度も、全部の作品を見直して
回った展示会は、初めてのように思います。

どうかみなさま、今後の各地の巡回展に、ご注目ください。
http://www.6410.jp/bbs/c-board.cgi?cmd=one;no=45206;id=sougou

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : お久しぶりです  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/3/9(水) 20:30  -------------------------------------------------------------------------
    お久しぶりです。

 先日のNHKの東京大空襲では。約2時間の間にB29爆撃機 300余機、落とした焼夷弾32万7000発。
 犠牲者は10万人以上と記録が有り、その中のお一方の証言に
「人間て焼ける時はすごい格好をする」
といわれていました。云うなれば生きたまま火あぶりにされると云う事。
この大空襲を戦争の知らない現代人に伝えるのは何を見本にするかと考えても思い付かない。
 ただ一つこの大空襲を現代に移し変えると阪神大震災の真っ最中に、焼夷弾の大きさから考えると、一升瓶の火炎瓶が32万7000個空から降ってくるとしか言い様がないかなと思うのだが、今の若者火炎瓶も知らないかも判らない。
 戦争体験を伝えるのも至難な時代になってしまった。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):お久しぶりですごまめさん  ■名前 : k・satou <cbl13464@nifty.com>  ■日付 : 05/3/9(水) 21:15  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ごまめの翁さん:
  はじめまして なんども読みかえましたとも!
   あのカーチス・E・ルメイですよね。
マリアナ諸島から飛来して無差別爆撃の焼夷弾を指揮した司令官(当時の少将)
 東京・名古屋・大阪・神戸・広島・長崎 すべてですよね!
 これだけ 殺しといて1964年12月に佐藤栄作が決め天皇が授けた
  勲一等旭日大勲章。殺してくれて有難う。か。
  自衛隊。なかでも航空自衛隊の育成に大いに功績あり とか?
   あんだけ殺しといて もらう奴ももらう奴だけど やる方もやる方。
  逃げ口を みんなふさいどいて ひとつだけ門をあけとく
  その門にむけて人は殺到する。そこへ焼夷弾を雨あられとふらせる。
  はじめは山際 次は海沿い それから街のまんなか。順番に時間を追って
  目標と順序はてはずどうり。
    このみな殺し作戦を米軍は戦略爆撃て呼んでた。
  もと建築家で日本家屋を知り尽くしている奴だからね。奴の建物はどれ?

これのイラク版をファルージャで 皆さんみたわけですね。
  自由と平和を守るために! 我々日本の支援をうけて!
   イラクの人も殺してくれてありがとうと勲章を米軍と日本の自衛隊
    にくれるとおもってるんだろうか?

> お久しぶりです。
>
> 先日のNHKの東京大空襲では。約2時間の間にB29爆撃機 300余機、落とした焼夷弾32万7000発。
> 犠牲者は10万人以上と記録が有り、その中のお一方の証言に
>「人間て焼ける時はすごい格好をする」
>といわれていました。云うなれば生きたまま火あぶりにされると云う事。
>この大空襲を戦争の知らない現代人に伝えるのは何を見本にするかと考えても思い付かない。
> ただ一つこの大空襲を現代に移し変えると阪神大震災の真っ最中に、焼夷弾の大きさから考えると、一升瓶の火炎瓶が32万7000個空から降ってくるとしか言い様がないかなと思うのだが、今の若者火炎瓶も知らないかも判らない。
> 戦争体験を伝えるのも至難な時代になってしまった。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):お久しぶりです  ■名前 : 佐藤 圭  ■日付 : 05/3/9(水) 21:45  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ごまめの翁さん:
> お久しぶりです。
> 戦争体験を伝えるのも至難な時代になってしまった。

お元気でしたか。安心しました。
去年8月終戦記念日をはじめに老人党に入り始めて書き込みをしたとき 最初に同感といってくれた ごまめの翁さん、忘れたかもしれませんがそのスレッドは反戦、平和、護憲9条でした。
徹底した反戦、平和の追求、無抵抗主義の貴殿を印象つけられました。
今も、きょうも ご覧のとおり 「護憲9条」を叫び討論しています。
その後見なかったので寂しく気になっていました。
あのとき 護憲9条の主張にみなさん以外とレスがなかったのを覚えています。スレッドが遠くへ行ってしまったのを知らないでぼやいたら、ごまめの翁さん教えてくれましたね。
私語になると良くないのでこのへんで失礼します。
応援をよろしく お願いします。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 本当にお久しぶりです  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/3/10(木) 18:25  -------------------------------------------------------------------------
   佐藤 圭さん
 本当にお久しぶりです、元気にしております。

 年老いると、いました事を忘れますので、何方に何を書いたのかさっぱりですが、過去ログを検索してやっと思い出しました.その節はおせわになりました。

 戦争体験記等過去の事は一度何処かへ書き込むと書くネタが無くなります.今回老人党の管理人さんと老人党の世話人さんに了解を得ましたので「護憲+」ホームページに掲載したのを整理して載せたいとおもいます。
 一週間程お待ち下さい。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):本当にお久しぶりです  ■名前 : 佐藤 圭  ■日付 : 05/3/10(木) 18:48  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ごまめの翁さん:
>> 戦争体験記等過去の事は一度何処かへ書き込むと書くネタが無くなります.今回老人党の管理人さんと老人党の世話人さんに了解を得ましたので「護憲+」ホームページに掲載したのを整理して載せたいとおもいます。
> 一週間程お待ち下さい。

レスを見て嬉しく思います。
今日3月10日はあの悲惨な東京大空襲の日です。このスレッドへも書きましたが
「戦争体験を語ることが護憲9条に繋がる。」と思います。
我々体験者が(間接的でもよい)生きているうちに、子供に特に孫に語り伝えたい。そのことが老人党の護憲9条運動であり責務だと思います。
どうぞ ご無理なさらず ゆっくりやりましょう。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 井上俊夫さんのHPです  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/3/12(土) 8:27  -------------------------------------------------------------------------
    他のサイトで紹介していた井上俊夫さんのHPです。
 中国戦線に従軍された当時の思いを語られています。

http://www.vega.or.jp/~toshio/index.html

必見です

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):井上俊夫さんのHPと本  ■名前 : 珠  ■日付 : 05/3/12(土) 23:33  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ごまめの翁さん:
> 他のサイトで紹介していた井上俊夫さんのHPです。
> 中国戦線に従軍された当時の思いを語られています。
>http://www.vega.or.jp/~toshio/index.html
>必見です

拝見しました。本当に必見です。ご紹介をありがとうございました。

軍隊の実像が、初年兵の立場から書かれています。
「戦死させてもらえる顔」 「ハイ、班長殿、ヨカッタデアリマス!」
こうした詩に抉られる軍隊の実体に、そしてそこで死んで行った若い人たち。

この方が生き残って帰って来て下さって、こうした詩で戦争を伝えて下さっていることは、本当に意義のあることだと思いました。

井上俊夫さんのことは、3月11日の「東京新聞」夕刊「心のファイル」欄に出ているそうです。また、『初めて人を殺すー老日本兵の戦争論』(岩波現代文庫)が出版されて発売中です。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 井上俊夫さんのHPです  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/3/13(日) 11:05  -------------------------------------------------------------------------
   珠さま

 私はあの詩の全文を読んではいませんが、あれを見ながら思い出した事を書きます。

 聞いた話は余り載せたくないのですが、終戦直後に勤めていた時、第一線を渡り歩いた古年平の復員軍人がいらっしゃいました.其の方が

「戦闘中に殺すのは、こちらも命をかけているから、自分が何をしているか夢中で覚えていないが、初年兵の時に上官に後ろ手を縛られた捕虜を銃剣で突けと命令された時は手足が震えて止まらなかった。そしてその日は寝られなかった」
と話されていたのを思い出しました。

 様は上官は人を殺す度胸をつけさすためだと思います.其れは戦場で躊躇する事が本人の命に関わるから初年平の教育なんでしょう。
 生死の迫間も知らない平和だけの中で生きていた方と、私たち年代との考えは聊か違いますが、私は此の上官の気持ちは分からなくは有りません。

 でも此の復員軍人は戦闘中でない時は正常心だから震えが止まらなく、眠れなかったと思います.今なら色々質問するのですが、今になったら色々伺っておくのだったと思っています。

 戦争は此の地球から取り除かなければと思うのです。
 私の無抵抗主義の原点は武器を持たなければ人を殺せない。ここから出ているのです。

 戦争は勝っても負けても人の心を蝕みます。戦争は人類最大の悪です

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):井上俊夫さんのHPです  ■名前 : 宮天狗  ■日付 : 05/3/13(日) 13:22  -------------------------------------------------------------------------
   ごまめの翁さん

おっしゃるとおりです。私も折を見て空襲体験や戦前のすさまじい言論
弾圧など書いてきましたが、どうしても種は尽きてしまいます。
先日の読売新聞には3月10日の東京大空襲におけるB29搭乗員の
話として、はじめは「真珠湾攻撃に対する報復だから当然だ」と言って
いたのが、被害者の悲惨な写真を見せると「俺がやったことが・・」と
苦悶の表情を見せたそうです。
「百聞は一見にしかず」・・にもかかわらず戦後生まれの人たちが得々
として戦争を語るのはなんともやりきれない気持ちです。
やはりマンネリであろうがなんであろうが戦争反対の声をとぎらせては
いけませんね。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):伝え聞く戦争の無惨!  ■名前 : 珍 源斎  ■日付 : 05/3/13(日) 20:17  -------------------------------------------------------------------------
   神風特別攻撃隊にまつわる話で零戦パイロットをして
居られた方で、生き残り戦後の民間航空の復活に尽力された

方から聞き及んだことで、戦争末期では特攻攻撃が
殆ど効果を上げることが出来なかった。

その理由としては当時のアメリカ艦船には
新型のVT信管「弾丸が命中しなくても航空機が接近すると炸裂」を
つけた弾丸を発射できる対空機関砲「俗称スカイスイーパー」
で「空の掃除機」と云われたものにより体当たり攻撃の多くは

封じられてしまってたとのこと、アメリカ軍では零戦の事を
ワンショットライターとも云われた由、理由は一発の弾丸が

命中すれば火を噴いたから、戦力にならない装備で戦わなければ
ならなかったことは若く貴重な生命を散らさねばならなかった・・
事を思うと・・そんな理不尽な戦争に及んだ国家指導者には

東京大空襲、広島、長崎の原爆による犠牲者、中国に置き去りに
された人々、山で草むし、海で水ずく屍を晒した方々の併せた

尊い犠牲を想うと「云いようのない怒りがこみ上げてくる」。

戦争に続く途は何としても封じなければならない.

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 「君死にたもふことなかれ」  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/3/15(火) 8:14  -------------------------------------------------------------------------
    戦争体験記、此の様な歴史的なものは一度何処かに書き込むと新しい展開がない話ですから続いて書き込む事が難しくなります。

 今後書き込む体験記は
『以下は「護憲+」ホームページhttp://www.geocities.jp/rojinto_goken/の「メンバー投稿(戦争体験者の証言)」に投稿したものですが、護憲+の世話人さんと老人党管理スタッフさんのご了解を得ましたので、こちらへ再投稿します。』

 まず最初は与謝野晶子の詩「君死にたもふことなかれ」をおおくりしたいと思います.此の詩は最大最高の反戦歌と思いますが、此れを世間に知らしめていたと云う事は明治の時代は良き時代だったのでしょう。
http://www.shigin.com/top.htm
の中の「さくらの朗読の世界」を開くと「与謝野晶子の詩」
 私も此の詩は知っていますが、「君死にたもふことなかれ」だけで全文を心から聞いたのは初めではないだろうか。

 聞きながら母が兄を軍隊に送り出す時の肩を振るわしていた後ろ姿が目に浮かんできた。

「君死にたもふことなかれ」

 母も親として女として与謝野晶子と同じ気持ちだったでのしょうか、送る其の眼に溜まった涙が悲しそう、淋しそう。

 違った視点からみると明治政府の偉大さ寛大さが別の意味で伝わってくる。今、日本に欲しいのは此の時代の政治家だろう。

 今、此の詩を知っている若者は何人居るのだろうか戦争、人を殺す行為は如何に人間として愚かな事かを語った詩です。ご存じの方も、もう一度御覧に成って下さい。

与謝野晶子

ああをとうとよ、君を泣く、
 君死にたもふことなかれ、
  末に生まれし君なれば
   親のなさけはまさりしも、
    親は刃をにぎらせて、
     人を殺せとをしえしや、
      人を殺して死ねよとて
       二十四までをそだてしや、
        堺の街のあきびとの
         旧家をほこるあるじにて
          親の名を継ぐ君なれば、
           君死にたもふことなかれ、
            旅順の城はほろぶとも、
             ほろびずとても何事ぞ
              君は知らじなあきびとの
               家のおきてに無かりけり。
君死にたもふことなかれ
 すめらみことは、戦いに
  おほみずからは出でまさね、
   かたみに人の血を流し、
    獣の道に死ねよとは、
     死ぬるを人のほまれとは、
      大みどころの深ければ
       もとよりいかで思されむ。
        ああ、をとうとよ、戦いに
         君死にたもふことなかれ、
          すぎにし秋を父ぎみに
           おくれたまへる母ぎみは、
            なげきの中に、いたましく
             わが子を召され、家を守り、
安しと聞ける大御代も
 母のしら髪はまさりぬる
  暖簾のかげに伏して泣く
   あえかにわかき新妻を、
    君わするるや、思えるや、
     十月も添わでわかれたる
      女ごころを思ひみよ。
       この世ひとりの君ならで
        ああまた、たれをたのむべき
         君死にたもふことなかれ。

最大、最高の反戦歌です。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):「君死にたもふことなかれ」  ■名前 : 佐藤 圭  ■日付 : 05/3/15(火) 12:47  -------------------------------------------------------------------------
   懐かしいです。「君死にたもふことなかれ」
感動です。
私も、兄の出征のとき、母が見えなくなるまで 立ちすくんで見送っていた後ろ姿を想いだします。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):「君死にたもふことなかれ」  ■名前 : ぎみゆら <gimiyura@fox.dti2.ne.jp>  ■日付 : 05/3/15(火) 19:57  -------------------------------------------------------------------------
   ごまめの翁さん、こんにちは。


昭和五年生まれの私の母も、「君死にたもふことなかれ」は大好きな
詩だと言います。子供の頃から、ときどき、そんなことを聞かされて
いました。

女として、晶子に憧れる気持ち。娘時代、ばりばりの愛国少女として
飛行機工場勤務に励んだ自分を思い、日露戦争で国中が沸き上がって
いたあの時代に、あんな詩を詠んだ晶子の勇気に感嘆する。

そんな気持ちが、あるのかもしれません。

何度でも、読み返す値打ちのある詩だと思います。
ご紹介、ありがとうございました。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):戦争体験を語って下さい2  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/3/17(木) 20:23  -------------------------------------------------------------------------
   >『以下は「護憲+」ホームページhttp://www.geocities.jp/rojinto_goken/の「メンバー投稿(戦争体験者の証言)」に投稿したものですが、護憲+の世話人さんと老人党管理スタッフさんのご了解を得ましたので、こちらへ再投稿します。』

昨年12月8日に書いたものです。

 何時もの様に朝5時半に起きて、PCを開らくとカレンダーは12月8日を指していました。あっ今日は大東亞戦争の始まった日(昭和16年12月8日)だと改めて此の半世紀前を振り返って見ました。

 遠い記憶の中では、開戦の報道を家で聞いたのか、学校で聞いたかは思い出せません。ただ家では並4ラジオの音声のハッキリしないスピーカーから軍艦マーチ聞こえて「大本営発表」を頻繁にながしていた事。「太平洋上で米英両国と戦闘状態に入れり」ぐらいしか頭の中に残ってなく、海軍航空隊による真珠湾攻撃、その後特殊潜航艇の活躍を聞くにつれ、少年時代の私は胸の高ったのは事実でした。

 「鬼畜米兵」「進め一億火の玉だ」「欲しがりません勝までは」など当時の国民は何の儀念もなく戦争に突入。日本は神風が守ってくれるとの先生の言葉を信用し絶対勝てるのだとの心念で耐乏生活も我慢をしていたと思います。

 どうなんだろう。教育がそうさせたのか、当時の私は国家の為に命を陛下に捧げるのは当たり前だと思っていました。それが昭和19年兄が戦闘機乗りに成る為に駅に見送りに行った後の母の苦悩を垣間みると、大東亞共栄圏を謳って戦っている日本中で多くの銃後の家族が,親兄妹が戦の為に引き裂かれているのだなと思う様になりました。しかし其れでも此の戦には勝たねば成らないと思ったのも事実です。

 戦後、色々言われる方が居られますが、当時は國の政策に反対すればどう成っているかは私の年代以上の方はお判りと思います。戦争の良し悪しはともかく國の方針に従うのが日本国民なのです。ですから軍隊を創る様な誤った政策は拒否しなくてはなりません。

 皆さんはどう思われているか分りませんが、現在の北朝鮮の事を見ていると、当時の日本の縮図を見ている感じがして、北朝鮮があの当時の日本と同じ過ちをしてほしくないなと、彼の地から引き揚げて来た私は思っています。

 昭和20年8月15日終戦の詔勅を京城師範の講堂で聞いた時、ただ茫然として居たのは事実です,今考えても8月15日の事は全く思い出せません。戦後級友の集まりで此の事を聞いても皆さん私と同じ状態の様で、ただ「腹が減ったことだけは憶えている」でした。

 今、飽食の時代、戦争の為国家に命を差し出す事もない豊かな時代になると,人心も豊かになると思っていましたか、現実は全く逆で,其の乱れは目を被うばかりの時代に成ってしまいました何故でしょう。

 その原因はと政治家や識者が色々言っていますが、私は昭和20年8月15日から誤った民主主義の教育で其の狂いは始まったと認識しています。私は戦後の教育は全く受けていません。戦後まだ有った徒弟制度の中で育った人間が見るとそう感じるのです。
 
 明治より列国に負けない様にと背伸びして、少しづつ狂ってきた日本が大きく狂いを生じはじめた昭和16年12月8日。

 同じ16年12月8日、昭和と平成の違いで昭和16年12月8日が昭和の狂いの始まりですから、平成16年12月8日は狂った日本を元の道に戻す、平成の戻り道の年にしたいものです。
 これが私の昭和16年12月8日開戦記念考です。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : [管理者削除]  ■名前 :  ■日付 :  -------------------------------------------------------------------------
   この書き込みは管理者によって削除されました。(05/3/19(土) 11:26)

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 削除します  ■名前 : 管理スタッフ  ■日付 : 05/3/19(土) 2:31  -------------------------------------------------------------------------
   ▼森下 泰典さん:
相手名をかえただけの同一投稿につき削除します。このようなことはなさらないで下さい。
なおご覧になりたい方は、下記に同一の書込みを残しました。(珠)
【46155】海幸彦さん、ニックさん  森下 泰典

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):戦争体験を語って下さい2  ■名前 : 役立たず隅の隠居  ■日付 : 05/3/19(土) 20:12  -------------------------------------------------------------------------
    ここでご案内する「街頭録音」は、いま生存していたら70歳前後の方々が小学校高学年か新制中学1年生の時代に収録された番組です。昭和24年長崎市爆心地近くの小学校で子供たちに「将来なにになりたいか」を聞いていますが、その日本語の正しいこととハッキリ意見を述べる態度に感心します。http://www.jnradio.net/ghome.htmlですが、
「村田幸子の今日も元気」でを検索してみて下さい。
 そのなかの[NHK音のアーカイブス」に戦後ラジオしか娯楽がなかった時代に放送された貴重な録音がありますそのなか一つです。
 若い人にも戦後の苦しい時代にわれわれ高齢者がなにを思い生き抜いたかが少しでもわかってもらえると思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):戦争体験2 現在進行形としての戦争体験  ■名前 : MNG  ■日付 : 05/3/20(日) 14:55  -------------------------------------------------------------------------
   少し趣旨から外れるかもしれませんが。

今現在も戦争の渦中にあるアメリカ。
肉親を戦争で失う悲しみは、古今東西・敵味方を問わず共通するでしょう。

イラク戦争で一人息子を亡くした米兵の母親が、「兵士達を帰還させる。他の母親たちを自分と同じ目に遭わせるべきでない。」と、反戦活動に参加している様子です。
http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2005/02/post_4.html

うかうかしていると、日本の親も同じ目を見ないとも限りません。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):戦争体験を語って下さい2  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/3/21(月) 7:52  -------------------------------------------------------------------------
   >『以下は「護憲+」ホームページhttp://www.geocities.jp/rojinto_goken/の「メンバー投稿(戦争体験者の証言)」に投稿したものですが、護憲+の世話人さんと老人党管理スタッフさんのご了解を得ましたので、こちらへ再投稿します。』

ある方への返書
 
>>>だから鉄砲の弾は撃ったことは有りませんが、機銃掃射で目の前で友達がやられたり空襲で人間が簡単に吹き飛ばされるのを見ました。

 私も貴男と同じ年代です。幸か不幸か三八歩兵銃を2発だけ撃った経験があります。
 官立師範で予科に入学して本科を出る迄7年、研究科を出ると8年も懸かると最上級生は二十歳前後の若者がごろごろ,其のせいかどうかは知りませんが、配属将校が5人も居り最上級生の教練は本格的で学内に兵器庫が有りました。

 教練の時間に三八歩兵銃について講議があり、今年中に各人二発づつ体験させるということで、名簿順で私は上から数えて5番目でしたので最初の5人の中に入ってましたから、幸か不幸かの内に入ったのです。ですから名簿が私から下の者は終戦で経験はしていません。

 当時を思いだすと銃座を肩にキッチリ固定しないと、肩の間接がはずれるとか、骨折するとか脅かされましたが、其れ程発射した時の衝撃の強さは私にはにとっては驚き。其れとあの重い銃で兵隊さんは大変だなと思いました。

 戦後、ノルマンディー作戦などの映画を見て、あの軽い衝撃の少ない軽機銃を見ると戦争に負けるのは当たり前だと思ったのも事実です。


>1:戦争の火中に居た人達(明治・大正生まれ)  7・900 (千人)
>2:戦争を記憶している人達(昭和一桁生まれ) 12・600
>3:戦争を実感し難い人達(昭和二桁生まれ)  87・700
>4:戦争は歴史教科書の中の人達(平成生まれ) 19・200

 私も2:戦争を記憶している人達(昭和一桁生まれ)分類に入ります。

 1:戦争の火中に居た人達(明治・大正生まれ)の分類に入る方で何人の方が当時の事を語れるでしょうか。特にPCを扱える方は2:にしか居ないか、1:の方は極少数だと思います。
 其の方々の実体権を聞きたいです。終戦直後、復員された方から話しを聞きました。でも負け戦で逃避する話しはよく出まがしたが、何故だか戦闘や勝ち戦の話しは余り聞かなかった気が致します。

以下次回

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):戦争体験を語って下さい2  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/3/21(月) 8:23  -------------------------------------------------------------------------
   日本で戦場は唯一沖縄だけでした。しかし沖縄とは聊か違いますが、旧満州も戦場に成った一つでしょう。私の兄妹から聞いた話しを少し書いてみます。

  
終戦直前ソ連の参戦で南下できず、しかたなしに北の満州に父母と逃れた小学校6年と3年私の弟と妹は、満州でソ連兵や戦車に追われ、小さな自然の壕に隠れた頭の上をソ連戦車のキャタビラの轟音を発てて通り過ぎて行った時、
「もう駄目だ」
と、その時恐怖で体の震えが止らなくオシッコを漏らしたと話した事があります。しかし、あまり立ち入った話しは今でも嫌がって話してくれません。

 もう其の弟も72歳の年齢に成りました。だが色々な面で未だに戦争を引きずっている感じが抜けません。
 兄の私が見ても、
「ソ連兵に追われ、親に死なれ、今までよく生きて来たな」
と感じる時があり。
 思いっきり、背伸びをして生きてきて小学校も卒業できていない弟の気持を哀れに思う時があります。

 兔に角、戦争は弱い者の犠牲者によって成り立っています。弟も妹も当時は子供でした。恐らく私も含めて私たち兄妹は戦場で戦ってはいませんが、お墓に入るまで先きの戦争を引きずって行くでしょう。

 未だに満州孤児の話しが新聞に載っています。其の話しに成ると妹は、
「お兄ちゃん。もし満州孤児に成っていたら今どうなっているだろう。自分の名前を憶えていやろうか。満州孤児に成らず、ソ連兵に殺されずに,生きて帰れたんやから、孫に囲まれた生活が出来る様に成ったんや喜ばなあかんな。でもお父さんやお母さんに孫を見せられなかっただけが残念で悔しい」
と言うのを聞いて、
「戦争だったのだから仕方がないな」
と言いましたが、やはり戦後は続いていると感じました。

 現在、憲法改正、武器輸出解禁、制服組の有事のシュミレーション。戦前の日本を感じます。

 もしイラクに武器は一切無く、車といえばバイクぐらいしか無い平和な国家だったとしても、アメリカは大量破壊兵器が有ると攻めたでしょうか。

 これはニワトリが先きか卵が先きかの論争に成りますが、イラクに最初に武器を与えた国家は何処なんでしょう。

 私は朝鮮戦争の時に警察予備隊の様なものは創るべきではなかった様な気もしています。
 もしイラクに小火器をを含めた兵器と称する武器が全く無かった国家でしたら、アメリカはどの様な口実で進行するのでしょうか。

 兎に角、軍が巨大に成ると其の火器を使いたがる傾向は昔から、何処の国家も有る様に感じます.

 

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):戦争体験を語って下さい2  ■名前 : 佐藤 圭  ■日付 : 05/3/21(月) 20:11  -------------------------------------------------------------------------
   私の叔父、叔母、従兄弟も同じ体験をしています。
昭和史で許せない一つに終戦間際のソ連の参戦(満州の民間住人への攻撃)とシベリア抑留です。
私の先輩で職場の友人はシベリア抑留を在職中語りませんでした。
退職後にこのスレッドのように私が語ってくださいと頼んだら自主(私)出版してくれました。
それで解ったのは共産主義者というレッテルを恐れていたからです。
レッドパージで職を失った先輩、同僚が多くいます。シベリア抑留の体験者と知っている人 どうか語ってください。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):戦争体験を語って下さい2  ■名前 : 数理梵哲  ■日付 : 05/3/21(月) 20:51  -------------------------------------------------------------------------
   ▼佐藤 圭さん:
>私の叔父、叔母、従兄弟も同じ体験をしています。
>昭和史で許せない一つに終戦間際のソ連の参戦(満州の民間住人への攻撃)とシベリア抑留です。
>私の先輩で職場の友人はシベリア抑留を在職中語りませんでした。
>退職後にこのスレッドのように私が語ってくださいと頼んだら自主(私)出版してくれました。
>それで解ったのは共産主義者というレッテルを恐れていたからです。
>レッドパージで職を失った先輩、同僚が多くいます。シベリア抑留の体験者と知っている人 どうか語ってください。

私の中学校の先生に、シベリヤ抑留の体験者がおられました。
船で日本に帰る途中、その船は、昼間はすごくゆっくりと航行し、夜になると、ものすごいエンジン音をさせて全速力で航行したそうです。皆で一体何処へ連れて行かれるのかと不安を話し合ったそうです。
その先生も、昨年お亡くなりになりました。優しい先生でした。

言われるように、昭和史で許せない一つに終戦間際のソ連の参戦(満州の民間住人への攻撃)がありますが、武器を持っていなくても攻撃される実例だと思います。
これは、戦争中の狂気によるものではありません。明確な意志を持った殺戮です。
また、逆に、ソ連が北海道を要求したとき、アメリカの大使はきっぱりと拒絶したそうですが、ソ連がそこで引いたのはアメリカが原爆を持っていたからだろうと思われるのは、複雑な気持ちです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):戦争体験を語って下さい2  ■名前 : 王里  ■日付 : 05/3/21(月) 21:41  -------------------------------------------------------------------------
   ▼佐藤 圭さん:こんばんは

>レッドパージで職を失った先輩、同僚が多くいます。シベリア抑留の体験者と知っている人 どうか語ってください。

親父からきいた話しです。シベリヤでは一日に1立方メートルの土を掘るノルマが課せられてたようです。ところが、永久凍土のため、ツルハシもはねかえされるほどかたい。栄養失調で体力のない捕虜には過酷な労働だった。

このノルマが達成できると、わずかな量のコーリャンが与えられる。このコーリャンがくせ者で、排泄物をみると、未消化なそのままの形で排出されている。これでは、命をつなぐには不十分。

それが証拠に、体力のある若い兵ほど早く、栄養失調で死んだそうです。このほかにも、つらい経験をしたのか、親父はソ連のことを死ぬまで良く言わなかったものでした。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):レスありがとう戦争体験を語って下さい2  ■名前 : 佐藤 圭  ■日付 : 05/3/21(月) 22:25  -------------------------------------------------------------------------
   数理梵哲さん
王理さん
早速のレスを有難うございました。
どうぞ悲惨的な戦争体験者(と話)を大切にしてください。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』  ■名前 : ぎみゆら <gimiyura@fox.dti2.ne.jp>  ■日付 : 05/3/23(水) 17:15  -------------------------------------------------------------------------
   佐藤圭さん、みなさん、こんにちは


しばらく前にも、この掲示板で書いたことがありますが、こんな本が
あります。

◆『語り継がれる戦争の記憶』
   (三枝義浩著、講談社漫画文庫、1〜3巻)
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view_c.jsp?x=C&sakuhin=3432&mag_id=000029

その第3巻に、『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』という作品が
あります。辺見じゅんさんの同名のノンフィクション作品(文春
文庫)をマンガ化したものです。長年にわたりシベリアに抑留され、
ついに帰国を果たせなかったある男性の遺書についての話です。

辺見さんの原作はまだ読んでいませんが、三枝さんのマンガは、
丹念に描き込まれた、非常に優れた作品です。ご一読いただき、
できれば、若い人たち、お子さま、お孫さんたちにも、すすめて
いただきたいと思います。

近々、「百冊の本」スレッドのほうで書こうと思い準備していたの
ですが、シベリアの話題が出たので、まずここに書き込みました。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):日米戦争を止めようとした努力があった。  ■名前 : 珍 源斎  ■日付 : 05/3/21(月) 10:27  -------------------------------------------------------------------------
   忘れてならないのは日米戦争を止めようとして努力をした
多くの人たちがおられた。

しかし、その努力が報われなかったことを考えませんか?
私の義理の叔父はかつて満州鉄道の調査部「日本版CIA」に

所属してました、当時の日本は産業の生産力や資源などにおいて
戦争の出来る状態で無かったことがハッキリ判ってたそうです。

それでも戦争に突っ走ったのは国民の間に理性を欠き感情高揚モード
の世論・云いようの無いエネルギーが生じてた・とのこと。

ぎりぎり迄、戦争阻止への努力はなされたが、無惨にもその
努力は無になってしまったこと、この辺り今、

再度冷静に考えてみる必要があるように思える。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):戦争体験を語って下さい2  ■名前 : 役立たず隅の隠居  ■日付 : 05/3/21(月) 11:12  -------------------------------------------------------------------------
    私がいつまでも忘れられない光景は、少年の頃、昭和19年か20年だったのだろうが、撃墜された米軍爆撃機の残骸を見物にいったときのことだ。
 そのころ国民学校高等科1年で早い行き組みだから12歳、学徒動員で軍需工場へ動員され工場で機関砲の弾をつくる作業の下働きをしていた。
 大阪市近郊の布施というところへ米爆撃機が撃墜されたことがあり、子供の足で一時間ぐらい歩いて友達と見に行ったことがある。戦意昂揚のために国民に見せていたのだろうが、巡査か警防団の大人が警備するなか沢山の人が見物に来ていた。
縄張りの中に ジュラルミンの機体が散らばっており、燃料が大きな穴にたまっていた、梯子なんかかけてあって操縦席まで見えた。
 米軍兵士の遺骸が放置してあり見世物になっていた。中年の男がその遺骸から靴を剥がしていた。周囲の見物人の咎めるような視線を感じたのかその男は、「何見てるんや、わしの息子はコイツ等に殺されたのじゃ」といった。
 子供心に見てはいけないもの見たような「イヤー」な気持ちになったのを憶えている。折りにふれ「あれは何やったのだろう」と思い出す。
 

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):戦争体験を語って下さい2  ■名前 : とうろう  ■日付 : 05/3/21(月) 22:08  -------------------------------------------------------------------------
   戦争体験

幼時の切れ切れの記憶

1.近くのガスタンクが戦闘機の機銃掃射(多分面白半分の)を受けた。幸いガスが無く爆発はしなかったが恐怖の記憶はある。

2.戦後の通学路で、家屋の白壁にコールタールの迷彩が汚く残り、長く綺麗にはならなかった。

3.田んぼの畦道で機銃走査にあった人が白い服を着ていたとかで非難されていたように思う。

4.(ゲートルを巻くことが強制されていたようで)毎朝父がゲートルを巻くのを見ていた。

5.大阪空襲で焼け出された親戚が持ってきた所々焼け焦げた「傘」を何故だか鮮明に覚えている。

6.玉音放送を聞いたような記憶はあるが大人の反応は記憶に無い。

7.配給に町内会の人が並んでいた。戦後復員してきた人を町内で迎えた。町内会会長に敬礼していたのを覚えている。

8.軍艦マーチなどは禁ぜられていたのでしょう。戦前の軍歌、軍事関係は進駐軍を気にして?ひそひそと子供同士で話していた。

9.警察予備隊が出来た。小学校の近くに隊舎があったような気がする。

10.RRセンター(朝鮮戦争時)の米兵のコーラの瓶を知っている。

この頃は、大人は皆「食べる」こと、子供に食わせることに必死だったのではないでしょうか。

以上

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):戦争体験を語って下さい2/語句訂正  ■名前 : とうろう  ■日付 : 05/3/21(月) 22:16  -------------------------------------------------------------------------
   ▼語句訂正

3.「走査」は「掃射」です。失礼。

>戦争体験
>
>幼時の切れ切れの記憶
>
>1.近くのガスタンクが戦闘機の機銃掃射(多分面白半分の)を受けた。幸いガスが無く爆発はしなかったが恐怖の記憶はある。
>
>2.戦後の通学路で、家屋の白壁にコールタールの迷彩が汚く残り、長く綺麗にはならなかった。
>
>3.田んぼの畦道で機銃走査にあった人が白い服を着ていたとかで非難されていたように思う。
>
>4.(ゲートルを巻くことが強制されていたようで)毎朝父がゲートルを巻くのを見ていた。
>
>5.大阪空襲で焼け出された親戚が持ってきた所々焼け焦げた「傘」を何故だか鮮明に覚えている。
>
>6.玉音放送を聞いたような記憶はあるが大人の反応は記憶に無い。
>
>7.配給に町内会の人が並んでいた。戦後復員してきた人を町内で迎えた。町内会会長に敬礼していたのを覚えている。
>
>8.軍艦マーチなどは禁ぜられていたのでしょう。戦前の軍歌、軍事関係は進駐軍を気にして?ひそひそと子供同士で話していた。
>
>9.警察予備隊が出来た。小学校の近くに隊舎があったような気がする。
>
>10.RRセンター(朝鮮戦争時)の米兵のコーラの瓶を知っている。
>
>この頃は、大人は皆「食べる」こと、子供に食わせることに必死だったのではないでしょうか。
>
>以上

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):戦争体験を語って下さい2  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/3/23(水) 8:35  -------------------------------------------------------------------------
   >『以下は「護憲+」ホームページhttp://www.geocities.jp/rojinto_goken/の「メンバー投稿(戦争体験者の証言)」に投稿したものですが、護憲+の世話人さんと老人党管理スタッフさんのご了解を得ましたので、こちらへ再投稿します。』

 長く成りますから4回に分けて掲載します。

第一章
 
 やはり、戦争体験者の証言の様なスレッドは難しいのでしょうか、それとも戦後半世紀以上経つと前線で戦を体験した方々は最低 76〜7才ですから、平均寿命から見たら、日本人男性の平均以上ですからので、天寿を全うされた方が多く成り、証言する人々か少なく成ったのは間違いないと思います。

 私の弟も戦中戦後の事はあまり語りたくないようですし、此の後に書く級友も体験した刺激が強すぎて当時の事は絶対話しません。

 先日,何処かのHPで読まして頂きました軍人恩給の受給を拒み続けた岐阜県飛騨市の尾下大造さん(82)の手記に軍人恩給は当時の兵隊に其の時の軍隊のした事を喋らせない口止め料だと恩給を拒まれている方が最後に、

>「わしのようなもんがようけおってもいいはずなのになぜ、誰もしゃべらん」

と書かれていたのが物凄く印象的でした。

 私の戦争拒否症候群は、其の犠牲者に成る者は、普通に生活して家族の為に一生懸命に働いてごく普通に過ごしている人々が犠牲に成る事。

 戦後、復員してきて同じ職場で働いていた方が、命をかけた時の一時の休みは女を抱く事しか考えて居なかったと話していたのを思い出しきした。私も男の一人だから究極の状態では同じ事を考えていたと思うのです。これは、この世に女性が居て男性が居る限り此の問題は永遠の課題だろうと思います。
 だから此の男女の問題をあえて書いてみようと思いました。

 此の性の問題でも何時も平常心で居られる環境は必要ではないだろうか。此の問題だけでも戦争と云う殺人ゲームを地球から抹殺しなければならないと感じます。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):戦争体験を語って下さい2  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/3/24(木) 19:20  -------------------------------------------------------------------------
   >『以下は「護憲+」ホームページhttp://www.geocities.jp/rojinto_goken/の「メンバー投稿(戦争体験者の証言)」に投稿したものですが、護憲+の世話人さんと老人党管理スタッフさんのご了解を得ましたので、こちらへ再投稿します。』
第二章

軍隊と性、其れについて朝日新聞に
2004年12月27日(月)
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/kokusai/20041227/K2004122601270.html
駐ケニア英兵、住民に性暴力 三十数年間で2千人被害か

 ケニアに駐留する英軍兵士が長年にわたり、現地住民に性的暴行を加えてきたとする問題が、英国の弁護士やケニアの非政府組織(NGO)の調査で明らかになってきた。三十数年間に最大2000人が被害に遭ったとみられ、うち約650人が英政府に損害賠償を求めている。過去に被害を届けた人もいたが、地元警察や英軍に黙殺され、表面化しなかった。英軍も独自に捜査を進めている。

 英軍は、ナイロビの北東約300キロにあるケニア山北側の訓練場などで、60年代から軍事演習を続けている。年間3000〜4000人が派遣されるという。訓練場付近のアーチャーズ・ポスト、イシオロ、ドルドルなどの町には、放牧生活をするマサイ族やサンブル族が多く住んでいる。

 この地域で住民の権利保護などに取り組むケニアのNGO「インパクト」によると、1960年代から01年までに、最大で2000人の男女が、英軍兵士によって性的暴行を受けたとみられるという。暴行を受けた女性が、加害者の子を出産したケースも多いという。
 この序文にこう書かれていました。

 沖縄も駐留米兵によるレイプ問題が、しばしば起こっている。駐ケニア英兵も沖縄も平時で、砲弾も飛び交わない所でも性の問題が起こるのだから、戦時だったら戦勝国であっても有って当たり前で、ただ勝った国の不祥事は表に出にくいと云う事だろうと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):戦争体験を語って下さい2  ■名前 : MNG  ■日付 : 05/3/25(金) 18:58  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ごまめの翁さん:こんばんは。

>>『以下は「護憲+」ホームページhttp://www.geocities.jp/rojinto_goken/の「メンバー投稿(戦争体験者の証言)」に投稿したものですが、護憲+の世話人さんと老人党管理スタッフさんのご了解を得ましたので、こちらへ再投稿します。』
>第二章
>
>軍隊と性、其れについて朝日新聞に
>2004年12月27日(月)
>http://news.goo.ne.jp/news/asahi/kokusai/20041227/K2004122601270.html
>駐ケニア英兵、住民に性暴力 三十数年間で2千人被害か
>
> ケニアに駐留する英軍兵士が長年にわたり、現地住民に性的暴行を加えてきたとする問題が、英国の弁護士やケニアの非政府組織(NGO)の調査で明らかになってきた。三十数年間に最大2000人が被害に遭ったとみられ、うち約650人が英政府に損害賠償を求めている。過去に被害を届けた人もいたが、地元警察や英軍に黙殺され、表面化しなかった。英軍も独自に捜査を進めている。
>
> 英軍は、ナイロビの北東約300キロにあるケニア山北側の訓練場などで、60年代から軍事演習を続けている。年間3000〜4000人が派遣されるという。訓練場付近のアーチャーズ・ポスト、イシオロ、ドルドルなどの町には、放牧生活をするマサイ族やサンブル族が多く住んでいる。
>
> この地域で住民の権利保護などに取り組むケニアのNGO「インパクト」によると、1960年代から01年までに、最大で2000人の男女が、英軍兵士によって性的暴行を受けたとみられるという。暴行を受けた女性が、加害者の子を出産したケースも多いという。
> この序文にこう書かれていました。
>
> 沖縄も駐留米兵によるレイプ問題が、しばしば起こっている。駐ケニア英兵も沖縄も平時で、砲弾も飛び交わない所でも性の問題が起こるのだから、戦時だったら戦勝国であっても有って当たり前で、ただ勝った国の不祥事は表に出にくいと云う事だろうと思います。

侵略軍のモラルが堕落するのは、ある意味必然かもしれません。
殺人を容認された侵略軍にとって、強姦や虐待などは取るに足らないことなのでしょう。

今、イラクに駐留している米軍のモラルの退廃にも、恐るべきものがあるようです。
「イラクに駐留する米兵達は自分達の戦闘をビデオ撮影し、死と破壊にまみれたミュージックビデオを制作している。しかも彼等はそれを娯楽作品として人に紹介している。」というのです。
http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2005/03/post_5.html

まともな神経では考えられないことですが、戦場という極限状態が彼らの精神を蝕むのでしょう。
どんな理屈を並べても、戦争は破壊と殺戮以外の何物でもありません。
二度と起こしてはならないことです。

スレッドが50になってしまいましたが、第三章・第四章も期待してお待ちしております。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):戦争体験を語って下さい2  必見です  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/3/25(金) 15:17  -------------------------------------------------------------------------
    別BBSで紹介されていたサイトで必見です。此のサイトの紹介者は中程の「東京大空襲 史上最大の虐殺」を見ろと言っておられます。

http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Homef.html

 焼け死んだ被害者がごろごろ転がっています。日本の学校教育は奇麗なものの上っ面ばかり見せます.此の様な悲惨な現実も見せておくべきで、如何に戦争は悲惨なものか、今の若者は映像しか信用しませんから。
 憲法改正.悠長な事を言っておられません.即、自民党打倒。

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