Page 2589 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼雑説(ぞうせつ) とうろう 05/3/26(土) 20:45 ┣Re(1):雑説(ぞうせつ) 遍巳亭 05/3/27(日) 6:12 ┃ ┗Re(2):雑説(ぞうせつ) とうろう 05/4/2(土) 23:08 ┗Re(1):雑説(ぞうせつ)/「自然の営為」と「自己責任」と「責任転嫁」 とうろう 05/4/5(火) 1:35 ┗Re(2):雑説(ぞうせつ)/「自然の営為」と「自己責任」と「責任転嫁」(補逸) とうろう 05/4/6(水) 21:43 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 雑説(ぞうせつ) ■名前 : とうろう ■日付 : 05/3/26(土) 20:45 -------------------------------------------------------------------------
▼遍巳亭さん:今晩は。 先に下記レス有難うございました。 少し誤解?があるかと思いレスします。 【45870】Re(2):お邪魔、失礼。【45463】Re(6):BBS?理解しました。 遍巳亭 - 05/3/16(水) 7:17 - ▼とうろうさん: >おはようございます。 >>「憲法」スレッドの中、失礼致します。 >小生、大説よりも小説の方が、「憲法」に関しても老人党に相応しい論じ方のような気がします。大説を否定するものではありませんが、小説の方により切実なものがあるのではないかと思っています。 >>多分、深更でも無いとBBSに書き下ろすお気になれないのではと想像しております。 ここは、 *多分、深更でも無いとBBSに書き下ろす「お気になれない」のではと想像しております* と、遍巳亭さんのお気持を「忖度」したものです。 念の為、レス致します。 失礼致しました。 |
▼とうろうさん: おはようございます。 >少し誤解?があるかと思いレスします。 貴レス拝見しました。 >>>「憲法」スレッドの中、失礼致します。 > >>小生、大説よりも小説の方が、「憲法」に関しても老人党に相応しい論じ方のような気がします。大説を否定するものではありませんが、小説の方により切実なものがあるのではないかと思っています。 この部分は投稿した後にもっと明確に書くべきだったと反省しています。とうろうさんのご投稿に向けてのものではありません。掲示板を詳しく読むわけでないのですが、朝日新聞「都立高校卒業生の投稿」から、 「生徒が「国歌斉唱」の起立を拒めば、担任教諭が厳重注意などを受けるおそれがある。私たち生徒は戸惑った。もし私たちが「国歌斉唱」の時に座れば、担任の先生に迷惑がかかると思ったからだ。」 このような具体的なところから、同じようなことは身近にもあると思うのですが、それから「愛国心」なら愛国心、ここに見られる「国旗」の「国」とはなんだろう、「国家」の「国」とはなんだろうと考え始めて、それから「私と国」、そこでの「憲法問題」などという「一般的な言葉」に向かう方が、つまり「小説」から「大説」に向かう方が地に足をつけた議論になるのではないかと、そのような意味で述べました。 しかしそれは、原理原則、一般論を、机上論をもとより否定するというものでは全くありません。 少し矛盾するようですが、抽象論は十分に具体論であるということは理解しているつもりです。 「それは机上の空論だから」というような言い方で議論を止めようとするのを見ましたら、小生の「フォースを使え」ボタンにスイッチが入ります。 >>>多分、深更でも無いとBBSに書き下ろすお気になれないのではと想像しております。 > >ここは、 > >*多分、深更でも無いとBBSに書き下ろす「お気になれない」のではと想像しております* > >と、遍巳亭さんのお気持を「忖度」したものです。 > >念の為、レス致します。 この点につきましては、とうろうさんのお気遣いに感謝しつつ書きました。 春眠覚暁、処処聞啼鳥。朝の装いが変わってきています。 |
▼遍巳亭さん:レス有難うございました。 今晩は。少しく改めて雑談を。 いわゆるBBSで何かを述べる事などは、先にも書きましたが「淀みに浮ぶ泡沫(うたかた)」に過ぎず、結果として、単なる「自己顕示」に過ぎないかと思い、もう書き込みをやめようと思いながら、生来の本性(ASSERTIVE&RADICAL:先鋭的攻撃的自己主張)が「深更」に近づくにつれ頭をもたげます。 申し訳ありませんが、遍巳亭さんの下記コメントをお借りして少し書かせて頂きます(なお、遍巳亭さんに対し「先鋭的攻撃的自己主張」をしているわけではありません。為念)。 >>>小生、大説よりも小説の方が、「憲法」に関しても老人党に相応しい論じ方のような気がします。大説を否定するものではありませんが、小説の方により切実なものがあるのではないかと思っています。 > >この部分は投稿した後にもっと明確に書くべきだったと反省しています。とうろうさんのご投稿に向けてのものではありません。掲示板を詳しく読むわけでないのですが、朝日新聞「都立高校卒業生の投稿」から、 > >「生徒が「国歌斉唱」の起立を拒めば、担任教諭が厳重注意などを受けるおそれがある。私たち生徒は戸惑った。もし私たちが「国歌斉唱」の時に座れば、担任の先生に迷惑がかかると思ったからだ。」 > >このような具体的なところから、同じようなことは身近にもあると思うのですが、それから「愛国心」なら愛国心、ここに見られる「国旗」の「国」とはなんだろう、「国家」の「国」とはなんだろうと考え始めて、それから「私と国」、そこでの「憲法問題」などという「一般的な言葉」に向かう方が、つまり「小説」から「大説」に向かう方が地に足をつけた議論になるのではないかと、そのような意味で述べました。 弊タイトル「雑説(ぞうせつ)」に感応頂き、詳細のご説明有難うございました。貴意よく分かりました。 なお、「地に足」とは「個々人」が「人;ヒト種動物」であることを理解して、その実感・体感から、「こと」を考えるということかと私は理解しました。 >しかしそれは、原理原則、一般論を、机上論をもとより否定するというものでは全くありません。 >少し矛盾するようですが、抽象論は十分に具体論であるということは理解しているつもりです。 >「原理原則、一般論を、机上論」 を考え出すのも「ヒト」ですからそれをもって否定するのは確かにおかしいと思います。 >「それは机上の空論だから」というような言い方で議論を止めようとするのを見ましたら、 「ヒト」は「考える葦」である事は事実でしょうから、お感じは分かります。 >小生の「フォースを使え」ボタンにスイッチが入ります。 「フォースを使え」の意がよく分かりません。若し、宜しければご解説を。 >春眠覚暁、処処聞啼鳥。朝の装いが変わってきています。 いつか本BBSに書いたのですが、 「過去を悔い 未来を歎く ことよりも 今日一日を 季節と歩む」 という新聞投稿歌(読み人忘却)を借りて、今後の生きようの指針と思いながら、未熟ゆえ、深更、またまた雑説を書いてしまいました。 失礼致しました。 |
▼皆さん: 今晩は。 皆さんの種々の書き込みを読んで少し思ったことを書きます。 例えば、スマトラ沖の大地震、福岡西部地震、中越地震・・・など人知を超えた「自然の営為」により、被災し、不幸をかこつ方々に、その不幸は「自己責任」だと言う人は多分居られないことでしょう。 そして、「一部の方々」は「自己責任でない」その不幸に同情し、義捐金を拠出し、あるいは、ボランティアとして援助活動を行ないます。人としての「共感」の発露かと思います(尤も、現実的には、多分、大多数の方は「他人ごと」と思っているのではないでしょうか)。 しかし、「社会の営為(と見える)」による不幸、例えば、不景気に因(よ)る失業、就職難、社会システムの不完全に起因?する「勝ち組み・負け組み」の存在?「格差」の発生?・・・などについては「自己責任論」と「社会責任論(責任転嫁?)」に分かれるようです。 ところで「社会」というものも「ヒトという動物」が形成している「自然」に過ぎない、と考えることは出来ないのでしょうか。 そのように考えれば、「自然の営為による災厄」について、自己責任ではないが被災者が他に「責任転嫁」出来ないように、「社会の営為による災厄」についても、被害者と思って居られる方々の自己責任ではないかもしれないが、他のものに「責任転嫁」も出来ないのではないでしょうか。 若し、「社会」に「責任転嫁」したいのであれば、在るべき「人間像」そして在るべき「社会像」を先ず明確に描き、他人を説得し、その「社会像」と現実の「社会」との乖離を解消すべく努力し、現実に「在るべき社会」に変えてしまうことが大事の一事ではないでしょうか。 (現実に万人が倖せになる「社会像」があるのであれば、という仮定の上の話です) |
▼皆さん:今晩は。 失礼ですが、出来れば皆さんのコメントを頂きたいのと私の立場を明確にする為に少しく補逸かたがたアップさせて頂きます。 >皆さんの種々の書き込みを読んで少し思ったことを書きます。 >例えば、スマトラ沖の大地震、福岡西部地震、中越地震・・・など人知を超えた「自然の営為」により、被災し、不幸をかこつ方々に、その不幸は「自己責任」だと言う人は多分居られないことでしょう。 >そして、「一部の方々」は「自己責任でない」その不幸に同情し、義捐金を拠出し、あるいは、ボランティアとして援助活動を行ないます。人としての「共感」の発露かと思います(尤も、現実的には、多分、大多数の方は「他人ごと」と思っているのではないでしょうか)。 私は、人として「共感」する「感性」を持つものであり、他人の不幸を知った全ての人がこの人としての共感を持っている、と信じたいと思う者でもあります。 >しかし、「社会の営為(と見える)」による不幸、例えば、不景気に因(よ)る失業、就職難、社会システムの不完全に起因?する「勝ち組み・負け組み」の存在?「格差」の発生?・・・などについては「自己責任論」と「社会責任論(責任転嫁?)」に分かれるようです。 >ところで「社会」というものも「ヒトという動物」が形成している「自然」に過ぎない、と考えることは出来ないのでしょうか。 >このように考えれば、「自然の営為による災厄」について、自己責任ではないが被災者が他に「責任転嫁」出来ないように、「社会の営為による災厄」についても、被害者と思って居られる方々の自己責任ではないかもしれないが、他のものに「責任転嫁」も出来ないのではないでしょうか。 「社会」も「自然」と考えた方が「甘え」が無くなり、個々人の真の「自己確立」の上で「人間社会」が形成されると考えるものです。 >若し、「社会」に「責任転嫁」したいのであれば、「社会の責任」と叫ぶ前に、在るべき「人間像」そして在るべき「社会像」を先ず明確に描き、他人を説得し、その「社会像」と現実の「社会」との乖離を解消すべく、現実に「在るべき社会」に変える努力をすることが大事の一事ではないでしょうか。 >(現実に「万人が倖せ」になる「社会像」があるのであれば、という仮定の上の話です) また、「神」に縋り、彼の世での「在るべき社会」に頼らずとも 個々の人が「自然」の中の「一個のか弱い存在」に過ぎない、しかし、地球40億年の生命進化の結果の「かけがえの無い神秘に満ちた貴重な「唯一つ」の存在(全く同一の生命、人に限らず、は存在しない)」であることを「自覚」し、 そして そのことから当然に帰着される 「他の存在」もまた「かけがえの無い貴重な存在」であることを「他覚」(造語です)することも大事の一事ではないのでしょうか。 ある意味の「虚無」は「実無」(造語です、誤植ではありません)に通ずるものと考えています。 失礼致しました。 |