Page 261 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼私論 オーム事件;デラシネ集団の論理と心理 流水 04/2/28(土) 10:28 ┣Re(1):私論 オーム事件;デラシネ集団の論理と心理 海幸彦 04/2/28(土) 12:17 ┃ ┗Re(2):私論 オーム事件;デラシネ集団の論理と心理 流水 04/2/28(土) 13:04 ┃ ┣Re(3):私論 オーム事件;デラシネ集団の論理と心理 海幸彦 04/2/28(土) 13:32 ┃ ┗自然からの教えを生かしてきたのが人類の進歩 珍 源齋 04/2/28(土) 19:28 ┣Re(1):私論 オーム事件;デラシネ集団の論理と心理 ひまんじい 04/2/28(土) 19:10 ┃ ┣Re(2):私論 オーム事件;デラシネ集団の論理と心理 流水 04/2/28(土) 20:22 ┃ ┃ ┗Re(3):私論 オーム事件;デラシネ集団の論理と心理 海幸彦 04/2/28(土) 21:54 ┃ ┗Re(2):私論 オーム事件;デラシネ集団の論理と心理 千葉の菊 04/2/29(日) 0:42 ┣Re(1):私論 オーム事件;デラシネ集団の論理と心理 千葉の菊 04/2/29(日) 0:46 ┣オームだけがデラシネ集団? peace 04/2/29(日) 13:35 ┃ ┗Re(1):オームだけがデラシネ集団? 流水 04/2/29(日) 14:24 ┃ ┗Re(2):オームだけがデラシネ集団? ひまんじい 04/3/1(月) 19:27 ┃ ┣Re(3):オームだけがデラシネ集団? 流水 04/3/1(月) 20:40 ┃ ┃ ┗Re(4):オームだけがデラシネ集団? ひまんじい 04/3/2(火) 8:59 ┃ ┃ ┗Re(5):オームだけがデラシネ集団? 流水 04/3/2(火) 9:41 ┃ ┃ ┗Re(6):オームだけがデラシネ集団? ひまんじい 04/3/3(水) 13:44 ┃ ┃ ┗Re(7):オームだけがデラシネ集団? 流水 04/3/3(水) 14:32 ┃ ┗あしたはどっちだ! peace 04/3/2(火) 0:32 ┃ ┗Re(1):あしたはどっちだ! 流水 04/3/2(火) 1:34 ┃ ┗Re(2):あしたはどっちだ! peace 04/3/2(火) 17:57 ┃ ┗Re(3):あしたはどっちだ! 流水 04/3/2(火) 18:51 ┗はいはい ニッチモサッチモ 04/2/29(日) 15:20 ┣Re(1):はいはい 森下 泰典 04/2/29(日) 16:43 ┃ ┗はいはい ニッチモサッチモ 04/2/29(日) 17:39 ┗Re(1):はいはい ひろあき 04/2/29(日) 17:06 ┗はいはい ニッチモサッチモ 04/2/29(日) 17:41 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 私論 オーム事件;デラシネ集団の論理と心理 ■名前 : 流水 ■日付 : 04/2/28(土) 10:28 -------------------------------------------------------------------------
オーム事件の主犯、麻原彰晃こと松本智津夫に死刑判決が下された。司法の問題としてのオーム事件は、この判決で一応の区切りはつけられたが、社会的問題としてのオーム事件はいまだ未解決である。 デラシネ(仏語;根無し草)という言葉がある。オーム事件を解くキーワードである、と思う。 教祖麻原彰晃の生育暦を見てみると、彼が小学校4年のとき盲学校へ転校させられたことが、すべての始まりではなかったかと思う。彼は、ここで親に捨てられたと感じたのではないか。心の底から震えるような「存在の不安」におびえたのではないか、と思う。 よるべない自分という感覚(デラシネ感覚)が、彼の軌跡を決定したのではないか、と思う。 ◆オーム信者(なぜ、若者はオームに魅かれたか?) オーム真理教には、高学歴の若者が多い。それも、一流大学の理工系の出身者が多い。 一般的に言えるのは、理工系の学生は、科学的・合理的・論理的に思考する。そして、その結論に従って躊躇なく行動する度合いが文科系学生より高い。 これは、理工系の学生は、「あいまいさ」を嫌う傾向が高いせいだと考えられる。 それに対して文科系学生は、「あいまいさ」に意味を見出す傾向が高く、行動は直線的でない。 さらに理工系学生(まじめな学生ほど)は、論理的・合理的思考の果てに突き当たる論理で割り切れない世界を見る可能性が高い。この傾向は、何もオームの信者ばかりでなく、著名な科学者・数学者などが神秘思想に傾倒するケースが多いことからも推察できる。 「禅の思想」が西欧でもてはやされたのも、同じ傾向の表れとみることができる。 「オーム真理教」のような非科学的・非合理的教えにいとも簡単に若者たちがいかれたのも、同じことが言えると思う。 他の理由は、現代の若者たちの「生きている実感の無さ」であろう。彼らは難しい数式を解き、コンピューターを操り、あらゆることを科学的に合理的に理解することはできても、「自分の生きている実感」をつかむことができなかった。哲学的にいうと「存在の不安」にさいなまれていたのである。 これが苛酷な修行を積み、自分自身を痛めつけることにより、自分自身の「レーゾンデートル」を確かめることにのめりこんだ理由であろう。 若者たちもまた、「デラシネ」の不安におびえていたのである。 オーム真理教という集団は、「デラシネ」という存在論的不安におびえた集まりであった、といえる。 ●オーム真理教という集団の論理 オーム真理教は、教祖麻原を頂点としたピラミッド型組織である。中央省庁をまねた省庁制の組織を作っていたが、これもまた麻原の見果てぬ夢(政治家になる)の現れであろう。 オーム真理教の組織は、絶対権力者麻原との「距離」がすべてを決めたといって過言ではない。 「麻原」との距離が遠い者たちには、禁欲的な修行を課し、同時に彼らは麻原たち教団幹部の「収奪」の対象であった。出家信者になるためには、全財産を処分し、あらゆる係累を断ち切ることが要求された。 このことは同時に、彼らはもはや教団以外に生きる道が断ち切られたことを意味した。逆にいえば、教団で生き抜くためには、「麻原」に対する盲目的な「忠誠」を尽くす以外にない、というところに自分を置いたことを意味していた。 「麻原」との距離が近いものは、麻原の猜疑心に悩まされることになる。この猜疑心から逃れるためには、彼に対する「忠誠心」を目に見える形で示す以外にない。これが、信者同士の「忠誠心競争」を生み出し、ついには松本サリン事件や地下鉄サリン事件として結実したのである。 このオーム真理教の構造は、独裁国家に共通する。 北朝鮮の政府幹部たちは、金正日の忠誠競争に狂奔しているように見えるが、彼らにはそれ以外にあの体制で生き抜く術がないのである。 独裁者(大きかろうが小さかろうが)に共通する資質がある。「小心」「臆病」「尊大」「猜疑心」「執拗」「粘液質」である。 「小心」で「臆病」だからこそ、「尊大」になり、自分の敵を「過大評価」する。坂本弁護士殺害の動機は、おそらく麻原の坂本弁護士に対する過大評価が根底にある。 「小心」だからこそ、部下たちの「忠誠心」を疑わざるを得なくなる。「臆病」だからこそ、「執拗」に自分の敵を追い詰めなければ安心できなくなる。 このような独裁者の率いる集団は、「閉鎖的」にならざるをえない。理由は簡単で、他からの批判を恐れるからである。 このような閉鎖的集団は、必ず外に向かってはきわめて「攻撃的」になる。外に向かって攻撃的になるということは、内部の人間たちがここでしか生きられないという覚悟を決めさせる。これは独裁者にとっては、きわめて都合のよい心理である。 そのため、どの独裁者も外に向かって攻撃的になるのである。 われわれがオーム事件から教訓を得るとすれば、閉鎖集団の論理と心理を学び、これを如何にして壊していくか、という一点に求められる。 オーム真理教の場合、情報は麻原や幹部たちに一元的に集中していた。この情報をもとに、命令が下されるのであるが、命令を下される人間たちに求められるのは命令を忠実に実行する「忠誠心」だけである。 情報の真偽や命令の当否などは問題ではなく、ただ忠実に実行する「忠誠心」だけが求められたのである。 このことは逆に、このような集団の論理を壊す最大の武器が、「情報」であることを示している。 「情報公開」こそが、閉鎖集団を壊す最大の武器であり、逆に「情報統制」こそが権力の源泉であることも示しているのである。 また、このような集団を作ったのが、麻原や若者たちに共通する【デラシネ】感覚であるとしたら、この「デラシネ」感覚をどのようにしてなくしていくかが最大の課題になる。 われわれの社会の根底が問われているのである。 その意味で、オーム事件が投げかけた問題は終わっていないばかりか、これからわれわれの社会が背負い続けねばならない問題として問い続ける必要がある。 |
▼流水さん: >オーム事件の主犯、麻原彰晃こと松本智津夫に死刑判決が下された。 >その意味で、オーム事件が投げかけた問題は終わっていないばかりか、これからわれわれの社会が背負い続けねばならない 流水様 私もオウムの裁判の記事を読んで考えされられた者です。私は毎日新聞を読みました。 オウムの背景ももちろんですが、宗教一般についてです。なぜ一見してわかる不合理な世界に人間は入り込まなければならないか、まったく理解できません。あと、主義についてもそうです。なぜかつてのソ連は存在しえたのか?ナチス・ドイツは?旧日本は?いまの北朝鮮は?そしてアメリカは?今の日本も「?」の部分がありますが、それにしても地球上は「?」で満ちています。「?」ばかりでもありませんが。 人間は生き続けることを宿命づけられた生物と思うしかありません。せめてお金意外では自由に生きたいものです。その意味でまだ日本は悪くない、今のところ。 おだいじに |
▼海幸彦さん: >私もオウムの裁判の記事を読んで考えされられた者です。私は毎日新聞を読みました。 わたしの家も毎日新聞をとっています。今日の記事では、牧太郎氏の署名記事「もうひとりの被告『愚かな日本人』」が印象に残りました。 > >オウムの背景ももちろんですが、宗教一般についてです。なぜ一見してわかる不合理な世界に人間は入り込まなければならないか、まったく理解できません。あと、主義についてもそうです。なぜかつてのソ連は存在しえたのか?ナチス・ドイツは?旧日本は?いまの北朝鮮は?そしてアメリカは?今の日本も「?」の部分がありますが、それにしても地球上は「?」で満ちています。「?」ばかりでもありませんが。 人間は『余計なものを考え出す』存在です。この『余計なもの』が本当に幸せにつながるかどうかが問われているのです。 「はじめに言葉ありき」とは、キリスト教の原点に位置する言葉です。言葉が存在するから、信仰が成立するのです。言葉があるから『論理』が成立します。 これがキリスト教文明や近代文明を支えた原点です。 人間には、この『逆』の生き方も存在します。大きな木、大きな岩など自然から受けるなんともいえない神秘的な力を『神』として受け取る信仰も存在します。 これは、人間の五感を最大限に生かした信仰のあり方です。 もともと、日本人は五感を生かした信仰のあり方(多神教)が主でした。 これが日本人の絶妙なバランス感覚を支えてきたのです。 わたしにもよく分からないのですが、この絶妙な『バランス感覚』が失われつつあると感じています。オーム真理教事件は、この『バランス感覚』喪失の象徴のように見えてならないのです。 この問題は、これからも掘り続けねばならない問題だと思っています。 > |
▼流水さん: >▼海幸彦さん: > >>私もオウムの裁判の記事を読んで考えされられた者です。私は毎日新聞を読みました。 > >わたしの家も毎日新聞をとっています。今日の記事では、牧太郎氏の署名記事「もうひとりの被告『愚かな日本人』」が印象に残りました。 >> >これが日本人の絶妙なバランス感覚を支えてきたのです。 > 流水様 私も実は「愚かな日本人」を読んで考え込んだのです。五感を生かしたバランス感覚―日本人を誉めすぎかと思いますが、まったくそうであって欲しいと思います。(…流水教の信者になってしまいそう。) |
▼流水さん: こんばんわ! 明快な問題の捉え方は単純かつ明快です・・・。(みごと!) 1.・・ >人間は『余計なものを考え出す』存在です。この『余計なもの』が本当に幸せにつながるかどうかが問われているのです。 >「はじめに言葉ありき」とは、キリスト教の原点に位置する言葉です。言葉が存在するから、信仰が成立するのです。言葉があるから『論理』が成立します。 >これがキリスト教文明や近代文明を支えた原点です。 2.・・ >人間には、この『逆』の生き方も存在します。大きな木、大きな岩など自然から受けるなんともいえない神秘的な力を『神』として受け取る信仰も存在します。 >これは、人間の五感を最大限に生かした信仰のあり方です。 3.・・・ >もともと、日本人は五感を生かした信仰のあり方(多神教)が主でした。 >これが日本人の絶妙なバランス感覚を支えてきたのです。 > >わたしにもよく分からないのですが、この絶妙な『バランス感覚』が失われつつあると感じています。オーム真理教事件は、この『バランス感覚』喪失の象徴のように見えてならないのです。 >この問題は、これからも掘り続けねばならない問題だと思っています。 > オームにしても一神教をモジッタ「神の支配を己(おのれ)の支配欲」に 変質させたものであったと考えます・・。 3.・・で貴殿が述べられてることが、総ての本質に通じてるように思えます。 これを突き詰めると現存する宗教を超えた「超宗教」へ通じる道かとも・・思われます。 |
▼流水先生 こんにちは。 > >デラシネ(仏語;根無し草)という言葉がある。 「デラシネ」素晴らしき響きです。 五木寛之先生が初期の作品からみずからの履歴をこの言葉を使ってよく書いておられます。今では先生のいんちき信者のようなものです。「大河の一滴」の映画まで女房と一緒に見てしまった。私の知ったかぶりの文によく先生のものを勝手に引用させてもらっています。 > >オーム真理教には、高学歴の若者が多い。それも、一流大学の理工系の出身者が多い。 >一般的に言えるのは、理工系の学生は、科学的・合理的・論理的に思考する。そして、その結論に従って躊躇なく行動する度合いが文科系学生より高い。 >これは、理工系の学生は、「あいまいさ」を嫌う傾向が高いせいだと考えられる。 >それに対して文科系学生は、「あいまいさ」に意味を見出す傾向が高く、行動は直線的でない。 > こういう統計があるのでしょうか。それはともかくコンピュータの2進法じゃないけれど、戦後教育のマルバツというふうに割りきってしまう、人間感情の曖昧さをばっさり切り捨ててきた教育のあり方に問題があったのではないでしょうか。人間とは、人間の感情とはなにかをもう一度じっくり検証すべきではないのかと思っています。いつも戦後教育を槍玉に挙げますが、文部省も日教組と一体になって、競争回避の平均主義・平等主義に深く陥りすぎたのが今の日本の惨状ではないでしょうか。その点の釈明を現場主義の先生にも解説いただければと思います。 このタイトルは私には麻薬にも思え、勝手に投稿させていただいたご無礼をお許し下さい。 |
▼ひまんじいさん: > >「デラシネ」素晴らしき響きです。 > 五木寛之先生が初期の作品からみずからの履歴をこの言葉を使ってよく書いておられます。 五木の初期の作品に「デラシネの旗」というのがありましたね。たしか、フランスの五月革命時を時代背景にした作品だった記憶しています。 話は、変わりますが、五木寛之にわたしが魅かれるのは、彼が少年時代を朝鮮で過した引揚者だった、というところです。 彼のデラシネ感覚は、自分は朝鮮人でもなければ、日本人でもないというところにあります。彼の思想の魅力的なところは、常に『対馬海峡』の両側を複眼的ににらんでいるところにあると思います。わたしは、それを【海峡の思想】と名づけています。 > こういう統計があるのでしょうか。それはともかくコンピュータの2進法じゃないけれど、戦後教育のマルバツというふうに割りきってしまう、人間感情の曖昧さをばっさり切り捨ててきた教育のあり方に問題があったのではないでしょうか。人間とは、人間の感情とはなにかをもう一度じっくり検証すべきではないのかと思っています。いつも戦後教育を槍玉に挙げますが、文部省も日教組と一体になって、競争回避の平均主義・平等主義に深く陥りすぎたのが今の日本の惨状ではないでしょうか。その点の釈明を現場主義の先生にも解説いただければと思います。 一度、そんな統計をみた記憶があるのですが、現在わたしの手元にないのでご容赦ください。 >【競争回避の平均主義・平等主義に深く陥りすぎたのが今の日本の惨状ではないでしょうか】 この批判はよくなされるのですが、わたしの経験した学校では、そのようなことはなかった、と断言できます。(地域によって違いますので、わたしの県に限定します) 例えば、平等主義の事例として、100m徒競走で、順位をつけないとか、よく言われますが、わたしはそんな経験もなければ、そんな学校も聞いていません。 私自身の理論でいいますと、【人間はトータルでは平等にできている】のではないかと考えています。例えば、身体に障害のある子供は、五感が発達します。トータルで考えれば、平等に近いと思います。足が速くても不器用な子供もいれば、足が遅くても器用な子供もいます。 よくよく考えれば、【平等】なのだと思います。 これは、同窓会にでればよく分かりますが、人生トータルで考えれば、みなちょぼちょぼでしょう。昔の人はよくみています。 では、何が問題だったのか、といいますと、【競争回避の平均点主義】ではなかったところにあるのです。わたしが教師になった時代、それは凄まじい受験教育が行われていました。 「提灯学校」という名前がついた中学校では、朝0校時の授業が7時半から始まっていました。正規の6校時の授業が終わり、部活動が6時まで行われます。その後補習が始まります。夜9時、10時ごろまで行われるのです。保護者は子供たちの 弁当をもって夜学校にくるのです。また、補習担当教師の食事の炊き出しもしていました。もちろん、補習代名目で応分のお金を保護者から取っていましたが、受験競争全盛時代にはこの手の学校は珍しくなかったのです。 現在の塾など比ではないぐらいの徹底した受験教育が行われていたのです。この中で、【勉強のできる子=良い子】という子供観が形成されていったのです。 【勉強ができる子=良い子】の対極には、誰も口には出さないですが【勉強のできない子=悪い子】という子供観が形勢されたのです。 これが、【荒れる中学校】を生み出した、といっても過言ではないのです。ここから【受験教育=詰め込み教育批判】が噴出したのです。同時に学校では、【荒れ】を押さえるために、徹底的な【管理教育】がなされました。これで、荒れは一応鎮静化したのですが、今度は陰湿な「いじめ」【不登校】が続発したのです。 文部省は、これらに対応するため【ゆとり教育】を打ち出したのですが、うまくいかないのが現状です。 もう一つ忘れてならないのは、「教育現場」は常に政治的イデオロギー戦争の最前線だったという側面です。自民党右派の中曽根・森氏などの人物は、皆文教族です。よく自民党右派の人の経歴を見てください。かなりの人が、文教族です。 彼らからみれば、社会党支持の日教組はイデオロギー的敵だったのです。だから、教育がうまくいかないのはすべて【日教組】のせいという攻撃が戦後一貫して行われてきたのです。 たしかに、日教組幹部の多くは社会党員であったし、選挙でも社会党を支持してきました。しかし、日教組は組合です。ですから、日教組が現場の教育方針に介入したり、捻じ曲げたりすることなどは不可能だったのです。簡単にいうと、そんなことができる【法的権限】がないのです。 わたしも現役時代、ただの一度も日教組から指導方針や内容について、批判されたり介入された経験はありません。 授業時数、カリキュラム、教師の教える内容は、すべて文部省の方針で決められています。日教組の介入できるものではありません。 教師は教師批判・学校批判は、甘んじて受けなければなりませんが、できれば印象批判ではなくて、できるだけ正確な批判をしてもらえれば嬉しいと思っています。 |
▼流水さん: >▼ひまんじいさん: > >> >>「デラシネ」素晴らしき響きです。 >> 五木寛之先生が初期の作品からみずからの履歴をこの言葉を使ってよく書いておられます。 > >五木の初期の作品に「デラシネの旗」というのがありましたね。たしか、フランスの五月革命時を時代背景にした作品だった記憶しています。 > >授業時数、カリキュラム、教師の教える内容は、すべて文部省の方針で決められています。日教組の介入できるものではありません。 > >教師は教師批判・学校批判は、甘んじて受けなければなりませんが、できれば印象批判ではなくて、できるだけ正確な批判をしてもらえれば嬉しいと思っています。 流水さん 人間は平等、何十年か後の同窓会を見ればちょぼちょぼ、ですか。そのように楽に各自の持ち味を余裕もって伸ばせればこんないいことはありません。もっとも、何十年かして同窓会に出られること自体、仕合せの部類とも言えます。親の都合で夜逃げ、引越し、離婚などあれば、自然と学区と離れ、学校・学友と離れるものです。 何十年か先の人生、そういうことを生徒と話あえることがすばらしいとおもいます。私もいっとき、教師になりたいと思ったものです。競争ばかりさせる悪い教師になっていたかもしれませんが。 |
▼ひまんじいさん: > それはともかくコンピュータの2進法じゃないけれど、戦後教育のマルバツというふうに割りきってしまう、人間感情の曖昧さをばっさり切り捨ててきた教育のあり方に問題があったのではないでしょうか。 私は戦後生まれで、当然戦後の教育を受けてきましたが、貴方の言うような「教育」を受けた覚えはありません。 > 人間とは、人間の感情とはなにかをもう一度じっくり検証すべきではないのかと思っています。いつも戦後教育を槍玉に挙げますが、文部省も日教組と一体になって、競争回避の平均主義・平等主義に深く陥りすぎたのが今の日本の惨状ではないでしょうか。その点の釈明を現場主義の先生にも解説いただければと思います。 人間が「平等」だというのは、ひとりひとりが質的にちがうので量的な優劣では比較できないからだと思います。 それに絶対的な価値観などないわけですから、何をもってより価値が高いかなど誰にもわからないのです。 |
▼流水さん: >また、このような集団を作ったのが、麻原や若者たちに共通する【デラシネ】感覚であるとしたら、この「デラシネ」感覚をどのようにしてなくしていくかが最大の課題になる。 >われわれの社会の根底が問われているのである。 >その意味で、オーム事件が投げかけた問題は終わっていないばかりか、これからわれわれの社会が背負い続けねばならない問題として問い続ける必要がある。 そうです。 松本智津夫を断罪すれば「終わり」というわけにはいきません。 2度と同じような状況を起こさないための知恵を出し合わなければなりません。 人類というものは「歴史に学ぶ」と言うことを苦手にしていますが・・・ |
▼流水さん: 僕はオームを弁護するつもりはありませんが、おっしゃっているところはオームに限らないところの論理では無いでしょうか。日本人全般、または、人類全般では? 組織の中にいると組織の事は見えないと思います。 以下、文章おかしければ指摘してください。 中央省庁の官僚の生育暦を見てみると、幼稚園のときから受験勉強させられたことが、すべての始まりではなかったかと思う。彼らは、ここで親に捨てられたと感じたのではないか。心の底から震えるような「存在の不安」におびえたのではないか、と思う。 よるべない自分という感覚(デラシネ感覚)が、彼らの軌跡を決定したのではないか、と思う。 ◆日本人(なぜ、日本人は資本主義に魅かれたか?) 中央官僚には、高学歴の若者が多い。それも、一流大学の出身者が多い。 一般的に言えるのは、科学的・合理的・論理的に思考する。そして、その結論に従って躊躇なく行動する度合いが高い。 これは、高学歴の学生は、「あいまいさ」を嫌う傾向が高いせいだと考えられる。 それに対して低学歴学生は、「あいまいさ」に意味を見出す傾向が高く、行動は直線的でない。 「グローバリズム経済」のような非科学的・非合理的教えにいとも簡単に日本人たちがいかれたのも、同じことが言えると思う。 他の理由は、現代の日本人たちの「生きている実感の無さ」であろう。彼らは難しい数式を解き、コンピューターを操り、あらゆることを科学的に合理的に理解することはできても、「自分の生きている実感」をつかむことができなかった。哲学的にいうと「存在の不安」にさいなまれていたのである。 これが苛酷な労働を積み、自分自身を痛めつけることにより、自分自身の「レーゾンデートル」を確かめることにのめりこんだ理由であろう。 日本人たちもまた、「デラシネ」の不安におびえていたのである。 日本という集団は、「デラシネ」という存在論的不安におびえた集まりであった、といえる。 ●日本という集団の論理 日本は、官僚を頂点としたピラミッド型組織である。 日本の組織は、絶対権力者「貨幣」との「距離」がすべてを決めたといって過言ではない。 「貨幣」との距離が遠い者たちには、禁欲的な労働を課し、同時に彼らは「貨幣」たち資本家の「収奪」の対象であった。お金持ちになるためには、全人生を処分し、あらゆる係累を断ち切ることが要求された。 このことは同時に、彼らはもはや資本主義以外に生きる道が断ち切られたことを意味した。逆にいえば、日本で生き抜くためには、「貨幣」に対する盲目的な「忠誠」を尽くす以外にない、というところに自分を置いたことを意味していた。 「貨幣」との距離が近いものは、「資本」の猜疑心に悩まされることになる。この猜疑心から逃れるためには、「貨幣」に対する「忠誠心」を目に見える形で示す以外にない。これが、日本人同士の「忠誠心競争」を生み出し、国益を追求しついにはイラク派兵として結実したのである。 この資本主義の構造は、官僚社会に共通する。 日本の政府幹部たちは、「資本」の忠誠競争に狂奔しているように見えるが、彼らにはそれ以外にあの体制で生き抜く術がないのである。 官僚(大きかろうが小さかろうが)に共通する資質がある。「小心」「臆病」「尊大」「猜疑心」「執拗」「粘液質」である。 「小心」で「臆病」だからこそ、「尊大」になり、自分の敵を「過大評価」する。イラク派兵の動機は、おそらくアメリカのグローバリズムに対する過大評価が根底にある。 「小心」だからこそ、部下たちの「忠誠心」を疑わざるを得なくなる。「臆病」だからこそ、「執拗」に自分の敵を追い詰めなければ安心できなくなる。 このような「資本」の率いる集団は、「閉鎖的」にならざるをえない。理由は簡単で、他からの批判を恐れるからである。 このような閉鎖的集団は、必ず外に向かってはきわめて「攻撃的」になる。外に向かって攻撃的になるということは、内部の人間たちがここでしか生きられないという覚悟を決めさせる。これは「資本主義経済」にとっては、きわめて都合のよい心理である。 そのため、どのアメリカングローバリズムも外に向かって攻撃的になるのである。 われわれがイラク派兵から教訓を得るとすれば、閉鎖集団の論理と心理を学び、これを如何にして壊していくか、という一点に求められる。 日本の場合、情報は「中央省庁」や「大手企業」たちに一元的に集中していた。この情報をもとに、命令が下されるのであるが、命令を下される人間たちに求められるのは命令を忠実に実行する「忠誠心」だけである。 情報の真偽や命令の当否などは問題ではなく、ただ忠実に実行する「忠誠心」だけが求められたのである。 このことは逆に、このような集団の論理を壊す最大の武器が、「情報」であることを示している。 「情報公開」こそが、閉鎖集団を壊す最大の武器であり、逆に「情報統制」こそが権力の源泉であることも示しているのである。 また、このような集団を作ったのが、日本人たちに共通する【デラシネ】感覚であるとしたら、この「デラシネ」感覚をどのようにしてなくしていくかが最大の課題になる。 われわれの社会の根底が問われているのである。 その意味で、イラク派兵が投げかけた問題は終わっていないばかりか、これからわれわれの社会が背負い続けねばならない問題として問い続ける必要がある。 |
▼peaceさん: > >僕はオームを弁護するつもりはありませんが、おっしゃっているところはオームに限らないところの論理では無いでしょうか。日本人全般、または、人類全般では? >組織の中にいると組織の事は見えないと思います。 これは鋭い指摘ですね。そのように読んで頂ければ、書いた甲斐があるというものです。 わたしが教師をしていて悩んだのは、親の意識の変容でした。高度成長期以降の親の意識の変わり方は、凄いものでした。 これは一体何なのか、という問いかけをしたものです。 そこで、考えたのが次の式です。 ◆農村共同体意識→流民意識→市民意識 高度成長期以前の日本社会の意識の主流は、【農村共同体】で培われた意識(戦後、封建的とか儒教的と指摘された)でした。ところが、高度成長期に入り、農村人口が都市へ移動します。昭和60年以降からは、農村共同体が完全に上げ底になり、それにつれて意識の変容も明確になっきます。 わたしは、それを【流民意識】と名づけていました。映画「7人の侍」で農民に雇われる浪人の姿が描かれていましたが、彼らが農民に雇われる動機は【金」でした。彼らのような存在を【流民】と考えてください。 彼らにとって、生きるとは、即【金】になります。生きるためには、他者のことなどかまってはいられない。自分だけが関心の中心になる。これがわたしのいう【流民意識】です。 【農村共同体】から離れて都市住民になるということは、「デラシネ」になるということです。この形は産業革命時から世界の各地で起こりました。 この「デラシネ】的存在である都市住民が、新たな「アイデンテイテイ】を獲得していくのが、【市民】という概念の獲得です。欧米で行われた市民革命は、視点を変えれば都市住民が【デラシネ】的存在から脱出して、新たな【市民】という確固としたアイデンテイテイを獲得していく歴史であったと読めます。 ところが、日本では、デラシネから市民への転換がうまくいかなかった。この意識の遅れをうまく取り込んだのが、大企業でした。農村共同体の中心的価値観であった【地縁】【血縁】意識を組み込んだ形で、【職縁】という新しい価値観を生み出したのです。この制度的形態が、終身雇用制度でした。日本の労働者の企業への忠誠心の背後には、この農村共同体意識をうまく取り込んだ【職縁】意識があったのです。 しかし、この雇用形態をうまく利用できたのは、体力のある大企業が中心でした。多くの中小企業ではそれが難しかったのです。 そのため、多くの保護者の意識が【流民意識】にとどまっていたのです。この意識が、子供たちに影響しないわけがないのです。 70年代半ばから子供たちが変わり始めたという現場教師の実感は、この社会のこの傾向が拡大しはじめたことに大きな要因があるのです。 わたしは、この【流民意識】から【市民意識】へのきちんとした意識転換をはかることが、社会の急務だと主張してきました。そのための基礎的知識・スキルを育てるのが、【義務教育】の責務だと考えていました。 あなたが、社会全般にわたしの論を拡大して読んでいただけたのは、わが意を得たりなのです。 |
▼流水先生 こんにちは。 peaceさんの素晴らしい論文、そして千葉の菊さんへのお返事も言えず心苦しいのですが、ひとつだけ失礼なことを聞かせてください。 (2056)は最終2行を除いて我田引水ではありませんか。 失礼ばかりではいけません。本日先生の立ち上げられた「秩序」のスレッドでは日本歴史の非常に興味ある事実を衝かれておられます。古代中央集権国家で貴族が栄華を極め、その領地「荘園」を巡って出現した武士集団が結果的に室町期から江戸時代にかけて、民衆蜂起の文化を作り上げた。しかし明治維新によって西洋に追いつくため、古代以上に中央集権国家となってしまい、日本人のお上依存体質が決定した。いまや再び中央集権の偏し方に疑義が唱えられ始め、民主党により道州制という言葉まで発せられるに至った。これもあって権力に近い位置にある民主党を支持するものです。 失礼を申しました。 |
▼ひまんじいさん: >▼流水先生 こんにちは。 > > peaceさんの素晴らしい論文、そして千葉の菊さんへのお返事も言えず心苦しいのですが、ひとつだけ失礼なことを聞かせてください。 (2056)は最終2行を除いて我田引水ではありませんか。 > 我田引水と読めましたか。 わたしは、全然そんなつもりはないのですが。 戦後教育史を簡単に素描したつもりですが。そう読めたのなら、わたしの表現力のなさでしょう。 |
流水先生 こんにちは。 これでも結構遠慮した物言いをしたつもりでしたが(2180)では全くお答えをいただけませんでした。 私の本心をまだ理解していただいていないようです。視点を変えます。現場で苦労してやっているのが正しく、それを取り巻く野次馬はことの本質などわかるものか、との思いを感じるのですが、案外距離をとって見ているほうが流れまでもよく見えるということはありませんか。これも印象批判として却下されますか。 >戦後教育史を簡単に素描したつもりですが。そう読めたのなら、わたしの表現力のなさでしょう。 いや私の説明不足かもしれません。戦後教育史を説明されたと仰いましたが、それは現場からのみの思いで(ゆえに我田引水と申したのです、表現力云々の次元ではありません)、背後にある親つまり大人の道徳観の変遷には全く触れられません。ここにも現場では権力に抵抗することなどできぬ、しかし子どもの教育はしなければならぬという自己満足の姿を感じます。つまり現場現場の連呼がただでさえ閉塞的な教育界と思われている中で更にかたくなな印象を持たせることもある、という選択肢もあることもご理解下さい。 |
▼ひまんじいさん: > 私の本心をまだ理解していただいていないようです。視点を変えます。現場で苦労してやっているのが正しく、それを取り巻く野次馬はことの本質などわかるものか、との思いを感じるのですが、案外距離をとって見ているほうが流れまでもよく見えるということはありませんか。これも印象批判として却下されますか。 > )、背後にある親つまり大人の道徳観の変遷には全く触れられません。ここにも現場では権力に抵抗することなどできぬ、しかし子どもの教育はしなければならぬという自己満足の姿を感じます。つまり現場現場の連呼がただでさえ閉塞的な教育界と思われている中で更にかたくなな印象を持たせることもある、という選択肢もあることもご理解下さい。 なるほど、そういう意味ですか。 わたしは自分たちだけが正しいなどと言ってはいません。「授業公開」「情報公開」を積極的にすべし、というのは、外からの視点を入れなければならないという意志のあらわれです。 距離をとったほうが見える、ということも否定していません。ただ、問題は外の方があまりにも現場実態を知らな過ぎるというのも否定できませんね。 だから、どうしても、現場実態の解説に力点が置かざるを得ない、という実態も理解していただきたいと思いますね。 大人の道徳観の変遷については、peaceさんのレスで、わたしの考え方はきちんと説明していますので、お読みください。 現場で権力に抵抗できぬ、のではなく、実質的に抵抗してきたつもりですがね。わたしの書いている内容を読んでいただければ、文部省の方針とはまるで違うはずです。わたしは、「抵抗」の形態には様々なものがあると考えています。文部省の教育政策は、「法」で決められたものですから、学校がその「法」に従うのはやむ負えません。しかし、現場実態に合わないものは、変更されたケースが多いのです。 ◆つまり現場現場の連呼がただでさえ閉塞的な教育界と思われている中で更にかたくなな印象を持たせることもある、という選択肢もあることもご理解下さい。 要するに、あなたの投稿の力点はここにあるのですね。 現場を連呼しているつもりはないのですが、あなたがそう受け取られたのならそれはわたしの力量不足です。 ただ、わたしは現場教師が現場から何を学び、それをできるだけ「普遍性」に高めることができるかという姿勢で書いているつもりです。わたしは、思想というものは、現場でのあらゆる事態に対処できる広さを持っていないければならないと考えています。そうでなければ、「普遍性」を持ち得ないのです。オーム問題にしろ、understandとupperstandにしろ、その姿勢で書いているつもりです。 |
流水さん こんにちは。 お話うかがえたのは良かったんですが、なかなか頑強な着衣をお召しのようで兜すら取ろうとはなさらないようです。 角度を変えてみようかとも思いましたが、その後のpeaceさんへの語りかけでもあなたのスタンスはすっかり理解できましたので、今回で最後にします。したがって正攻法でということです。 オトナの道徳の変遷とは、peaceさんにお示しになられた数式のことでしょうか。 流民意識、市民意識のやつですか?「市民意識」という民主党でもあまり見かけなくなった言葉をお使いです。 >労働者の権利意識を捨て去ったことが、現在の状況を招いた一因だと考えています。 これも私からいえば社会党が好みそうな言説です。 つまり古いんです。「革新」という言葉すらうつろに響くんです。それは現場の角度からしか体制をご覧になれなかったからではないでしょうか。そこへ行くと人生ちょぼちょぼ論で海幸彦さんが(2066)で述べられたことは卓見で、実社会で揉まれてきた方だということがよくわかります。 常識、宗教、デラシネ、秩序など魅惑的な言葉をかけていざないながら登りかけようとすると、上からはしごをはずされる気分を味わいました。もう少し言葉の投げかけあいが続くことを期待したのですが残念でした。 私が改めて日本人のモラルハザードを感じたのは、山一證券破綻前後から身なりのいい、学歴もある方達がわれもわれもとマスコミのカメラの放列の前で頭を下げ続ける図を見たからです。何故彼らはきちんとした道徳に背かないことができなかったのか、という点です。それは敗戦が大きな要素だと思います。物心のつく頃に倫理観の逆転するがごとき情況が排出した。オトナは自信喪失、物心つく頃のちび助の成れの果てが頭を下げ続ける人たちではないでしょうか。これも印象に偏した小説家の無責任なもの言いのようなものとして却下されてしまうのでしょうか。現場から見られて世代世代でやはりなんらかの差異があると思うのですが(保護者の学校に対する態度など)、宮本輝先生などはその書物の中でも、いじめとかとんでもない刑事事件の起きた事実が世代とどう関連しているかにさえ言及されておられます。実は小生はここまでは思っていませんが、先生の小説家としての力量のベースにある仏教思想を含めた物言いはすごく好きなもののひとつでもあり、ただ捨て置いておくことも出来ません。 あなたが戦ったという文部省の更なる背後にはアメリカの日本の美徳つぶしの占領政策もあったのではないかとすら疑っておるものです。(勝者と敗者との厳粛な事実です) あなたからみると私はただのアホウとして映っているのでしょうか。 >わたしは、思想というものは、現場でのあらゆる事態に対処できる広さを持っていないければならないと考えています。そうでなければ、「普遍性」を持ち得ないのです。 これに異を唱える人はいないはずですが、あなたが今回言われる現場主義から普遍性を得るという演繹術が現場主義からの帰納法にすり替わっているように感じました。 話し変って、先生はチリのフォルクローレ?(こういう言葉がチリ音楽に該当するのか知りません)をお好きなようで、たぶん反戦歌にも興味をお持ちのことと存じます。反戦歌といえば私などはアメリカのボブ・ディランを連想し、そのだみ声の連関で旧ソヴィエトのヴィソツキーも連想します。では最後に五木先生のボブ・ディランの作品「風に吹かれて」に関するエッセーを紹介し、失礼します。 この「風に吹かれて」という歌の面白さは、重いことを軽く、残酷なことを美しく、複雑なことをシンプルに歌ったところにあるのかもしれません。 現代のアメリカ人は、目をしっかりとあけて、見つめなければならないことが沢山ある。国の内にも国の外にも。どんなに不愉快でも、それから顔をそむけてはいけないのだ。だのに人びとはなぜ、それらのことに知らぬ顔をしようとするのか?なぜ? その答えは、いつも風の中に吹きちぎられて消えて行く。ブロウイン・ザ・ウインド |
▼ひまんじいさん: > 流民意識、市民意識のやつですか?「市民意識」という民主党でもあまり見かけなくなった言葉をお使いです。 >>労働者の権利意識を捨て去ったことが、現在の状況を招いた一因だと考えています。 ◆市民意識という言葉のどこが【古い】のですか。あなたならどういう言葉を使われるのですか。 労働者の権利意識など、当たり前の感覚でしょう。こんなことに右翼や左翼などというイデオロギーを持ち込む発想自体が理解できませんね。 あなたは「労働者に権利意識」など必要ないとお考えなのですか。子供たちに権利意識を育てることなど必要ないとお考えなのですか。 権利意識を捨て去り、それこそ封建時代のように生きなさいということが、新しいとおっしゃるのですか。 わたしには、あなたの【新しい】ものが全く見えませんね。 ◆もう一つお断りしておきますが、あなたはわたしを革新だとか反戦だとか、決め付けて考えて居られるようですが、わたしは【自由主義】(者)だと考えています。わたしは、【主義】としてくくられること自体が大嫌いなのです。あなたにはそのことが全く見えておられませんね。 ◆では、わたしの方からお尋ねしましょう。まず、あなたは市民意識=革新政党的理解をされていますが、そうおっしゃる根拠は。きちんと説明してください。 次に、市民意識という言葉が古いとおっしゃいますが、では新しい言葉で説明してください。そこからしか、議論も何もできませんね。 つまり古いんです。「革新」という言葉すらうつろに響くんです。それは現場の角度からしか体制をご覧になれなかったからではないでしょうか。 ◆わたしは、「革新」という言葉を一度も使っていないはずです。勝手にあなたが類推しているだけです。現場の角度でしか見ないから、なぜ革新になるのですか。理論的に説明してください。 > > 私が改めて日本人のモラルハザードを感じたのは、山一證券破綻前後から身なりのいい、学歴もある方達がわれもわれもとマスコミのカメラの放列の前で頭を下げ続ける図を見たからです。何故彼らはきちんとした道徳に背かないことができなかったのか、という点です。それは敗戦が大きな要素だと思います。物心のつく頃に倫理観の逆転するがごとき情況が排出した。 ◆モラルハザードなら、別に山一が最初ではないでしょう。造船疑獄から始まって日本のエリート層のモラルハザードを証明する事件は枚挙に暇がないでしょう。 それをすべて【敗戦】という一言でくくるのは、論としては少々乱暴でしょうね。 【敗戦】で価値観が一変したことは、よく理解できますが、すべてをそれに結びつけるのは、乱暴すぎると思います。 宮本輝先生などはその書物の中でも、いじめとかとんでもない刑事事件の起きた事実が世代とどう関連しているかにさえ言及されておられます。 世代論ですべてが語りつくせるとは思いませんが、【犯罪】には色濃く時代の雰囲気が反映されるということには、同意します。 ここではオーム以外に書いていませんが、わたしは多くの犯罪論を書いています。 > あなたが戦ったという文部省の更なる背後にはアメリカの日本の美徳つぶしの占領政策もあったのではないかとすら疑っておるものです。(勝者と敗者との厳粛な事実です) ◆戦後の教育論を語るとき、米国の占領政策を語ることは、常識です。ここではそんなことを語る場ではないので、語っていないだけです。 > > これに異を唱える人はいないはずですが、あなたが今回言われる現場主義から普遍性を得るという演繹術が現場主義からの帰納法にすり替わっているように感じました。 ◆これもまた分かりませんね。あなたはわたしが現場絶対主義とお考えではないのですか。教育を創ろうスレッドの団塊党さんへのレスをお読みください。少なくとも、帰納法だけでものを考えているつもりはないですよ。 > |
ひまんじいさんへ 僕のあの文章をよくご覧ください、あれは流氷さんがかかれた最初の文章の「オーム」「麻原」「信者」などを「官僚」「日本人」等に変えただけです。見比べてください。僕の言いたかったことは流氷さんのおっしゃられていることは現代社会の組織全般に当てはまることではないかとの問いかけです。 流氷さんへ。 僕の日本社会の構造の変化に関する考え方は、流氷さんがおっしゃられている所の ◆農村共同体意識→流民意識→市民意識 とは少し違います。 僕は現代社会の形態は「共生社会」と「競争社会」の二局が存在しているものと感じています。 「共生社会」がおそらく農村共同体意識(農民)に重なり、「競争社会」がおそらく流民意識(7人の侍)に重なるものではないかとは思いますが。その先に見える市民意識が僕にはうまく理解できません。 アメリカにおいてはおそらく日本よりもより強い流民意識がありますそれは富を持つ者、持たざる者に関わらずです。失礼ですがそのことからも流民意識の先に市民意識があるとあまり思えません。ヨーロッパの人はより共同体意識が強いと思われます。僕の主観によるところですが。 説明するまでも無いとは思いますが「共生社会」とは10ある生産物を10人で共有し「競争社会」は10ある生産物を3を一人が取り7を8人で分けもう一人は脱落すると言うものです。あるいはもっと極端かもしれませんが。 僕は戦後の日本社会はおっしゃられているようにうまく農村型共生社会を企業が導入し成功してきたとは思いますが。そもそもその日本の「共生社会」も実は世界的に見ると競争社会にうまく組み込まれた中での「共生社会」であったのです。日本の中での企業もまたしかりです。そうして「競争社会」と「共生社会」が「入れ子構造」でうまく作用していたのが今までの日本の社会であると思われます。 そのいわば世界の中でも比較的「共生社会」がうまく作用していた日本でしたが実は世界的な「競争社会」中での勝ち組で負け組の多くの国の労働や資源を搾取していたのはご承知の通りです。 しかし、今後日本社会はどうなるのか、おそらく資本主義社会を存続するならばグローバリズムの波を避けずにゆくことはできないでしょう。その時、国内だけでうまく作用していた「入れ子構造」は崩れもう一度いちから組み立て直しになるのではないか。そしてその組み立て直しはもう始まっているとおもわれます。 おそらく、今後10年で日本の次代の「入れ子構造」が確立するでしょう。それは、アメリカ型(「競争社会」>「共生社会」)かまたはヨーロッパ型(「競争社会」≒「共生社会」)かはたまた「日本型」(「競争社会」?「共生社会」)か。 小泉政権はアメリカ型を押し進めようとしています、また、民主党はヨーロッパ型にも見えます。しかし、自民党内にも「共生社会」を主眼にした人もいるように思われます。そこで政界再編は避けて通れない道とおもわれますが、その後、どう進むのか。 今までのようにイデオロギーの対立(右か左の二局分離)ではなくいかにうまく「入れ子構造」の設計をしてゆくのかが将来の日本を決めると思われます。 いかがでしょうか ちょっと話しがそれてきたような気がしますが。 |
▼peaceさん: > >僕は現代社会の形態は「共生社会」と「競争社会」の二局が存在しているものと感じています。 つまり、市民社会などはない、と言う意見ですね。これは、革命的な考え方ですね。わたしは、近代的「共生社会」の形態が、市民社会であるとあると考えているのです。 おそらく、今後10年で日本の次代の「入れ子構造」が確立するでしょう。それは、アメリカ型(「競争社会」>「共生社会」)かまたはヨーロッパ型(「競争社会」≒「共生社会」)かはたまた「日本型」(「競争社会」?「共生社会」)か。 わたしは、教師ですから、自分が見た社会の姿から、考えています。あなたのいう「入れ子構造」が何を指しているか正確に見えないのですが、「競争社会」と「共生社会」の比重の問題と理解しておきます。 ところが、わたしは、日本にあったのは、形態上は別として意識の上での前近代的「共生社会」だったと考えているのです。ここが、西欧型「共生社会」との決定的な違いだと思います。 日本の世界に冠たる「競争社会」を支えたのが、意識の上での前近代的「共生社会」という2重構造が日本型資本主義の特徴だったと思います。 わたしは、前近代的「共生社会」(農村共同体)は、1960年代以降、ほとんど崩壊したと考えています。それに代る意識上での「共生社会」が生まれていないのが現状だと考えているのです。その方向性を指すのが、「市民意識」という言葉です。 バブル以降の日本人の意識の急激な変化は、このことを端的に示しています。如何に日本人に「市民意識」が根付いていなかったかは、現場にいれば痛感します。 あなたの論からは、この「意識」の変化が全く見えません。よく言われる「壊れつつある日本人」という言葉は、前近代的「共生社会」意識が崩壊した後の日本人の茫然自失した姿を象徴しています。 わたしは、意識上での前近代的「共生社会」を近代的「共生社会」に変えることが、日本人再生にもっとも有効だと考えています。 残念ながら、あなたの論からは、現場教師の子供を育てる方向性が全く見えないのです。 |
▼流水さん: >つまり、市民社会などはない、と言う意見ですね。これは、革命的な考え方ですね。わたしは、近代的「共生社会」の形態が、市民社会であるとあると考えているのです。 の近代的共生社会が市民社会であるとのことですが、前述されている >この「デラシネ】的存在である都市住民が、新たな「アイデンテイテイ】を獲得していくのが、【市民】という概念の獲得です。欧米で行われた市民革命は、視点を変えれば都市住民が【デラシネ】的存在から脱出して、新たな【市民】という確固としたアイデンテイテイを獲得していく歴史であったと読めます。 > >ところが、日本では、デラシネから市民への転換がうまくいかなかった。 からすると、欧米では近代的共生社会であるところの市民社会が根付いているとお考えでしょうか? >ところが、わたしは、日本にあったのは、形態上は別として意識の上での前近代的「共生社会」だったと考えているのです。ここが、西欧型「共生社会」との決定的な違いだと思います。 すみませんが、前近代的「共生社会」と西欧型「共生社会」との違いがよく分かりませんのでできれば、ご解説頂ければありがたく思います。 >日本の世界に冠たる「競争社会」を支えたのが、意識の上での前近代的「共生社会」という2重構造が日本型資本主義の特徴だったと思います。 日本は今まで西欧と比べると競争社会ではなかったと思います、それが昨今のグローバリズムにより競争社会化していると感じています、たとえば護送船団方式と呼ばれた銀行などは共生社会そのものであったと感じています。 >バブル以降の日本人の意識の急激な変化は、このことを端的に示しています。如何に日本人に「市民意識」が根付いていなかったかは、現場にいれば痛感します。 具体的にどのような事なのでしょうか、お教えいただければありがたく思います。 >あなたの論からは、この「意識」の変化が全く見えません。よく言われる「壊れつつある日本人」という言葉は、前近代的「共生社会」意識が崩壊した後の日本人の茫然自失した姿を象徴しています。 「壊れつつある日本人」や日本人の意識の変化と言うものは具体的には今まで会社組織と言う年功序列の共生社会にいた人間が会社の雇用制度の改革、リストラなどでいきなり競争社会に放り出されたため戦々恐々としている姿だと思います。 >わたしは、意識上での前近代的「共生社会」を近代的「共生社会」に変えることが、日本人再生にもっとも有効だと考えています。 具体的には会社組織は年功序列などの共生社会構造に戻すことでしょうか、それとも違う形の雇用形態をとると言うことでしょうか、もう一つ前近代的「共生社会」と近代的「共生社会」の違いがわかりません。 >残念ながら、あなたの論からは、現場教師の子供を育てる方向性が全く見えないのです。 残念ながら先生の論からは実社会の行く先の方向性が全くみえないのです。 |
▼peaceさん: >▼流水さん: > >からすると、欧米では近代的共生社会であるところの市民社会が根付いているとお考えでしょうか? 欧米ではなくて、欧州です。 > >>ところが、わたしは、日本にあったのは、形態上は別として意識の上での前近代的「共生社会」だったと考えているのです。ここが、西欧型「共生社会」との決定的な違いだと思います。 > >すみませんが、前近代的「共生社会」と西欧型「共生社会」との違いがよく分かりませんのでできれば、ご解説頂ければありがたく思います。 市民革命をへているかどうかの違いです。 > >日本は今まで西欧と比べると競争社会ではなかったと思います、それが昨今のグローバリズムにより競争社会化していると感じています、たとえば護送船団方式と呼ばれた銀行などは共生社会そのものであったと感じています。 というのが常識でしょうが、わたしの兄などが大学を卒業した当時(昭和30年代)は、それこそ大学は出たけれどの時代でしたよ。 それこそ、団塊の世代の人たちは、義務教育から物凄い受験競争が行われていました。 結構、日本は競争社会だったはずです。 > >具体的にどのような事なのでしょうか、お教えいただければありがたく思います。 > 印象批評ですが、それ以前は、学校のやることはかなり信頼されていました。学校へ怒鳴り込んでくる人は、それこそ一年に数件の割合でした。 ところが、バブル以降の怒鳴り込み方は、一ヶ月に数件以上になってきました。しかも、その怒鳴り込み方が、理不尽な場合が増えました。どう説明しても、分からない人が増えたのです。これは、農村共同体が上げ底になった時代と機を一にしています。 >>あなたの論からは、この「意識」の変化が全く見えません。よく言われる「壊れつつある日本人」という言葉は、前近代的「共生社会」意識が崩壊した後の日本人の茫然自失した姿を象徴しています。 >>具体的には会社組織は年功序列などの共生社会構造に戻すことでしょうか、それとも違う形の雇用形態をとると言うことでしょうか、もう一つ前近代的「共生社会」と近代的「共生社会」の違いがわかりません。 これは問題意識のずれでしょうね。わたしは、会社組織の雇用形態などを想定していないのです。会社組織は、資本の論理で動くもので、基本的に個人の都合など考ないものだと思っているので、結局は会社と個人の雇用形態は時代に合わせて変化せざるを得ないと考えているのです。ですから、労働者の権利意識を捨て去ったことが、現在の状況を招いた一因だと考えています。 わたしは、実社会へ出る子供を如何に育てるかをイメージしていて、あなたは実社会の方向性をイメージしているという違いがあると思いますね。 |
はいはい、数々のご高説、判り申した。ええ、成る程、ご尤も。 あんたらも閉鎖的集団やデラシネにならぬ様精々心掛けねばね。 んで、オレはこう思うよ。 そもそも、無条件的信教の自由謳歌のトンデモ憲法、 それにマスゴミや当局のビビリが遠因・近因なんだとね。 |
▼ニッチモサッチモさん: >はいはい、数々のご高説、判り申した。ええ、成る程、ご尤も。 >あんたらも閉鎖的集団やデラシネにならぬ様精々心掛けねばね。 > >んで、オレはこう思うよ。 >そもそも、無条件的信教の自由謳歌のトンデモ憲法、 >それにマスゴミや当局のビビリが遠因・近因なんだとね。 はいはい、貴方のように、世の中が悪いのは全て日本国憲法のせいだ、 で済ますことが出来れば、本当に気が楽でしょうね。 残念ながら私、そんな単純な思考回路は持ち合わせていないのですが。 第一、「はいはい、数々のご高説、判り申した。ええ、成る程、ご尤も。」 って、どうみても茶化しにしか見えないんですけど。 少なくとも、学習しようという意欲がある風には見えないのですけど。 |
▼森下さんとやら >はいはい、貴方のように、世の中が悪いのは全て日本国憲法のせいだ、 ◎悪いのは全てとは一言も言ってないんだけど。長文でもないんで、精読してね。 >で済ますことが出来れば、本当に気が楽でしょうね。 ◎オレの心情推定は自由だけど、楽だなんて、失敬な! 憤慨してんだよ。 >残念ながら私、そんな単純な思考回路は持ち合わせていないのですが。 ◎あ、そう。どんな回路持っているのか、殆ど興味なし。 >って、どうみても茶化しにしか見えないんですけど。 ◎真面目でも、茶化しでも、ご髄意。ちゃんと反論してね。 >少なくとも、学習しようという意欲がある風には見えないのですけど。 ◎悪いけど、此処を学習の場とは心得ていないんで、お返しするわ。 |
▼ニッチモサッチモさん: >はいはい、数々のご高説、判り申した。ええ、成る程、ご尤も。 >あんたらも閉鎖的集団やデラシネにならぬ様精々心掛けねばね。 > >んで、オレはこう思うよ。 >そもそも、無条件的信教の自由謳歌のトンデモ憲法、 >それにマスゴミや当局のビビリが遠因・近因なんだとね。 (総評:もう少しアタマを整理してね。) [#1990]参照 |
▼ひろあきちゃん: >(総評:もう少しアタマを整理してね。) >[#1990]参照 ◎芸なしか、チミは? |